情報と知識と知恵

2011-11-30 07:14

というわけでWISS2011で話す内容をポロポロネタバレしている今日この頃ですが、皆様いかがお過ごしでしょうか。

いや、人前で発言するからにはそれについて調べたり考えたりしなくてはならない。標題の内容についてだ。特に「知識」と「知恵」について。

子供の頃から「正義の味方」の重要性についてはいや、というほど刷り込まれる。地球の危機を救ってくれるのは正義の味方なのだ。そうだ僕も(わたしも)正義の味方になろう!

あるいはそれを「知識」と言えるのかもしれない。しかし「知恵」とはそれを現実の経験からのフィードバックで磨き上げたものではないかと思うのだ。

ではこれを「知恵」に変換するとどうなるか?

「正義の味方は信用できない」

なぜそう言えるのだろう?

糸井さんとはお会いしたことはありませんが、もちろん約30年前から存じ上げています。糸井さんの凄さを感じさせられたのは、福島原発事故後に糸井さんがツイートした言葉です。それを紹介すると――。ぼくは、じぶんが参考にする意見としては、「よりスキャンダラスでないほう」を選びます。

「より脅かしてないほう」を選びます。「より正義を語らないほう」を選びます。「より失礼でないほう」を選びます。そして「よりユーモアのあるほう」を選びます。――以上です。

via: 原発関連情報の取捨選択に役立つ、糸井メソッド - Togetter

もう二つ。

正義を理由に攻撃を繰り返している人たちは、ヒーローではなくて処刑人になりたいのではないかと思う。だから問答無用に打ちのめせる悪人をみつけると嬉しそうに殴りかかる。

via: Twitter / @denkyuu: 正義を理由に攻撃を繰り返している人たちは、ヒーローで ...

正義に目覚めた人間は、あらゆる物事を二元論で捉えるようになり、「敵と見なした者にはいかなる攻撃も許される」と考えるようになり、人の話を聞かなくなり、事実を見なくなり、最後には自分に同意しない人間全てを敵と見なすようになる。あとbio がクソ長くなり、アイコンが本人の顔写真になる

via: わかっていない

最後の引用文には、以下の引用文を付け加えておこう。bioが長くなるのも、顔写真が本になるもの「自己愛」が肥大した結果のように思えるのだ。

また、コールリッジによる有名な格言もある。

最初に真実よりキリスト教を愛する人は、キリスト教より自分の宗派や教会を愛するようになり、最後には何よりも自分を愛するようになる。

(熊とワルツを 付録A)

via: 失敗の本質の一部

こう書いてくると、私は先程の「知恵」を少し修正すべきであることに気がつく。

「正義の味方を名乗る(あるいは自負する)人間は信用できない」


この背景にあるものについて少し考えてみる。

多くの人は常に自尊心の欠如と戦っていると思う。他人からみて理不尽な怒りのほとんどは自尊心の欠如からきているのではないか、と最近では考えている。

そして「正義の味方を名乗る(自負する)」ことというのは、自尊心を手っ取り早く満足させる方法なのではないかと思う。自分は正義。反対するもの、自分の気に入らないものは全て悪。実に単純で明快。そしてこれほど自尊心を満足させる主張はあるまい。しかしこの図式において、彼ら(彼女たち)が目指しているものは「正義の実現」ではなく「自己愛の最大化」であることには注意を払う必要がある。

震災とそれに伴う原発事故以降とてもたくさんの「正義の味方を名乗る(自負する)人」が生まれた。私は彼らが生まれた背景については理解するが、彼らの主張に価値を認めることはできない。

こうした図式は別に「デジタルネイティブ(笑)」に特有のものでも、今日だけの起こったことでもない。おそらくは人間社会あるところ何度も繰り返されてきたことなのだ。

たとえば、最も手近な服装の問題にしても、ゲートルを巻かなければ門から一歩も出られないようなこつけいなことにしてしまつたのは、政府でも官庁でもなく、むしろ国民自身だつたのである。私のような病人は、ついに一度もあの醜い戦闘帽というものを持たずにすんだが、たまに外出するとき、普通のあり合わせの帽子をかぶつて出ると、たちまち国賊を見つけたような憎悪の眼を光らせたのは、だれでもない、親愛なる同胞諸君であつたことを私は忘れられない。

(中略)

そしてたまたま服装をその本来に扱つている人間を見ると、彼らは眉を逆立てて憤慨するか、ないしは、眉を逆立てる演技をして見せることによつて、自分の立場の保鞏(ほきよう)につとめていたのであろう。

via: 「騙された」とか歌って喜んでる斉藤和義と信者はこれ読めよマジで

というのが「知識」と「知恵」の違いと思うのだけど、どうかな。ああ、だんだんネタバレが。


ものづくり大国の幻想

2011-11-29 07:24

二月ほど前、「タブレット端末は、ただのハードメーカーには作れないのがはっきりした」などと新しいことを発見したかのように書いたのは私です。

しかしそんなことは40年前から分かっていたのだった。

つい数十年前まで、日本の製造業においては、デザインなどというものは、ほとんどかえりみられなかった。品質がよければ見かけはどうでもいい、ちおう考え方であった。ところが現在では、その品質ということばの内容が変化しつつある。その製品に付加された情報的価値こそが品質となりつつあるのである。工業の時代においては、ものが動き、それに情報がのっていた。ものが情報を動かしていたのである。いまやそれとはちがった様相を呈し始めている。うごくのは情報である。ものはそれにひきずられている。需要は情報にあり、ものそれ自体は、情報をのせる台にすぎないとさえいえるであろう。

情報の文明学p231 1971-1988

Tabletはもはや「情報をのせる台」にすぎない。この主張が公にされたのは1971年。書籍になったのは1988年である。もう一つ引用。

ところが、工本主義もまた、反動イデオロギー化するおそれがあるということです。工業生産第一主義が、いまや日本の進歩の足をひっぱる可能性がでてきている。もう工業の時代ではかならずしもなくなりつつある。それにもかかわらず工業生産第一でいけば、たいへんまずいことになるのではないか。

情報の文明学p138

実際大変まずいことになっているわけだ。ではどうしよう?

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日本経済が絶好調のころ書かれた本には「なぜ日本はかくも協力か」という要因がたくさん列挙されている。

その中にこんなのがあった。(うろおぼえで書くが)

「日本企業は変革を恐れない。なぜなら日本では変革の結果失敗したとしても、首を切られることがないからだ」

それは確かに真実であったかもしれない。しかし皮肉なことに常に命綱をつけているはずの日本企業で変革が行われず、いつまでも過去の幻想にしがみついているわけだ。

村社会では、首を切られることはないが、皆が死んだ目をしている、、とかなんとか分析は他の人にまかせよう。Front Lineにいるヒラはどうすればいいのだろうね。といったところで以下次号。


WISS2011にむけて

2011-11-28 07:46

というわけでWISS2011のプログラムが、より詳細に公開された。

WISS2011プログラム

何が詳細かと言えば、各発表内容に、写真が一枚つき、かつ著者がどのような議論をしたいか、という記述が追加された。

といわけで今は恒例の

「しくしく泣きながらプレゼン準備」の時期であるわけだ。なぜしくしく泣いているかと言えば、自分が話す内容が面白くなく、かつ底が浅いと思い知るかだ。

しかし今回に限って言えば、「考えたこと」を臆面もなく発表しようと思う。

創刊からこの号あたりまでは、「本当のこと」を書いたら売れないんじゃないかってビビってた。
このコピーによって「私たちの世界じゃない人は、この世界に入ってこなくてもよい」、つまり「私たち」だけの世界を作ることにビビらない決意表明を読者に伝えたかった。
このコンセプトは忘れずに毎号どこかに形を変えて入っている。

via: 『小悪魔ageha』中條寿子編集長が語る 読者に憑依して書く「キャッチコピー力の極意5カ条」とは? « 編集者.jp | あの本を作った編集者の哲学・仕事術

