AndroidとiPhoneの戦い 追記

2011-07-29 13:49

先日書いた内容に関しての追記。

Original estimates for the Xoom hoped for sales of 3 to 5 million units in 2011, but so far the company has sold closer to a half million of the devices, depressing the prospects for other Honeycomb tablets and tablets in general outside of the iPad, and further reinforcing the reality that the iPad, like the iPod before it, exists as its own market with exclusive demand, rather than being part of a larger, generic "tablet" market.

via: AppleInsider | Motorola beats expectations but guidance disappoints as Xoom fails to match iPad

MotorolaのXoomが予想よりはるかに売れていないことを述べた後で

「iPodのように、iPadにはそれ自身のマーケットが存在しており、より大きな「タブレット」というマーケットの中で戦っているのではない」

と推測を述べている。

私がiPhone V.S. Androidに関して思うことも同じである。携帯電話の世界ではその違いが見えにくくなっているが、両者は異なるものであり、シェアがどちらが多いからどう、という話ではないんではなかろうかね。

Macintoshが最初に出た時も状況は同じだったのだと思う。あの頃PCとMacintoshは明らかに別物だった。それがだんだん近づいてきて、、いつものとおりのストーリーとなったわけだ。

携帯電話が同じような道筋を通るのかどうか私にはまだわからない。仮説として、そもそも両者は違うことをやっているのではないか、と上記のようい考えている。もう一つの不定要素は、Appleが垂直統合の製品を製造していながら、コストで有利なはずの水平統合製品にひけをとっていない、という事実だ。


iOSとAndroidのアプリ開発について

2011-07-29 13:47

というわけでアプリ開発環境である。iOSはObjective-Cで直接作成し、Androidの場合はJava実行環境の上でJavaもどきで作成する。

これの優劣についてはいろいろな議論がある。それらを見ていくと、少なくともAndroidに関しては何らかのVirtual Machineを用いる選択肢しかなかったことを知る。

いや、もちろんAndoirdでもNativeで開発はできるだよ。でもGoogle自身がそれを推奨していない。一つその証拠を挙げよう。Javaのライセンス料に関して、GoogleとOracleの間で行われている裁判で以下のメールが「発掘」されたという。

"If Sun doesn't want to work with us, we have two options: 1) Abandon our work and adopt MSFT CLR VM and C# language - or - 2) Do Java anyway and defend our decision, perhaps making enemies along the way."

via: Old Google Emails About Java Brought Into Suit by Oracle - John Paczkowski - News - AllThingsD

SunがGoogleとやらない、というのであれば二つオプションがある。
1)C#を使うこと(C#用の仮想マシンの上で実行される)
2)とにかくJavaを使っちゃう。(将来敵が増えるだろうけど)

このメールは「いやー、まさかJavaのライセンスが必要とは思いませんでした」という「わざとじゃないんです」という言い訳に対する反証として挙げられたもの、ということだが。

ここでは「Sunが協力しない場合」の代替手段として、いずれも何らかの仮想マシンを必要とする案が挙げられていることに注意しよう。つまりGoogle自身、Android上でNativeによるアプリ開発は考えていない、ということである。

この「仮想マシン上でのアプリ開発」というのは、セキュリティを保つための一つの手段である。iPhone発表直後にはこんな観測もあった。

アプリケーションのダウンロードを認めないことも,同様に現時点では合理的な判断といえる.OS Xはサンドボックス機能を持つ仮想機械を組み込んでいないため,Appleが主張するように現時点でセキュリティを保つことが難しい.JavaやFlashなどを組み込む手もあるが,これらはiPhoneの新しい操作性に対応していない.いずれiPhoneに勝手アプリを載せられるようになるかも知れないが,優れたサンドボックス技術とiPhone的なユーザー体験のアプリケーションを,容易に構築できるライブラリを組み込んだ実行環境をOS Xで構築することが先決だ.
もし仮に私がAppleでiPhoneやiPodを担当していたら,まずiPodもiPhoneと同じOS Xベースに移行する.次にDashboard WidgetのAPIを複数の指での操作に対応できるよう拡張し,iPod/iPhoneでローカル実行できる勝手アプリの開発用に提供する.性能やAjax,Flashからの移植性を高めるために,ECMA ScriptのエンジンをAVM2ベースに差し替えるのも一案だ.

iPhoneの割り切りと次の一手 - 雑種路線でいこう から引用

当初は「iPhone上のアプリ開発はWeb2.0で」とかなんとかいっていたAppleだが、その後本当にObjective-Cでの開発を認めた。正直これには驚いた。それまで携帯端末上でのアプリ開発は仮想マシン上のものばかりだったからだ。もちろんauではKCP+の上で開発が可能だけど、KCP+上での開発の「閉鎖性」はAppleの比ではない。というか、開発を断念させるため、あらゆる手段を尽くしているとしか思えない。

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といわけで今日の結論。現在のiOS上でのアプリ開発環境は実は結構驚くべきものなんじゃないか、ということ。少なくとも私はとても驚いた。


TVの存在意義

2011-07-29 06:38

先日こんな記事を見つけた。

テレビがネットより優れているトコロ。それは「テレビは私の怠惰を許してくれる」事でしょう。

ネットには無限のコンテンツがあり、意思をもって何か調べたい時にはテレビには不可能な事を可能にしてくれてとても便利です。が、ただ退屈をしのぎたい時にも、何を見るか自分で考えて、検索して、選ばなければなりません。これが面倒です。苦痛です。

テレビは私に何も要求しません。ただスイッチを入れれば、勝手に一方的にコンテンツを垂れ流してきます。この怠惰、この愚鈍への寛容、この安逸がテレビの素晴らしさです。

via: テレビがネットより優れているトコロ または15万件の苦情に見るネットの可能性 - mizuiro_ahiruの日記

全く同意である。前に書いたきもするのだが、任天堂のWiiにはこの点が決定的に欠けている。TVのようなコンテンツを用意はしているが、なんどもボタンを押し、選ばなくては映像に辿りつけないのだ。だからせっかく民放TVと遜色ないコンテンツがあり、既に多くの家庭に導入されているにお関わらず流行らない。(Wiiの間とかしらないでしょ?)問題はコンテンツではなく、インタフェースなのだ。

さて同じ記事の後半にこんな言葉もある。

既に怠惰をカバーしてくれているものもあります。例えば私は2ちゃんねるを殆ど見ませんが、2ちゃんのまとめサイトは良く見ます。無数のスレッドから面白そうなのを探し出すなんてウンザリですし、どうせROMるだけで書き込んだりしません。まとめサイトに行けば、親切な管理人さんが勝手に良スレを選び、カキコミをピックアップして短くまとめてくれています。私は、無数のスレから自分に最適なものを選ぶ自由を放棄するかわりに、何も努力せずそこに並んでいるセレクトを読む怠惰を手に入れます。退屈しのぎとしてはそれで十分楽しめます。これってまさにテレビ局が番組編成して、編集して、たまたまテレビつけた時に放送されている番組を見るのと同じです。

Gyaoニコ動Youtubeから適当なコンテンツを選んで、勝手に流しっぱなしにしてくれたら、テレビいらなくなるのになぁと思います。

via: テレビがネットより優れているトコロ または15万件の苦情に見るネットの可能性 - mizuiro_ahiruの日記

途中までは同意だが、最後の文章には大事なところが欠けている。前半で言っている「編集」の手間を軽視していることだ。「勝手に流しっぱなし」を自動で実現したソフトウェアは今のところ存在しない。正確に言うとその機能をもったソフトはいくつもあるが、

「真の流しっぱなし」

を実現するほどいいものはまだ普及していない、と考えている。こうなるとあれだね。人手でネット上のコンテンツだけを使って24時間番組を作る放送局とかできないだろうか。

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もうひとつはリアルタイム性、速報性である。ワールドカップで日本が活躍するたび

