音楽会議4にいってきたよ

2009-05-31 08:06

というわけで音楽会議4に行ってきた。

受付で自分の名前を言うと、マスクと百式飴がもらえる。マスク?と思ったがちょっと前までインフルエンザで大騒ぎなのだった。理論的に考えればこの時期何かの集会を開くといえばマスクというは理解できるが、着用しよとは夢にも思わない。

席につくとしばし待つ。ここからの正式な進行は、多分他の方が詳細にレポートすると思うので、私は私が感じ、考えたことだけを書く。

ヤマハの半導体事業部の方が、問題提起をする。携帯電話にはものすごいシンセサイザー(チップ)が搭載されている。今はこれを着メロにしか使っていないのだが、もっと使い道はないだろうか?

そこからいろいろなデモが始まる。携帯電話を楽器にして、いろいろな音楽を奏でるというやつだ。最初に演奏されたはガッチャマンのテーマ。いや、私はこれを聞いて歓喜なのだけど、会場を埋め尽くした"平成そだち"の方々わかるのだろうか。

この



"選曲が古い"



という言葉はこの後何度も私の頭の中を駆け巡ることになる。

それからいろいろな"楽器"のデモが行われる。さすが楽器メーカーの作品だけあり、テンポのずれがほとんどない。作ってみればわかるが"ほにゃーん"と作れると入力と音の時間差が耐えきれないほど大きくなる。そこは完全にクリアしているようだ。

最後にデモをしてくれた人総出で"天国への階段"-Stairway to Heavenを演奏する。いや、名演奏だと思うのだよ。でもこれも"古い"のではなかろうか。同じ70年代ロックをやるなら、Highway starでソロを弾きまくるとか、、いやそれは本題ではない。

そのあと休憩時間をはさみ、アイディア出しの時間になる。ここでは私のアイディアを記憶+改変で記述しておく。

昨今ネット上でのコミュニケーションは異常な発達をみせた。しかし結局のところそれは個々人が書いた言葉でコミュニケーションしているにすぎない。

人と人とのコミュニケーションとはそうしたものであろうか?その人が語る言葉だけがその人だろうか?そんなことはない。

というわけで、

まずその人の生活パターン(ここは自分で作る訳ではないので、思いっきり簡単にできることにしておく)を携帯で把握し、そこからメロディーを作る。

規則正しい人、不規則な人、携帯の電池切れをよく起こす人、メールをしょっちゅううっている人、誰からもメールが来ない人

それぞれに応じたメロディを作るのだ。ここが難しいところでこのメロディには以下の性質が必要となる。




次に通りすがりの人とこのメロディをシェアできるようにする。どっかのZuneのようだが、似ているのは仕組みだけだ。

ライラの冒険、という映画では人間はみな自分の分身となる動物、ダイモンをつれているという設定だった。この仕組みにより携帯は自分のダイモンとなるのだ。

例えば近寄りがたい、ちょっと冷たいと感じている人のダイモンを聞き、それがとても暖かく平和なメロディだったことを知りちょっと驚くなんてことがあるかもしれない。

あるいは(それこそ音楽会議のように)知らないもの同士が集まった時、自分のメロディと同じメロディを発見して会話のきっかけとできるかもしれない。

あるいは道路にでているカフェにすわって、ただ道を通る人のメロディに耳を傾ける、ということも楽しいかもしれない。巣鴨と青山ではそりゃ流れるメロディが違うだろう。


人間というのは、自分を知ってもらいたいという希望と、拒絶されるのではないかという恐怖の間で常に揺れ動いている存在だ、とどこかで読んだような気がする。

この"ダイモン"は抽象化されてはいるが、波長が合う人にはわかる"音楽"という形をとることにより、現実世界での人間同士のコミュニケーションを豊かにするものだ。



という事を紙に書いたのだが、グループ内では全くうけなかった。当然だ。メタボ対策のほうが面白いもんね。

グループの結論がまとまったところで、私は途中退席。主たる理由は燃料切れだが、もう一つ理由がある。これに関しては、Yamahaのアプローチに対する意見とまとめて明日書く。

まともなレポートはこのページからたどることができる。


映画評:天使と悪魔

2009-05-29 05:04

このまま遠いどこかへー、と思ったときは本家から転載。

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ダ・ヴィンチ・コードの 続編。前作ほど原作は物議を醸し出さなかったようだが、CERNで実際に働いている人が、小説の"正誤表"をWebで書いていたのは知っている。結論から 言えば

"あんなに大量に反物質を作ることができたら苦労せんわ"

である。だから安心して観れば良い。

教皇が崩御した。次の人は誰にしましょうか。さて、部屋に閉じこもって決定されるまで根比べ。といったところで謎の文字がバチカンに届 く。はて、これはいったいなんだろうか、と思っているうち後継者として有力な枢機卿が4人誘拐される。をを、これはイルミナティの仕業か。それではトム・ハ ンクスを呼びましょう。

そこから謎解きが始まるのだが、時間は5時間しかない。一時間ごとに枢機卿が一人ずつ殺されていく。最後には反物質がどかんだ。かような構成なので無駄な エピソードがはいる余地はなく、緊張感が途切れない。

とはいえあまり感動するわけでもない。きっと小説なら時間がたつのを忘れるほど面白いんだろうなあとぼんやり考える。途中やたらと"あ やしげな屈強な男"のカットが挟まれていたがあれはなんだったのだろう。

