幽霊をつかまえようとした科学者達

2007-06-29 00:00



という本を読んでいる。というわけで本日は半ばまじめに「科学者が幽霊を捕まえるためには」という問題、、ではなくて「超能力が科学のまな板に乗らない理由」について書いてみる。


「超能力」についてなされる反論のうち「それは科学的にありえない」とか「物理的にありえない」というものはどう考えてもフェアではない。


・現在認識されている物理現象からはそうした事象を説明できない。


という事実から


・そうした事象は存在しない


と結びつけるのはおかしい。それをいうなら、特殊相対性理論だって生まれなかったはずだ。方向によって光の速度が変わらないことは、当時の科学理論では説明がつかない事象だったのだから。


ではなぜ特殊相対性理論は科学理論として認められ、超能力は理論足り得ないか?それは「科学的な実験」でそうした事象が捕まえられないから。


ここで


・科学的な実験でそうした事象は観測されない


から


・そうした事象は存在しない


とするのはこれまた間違っている、と大胆に主張してみよう。どうしてか?


一時ビッグバンの対抗理論とみなされていた「定常宇宙論」について私が知っていることはこうだ。宇宙は膨張しているが常に「真空の空間」から物質が生み出されているので、その姿は変わらないように見える(つまり薄まったりしない)


ここで「真空から物質が生み出される」ところは誰も観測したことがない。にもかかわらず、そうした「観測されない仮定」をベースとした理論はちゃんと科学的議論のまな板に乗ったのだ。これはどうしてか?


こう考えてみよう。人類一億人のうちに一人の割合で、一生に一度だけ発揮できる「超能力」を持った人がいる、と。こうした「事実」があったとしてもそれは科学的実験で確認されるだろうか?


私は無理だと思う。誰かが何か奇跡的なことをしたとうわさになる(一生に一度ならそれも無理そうだが)科学者が仮に腰をあげて「実験」したところでその能力は失われている。結論:デマかトリック


この「超能力」と定常宇宙論における「真空からの物質創生」の違いはなんだろう?なぜ前者は言下に否定され、後者は科学理論の前提として認められるのか?


などとつらつら書いたからといって私が「マリックは超能力者だ」と主張していると思わないでほしい。最初にあげた本にも書いてある。職業的超能力者は調査するに値しない、と。調査すべき事例だけを集めようとする試みはいつも失敗したのだ。それほどノイズとペテンの信号は大きい。


つまり「超能力」にはあまりにも多くのノイズがのっているため、多少強引なロジックを用いたとしても「言下に否定」し思考から取り去ることが現実世界において適切な方法、ということなのだろうと思う。それが超能力と「真空からの物質創生」を分けるものなのではなかろうか。


しかし個人的に常に意識しておきたいのは、科学的強弁はあくまでも「強弁」にすぎない、ということだ。現実的な知恵とはいえようがロジックの上からは正しくない。なんでこんなことを言い出したかというと、最近「感情」がコンピューターヒューマンインタラクションの上で避けて通れない要素だと思い始めているからだ。そして「感情」は科学のまな板の上に載っていない。(心理学って科学?)しかしだからといって「ゆえに感情は存在しない」というのは馬鹿げている。




懸念はしていたが。。

2007-06-25 00:00



ソフトウェアキーボードは端的に表現して「期待はずれ」。

まだ出るiPhone新情報&先行インプレッション - Engadget Japaneseまだ出るiPhone新情報&先行インプレッション - Engadget Japanese


やはりソフトキーボードではつらいのか。WWDCの基調講演で、担当の男が何かをうとうとしてた、が途中で適当に切り上げたのをみて


「これは製品版でも、、」


と気にはなっていたのだが。


どこかの会社が外付けキーボードを発売するであろうことはまあ確かなのだが、本体と違和感ない形で装着できるとも思えず。日本に入ってくるときも「片手でメールが打てないケータイなんかいらない」という声が大きくなりそうだなあ。個人的には携帯でメールを打つ、ということが信じられない「古い人」なので特に問題はないのだが。