「家にTVがないから、スポーツバーに行く」

という人の話を聴くことになる。普段はTVをみなくても、こうしたイベントの時にはTVに頼らざるを得ないのだ。
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最後は「朝の時計がわり」私にとってTV最大の存在意義はこれである。前は他に

「NHKの面白い番組を録画して、iPodでみる」というのがあったのだが、「デジアナ変換」なるものが始まってから録画機以外で見ることができなくなった。画質はアナログと変わらないものになぜコピーワンス、というデジタル信号より強力なコピープロテクトがかかっているか理解できないが、まあいまどきTVなど見ている人間は。。。ということなのだろう。


AndroidとiPhoneの戦い

2011-07-27 13:19

まず私はApple狂信者であることをお断りしておく。

さてAndroid V.S. iPhoneという図式で物を考える人は多い。そして意見は概ね以下のようだ。

最後に勝つのはどちらか。iPhone独特のデザイン、操作感、アプリの豊富さはいまだ優勢ですが、日本国内ではソフトバンク独占なので、キャリアーを乗り換えなければならない人もいるでしょう。

 一方、アンドロイド搭載端末は、主要3キャリアーが提供しているので、機種やサービスの比較ができるのがメリットです。

 デジタル・ネットの世界は、「誰でも使っている方に流れる」のが基本。数の優位が絶対的と考えると、今後はアンドロイド搭載端末の優勢が続きそうです。

via: iPhone対Android搭載端末 勝つのはどっち? : COME ON ギモン:その他 : Biz活 : ジョブサーチ : YOMIURI ONLINE(読売新聞)

どっかの教授も「最初は垂直統合型の製品が有利だが、コンポーネント化、モジュール化が進むと水平統合型の製品が有利になる」とかいうことであろう。

前にも書いたことだが、私はそもそもAndroidという単一のプラットフォームは存在しないと思っている。Android OSを採用することと、Androidというプラットフォームに乗ることは別なのだ。そう考えているとこんな記事が。

また、iPhoneに比べてAndroidアプリが「セールスで苦戦している」(岩崎氏)のも課題だ。注文比率は現状でiPhoneの10分の1程度で、「伸びてはいるが、iPhoneのように突き抜けてくような快感がない」という。

via: 「本当に来ちゃった」――売上5億のピザ注文アプリ、ヒットの裏に「ワオ体験」 - ITmedia プロフェッショナル モバイル

読売新聞の記事によれば

2010年度、アンドロイド搭載端末の出荷台数が、初めてiPhoneを超えました(57.4%対37.8%)

via: iPhone対Android搭載端末 勝つのはどっち? : COME ON ギモン:その他 : Biz活 : ジョブサーチ : YOMIURI ONLINE(読売新聞)

シェアはAndroidが優っているはずなのに、iPhoneと同じ仕様のアプリからの注文は1/10。これは何を意味するのか。

ここからは想像の域をでないが、AndroidとiPhoneは別物として発展しているのではないか。Androidはいわばガラケーの置き換えとしてOSとして使用されている。スマホだから、という理由で従来ガラケーを使っていた人が何も考えず乗り換える。

更に昨日こんな記事を見つけた。

Android製品の売り上げ台数はiOS製品を上回り、その差は年々拡大している、とみんなが思っている。でも実は、Android製品のメーカーの多くが、厄介な問題に直面している。一部のAndroid製品は、返品率が30〜40%と高いのだ。iPhone 4は、2010年のアンテナ問題のときでも、返品率は1.7%だった。

(中略)

だがふつうの携帯ユーザにとっては、Androidは迷路だ。"ひとと違うこと"をしたいからAndroidを買ったが、友だちのiPhoneやBlackberryとあまりにも違いすぎるので幻滅した、という話をよく聞く。

via: 売上王Androidは裸の王様: 機種によっては30〜40%が返品されている

Androidは「何でもできる」環境だが、大多数のユーザは「何でもできる」と言われると途方にくれてしまう。だから従来のガラケーと同じ使い方しかできない。ところでアプリってなんのこと?どうやってインストールするの?これが私が主張したい

「AndroidはOSとして普及しているのであって、プラットフォームとして普及しているのではない」

ということだ。
だからAndroid V.S. iPhoneという図式は間違っている。iTron V.S. iPhoneという図式が意味を持たないように、、というのはさすがに言い過ぎか。

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とかなんとか言っている間に、auから最初のWIndows Phoneがでるのだそうな。ここ数ヶ月のauの変貌ぶりには驚く。

しかしなあ。。。あのボタンについてるWindowsマークにひっかかるのは私だけなんだろうか。Windowsロゴといえば、会社のパソコン、それを連想させるマークを携帯電話に付けさせる神経というのが信じられないのだが。

しかしなんだね。Windows Phoneのアップデートに関するトラブルとか日本のメディアは一切報道しない。Microsoftと仲良くやりたい、という大人の判断なのだろうが、、あるいはMangoが登場するまでにはそうした問題も解消される、と期待しているのかな?あのようなトラブルがもし日本上陸前のiPhoneで発生していれば、やんややんやと報道していたと思うのだが。


Tragicomedy 官僚天国

2011-07-27 06:38

中国の高速鉄道で大きな事故が起こった。実際に多くの人がなくなり(何人かわからないが)負傷者がいることを考えると、いたたまれなくなる。

しかしその事故に対する反応は「興味深い」としかいいようがないものだ。

23日に起きた事故では停電のため停止していた列車に後続列車が追突し、4両が高架から落下。この事故で少なくとも38人が死亡、約200人が負傷したとみられている。

現場付近の農地では、事故車両が重機で破壊された後に穴に埋められたが、王報道官は、「事故車両を埋めたのは救助作業を促すためだったと説明を受けており、私はこの説明を信じる」と釈明。事故から20時間以上が経過し、当局が生存者がいる痕跡はないと断定した後で幼児が救出されたことについては「あれは奇跡だった」と語った。事故原因については落雷で設備が故障したとしながらも、「中国の技術は先進的であり、今でもそれを確信している」と言い切った。

via: CNN.co.jp:中国鉄道省報道官「中国の技術は先進的」、事故後も言明

起こってはいけない事故が起こった。では隠蔽しましょう。そこまではわかる。理解できないのは

「報道陣やらなにやらが見ている前で穴を掘って証拠物件を埋め始めた」

ことだ。こうした判断が行われ実行に移される過程というのは実に興味深い。いくつかのシナリオが考えられると思うが、責任者の役人が

「とにかく隠せ。マスコミがどうとか俺は知らん」

と言い放ったとかそういうことかな。今の日本政府も同じようなものなのでこのシナリオは現実感を持つのだが。

それでもって中央政府の役人が「どうして埋めたんだ」と文句をつけるとその判断を翻し、また掘り返す、と。相変わらずマスメディア注視の中で。せめて報道陣をシャットアウトするとかどうしてやらないのだろう。中国ならお手の物だろうに。

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そうした疑問に唯一答えられるのは

「徹底した官僚的思考方法」

だろうか。彼らなりの論理が通っていれば、どれだけ現実と遊離していようが、他人から奇異にみえようがかまわない、とする考え方だ。

「お役所仕事」の奇妙さは多くの人が実感するところだが、「お役所」側にもちゃんとした理屈は存在する。いや、彼らの論理の中では彼らの行動は合理的なのだ。
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しかしなんだね。こうした中国における官僚的思考方法が鉄道省に限定されるわけがない。あの事故で死者35名とかいう報告がまかり通るとすれば、国が発表する経済指標を誰も信用しないのも合点が行く。