何かを表明する、ということは必ず「それに同意しない人」が生まれることでもある。その事自体を恐れる必要はない。というか過去何回かの発表で知ったのだが、そもそも参加者であっても発表をそれほど聞いてはいない。「アンチ」が生まれるのはそのメッセージがたくさんの人に届いた結果なのだが、それほど多くの人が私が言うことに耳を傾けてくれるわけではない。

そしてこのことからわかるように、実は二次元的な図で顕される繋がりというのは見いだされた「結果」でしかなく、実際の思考(検索)は二次元という枠組みには収まらないものであることがわかるであろう。確定された結果が二次元なのであって、検索を行う空間はもっと高い次元を持っている。

そのため検索(思考)作業そのものは幾何学的に表現することは出きない。ただ単にそれぞれの事柄に付帯するキーワードのリストという形でしか表現できないであろう。それはそれでいいのだ。人間の思考空間そのものを二次元や三次元で表すのは無理なのだ。せいぜいキーワード検索というダイナミックなリンクで抽象的に結びつけるしかない。

via: なぜアイディアプロセッサはアイディアを生み出せないか (その5) : メカAG

おもしろいことだが、プレゼンの準備で内容についてあれこれ考えていると、次々と関連がある情報が目につきだす。人によっては

「このように世界は繋がっているのです!」

と叫ぶのかもしれないが、単に「問題に集中していると関連情報への感度が高まる」と解釈するのが気楽だ。

元となった素朴な疑問を提示しておく。「アイディアプロセッサ」と世の中で称されているものは、アイディアをかきとめ「まとめる」ためのものでしかない。
Evernote活用法!という情報は多いが99%は(というか私が目にしたものは全て)「いかにしてEvernoteに情報を貯めこむか。整理するか」でしかない。そこから何かを生み出すという点にフォーカスしたものは少ない。

というわけでここに大きな空虚(ボイド)があるように思うのだ。逆に人間を現状にしばりつけよう、と努力するシステムはたくさんある。,,,,というところで二つ例をだそうと思ったのだが躊躇した。だって、その方面の仕事をしている人もくるわけだから。

しかし

まあ素直に発言しようとおもうのだ。誰も聞いてないだろうし、聞いたとしても私ごときチンピラサラリーマンの発言にいちいちつっかかる人もいないだろうし。いた場合には、小悪魔アゲハ編集長の言葉を思い出そう。


iPhoneアプリとAndroidアプリの比較

2011-11-25 07:09

よーくよまないと両方共事実に基づいていることがよくわからない。

Androidマーケットが爆発的成長を続けている。調査会社のOvumが発行した最新レポートの予測によると、Androidマーケットプレイスのアプリダウンロード数は、今年中に81億回に達し、対するiOSは60億回だ。今年の総アプリダウンロード数の伸び率は144%に上る。今日(米国時間9/12)、モバイル調査会社、Research2Guidanceが発表したレポートは、現在のAndroidマーケットプレイスの急成長、トレンド、一番儲かっているアプリのカテゴリーなどを分析している。

例によって、Androidマーケットの大半は無料の広告収入型アプリが占めている。しかし、有料アプリはどうなのか、いくら稼いでいるのか、その価値はあるのか?同社の調べによると、8月のカテゴリー別累積収益は300ドルから2万1000ドルにわたり、平均的Androidアプリの公開以来の累積収益は2500ドルだ。これは驚くほどの額ではないものの、決して悪くない。

(中略)

では、アプリストアの伸びはどうなのか。同報告書によると、Androidマーケットはコンテンツの増加に関して、AppleのApp Storeの上を行っている。8月に2万本のアプリが増えたのに対して、AppleのApp Storeの伸びは1万5000本だった。今月初めの時点で、Androidマーケットのアプリ数は27万7252本、有償アプリの比率は35%で平均価格は3.13ドルだった。

via: Androidマーケット、60億ダウンロード間近。一番儲かるのはお天気アプリ

アプリ総数は「爆発的」に増加。ダウンロード数、コンテンツ数の伸びに関してApp Storeを圧倒。有料アプリの収益は平均$2500で悪くない。

これだけ見れば「自由なAndroidバンザイ!」と叫びたくなる。次にこの記事を読もう。

同氏は、アップル、およびAndroid Marketのデータを追跡するAndroLibからそれぞれ公表されているデータを集計。その結果、アプリのダウンロード(DL)回数ではiOSが18,566,331,811回に対し、Android Marketが約6,750,000,000回、また販売金額の比較でもiOSの4,939,611,127ドルに対し、Androidは341,765,335ドルと、いずれも桁違いの差があることがわかったという。なお、ダウンロードされたアプリ全体に占める有料アプリの割合は、iOSが13.5%に対し、Androidが1.3%。さらに、アプリ開発者の手に渡った金額についてもiOSが3,457,727,789ドルに対し、Androidは239,235,734ドルと、売上金額と同様の大きな開きがあるという。

via: iOS、モバイル・アプリ売上でAndroidを圧倒(米アナリスト) - WirelessWire News(ワイヤレスワイヤーニュース)

明らかに矛盾しているのは、アプリのダウンロード回数。こちらの記事ではApp Storeが3倍近いことになっている。

しかし他の点においては「明らかに間違い」と指摘できる点はない。前の記事と明白な矛盾はないのだ。

・アプリの数の伸び:Androidの勝ち
・有料Androidアプリの平均収入:$2500
・アプリの販売総額:App Storeが10倍以上
・アプリ開発者の手に渡った総額:App Storeが10倍以上
・「ダウンロードされた」有料アプリの割合:App Storeが10倍以上
・Androidマーケットに「存在している」有料アプリの割合:35%

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ここで興味深いのは、仮に同じデータを元にしたとしても、選ぶ指標の違いでこれほど印象の異なる記事がかける、ということだ。前者を読めば

「Andoirdバンザイ!」

と叫びたくなるだろうし、後者を読めば

「iOSつおい!」

と叫びたくなる。こういう断片的な記事は、それに付随する形容詞ではなく数値を慎重に当たらなければならない、という認識を新たにする。

とはいえ、そうした「印象語で読者の認識を誘導しよう」という記事にも優劣がある。こんなのは論外。

急速に拡大するタブレット端末市場で、米グーグルの基本ソフト(OS)「アンドロイド」搭載端末の販売台数が、米アップルの「iPad(アイパッド)」に肉薄しつつある。すでにスマートフォン(高機能携帯電話)ではアンドロイド陣営が「iPhone(アイフォーン)」を上回るが、タブレットでもアップルの"牙城"を崩す日は近そうだ。

 (中略)
 調査会社BCNの調べでは、日本エイサーが7月に発売したタブレット端末「ICONIA TAB(アイコニアタブ)」は、同月の機種別シェアでアイパッドを上回って1位を記録した。9月に発売されたソニーの「ソニータブレット」も「計画通りの売り上げ」(同社)と好調という。

 タブレット端末販売台数シェアは8月にアイパッドが6割を切り、10月には56.8%(前年同月は97.5%)となった。BCNの森英二アナリストは「アンドロイド陣営が増え、ラインアップも多様化しているので、相対的にアイパッドのシェアは落ちるだろう」とアンドロイド端末の"逆転"を予測する。

via: アップルの牙城切り崩しへ攻勢 アンドロイド勢、スマホに続きタブレットも (フジサンケイ ビジネスアイ) - Yahoo!ニュース

既にネタと化している「ICONICA TABがiPad2を逆転!」をソースとして使ったり、アナリストの「相対的にシェアは落ちるだろう」というコメントに"逆転"を予測と文章をつないだり。

まあ製品売らないと生きていけないから、いろいろ努力するのは大切だと思う。ソニータブレットも「計画通り」の好調な売れ行きとのことで素晴らしいですね。先日Google Developer Dayに行ったのだが、DocomoとSonyのブースが隣り合って設置されていた。DocomoがデモしていたGalaxy Nexusには列が出来ていたが、Sony タブレットの前には空間だけが存在した。あまりに誰も触らないので、

「これ、触ってもいいですか?」

と聞いてしまったほどだ。


君は青い鳥を探してるんじゃないか?