次の教皇が決まるまでの間、事務の権利を委譲されたのがユアン・マクレガー。一見おとなしそうでありながら、どこか危うげな雰囲気をか もしだして熱演ではある。この人年とっても容貌がかわらないなあ。

最後に結論がでて、"犯人"の行動を振り返ってみればそれが結構な離れ業であり、奇想天外な陰謀であったことがわかる。身を投げた芸で あるからして、成功させてやってもいいではないか、などと考えるのは私がカトリク教徒でないからなのだろうな。

でもなあ、あの"空"をバックにゆらゆら落 ちてくるところは、まじめなキリスト教徒が見たら激怒したり、、しないのかな。小説には決してなしえない映画ならではの名シーンだと思うが。

どこも心には響かないが、退屈しなかったのは確かだし、前回に比べるととってもがんばりました、ということでそこそこご機嫌になって映画館を後にした。犯人がなぜあのよ うな行動に至ったかを丁寧に書く事ができれば、あるいは心に響いたかもしれないが、映画ではそれだけで一本になっちゃうからね。(小説では丁寧に描写されているらしいが)

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カトリック教徒は全世界に10億人いるそうだが、今の世界人口ってその何倍なのだろう。黙示録がどうのこうのという映画をみるたび

"世界中に宗教いくつあると思ってんだ"

と文句を言う私だが、この映画にはそうした要素はない。あくまでもカトリックの中の内輪もめである。

イエスという男が実際にどんな人間だったのかはほとんどわからない。今あるイエス像というのは、組織にとって合理的なフィクションなのだが、それを尊重する人間がいるのは確か。であれば、そうした行動を映画にしたっていいわけだ。


生物の多様性について

2009-05-28 07:15

子供のおともで水族館にいく。すると、陸にいる生物を見たときよりもその多様性に驚かされる。

適者生存という言葉をなんとなく知ったような気になっている。じゃあ適していればそれだけが生き残るのか、といえばそんなことはない。

タツノオトシゴを見るたびに思うのだ。いったいこのぴろぴろした姿に何の意味があるというのか。なぜこの生物は今日も生きながらえ、かつそこそこ繁栄しているのか、と。

先日ある記事をみつけた。なんでも垂直にのびる海藻が茂っているエリアでは、あの"縦型"の姿、泳ぎ方が生存性を高める結果につながったと。ううむ。そうか。しかしあの表面についたでこぼこになにか意味があるのか。

いや

ここで考えるべきは、環境というのは我々が思っているよりはるかに多様であり、したがって"適者"あるいは"適する方法"も多岐にわたっているということなのだ。ともすれば人間様はこのことを忘れやすい。その時その時にやれ勝ち組だのなんだのと単一の生存条件しかなく、それに適したものだけが勝者という物の見方をしがちだ。

タツノオトシゴとクジラの幸せを比べることなどできない。であれば、人間世界という限られた条件下であっても、きっとタツノオトシゴとクジラくらい異なる"適者"がいていいはずなのだ。

などと水族館で考える。あとマンボウだ。あれも私にとっては謎だがマンボウにとってはそんなことどうでもいいことなのだろうな。


歴史を学ぼう

2009-05-27 06:55

私が日本史と呼ばれるものについて、どうやった学んだかといえばその8割くらいは"学習漫画"によるものである。

小さい頃普通の漫画は買ってくれなかったが学習漫画ならOKというルールになっていた。というわけで歴史から科学から基礎はみんな漫画で学んだ。

それから月日は流れ幾星霜。今は自分の子供に何を読ませるか考える時期になっている。ドラえもんがついた学習漫画が気に入ったようなので古本屋であれこれ買った。

その中に"日本の歴史を上下巻で学ぼう"というものがあった。

読んでみると確かに主要なイベントは網羅されており、かつ主要な人物の名前も出てくる。しかしこの本を読んで歴史に興味を持ってもらえるものかと不安になる。

たとえば南北朝の争いで、足利尊氏が関東から挙兵し、京都でけっとばされ、九州に行きそこから巻き返して京都に戻るくだりはたった一コマで示されている。確かに知っている人がみればこの通りだと思うけど、これを書いて誰に何を読ませようとしているのか。

もちろん編集者を責めるのは正統な行為ではない。そもそも薄い漫画2冊で日本史を全部カバーしようというのが間違いなのだ。そこにあった人々の物語、どのような顔をしていたのか、は教科書的な事実の羅列からは浮かび上がらない。

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隣の国に目をやれば、人気のある物語で取り上げられる時代は、やたらと詳しい人が多くなる。ベルサイユのバラがはやったころは女子生徒がやたらフランス革命について詳しかったそうだし、三国志の時代になれば、ちょっとした軍師でさえ名前を知られている。

しかしその前後の時代については誰も興味を持たない。歴史の教科書でさえ五胡十六国ということでひと言でまとめていたように思う。実際魏だのなんだの同じような名前の国がたくさんあって覚えにくいことこの上ないが、そこにはやはり興味深い物語があったように思うのだ。

塩野七生氏言うところの"大人の歴史の勉強"ができる年齢になったことはやはりありがたく思う。時間に追われることなく、自分が興味をもった分野、時代について調べればよい。こうした大人の勉強のために、高校までの世界史、日本史がどの程度意味を持っていたのかはよくわからない。もちろん下地にはなったと思うのだが。