このサービスは俺が提案したのに

2011-07-26 06:54

というのはとてもよく聞くセリフだが、実質的な意味はあまりない。
「どんどん新しい提案をだしてくれ」という人はほぼ全ての場合

「会社にとってノーリスクで、じゃんじゃんお金が儲かり、なおかつ私が理解できる範囲で」


と条件付きでしゃべっているのだ。であるからそういう人に何を言おうが却下されるのは最初から決まっていることなのだ。さて、先日こんな記事を見つけた。

株式会社NTTぷららは、自社が運営する映像配信サービス「ひかりTV」において、ソーシャルテレビサービスの取り組みの一環として、放送中の番組画面上でTwitterのツイートを表示するTwitter連動機能を、8月27日(土)・28日(日)に独自編成チャンネル「ひかりTV チャンネル」で放送予定のプロ野球「埼玉西武ライオンズ 対 北海道日本ハムファイターズ」の試合中継で提供します。

via: ぷらら|会社情報|ニュースリリース

TVの放送画面は神聖不可侵なものだから、訳のわからないインターネットの情報を流すアンドまかりならん、と言っていたのはそう遠くない過去のことだが。

さて

NTTぷららじゃないけど、同じく映像配信事業をやっている会社向けにあれこれ提案をだせ、ということになった。私はTwitter,ソーシャルメディアとの連携をした「ソーシャルTV]を提案した。

しかし(例によって)これはボツとなった。理由は社長が「Twitterの何が面白いかわからん。」と言っていたからだ。この社長は自分で試すだけいい人であったとは思う。ボツの理由は
「技術的に難しいから」
ということだったが。

いや、同じ提案を考えつき、同じようにわけのわからない理由でボツを食らった人は山のようにいると思うのだ。そういう人はナイチンゲールの爪の垢でも煎じて飲むべきだと思う。

裕福なジェントリの家庭に育ったナイチンゲールは看護師を志し、のちに婦人病院長となった。
 しかし、クリミア戦争が勃発すると、翌1854年、自ら志願して38名の看護師を率い従軍した。
 ここまではご存知の通り。
 
 しかし従軍看護団の結成と指揮を任されて現地スクタリに赴いたナイチンゲールを待っていたのは、戦争よりもたちの悪い衛生環境と官僚たちであった。

 兵舎病院は極めて不衛生であり、官僚的な縦割り行政の弊害から必要な物資が供給されていなかった。
 さらに現地のホール軍医長官らは、縦割り行政を楯に看護師団の従軍を拒否した。
 ナいチンゲールたちは、病院の中に一歩でも立ち入ることができなかった。

 しかし伝記作家のストレイチーは記す。
 「彼女は必要とあらば、天使にも、悪魔にもなったのである」

 ナイチンゲールたちは病院内に入らずともできる仕事、どの部署の管轄にもなっていないために放置同然だった病院の便所掃除に目をつけ、まず便所掃除を始めることによって病院内へ割りこんでいった。

via: 問:史上最も有名で、最も戦闘的だった統計学者は誰か? 答え:ナイチンゲール 読書猿Classic: between / beyond readers

もし自分が本当にそのアイディアに賭ける気なら、上司などに頼らず他に方法はあるはずだ。そういう努力をしたが駄目だった、となれば「俺が提案したのに」と愚痴っても、他人が聞いて面白い話にできるとおもうのだが。

異業種交流会とかに行くと痛感することだが、ありきたりな失敗談とか成功談はつまらん。失敗なら失敗でその業界に詳しくない人が聞いても笑える話になるくらい徹底してやらないと。


人を「指導」することについて

2011-07-26 06:31

ソフトウェアを開発したことがある人なら誰でも実感していると信じたいのだが

「人間はソフトウェアのパフォーマンスボトルネックを発見するのがとても下手だ」

であるからして、まず予断なく計測するところからはじめなくてはならない。

「ここが遅いに決まっている。前に同じような例があった」

などといじくりまわしたところで、それが当たっている確率は(私の場合は)0に等しい。とにかくいつも意外なところがシステムの性能を落としているのだ。それくらいソフトウェアというのは複雑で、どう動いているか人間の予断を許さない物だ。

さて

親愛なるニンゲンである。こちらも実に複雑怪奇で、どう動いているのか本人にすらわからない。そもそも判断の多くは無意識の中でなされているとかそんな話もあるくらいだし。

しかし

「上司」が「部下」を指導するときの的外れさには驚くばかりだ。そもそも相手のパフォーマンスボトルネックは何なのか。自分の経験やら思い込みやら妄想だけでとうとうと語る人は多い。

ニンゲンより単純なソフトウェアのボトルネックも推定できないようなニンゲンが、どうして「対ニンゲン」となるとこうも傲慢になれるのだろうね。


(続)訴訟社会といいながら

2011-07-25 06:46

アメリカという国が興味深い点はいくつもあるが、その一つが「多様性」である。私を含めて多くの人はよく知らないものをまとめて一括りに扱おうとする。

しかしGeneralization is always wrongなのであり、オトナになるというのは、その悟りを得る過程でもなかろうかと思うことがある。

さて、前にも書いたが映画ソーシャルネットワークで描かれていた「自分たちのアイディアを盗まれた」と主張し65億円"勝ち取った"双子の兄弟である。先日こんな記事を見つけた。

昨日(米国時間7/20)のFortune Brainstorm Techカンファレンスで、映画『ソーシャル・ネットワーク』で、ウィンクルヴォス兄弟の、Mark Zuckerbergはハーバード大学倫理規程に違反している、という主張を却下したあの悪名高きシーンについて、あれは実話なのかと尋ねられた元ハーバード大学学長のラリー・サマーズは、屈託なくこう答えた

学長をやっていて学んだことがある。学部の学生が木曜日の午後3時にジャケットにネクタイ姿でいる理由が2つある。一つは、就職活動中で面接に行く。もう一つは、そいつがサイテーな奴である。あれは後者のケースだった。

via: ウィンクルヴォス兄弟は「サイテー」と呼ばれるのが嫌い

裁判で和解金を「勝ち取ろう」がなんだろうがサイテーなやつはサイテー。しかしこの兄弟は面白いなあ。

【訳者注:下のレターで兄弟らは、サマーズの言動は、私たちだけでなくあの服装を選んだすべての学部学生に対する侮辱である旨に加え、当時のサマーズ氏の行動にも問題があったと非難している。】

via: ウィンクルヴォス兄弟は「サイテー」と呼ばれるのが嫌い

まあ確かにそうするしかないのだろうけど、日本には「恥の上塗り」という言葉があることを教えてやろうか。彼らはこの先の人生どうやって暮らしていくのかね、と余計な好奇心を持ったりする。


敗者のいないゲーム

2011-07-22 07:31

ワールドカップ女子サッカーで日本チームが優勝した。これは事実だ。

しかし決勝戦に敗者はいなかった。

アメリカ在住の友達がFacebookで教えてくれた動画である。彼曰く

「CBCのレターマン・ショウにUSAチームのソロとワンバックが​出演。宮間あやの試合後の態度についてのソロのコメントに注目。」

その部分を私なりに訳してみよう。(動画の7:06あたりから)(追記:他の記事をみて注釈を追加)

ソロ:日本チームには私の友達がいるの。名前は宮間あやの。背番号8.彼女は最初のゴールをきめ、2番目のゴールをアシストした。

彼女はゲーム前私にメールを送ってきたの。私はワールドカップの試合前に相手チームの選手と話したことなんかなかったけど、そのメールには、プライドと、敬意と(あと何か一つ:訳せません)が込められていた。だから

「結果がどうあろうと、この瞬間を楽しみましょう」

と返事をした。

ゲームの後、彼女がやってきた。彼女は勝利にはしゃいだりしていなかった。(She was not celebrating)彼女はアメリカチームに敬意を表したかったの。彼女はアメリカが敗れたことでどれだけアメリカチームが悲しんでいるか知っていた。彼女はそんなにもアメリカに敬意を払ってくれたのよ。
(「いかに彼女たちの国が敬意を受けるに値するかわかるでしょう」、という訳もあるようですが、よくわかりません"that shows how much respect they have in this nation"と聞こえますが。)

司会者:どんなスポーツでもそれはいいこと、、

私は言ったの「あなたたちはワールドカップで優勝したのよ。日本の歴史の中で初めて。お祝いしなさいよ」と。

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こうしたショーに二人が出演することからして、米国でも少しはサッカーが知られてきたのかと思う。しかしこんなやりとりもある。

