ビバ!PASMO

2007-03-30 00:00



PASMOなるICカード式の改札通過カード(と言っておく)を使い始めて2日目。とても気に入っている。


どう気にいっているかというと


for(String name : namelist){


//


}


くらい気に入っている。あるいはCocoa-Bindingとか。データソースとかデリゲートとかいらなかったんだ。これでできるんだ。(何のことか分からない人にはごめんなさい)


最初は「切符やカードを通す手間と、カードいり財布をかざす手間じゃあんまり差はないかな」


と思っていた。ところがぎっちょん。そうではない。切符を買うことに付随する


・自分がいきたい駅を見難い路線図ないしは一覧表から探す


・金額を確認し記憶する


・券売機にお金を入れる


・切符を買い、自分がどこにいれたか忘れないようにする


という一連の操作がすべて不要になる。自分がどこに行きたいか。何線に乗ればいいかだけを考えていればいい。この「不要なことが不要になる」喜びは、先ほど挙げた二つのプログラミング上での進歩と相通じるものがある。


じゃあ財布がなくなってなんでもカード(もしくは携帯)だけになればよいか、と言えばこれに関してはまだ慎重だ。ECサイトで「ワンクリック設定」をオンにしないのと同じ理由で。お金を取り出すことが少し面倒なのは結構よいことではないかと思えるのだ。




Adaの思い出

2007-03-26 15:09



第1回 サルでも分かるプログラミング言語の新潮流【前篇】 (1/2)

ITmedia エンタープライズ:第1回 サルでも分かるプログラミング言語の新潮流【前篇】 (1/2)より引用】

ITmedia エンタープライズ:第1回 サルでも分かるプログラミング言語の新潮流【前篇】 (1/2)ITmedia エンタープライズ:第1回 サルでも分かるプログラミング言語の新潮流【前篇】 (1/2)


こういう図は決して万人の意見が一致することはないから、説明のためとは言えこうした図を形にして世の中に出したことにまず敬意を表する。


それでもっていいたいこととは。。


Adaはもう数にもいれてもらえないのだな。。私が会社に入ったときは「これからはAdaだ」という論調もあったのだが。。いやそんなことを言ったらPrologだってこの図には入っていないのだが。。あちらもなかったことになったか。。


改めてこうしてみると、1990年から使われる言語の数というのはずいぶん増えてきているのだな。それだけ様々な目的をもち様々な環境で動作するプログラムが増えた、ということなのだろうか。Webが誕生する前は「サーバーサイド」で動いていたのは巨大なFortranか何かのプログラムだったし。




頭の中に浮かんだ「批判」を鎮める私なりの方法

2007-03-19 07:26



それでもっと悪いのは、ダメな大人の真似をして、自分のことは棚に上げて、人の粗探しばかりする人がいることだ。そうすると利口に見えると思っているかもしれないけど、そんなことしている暇があったら自分で何かやれ。

My Life Between Silicon Valley and Japan - 直感を信じろ、自分を信じろ、好きを貫け、人を褒めろ、人の粗探ししてる暇があったら自分で何かやれ。より引用】

My Life Between Silicon Valley and Japan - 直感を信じろ、自分を信じろ、好きを貫け、人を褒めろ、人の粗探ししてる暇があったら自分で何かやれ。My Life Between Silicon Valley and Japan - 直感を信じろ、自分を信じろ、好きを貫け、人を褒めろ、人の粗探ししてる暇があったら自分で何かやれ。


このブログを読み返したり、あるいはほかの人が読めば、書いてある内容の多くは批判的やNegativeなものであることに気がつく。こうして文章を書き続けていることの目的のひとつは、「自分の阿呆さ加減を思い知る」ことにあるので、そうやって適当な時期に自分の姿(意識的なものだけだけど)を見ることは悪いことではないのだろう。


さて、標題で何を言っているか?


だいぶ前のことになるが、前後3年弱アメリカで生活していた。そして同じ私という人間なのだが、アメリカにいるときと日本にいるときでは、他人に対する「批判」の仕方が異なることに気がついている。


端的に言えば、日本にいると他人のあら捜しをしたくなるのだ。そうした感情がわきあがってくるとき、自問自答する。なぜそう思うのか?


そうするとその根底に「日本人の同族意識」があることに気がつく。同質でなければならない、という脅迫観念ゆえに、少し違った行動に対し必要以上に腹を立てるわけだ。


というわけでそういうときには自分にこう言い聞かせる。


「あの人は○○人だから」


○○のところは日本以外であれば何でもよい。アメリカとかイギリスとか欧米系でもよいし、アジア系でもよい。するとどうだろう。心の中の「批判」がみるみる解消していく。人には人の事情がある。価値判断も違う。それにあれこれ言ってどうする。自分がやりたいことの障害になっていれば、何か対策を考えなくちゃいけないけどね。


少なくとも私の場合にはこれは本当に効く。効いていてこれだけブログにNegativeなことを書き綴るのか、、と思うとまた落ち込んでくるが、それは必要な「落ち込み」に違いない。


でもなあ。いい年だし。残りの年数を数えたほうがいいような年代だし。本当にあれこれ言っているよりゴールに向かってボールをけりこんだほうがいいよ、と自分に言い聞かせよう。




デジタル放送という名の増税

2007-03-13 15:01



「デジタル化することで放送サービスは高度なものになり、デジタル放送は電子情報サービスのインフラにもなる。空いた周波数帯を活用することで、一般視聴者にもメリットが生まれる。こうしたことを説明し、理解してもらいたいと考えている」(安藤氏)

ITmedia +D LifeStyle:2011年7月、地デジを見られない人たちはどうなるより引用】

ITmedia +D LifeStyle:2011年7月、地デジを見られない人たちはどうなるITmedia +D LifeStyle:2011年7月、地デジを見られない人たちはどうなる


いいかげんに「高度になる放送サービス」「電子情報サービスのインフラ」がユーザにとって何がうれしいのか見せてもらえないだろうか?「データ放送は便利」と言葉で説明するのではなく、「これなら金出しても使いたい」というものを見せてほしい。


コンテンツ製作者だけの利益=ユーザにとっての不利益、コピーワンスなる不自由な方式を強制するのだから。


(参照元を忘れたが「地上デジタル放送を録画してDVDで再生するまでの苦労物語」は涙なしには読めなかった)


金を余分に払え。使い勝手は悪くなります。でも法律で決まっていることだからみんな従ってね、なんて話しに誰が乗るか。


また今までわかっている唯一のとりえ「画像がきれいになります」がすべてのユーザが金を払ってまで移行したいと思えるほどのメリットだとしよう。であれば、画像がとても汚いYoutubeは放置していただけませんかねえ。みんな画像がきれいにするために喜んでお金払うんでしょ。じゃあ誰もYoutubeなんてみないよね。