というかそのほうが入手しやすくなるだろうからよいか。。




蛙が王子様になるとき

2007-06-18 00:00



冷たい視線を浴びてタレント発掘ショーの舞台に立ったブオトコが魂に響く熱唱、2000人の大聴衆を感動の渦にについているはてなブックマークのコメントを見ると、いろいろなものがある。質の低いやらせだ、ということを得意になって指摘している人も何人かいるようだ。しかし私が語りたいのはそうした人たちについてではない。


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D


このビデオを見てほしい。演出が気に入らないのならこの男が歌い終わるまでだけでもよい。観客の中にそっと涙をぬぐっている女性がいる。そして私も感動した。なぜだろう?


歌っている男の顔の変化に注目してほしい。舞台に出てきたとき、そしてインタビューに答えているときの自信なさげな顔。それが歌い始めたとたん一変する。どうみても整っているとはいいがたい容姿が自信と歌への愛にあふれる。それはまさに審査員の女性がいうところの


「蛙が王子様になったところ」


なのだ。


自分に「過信」ではなく「自信」を持つことはとても難しい。コンプレックスを感じ、いづらく感じることばかりが多いと感じる。(先日米国の会議に行ってきたが、白人社会に身をおくとそのことを痛切に感じる)


容姿に自信をもてるはずもなく、ぼそぼそしゃべるこの男の姿はまさに普段の私の姿に重なる。それ故、彼が歌うときに見せる美しく、雄雄しい顔は私の感情をゆさぶるのだ。




無責任な楽観主義

2007-06-06 00:00



本日の内容は5月8日の続きである。(一応放り出していたことを覚えてはいるのだ)


さて、「幸福幻想主義」と「前向きな姿勢」を分けるものはなにか?というところで前回はおしまい。


答えは自分なりにもっていたのだが、そのものずばりのことが書いてある本を見つけた。「ビジョナリーカンパニー2」で取り上げられている「ストックデールの逆説」である。





下調べをしようと、わたしは『愛と戦争』を読んだ。ストックデール夫妻が交互に執筆して、八年間の体験を記録した本である。


本を読み進めると、気持ちが暗くなっていった。やりきれなくなるほど暗い本なのだ。いつ終わるともしれない苦難が続き、収容所側は残忍だ。やがて、少しずつみえてくるものがあった。「自分はこうして、暖かく快適な研究室に坐って、美しいスタンフォードのキャンパスを眺めながら、美しい士曜日の午後をすごしている。この本を読んで気分が暗くなっているが、自分は結末を知っているのだ。収容所から釈放され、家族との再開を果たし、アメリカの英雄になり、後半生をこの美しいキャンパスですごし、哲学を研究している。それを知っているのに気分が暗くなるのなら、収容所に放り込まれ、結末がどうなるかも知らなかった本人は、いったいどのようにして苦境に対処したのだろうか」


わたしの質問に、ストックデールはこう答えた。「わたしは結末について確信を失うことはなかった。ここから出られるだけでなく、最後にはかならず勝利を収めて、この経験を人生の決定的な出来事にし、あれほど貴重な体験はなかったと言えるようにすると」


(中略)


百メートルほど歩いたころ、わたしはようやく次の質問をした。「耐えられなかったのは、どういう人ですか」


「それは簡単に答えられる。楽観主義者だ」


「楽観主義者ですか。意味が理解できないのですが」。わたしは頭が混乱した。百メートル前に聞いた話とまったく違うではないか。


「楽観主義者だ。そう、クリスマスまでには出られると孝える人たちだ。クリスマスが近づき、終わる。そうすると、復活祭までには出られると考える。そして復活祭が近づき、終わる。つぎは感謝祭、そしてつぎはまたクリスマス。失望が重なって死んでいく」