司会者:ところでサッカーでは何人審判がいるの? ワンバック:4人。二人はサイドラインにいてオフサイドをみている。オフサイドといってもあなたにはわかんないと思うけど。

この「あなたにはわかんないと思うけど」は何度かでてきた。

何年前か忘れたが、スポーツブランドのCMである選手がサッカーについて語る。そして最期に

「ところで、僕はNCAAサッカーの得点王だ。はじめまして」

というものがあった。Football(日本語でいうアメフト)のスタープレーヤーであればCMでNice to meet you.などと言うはずがない。それくらいサッカーは米国においてマイナーなスポーツだったのだが。

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司会者:(ワンバックに向かって)ところで君はヘディングでたくさん得点しているね。
ワンバック:そうよ
司会者:大学時代体育の授業でサッカーをやった。そのときヘディングの練習をしたけど、後から「ヘディングをやりすぎると脳に影響がある」と聞いた。
ワンバック:(冗談めかして)なんですって?
司会者:それは気にならない?
ワンバック:まあ確かにヘディングやりすぎると影響があるかもね。でもあのゴール(日本戦での2点目)の瞬間は素晴らしかった。あれのおかげでアホになるとしても悔いはない。

このやりとりの前に、ソロが日本戦に関して

司会者:ゲームの最期について話してくれないか ソロ:ブラジル戦?日本戦ね。率直にいって、あれは私がプレーした中で最高の瞬間だった。
この後のセリフがちゃんと聞き取れないため訳さない。しかしソロの言葉からは

「あのゲームに敗者はいなかった」

ことが伺える。

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多くの人が書いていることだが、この決勝戦におけるアメリカチームおよびアメリカメディアの負けっぷりの良さは特筆すべきものだ。そのことを知る人が増えれば、狂ったような日本の報道もいつかはもう少しましになるかもしれない。


消費すること/つくること

2011-07-21 06:39

というわけでインタラクションデザイン研究会に行ってきた。

今回のテーマは「パーソナルファブリケーション」冒頭渡辺氏が挙げていた例は

「昔は写真を撮ると写真屋で現像していた。今はデジカメで撮影し、自分の家でプリントする。このような変化」

ということなそうな。

講演の内容もさることながら、講演内容に触発されて行われた議論(on twitter)が興味深かった。私が興味深いと思ったのは

「仮に環境が整備されたとして、本当に個人が物を作るようになるのか?」

という問。以下適当に引用。

PC(もしくはそれに準じるもの)は広く普及するに従い、創作のための道具、という側面が弱まり情報消費の道具という側面が強くなっている気がするのだが。。

これは私のtweet.田中氏のプレゼンの中で使っていた

「コンピュータはメインフレーム→ワークステーション→個人が保有できるPCへと変化してきた。それと同じように物を作る設備も工場→個人が使えるものへ、と変化するのです」

とかそういう意味ととれるスライドをみて書いたこと。
スマートフォンとかタブレット端末を「物を作る道具」として使っている人はほとんどいない。多くは「情報を消費する目的」だけに使っている。であるからして、このアナロジーは正しくない、と言いたかったわけだ。

それでもって「そもそもモノを作る人はそんなにたくさんいるのか?」という話しがで、それに対して

うーんそんなに少ないですかね?子どもたちは絵とか歌とか色んな創作活動してるので,大人になって恥ずかしくなって創作しなくなっただけではと個人的には思ってます.料理も創作ですし RT: @kenji_rikitake 創作ができる人なんて全人口の1%もいないと思います.
京大の中村さん(@nakamura)のtweetである。なるほど。これはもっともだ。多くの子供は絵を描くし、いろいろ妙な物を作る。しかし大きくなるにつれ情報の消費が増え創造は減る。そもそもこれはどうしたものか。中村さんからさらにtweetが
子供の頃は創作をよくしてたのに何故大人になってほとんど創作しなくなったかって,人の目が気になったり,凄いのを色々見てしまったり,これは良い/悪いと判断する価値基準を持つようになったからだよなぁとか思ったり.利用者や作品が増えるとどうなんだろう? #sigixd

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前に働いてた会社で、学生さんの面接をするとき必ず聞いていたのが

「授業の課題以外で、何かプログラムを作ったことがありますか?」

だった。今やネットに接続できさえすれば、無料でプログラムを作る環境が手に入る。(しかも何種類も)昔から考えれば信じられないほど「モノづくり」への敷居は下がっている。そりゃ作るしかないでしょう、と私なら思う。

しかし

この質問に「はい」と答えてくれる学生さんばかりではない。いや、そう答えてくれる人は少数派だ。中でも「をを、こんなものをつくっちゃいましたか」と思わせてくれる人はめったにいない。

子供は絵を見るばかりではなく、自分で書く。親がポケモンカードを買ってやらなければ、自分で作る。私は子どもが作るポケモンカードを見るのが大好きだ。子どもがぼけーっとTVを観ているのを見るのが悲しい。

しかしその「創作意欲」はどこへ消えてしまうのだろう。これは考えるべきネタだと思う。

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でもってもう一つ話題になったのが(あとでTwitterをみて知ったのだが)

「『新規性』は新しいものを潰すのにいいキーワード」

である。
twitterを見てもらうとわかるのだが、これに関しては実に様々な意見がでた。私などは常に研究ネタをつぶされた立場なので、この言葉に同意したい面もある。しかし他の研究を見たとき

「それは散々やられて、しかも成功しなかった方法だ」

とツッコミを入れたくなることもある。をを、私も人の研究を潰しているではないか。

そもそもCHIの研究が世の中の役に立っているのか、という疑問にも通じるところがあるのだが、その道の権威が「これは新規性がある」と評価した論文が山ほど量産されているにも関わらず、世の中があまりよくなっている実感がないのはどうしたことか。この議論になると、その人が何によって日々の糧を得ているかが大きく影響している気もするのだが。

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話は元に戻る。子供の頃多くの人が持っていた「何か新しいものを作りたい」というパッションはいつのまにか影をひそめてしまう。

しかし仮に大人になったときにもそのパッションを持ち続けたとしよう。ここで私は「大人」という言葉を使った。ここで意図しているのは以下の定義である。

成熟した人とは、成年に達していて、自分自身と他人と自分がいま置かれている環境に関する正確な認識に基づいて選択と決断をすることができ、それらの選択は決断が自分がしたことだということを承認することができ、それらがもたらす結果についての責任を受け入れることができる人のことである。
バージニア・サティ 「人作り」

スーパーエンジニアへの道
第15章;P163

つまり自分とその周りの環境について正確な認識を持つことができなくてはならない。正確な認識、とは研究における先行研究、既存技術のサーベイがあてはまるだろう。その上で「既存技術とはここが違う。だから新しくやる価値がある」と判断できるのが、大人の研究というものではなかろうか。(査読者はなんというかわからないけどね)

こうした「大人の態度」は重要だが、元となるのはあくまでも「見てろ。僕にはできるんだ」という理不尽な思い込み、パッションである。それがなければなんともならない。

しかしこうしたパッションを持っていると、サラリーマン人生を送るのに障害となることが多い、というのも皮肉な事実だ。これまた話題になっていたが

「日本はHow to makeを考えるのは得意だが、What to makeを考えるのは下手だ」

という命題がある。そうかもしれんな、と思う反面、昨日書いたように

「わらでできたほったて小屋のような国産フレームワークと、近代都市のようなiOSの差異」

を見るに付け、本当かよ、とか思う。
また世の中

「お客様がWhat to makeを決定し、"業者"はHow to makeを考え、実行することでお金をもらう」

仕事のほうがはるかに多い。であればWhat to makeを考える頭なんぞは無用の長物、、というのが現実でもあるのだが。


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というように考えるネタがたくさんあった素晴らしい研究会であった。開催者が意図したことかどうか知らないが、プレゼンの巧拙(私が考える)と順番には密接な関係があったように思える。最初にプレゼンした城氏のスライドは実に読みにくかった。

