研究者の説明責任について考えること

2012-02-29 07:43

今日の内容は昨日の続き。まだの人はそちらから読んでくださいね。

というわけで研究者の説明責任である。研究の定義はいろいろあるし、実態もいろいろなのだが、基本的に「金にならない」仕事であることは自覚しておく必要がある。いや、もちろんいつかは花開き、世のため人のため役にたち、金銭的にも大きなリターンを生むことが期待されているわけだが、そう簡単に金にはならん。

しかし人間は雲かすみを食って生きていくことはできないし、機材を買ったり人をやとったりするのにも金がかかる。つまり短期的に金を得る見込みはないは金が必要。これは常に考えておくべきことだ。

じゃあ金が全てか?と言われるとそれにも首を傾げる。そのロジックでいけばGREEとかDeNAで「研究」をしている人達がいい研究者ということになる。研究者という前に人間としてどうなのか、という人達が。

というわけで、私は毛沢東語録のこの言葉を思い出すのであった。

それは戦略的には全ての敵を軽視し、戦術的には全ての敵を重視せよということである。

毛沢東語録 p99

この場合の「敵」を「金」に置き換える。「金」は戦略的には軽視する。究極の目的はそこにはない。しかし戦術的には重視しなければならない。

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などと考えているわけだが、お国の研究機関にいる人達から時々こんな言葉を聞くと「どきっ」とする。

「研究者の仕事は自分が興味を持ったことをとことん突き詰めることだ。金をとってきたり、そのための説明などは研究者がやるべき仕事ではない」

私の聞き方が間違っているのかもしれないが、こうした言説を今までに少なくとも3度は聞いたことがある。先日も

「論文を書くというのはとても集中を要する仕事だから、他のことをやっていてはとてもできない」

と真顔で言われた。

なぜこれを聞くと私が衝撃をうけるのか。「研究」を「歌」に置き換えてみよう。

「歌い手の仕事は自分が歌いたい歌を突き詰めることだ。金をとってきたりそのための仕事などは歌い手がやるべき仕事ではない」

あるいは、言い方を少しそれっぽくしてみよう。

「自分歌好きでー。歌に集中したいんすよー。マジ集中しないといい歌できないしー。だから金稼ぐ暇なんてないっすよー。バイトなんかしてたら歌なんかつくれないっすよー。」

自分の息子がこんなことを言い出したら、10回くらいビンタを食らわせたあげく、どこかのタコ部屋に放りこみ、自分の教育の過ちをさとって出家してしまうかもしれない。しかし最高学府と呼ばれるところの博士様が時々こういう事を発言されるわけだ。

もちろんこんな事を言うと「研究と歌を一緒にするとは何事か!」とお叱りを受けるとは思う。問題は「じゃあ何が違うんですか?」という問に説明する責任は研究者の側にあるということ。当たり前でしょ。自分が好きな歌作りたいから金くれ、と説得する責任は、その歌い手にある。

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先ほど挙げた「最高学府の博士様」の言葉は「ポケモン的世界観」と呼ぶべきかもしれない。ポケットモンスターの異常な世界観について誰か疑問に思わないのだろうか。少年、少女たちは学校にもいかず働きもせずぶらぶら旅を続ける。そして「大好きな」ポケモンバトルに日長興じる。相手をみつけては喧嘩をふっかけるのだ。実際に気絶するまで殴り合うのは手したのポケモンであって、本人たちではない。

「自分の好きなことをやりたいでーす。その為のお金は誰か他の人がとってきてくださーい」

ではまるで幼児の弁明だ。こうしたメンタリティがどこから生まれるのかとても興味がある。
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さて、説明責任である。いや、そんなことは分かっており、今色々な取り組みがなされているという。

因果関係がよくわからないのだが、ここ10年で研究者が研究に費やせる時間は減ってきているという。つまり他の仕事がいろいろふえているわけだ。この中に「一般向けの説明責任」もあるに違いない。

特に短期的な成果のでない研究ではロジックではなく、感情に訴えなければならない。聴くところによると、

「はやぶさ2の予算を削るとはどういうことだ!」

というお叱りの電話がいたるところに届いたのだそうな。「はやぶさ」はそうした一般の感情に訴えることに成功した日本では稀有の例ではないかと思う。

私は全く知らなかったのだが、研究機関で一般向けに博物館を作ったり、一般向け公開講座をやったりとあれこれしているらしい。

しかしそうした努力が効果を生んでいるとはあまり言えない。私が考えるにこれは努力がたらないのではなく、方法が間違っているのではないか。というわけで昨日考えたのは

大躍進政策の土法炉と、研究機関が作っている「博物館」の類似性である。

「みんなで頑張れ」とは聞こえのいい言葉だが、責任と思考の放棄でもある。
「研究には説明責任が伴う」
という命題と
「全員広報がんばれ」とは全く等価ではない。農民が耕作を放棄して溶鉱炉を手作りしたところで、国家が近代化するわけではない。

研究の「顧客」は誰なのか。それに対して何をすべきか、というのは「もしドラ」の基本である。

それを考えたことがないし、考える気もない、だって僕は研究者だから、というのであればマネージメントのプロを雇う金を払い、その命令に従うべきだ。つまり大学の長は「研究者の長」ではなく「大学を経営する責任者」なのだ。であれば、経営を一番上手に出来る人が行うべきだ。

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というかこれは研究者に限らず、全ての社会人が肝に命じておくべきことだが

「あなたの組織は存在する権利を持たない」

いつか研修で聞いた言葉だ。全ての組織は存在する権利を持たない。それ故、なぜ自分たちの組織が存在する必要があるかの立証責任はその組織に存在する。

国の機関で働いている人はこの意識が希薄なのでは、と思うことが時々ある。


いきいき研究室増産プロジェクトFORUM2012に参加したよ

2012-02-28 07:02

というわけで、途中で帰るのがいつもの私にしては珍しく最初から最後まで参加した。(webサイトはこちら

最初にパネルディスカッションがあった。この中で興味深いキーワードはいくつかあったのだが、それについてはその次に行われた「グループディスカッション」の中で述べる。

というわけでその後いくつか研究室にまつわるキーワードが提示され、それぞれのキーワードに興味を持った人が集まりグループディスカッションがなされた。私が所属したのは「研究者?研究室の説明責任」というグループ。ここで行われた議論について記憶が存在している範囲で、かつ私の勝手なフィルタを通してお届けします。(以下発言は私を除いて全て仮名)

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私「研究者は自分が好きなことをやりたい、説明の責任は行政にあるべきではないか、パネルディスカッションでの意見を聞いて衝撃を受けた。企業の研究所は弱い立場にあるので、常に自分たちが役に立つことをアピールするのは当たり前だと思っていたが。」

A「いや、説明の努力をしていないわけではない。一般への説明についてはいろいろ時間も労力も裂いている。しかし基礎研究の意義と言うものを説明するにせよ誰に説明すればいいのか、といつも悩んでいる。それに基礎研究というものは、どう役に立つのかそもそも説明が難しい。

しかし基礎研究あって応用研究が花開くのであり、解りやすい指標ばかり求めていては基礎研究、ひいては科学技術の泉が枯れてしまう」

B「予算配分の大本は国で決まる訳だが、では国の予算配分に影響を与えるのは何かといえば世論である。詰め込み過ぎだ、という世論になればゆとり教育になるし、行き過ぎだといえわれれ元に戻る。」

C「例えばドイツにいくと、大学の研究が地域のコミュニティと一体化している。ああした活動が必要ではないか」

A「確かに宇宙探査などはもっとも実用と遠い分野であるが、海外に行くと"あなたは宇宙の研究をがんばってください。私は自分の仕事をがんばる"といった声をかけられることもある。やはり国民の科学教育というものが大事なのではないか」

C「例えば科研費の申請書などは大変精密に記載を求められるが、あれとて"通るための書き方"が存在したりしている。」

B「科研費の申請書をいくら精密に書いたところで、研究者の説明責任を果たしたとは言えないのではないか」

参考:パネラーから「研究の提案書が山ほど提出されるが、面白い物が少ない。結局今の枠組みの中にとどまっている」という問題提起があった。

私「なるほど。私は科研費の申請をしたことはないが、聞いた限りだと結局「その道の権威」が審査をしているそうであり、そうした閉じたループの中では新しい魅力的な提案というのはでてこないと思う。

そういった意味では例えばIPAがやっている未踏ソフトというのは面白い成功例かもしれない。(説明の中で誰も未踏ソフトを知らないことを知って衝撃をうける)個々のプロジェクトマネージャーがオープンに審査を行い、合議制ではなく、プロジェクトマネージャーの裁量で認可ができる。採択されたプロジェクトの煩雑な業務はプロジェクト管理組織に任せておける。