電車の中で見るiPhone

2009-05-22 07:09

電車の中でiPhoneを使っている人を本当によくみかけるようになった。

iPhoneが発表された直後"エキスパート"の方からいろいろなコメントをもらった。

UIの研究者からは"タッチパネルで文字入力ができなことは実証されている"といわれ

物知りな准教授からは"こんな機能の端末はもう存在しているけど誰も言及しないのはなぜだろう(僕は知ってるよ)"と言われ

デザイナーからは"そんなにすごいですか?"といわれ

気がつけばケータイでもタッチパネル搭載機種の増えたこと。

"とにかくiPhoneみたいのを作れ"

といわれ、無理無理のせたんだろうなあ、、と後ろにいる開発陣の努力に涙を禁じえないようなものがほとんどだが。そういえば、電車の中で(iPhone以外で)タッチパネル使っている人ってみたことないな。

そして今や"App Store"が花盛りである

米Sun Microsystemsのジョナサン・シュワルツ社長兼CEOは5月20日、JavaおよびJavaFXで開発したアプリケーションを販売するオンラインストアの計画を自身のブログで明らかにした。

via: JavaOneで詳細を発表:Sun、Javaアプリのオンラインストア「Java Store」発表 - ITmedia News

こうした結果をみれば、あの日Jobsのプレゼンを見て呆然とした私の直観は(この件に限っていえば)間違っていなかったような気がする。

iPhoneは携帯電話というものを変えた、巨大なインパクトを与えたことは疑いようがない。

こうしたプロジェクトに一つでも関わることができたらLuckyだ、というJobsの言葉は今でも頭の中を回り続ける。本当にそれはLuckyなことであり、めったにあることではない。

今日はオチはありません。


Wolfram|Alphaを試して気がついたこと

2009-05-21 07:13

●●キラーとか●●のライバルとかいう表現はよくつかわれる。しかしiPodキラーと周囲が勝手に騒いだRollyが似ても似つかないものだったことからもわかるとおり、そうした表現は本体とかなりずれていることも多い。

そういった意味ではWolfram|Alphaもそのたぐいだ

まず、Wolfram|AlphaはWebを検索しない。Wolframが維持し、絶えず更新しているナレッジデータベースを検索する。それにWolfram|Alphaの使い道はGoogleのような検索エンジンとは異なる。だが、Wolfram|Alphaの見た目が検索サイトに似ているために誤解してしまう人がいるのだろう。

via: Wolfram|Alphaは「Googleキラー」ではない - ITmedia アンカーデスク

というわけで、Wolfram|Alphaに自分の名前を英語で入力しても何もでてこない(私の場合は、少なくとも)質問を考えなければならないのだ。

なぜこんなことをわざわざ書くかといえば、

質問を考えるのって結構面倒



ということを実感したからだ。

Googleが登場して以来というもの、頭の中でちゃんと質問を組み立て無くなった。とりあえず断片的なキーワードを入力して結果を見る。すると(驚くほど多くの場合)自分が明文化していなかった質問に対する答えが見つかる。

つまり頭の中で明文化する、という作業がGoogle+Web情報とのインタラクションに置き換わっているように思うのだ。"人口知能"などというものはなく、"知能"とは人間と周囲の情報のインタラクションに他ならな無い、といまでっち上げた信条を持つ私としては、この発見を喜びたい気持ちにもなる。

しかし裏を返せば自分の頭が退化してきているのではなかろうか、という気もする。どちらが正解かはわからない。


ビットの濁流

2009-05-20 06:54

twitterが流行っていることは聞いている。自分もちょっとだけ顔を出してみたが、特に書いてはいない。

ビットの泥沼から距離を置くことは最近心がけていることの一つである。しかしこの記事を読む限りビットの濁流という表現のほうが的確なようだ。

インターネットが再びその姿を変えつつある。情報が、従来のように既存のWebページからではなく、最近はますます、リアルタイムのストリームの形で配布され提示されるようになっている。

via: Webは「静的ページ」から「リアルタイムストリーム」に変貌, 飛び込んで流れを加速せよ

起こっていることは確かにこの方向なのだろう。しかしそれは好ましいことなのか?この記事のそこかしこからは"バスに乗り遅れるな"という声が聞こえるようだが、私の意見では"バスに乗り遅れるな"といわれて飛び乗ると絶対ろくな目に合わない。

問題は、これまでよりもずっと規模の大きい、情報の過剰だ。この洪水に溺れないようにするためには、どうしたらいいのか? Borthwickは、ストリームを管理できるという考えを捨てろと言う。自分の友だちのつぶやき、自分自身のアップデート、自分のブログ記事、Flickrにアップした写真、YouTubeで見つけたビデオ等々、そういった個人的な情報でも、これからはストリームの大渦に飲まれてWeb全域へ広がっていく。

via: Webは「静的ページ」から「リアルタイムストリーム」に変貌, 飛び込んで流れを加速せよ

死ぬわけじゃないから、とりあえず飛び込んでみろ、というのはまあ一つの考えではある。制御不能は、インターネットが普及してから明らかになった特質の一つだ。それが今や極大化しつつある、ということなのだろうか。

私自身はそこから距離を置くつもりでいる。しかし世の中はどうなっていくのだろう。皆がビットの濁流にひたりながら、思考を停止しただ流れていくのだろうか。


コンサルタントという職業

2009-05-19 07:02

若いころ何度かコンサルティングファームの面接を受けた。不合格になったから今の仕事をしているわけだが、じゃあ合格していたらコンサルタントになっていたか、と言われればたぶん違う、と答える。