ふたたび長い沈黙があり、長い距離を歩いた。そしてストックデールはわたしに顔を向け、こう言った。「これはきわめて重要な教訓だ。最後にはかならず勝つという確信、これを失ってはいけない。だがこの確信と、それがどんなものであれ、自分がおかれている現実のなかでもっとも厳しい事実を直視する規律とを混同してはいけない」



希望を持ち続けることと、現実をありのままに受けとめることはワンセットでなければならない。これは信じられないほど見過ごされている点だ。たいていの場合「前向きになること」「楽観的に考えること」「後ろ向き思考はだめだ」という点が強調される。しかし現実を踏まえなければ、それは帝国陸軍の「必勝の信念」でありテロをおこしたオウム真理教の信者となんらかわることはない。


しかし


今回この「ストックデールの逆説」という言葉を知り、検索してみると「??」といいたくなるような文章にいくつも出くわす。どうもこのエピソードを


「悲惨な捕虜生活であっても希望を持ち続けることが大事だ」


とだけとらえている人がとても多いように思うのだ。↑で長めに引用したのはそれを強調したいがためである。捕虜となっている間に妻と交わした書簡は「暗いけど、希望はすてていないよ(はーと)」という類のものではない。読んでいる人間をも暗くさせるようなものだ。


それでありながら希望-ではない-確信を持ち続けるということはどうしたら可能なのだろう。この本はそれには答えてくれない。理性を働かせ合理的に考えたら希望も何ももてないような状況におかれ、その事実に目をつぶることなく確信を持ち続ける。これはどうしたら可能なのか。考えることはつきない。


ちなみにこの本を読み、東条英機の「必勝の信念」とチャーチルの有名な演説を隔てるものについてひとつの回答を得たような気がする。それについては本家の「失敗の本質の一部」に書くことにしよう。裏づけとかしらべなくちゃいけないしね。




自分中心のユニバーサルデザイン

2007-06-04 00:00



HCD-Netフォーラム2007 「ユニバーサルデザインはこれからどうする」に出席した。


まずパネル討論に先立ち、参加者のプレゼンがあった。当初の予定表から考えるに一人の持ち時間は15分。発表順序は以下のとおりである。


【それぞれのユニバーサルデザイン】13時40分から14時55分


・諸永 裕一氏 (経済産業省)


・川原 啓嗣氏 (国際ユニヴァーサルデザイン協議会)


・関根 千佳氏 (ユーディット)


・横尾 良笑氏 (日本ユニバーサルデザイン研究機構)


・ばば こういち氏 (放送ジャーナリスト)


参加者は大変しゃべりなれた印象のある人たちだった。よどみなく、芝居がかった口ぶりで自分の考えるところをとうとうと述べる。


終了予定時間は14時55分。しかし3人目の関根氏がしゃべり終わったのが15:00だった。関根氏は途中で自分が時間オーバーしていることに気がついたようだが、それでもしゃべり続ける。


次の横尾氏は20分しかしゃべらなかった。(途中で時間オーバーに気がついたようだが、やはりとまることはなかった)


彼らの述べた内容は大変勉強になった。そして私のようなチンピラサラリーマンよりもはるかに社会的に重要な仕事をしていることも間違いない。


しかし聞いているほうとしては彼らの言葉をそのまま受け取るわけにはいかない、と感じた。「誰にも優しい社会の実現。誰もが使えるユニバーサルデザインを」と説く彼らは、運営側の立場、あるいは忙しいなか時間を割いて参加している参加者の都合をまったく無視しているからだ。


「よいことをいう」ことと「よいことを行う」ことの間には深くて長い溝がある。というかまったく別物である。韓非子も説いている。その人を見るには言うことと行うことを両方を観察すること、と。