2011-11-24 07:31

今から15年ほど前、会社の上司から言われた言葉である。

「青い鳥」の探し方は人によって様々だ。この数日間いくつかの文章を目にしたので引用する。

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「夢とは、常にリアルな距離を持つべし」と言いたい。ミュージシャンをやりたい、ゲームクリエイターになりたい、小説家になりたい、などさまざまなハイブリットな夢のために、フリーターを選ぶ若者をみかけるけど、ぼくの経験ではフリーターのどこにもそれらの世界への入り口はないと思える。(稀有な成功例だけみると、フリーターから入ったように見えるけど、それは観測できない膨大な失敗例の中の例外なのだ)。何かを夢を実現したいなら、近い距離になくとも、「リアルに道がつながっている」職業を選ぶべきだと思う。そして、長い時間がかかろうが、腐らずに、虎視眈々と、チャンスを狙っているべきだと思う。どんな「平凡な仕事」にも、魂をこめて臨んでいるべきだと思う。誰がどこで観ているからわからないからだ。人生は意外性に満ちている。不思議な出会いに満ちている。「普通の仕事」をばかにせず、それらのどこかから、夢への扉が開くチャンスを、虎視眈々と狙うべきだと思う。

via: 今年のマイ・イベントが全部終了した。 - hiroyukikojimaの日記

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「自分の限界を知る」という表現に、後ろ向きなニュアンスが漂うのはなぜだろう。そこには、「自分の能力をあきらめている」「努力による成長の可能性を否定している」といった意味を感じるからだろう。みんな、「がんばれば、きっと何とかなる」と信じたいのだ。

でも、がんばっても、無駄なものは無駄であることを知ることこそが、大人というものだ。
(中略)
「やってみなければ、きっと後で後悔する(=やってみれば、失敗しても悔いはないはず)」というのが、若者を駆り立てる殺し文句だが、何のことはない。大人になってみると「やりもしないが後悔もしない」という素晴らしい選択肢が転がっていることに気づく。

「自分にできること」「自分のやりたいこと」を無限の努力によって永遠に追求するのではなく、「他人と競争しても勝てそうにないこと」「自分のできないこと」「自分にとって苦手なこと」を早めに見極めることが、幸せへの近道だったのだ。

via: 自分の限界を「正確に」知れば、自分磨きともサヨウナラできる。 - 雑談の達人

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クリエイティブな仕事をする人は、
誰もがある種の審美眼があるからこの道に踏み込んだのだけれども、

ここに、ギャップがあるのだ

最初の数年、あなたは作品を作り続ける
でもそれはあなたの目からみて、それほど良いとはいえない。
それは良くなりかけの半熟な作品で、
ポテンシャルはあるにしても、残念なことに変わりはない。

でもそもそもあなたがこの道にやってきた審美眼はまだ健在で、
その美的感覚があるからこそ、あなたは自分の作品の仕上がりが許せないのだ。

多くの人はここを乗り越えられない。彼らはやめてしまう。

via: 誰かが教えてくれればよかったのにと思う、クリエイティブな壁を越えるためのたった一つの方法 | Lifehacking.jp

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生きてく、ということは常に矛盾に満ちている。(いや、そもそもそれが合理的だなどと仮定すること自体間違っているのだが)

私なりに引用した文章をまとめると

  1. 自分の限界について現実的に見極める必要がある。まず実現しそうにない夢をおっても幸せにはならない。
  2. 仮に自分が成功しそうな夢を追いかけたとしても、最初は絶対にうまくいかない。なぜならその分野において、あなたは「良いクリエイター」であるよりさらに「良い批評家」だから。
  3. しかしそこで諦めてはいけない。現実的に自分の可能性を評価し、夢の実現の可能性が少しでも高い方にかけ、負け続けても試合を投げてはいけない。


現実をありのままに受け入れ、それに適応していく柔軟さと、それに決して満足しない理想を合わせ持たなくてはならない。これは無茶である。矛盾である。しかしそうでなければ成功の見込みはない、ということになる。

こうした矛盾はストックデールの逆説にも通じるところがあるかもしれん。絶対ここ(捕虜収容所)からでる、という信念と、簡単に出られるなんてことはない、という現実の把握と。

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となると、「努力すれば自分に達成可能なこと」と「いくら努力しても無駄なこと」を見極めることが必要になるのだが、それはどうしたらわかるのだろうか?

今ぼんやりと思っているのは

「その人が、暇なとき、誰に頼まれたのでもないのにやっていること」

は「努力すれば自分に達成可能なこと」の候補になりうる、ということだ。しかしこれとて確かな事は言えない。自分だけのノートにポエムを書き連ねている人は私が思っているよりたくさんいることだろう。(前総理などは、国際舞台でそれを堂々と朗読した)

しかし彼と彼女たちが詩人になれるかと言えばそういうわけでもない。せめて「商業的には成功しないが、読者を得ることができる詩人」になれるかといえば、そういうわけにもいかにない(参考:困惑させる人)結局それをしることが「知恵」というものではないか、と抽象的な結論を投げて今日は終わりにするのである。


先行する者を追う者

2011-11-22 07:35

というわけでいきなり引用から。

「おもしろい!」と思わせる研究計画書

・先行研究が丁寧にレビューしてあること
・先行研究の問題点を端的に指摘できていること
・問題を解決するための「新しい」アイデアが述べられていること
・「新しい」アイデアに応用可能性や広がりがあること

via: ylab 山内研究室::Blog

この文章を書いた人にとって「おもしろい!」とは既に先行研究が存在している問題領域に対して、解決のための新しいアイディアを提供することらしい。

誰もが気がつかなかった。あるいは気がついていても研究の対象としなかった「新しい問題」を取り上げ、それに対して解決策を提案することは「おもしろい!」の範疇には入らないのだろう。

独創性、という言葉もある。しかし研究業界の「独創性」というのは少し定義が異なっているようだ。

①世界あるいは日本国内で,第1人者あるいはそれに並ぶ高い評価を受けている研究であること.[中略]

②自分が樹立した系統(株),あるいは自分が見つけた疾患(患者)などを有し,それを多くの人が使ったり,引用したりされている場合.

③自分が開発した研究技術,解析手法などを駆使する研究.

④多くの研究者が注目している分野で,自分の研究の位置づけと意義を明確に示すことができ,しかも具体的な研究計画が示されている場合.