仕事でもコンサルタントと付き合ったことはある。多いのはこういうタイプの人だ。

記事には、それ以外に、「相手のハッタリを見抜く」という囲みがある。どういうときに、相手を優秀だと勘違いしてしまいがちか、という例として
1.外向的な人
2.批判的な人
3.自分の得意な分野について語っている人
が挙げられている。これ、コンサルタントの3つの得意技、とも言えます。

via: On Off and Beyond: コンサルタント:頭が良いフリをする方法

この記事を書いた人は、こういうスタイルで飯を食っているのだろうな。それ自体は尊重すべきことだ。

ちなみにこのカテゴリーにあてはめ、私の友達が以前勤めていた会社の社長を評価してみよう。彼の愚痴から拾っているので多少情報が偏っているかもしれないが

外交的な人:ものすごくよくしゃべりますよ。2時間でも3時間でも。何を言っているか全然わかりませんが、とにかくしゃべる時間はすばらしい。

批判的な人:自分がやったこと、自分にしっぽをふる人間以外は全部ゴミ。彼が残した名言は"前任者が採用した人間は役立たずばかりだ。俺が採用した人間はみんな優秀だろう"です。

自分の得意分野について語る:何をはなしていても、3分後には自分の過去の自慢話になっています。

いや、もちろん元の記事はこの社長をほめたたえているわけではない。たとえば一項目目にはこんな記述もある。

とにかくたくさん話す。必殺「質より量」である。あれこれあれこれ弾丸のように話している中に、相手の琴線に触れるものがあれば、
「おお、この人は良いことを言う」
と思ってもらえる。それ以外は、話したこと全部を覚えていられないくらい、とにかく滝の流れのように話す。さすれば相手は、「良いこと」と思った一点しか覚えていない。

via: On Off and Beyond: コンサルタント:頭が良いフリをする方法

この人に仕事を頼む人はこう考えるのだろうねえ。。私は"良いこと"の一点より無駄にされた時間の方を気にする人だからこのコンサルに絶対仕事は頼まないが。

いや、私は"しゃべりまくるコンサルのスタイル"を非難しているわけではない。コンサルはいわば合コンで初めて会った女性と同じような立場にあると思う。何が相手の琴線に触れるかわからないのだ。であれば、できる限り手数を多くしてそれを探らなければならない。

そうした理由の結果として口数が多くなるならわかるけどね。

などと考えている人間はやっぱりコンサルタントに不向きということなのだろうな。


誰もが通る道-適応型UIへの期待と限界

2009-05-18 07:28

誰もが考えることだと思うのだよね。"状況に合わせたメニューを出せばとっても便利!"と。

というわけでこのようなものが発表されるわけだ。

人の行動はある程度パターン化されており、携帯電話に搭載されたGPSやFeliCaなどのセンサー類を利用してデータを取り、それを解析することで「ユーザーの状況をある程度、判断できる」(説明員)という。エイチアイでは、このセンサーデータの解析技術と、時間や状況に応じて変わるユーザーニーズを解析する技術を組み合わせたUIを開発。その成果をブースで展示している。

via: ESEC:ユーザーの行動を"先読み"してメニュー表示――エイチアイが提案するケータイUI - ITmedia プロフェッショナル モバイル

なぜこうしたシステムが"デモはされるけど、さっぱり実用化されないか"書いてみる。

人間の行動が"ある程度パターン化されている"のは正しい。しかし問題はすべて決まっているわけではない、ということだ。

確かにいつも朝出勤時に見るサイトは決まっている、、かもしれないがそうではないかもしれない。毎日ニュースを見る人もいれば、疲れた時には仏像を眺めたい人だっているかもしれない。あるいは通勤時いきなりトイレにかけこんでいるかもしれない。



問題は

1)センサーデータからユーザの状態を正確に知ることはできない。世の中にそうした類の研究は山ほどあるが、未だ一つとしてロクにユーザ状態を推定できるものを見たことがない。


2)仮にユーザ状態が推定できたとしよう。ユーザ状態に応じてメニューが変化する適応型インタフェースは、外れたときに"あれ、いつもメニューはどこに行ったんだ?"という戸惑いを産むということだ。つまり外れたときのコストが大きい。なまじシステムが"気を利かせる"ものだから人間は返って鬱陶しく感じる。

少し前からMicrosoft Officeを使っていた人ならば、"ユーザがよく使う"短縮型のメニューがあったことを覚えているだろうか。あれは実に不評だった。最初は便利な気がするのだが、そのうち必ず"たまにしかないメニュー"を使う羽目になる。あれこれ探し、メニューを伸ばしそのままにする。結局のところフルのメニューを最初から出しておいたのと同じことになる。

CHIではこうした分野の研究は山ほど発表され、ほぼ決着がついていた、、と思うのだが未だにこうしたシステムの発表は後を絶たない。というかそうした先行研究を調べ、それを克服する方法を開発した、というのなら話は別だが、ビデオを見る限り"誰もが思いつくことをやってみました"というものにしか見えない。

