題名:何故英語をしゃべらざるを得なくなったか

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日付:1999/3/15

 


14章:午後の授業その1

さて午後の授業シリーズである。こちらはいくつかのクラスがある。順に書いていこう。

まずはPresentationのクラスである。このクラスの自己紹介はノートの紙を4つに区切ってそれぞれに絵を描く、というものだった。自分の異なる側面をその4つの絵で表現するわけである。はじめに例を示した講師は自分は英語教師であり、母親であり、、、などと説明していた。

私がなにを書いたかというと、たぶんロックバンドで歌を歌い、ミサイルの設計をやり、柔道だか空手をやり、、と書いたのではなかろうか。(あと一つは思い出せない)なぜロックバンドの事を書いたかというと、日本を出てくる前にやったコンサートがとても思い出深いものだったからだ。もっともこの話をしたら「あんたプロの歌手か」と言われたが。

さて午後のクラスはいろいろあるが基本的にグループのメンバーは一緒である。覚えているメンバーを適当に書いていこう。なぜかしらないがこのクラスには技術系の人間が多くない。私と午前のクラスでも一緒のインキュウ・リー君だけである。あとは日本人で言うと、商社だの三菱地所だの西武を退職して来た人だの学生ばかりやっている男だのいろいろである。例によってアジア人が多く日本人以外では、なにをしているか今ひとつわからないたぶん30台くらいの香港のお姉さま。香港の反体制運動家らしきジアンとかいうお兄ちゃん。唯一アジア人でないのが、ハッサンというアフリカ人である。この男はなにをしているのか今ひとつわからなかったが、どうもどっかの大学の奨学金がとれたので、留学にきたようである。気のいい男のようであっが、いかんせん英語に訛りが強く(こちらはもっとひどかっただろうが)なにを言っているのかよくわからなかった。

さて最初の時間は自己紹介でつぶれたが、次のクラスからはさっそくプレゼンをやらなくてはならない。このクラスは毎回ある程度行うプレゼンのカテゴリーが決められていたと思う。普段あまりクラスで発言しない人間であってもこの時間だけは特別であるから皆がどういう話し方(少なくともプレゼンで)をするかよく観察することができる。

最初のプレゼンのカテゴリーがなんであったかを私は覚えていない。私が話した内容は「いつの時代も”今の若い者はなっていない”と言われるがそれは別に今にはじまったこっちゃないんだよ」という奴だ。いつか見たTVによれば、「今の若いもんは。。」という言葉は古代エジプトの象形文字でも残されているそうである。私は常々この言葉に対しては以下のように考えている。すなわち”今の若いもんは”という言葉はいつの時代でも言われている。従ってそれが正しいとすれば数世代前の”若いもん”と今の”若いもん”はひどく違っているはずだ。しかしよく本とかを調べてみると人の世には変わった部分とそうでない部分があり、一概にそうとはいえない。となればおそらく”今のわかいもん”にはという事は意味がないのではないか。

さてこうした言葉をずらずら並べても退屈なだけだし、だいたい私はうまく説明できるほど英語に達者ではないのである。だから話した内容は概略以下の通りだ。

「あんたはおばあちゃんに”今の若い者はなってない。先が心配だ”と言われるだろうけど、おばあちゃんだって、Grand grand grand grand motherに”今の若いもんはなってない。先が。。”と言われると思うよ」

幸いにしてこのプレゼンはなかなか受けがよかった。このときだけだったが毎回だったか覚えていないのだが各自がプレゼンをやった後にクラスのメンバー及び講師から小さな紙切れに評価を書いて回してくる。それを見るとだいたい皆が(だいたい社交辞令なのだが)何を考えたかわかるのである。講師がかいた紙には「おもしろかったわ!」という言葉の後にピースマークまで書いてあった。そして私がこのクラスでこれほどの受けをとったのはこれが最初で最後になるのである。

さてこのクラスはこんな調子で延々と続いて言った。基本的にはこのように題を与えてプレゼンをやらせるだけである。一度だけプレゼンの模様をビデオにとって講師とともにレビューする、という機会があった。そのときやった内容は「自動車事故について」である。私は当時から今にいたるまで、そしてこの先もそうであろう、自動車事故に対しては非常な恐怖を感じている。私はたぶんこの文書を目にすることになる何人かの人と同じく自分が人を殺すなどとは思っていない。しかし自動車のハンドルを握る、といことは常にその危険性と直面するということなのだ。確かに安全運転を心がければその危険性を「減らす」ことはできる。しかしそれはあくまでも「減らす」ことであり、「なくす」ことではない。どんなに優秀なドライバーでもふと注意力がなくなることはあるだろう。そこに運悪く前に何かが飛び出してくれば下手をすればあなたは刑務所にいくかもしれない。実際日本全国では年に10000人もの人が交通事故で死んでいるのである。死亡しないまでも後に残るような傷害を受けたひと、そして加害者になってしまった人、その家族の苦しみはいかほどであろうか。