背景に白い部分が多い写真の上に細いフォントでかかれた白文字を重ねているのだ。紹介を見る限り城氏は「研究者、アーティスト」らしいのだが、観客に見せることに鈍感であってもアーティストになれるのかな。


独創性を別に蓄積

2011-07-19 07:57

なぜこんなタイトルが付いているかはいつか明らかにするとして。。
何度か書いたことがあるような気がするが気にしない。日本のケータイソフトを作り、体を精神を壊したエンジニア達について少しは思い出してあげよう。

ケータイサイトのバッドノウハウ

ケータイサイトの作成は、バッドノウハウだらけです。あれもできない、これもできない、しょうがないからこうしとけ、そんなことが非常に多い世界です。

こういったノウハウは蓄積しても、メーカーやキャリアの規格変更であっさり使いものにならなくなります。資産として使えるノウハウや技術ではないことが多いわけです。

via: iPod touchとiPhoneは日本のモバイル市場の未来を破壊する:らばQ

はっきり言わせてもらうと、携帯電話にもはや 技術の蓄積は存在しない。経験年数3年未満の 若年層だけで場当たり的に「修正&修正」手法で 開発する体制に、技術の蓄積なんて奇跡が起こる はずがない。

現場の実務を行う連中に経験年数4年以上が皆無な のは、長くても3年で心身を壊して引退してしまう 為だ。1日4時間未満の睡眠で年中無休勤務じゃ、 3年持てば立派な方だよ。現場では頭脳は求められず 専ら体力勝負だから、体育会系なら5年ぐらい持つか もしれない。そしたら実務を下に丸投げして、無茶な スケジュールを叫んでさえいればいいので、うまく 行けば無能管理職として居座る事が出来るかもしれ ない。この業界は、上にさえ登れれば無能による 開発のトラブルや遅延の責任は現場に全て転嫁する 事が許されるので、末端から切り捨てられていくので 管理職以上は何をやっても安泰である。

via: clausemitzの日記:iPhoneが出ると地獄 - livedoor Blog(ブログ)

「情報技術者35歳定年説」というものがあった。私の経験範囲内ではこれは「笑止」としかいいようがないシロモノだ。経験のまっとうな蓄積は、体力の衰えを補ってあまりある、、、などと真面目に反論するのも馬鹿馬鹿しい。

じゃあこれはなんだったのか、といえば上に引用したように「体力だけが物を言う」職場がたくさん存在する、ということなのだろう。確かに「日本のケータイソフト」を作っている現場では35歳を超えるとつらかろう。

書いていて悲しくなるのは

そうしたエンジニアたちの努力、費やした時間が何の役にもたたなかったことだ。今や携帯電話売上台数ランキングはスマートフォンが独占している。ケータイのOS,アプリ、その上で動くWebページを作るための膨大な努力はなんだったのか。Android, iOSがきたらそれでおしまいなのか。

悲しいことだが実際にそうなのだと思う。私はケータイのOSには触ったことがないが、某巨大自動車部品メーカーが作った「カーナビアプリ構築フレームワーク」なら触ったことがある。歴史と、それに費やされた費用だったら決してiOSにひけはとらないと思う。

しかしその出来の差は「竹槍とB-29」よりもっと大きい。幼稚園児のらくがきとフェルメールの傑作くらいの差はあるだろう。

これらはソフトウェアのアルゴリズムがどうとかそういう大上段な話ではなくて、ユーザが実機で使ったときに「ちょっとでもスクロールがもっさりしてはいけない」というような、学者肌で理論派の開発者が苦手とする、言葉での説明が難しく、たいてい安易に妥協されがちな「フィーリング」の部分です。私は、その非言語的な価値に徹底的にこだわるその姿勢に、アップルの真骨頂をみました。そして何よりも、こうした問題が場当たり的に解決されるのではなく、ベストプラクティスがソフトウェア的に蓄積されていくというのが、汎用のOSやライブラリを持っていることの真の意義なのです。

via: iPhoneという奇跡:Kenn's Clairvoyance - CNET Japan

35歳以下のエンジニアが膨大な時間を費やした努力は結局なんだったのか。


「何にも使えない」と「いろんな使い方がある」

2011-07-19 07:14

ピッケのつくるえほん、というFacebookアプリがある。すばらしいUIを使って、こぶたのピッケや仲間のおはなしをつくることができる。

先日このアプリが展示会の模擬授業で使われたのだそうな。様々な人が感想をのべてくれたそうだが

立会いをしていて、「どの教科にも使えないですよね」と言われる方もあれば、反対に「いろんな使い方が考えられる、面白い!」と言われる方もありました。

via: 教育ITソリューションEXPO2011 終了: 「ピッケのおうち」ブログ

「新しいもの」に対する反応というのは常に似たような面がある。「使い道がない」というものと「いろいろな使い方がある」という一見正反対とも思える意見が交じるのだ。

これは受け取り手の想像力に大きく関係しているのではないかと思う。iPadを最初に見たときこうした感想を述べた人もいた。

これを持って何かをする自分が想像できない。今のところ自分を含めて誰かの何かをこれが解決してくれるとも思えない。とりあえずあの裏側のつるんとした引っかかりの無いパネルを手を広げて支えながら、自分は何ができるのかな?誰が何をするのかな?両手で両サイドを持ったり膝の上に載せたりして電子化されたドキュメントを読むのは目にキツイしなぁとかも思ったり。そもそも、そんなのを読みながらうたた寝をしてしまい、気が付くと落としたり枕にしてしまったりして綺麗な幾何学模様の入った画面と御対面するのは御免だし、混んだ電車の中でコレを使われるのは両肘を広げて携帯ゲーム機に集中してる人よりも罪が深いぞとか思ったり ・・・などなど。

via: iPadって誰がどこでどうやって使うんだろう?ってちょっと考えてみたけど、ワタシにはよくわかんないや:THE SHOW MUST GO ON:ITmedia オルタナティブ・ブログ

このiPadに対する感想が「ピッケのつくるえほん、はどの教科にも使えない」という感想と驚くほど一致するのには失笑を禁じえない。

今あるもの。今やっているやり方。そこから一歩も動こうとしない人にとってはiPadはただの中途半端なタブレットだし、ピッケのつくるえほんは「使い道がわからない」ソフトでしかない。

しかし

常に「今よりいいやり方は存在する」と信じる人間にとっては、新しいものを見て、触れたとき「これは使える」と直感することがある。そうした想像をふくらませてくれる「何か」に出会うのはとても幸運なことだ、と思わずにはいられない。

今のスタイルの学校教育が始まってから、時代も変わり基幹産業も変わりました。例えば子どものころ将来なりたい職業を書かされたけれど、大人になった私が就いた職業は当時存在していません。変化のスピードはあまりに速いのです。今の子どもたちが大人になったとき、どんな社会になっていて、どんな職業に就くかなんてわからない。
自分を肯定し人を信頼できる、知りたい学びたいという気持ち、無ければつくる、人や社会と繋がる、そんな態度や姿勢を身につけることが、いちばんオールマイティに有効だと思っています。

via: 教育ITソリューションEXPO2011 終了: 「ピッケのおうち」ブログ



断片的な事柄いくつか

2011-07-15 06:34

ここ数日見つけたことを並べる。


you sometimes think you want to disappear, but all you really want is to be found.
"消えてしまいたい"と思うことがあるだろう。でも本当は"見つけてほしい"と思ってるんだよ。

なんとなく思い当たる。「探さないでください」と書置きを残して立ち去るのもつまるところ「探してください」という叫びではなかろうか。

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英国王室の結婚式に関連して、離婚歴のある女性と結婚するために王冠を投げ打ったチャールズ8世の番組をやっていた。

例によってくだらないコメントをわめき散らすゲストがでて台本に書かれていることをしゃべっていた。あたかも「世紀の恋愛」のように扱ってはいたが、もちろんこんなことは全く触れられなかった。