エイチアイは開発中のUIに、キャラクターがユーザーの代わりに操作を行ったり、キャラクターを通じてサービスや機能をレコメンドする仕組みを実装する計画だ。「まずは見た目をかっこよくすることでUIに興味を持ってもらい、その次にキャラクターを表示して(UIを搭載した)デバイスへの関心を引きつける。キャラクターには感情や知能があり、ユーザーの行動を判断して的確な情報をレコメンドする」(説明員)

via: ESEC:ユーザーの行動を"先読み"してメニュー表示――エイチアイが提案するケータイUI - ITmedia プロフェッショナル モバイル

"キャラクターには感情や知能があり"ってそんなに簡単に言える神経がうらやましい。無知であることは、簡単に幸せになる一つの方法。私から見れば実に馬鹿げた話だが、それに金を出す、という人間がいる限り、どんな研究でも存続しうるんだもんねえ。


映画評:グラン トリノ-Gran Torino

2009-05-15 07:18

スラムドッグ$をこちらに転載するのを忘れた気がするけど気にしない。読みたい方は本家をどうぞ。というわけで疲れた金曜日は本家から転載。

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グラントリノとは、フォードが70年代に作った車。今や経営危機にあるフォードだが、かつてはビッグスリーと呼ばれ(今でも呼ばれてはいるが)この世の春を謳歌し、アメリカの男があこがれる車を生産していたのだ。
主 人公たるクリント・イーストウッドはフォードで車を50年作り今は引退。かつては自動車会社の社員が住んでいた輝かしいエリアもすっかり荒れ果て、住んで いるのはアジア人やら黒人やらヒスパニックやら。アジア人の若者が白昼道路を歩いているとヒスパニックのギャングに絡まれる。それを助けに同族のギャングが近寄ってくる。 ヒスパニックが拳銃を出すと、アジア系のギャングはサブマシンガンを出す。これが今のDetroit(治安の悪いエリア)の現実だ。

イーストウッドは朝鮮戦争での体験に苦しみ続けている。それゆえ家族とも良好な関係を築くことができない。彼の息子たち及び家族はミリオンダラー・ベイビーにでてくるようなゴミではない。普通の家族なのだが、イーストウッドはGRRRRと唸り声をあげるにはいられない。

彼 の隣にはいつしかアジア人-モン族が住み始める。そこにギャングがちょっかいを出してくる。イーストウッドは愛用のM-1ガーランドを取り出しギャングを追い払う。 それは隣の家族を助けようとしたためではなく、あくまでも自分の家の芝生から出て行け、と言いたかったがため。しかしその行動故彼は近隣モン族からヒー ロー扱いされるようになる。

隣の家に住んでいるは父親のいない家族。子供は二人。姉は美人でもセクシーでもないがとてつもなくチャーミングだ。差別用語全開で悪態を つくイーストウッドにずけずけと近寄っていき、自分の家でのパーティーに招待する。弟は頭が切れるが道を見失っており、学校にもいかずギャング 団に入りそうになる。そこに父親の姿としてイーストウッドが登場する。気のしれた仲間同士で悪態をつきあい、汗をかいて働き、そして愛用の車を磨きビール を飲む。それは失われつつある、とだれもが思うような古き良き男の姿だ。

イーストウッドはさすがに老けた。この映画では一種エイリアンのような顔を見せる。落ちくぼんだくぼみの下に、黒い眼が光っている。しかしその表情が一瞬だけ緩む場面がある。地下室から冷蔵庫をひっぱりあげようとするが自分一人ではできず、隣に助けを求めに行く場面だ。

そ のようなイベントを通じモン族とイーストウッドの交流が始まる。それは、"今どきの成功するアメリカ人"からはみ出してはいるが、それぞれに自分たちのアイデ ンティティを大切に保っている者同士の語らいとも見える。しかしギャングはしつこくちょっかいを出し続ける。隣の姉弟がチャーミングに見えていただけ に彼女と彼を襲う運命には痛みを感じる。

そこでイーストウッドがとった行動は。マカロニウェスタンで、ダーティーハリーとして拳銃を撃ちまくっていた男がとった行動とは。この映画でイーストウッドは何度か拳銃、ライフルをかまえる。しかし一発も撃たないのだ。

エンドクレジットが流れたとき、自分が泣いていることにびっくりした。映画館をでて歩きながら"イーストウッドかっこいいな"と思う。映画のいくつかのシーンが頭をよぎり、そしてまた涙ぐみそうになる。

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この映画は低予算で作られたと思うが、見ると"ずどーん"とくる。そしてその"ずどーん"が何なのか自分でもうまく説明できない。

有る人が"われわれは、イーストウッドをリアルタイムで見ることができた世代として、のちの世代からうらやましがられるだろう"といった。確かにそうかもしれない。

そういえば最近スピルバーグがいま一つのような。。


マリア・ジョアン・ピリスのピアノ+チェロを聞いてきた

2009-05-14 07:30

というわけでたまには文化的な活動を。数日前マリア・ジョアン・ピリスのピアノ+チェロを聞いた。

演目はショパン+リストが一曲。わかったのは



"俺はショパンより、ベートーベンとかモーツァルトのほうが好きだなあ"

ということ。いや、ピリスがとてつもなく上手であることくらいは私にもわかるのだけどね。前に使った表現だが



"名手は音楽を奏で、凡手は楽器を演奏する"



なぜああした音が出るのだろう。音を自在に操り、そして音楽を奏でる。

でもって書くのは関係ないことばかりなのであった。

会場に入ると"演奏者の強い要望により、拍手は一部と二部の最後だけにしてください"と張り紙がしてある。なんでもピリスのこだわりなのだそうな。

さて、プログラムの構成上、チェロのお兄ちゃんは出番があったりなかったりする。出番がない時は脇に置かれた椅子に座っている。ピリスはこだわりがある人なので、曲と曲の間もほとんどあけない。自分がよいと思ったタイミングでやおら演奏を始める。