あるいは、問題を抱えている企業なり団体が問題を提示し、それにインターネットを通じて自由に解決方法、研究を提案できる制度というのはいいのではないか。P&Gは自前の研究所の他に、そうした研究者のネットワークを作り上げていると聴く。

ヒューストンはP&Gの研究所から60名の科学者とエンジニアを厳選し、彼らを試験管と顕微鏡から引きなして「テクノロジー・アントレプレナー」の肩書を与えた。テクノロジーアントレプレナーたちはヨーロッパ、中国、日本、インド、ラテンアメリカに派遣され、そこで社外のイノベーションを発掘する責任を負う。最前線で活躍する精鋭のスカウト集団だ。

マーベリックカンパニー p124



キャロルが最も驚いたのは、ソビエト連邦時代には秘密にされていた町チェルノゴロフカを訪れた時だった。当時の政権が科学者たちをこの町に集め、最優先研究課題に取り組ませたのである。(いうまでもなくその大部分はアメリカ合衆国に対抗するためのものだった)チェルノゴロフカは住人が22,000人あまりの小さな町だが、ロシア科学アカデミーの会員が20名以上、博士号取得者は250名以上、博士取得を目指す学生は1000名以上に上る。
(中略)
ウェブサイト実際に見てもらいました。すると掲載されている「難問」を見て相手は"あれ?これならいますぐうちの人間が解決できますよ"というではありませんか。

マーベリックカンパニー p138


こうした国の予算、科研費とは別の、お金がちゃんと回るビジネスモデルを打ち立てることはどうだろうか。

D「私はそうしたファンドのプロジェクトに携わっているが、実際結構うまくまわっている」

B「そうした方法もあるだろうが、やはり基礎研究の必要性を説明する問題は残る。例えばNASAは相当な予算を広報に使っている。日本ではそうした取組がなされていないのではないか。また一般向け科学雑誌、科学番組などの充実ぶりも米国に比べて見劣りする。日本で残っている科学雑誌はニュートンだけだ」

B「一時ある一定額以上のプロジェクトは、広報等に一定の予算を割り当てることを義務付けようという意見があったが研究者達の反対でつぶれてしまった」

A「一般向け科学教育という点では、現在でもいろいろな取り組みがされている。一般向けの講座を開いたり、あるいは研究所で博物館を持ったり。しかしそうした活動が研究者の重荷になっている部分もある」

私(なるほど。そんな取り組みがされているとは全然知らなかったと思いつつ)「研究者がそうした努力をしていることはわかった。しかし結果としてそれはあまり効果がでているとは言えないと思う。"振り回しているパンチ"がどこにも効いていないとすれば、やはりやり方が悪いのではないか」

複数人「そうした問題は、やはり個々の研究室で解決できる問題ではないように思う。そうした枠組みを作ることができるのはどこなのか」

B「大学を独立行政法人化したことにより、そうした"経営"の裁量権が増えたわけだが、結局大学の意思決定は従来通りの"教授会"でなされている」

私「そうした大学の経営は、教授や研究者ではなく、経営のプロに任せるべきではないか。たとえばMITメディアラボの所長伊藤氏はPh.Dももっていない(当日そう言ったのですが、後で調べてみたら、そもそも大学を卒業していませんでした)


メディアラボは1985年設立。

グーグルのストリートビューの前身のサービスや、アマゾンの「キンドル」に使われる「Eインク」といった、ネット業界では先駆的な技術を開発してきたことで知られている、米マサチューセッツ工科大学(MIT)のデジタル技術の研究・教育機関です。



世界屈指のこのコンピューター科学の研究所のトップに、約250人の候補者を押しのけて、44歳の日本人のベンチャー起業家が起用されたのです。そのMITの決断について、米紙ニューヨーク・タイムズは「異例の選択だ」と伝えています。


via: せかいの豆知識:米MITメディアラボ 所長伊藤穣一氏 - livedoor Blog(ブログ)

そうした人間が大学のマネージャーであることが気に入らないというのであれば、マネージャーの定義を

「ボス」

ではなく

「ヤカンをもって走り回っている女子部員」

に変えればよい。

天下のMIT がそうした決断をしているのだから、日本の大学にもそうした取組があってもいいのではないか。」

C「研究を行うというのは、非常に集中を要する作業で、先行研究を調べるために英語の論文を100も読まなくてはならず、集中しないと成果が出せない。他の作業を研究者に行わせるというのはどうか」

B私「研究に集中したいというのであれば、何かを諦めなくてはならない。その代わりに研究費を削って広報、あるはロビー活動の人材獲得の予算に回すとか」

B(これはパネルディスカッションでもあった話題ですが)「例えば医師に関しては医師会などが存在しており、議員や他の団体に意見をいうことがある。しかし研究者は完全に個別、あるいは縦割りでそうした取組がない。あっても個人的なつながりで変な圧力をかけてくる」

B「例えば一般向け講座を開く労力の一部でも議員向けブリーフィングに回すだけで相当効果があるのではないか」

私(口にはださなかったが、そうだなあと思う。議員先生も「日本の未来を開く科学技術に詳しい」、と言えば選挙のアピールにもならんかな)

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と言ったところで時間切れ。残りの時間は全体議論ということで他のグループでどんな話し合いがされていたかを聴く。少なくとも私にとって一番興味深い議論は私がいたグループだったなあと実感する。

実に興味深い議論だった。というわけで帰り道に何をあれこれ考えたかは以下次号。


優しさにつつまれながら

2012-02-27 06:43

先日こんな記事をみつけた。


「はい。みんな課題持って来ましたか?では、机の上に出して、紙の人はそのまま破り捨てなさい。立体物の人は壊してゴミ箱へ捨てなさい。」


via: 「傷つかない技術」を体験した授業 | 記事 | s-style-arts blog !!

3ヶ月のプロジェクトの結末がこれである。様々な反応を見せる学生達に先生はこう言う。

みんなプロのデザイナーとしてこの先の人生食っていこうと思っているなら、こんなことは日々起こること。これでショックを受けてやる気をなくしているなら、クリエイティブな職種に向かないから違う道に進んだほうがいい。クライアントの中にはアイデアや作品を見ることもなく破り捨てる人もいる。わたしもそんなこと毎日のように経験してるぞ。

via: 「傷つかない技術」を体験した授業 | 記事 | s-style-arts blog !!

さて、日本にははてなブックマークというものがある。そこではこの記事(本当はこの記事を引用した別の記事だが気にしないことにする)にこんなコメントがついている。

ゴミとして切り捨てるのは構わないけど、せめてどこがどうゴミなのか述べるなりするほうが発展的だと思う。駄目な部分を考えさせる意図で敢えて言わないのであれば、その旨をちゃんと伝えるべき。


via: はてなブックマーク - あなたの作ったものはゴミである、あるいはプロとアマの分岐点:プロジェクトマジック:ITmedia オルタナティブ・ブログ

「ゴミだね」という判断が正しいという保証はどこに?


via: はてなブックマーク - あなたの作ったものはゴミである、あるいはプロとアマの分岐点:プロジェクトマジック:ITmedia オルタナティブ・ブログ

上に立つ人が価値を見極められて、ゴミがゴミである理由をきちんと説明できる、という前提がないと、傷つけあうだけな気もする "「ゴミだね」への反論は、ゴミではないモノを作ることしか許されない"