「王冠を捨てた恋」の真実が暴露されたのは21世紀に入ってからだった。イギリスの諜報部の資料から、シンプソン夫人はエドワード8世との交際と同時進行で年下のセールスマンとも付き合っていた事実や、ナチスのリッペンドロップとも深い関係にあった事などが次々に暴露されたのだった。「王冠を捨てた恋」でシンプソン夫人の結婚による王室入りにイギリス政府が難色を示した本当の理由は離婚歴ではなく、シンプソン夫人の正体はナチスの手先で、エドワード8世との結婚によってイギリスがナチス融和路線に転じて国の進路を誤るのではないかと危惧したという事であった。

via: 誰か昭和を想わざる 王冠を捨てた恋

事実というのはいつも思ったより複雑だ。それを単純化せねばTV番組など作れないということなのだろうが。

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松本龍・前復興担当相が辞任前に「私はちょっとB型で短絡的なところがある」と、血液型に触れて釈明したことが、海外で関心を呼んでいる。血液型による性格判断になじみがない欧州メディアは「失敗を血液型のせいにできるのか」と驚きを隠さない。

via: asahi.com(朝日新聞社):「失敗を血液型のせいに」 前復興相弁明に欧州驚き - 国際

欧米なら、自分の星座を言い訳に使うようなものだろうか。
この血液型正確なんちゃら、というのは冗談として楽しむものだ、と思っていたのだがひょっとすると違うのではなかろうか、と不安になる。

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高校の同窓会で、元メリル・リンチにいた友達とあった。彼は一生分の金を稼いでしまっており、今は米国でファンドを作りCEOをやっている。彼曰く

「日本はもう駄目だ。社会主義的なことばかり政府がやっている」

彼に同意せざるをえない。

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SFは未来を予見している。SF作家は客観的に物事を観察し、未来を見通す素晴らしい人達だ!という言葉にでくわすことが何度かある。

先日こんな言葉を見つけた。

そりゃそうだ、SFですら、よってたかって「バーチャルアイドル」を想定しても、

初音ミクを想像的なかったんだから。


過去のSFが想像できたのは、シャロン・アップルであり、伊達杏子であり、江口愛実であって

初音ミクではなかった。


政府機関、芸能プロダクション、なにか巨大な組織が大衆を操るためにトップダウンするものであり、

ボトムアップで「女神」を生み出すバーチャルアイドルを、過去のSFは想像できなかった。


凄いことなんだぞこれ。

人類の過去の想像力をはるかに超えた存在を、日本は生み出したんだ。

via: 「初音ミクは神そのもの」 21世紀から新しい宗教が生まれるとすれば、それは初音ミクのようなものだろう。:【2ch】ニュー速VIPブログ(`・ω・´)

初音ミクの誕生と成長にリアルタイムで立ち会えているのは幸運としかいいようがない。


人に振り向いて貰う方法

2011-07-14 06:32

今朝こんな文章を見つけた。

最近女性から聞いた聞いた「かわいい彼女を作る方法」が納得がいったのでつぶやいとく。「女子は、その男子からもらった『うれしい』の量が一定に達すると惚れるの。例えばプレゼントとかは、そういう意味では効果があるけど高いものが『うれしい』とは限らないから注意が必要」

via: Togetter - 「かわいい彼女を作る方法」

というわけで女性にもてようと思ったら、相手が何を喜ぶか、うれしいと思うかを一生懸命考えなさい、ということである。この文章をよみ、以前読んだこの文章を思い出した。

かつてネトゲで数十人を率いていたという妻「相手が欲していることは何で、どうやったらモチベーションを高く持ってくれるかを必死に考え抜くの。そうしたら勝手にみんなが動いてくれる。それがマネジメントだよ。やってないから帰りが遅いんじゃないの?」

via: かつてネトゲで数十人を率いた妻の「マネジメント論」 - chocontaの日記

女性に振り向いてもらうのも、他人をマネージメントするのも肝要は同じで、相手が何を欲しているのか、何に価値を認め、どうすればそれを実現する手伝いができるのか、そこを考えることではなかろうか、と思い出している。

これは存外難しい。「人ほど変わったものはない」というのは祖父の言葉だが、何に価値を認めるかはこれは本当に人様々だ。私はゴルフをやるたび「ボールを掴んであの穴に叩き込んでやる」と思う人なのだが、信じられないような大金を払い朝早くから奇妙な格好をして(私の主観)遠くまでゴルフをやりにいく人もいる。

だからそれを考えるのは「必死に」やらなくてはならないことなわけだ。

ただごくまれにだが「自分が楽しそうに何かをすることで、周りも前向きにうれしい気分にさせる」という人もいる。こういう人にはまた別の方法があるのかもしれん、とか。


語学力について

2011-07-13 06:38

本日は、思い込みとうろ覚えだけで書きます。

私の経験から考えたことだが、外国語を学び、使うセンスというものはたしかにあるように思う。いつのまにかへらへらしゃべっている人もいれば、いつまでたっても固まってしまう人もいる。

でもって北杜夫の「どくとるマンボウ航海記」にこんな一節があったと記憶している。

「旅しているとなんか国語もしゃべれる火星人のような人がいる。しかしそうした人が必ずしも人間として上等かというとそういうわけではない」

先日うちの奥様からも同じような話を聞いた。私は第2次世界大戦前夜の首脳会談で、英語、仏語、ドイツ語、イタリア語を全て話すことができたのは、ムッソリーニだけだったと答えた。

でもってここからだねえ

外国語を学び、話す能力と、他の知力は全然連動していない、という結論を導き出そうとするわけだ。脳のなんちゃらがずいぶん進んだ昨今であれば、こういうテーマで研究した人もいないのかな?


頭の中にはポインタだけ

2011-07-12 06:40

子供からの質問に「お父さん知らない」と答えると「じゃあパソコンで調べて」と言われる。たしかに彼と彼女にとっては

「わからないことは、パソコンに向かって何かすると答えがでる」

という魔法の箱であるな。
パソコンで調べる。ネットで何か面白いものを見つける。なんらかの方法をつかって電子的にスクラップする。それでおしまい。いや、こうしたことはおそらく紙とのりを使ったスクラップでも存在はしたと思うのだ。

しかしこの場合「便利さ」は悪い方向に向かっている。をを、このページ面白いね。Evernoteボタンをぽん。はい、これで完了。本人は何か知識を得た気になっているが、二日たてばEvernoteにいれたことを忘れるし、そもそもその内容をきちんと読み返すことなどない。

つまりこの場合「面白い情報はEvernoteにはいっているし」というポインタ情報しか頭の中にははいっていないわけだ。

こうした傾向に危惧を持つ人は少ない。今読んでいる本にはこんなことが書いてある。

われわれを最も人間的にしているものは、われわれの最も計算不可能な部分だとワイゼンバウムは信じるに至った-その部分とは、精神と身体のつながり、記憶や思考を形成する経験、感情や共感の能力である。われわれがコンピュータといっそう親密に関わるようになる際に-われわれが人生の多くを、スクリーン上で点滅する身体を持たないシンボルを通じて経験するようになる際に-直面する大きな危険は人間性を失ってしまうことだ、わえわれと機械を区別している特性そのものが犠牲にされることだ。この運命を回避する唯一の方法は、われわれの精神活動と知的追求における最も人間的な部分、とりわけ「知を必要とする作業」を、コンピュータにゆだねまいとする自覚と勇気を持つことだとワイゼンバウムは述べる。

ネット・バカ p285


過去数十年にわたる「人工知能」の研究でも、全く解明の糸口すらつかめていない分野はいくつかある。IT技術は便利に使わせてもらいながら、その人間故の部分を強化する。これは考えるべき方向ではなかろうか、と思うのだが。


萌家電の公開実験にいってきたよ

2011-07-11 06:34

というわけで萌え家電である。

公開実験が行われるというので観に行った。

水道橋にある大和ハウスのショールームで行われた。私が入っていくと、ちょうど2:30の回が見学をはじめるところだった。というか私が数分遅刻してしまったのだろう。すまんこってす。

