夏の終わり

日付:1998/9/11

五郎の入り口に戻る

合コン篇+引っ越し準備:1章 2章 3章 4章 5章 6章 

米国旅行篇:7章 8章 9章 10章 11章 12章 13章 14章 15章 16章 17章

引っ越し篇:18章 19章


1章

1998年7月19日の日曜日は私の同期であるところのCOWの2次会であった。

彼は一浪しているので、私より一つ年上である。奥様も彼と同じ年である。この年になると、同期の多くはお父さん、お母さんとなっている。この2次会には合計7名の「2世」達が出席しており、店の後ろのほうはほとんど保育園と化していた。しかしながら結婚式の2次会に付き物の「新郎友人と新婦友人の間の交流」というものはちゃんと存在していたのである。

先日ラジオを聴いていたらこういうCMをやっていた。

(ある男が留守電を再生している)「○○。俺の結婚式の2次会よろしくな」

(ある男の期待と熱意に満ちた独白)「おまえの2次会。それは俺にとっての合コンだ。待ってろよ。新婦友人!」

(留守電の残りが続く)「あっ。ちなみに新婦友人全員人妻だから」

 

さてこの日の2次会はこのCMのようではなかった。新婦友人の独身の女性と、新郎友人の独身男性は共にちゃんと存在していたのである。そしてCOWの奥様は「お知り合いになりたいなー」と内心思いながら、容易に女性に声をかけることのできない腰の引けた我々独身男性の心情を察してか「大坪さん。SBYさん。こっちこっち」ということで、彼女のお友達に引き合わせてくれたのである。ちなみにこのSBYというのは私たちの一年後に入社した男で、好青年であるが、何故か未だに独身なのである。(人の事を言えた義理ではないが)今でこそ合コンからはずいぶん遠ざかっている私であるが、一時合コンを嵐のようにやっていた頃には彼は私の「合コン友達」とでも言うべき人間であった。

 

さて当日はCOWの2次会の余興として我々のバンドでひさびさにどんちゃかやっていたのである。そしてこれもいつものことなのだがバンドの演奏が終わると私は大変ご機嫌になり、ふぬけ状態になってしまうのである。従ってこの日はせっかくのCOW夫人の心遣いにも関わらず私はほとんど新婦友人の方々と話をしていない。旅行代理店に勤めている人がいたので、「いやー、今度アメリカ行くんですけどね、お宅ってやすいですか?はっはっはっ」等としゃべったところで、司会をやったHRの第2子がにこにこ笑いながら(彼はこの日ほとんどにこにこ顔で通していた。とにかくご機嫌だったようだ)ギターのアンプのスイッチに向かっていったのを見て泡食ってそれを止めるために席を離れた。

彼を後ろから引き留めると、ちらっと元いた席が目に入った。SBYはちゃんと席に腰を落ち着けてにこやかに談笑していた。私の方はといえば、後から考えれば私は偉大なチャンスになったかもしれない可能性を見事に見送ってしまったわけである。しかし当日の私はHRの第2子なみにご機嫌であったのでそのままにこにことお家に帰って安らかな眠りについたわけだ。

 

さてそれからの数週間私は就職先の最終決定のことで頭を悩ますことになった。ずいぶんとたくさんの企業に断られたり断ったりし、残った2社のどちらにするかを最終的に(少なくとも意気込みだけは)決定することになっていたのである。

一社は横浜にあるネットワーク関連の企業だった。N○○の子会社であるからまあ将来はそんあに危うくはなかろう。ただし仕事が面白いかどうかは今ひとつよくわからない。

もう一社は名古屋にある某銀行付属のコンサルティング会社である。こちらは全く新しい分野で、まさか本体の銀行がつぶれることはないだろうが、50くらいになったら自分で自分の道を探さなくてはならない。(考えてみればどの企業に就職してもそうかもしれないが)おまけにコンサルティングというのは興味がある分野なのだが、実際コンサルタント(他の企業である程度長く勤めて転職してきた人を除く)に会うといつも「どっと」疲れる。何故だろう?