via: はてなブックマーク - あなたの作ったものはゴミである、あるいはプロとアマの分岐点:プロジェクトマジック:ITmedia オルタナティブ・ブログ

これらは多数の「はてな民」の支持を受けたコメントだ。

思うにこういうコメントをしている人たちというのは、学生かあるいは何らかの理由によって

「どうか働いてください」

とお願いされる身分の人たちなのだと思う。というかやっぱり学生かな?「教師には自分を育てる義務がある」と考えている人たち。

「べき」論は大いに結構だが、理由も説明もなく突然殴られたり、ゴミ箱に放りこまれたりするのが「働く」ということだ。理想論は理想論として、現実は現実として存在する。

学校でも、世界の一流だとこんな「理想論」が入り込む隙はない。だいぶ昔に聞いた話でうろ覚えだがカルテックでは教授が学生にこう言うそうだ。

「学校として君を卒業させようとする理由はない」

この時期大学の先生達の発言を読むと

「ダメな学生をいかに卒業させるか」

に心を砕く人が多いようだ。そういう学校であれば「ゴミだなんて言い方はお互い傷つくだけだよ!」という叫びも意味を持つのだろうがカルテックでそんなことを言っても

Have a good life

と言われておしまいになるだろう。

そう言えば「敬愛なるベートーベン」にもこんなシーンがあった。

ダイアン・クルーガーの彼氏は建築家。がんばって橋のデザインに応募する模型を作ってきた。それを魅せられた彼女は「ええっと」と反応に困る。

そこにやってきたベートーベンは一撃の元、その模型を破壊する。いや、これが実に「ゴミ」なんだってば。この映画の最大の見所だったと思う。

提案を審査する側の立場にたってみよう。なぜ懇切丁寧に「君の模型には改善素べき点があるね」などと指導しなければならないのか?ゴミに付き合っている暇はない。

でもってクルーガーは後でベートーベンに向い「あなたの行動は正統だったわ」というのだ。

ちなみに同じ映画ではクルーガーの作った曲もベートーベンに同じような扱いを受ける。しかし

「一緒に良い曲にしよう」

とベートーベンに言わせてしまうあたりが、映画の甘いところだね。

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さて話しを元に戻す。

「どうかがんばって勉強して、良いものを製作してください」

と懇切丁寧な指導を求めるような人は所詮新しいものを作る職業には就くべきでない。新しいもの定義によって「拒否がデフォルト」なのだ。

先日書いた内容にも通じるが、「暇な時間があればつい作ってしまう」人でなければ、そして「ゴミ」と拒絶されても三日もすれば何か作っているひとでなければ「モノづくり」など志すべきではない。そういう意味において最初に引用した「授業」は実に良いところを付いていると思う。そうした必要不十分な資質にかけているにもかかわらず創作系を志す人は数多いのだろう。そうした人には早く引導を渡したほうが親切というものだ。世の中にはいろいろな職業がたくさんある。

そうした「現実」に向き合い、それでも創作をし続けてきたひとだからこそ、こうしたことを口にできるのだろう。

「凄く落ち込んだ時は公園に出かけて、その中でいちばん自分が好きな木を探すといい。木を見つけたらしばらくその木にHugするとだんだん気持ちが穏やかになって元気を取り戻せるよ。他人が見たら変人に思われるかもしれないけど気にするな。」

via: 「傷つかない技術」を体験した授業 | 記事 | s-style-arts blog !!

ユーモアのセンスとは

2012-02-24 06:56

米国のドラマとか見ていると

Sense of humor

という言葉をよく耳にする。いつか「異性に求める資質の上位にユーモアのセンスがはいってくる」とか読んだような気もする。

このSense of humorというのは日本人である私はなかなか理解が難しい。そもそもユーモアなるものが存在しているのはなぜなのか。進化の上でどんな意味があったのか、という議論も読んだことがある。


伊藤 正徳という人が書いた帝国陸軍の最後という本がある。そのガダルカナル戦での記述が頭にのこっている。

「しこうして彼らは余裕を持って事に当たる伝統の血を受け継いでおり、いわゆる"あがる"ことが少ない。日本軍を撃退した彼らが翌日一大隊ずつマタニカウ川に飛び込んで汗を洗い流していたことなど、日本軍では考えられない"激戦中の水泳"であった」
(うろ覚えなので多分間違ってます)

一時ほど「日本人選手は大舞台で力を発揮できない」とはいわれなくなったように思う。しかしオリンピック選手のその後を扱った番組などを見るとやはり

「余裕を持って事に当たる」

伝統は米国に存在しているのではないかと思う。平成になりだいぶ薄れてきたとはいえ今だ日本には「皇国の興廃この一戦にあり」といった悲壮感-裏を返せば余裕の無さ-が存在しているように思う。

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さて最近この本を読み、いくつかの点がつながったようなきがした。



引用すると

「速やかに立ち直る人は、ストレスに直面したとき、他の人に比べて複合的な感情を持つ」という結果が示されています。 難局に直面すると、多くの場合ポジティビティは窓から逃げ出してしまいます。しかし、レジリエンスが高い人達の場合はそうではありません。たとえネガティビティに屈してもポジティビティをなくさないのです。

3:1の法則 p156

何かに集中するのは大いに結構。しかし複合的な感情を持つ人こそがレジリエンスが高い、つまりストレスにうまく対処する。こうこの本では主張されている。ネガティブな事件に遭遇した場合に、そのダメージを受け止めながら、ポジティブな要素を持ちうる人が強靭だと。なぜそうなるか。

最終的にたどりついた結論は、ポジティブ感情とネガティブ感情は、異なる時間尺度の上で意味を持つということです。危機に臨んだときにネガティブ感情が指向を狭めることは、ある意味その瞬間を生き延びるために有効でした。 一方ポジティブ感情によって広げられた思考は、もと長い時間尺度において、別の形で有効に作用したのでしょう。ものの見方が拡張したことは、長期にわたって祖先たちのリソースを形成するために役立ったのです。 3:1の法則 p47

人間は野生時代からの反応として、危機に対処するときその事だけに集中する。そりゃ虎を目の前にして「そういえば、この体験を本に書いたら売れるぞ」とか考えていたら食べられてしまう。

しかしポジティブな感情を持つこと-私はここでそれをユーモアのセンスを失わない、と強引に解釈する-ことは、物の見方を広げ、もう少し長い時間スケールでその出来事を位置づけることを可能とする。

それこそが、伊藤正徳が言ったところの「余裕を持って事に当たる伝統の血」ではないだろうか?そして米国社会において「ユーモアのセンス」が重視される「進化的な意味」は余裕を持つことによってレジリエンスを高める、ということなのではなかろうか。

この本にもいくつか「激戦中のユーモア」が紹介されている。


ドイツ軍の強力な攻撃に「やつらこんろ以外はなんでも投げつけてきやがる」と毒づいた英国兵。強力な爆発が起こり、建物が崩れる。ふと気がつけば目の前にこんろが落ちている。
「奴らがこんな近くにいるとはな」

いや、もちろん我が国にも戦場におけるユーモアはあったのだろうけど。覚えているのは

ノモンハン事件で、戦車隊の隊長が「歩兵は氏ねば安い棺桶に入れられる。我々の棺桶は高価な戦車だからこっちのほうがずっといいぞ」と言い、隊員達がげらげら笑った、というものだ。いや、面白いんだけど、なんだかね。


自助論

2012-02-23 06:56

といっても、この本の話じゃないよ。

先日姉からある人の写真が送られてきた。私の弟に似ているが、もちろん弟ではない。これは誰だ、と聞くと天皇陛下の手術を行った人だと返事が来た。

そのメールに引用してあったURLから引用。

僕が大事にしているのは、正直に言うと第一は患者さんではないです。一番は「プライベート」、二番目に「仲間」を大切にするようにしています。そして次に「患者さん」です。







仲間がいなかったら手術できないですから。患者さんを優先して仲間を大事にしなかったら、チームはバラバラです。ここを履き違えてはいけません。








自分と仲間のコンディションの両方を整えて、はじめて患者の為になることが出来る


via: 天皇陛下の執刀医のおどろきの経歴 - NAVER まとめ

この人は一部では「ゴッドハンド」と呼ばれているようだ。この記事から判断する限りひたすらコツコツと努力した人なのだろう。

他人が見ると

彼は手術が必要な患者がいたら、真夜中であろうとすべて受け入れる。テニスでのしぶとさは、患者のためできることをするという彼の姿勢に通じていると思う

via: 天皇陛下の執刀医のおどろきの経歴 - NAVER まとめ

という人が、「一番大事なのは患者じゃなく、自分のプライベート。次が仲間、次が患者」という言葉には重みがある。

この言葉を聞いて思い出したのは、G.M.ワインバーグのスーパーエンジニアへの道だ。


今手元にないのでうろ覚えで書くが、この本にも

「一番大切で、かつ難しいのは自分を助けること」

という主張があったように記憶している。機内の気圧が急激に下がったら、まず自分の酸素マスクをつけ、その上で子供の酸素マスクをつけなさい、とは飛行機にのるたびに聞かされること。

とても大事で普遍的な教訓と思うのだが、あまりにもしばしば忘れてしまう事柄でもある。

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同じ日にこのような記事を見る。

しかしこれと類似する現象は今に始まったことではないだろう。補給も不十分な状態で行軍し数万の兵士が餓死したインパール作戦や、バンザイ突撃等々、上が無謀でも現場は死ぬまで頑張るのだ。馬鹿らしいと分かっていてもだ。