まず小さなプレゼンルームに通される。まず大和ハウス担当者の方から「今までスマートハウスという技術を普及させようとしてきましたが、なかなかうまくいっていません」という説明がある。スマートハウスのメリットはまず節電、というところを訴求しているそうな。真面目な会社が真面目に考えるとそうなるのだろうけど、それじゃうまくいかないよなあ、と思う。

その後ソニーCSL大和田氏のプレゼンを聞く。狙いは家電をゲーム化することなのだそうな。エアコンと扇風機を両方使うと節電になる、ということをキャラクター同士のストーリーで語っていくと。ふーん、と思いながら聴く。ちなみにプレゼン中キャラクターセットが三つ紹介されたが、大和田氏一押しは、豚家電なのだそうな。

それが終わるとデモに案内される。入り口ではまずいくつかのキャラクターが「ご主人様おかえりなさい」とか言ってくれる。こういうのって実際やると一回で飽きるんだよなあとか思いながらそのデモを見る。

次に階段を上り、エアコンと扇風機のデモに移る。使われている扇風機が大変クラシックなもので懐かしくなる。いつものことだが、設定されたセリフを聞いているうちいらいらしてくる。まわりくどいのだ。じゃあ無味乾燥の表示だけあればいいか、と言われればそうでもない。この矛盾を解消するいい手立てはないものだろうか。

次にブルーレイレコーダーがプロモーションビデオを勧めてくれたり、上映と同時に照明を落としてくれたりするデモがあり、最期に冷蔵庫があれこれしゃべる。冷蔵庫はそもそも動かないので、選択するとどうでもいいような会話をしてくれるのが結構楽しい。

といったところでデモは終了。アンケート記入になる。


まず家を買うのは誰か。誰に決定権があるのか、という事を考える必要があると思う。オタ向け単身住宅ならこれでもいいだろう。しかし家を買うのは(少なくとも我が家では)奥様であり、意見を尊重されるのは子供だ。旦那は財布を出すだけ。であれば、奥様がこの萌え家電にどのように反応するか考えたほうがいいと思う。

大和ハウスの担当者が語った「スマートハウスの訴求ポイントは節電」というものの言い方はいかにも真面目な企業の真面目な検討結果という気がする。しかしその路線で攻める限り絶対に普及しないと思う。太陽光発電も「何年で元がとれます」とか真面目に言っている間は誰もつけないのだ。

そう考えると、思わず見とれるような見事な家電の連携とかを考えてもいいのかもしれない、と思う。複数の照明、音響、家電を連携して制御することでこんな美しい空間をつくることが、、、というのも売れなさそうだな。言いたいことは「真面目にコストパフォーマンスを定義するより、他の売り方を」ということ。

ちなみに、大和田氏の基本コンセプト「家電をゲーム化」というのは結構おもしろいかもしれん、と思った。いや、子どもがiPadでAngry birdとか無料のくだらない(と私が思う)育成ゲームに夢中になっているのを見てるからなんだけどね。

子供の頃、家のなかでかくれんぼをして遊んだ。家というのはまさに遊びの場だったのだ。

それであれば、それの21世紀版を考えてもいいのかもしれない。TV画面やゲーム機の画面に限定された遊びは不健全だ。家電をタンジブルなビットの入出力デバイス、と考え、家の中を走りまわる体験ゲームを、、とか言葉だけは浮かんでくるのだが。

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私が考えるよい研究とは「よくできたSFのようなもの」である。それを見た人間が想像力を膨らますきっかけになるのは私の定義では良い研究だ。

そう考えれば、この「萌え家電」は私にとって興味深い試みであった、ということができる。いや、萌えキャラには何の思い入れもないどころかイライラするだけなんだけどね。


WISSのプログラム委員会に行ってきたよ

2011-07-08 07:34

WISSというワークショップがある。とにかく特徴のある集まりなのだが、話すと長くなるので、「そもそもそれはなんなのだ」という方はここらへんからお読み下さい。

子細は省くが、昨日WISSプログラム委員会があった。委員長はチャールズ・エグゼビアこと産総研の後藤さんである。

WISSでは去年「三大改革+1」をかかげた。今年は去年のフィードバックを取り入れた上でさらにそれを進めようとしている。会議の出席者は21名。それぞれに自分の意見を持っている人たちだが、皆の発言を十分に取り入れた上でどんどん話を進めていく。

こうしたカンファレンスとかそうしたものには一定のパターンがある。しかしその中で「これはおかしい」というものは躊躇なく切り捨て、ここは重要と思えば議論を重ねる。

後藤さんと参加者が発する熱気というのはちょっと他では体験できないようなレベルだ。そもそも泊りがけで会議を行う理由はなにか。今やUstream,ニコニコ生放送で見ることができるではないか、そうした問にもちゃんと答えをだそうとしている。来るからには議論に参加してもらう。そうした姿勢が去年以上に徹底しそうだ。多様な価値観を持った論文+議論がどんな結果を生むのか今から楽しみである。

去年WISSに参加して「来年は絶対発表してやるぞ」と思った人は多いだろうが、今年はさらにその傾向が強まるのではなかろうか。プログラム委員の端くれとしては
「みなさん、これに投稿しなければ人生を損しますよ」
と言うべきであるし、実際にそう思っている。しかし自ら投稿を考えている立場としては
「あのー。みなさんお手柔らかに」
と思ったりもする。


独立変数と従属変数と

2011-07-06 06:31

Web関連の研究について聞くたび思うことだが

「それの評価ってどうやるの」

どんな研究にも評価はつきものではないか、と言われればそのとおり。だいたい権威ある学会に通る論文というのは、誤差バーつきのグラフがのっている。有意差があるのないのほにゃらほにゃら。

でもっておなじみ心理学の皆様が特異な「実験をきちんと計画して、独立変数と従属変数が云々カンヌン」になるわけだ。条件は統制しましょうねえ。じゃないと論文とは言えませんよー。

とかなんとか言ったところで実際に流行っているサービスには勝てないし、そもそもユーザを無作為に選び、異なる選択肢にどう「現実世界で反応するか」を見たほうがはるかに説得力があるし実際的でもある。先日もブログのネタにしたこの文章。

オファマティカは、過去のデータを元に数字をはじく社内分析屋だけでなく、大学の研究室ですさまじい対照実験を行う「ユーザビリティ専門家」とも対決することになる。ユーザビリティ専門家は、実験室で確立されたいくつかの原則に大いに自身を持っている-たとえば「人々はまず左上の隅を見る」とか「人は青より赤に注目する」とか。 ロシュは反論する。「現実の世界では、広告はものすごい数のその他の入力と競合しています。対照実験なんてものは存在しません。ユーザビリティ専門家は、他の情報の津波が押し寄せているのに砂でできた真実の城にしがみついているんです。」

その数字が戦略を決める P103

条件を統制して云々とかいったところで現実世界でそんなことはできはしない。であればそもそもその実験は何を計測しているのか、ということになる。

いや、大気中ではF=maなんてものは絶対に観測されないが、それでも運動方程式の有用性は、、とかくだらない論議が続くのかもしれん。

ーーーーーー

というかWeb関連研究でどうも評価がいかがわしいと思うのは、「そんなに素晴らしい技術(サービス)ならさっさと公開すればものすごいユーザがつくのでは」と思ってしまうからだ。論文の常として、多くのサービスは現実世界でよちよち歩きさえできない。

であれば結局論文のための研究ということになり、、、とか思うことが多いのだけどね。


発言できなくなること

2011-07-05 06:35

Google+というサービスがアナウンスされた。いろいろな感想を読んでいると、やはり一番インパクトがあるのが、コネクションをグループ分けできる機能のようだ。

既存のオンライン サービスでは、すべての人間関係を「友だち」というひとつの括りにまとめてしまいますが、このことが情報の共有に様々な問題をもたらします。


via: Google+ プロジェクト

Facebookにもこの機能があるらしいが、知らん。というわけでこの機能だけでも「Google+がはやってくれないかな」と思わせるに十分だ。

例をあげよう。先日知り合いの女性がプロフィールの写真を変更した。新しいヘアスタイルがとても似合っていたので、そのことをコメントしようかと思った。

しかし

ふと気がつく。この書き込みは奥様および親族にもみられるのだ。天地神明に誓ってやましいところはないのだが、しかし果たしてどうしたものか。ここで激賞したら奥様に「あたしが髪型変えたときはどうだったかしらね?」と皮肉を言われないだろうか。