たとえばある種の工場が日本中にあるとする。そのタイプの工場は年に一度爆発を起こし、その結果として常に10000人あまりの人が死亡する、などと言ったら仮にそれがどれほど重要な工場であっても閉鎖されるだろう。ましてや「工場の近くに近寄らないようにしましょう」などというかけ声ですませるわけもない。人間に呼びかけることは常に「守られない」可能性をもっているのだ。誰が「安全運転に心がけましょう」という言葉を聞いてスピードをおとしたりするものか。根本的に問題を解決しようとしたら、元をたたなくてはならない。この考えを交通事故にあてはめれば、車を変えるか、道を変えるか、とにかくシステムを変えなくてはならない。

さて私は概略以上のようなことを述べた。この時期はおよそ英語学校が半分ほど終わったところで、私の疲労とフラストレーションは極大に達していた。この時のビデオをみながら講師と話をしたが、「あんたこのときは妙につっかえてるわね。いつもはもっとスムーズにしゃべるのに」といわれた。実際その通りだったから文句のつけようもない。何度か経験したことだが、フラストレーションがたまると確実に英語をしゃべるのは下手になる。こういう場合はたとえばそれから日本に帰ってしばらくたってからのほうが上手にしゃべれたりする。

さてそれからもプレゼンは延々と続いた。一応義務として他人がしゃべっているときはちゃんと聞いて感想を書かなくてはならない。しかしそのうちみんな次のプレゼンの準備などするようになってきた。ようするに話を聞かずに下を向いて何か書いたり読んだりしているのである。そのうち講師が怒って「ちゃんと聞くように」とわめきだした。考えてみれば講師の方もそろそろフラストレーションがたまっている時期だったのだろう。

講師に怒られるといえば、もう一つ理由があった。アフリカ人であるハッサンを除いたすべての人間はアジア人である。そして我々は英語は得意ではないが、それとは別に共通の意志疎通の手段を持っていたのである。それは英語で言うところのChinese Character、すなわち漢字であった。

お互い英語はそこそこしゃべれるが、特に特殊な語彙になると弱い。仮に片方がそれを英語でなんというか知っていたとしても話相手が知らなければアウトである。そこに漢字の出番だ。厳密に言えば中国と韓国と日本で少し字体は違うのかもしれないが、まあだいたいの意味は通じる。「アジア人の間のコミュニケーションは漢字にたよれ」とはそれからしばらくクラスの共通認識になっていた。そこにストレスのたまっている講師の目が止まる。彼女にしてみれば、まず表向きの理由というのは、生徒同士英語を学ぶべきのところをあやしげな文字など書いて意志疎通をしているのはけしからん、ということであろう。それに加えてこれは後で気がついたことであるが、自分が理解できない手段で相手同士が意志疎通をしている、というのは疎外された人間にとって大変フラストレーションがたまるものなのである。要するにひそひそと(実際にはどうどうと目の前であるが)悪口でも言われているのではないかと思うらしい。すべての午後のクラスにおいて「漢字禁止令」がひかれたのはそれから遠いことではなかった。

 

あとこのクラスでやったプレゼンテーションを二つ覚えているのでそれについて書いておく。「私のポリシー」なる題でなんでもいいからしゃべりなさい、というのがあった。例の韓国の気のいい青年、インキュウ・リーはやせ形である。彼は「私が太るためにしていること」という話をやった。彼によれば「太るための秘訣」を女の子に聞いたそうである。女の子にしてみれば「ダイエットの観点からして”してはいけないこと”」を伝授したつもりだったのかもしれないが。

私の前にしゃべったのが香港の反体制派青年、ジアンである。当時はまだ天安門事件の余韻が強く残っている頃だった。彼はあの一連の反政府活動に香港で呼応してあれこれやっていらしい。彼のプレゼンは「自由を求める炎はまだ私の中で燃えさかっている」と激烈な言葉でしめくくられた。クラス全員から拍手喝采である。次は私の番だ。なんてことだ。彼のプレゼンテーションは確かにすばらしかったが、何も私の前にやらなくてもいいだろう。

ぶつぶついいながら席をたって、まず黒板にグラフを書いた。あがったりさがったりしている折れ線だ。これは「私の体重に関するポリシー」を説明するためのものだったのである。

詳しくは「なぜこんなページを作ったか」に書いてあるから繰り返しはしない。とにかくフラストレーションがたまる生活、及び米国のレストランででてくる偉大な食事の量は私にとって大敵なのである。実際仕事が忙しくなったとき、米国に出張したときは私の体重は実に素直な反応を見せてくれたものだ。そして私は次の言葉でプレゼンテーションをしめくくった。