自分は、何度も同じような結論になるが、やはり現代においても、もしくは自分も含めて日本人の精神性は家父長的な村社会構造に根ざしているのではないかと思う。モラルハザードが良いとは思わないが、多くの労働現場で発現されない現状は『1人だけ違う行為をする』という事に対して、凄まじい心理的制約があるからだろう。

via: 『ブラック企業と旧日本軍』(ワタミ化と東南アジア化) - ゴムホース大學

少し前に観た日本映画を思い出す。特攻隊員が

「特攻に志願するのは、民族的な情熱だ」

とかなんとか言う。ワタミでも同じようなロジックがまかり通っているのだろう。個を殺して集団に奉仕する。日本人の得意技だ。

しかし

私は「まず自分の酸素マスクをつける」人間でありたいと思っている。それ故「黙って営業の演説を2時間聴くのが集団の規範」とか「上司より先に帰宅するのは論外」という組織では常に嫌われるが、まあしょうがない。ちゃんと目を開けば、多くを学べる人だってちゃんといるのだ。



iphoneはSmartphoneではない

2012-02-22 06:56

少なくとも、キャリアはそういう扱いをしている。

なぜこんなことを言い出したかといえば、auのこのページを見てほしい。

スマートフォン | 製品ラインアップ | au

ここを見ると、iPhone4Sはスマートフォンラインアップの中にははいっていない。ラインアップの上に一機種だけ表示されている。

ではSoftbankはどうかと思えばこちらはもっと極端だ。

製品情報:SoftBank スマートフォン | ソフトバンクモバイル

そもそもiPhoneはSoftbankスマートフォンの中にはいっていない。iPhoneはiPhoneであって「スマホ」とは異なる扱いだ。

最初これらを観たとき「Appleの要求ではないか」と考えた。というわけで米国のキャリアサイトをチェックしてみる。

PDAs & Smartph - from AT&T

こちらではiPhoneは他の機種と横並びである。隣にはSamsung Galaxy Noteがある。
ではVerizonはとみてみると

Select a Phone or Device - Smartphones

こちらでもiPhoneは他のDroidとかと横並び。

ということはこれはAppleが各国共通に要求している事項ではない、ということになる。

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iPad3の噂があれこれ飛び交う今日この頃。最近Appleの新製品が発売される予兆が確立してきたように思う。数週間前から、部品の写真があちこちからで出すのだ。逆に言えば、部品の写真が漏れ出てこないということは、新製品が発売されないということでもある。

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さて親愛なるAndroidであるが、GoogleはAndroid5の開発を行っているようだ。しかし例えば先日発表されたNOTTV端末のバージョンは2.3なのだそうな。

OSのバージョンは、最新のタブレットOS Android3.2(Honeycomb)でも、スマートフォン向けとタブレット向けの統合化バージョンAndroid4.0(ICS=Ice Cream Sandwich)でもなく、Android2.3.6(Gingerbread)という現行の多くのスマートフォンが採用するバージョンとなっていますが、数多くのNTTドコモ謹製アプリが搭載されることからか、それらのアプリがHoneycomやICSに対応するまでは、Android2.3.xの安定したOSでも全く問題は無いでしょう。

via: モバキャスNOTTV対応Android搭載7インチXiタブレット『MEDIAS TAB N-06D』:赤外線・防水・おサイフケータイ(Felica)・ワンセグまでも搭載した全部入りPlus:破壊的イノベーションでキャズム越え:ITmedia オルタナティブ・ブログ

ここらへんひたすら前に進み続けるGoogleと、「ちょっと待て」と思い始めたメーカー+キャリア側の思惑が見えるようで面白い。そもそもTablet専用の3は存在しないも同然だし、4にアップデートさせるメリットは少なくともキャリア側には存在しない。

グーグルからソフトウェアがリリースされた後、それが各モデルでどのように動作するかは、実際のところ、本当に動かしてみるまで全く分からないのです。チップセットも無線通信方式も、それぞれのモデルのハードウェアには共通項なんて存在しません。たとえハードウェアがソフトウェアをサポートすると確信できたとしても、今度はAndroidスマートフォンの特徴として、各メーカーが独自にカスタマイズしたUIソフトウェアレイヤーが存在します。その後は通信キャリアによって、新バージョンの認証をするという問題も控えています。

そう語っているのはモトローラのクリスティー上級副社長でございます。要は、当のメーカー側でも悩みの種になっている、なんだかバリエーションが増えすぎてAndroidスマートフォンは混乱してきているなんて事情が、ユーザーの待ち望んでいる「Android 4.0」へのスムーズなアップデートを阻んでしまう事態まで招いちゃっているようですね。

via: なぜAndroidスマホを「Android 4.0」へアップデートするのは難しくて時間がかかるのか? メーカーが抱える深刻な現状も判明... : ギズモード・ジャパン

というわけで呉が転んでいる間に、燭たるWindows Phoneが躍進するかといえば、、よくわらない。


「女性向け」製品に必要なもの

2012-02-21 06:52

子どもをつれて公園に遊びにいく。公園には同じような境遇と思しき親子がいる。

さて、ここから男親と女親では対応が分かれる。

男親同士は滅多なことで会話をすることはない。肩を丸め、時々会社のメールなどチェックしながら子供を遊ばせる。

女親の場合は、親どうしの会話が始まることもある、、、らしい。聞いた話では。というか「男親同士は会話をしない」という事実はどうもうちの奥様には納得いただけないようだ。

かくのとおり「会話」というものが生活の中に占める重要性は男女で差がある。

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さてこれを念頭においた上で、以下の記事を読もう。

女性用アプリをあらかじめ端末に盛り込むことは、女子スマホ黎明期(れいめいき)の当時としては異例だった。

 このアプリについて、チームリーダーの商品企画グループ参事、村本武志(41)は「今はスマホの過渡期。いかに利便性を実感して楽しんでもらえるか、ファーストスマホの提案として、さまざまな機能を盛り込んでみよう」と考えていた。

 チームの賛同を得た池田は張り切っていた。画面は時間の経過とともに背景の色を変え、夜には自分の星座の星がきらめく。「フューチャープラスでも、デコは欠かせません!」とロマンチックな演出をアピールした。

via: 夢の中でも「女子ライフ」を考え続けたパナ技術陣 (産経新聞) - Yahoo!ニュース

女性向けの機能てんこ盛り。実に「日本メーカー」らしい。夢のなかでも女子ライフを考え続ける。これも日本企業では賞賛されることだ。

しかし気の毒なことに、彼の努力は次の言葉でゴミ箱行きとなるのであった。

女が欲しいのは機能とか利便性とかより、共通の話題なんじゃないかね。
ぶっちゃけ、電池の持ちが悪くても「すぐ電池なくなるよね~」とかって
話題が共有できればおkみたいな。

片手で操作できるとか、電池の持ちがいいとか、操作性がいいとか、
アプリが便利とか、そういうことを考えている時点で男脳から
抜け出せてないんだろうな、と。

via: 政経ch - 【企業】 「女性の多くがガラケー使用。スマホを買わせるには...どうすればいい?」...男ばかりの-女子スマホ-開発チーム

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数年前、ある美大の卒業制作展示を見ていた。そこで提案されていたのは、

「女性同士が複数で買い物に行ったとき、ちょっと休もう、とはいった喫茶店にあるといいな」という情報提示テーブルだった。

(どうやって実現するかは問わないで)それまでに店でチェックした服がそれぞれの前に表示される。それをテーブルの中央にもってきたり、捨てたり。。

ここで情報推薦で博士号をとったA君(仮名)はこう意気込む。

「なるほど。ではそれまでに選んだ服から最適な服を提案する情報推薦機能を組み込みましょう!」

しかし不幸にしてA君の気合は全く方向性を間違えている。彼は暗黙裡に

「女性は最も自分の好みにあって高品質で安価な服を手に入れることが目的である」

と仮定しているのだ。この仮定自体パナソニックのエンジニアと同じくらい間違っている。

その展示を説明してくれた女性は私にこう言った。

「ここで重要なのは、女の子同士あーでもない、こーでもない、と楽しくおしゃべりすることです」

つまり目的関数が全く間違っているわけだ。

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機能がどうとかマルウェアがどうとかそんなことはどうでもいい。みんな持ってる。同じ話題に参加したい、というのが女性がスマホを買う根源的な動機なのではないかと思う。しかしなんだね。こう考えると男性向けにキャズムを超えるのと女性向けにキャズムを超えるのでは何かずいぶん差異があるのではなかろうか。

というかiPhoneはどうやってこのキャズムを超えたのだろう。


もっとグッドネットby DeNA & GREE

2012-02-20 06:52

標題は何か悪い冗談のように聞こえるが本当である。

ワークショップコレクションなるイベントがある。前から知っていたのだが、今年は子どもが小学校でパンフレットをもらってきた。子供たちはさっそく「これやりたい」「これもやりたい」と楽しみにしているようだ。