というわけでチェロのお兄ちゃんは、演奏の最中に椅子から演奏位置まで移動しなければならないわけだ。二部の途中でお兄ちゃんがチェロをもって歩き出す。

しかしそこでピアノが静かな部分にはいる。その瞬間お兄ちゃんの足がぴたっと止まる。

しばらくしてピアノがじゃんじゃかなりだす。お兄ちゃん足早に演奏位置につく。この"ぴたっととまる"ところが結構微笑ましかった。

講演は完売御礼。東海3県のピアノ関係者全員集合なのではないかと思える。ピリスは私だってNHKで見たことがあるくらいだから、その道の人にとっては"絶対きかなくちゃ"という講演なのだろう。子供を連れてきている人も多かった。ぜひ聴いておきなさい、ということなのだろうか。

講演が始まる時"演出の都合上、非常口の明かりを消灯します"とアナウンスが流れる。なんのことだと思ったら最後の曲が終わったところで会場の明かりが全部消えた。最後の曲はショパンが晩年-といっても39歳だが-に作曲したかもしれないといわれている曲。ピアノの音が消えると明かりも消える、というのは確かに印象的であった。


会社で出世するために第一に必要なこと

2009-05-13 06:53

私が経験した範囲で言うと、一番必要なことは



"自分が所属している団体に無条件の愛を持っていること"

である。
なんでこんなことを書きだすかといえば、こういう記事を読んだからだけどね。

たとえ昇進にともなう責務やしがらみを面倒としか感じない人でも、同期とあまり差がつくのは面白くないのではないか。出世頭と呼ばれる同僚と、そうでない自分の違いは、一体どこにあるのだろう?

via: 第2回 同期の「出世頭」は僕らと何が違うの? | R25

この記事であげられているのは、昇進試験で好成績をあげるための集中力、上司に引き上げてもらうための愛嬌、仕事に対する熱意だ。確かにそれらは大切だが、何よりも会社を無条件に(口の上ではいくらぐちを言ってもかまわないが)愛し、肯定することが必要だ。

これは時として難しいことになる。仮に会社が明らかに誤った判断を下し、愚かな行動をした際であっても無条件に会社を肯定、あるいはよくて見て見ぬふりをする必要があるのだ。

たとえば明らかにマネージメントの問題からくる過労で精神的に病んだ同僚がいたとすれば、"会社はひどい"と思ってはいけない、し仮に思ったとしても口に出してはいけない。

そこで"正しい"ことを言ってしまう人は絶対に出世できない。

などと私が言わなくても"武装しない預言者は必ず滅びる"のはこの世の常でもある。であるから自分が"武装している"と組織内で思えるようになるまでは絶対口を開いてはいけないのだ。


何を言っているのかわからない人だったなあ

2009-05-12 07:25

小沢君が辞任とのこと。議員も辞職するかと思えば、そうではないのだそうな。

正直言って私は小沢君の政策がどのようなものか知らない。したがって政策の是非云々とは異なったところで感想を書いておく。

政治家の仕事のうちの一つは

"言葉で語りかけ、人を動かす"

ことにある。橘氏は、この点から判決がでたあと身内の議員だけに演説をした田中角栄を批判していた。

その点からみると近年まれに見る成功を収めたのが小泉氏である。郵政民営化法案が否決された後の記者会見はまれに見る迫力-まるで星のよう-だったと聞く。なるほど、郵政民営化は"我々にとって"必要なことなのか、となんとなく皆が思った。

その結果誰も"郵政民営化になんのメリットがあるのか"理解しないまま小泉氏は大勝した。

さて、その観点からみてこの言葉はどうだろう。



私の目標、そして私の夢は日本に本当の議会制民主主義を定着させること、本格的な政権交代で議会制民主主義の理解を深めること。政権交代でしか日本に議会制民主主義が定着することはないだろうと思っている。代表を続けることをご承認いただいたが、あくまでも総選挙で勝利ということを前提に何事もわたくし自身考えていきたいと思います。


via: 「秘書起訴の小沢氏が続投会見「政権交代が生涯の夢」詳報」:イザ!

あるいはオバマ大統領の演説と比べるとわかりやすいかもしれない。この人の言葉はすべて主語が"私"なのだ。

"私の夢""私の目標"それは大いに結構。中学生の作文ならそれでOKだ。

しかしそれが有権者-聞き手-の共感を呼ぶかといえばいささか首をかしげざるを得ない。

かくして首相の言葉ではないが、何のために辞任するのかよくわからない演説ができあがった。一点のやましい点もないならそのことを言葉を尽くして説明し理解を得ればよい。政権交代が夢なら、それがなぜ"我々"にとって必要か語ればよい。

小沢氏 私は政治資金の問題についても、一点のやましいとこもありません。法律に従って、きちんと処理し、報告しております。また、今回は政治的な責任で身を引くわけでもありません。皆さんのお力添えのおかげで、私が3年前に代表職を引き継いだ時には、本当に1けたの支持の、1けた台だったと思いますが、今、皆さんの懇切丁寧な報道ぶりにもかかわらず、20%以上の支持を持って、自民党とほぼ拮抗しております。私はそういう意味において、本当に国民皆さんの理解が、我が党に対する理解、そしてやはり政治は変えなくてはいけないという理解が進んでおる証左だと思っておりまして、私も微力ながら、そのことに多少なりとも貢献してきたのではないかと思っております。あんたどこだっけ、会社?