⑤全く新しい技術,方法を強い説得力で提案する研究.

via: 若手研究者に求められる「独創性」とは - 生駒日記

4番を見よう。すでに多くの研究者が注目している、すなわち問題としている「問題として確立している」ことが必須条件なわけだ。What の部分は定義済みで、それに対して新しいHowを提案することが「独創的」というわけだな。

どんな業界にもルールがあり、その業界にいる限りにおいてはそれを尊重する必要がある。しかしどんな「業界」であっても多様性があるのが興味深いところだ。

WISSというワークショップの査読者をやらせてもらった。今年担当させてもらった論文のうち3っつは

「先行研究なし」

というものだった(ちょっと誇張して書いてます)だから引用した人たちの価値観からすれば

「おもしろい!」

とはいえず

「独創的」

ともいえない研究ということになる。しかし私はその3っつの論文に巡りあえた事を査読の神様に感謝した。新しい、思っても見なかった問題領域に「そんな解決方法があったか」という提案を見ることほど面白いことはない。

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というわけで(結局宣伝なのだが)WISS2011が12/1-3まで開催されます。物理的に参加するのは定員一杯になってますが、UStream, ニコニコ生放送で是非ご覧下さい。「議論に値しない」という評価をもらいながらも、私もこっそり発表しますが、その時間帯は昼食にいくなり、昼寝するなりして有効に活用いただければと思います。

人によって価値観は本当に様々ですが、見ていただく方にとっても「おわっ」と思える発表があってほしい、と願っています。


ウルトラマン

2011-11-21 07:50

昨日偶然からこのような文章を見つけた。

私はモノをつけたスーパーヒーローは作りたくなかった。眼鏡、マント等は一切身につけず、どんどんモノを減らして、単純化の極致がこのスーパーヒーローだと思い始めた。顔はヘルメットをかぶっているのか、顔そのものが、鋼の様に固いのか、身体も、銀の肌なのか、宇宙服を着ているのか、どちらとも判らないものにしようと思った。

via: 成田亨さんの仕事

そう思って考えなおしてみれば、あのウルトラマンというのは実に変わった姿をしている。そもそも裸なのか、衣服をきているのか。顔は仮面のようであり、硬質。しかし他の部分は柔らかい。その境界はどこにあるのか、ないのか。

そのような設計(design)の裏側にこのような哲学があったというのは初めて知った。

一旦ウルトラマンができてしまえば、その形態はどこまでも変形していく。コスモスだなんちゃらだと続かせるのも大変だろうが、


「最初の形態」

を生み出すのに必要な力はどれほどのものだろう。そんなことをふと考える。

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同じように考えると、仮面ライダーというのは絶滅寸前の恐竜のような状態だな。あの複雑さ。そこには単純で美しく、強い、という思想は微塵も見つけることができない。

若い人たちがいうように、私以後によい怪獣が生まれていないとしたらそのデザイナーたちは、怪獣の中で怪獣を考えようとするからかも知れません。アメリカのある怪獣みたいなとか、あの怪獣的なとかの考え方から絶対に新しいデザインは生まれません。新しいデザインは必ず単純な形をしています。人間は考えることができなくなると、モノを複雑にして惰落(ママ)していくのです。

via: 成田亨さんの仕事

底の浅い「専門家」というのはまさに「怪獣の中で怪獣を考えようとする」人たちだ。ガラケーの中でガラケーを考える。そうした迷走の行き着く先はだいたいいつの時代も決まっている。

「出遅れた国内メーカーが挽回するのは難しい。われわれはもはや死に体ですよ」。ある国内メーカーの関係者は、そう首を振る。ジリ貧が続いてきた国内端末業界にとどめを刺すスマホの荒波。業界内に、さらなる再編の足音が近づいている

via: iPhone4Sがとどめ、国内携帯端末メーカーの最終章(4) | 産業・業界 | 投資・経済・ビジネスの東洋経済オンライン

思うに「複雑化」というのは「言い訳」であり「合意形成」の手段なのだな。その点からなぜ邦画にろくなものが存在せず、日本製の電気製品(の一部)がみる影もなく凋落したかについて共通する要素がある、と思うので以下次号。


ネットの蛸壺化に逆らうために

2011-11-18 08:15

嘘を嘘と見抜ける人でないとネットを使うのは難しい、というのはひろゆき氏の名言である。次に引用する言葉もそれと同じ意味を持っているのだろう。

アウトプットは量多い方がいい。フィルタは各自がやればいい。この原則わかんない奴はインターネット合わないと思う。

via: Twitter / @marco11: アウトプットは量多い方がいい。フィルタは各自がやれば ...

これは事実かもしれないが、好ましいかといえばそれには賛成しかねる。アウトプットは深く考えずに、とにかくまきちらす。それを受け取るかどうかは各自の勝手。私が危惧しているのは、このような環境では蛸壺が量産されるのではないか、ということだ。

人には驚くほど多様な意見がある。実生活で合う人でもいろいろな意見を持っている。しかしそれを公にすることはそれほど多く無い。

しかしネット上であれば、それに正のフィードバックがかかるのだ。ほとんどどんなタイプの意見においても。それが「フィルタは各自がやればいい」という言葉の意味だ。

その結果どうなるか?どんな意見でも「みんなそう言っている」と言い張ることができる。そして自らの「信念」に対する自信を深める。

それがネットというものだ、と主張する人もいるだろう。しかし私はこちらの意見のほうにより強く共感する。

情報の「層」化が進行し、私たちはいま「情報の階層化」のフェーズに入っている。
それは端的に言えば「質の良い情報にアクセスできる階層」と「質の悪い情報にしかアクセスできない階層」の分極化である。
だが、問題はそれが「状態」ではなく、「プロセス」だということである。
「質の良い情報」というのは物性のことではない。
そうではなくて、自分の発信する情報が「情報環境全域」の中でどこに位置づけられ、どう機能しているかを「マッピング」できるということである。
「私はこのことを言うことによって『何を言いたいのか』」を言える情報は良質な情報である。
「質の悪い情報」はその逆のもののことである。
それが送受信される文脈、その歴史的機能などについて自省する機制を含まない情報は「質の悪い情報」である。

via: ネット上の発言の劣化について (内田樹の研究室)

この「質の分化」が最も極端に見られるのがTwitterではないかと思っている。ネット上にはいろいろな言論コミュニティが存在する。そしてどんな人も自分が落ち着くコミュニティを見つけるのだろう。私の中では2ch,はてな村が上位にあり、下層にあるのはYahoo掲示板、最下層にあるのがTwitterだ。

なぜTwitterでそのような現象が見られるのかについては興味深い考察が可能と思うが、今日書きたいのはそれではない。

マスメディアの「マップ機能」が著しく減退したからである。
マスメディアのマップ機能が低下すると、私たちは自分の知っている情報の価値を過大評価するようになる。

via: ネット上の発言の劣化について (内田樹の研究室)

Twitterに閉じこもっている限りにおいて、皆が心地良いと感じる。なぜなら自分と意見の合う人の意見しか目に入らないように出来るからだ。

私はTwitterを横断する「マップ」を作るサービスがあるべきだと思っている。ヒントになるのは最近ちょっと話題になった以下の記事。

 Twitter(別名デマッター)でネットジャーナリストを釣る方法。やってみないでください。

via: 愛・蔵太のもう少し調べて書きたい日記

ここには、現在Twitter上でどのようにデマが広がるかが書かれている。このような構造を視覚化できれば、

「この発言をしている人は、Twitterスペクトラムの中でどこに位置づけられるか」

が明白になるのではなかろうか。
真偽を確かめず容易にRTする人。そうした人をFollowしている人。「拡散希望」を瞬時に拡散させる人。そうした構造をたどっていけば、TwitterアカウントごとのMappingができるとおもうのだ。

そしてその情報をオープンにして誰でもアクセスできるようにする。現在蛸壺化しているコミュニティを一つの軸で並べるのだ。すると自分がどのような行動をしているか、というフィードバックになるのではなかろうか。

なんならAPI公開して、Twitterクライアントに組み込めるようにする。個人毎にフィルタリングに使ってもらってもいいし、マーケティングにも使えるだろう。マネタイズの道も見えると思う。

もちろん文句を言われることもあるだろうが、そこはGoogle先生のロジックを使って

「アルゴリズムで計算していることです」

と言えばよろしい。サービスをこえた名寄せを試みれば、ネットを介した「その人」についての情報を集約することになる。

どうです?誰かやりません?(と最後は他力モードで逃げる)