さて、そのパンフレットを見ると、

「一億人のネット宣言 もっとグッドネット」

というコーナーがある。そこに仲良くDeNAとGREEが並んでいるのだ。
GREEの提供は

「みんなで学ぼう!遊ぼう!インターネットクイズに答えてGREEの人気ゲーム"モンプラ"のぬいぐるみをあてよう!」

であり、DeNAは

「ヒントを手がかりに隠されたインターネットのルールを見つけ出そう!ルールブックを完成させれば、君も立派なかいとうキッズ!」

というものだ。

いうなれば山口組と住吉会主催「安全なまちづくり講座」という趣である。いや、これでは山口組と住吉会に失礼。

鳩山由紀夫講演「信頼される政治家であるために。決してブレない自分創り」
菅直人講演「部下の信望を集めるリーダーシップ講座」

こんなところか。

私が子供にインターネットを触らせるときは、

「こんなサイトにアクセスしてはいけません。」

の代表としてこの2社のサイトを挙げるだろう。

ワークショップコレクションという無料イベントを開催する苦労を思えば、スポンサーを断ることができないのは分かるが、これはあまりにもブラックジョークが過ぎるのではないだろうか。

まあ会社としては

「うちのサイトはとっても健全な楽しいサイトです!ですから悪い人にダマされない様に気をつけてどんどん利用してくださいね!」

とでも言うのかな。

人間の思考能力を弱らせる手口で、どんどん仮想のデータに金をつぎ込ませ多額の利益を挙げる。こんな方法で大きくなってきた会社の代表2社が「グッドネット」に出展だ。

同じような産業のパチンコにはいろいろ指導やら規制がはいるのに、なぜネット上の行為は野放し状態なのだろうね。ロビー活動の成果というやつかな?


否定から始めよう!NOTTV

2012-02-17 06:48

というわけで、TVじゃなければなんなの?のNOTTVである。

ワンセグがあり、DocomoにかぎればBee TVがあり。それでもって月420円払えばDocomoユーザは別の「TVじゃあないなにか」が見られるんだそうな。というかアナログTV放送を停止して、空いた周波数帯ですばらしいことができるんじゃなかったのか。それがこれですか。そうですか。

というか、せっかく気合をいれて新しいメディアを作るんだから、このUIはもうちょっとどうにかならなかったのかな。

ガラケー文化そのままのケバケバしいバナー。「標準部品使ってとにかく納期に間に合わせました!」というUIのたどたどしい動き。何を文句を云っているのだ、思う人は2010年7月に公開されたこのデモと比べてみてほしい。

いや、デモはあくまでもデモであって、製品化するときに「現実化」するのはお約束なのだが。

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スポーツ中継もJリーグ、プロ野球ともに行われます。たとえば横浜DeNAベイスターズのホームゲームは全試合生中継。プロ野球は最大で122試合を中継予定となっており、Jリーグも2チャンネルを利用して週末に最大5試合を同時中継。スタジアムにいる人が他チームの試合を見るという使い方も可能で、たとえ6万人が同時に接続してもパンクすることはないそうです。


via: 絶対にパンクしないスマートフォン向け放送局「NOTTV」開局、対応機種も3月から登場 - GIGAZINE

うわーすごいなー。DeNAの試合が全部見られるんだ。ワクワクするなー(棒読み)というか発表の場で失笑がもれたりしなかったのだろうか。そりゃ放送だからパンクしないけどさ。ワンセグでいいじゃん。震災の時もワンセグはそこかしこで大活躍だったぞ、というかあれが情報を得る唯一の手段だった。そうした手段はもう確立しており、無料で見られるんですけど。

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いやいや、新しいサービスというものはとかく欠点だらけのところからスタートするもの。それを克服していって皆に利用される素晴らしいサービスになるのだ。

問題は

「NOTTV」というわけで、TVではない、違う、という意気込みはよくわかった。じゃあ何がしたいのか、というのがさっぱりわからない点だ。

それも「走りながら考える」ということなのかもしれん。私はiPhone原理主義者なので、Docomoのケータイを使うことはないだろうが、是非がんばってほしいものである。期待してます。


才能とは

2012-02-16 07:18

年をとって子供の成長やらなにやらを見ていると

「才能とは持続する意思のことである」

と思うことが増える。

私には息子と娘がいる。年は二つ違うが、二人とも逆上がりができなかった。
娘は「お父さん、鉄棒いこう」と私を呼び出し、何度も練習した。
息子は「回ると酔っちゃうから」とかなんとかいってあまり練習しない。

結果は明白で娘は今やくるくるまわり「お兄ちゃんは腕が伸びてる」と指摘する立場だ。
二人とも小学校2年生まで逆上がりができなかったDNAを半分受け継いでいるのだが、練習したほうはちゃんとできるようになった。

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これも以前書いたが、前の会社でバイトの面接をするとき

「自分で作ったソフトを見せてください」

というのが一番だった。PCはどこからか調達する必要があるし、人によっては上手接続回線の費用が出せない人もいるかも知れない。

しかしそれをクリアできる人ならば、開発環境はただで手に入る(これは30年前からすると夢のような話だ)それで何も作らない人はなんともならない。どんな言い訳も無用だ。

というわけで何箇所か引用を。

 (アニメ業界に求められる人材とは?と問われ)描ける人。その上にセンスがあること。描く努力を続け、それを面白いと思えるか。描いて、壁に貼って、また描いて貼る。比べる。差に気づく。「もっとこうしよう」とまた描く。それを繰り返し繰り返し続けられればそれが才能。未熟な自分、だめな自分と向き合うのはつらいけど、そこから「もっともっと」と闘っていかないと向上しない。「本気さえ出せば」とか「授業でちゃんと習えば」なんていうのは言い訳。力のある人は自分で自分を磨くことができる。才能があるかどうかは、自分に聞けばいいんです。

via: 朝日新聞デジタル:小林七郎、背景美術を語る - 小原篤のアニマゲ丼 - 映画・音楽・芸能

ほおっておいても描く人。才能のある人は書かずにはいられない。

成功するのにたいした秘訣はない。
他の人が理屈をこねている間にさっさと粉をこねればいいだけのことである。
理屈をこねても時間の無駄になるだけだが、粉をこねれば団子になる。
理屈をこねる人を見ていると、やらない言い訳を探していることが多い。

via: カオスちゃんねる : 志茂田景樹人生達観しててワロタ

別の言い方をすれば、才能のある人は粉をこねずにはいられない。

ビジネスの才能がある人は、休みの日だろうがなんだろうがメールをチェックし、必要な仕事をせずにはいられない。すいません、私ビジネスの才能ありません。

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こんなのはどうだろう。その人の才能を見つけるには「一定期間以上暇な状態」において、何をしだすか観察するのだ。

そこでやり始めることがその人の才能のある事柄、というのが一番ハズレが無いのではなかろうか。


あたりまえのプロジェクトマネージメント

2012-02-15 06:56

一見当たり前であり、実用的なプロジェクトマネージメント方法なのだが。ピクサーでMr.インクレディブルを製作したときの話。

そこで制作チームはこのハイテクのジレンマにローテクで対処することにした。棒つきキャンディはそれぞれの作業の工数を表す。バードがある特定のキャラクターあるいは特定のシーン(たとえば「ミスターインクレディブルのスーパーヒーローの衣装)にもっと時間が必要だと訴えると、別の作業(たとえばバイオレットの髪)の棒つきキャンディーが減らされる。このばかばかしいほどシンプルなツールのおかげで、コンピュータを駆使して世界最高レベルの映画を製作する面々は時間の感覚を失わず、完成の期限を破らずにすんでいる。

マーベリックカンパニー p294


何かを追加するのなら、何かを削らなくてはならない。実に当たり前のことだが、会社でこれがまともに認められることはめったに無い。だいたいが

「がんばれ」

でおしまいだ。結果製作する面々はうつ病になり、完成期限は守られず、製品の質は下がる。

しかしこのマネージメント方法が働くためにはいくつかの「当たり前かつ非常に難しい要素」が必要だ。

こう書いてくるとなんだか悲しくなる。今までいろいろな会社でいろいろな仕事をしたが、ほとんどアウトだな。今後私がマネージメントの立場につくかどうかわからないが、もし就いたとしたらこの言葉を覚えておこう。

もう一箇所引用。

人材活用の巨匠、ジョン・サリバンはいかにも彼らしくポイントをずばりと指摘する。「いいですか、スターはバカ者のためには働きません。ですからより高いレベルの才能を獲得するには、受け入れる側のマネジメントのレベルも高くする必要があるのです」

マーベリックカンパニー p279

人材獲得競争は不況だからこそ苛烈だが、このことに気がついている会社は滅多にない。というか気がついてもなんともならない、ということなのかもしれないが。


なぜルンバを作ることができないのか

2012-02-14 06:36

実家で第活躍中のルンバである。お掃除嫌いのうちの奥様もほしがっているようだ。(今年の誕生日プレゼントにどうだろう)