via: 「国民サイドの政治こそ、男子の本懐」...小沢氏辞任会見〈3〉 : 政治 : YOMIURI ONLINE(読売新聞)

政権交代こそが、"我々にとって"重要なことである、という言葉は最後までこの人から聞くことができなかった。この点において彼は表にたつ政治家としては失格だ。


女性の買い物スタイルから学べること

2009-05-11 07:13

私は男性である。従ってか関係ないか知らないのだが、とにかく"ショッピングを楽しむ"という概念が理解できない。買物は必要に迫られて行うものであり、それ自体に楽しみはないのだ。いわば労働。義務である。



しかし

このような狭い考えにとらわれ女性と買い物に行くと後悔することになる。そんな考えを持つ男に、女性の買い物につきあう権利などないのだ。

かのアドルフ・ヒトラーは彼女の買い物に"犬のようにおとなしく"つきそっていたことが知られている。このエピソードを知ったとき、私は彼に一種の親近感を感じたものである。

さて、といったところで一つの記事を紹介する。

女性の買い物に理解を示せるようになる

前にも使ったネタだが、最適化やら情報推薦という言葉で頭がはちきれそうな男性が

"よし。事前に買い物リストを入力すれば、嗜好、価格の点からベストの商品を最短経路を通って購入できるプランを出力するシステムを開発しよう!"

と叫び、3年の歳月を費やしたとする。そしてそのシステムは世の中の女性から一顧だにされず朽ち果てる運命となる。



つまり

買い物支援などと軽々しくいう人間は、たいていの場合考えが狭い。そもそも買い物とは何なのか。それを考えずに勝手に決めた"評価関数"に従って何作ろうが現実世界で役にはたたない。

"買い物"

とはインタラクティブな経験であり、重要なのはプロセスであり、結果(購入できたもの、それについやしたコスト)ではない。前掲の記事にもある。


突然、「お念じゅが欲しい」と言い出すかみさん。
もちろん買い物リストには入ってない。

(中略)

振り返ってみると、帽子はこんなに何度もチェックしていたのに、結局買わなかった。

「マスト」と言ってる物でも、真にマストという意味ではないらしい。


というのが買い物の本質であるように思うのだ。そう考えると、今あるWeb上のインタフェースというのはこうした"適当に見て回る感"にかけている、、といいだしたのはもう5年も前のことだなあ。。そこから一歩も進歩していない私って。。


Wiiの間を使ってみた

2009-05-08 07:17

というわけでWiiの間である。

任天堂は据え置き型ゲーム機「Wii」に番組を配信するサービス「Wiiの間」チャンネルを5月から始めると発表した。番組の内容は放送時まで明らかにしないという。視聴料は無料にし、Wiiのネット接続機能を生かして視聴者が番組を評価できる仕組みも取り入れる。

via: 任天堂、「Wii」向けに番組配信 5月から デジタル家電&エンタメ-最新ニュース:IT-PLUS

最初聞いた時は"富士ソフトが、Wii上で映像配信始めたのに、本家に始められちゃ、、富士ソフトカワイソス"だったのだが

ふたを開けてみれば、基本的に"広告配信&評価システム"だった。

いや、それはいい着眼点だと思うのだ。実際CMって時間に割り込まれさえしなければ結構おもしろいし。井上某とかCMがなければ世の中にでてこなかった人もいるくらいだし。

私が考える問題点は

任天堂の製品にしては、意外なほど"作り手の都合"が見える作品だ、ということだ。

何が問題か?一言でいえば動画にたどりつくまでのステップ数が多すぎるのだ。あれを選び、これを選び、それを選んでようやく広告が始まる。

おまけに動画を見たあとは必ず"評価"が待っている。Wiiらしく、自分のアバターを評価の上に置く、という仕組みだが、面倒なことに変わりはない。

もっとGoromi-TVのようにだらだらと見させるような仕組みをなぜ取り入れなかったか?そもそもCMをそんな手間をかけてみようとする人間などいないだろうし。

ここでは情報を得るためのコストと、期待値の関係を考える必要がある。コストが高まるほど期待値は高くなる。そこでCMなんかみさせられては誰もがっかりする。

逆にコストが低く、それこそつけっぱなしにしておけるようなものならば、たまたま面白い情報に出合えて"得した"気分にもなれようというものだ。





いや、任天堂がそんなことに気がついていないはずはないと思う。しかしおそらく彼らにはそれができない事情があった。

広告を無料で提供している企業にしてみれば、それに対するリターンを求めたくなる。であれば、見たあとの評価、というのは必須だと思うのだ。また適当にだらだら流しっぱなしにする、というのもおそらくは権利者にとって許容しがたいことなのだろう。(本当に見てくれた回数が測定できないからね)



かくして使い手の都合を無視した作り手Happyなシステムがまた一つできあがる。世の中にTV画面上のインタフェースはあふれているが、だらだら流しっぱなしを指向するものが、ごく少数を除いて存在しないのは驚くべきことだ。


最後にはvi

2009-05-07 08:10

私がviを初めて使ったのは大学4年生の時だ。それまで使っていたCP/MからMS-DOSに環境が移行し、指導してもらっていた先輩に

"これを使え"