情報産業とは何か

2011-11-17 07:16

昨日こんな文章をみつけてひっくりかえりそうになった。

人間は体験情報をもとめている。さきほどのオートバイや自動車もこの体験情報を人間に提供するための手段であると考えるならば、自動車産業もまた情報産業の一種であるといわざるをえないであろう。じっっさい、現代の自動車産業には、かなりの程度にそういう側面があることは否定出来ない。それは単にA地点からB地点まで人間を移動させるためのエネルギー装置であるというにとどまらない。人間は、移動のためと同時に、そののりごこちをたのしんでいるのである。

情報の文明学 p82

この文章が書かれたのは多分1980年代である。しかしいわんとしていることは「ユーザエクスペリエンス」そのものだ。この後日本はバブル景気にうかれ、ぽこん、とやられそして「モノづくり」に幻想をいだいたりあれこれしている。

しかし

ここ数年「なぜAppleの製品は優れているのか」が論じられる時、必ず顔を出す「ユーザエクスペリエンス」はとっくの昔に主張されていた。日本の製造業はそれが何かを理解しようと(無駄な)努力を続けている。


どちらも移動できるというのが、キーポイントな気がします。

via: 【賞金100万】デンソー、クルマのアプリコンテスト審査員に聞く! どんなアプリ作ってほしいですか? : ギズモード・ジャパン

このコンテストを象徴的に表しているのは以下の一文。

なお、審査において、いずれの応募作品もグランプリにふさわしいレベルに達していなかったと判断されたため、グランプリの授賞は見送りました。

via: デンソー、スマートフォン用アプリの開発コンテストの入賞作品の発表と表彰式を開催|デンソー

なぜグランプリが存在しないか?そもそもデンソーはスマートフォンアプリ「なんか」に価値を認めていないからだ。「グランプリにふさわしいレベル」とは何か彼ら自身も説明できないと思う。つまりそんなものは存在しないのだ。

彼らと彼女たちは未だに「自動車産業も情報産業である」という言葉の意味が分かっていない。ハードウェアを作り、それを納品してお金をもらう。そこから一歩も抜け出していない。

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私が梅棹 忠夫氏のことを知ったのは最近だが、読み進めるにつれて何度も顎が外れそうになる。こうして長年書籍が出版され続けているということは多くの人が読んだのだろう。しかしなぜ誰も彼の言葉を理解し、実践しようとしなかったのか?

Amazonのレビューから引用しよう。

読み進めながら、何故これまで読まなかったのかと後悔する。
40年前に書かれた論文でありながら、現代の状況をこれほど的確に
明察していることには、驚く他、言葉が見あたらない。

via: Amazon.co.jp: 情報の文明学 (中公文庫): 梅棹 忠夫: 本

私も全く同感である。


創造性よりも自宅で売れ

2011-11-16 07:25

iPhoneが発表された後、いろいろな予想が飛び交った(発表前にも予想は飛び交っていたが)
私はApple原理主義者なので、そのなかで「外れた」予想を読むと多少痛快に思うところがある。しかしよくよく読めばもっと多くのことを学べるのではないか。

例えばこの言葉。(2008年6月に記事になったもの)

 「iPhoneは形状もビジネスモデルも違う。既存の携帯電話とは棲み分けが起こり、『もう1台持とう』というようになるだろう」――NEC執行役員でモバイルターミナル事業本部長の山崎耕司氏は、アップルのiPhoneが日本市場に与える影響について、このように予想する。

 山崎氏から見ると、iPhoneは大きく2つの点でNECなど既存のメーカーが提供する携帯電話端末と異なる。1つはタッチパネル式の、両手が必要な操作性。そしてもう1つが、通信事業者が利用者の通信料の一部をアップルに支払うというビジネスモデルだ。

 タッチパネル式はさまざまな操作を可能にする一方で、片手で端末を持ちながら操作するのは難しい。電車の中で荷物を片手で持ちながらケータイをいじる、といった使い方がiPhoneでは難しいというわけだ。

 もう1つが通信料を携帯電話事業者とアップルが分け合うビジネスモデルだ。

中略

 山崎氏は「われわれは収益を分け合うモデルは考えていない」とiPhoneモデルに移行することには否定的で、iPhoneがNECと直接競合するような存在になるとは考えていない。

 iPhoneの弱点として、山崎氏がもっとも注目しているのが電池の持ち時間だ。(中略)かつてNTTドコモのFOMAがなかなか普及しなかった原因の1つが電池の持ち時間にあったことを考えると、iPhoneが乗り越えるべき課題となりそうだ。

via: 「iPhoneと携帯電話は棲み分ける」--NEC幹部 - CNET Japan

見事な論証である。そしてその背後にあるロジックは多くの場合正しい。

「今成功しているモデルと違うモデルを提案している。今成功しているモデルがすたるとは思わない。だから併存する」

「今ユーザが使っている機能を実現できない(片手で操作、電池の持続時間)だから今使われている機種を置き換えることにはならない」

起こったことを見れば、現実のほうがはるかに「非合理で非論理的」である。日本のユーザがこぞって歓迎していた、ワンセグ、おサイフケータイを搭載しないグロスマばかりが売れているのだ。電池が持たず、片手では操作できないスマートフォンばかりが。

なぜこんなことが起こるのだろう?いくつか理由をあげてみよう。

「今ある物がよく売れている」というのは「今売れているものが最適解である」と等値ではない。文字にすると当たり前だが、現実世界でこのロジックを押し通すのは難しい。だって、売れてるんだよ。なんで変えるの?

「今ある物」と「今ある物より劣る点と優れている点がある物」をユーザは比べることができない。それらを並べて提示されたとき、ユーザがどちらを選ぶかはそれが形になるまでわからない。

だからこうも言える。「今売れている物」をいくら分析しても無駄だ、ということだ。ガラケーがたどった運命を見てみれば良い。世界でも最先端のiモード、フルブラウザ、おサイフケータイにワンセグ。そして日本独自の絵文字文化。これらが日本のケータイが成功している理由ですと自画自賛している間に船は沈没していった。

もう一つあげよう。

日本独自のサービスが動作しないため、中高生を刺激出来ない電車の中を見てみたり、あるいはアルバイト先の塾で中学生~高校生が携帯電話をどんなことに使っているか見てみると、「メール」「ウェブ」「モバゲー」「ワンセグ」が主だったりする。で、iPhoneはそのどの機能に関しても、日本の携帯電話より貧弱、もしくは搭載していない。

中略

フルブラウザやYouTubeなどの諸機能は、そこまで魅力的ではない実際問題フルブラウザはあまり利用されていなかったりする。というのも、携帯電話はすでに携帯サイトという一つの文化圏を形成しており、わざわざPCサイトブラウザを利用してPC向けサイトを見る必要がないくらいすでにそれらは充実しているからである。

中略

個人的には、iPhoneはMacbook Airと同じく、初期はマニア・ファンが殺到し入手困難となるが、需要が緩和すると今度は余りまくるみたいな展開になる予感がしてならない。いやーなんというか、iPhoneって恋愛と同じで、要素要素にばらしてみるとそこまで強く購入を刺激するところってあんまりないんだよね。

Thirのノートより。原文は削除済み?

おそらくこの論証も「今売れているものが最適解である」罠にはまっている。携帯サイトは素晴らしい文化圏だよ。モバゲー、ワンセグ、みんな使ってるよ。

しかし

言いたいことは彼らが「間違っていた」ということではない。彼らの論証は全く正しいということだ。仮に組織内で議論をしたとして、私は彼らの論証を否定できる気がしない。そして結局のところ「今ある特徴を持った上で、ちょっと機能を追加&改善した」物を作り上げるだろう。ではどしたらいいか?