でもって調べてみれば何社からか類似品が発売されているようだ。しかし名だたる日本の家電メーカーはその中に入っていない。

あの形を最初に考えたiRobot社の発想力には敬意を表せざるを得ない。しかし日本の家電メーカーにそれを望むのは無理だ。じゃあせめてかつて日本の得意技と言われた「模倣」をと思ったら、そうもいかないようだ。

掃除ロボット市場は右肩上がりで伸び、昨年11月のルンバの販売台数は前年同期比2倍以上。単価も通常の掃除機が1万円弱からに対し、ルンバの最上位機種は7万円超と高価格で販売されており、メーカー側にとっても収益性の高い魅力的な商品なはずだ。

 それなのに、技術力で世界の家電業界をリードしてきた日本メーカーが、どうしてルンバ発売から10年以上が経過しても同様の製品を製造しないのか。

 「技術はある」。パナソニックの担当者はこう強い口調で話しながらも、商品化しない理由について「100%の安全性を確保できない」と説明する。

 例えば、掃除ロボットが仏壇にぶつかり、ろうそくが倒れ、火事になる▽階段から落下し、下にいる人にあたる▽よちよち歩きの赤ちゃんの歩行を邪魔し転倒させる――などだという。

 家庭で使う家電製品の第一条件は「安全性」だ。一方、日本の製造業は「リスクを極端に嫌う」傾向が強いため、開発の技術力がありながら、獲得できる市場をみすみす逃しているケースも指摘されている。

via: Business Media 誠:日本の家電各社が、「ルンバ」を作れない理由 (1/2)

今の不調を象徴するような力強い言葉だ。これにはこんなコメントがでている。

多様で複雑な家庭内環境で、信頼性高く自律的に掃除を行えるロボット技術は、その先にある汎用的なホームロボットへ向けた重要なステップだ。iRobotやSamsungはユーザーからのクレームという形で将来不可欠なノウハウを着々と手にしている筈。

via: Twitter / @s_kajita: 多様で複雑な家庭内環境で、信頼性高く自律的に掃除を行 ...

というかこういうことだ。自動車メーカーやらなにやらが開発しているヒューマノイドロボット。あれがルンバよりはるかに危険なものであることは猫でもわかる。

しかしそのルンバすら「100%の安全性が確保できない」として商品化に踏み出さないような日本メーカーがヒューマノイドロボットなんぞ商品化するわけがない。

「100%の安全性」を確保する一番の方法は何も作らないこと。彼らは今その夢を実現しつつあるのだろう。

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というか、この場合の「リスク」とは客観的、定量的なリスクではなく「心情的なリスク」であることには注意をはらう必要がある。

福島原発の事故以来、「どんな経済的犠牲を払っても、原発廃止を」という報道はずいぶん観たが、「どんな経済的犠牲を払っても、自動車の廃止を」という意見は観たことがない。

客観的に見よう。もうすぐ大震災から1年だ。原発事故で何人の方がなくなったのだろう?カウントの仕方にもよるが、この一年で交通事故で死んだ人の数-多分4900人以上--より少ないことは間違いない。(多分この意見に反対する人はいるだろうが)

しかし(私にはこの理屈が理解できないのだが)交通事故のリスクというものは、日常生活に溶け込んでいるが故に「許容できるリスク」とみなされているようなのだ。結果として誰も「交通事故0にするための技術に投資を」とは言わない。

この「お掃除ロボットのリスク」も同じようなものだと思う。実際に数社が商品化しており、10年の間にどのような訴訟が出たかもわかっている。それでもそのリスクは「心情的」に許容できないのだろう。

かくして結論は

「今までやってきたこと(このリスクは心情的に許容範囲内である)に磨きをかける」

ということになる。儲からないことが明白になっているTVの画質改善をしましょう。4k2kです。3Dです。
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この記事を引用したTwitterの発言を観たが。。なんというか。。TwitterというのはURLの引用などで画一的に検索してはいけないメディアだな。ソーシャルグラフというか、ある程度の信頼のネットワークを通じてならば興味深い発言に触れることもあるのだが。


Windows8のUI

2012-02-13 07:10

というわけで、Windows8のUIについてインタビューが掲載されている。

Androidに関してですが、ちょっとどうかなと思うのは、自分なりの視点がないってことです。アップルのデザイン原語のSF版みたいなものになろうとしているんだと思いますが、できたものはあまりよくありません。一部ではビジョンが感じられるものも出てきてはいます。マティアス(訳注:Androidのユーザー体験ディレクター)がいて、ちょっとは良くなっているものもあります。Androidも何か魂がある感じが出始めてきてはいるんですが、ただその魂の多くが違う部分から出てきている気がします。

via: Windows 8のデザイナーが語る:Windows(またはひとつの宗教)を作りなおすということ(動画) : ギズモード・ジャパン

読んでいて一番共感するのはこの部分だ。去年参加したGoogle Developers Dayで、責任者が非常に熱意を持っていることはわかった。しかしその結果がよくわからないのだ。

そうした観点からして、私はAndroidのUIよりもWindowsのMetroの方がいいと思っている。Mac狂信者としては、Windowsキーが付いているだけで触ることができないのだが、それでも

「どうしてもAndroidかWindowsから選べ」

と言われたら、ボタンの上に何かシールを貼った上でWindows Phone with Metroを選ぶ。

とはいえそれは携帯端末上での話。結局PCやTabletでみるのはこの画面だけだと思う。

Giz:デスクトップに関してはどれくらいデザインワークをしていますか? 基本的にはWindows 7のような感じで、あとはリボンとか、いくつかひねりが入っていると言う風に見えるんですが。

(中略)


120210_win8designerinterview2.jpg

via: Windows 8のデザイナーが語る:Windows(またはひとつの宗教)を作りなおすということ(動画) : ギズモード・ジャパン

引用した記事の上の方で、Metroについて熱く語っているデザイナーには気の毒だが、これが現実というものだ。

こうした画面は、Mac OSもWindowsもあまり代わりはない。Metroだのなんだの付けたところで結局この画面しか使われないのだ。この状況は既に何十年も続いている。

この状況を変えるためのアプローチがもっと見たいと思う。デスクトップのアイコンを自動的に整理する、とか目先の小さな問題にこだわるのは学部の卒論で十分だ。世の中にはもっとたくさん新しいことにチャレンジしている人がいるのに、新しい提案を見ることが少ないのは不思議なことだ。


Normanという人

2012-02-10 07:03

Don Normanという人がいる。この人の面白いところは、主張をちゃんと現実に即して変えていくところだな。

最近はこんなことをいっているらしい。

  • 携帯電話も同じだ。昔はそのサイズや見た目は千差万別だったが、機能や使い方はどれもほぼ同じだった。しかしスマートフォン全盛時代を迎えた今、おもなOS提供者はGoogle、Apple、Microsoftの3社だけになってしまった。iPhoneとiPadは言語設定を変えられる点を除けば万国共通だが、世界中で大人気だ。AndroidやWindows Phoneの端末メーカーは、ヨーロッパにもアジアにも北米にもあり、やはり文化に依存してはいない。
  • 文化は、果たして製品デザインに影響を及ぼすのだろうか? 上記の例を見る限り、大量生産品の世界、つまり工業デザインの世界では、文化の意義は我々の予想をはるかに下回るように思える。本当だろうか? もしその通りなら、それは良いことか悪いことか、どっちだろう?
  • via: ドン・ノーマンの「活動中心デザイン(ACD)」をめぐって « IA Spectrum

    とまあこうした主張に対して山のような反論が来たという。

    反論の多くはデザインリサーチのコミュニティから上がって来た。文化人類学に傾倒している彼らには、文化の違いを理解し尊重することがきわめて重要だという信念がある。人の活動は文化によって決まるところが大きいから、似たような製品を使う場合でもその利用体験はかなり異なるし、使い方は人それぞれで、誰もが自分自身のニーズに見合うようにその製品をアレンジして使っているというのが彼らの持論だ。利用できる製品をユーザが実際にどう使っているか、そこに目を向けるべきだということを、デザイナーがそのメーカー企業に納得させることができれば、真のニーズに一段と見合った製品を生み出せるだろうというわけだ。

    via: ドン・ノーマンの「活動中心デザイン(ACD)」をめぐって « IA Spectrum

    文化人類学を愛し、「個々にカスタマイズされた製品」を信奉する人間には、是非iPhoneの異常な販売台数を説明して欲しいものだ。たった一種類の製品で、世界中いろいろな文化圏で使用されているiPhoneの売上を。個々にフィットした製品を!大量生産の時代は終わりだ!とか声高に叫ぶ人は多いが、問題が一つある。現実に合致しないのだ。