結果として「似あっていますね」の一言でおしまいにせざるを得なかった。お友達が増えるというのは、発言が困難になることも意味している。まあどこかの復興担当大臣のような性格だったらそんなことは何も気にしないだろうけどね。


今時の大本営

2011-07-04 06:34

というわけで、国民の22%が支持する菅内閣の松本復興相である。

田アナ:こんばんは。松本龍復興担当大臣が、就任後初めて、今日、宮城県庁を訪れましたが、村井知事が出迎えなかったことに腹を立て、知事を叱責しました。
 宮城県庁を訪れた松本龍復興担当大臣、村井知事が出迎えなかったことで顔色が変わります。

松本復興相:(村井知事が)先にいるのが筋だよな。

長田アナ:数分後、笑顔で現れた村井知事が握手を求めようとしますが、これを拒否。応接室に緊張が走ります。そして要望書を受け取ると、松本大臣が語気を強めて自らの考えを伝えます。

松本復興相:(水産特区は)県でコンセンサスを得ろよ。そうしないと我々は何もしないぞ。ちゃんとやれ。
 今、自分は後から入ってきたけど、お客さんが来るときは、自分が入ってきてからお客さんを呼べ。いいか?長幼の序がわかっている自衛隊なら、そんなことやるぞ。
 わかった?


村井知事:はい。

松本復興相:はい、しっかり、あの、やれよ。
 今の、最後の言葉はオフレコです。いいですか? 皆さん。いいですか?はい。ぜっ、書いたら、もう、その社は終わりだから(以下聞き取れず)

長田アナ:松本大臣のこの言動は、波紋を呼びそうです。

via: 自分の立場がわかってない大臣と、牙を抜かれたメディア|巡る因果の猫車

さて、これを親愛なるメディアがどのように報道したか見てみよう。

「県は独自カラーを出してトップランナーになり、さまざまなパイロット事業を展開してほしい」と激励した。
 松本氏は「今後は(自治体間の)競争になる。どんどん知恵を出してほしい」と積極的な取り組みを促した。被災者の復興住宅整備や復興特区に関する法整備を急ぐ考えも明らかにした

via: 河北新報 東北のニュース/「どんどん知恵出して」 復興相が岩手、宮城両知事を激励

松本氏は達増知事に対し「知恵を出したところは助け、知恵を出さないやつは助けない。そのぐらいの気持ちを持ってほしい」と述べ、復興政策には被災自治体の主体的な取り組みが不可欠との認識を示した。

 松本氏は宮城県の村井知事との会談で、同県が復興計画案で掲げた漁港集約方針に水産業者が反発している問題に言及。「県でコンセンサスを得るべきだ。そうしないと我々は何もしない。ちゃんとやってもらいたい」と語り、まずは宮城県内の意見集約を要請した。

via: 松本復興担当相:岩手、宮城知事と会談「復興は知恵合戦」 - 毎日jp(毎日新聞)

また、「九州の人間だから、(被災地の)何市がどこの県とか分からん」と冗談めかして発言した。

 その後訪れた宮城県庁では、村井嘉浩知事が後から部屋に入ったことについて、「お客さんが来る時は、自分が入ってから呼べ」と語った。同県が重点的な漁港整備を要望していることについても、「県でコンセンサスを得ろよ。そうしないと我々何も知らんぞ」と述べた。

via: 復興相「知恵出さない奴は助けない...つもりで」 : 政治 : YOMIURI ONLINE(読売新聞)

会談では、仮設住宅の要望をしようとする達増知事の言葉を遮り、「本当は仮設はあなた方の仕事だ」と指摘。仮設住宅での孤独死対策などの国の施策を挙げ、「国は進んだことをやっている。(被災自治体は)そこに追いついてこないといけない。知恵を出したところは助けるが、知恵を出さないやつは助けない。そのくらいの気持ちを持って」と述べた。また、「九州の人間だから、東北の何市がどこの県とか分からない」と冗談めかして話した。

 午後に訪問した宮城県庁では、応接室に後から入ってきた村井嘉浩知事に「お客さんが来る時は、自分が入ってから呼べ。しっかりやれよ」と語った。被災した漁港を集約するという県独自の計画に対しては「県でコンセンサスをとれよ。そうしないと、我々は何もしないぞ」などと厳しい口調で注文をつけた。

via: asahi.com(朝日新聞社):松本復興相、岩手・宮城両知事にきわどい発言連発 - 政治

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民主党政権命の毎日新聞の「ブレ無さ」には感動を覚える。しかし書きたいのはそこではない。他のメディアもそろって

「今の、最後の言葉はオフレコです。いいですか? 皆さん。いいですか?はい。ぜっ、書いたら、もう、その社は終わりだから」

を報じないのはいかなることか。

メディアごとにスタンスを持つのは悪いことではない。特に各メディアの報道を比較することができるようになった昨今ではなおさらだ。

Publicに向かって報道するのは常に勇気のいることだ。批判もあろうし、捏造だ、歪曲だと騒がれることもあるだろう。
しかしその報道自体を制限するような発言に対して、ほおっかむりをしていていいのか。自らの生命線を脅かすような発言に対して「その場面はカット」しておしまいなのか。時の権力に媚び、すりよって何のメディアか。

この状況で全てを報道した東北放送には心からの敬意を表したい。他のメディアには心からの軽蔑を贈ろう。それでメディアなどと名乗って恥ずかしくないのか。また太平洋戦争の時のように、大本営発表をそのまま垂れ流し、戦意高揚に協力するつもりか。


神の視点

2011-07-01 07:17

というわけで、先日スカイラインー征服、という映画を見た。

この映画ではある日突然空から何者かが襲ってくる。どこから来たのかとか、(そもそもエイリアンであるとは誰も言っていない)何が目的だとかそんなことは一切触れられない。あれこれ抵抗したが結局人類絶滅か、といったところでいきなり投げっぱなしのジャーマンスープレックスが炸裂!という楽しい映画であった。(もうちょっと長い文章はこちら

映画を見ながら考えた。実際に大きな災害にであってしまったときの個人というのはこうしたものだ。全体で何が起こっているかさっぱりわからない。ただ目の前の出来事に対応して右往左往するだけである。少なくとも私は311の時そうだった。(この日及び翌日の行動についてはこちら

対するに

日本でかつて作られていた怪獣映画、というのはこうした「災害に直面した一個人」とはつねに異なった立場で描かれていた。いうなれば神の視点である。主人公はそれが新聞記者であっても一個人であってもいろいろなコネをたどって「ゴジラ対策本部」に顔をだすことになる。そして映画の作りては

「全体はこうなっています。ゴジラをこうやってやっつけます」

と言わなくては気がすまないのだ。

あるいは私が見ていないだけでそうでない視点のものもあったのかもしれん。しかし私が見た「一個人での右往左往視点」の映画はすべて米国産だ。ET,宇宙戦争、クローバーフィールド。

ここでやや強引に「日本で映画を作るときには神の視点を入れずにはいられない」と結論ずけてしまおう。このことと、日本で近年碌な映画が作られないことと何か関係はあるのかな。もっと言えば「硫黄島からの手紙」を日本人がつくることができないのと何か関係はあるのかな。と今日のエントリーも投げっぱなしジャーマンで。

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ちなみに私が↑で挙げた「個人の視点で右往左往」映画(複数形)に関わった人間が作ったスーパー8は、エイリアンさえでてこなければ名画という変わった映画でした。感想はこちらをどうぞ。