たとえば、「失敗する理由が見あたらない企画」を誰かが思いついて提案したとする。
しかし、失敗する理由が見あたらないということは、他社も失敗しないだろうと考えるということだから、結局競合が多くなるし、パクられやすくなるので、それ自体が失敗する確率を高めてしまう。

ビジネスにおいては、むしろ「説得力のある失敗する理由があるために、みな手を出さなかったのだけど、それをあえてやったサービスが成功した」ということはたくさんある。

このように、『「失敗する説得力のある理由」が指摘できるものほど成功しやすい側面がある』という複雑なゲーム構造をしているために、単純に「失敗する説得力のある理由を指摘できる」というだけで、そのプランの是非を簡単に判断できないところが、ビジネスの奥深さだ

via: できない理由を指摘する人よりできる方法を考える人が成功する理由 - fromdusktildawnの雑記帳

上記文章からもう一つ引用しよう。

この、プラン実行後の計画の「走りながらの修正」がキモなのだ。
ビジネスにおいては、
アイデア、戦略、計画などで重要なのは、「それ自体が正しいか間違っているか」ではなく、
それを実行した後、「走りながらの修正を繰り返した結果、成功するかどうか」だ。

via: できない理由を指摘する人よりできる方法を考える人が成功する理由 - fromdusktildawnの雑記帳

iPodの歴史は実に興味深い。最初はMac専用だった。インタフェースもFireWireだった。そのうちWindowsにもiTunesがのった。インタフェースはUSBに変わった。ハードディスク非搭載のnanoがでた。Shuffleもでた。Jobsが最初に「ボーナス」といっていた動画機能は必須になった。

iPodの成功とはまさに「走りながらの修正」を加えた結果ではないのか。そしてiPodがでたとき

「こんなもの売れるわけがない」

という論証はこれまた実に「正しかった」のだ。

今成功している要素をあえて否定する。その代わりに「圧倒的な」魅力を備えた製品を作る。最初売れなくても、次々に修正していく。こうした態度こそが

ビジネスにおいては、むしろ「説得力のある失敗する理由があるために、みな手を出さなかったのだけど、それをあえてやったサービスが成功した」ということはたくさんある。

このように、『「失敗する説得力のある理由」が指摘できるものほど成功しやすい側面がある』という複雑なゲーム構造をしているために、単純に「失敗する説得力のある理由を指摘できる」というだけで、そのプランの是非を簡単に判断できないところが、ビジネスの奥深さだ。

via: できない理由を指摘する人よりできる方法を考える人が成功する理由 - fromdusktildawnの雑記帳

ということなのだと思う。

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ちなみに上記で引用した文章では

ある程度歳をとってみて、周りを見渡してみると、
風通しの良いまっとうな会社では、
おもしろい仕事と良い年収を得ている人たちに、
「まっさきに、できない理由を指摘するタイプ」
ってほとんどいない。

おもしろい仕事と良い年収を得てる人たちの多くは、
「まずは、できる方法を考えてみるタイプ」の人だ。

若い頃、あんなに圧倒的に正しかった
「まっさきに、できない理由を指摘する人たち」は
結局どうなったかというと、
歳をとっても会社では下っ端のままで、
つまらない仕事ばかりをやらされ、
軽んじられてる。

via: できない理由を指摘する人よりできる方法を考える人が成功する理由 - fromdusktildawnの雑記帳

とあるのだが.....


製品開発における「ユーザニーズ」の捉え方

2011-11-15 07:36

というわけでEvernoteに溜め込んだ情報をめくってみるわけだ。すると「製品開発におけるユーザニーズの捉え方」についていくつかの考え方があることに気がつく。

まずはこんな考え方。

成功したスタートアップの多くは創業者自身の問題を解決しようとして始められたのだという話を前にした。あるいはこんな法則があるのかもしれない。問題をいかに良く理解しているかに比例して富は得られるものであり、そして人が一番良く理解している問題というのは、自分自身の問題なのだ。

via: スタートアップを殺す18の誤り

これは一番単純、かつうまくいけば強力だ。「自分がほしい物を作る」というやり方。ユーザニーズは自分に聞いてみれば良い。スティーブジョブスが行うフォーカスグループとは、彼の大脳の左半分と右半分の会話である、と誰かが書いていた。Appleは一般言われているフォーカスグループは使わない。彼ら自身が「最高」と思える製品を作る。この考え方の延長線上にあるのだと思う。

しかしいつもこのような製品があるわけではない。

もちろん自分以外のユーザのためのものを作ることはできる。私たちはそうした。しかし危険な領域に足を踏み入れているということを自覚している必要がある。それは実質的には計器飛行しているようなものなのだ。だから、(a) いつものように自分の直感に頼れるとは思わずに意識的にやり方を変え、(b) その計器をよく見る必要がある。

via: スタートアップを殺す18の誤り

自分は使わないが、これを使うユーザがいるだろう、という想定の元に物を作るやり方。この場合もちろんなんらかの想定(もちろんその際グループインタビューをしてもかまわない)からスタートするのだが、コンスタントにフィードバックを受けることが必要だ。具体例を挙げよう。

東証一部上場企業の中でいま最も成長著しいのがソーシャルゲームの二大巨頭だ。しかも海外進出やら、球団買収やらで連日のようにその名前を聞く機会がある。もちろん世間の評価としては賛否両論あるが、どちらかの就職説明会に参加したとおぼわしき人物が、「就活の説明会にて」と題して次のような書き込みを行っている。

 @super_naomixさんが紹介した。

 「▼▼の説明員『この中でわが社のゲームをやったことがある方はいますか?』誰も手を挙げず説明員『そうですよねー。うちのゲームは高学歴の方はほとんどやりませんから』」

via: 【きょうの名言】うちのゲームは高学歴の方はやりません | YUCASEE MEDIA(ゆかしメディア) | 最上級を刺激する総合情報サイト | 1

モバゲー内にあるソーシャルゲームの多くは、イベントのルールをユーザーの反応を見ながらより「ユーザーが楽しめる」方向に何度もチューニングを行っている。これまではアクセス状況などを見てああでもない、こうでもないと試行錯誤を繰り返し、どういうイベントの作りがいいのかをつかんできた。データマイニングを活用して分析が高度化していくことで、おおざっぱな数値指標だけでなく、詳細な因果関係を把握しながら、仮説検証を繰り返せるようになる。

via: 2100万会員モバゲータウンはデータマイニングの宝の山/Tech総研

自分では絶対に使わないサービスを成功させるためには、このような「データマイニングで宝の山を掘り当てる」ことが必要になる(著者は一つ目の引用が真偽さだからぬものであることを承知しています。しかし誰も「まさかあの会社がそんなことを言う訳はない」とはいわんわな)

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ここまでは成功例である。次はよくある失敗例。

危険なのは、何気ないユーザの一言を真に受けてしまうことや、一担当者の意見が必要以上にものごとをおおげさにしてしまうような現象である。 これを防ぐには、デザイナーが正しいとはどういうことなのかを判断しなければならない。依頼主や消費者から矛盾する指摘を叩きつけられたときにはひるむことなくこれは正しい判断であると突っぱねられるような強い意志がなければならない。 そうでないとできあがったときに、いろいろな要素は取り入れたけれども、整合性はないといった結末になりかねない。

ソーシャル・イノベーション・デザイン p237

作る側のマインドが貧しいと、消費者に合わせるあらゆるものを揃えたと言って、迎合するようになる。携帯電話が象徴的で、いまはインタラクションの意味を履き違えて、壁紙を豊富に揃えるなどして本質を見失い、サブカルチャーの部分だけが発展している状況にある。これは日本の文化の偏った部分であり、コマーシャルとしてのデザイン活用に過ぎない。デザインとして機能していないに等しい。


ソーシャル・イノベーション・デザイン p238

ユーザーニーズに応えましたよ、と形だけ整え、現実には思考を放棄している。いや、私もサラリーマンですから「担当者のご意見」を聞かないとどうなるかは知っているんですけどね。