多分コンサルタントという仕事には私にとって何か受け入れがたいものがあるのだろう。彼らは究極的には自分が言ったことの責任をとることはない。その契約は失うかもしれないが、会社をつぶすことはない。彼らがするのは判断であって、決断ではないのだ。コンサルタントは参謀かもしれないが、指揮官ではないのだ。なのに彼らの中には自分が経営者にアドバイスすることで、自分が経営者と同じくらい偉いと勘違いしている人がいる。それが時々私がコンサルタントとあって「傲慢」という印象をうける理由かも知れない。

しかしこちらには一つ明確なメリットがあった。私は田舎者なので基本的に田舎が好きである。この会社であれば私は場所を大幅に移動する必要がなくなる。大切なバンドの練習に参加するのも容易だろう。そして私の両親も名古屋に住んでいるのである。私の父も長男で、よく日曜日の夜は祖父と祖母のところにつれていってくれたものだった。私の脳裏にはあの光景が焼き付いている。N○○の子会社に就職して横浜に行くということは、これができなくなると言うことなのだ。

両社とも決め手がないままに、日にちだけが過ぎていく。本来だったらいろいろと人に聞いたりすればいいのだろうが、大半の時間は蒸し風呂のような(この表現は誇張ではない)部屋のなかでもんもんとしているだけである。

当日の朝になってもなんとも決めかねていた。そして私は実家に帰った。とにもかくにも家族に相談せねばならない。

 

父はあまり明確にどちらとは言わなかった。ただ「コンサルティングのほうがちょっと不安定かもしれないな。」と言った。姉は「コンサルタントって自分に酔って無くちゃできないわよ」と言ったし、母は大分考えた末に「コンサルタントって一人で仕事するんでしょ。あんたみたいな気の小さいのみの心臓の男は、”ああ。これでよかったんだろうか”ってノイローゼになるわよ」と言った。

それまでだいたい私の気持ちは午前と午後、昨日と今日、先週と今週で変わっていたが、ここで家族の言葉を聞いて考えは固まった。少なくとも消去法で行けば結論は明白なのである。

 

さてアパートに戻ると心を落ち着けて電話をかけた。まずコンサルタント会社を紹介してくれた人材バンクのおじさんである。この人は姉の「コンサルタントは自分の言葉に酔ってなくちゃできない」という言葉を当てはめるべき人のようだ。

彼にお世話になり始めた時、いくつか質問をしたが彼は私の質問に対する答えではなく、自分の中にある意見の演説をしていた。基本的にこの人は人の話を聞いていない。もっとも彼は自分で「ああ。なんておれは的確な意見を述べて居るんだろう」と酔っているかも知れない。

従ってこの日も何か言っていたようだが覚えてはいない。ただ彼の向こうにいるコンサルティング会社の人には申し訳ない気がした。あの会社は今まで3社ほど行ったコンサルティング会社の中では一番親切で、印象深い人達だったのだが。

次にN○○の子会社に電話をした。「大坪ですが」と言ったら相手は私の名前を思い出すまでに数秒間必要なようだった。「御社にお願いしたいと思います」と言ったら「それでは他にも何人かいる人といっしょに内定の承認をとりますので」と行って電話は切れた。

 

さてこれで再び待ちのモードにはいるわけだ。最初にこの会社に願書を送ってから、1次面接の案内があるまで、2ヶ月半かかった。今回は書類にはんこをもらうだけだと思うのだが、何日かかるだろう?

 

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注釈

CM:もっともこのCMの会話は鮮明に覚えているが何の宣伝だったのかは全く覚えていない。本文に戻る

 

我々のバンド:(トピック一覧)トピック一覧をからあちこちのリンクをたどるとこのバンドがどのようなものか分かってもらえる。本文に戻る