    ノーマンの言説の常として「指摘は大変面白いのだが、ではどうすればよいのか、という段になるとわからなくなる」というものがある(少なくとも私にとってはそうだ)

    ---------------
    というわけで私のようなチンピラは別の所に考えを向ける。

    「HCDだの、User Experienceだのユニバーサルデザインなどバズワードを振り回す人間は気持ち悪い」

    彼らと彼女たちが気持ち悪いのは、その主張がどこか現実から遊離しているにも関わらず、それらを絶対視し「この方法論さえ使えば大丈夫!」と心のどこかで信じているフシがあるからだ。これは宗教の狂信者と共通する態度である。

    -------------
    前にも書いたが、誰かviが死滅するどころかますます普及しているという現実を踏まえた上で、ユーザビリティとかを論じてもらえんだろうか。そうした

    「ユーザビリティの常識では無茶苦茶なインタフェース」

    が存在し、普及しているというところから出発する議論ならきっと面白いと思うのだけど。


    何のためのヒューマノイドロボット

    2012-02-09 06:52

    まんがサイエンスという子供向け科学漫画シリーズがある。その8巻はまるまる一冊ロボットに当てられている。



    そのなかで繰り返し問われるのは「なぜヒューマノイド型ロボットか?工場で働いているようなロボットでいいのではないか?」という問題だ。

    この漫画サイエンスというのは実に真面目に作られており、作者はこの問題に容易な答えをだしはしない。

    「ヒューマノイド型なら、人間が生活している空間を変えることなくそのまま使えるから」

    が一応の結論だったように思う。しかしこれは嘘だ。ルンバは御世辞にもヒューマノイド型とは言えないが、ちゃんと普通の家庭で役にたっている(うちの実家でも働いている)

    つまるところ、ヒューマノイド型ロボットが必要だと誰にも理論たてて証明することはできない。しかしなぜ日本の研究機関はヒューマノイド型ロボットをつくりつづけるのか?

    -------------
    一年前にこんな文章を書いても「何のことだ」と思われるだけだったと思う。しかし福島原発の事故で活躍したのはロボット大国日本のロボットではなかった。それらは何の役にもたたなかった。

     日本は「ロボット大国」や「ロボット王国」などと呼ばれることが多い。「日本のロボット技術は世界一」だと信じていた人もたくさんいるだろう。ところが、2011年3月11日に発生した東日本大震災によって引き起こされた東京電力・福島第一原子力発電所の放射能漏れ事故では、最初に投入されたのは米国製の「PackBot(パックボット)」であった。「なぜ日本のロボットが使われないんだ」という失望の声も多く聞いた。

    via: 再検証「ロボット大国・日本」(1):日本は本当に「ロボット大国」なのか (2/2) - @IT MONOist

    日本のロボットは相変わらず研究室の庭で惰眠をむさぼっている。現場ではiRobot社のロボットが大活躍しているというのに。

    そもそもなぜヒューマノイド型ロボットなのか?何十年も税金を食いつぶしてきたあげく役にたたないそれらに何の意味があるのか?今ロボットに関わる人間にはこうした疑問がつきつけられている。

    ----

    と思っていたがもちろんそんなことはないようだ。(ここからようやく本論にはいる)

    先日情報処理学会音楽情報科学研究会が行われた。私も参加予定だったのだが、インフルエンザのおかげでキャンセルだ。しくしく。

    しかし研究会の模様がUstream,ニコニコ生放送で放映されるというではないか。之は見なくては。

    とうわけで見だしたのが"VocaWatcher: 人間の歌唱時の表情を真似るヒューマノイドロボットの顔動作生成システム"である。産総研の誇るヒューマノイドロボットが、声だけでなく、歌唱時の表情まで真似してくれるのだそうな。

    説明は進み、スライドの6枚目「歌うロボットの意義」というタイトル。をを、是非ここは聞きたい。

    と身を乗り出せば、一番目に挙げられた意義は

    「ヒューマノイドロボットを使うと目立つから」
    (以下スライドより引用)
    人々の関心を惹き付けやすい
    • 我々の展示経験(CEATEC2010、産総研オープンラボなど)
    • アイドルロボット構想(経済産業省「技術戦略マップ2010」)

    ...............

    正直言ってこの言葉を聞いた後は聴く気がなくなった。
    「わー、このロボット人間みたいだ。すごいなー」と人が群がり、それに気を良くして

    「今度は走ることができます」

    とか

    「人間と協調して荷物を運べます」

    とか何十年もやってきた挙句、何の役にもたたないロボットばかり創りだしたのが我が国のヒューマノイドロボットの歴史だ。

    それを多大な苦痛と共に目のあたりにした今、

    「ヒューマノイドロボットを使うと目立つから?」
    エンターテイメント分野の応用?そんな話はもう何十年も聞いている。

    正直この志の低さにはがっかりした。もちろんこの発表をしたのは一流の「研究屋」だろう。発表の技術レベルの高さ、研究者とのしての実績、私のようなチンピラが文句をつけることなどおこがましい。彼らは人の興味を集め、国あるいは企業から研究予算を取ることにとても長けているのだろう。

    こうした

    「研究のための研究」

    について知ることは、自分がどのように研究というものに取り組むべきか考えるきっかけともなる。そうした物に嫌悪感を感じるのなら、自分はどうするかについて考えるべきなのだ。


    国民投票とバザール

    2012-02-08 06:46

    似て非なるもの、ということで。

    民主主義が好きな人は多い。多数決で決めよう。私は大嫌いだ。前にも書いたと思うが

    「最近感動したことを発表し合いましょう」

    という謎の集会が前に勤めていた会社で行われた。そして年に数回「みんながもっとも多く手を挙げたエピソード」に表彰状と賞金が出る。すごいでしょ?

    さて、菅直人が「原発存続の是非を問う国民投票」をやらなかった理由についてはよくわからない。彼の責任感、能力を考えれば当然やりそうなことだからだ。そして「国民投票」が一度提起されたら、それに理論的に反論するのはなかなか難しい。民主主義は常に正しい。

    ----

    でもってよく知られていることだが、会社という組織においてはこの民主主義というものが機能しない。じゃあ何が機能するのか?

    最近本でよく見かけるのが「集合知」だ。会社の秘蔵データを全てオープンにしてしまい、みんなの提案を募りましょう。これにも成功するパターンとそうでないものがあるようだ。

    しかしこの「集合知」というのは必ずしも「多数決」と重なっていはいない。今朝こんな記事を読んだ。

    ●しかもある集団のパフォーマンスは、その集団のサイズが大きくなるにつれて低下するという。

    ●心理学者エイドリアン・ファーンハムは、「科学的な証拠が示しているのは、ブレインストーミングを使うビジネス業界の人は正気ではない。ということです。才能があってやる気のある人材を抱えていて、彼らに創造性と効率を第一に求めるのなら、彼らを一人で仕事させるように仕向けるべきです」と書いているくらいだ。

    ●「ブレーンストーミング」に効果がない理由は他にもある。エモリー大学のグレゴリー・バーンズによれば、人間は集団の中で別の立場を取ろうとすると、脳の中にある扁桃体が反応し、拒否される恐怖を感じるという。これを彼は「独立の痛み」と読んでいる。

    ●ところがこれを感じない「ブレーンストーミング」がある。それはネットなどを使う「エレクトロニック・ブレーンストーミング」だ。これだと集団は個人のパフォーマンスを越える

    ●インターネットから集団的にすばらしい創造が生まれて来た理由はここにある。なぜならインターネットだと、一人一人が孤独でいるのにもかかわらず、集団で作業できるからだ

    via: 地政学を英国で学んだ : 創造性を上げるには「孤独」になれ

    つまりみんなで考え、みんなで決めてはダメ。しかし個人の考え方をゆるく、かつ多く束ねることには効果がある、ということらしい。ここらへんの違いはかなり微妙なので、よくよく考える必要がある。

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    でもってオープンソースプロジェクトである。私のような人間がうかつなことを言っても多分間違いだろうが、今朝ふとこんなことを考えた。

    オープンソースプロジェクトに参加する熱意はどこから湧いてくるのか。自分が作りたいと思うものを作る、あるいはコミュニティから尊敬の念を受けるとかそういうことらしい。

    でもって今が盛りのソーシャルゲームである。全くやったことはないし、近寄りたくもないが、聴くところによると「ゲームでできた仲間からの尊敬の念を集めるため、金を大量に使う」のだそうな。