上記の例+「ユーザにほしい物を聞く」という他にも必敗パターンとして「機能・性能で他社をうわまわる」というやつがある。

オサイフないから買わない
防水ないから買わない
ワンセグないから買わない
着うたないから買わない
もっと色んな機能が欲しい

みんなこう言う
だからメーカーもそれに答えようとしてきた
ユーザビリティを蔑ろにしてでも

でも売れてるのはiPhone
消費者は適当なことばかりいうが
本当に自分の欲しい物が分かってる人間なんてそういない
本当に必要な物は何か、これを真剣に考えているメーカーが今日本にあるだろうか

via: 暇人\(^o^)/速報 : 日本のメーカーだって本気出せば「iPhone」を超えるスマホ出せると思うねん - ライブドアブログ

これは「機能性能を伸ばすこと=ユーザニーズに応えること」が成立する幸せな時期においてのみ成立する。イノベーションのジレンマで言えば、機能・性能の直線がユーザーニーズを追い越すまでの間だ。

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最後は議論の遡上にも登らない「スローガン」

新ドコモ宣言として掲げるビジョンは以下の4つだ。

  1. ブランドを磨きなおし、お客さまとの絆を深めます。
  2. お客さまの声をしっかり受け止め、その期待を上回る会社に変わります。

via: 「手のひらに、明日をのせて」──ドコモ、赤い新ロゴで"新ドコモ宣言" - ITmedia +D モバイル

コンサルタントに高い金払えば誰でもできるから、「確実性」ということではNo.1だ。しかし実効性とは相関がない。


下品な観点から憂鬱でそういう飾り立てる

2011-11-14 08:03

いきなり引用。

私は贅沢が大好きです。贅沢とは、お金を持っていることや、けばけばしく飾り立てる事ではなく、下品でない事を言うのです。下品こそ、もっともみにくい言葉です。私はこれと戦う仕事をしています。 贅沢とは居心地がよくなることです。そうでなければ贅沢ではありません。

ココ・シャネルの言葉である。シャネルというブランドに縁がない私も(そういえば昔シャネルの指輪などプレンゼントしたことがあったなあ。。)ココ・シャネルという人の生きざまには興味を抱かざるを得ない。

ここでのキーワードは「下品」だ。「下品」で探すとこんな言葉が出てくる。

モバゲーやグリーって、トップも開発者も「いいものを作ろう、提供しよう」ではなく「こうやれば稼げるよね」っていう主旨のものが目立つような。その時点で下品というか下衆な考えというか、好きになれんわ。

via: はてなブックマーク - 痛いニュース(ノ∀`) : モバゲー開発者 「客に月10万使わせるゲームを悪く言うのはおかしい、趣味に月10万使うなんて普通」 - ライブドアブログ

下品な金儲けが信条のDeNAとGREE。一見エリートを気取ったDeNAのほうにより強い嫌悪感を感じるが、下品な点では両者とも甲乙付けがたい。

しかし私は所詮このようなブログでぶつぶつ言っているに過ぎない。だからこそ「下品と戦うことを仕事にしている」と言い切るココ・シャネルの姿勢に共感を覚えるわけだが、感心ばかりしている場合ではない、という気もする。

目先の情報で人間をふりまわし、「下品」な時間を金の使い方を促すことは金儲けにつながる。DeNAとGREEはそれを実証した。それと戦うにはどうしたらいいだろうか?

私は数日前に驚くべきことを悟った。時間の問題も、お金とよく似ているのだ。時間を失う最も危険な方法は、娯楽に費やすことではなく、偽の仕事に費やすことなのだ。時間を娯楽に費やしているときは、自分が遊んでいるとわかっている。アラームが「さっさとやめろ」と鳴りはじめるだろう。ある朝に目覚め、ソファーに座って一日中テレビを見ていたら、すごくマズいと思うだろう。そう考えただけで怖くなる。

via: らいおんの隠れ家 : ポール・グレアム「時間とお金をなくすには」 - livedoor Blog(ブログ)

ポール・グレアムのように、自分が「娯楽に時間と金を費やしてしまった」ことに自ら気がつく人間であれば話は簡単だ。(いや、簡単とは言わないがやりようがあるように思う)しかし現実はそうではない。TOKIOの漫画化されたキャラクターに「をを、これはすごい。是非手に入れなくては」(実はよく知らん)と思う人はおそらくは万を超える単位で存在するのだ。

「下品でない道にも同じくらい(あるいはもっと)楽しいことがある」

ということを示す。そうしたことが必要なのだろうか。


組み込みFlashの運命

2011-11-10 06:47

私が以前勤めていた会社では組み込み向けにGUI構築のミドルウェアを扱っていた。以前も書いたが

「必要最小セットを見切った」

UIEngineである。プログラムを書く立場としては最後まで好きになれなかったが、そのポータビリティと必要リソースが少ないことに関しては、今でも胸をはって主張できる。

さて、そうやって売り込みに行くと「●●と比べてどうなの?」という話をよく聞く。そこでときどき話題にのぼるのがFlashだ。

しかし「誰がFlashを競合として持ち出すか」ということを見ていると興味深い点があった。「次に使うミドルウェアを決めなくては」と切羽詰まっている人はFlashを挙げない。逆に「まず製品の比較を慎重に行って」とかのんきなことを言っている人は

「Flashとの定量的な比較がほしい」

とか悠長なことを言っている。
つまるところ分かっている人は「Flashは組み込み機器上ではまともに動かない」事を知っていたのだと思う。そして本日とうとうそれがOfficialになった。

アドビはここ数年、 Android や RIM の PlayBook 向けに提供してきたモバイルブラウザ向け Flash の開発終了を発表しました。モバイル向けでは近く発表される予定の Flash Player 11.1 が最後のバージョンとなり、あとはバグフィックスやセキュリティ・アップデートの提供だけが行われる計画です。

via: 正式発表:アドビ、モバイルブラウザ向け Flash の開発を終了。HTML5へ注力 -- Engadget Japanese

iPhone上でFlashが動かないと聞いたとき、最初は落胆した。しかしそれにはそれだけの理由があったのだと今なら理解できる。iOSが動作を拒否したのがこの原因、というのは正しくない。だってAndroidは圧倒的なシェアを誇っており、その上ではFlash動くんだよね。

これまで3年あまりも、モバイルFlashはもうすぐ出る、もうじき完成する、と言い続けていたのだから、これはおかしい。やっと2010年6月にAndroid用が出たが、完成にはほど遠かった。もっとあっさり言えば、ひでぇものだった。

via: Steveの哄笑が聞こえる-Adobeがモバイルデバイス用のFlashを断念

どういう風にひどいものだったのか実例を挙げよう、、、と引用しようと思ったら、元の記事がなぜか表示されないではないか。例えばこうだ。Galaxy Tab上で720pの動画を再生させる。HTML5で再生すると100%のフレームが再生される。ところがFlash上では8%しか再生されない。つまりは「カクカク」ということだ。引用元

Action Scriptって書く立場からすればそう悪くない選択肢だったけどな。(iOSの方が好きだけどね)しかしHTML5+JavaScriptが制覇する世界というのは、書く立場からすれば悪夢のようなものだ。

というわけで、私はしばらくiOSの中でほれほれしていよう。



柴崎先輩に捧ぐ

2011-11-09 06:37

ネットなど徘徊していると、時々遠い昔の知り合いの名前を見つけることがある。しかしこれには少し驚いた。

さっきのコンビニ弁当米飯。ベクレル入りだった気がする。昨日の日替わり定食の焼きそばに入っていたシイタケと同じ感覚がする。シイタケは気付いて一切れだけ食べたところで中止し、ティッシュに包んで残した。胃腸付近が軽い炎症を起こしたような独特の体感。口に含んだ段階でパワーテストで判別可能

via: Twitter / @rshibasaki: さっきのコンビニ弁当米飯。ベクレル入りだった気がする ...