と言われた。最初は結構手間取ったが、あれこれやっているうちに問題なく使えるようになったと記憶している。


それから月日は流れ幾星霜。しばらーくコンピュータとは無縁の生活を送っていたが、ひょんなことからSilicon GraphicsのWS上であれこれ作るようになった。最初はEmacsだかMuleだかを使っていたがそのうち

"メモリが足りない"

と文句を言われるようになった。しょうがないねえ。じゃあおじさんはviを使いましょうか。

それまでにviの問題が強烈な"モード指向"にあるということは、何かの本で読んで学んでいた。だからunixに触る機会があっても、できるかぎりEmacsを使っていたのだが、メモリが足りないといわれては仕方がない。

それからまた長ーいブランクに入るのだが、未だに時々viを使っている。というかLinuxの上で何かしていて

"ちょっと設定変えて"

と言われた時に他の方法を知らないのだ。

ということは

未だにLinuxだのUnixだの触る人にとってviというのは必修科目なのだろうか。いや、もうあれから何十年もたっているから、もっと素晴らしい"標準エディタ"が存在していると思うのだけど。


忌野清志郎が死んだ

2009-05-03 07:16

癌だと言うニュースは聞いていた。その後復帰したと聞いていたのだが。。

最後にコンサートに行ったのは10年以上前か。。どこかの学園祭で行われたコンサートだったか。

"世界中の人に自慢したいよ"という曲を聴いて思わず涙が出そうになった。それは馬鹿みたいなストレートなラブソング。でもね、それは例えば駅でギターを弾いているような人たちからは決して聞く事のできない力のある言葉だったんだよ。

忌野がニュースに取り上げられる時は、過激な歌詞やらなにやらに関する物が多かったように思う。しかし

"僕の好きな忌野"

はそうした部分ではない。気持ちをそのままにぶつけるような歌。それが"僕の好きな忌野"だ。

アーティストの訃報が流れるたび、おざなりの追悼の言葉が新聞に乗る。彼はこういう人だった。一つの時代が終わった云々。そうしたものを読む度白々しさを感じずにはいられない。ほとんどの場合アーティストとしての活動は遠い昔に終わっていた人が死んだだけなのだ。つまり個人的にその人を知らない私としては、遠い昔に死んでいたようなものだ。



しかし



今私は初めてアーティストの訃報を聞き悲しく思っている。もうあの歌声をライブで聞く事はできないのだ。録画された映像、録音された音声はたくさんある。しかしあのライブに行く事はできないのだ。


人が死んだとき"死ぬなら前もって言ってくれれば"と思う。死んでしまった後ではなんともならない。でも癌から復活したときにライブに行っておけばよかった。あの声を聞いておけばよかった。

権威への反逆も一貫していたが、それをユーモアにくるみ、さりげなく表現していた。実はシャイな人だったと思う。彼の音楽には「彼は常に信頼できる人であり、自分もしっかりしなければ」と、聞く者に思わせる力があった。

音楽評論家、天辰保文さんの話

彼が"笑っていいとも"に出演したとき、スタジオ中が一つになり爆発しそうになった。今はあの映像は頭の中にあるだけ。歌っているときの生き生きした姿と、その後タモリとのトークでのはにかんだ表情。三浦友和からの"友達の輪"だったのだが、電話を受けてからも"タモリさん知ってるじゃないですか。僕そういうの苦手なんですよ"という言葉。



いや



今は素晴らしいアーティスト、エンターテイナーとしての彼を覚えておこう。"いい人なのに"などという言葉は彼には不要だ。某所で"今際の清志朗"などと名乗っている身としては、この気持ちを表すためには歌うしかない。それが私なりの歌葬だ。


映画評:バーン・アフター・リーディング

2009-05-01 07:08

ほえーんほえん。ゴールデンウィークってなんですかー。というわけで本家から転載。

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まず本年度の"最優秀予告編賞"の候補にあげておこう。予告編を観ると、有名な俳優がそろって間抜けなことをやり続けるドタバタコメディと思う。実際の映画にそうした要素がないとは言わないが。

離婚しかかっている二組の夫婦。それに全身整形費用を捻出しようと苦闘する女性+ブラピが誤解に誤解を重ねあれこれやる、という話。こう書くとなんだか面白そうな話にも思えるが、観ていると"ふーん"と思う。

ブ ラピは間抜けな男を熱演。それ以上に印象的なのがジョージ・クルーニー。彼の情けない顔連発というのは初めてみたかもしれん。大々的にCMで使っているク ライアントが激怒するほど見事な"半泣き顔"を見せる。この二人ってOcean's シリーズでも競演していたけど仲がいいのかしらね。

そ れ以外に観るべき点はほとんどない。特に中心たる全身整形女性が私をいらつかせる。衝動と己の欲望のままに行動し、巻き込まれた気の毒な男性達を災いに追 いやる。しかし最後に彼女が一番"得をする"のは、まあ世の中そういうものかもしれん、とも思う。あるいは彼にかなわぬ思いを寄せる男の情けない演技は涙 を誘うが。

見終わってみれば笑えたのはブラピの鼻血顔くらい。CIAの偉いさんが最後に言う

"我々は何を学んだのか?"

"わかりません"

"登場人物は全員死んでしまえ"とは思わないし、長いとも思わないがこれを書いている時点でほぼ記憶から消えているのも確かだ。

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この映画の中では、全身整形願望の女性が、"出会い系"でいろんな相手とおデートする。
ジョージクルーニーとデートする前に、それなりにハンサムだが感情表現が全くない相手とデートする。妙にその男のことが気になる。