    不思議なことだが、この両極端なコミュニティをドライブしているのは両方共「仲間からの尊敬の念」ということにならんだろうか。そうでありながら、なぜこうもやっていることに差が出るのか。

    つまるところ

    「付き合う人は慎重に選びなさい」

    ということなのだろうか。


    スパーボウル雑感

    2012-02-07 07:43

    というわけでスーパーボウルである。ここ数年地下深く沈んでいた49ersだが、今年はちがうぞ!と思った瞬間Giantsにやられた。またか。(1990年の項参照)

    というわけで、結果から目を背けて他のことについて考えよう。今回はじめて試合の様子がインターネット上で動画中継された。

    米テレビ界最大のイベントであるNFL(米プロフットボール・リーグ)王者決定戦「スーパーボウル」がインターネット上で生中継されることになった。

    via: スーパーボウルを初の動画中継 - tv asahi america

    NFL.com経由で数十秒見ることができたが、実に鮮明な画像で少し驚いた。

    This year, for the first time in history, the Super Bowl is being shown online, for free. And it's completely legal. I was going to say "in a brilliant move by the NFL," but this should be default.

    via: First Legal Streaming Super Bowl A Success, But Audience Still Denied The Real Show | TechCrunch

    中継は実際に成功したようだ。(マドンナのハーフタイムショーが中継されないなどいろいろな細かい問題はあったにせよ)もちろん初めての試みだから解決した問題より明らかになった課題のほうが多いのだろうが、それでも「前進」には違いない。

    もはや我が国のTV事情を嘆く段階は通り過ぎ、無関心になりつつある。だから彼らについては何も言うまい。いつの日かSuper Bowl + CMを全世界で視聴できるようにならんだろうかなあ。いや、CMだけでもいいんですけど。

    -----

    さて、遠く離れた国に住むものにとって、Superbowlの楽しみと言えばCMである。とりあえず二つ観た。

    なんというか。。。元気があっていいですね。

    去年世界中に衝撃を与えた(当社評価)VWによるStar Warsシリーズ第2弾。ちょっとまてどこもStar Warsじゃないじゃないか、といったところで最後にちゃんと落が付く。去年のような正統派ではないものの笑える。


    「イチローが子供の頃書いた作文」から何を学ぶか

    2012-02-06 06:45

    こんな文章が流通しているようだ。

    『ぼくの夢』
    愛知県西春日井郡 とよなり小学校
    6年2組      鈴木一郎
    ぼくの夢は一流のプロ野球選手になることです。

    そのためには、中学高校と全国大会に出て活躍しなければなりません。
    活躍できるためには練習が必要です。

    via: イチローの子供の頃書いた作文がIT業界で話題。「目標をイメージできる力が実現力になる。」 | APPGIGA!!(アプギガ)

    これを読んでこんな「驚きと感動の声」が寄せられているのだそうな。

    これを受けたIT業界関係者の声
    「果たして僕は子供の頃にこんな目標をどんなちっちゃな事でも持ててたのだろうか?」
    「若い内から、自分の自信のあるジャンルがわかるエンジニアはやはり強い」
    「数字を常に気にしているのに驚き。こうじゃないと」

    「目標をイメージできる力が実現力になる。」

    via: イチローの子供の頃書いた作文がIT業界で話題。「目標をイメージできる力が実現力になる。」 | APPGIGA!!(アプギガ)

    私はこんなことを考えた。

    野球界というのは、その価値構造が過去数十年全く変化していない。それ故

    「既存の問題をどれだけ上手に解けるか」

    が成果を測る尺度となりうるし、その問題が全く変化しない。だから小学生でも具体的な「将来の夢」を描くことができる。そしてその通り実行すれば世界的なプレーヤーになれる。

    こういう「業界」というのは珍しいのではないかと思う。おそらくこの作文が書かれたのは1985年。日本の製造業が世界一だった頃だ。日本製の家電製品といえば、小型で高性能。世界の憧れ。Appleの期待の星はスティーブジョブスではなく、ジョン・スカリーだった時代だ。

    此頃小学生は自分がなりたいプロ野球選手の姿を具体的に描くことができた。此頃2012年にどのような企業であるべきか具体的に描けた経営者が存在したら教えてほしい。というかそんなことは不可能だ。1985年の野球と2012年の野球はルールがほぼ同一。打者、投手の成果を測る指標にも変化はなく、ただ数字を伸ばしていけばよい。

    1985年の家電業界と2012年の家電業界のルールは全く違う。1985年に使っていた評価尺度でどんな数字を出そうが、今や評価尺度自身が変わってしまっているのだ。

    常にゲームのルールが変化する中で、自分で問題を見つけ、それに解を出していく必要がある。そこが問題だというのに、

    「目標をイメージできる力が原動力になる」

    とか脳天気に言っている場合ではないだろう。

    -------
    解くべき問題が見えており、それに向かって苦しいけれど努力する時期、というものがある。その間はつらいけど幸せな時期だ。なぜなら道が見えているから。

    一番辛いのは「どう努力すればよいかわからない」状況。何かを改善しなくてはいけないと思いつつも、そもそも何をどうすればいいのかわからない。今日本の家電業界が直面しているのはそんな状況だと思う。

    そんな時期だが、家電メーカーの中では朝礼で
    「この文章を紹介します。皆さんもイチローになってください」
    とか課長が言っているのだろうな。


    進捗会議大好き

    2012-02-03 07:06

    先日こんな記事を見つけた。

    中規模以上のプロジェクトではプロジェクトはいくつかのチームに分かれていて、さらにチームごとに担当する会社が異なることもある。ありがちな事だが、チーム別にプロジェクト内の進捗会議を行うようになってくると、これが壮大なムダになっていく。

    via: チーム内でやる進捗会議はムダ - 勘と経験と読経

    これを読んで真っ先に頭に浮かんだのは、「高級人材派遣」(笑)としてNTTデータさまで働かせていただいた時だ。NTTデータの社員が一人。協力会社の社員が10人くらいずらりと取り囲む。ひとりずつ進捗を報告する。ものすごい時間の無駄である。実のところ他グループの進捗を全員がリアルタイムで聞かされる必要はない。しかしこれはNTT文化では間違った最適化なのだろう。

    「多くの労働時間を費やすこと」

    が良い仕事と直結している文化を持つ世界だったからだ。私は4人ぐらいのグループのリーダーを任されていた。途中までは我慢して全員出席していたが、そのうち

    「個人ごとに時間割」

    を作って交代で出席し、その結果をグループ内のミーティングで報告するようにした。出た人間は皆に報告しなければならないから真面目に聞くし、他の人間もうちわのミーティングで気軽に質疑応答できたほうが楽しい。「若者に通じないコンピュータ用語」のネタのいくつかはこのグループ内ミーティングで出たものである。

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    話しを元に戻そう。冒頭の文を書いた人はどのような解決策をとったか?

    以前あるプロジェクトで「歩き回って管理する」ということを試したことがある。PMとして普段からチームメンバーの席を歩き回り、今やっていることを観察する。また構成管理ツールのログを毎日チェックして誰が何の作業をやっているのか把握する。チーム内のドキュメントレビューは共通表紙の文章回覧形式にして、机の上に積み上げるようにすれば、ボトルネックがどこにあるかもすぐわかるようにする。それを観察する。一週間観察した内容をもとに、顧客向けの進捗報告を予想で作成してから、チームリーダーたちに「間違いがないか」「見落としがないか」をチェックしてもらっていた。

    via: チーム内でやる進捗会議はムダ - 勘と経験と読経

    これを読んでいて、ここで行われている方法が、その昔重厚長大産業の会社で聞いた進捗管理方法に少し似ているなと思っておかしくなった。

    その管理方法を説いた人は、その後社長になった人で、「最近の進捗管理方法はなっておらん。俺の頃は」と昔話をしたものである。しかしそれはちゃんと理にかなっていた。チームのメンバーの間を歩きまわり、どんな図面を書いているか見る。図面の点検ルートははっきりしており、点検、認可のどこでボトルネックがあるか物理的に見ることができる。冒頭の記事の人はいわばそれのデジタル版をやっているわけだ。

    両者に共通しているのは空疎な言葉、すわなち

    「そばやの出前」(もうできます。今でます)

    は無駄であると最初から無視し、実際何をやっているかを観察しそれを元に進捗を把握していることだと思う。実事求是ですな。

    そしておそらく、開発している対象は違えど、その次期社長も、冒頭の記事を書いた人もそうした「事実の累積」から進捗を想像できるだけの能力を持った人だったのだろう。

    世代を超えた「有能さ」みたいなものが垣間見えて面白い。そのうち「私が考える有能な人の特徴」などまとめてみようかな。