何に驚いたといって、これがネタとして話題になっていることに驚いた。まず同姓同名の人ではないと思って書くが、私が大学時代空手のサークルをやっていたときの先輩である。当時から「なかなか就職口がない」と言っていたが、ちゃんと学業で身を立てていらっしゃるようで安心しました。

私は某所にこう書いた。

柴崎先輩。御元気そうでなによりです。もう30年近くお会いしてませんが全くお変わりも進歩もありませんね。昔通りの先輩で懐かしい限りです。

これは皮肉でもなんでもなく心からそう思ったままを書いた。私が所属していた空手サークルはかなりエキセントリックなところだった。そのエキセントリックな教義に表から染まる人間もいれば、それのいいところをとりつつ、自分なりの道を進もうとしている人もいた。柴崎先輩は後者に当たる。

とはいて柴崎先輩は先輩なりにエキセントリックだった。このTweetを読んで

「かわらないなあ」

と思った。それは懐かしさと親愛の情がまじった感覚だ。

しかし

こうしてTweetだけが取り上げられると、

「大学の教員が何を馬鹿なことをいっている」

と思うのだろうな。しかしふと考えれば、自分も含め回りの人間もかなり「そこだけ切り取ればネタになるくらい」のエキセントリックさを持っていると思うのだ。顔を付き合わえて暮らしていれば、そうしたエキセントリックさにはまあ目をつぶり、楽しく愉快に暮らしていける。

ネットだけを介した人の付き合いというのは、こうしたところが怖いところだ。


出る杭を打つのは日本独自の伝統芸と思っていますか?

2011-11-04 07:06

さて、今日も遠くSeatleから強力な電波を発信し続けるLife is beautifulである。

やっかいなのは、この拒絶反応には「首謀者」がいないこと。裏から操る一人の黒幕がいるのであれば、その人さえ排除できればなんとかなるのだが、リーダーシップを持つ人物を徹底的に嫌うDNAがまるでキラーT細胞のように日本の政治家、官僚、マスコミ、経済界の中にはびこっているので、誰かがリーダーシップを発揮しようとしたとたんに徹底的に叩かれるのだ.

via: Life is beautiful: 「秩序の維持」のために「出る杭」は徹底的に叩く日本

このような論調は多い。自分が好きな人が非難されれば「これは日本の悪いところだ。出る杭をうつから、新しい産業が生まれない」とかなんとか。「自分の好きな人」に否があるって?全ての情報は操作されている。実に汚い陰謀だ。(そもそも自分の好きな人が表舞台に立てたことは、情報操作の結果ではないよ、もちろん)

先日サウスウエスト航空がアメリカで生まれたときの話を読んだ。


「一つの事件で、向こうは12人から15人の弁護士をそろえていたのに、こちらはハーブ一人だったんですよ」とパレットは言う。「よってたかってハーブを、もう起き上がれそうもないほどにたたきのめしました」(中略)

「私の理想主義に対するいわれない侮辱だった」とケレハーは言う。「自分の理想の実現を阻まれたまま手をこまねいていたら、米国という国は私の理想とは全く異質の国になってしまうのだ。我が国の仕組みは相手にわれわれを不当に攻撃する機会を与えるし、しかもそれはなかなか改まらない。だが、その仕組によって不正が正されたことも忘れてはならない」

サウスウエスト航空が起業したとたん、既存の航空会社からの訴訟の嵐に直面した。

TACが満場一致でサウスウエスト航空の申請を受理し、認可を与えることを決定した翌日、ブラニフ航空、トランス・テキサス航空コンチネンタル航空の三社は、このささやかな第一歩に最初の一撃を浴びせてきた。-TACがサウスウエスト航空に飛行許可証を発行することを禁じる一方的緊急差し止め命令を入手したのである(中略)

裁判の結果でた判決は、ダラス、ヒューストン、サンアントニオの航空需要は既存の航空会社で十二分に満たされており、新たな航空会社の参入を許す余地はない、というものだった。

破天荒 p31-32


何度も繰り返された訴訟、下院議員の反対。これが「出る杭は打たれる」行為で無くてなんであろう。ビジネスの成功事例では「常連」とも言える、サウスウエスト航空は、こうした「生みの戦い」を勝ち抜いて生まれることができたのだ。

先日スティーブ・ジョブスがなくなり、多くの人が彼のユニークな経営方法について知ったと思う。しかしまだまだアメリカには強烈な経営者がたくさんいる。Amazon, AMD,サウスウエスト航空もそのひとつ。あるいは、ビジョナリー・カンパニーで主張されているように

「本当に優れたCEOは名前の知られていない人だ」

ということもできる。
これに比べると我が国のCEOはどことなく情けない。いや、もちろん私が知らないだけで強烈な人、面白い人はたくさんいると思うのだけど。


人は一つでもいいところがあれば

2011-11-02 06:38

「人は一つでもいいところがあれば良しとしなければならない。」

何かの本で読んだ言葉だが、年をとるとこれを実感することが多い。
何度かこのブログでも引用したことがある宋文洲氏だが、「子どもが勝手にiTUnesで有料製品を購入したのはジョブスのせいだ」とお怒りのようです。

店に抗議する気にもなりません。この手のサイトはいくらでもあります。しかし、「クローズした安全性」を売り物にしたジョブズの宣伝がなければ、私はそんなに簡単に騙されることはありませんでした。

「終了のためにスタートボタンを押す。」ジョブズは且つてこのようにWindowsを嘲笑いました。「無料のためにクレジット情報を聞く。」これは私のお返しです。

via: ジョブズの傲慢: 宋文洲のメルマガの読者広場

金曜日10時の電車の中で演説をぶっているオヤジの言葉と同じ。言葉の表面には意味がないが、探して面白い記事につきあたった。

自らが過大評価されていることを認める、その謙虚さに好感を持ちました。同時に宋氏は、単純に成功した経営者をカリスマとして評価することにも疑問を投げかけています。私もカリスマが増殖しすぎて、本来の意味を失いつつあるように思います。

via: 宋文洲氏はカリスマ創業者を否定し、スティーブ・ジョブズ氏は超越する: 実践ビジネス発想法

宗氏が今何をやっているのか今ひとつわからないのだが、「コンサルタントや評論家」とのこと。死ぬまでCEOであり、新しい物を作り続けたジョブスの何かが彼の神経に触ったのだろう。

宗氏の言葉には、コメント欄にもあるこの言葉を向けるだけで十分だ。

気持ちはわからないでもないですが、ジョブスが傲慢かどうかと貴方の子供がiTunesで買い物をしたことに因果関係はありませんよ。単にお子さんがiTunesで浪費しただけの事でしょう。

via: ジョブズの傲慢: 宋文洲のメルマガの読者広場

とはいえ、いい人なのだが妙なところで怒り出す人は実生活でもよく見かける。そうしたところが可愛いと思わないでもない。(自分の上司でない限りは)

上記記事のコメント欄を読むと、宗氏を「カリスマ」として崇める人がうじゃうじゃ存在していることを知るのがまた味わい深い。宗氏は本当に自分がカリスマとして崇められることを否定しているのだろうか?

(追記)
宗氏は一生懸命「ジョブスは何も発明していない」と述べている。

「私は巨人の肩で遊んでいる子供。」偉大なニュートンが言ったように、どんな発明も人類のさまざまな文明蓄積、社会のさまざまなバックアップ環境の下で生まれるのです。ジョブズがやり遂げたことは個性があっても発明はないはずです。

via: 宋文洲のメルマガの読者広場

ジョブスの妹も同じ意見のようだ。そうすると宗氏は何を批判しているんだろうねえ。

スティーブにとって最高の価値は、新規性ではなく、美しさでした。

via: 妹からスティーブ・ジョブスへの弔辞