参加者の中で最後に登場したばば氏はこのような文章を書いている



企業人としてUD部門を担当し、UDこそ今の製品作りに不可欠だと高らかに叫んでいる者の中には、家に帰れば横暴な亭主関白だったり、子供にはまるで理解のない頑固親父というタイプが居る。自己中心的で他者の言葉などは聴こうとしないタイプの人間でもある。この種の建前と本音の二重性を持つ男が日本には多いのだが、いくらUD、UDと叫んでもまさに「仏作って魂入れず」でそんなUD製品はどこかに欠陥が出てくるものである。



ばば氏だけはきっちり15分でプレゼンを終えた。彼の言葉にはこれからも注目していきたい。




ビジョナリーカンパニー

2007-06-01 00:00



ある人の勧めで読んでみた。


確かにインスパイアされる点は多々ある。さて、わが社の「基本理念」はなんだろうか、と考えればそれは「親会社もしくは祖父会社にほめていただくこと」であると思い当たった。誰もそれを公にはしないが、下から見ていると、そうした「理念」はとてもよく見えるのです。


さて、私は人のあらを探すのが大好きな人だから、この本について「どうしても気になる点」を書いておく。それはIBMの扱いだ。


IBMはビジョナリーカンパニーのひとつとして取り上げられている。しかし(おそらく筆者も気がついていると思うが)IBMはこの本でビジョナリカンパニーの特性と思われるものに当てはまっていない。たとえばカルト文化がそうだ。P212に



「1990年代初めに苦境に陥ったのは、このカルトのような社風と、三つの基本信念へのこだわりのためではないかという疑問がわいてくるかもしれない」



と書いている。私もまったくそう思う。しかしその後に「事実をくわしく調べていくと、そうとはいえないことがわかる」と反論を展開する。結論として



「IBMのカルトのような企業文化、基本理念を熱狂的に維持する姿勢が弱まっていったときに同社は苦境に向かっていたといえる」



と述べている。しかし読者にはその結論をどのように合理的に導いたのか理解ができない。少なくとも私には同意できない。


かくして「おわりに」で「IBMにどのような助言を与えるのか」という項では



基本信念を大きな活字で印刷した紙に、全員が署名すべきだと助言するだろう。



とカルト的性格を強める助言している。




またIBMが外部からガースナーを迎え入れたことにも著者は強く反発している。生え抜きの経営陣はビジョナリカンパニーの特性だと主張しているがゆえに。



ビジョナリカンパニーには、変革をもたらし、新しい考え方を取り入れるために経営者を社外から招く必要はまったくない。P308



確かに著者の主張は一貫してはいる。しかし私も現実も彼らの主張からは隔たっている。この本が書かれてからすでに10年以上が経過した。ある記事によればこの本で上げられた18社のうち、7社は現在では到底ビジョナリーカンパニーの名に値していないと言う。私の実感でも、ソニー、ディズニー、フォード、モトローラがビジョナリーカンパニーだなんてのは皮肉か悪い冗談にしか聞こえない。


もともとの調査が「長きにわたってビジョナリカンパニーとしての地位を保っている企業」を取り上げていたことを考えれば「たった」10年あまりでこのような変化が起こってしまったことは皮肉なことだ。


しかしそもそも10年たって思い出され、かつ揶揄の対象になる、ということ自体が偉大である、という点には疑問の余地がない。日本でも毎日山のようにビジネス関連書籍が出版されているが、それらの多く(というか全てではないかと思えるが)は2週間も生きながらえない。


かくしてここで述べたような点はあるにしても、この本から学べる点は多いと考えるわけだ。文句ばっかり言ってなくていい点を学ばなくちゃね。


しかしこの本に書かれているソニーを見ると本当に悲しくなる。1994年、確かにソニーは絶好調だった。輝いていた。私も心から転職できればなあ、と思ったものである。今は転職しなくて-とうかできなくて-よかった、と思っている。この凋落振りはどうしたことだろう。


自分でできないから書くのだが、誰かぜひこのビジョナリーカンパニーだったソニーの転落について冷静なレポートを書いてはくれまいか。それこそ10年以上を生き延びる教訓に満ちた書籍になると思うのだが。