「米国での大学院生活、というのは大変忙しくフラストレーションがたまると聞いている。おまけに外で飯を食えばすごい量だ。つまり私が考えるところの「体重に悪い影響を与える要素」とぴったり一致するわけだ。私は今後2年間の体重変化について実に深い関心をよせている」

直前にやったジアンのプレゼンに比べてなんという軽い内容だろう。しかし不思議なことにこの発表は妙な受けをとった。未だに理由はわからないのだが。

 

このクラスで最後にやったのは「何かのセールス」という題だった。インキュウ・リーは、ヒュンダイの最高級車ソナタの宣伝をやった。当時はヒュンダイが大々的に米国に進出してきたときでもあったのだ。(それからまもなく品質がひどい、ということが判明して下火になったが)私はこれから8年後にデトロイトでソナタに乗ることになった。最高級車というよりはやすい家族用の車、という感じではあるが、日本車に雰囲気が似ていてなかなか運転しやすかった。ジアンは「理想の相手発見機」なるものについてしゃべった。なんでもそれを使えば理想の相手に反応してくれるんだそうだ。おまけに「この機械はバージンにしか反応しない」という特別機能付きだそうである。私は"Oh, then you have no chance"とかなんとか言ってやろうかと思ったが黙っていた。このことだけをみて「香港ではまだそちらの方面が固いらしい」と思うのはたぶん適当ではない。なぜかと言えばジアンはちょっと変わり者っぽい雰囲気を持った男だったからである。

さて私であるが「カラオケボックス」の宣伝をやった。カラオケボックスが登場したのは私が日本を去る少し前のことだった。結局出発までに一度しか利用することはなかったが、最初はみんな「酒なしで歌えるのだろうか」とかなんとか心配しながらだった記憶がある。

実際それまでのカラオケといえば、飲み屋にカラオケの機械がおいてあって、一人ずつ前にでて歌う、というパターンだった。店の中に複数のグループがいれば、それだけ順番が回ってくるのは遅くなる。おまけに飲みたくもない酒を注文しなければならない。しかしカラオケボックスであれば機械を一つのグループで占有できるから、「あっつ。またあっちのグループがいれやがった」と怒りに燃えてみたりする必要はないのである。

さてこれは私にとってこのクラスをしめくくるプレゼンであったが上出来であったとはいえない。おちがうまくつかず、最後は売り込みフレーズの繰り返しになってしまった。思うにあまりたくさんやったものだから、最後のほうはこちらもいい加減になって準備がおろそかになった、ということではなかろうか。

 

次はListening Comprehensionとかなんとかそういうクラスである。このクラスの講師はなんだかいかつい顔をした頑丈そうな女性であった。このクラスではなにをやったかほとんど覚えていない。なんだかテープを聴いて、それを書き取ることなどしたような気がするのだが、細かいところはさっぱりである。だから印象に残ったことだけを書いておく。

一度この授業の最中に(午後の2時頃だったと思うのだが)すごい夕立(のような雨)が降った。我々にとってみれば夏に夕立がふるのはあたりまえで、なんてことはないのだが、講師の方々は大騒ぎである。Stanfordは雨が降る時期と降らない時期がきっぱりとわかれていて、夏にはまったく雨がふらないのである。思うにこれはStanfordで地震があったときに日本人は平然としていたが、米国人とヨーロッパ人は「おい。地面がゆれたぞ」と大喜びしていたのと相通ずるところがある話ではないか。このクラスの講師などは「これは歴史上初の7月の雨だ」などと抜かしていた。我々は最初「それはすごい」と関心していたのだが、すぐ直後にそれは冗談だとわかった。(実際には7月の雨は数年ぶりだったらしいが)

またある時は一夫一妻制と一夫多妻制についてのお話があった。もっともこの場合英語学校であるからお話の内容などはどうでもよくて、英語が聞き取れることが重要なのだが。私は「この問題に対する意見は?」と聞かれて「おれは一夫一妻制のほうがいいと思う。妻一人でも山のような問題を引き起こすのに何人も妻がいたらどんなことになるか想像もつかない」と答えた。講師は「この回答に対してはコメントしない」と言った。

また別の時には「アメリカは機会をもたらしてくれる国か」という事に対して意見を求められた。私はこれはなんとも答えられない、実にやっかいな質問だ。だから何かごにょごにょ言っていたら、相手がとうとうと述べだした。彼女は「あなたが言いたいことはこういうことなんじゃない?」と言った感じで助け船をだしてくれたつもりらしいのだが、いかんせんこちらには向こうが何をいっているかさっぱりわからない。部分的には聞き取れることもあるのだが、全体の流れはさっぱりだ。思うにこの設問については彼女自身言いたいことがいろいろあり、外国人相手の英語学校の講師、という立場を忘れて難しいことをしゃべっていたのでは無かろうか。私は最後にしょうがないから”Maybe"と答えた。すると相手は「こんなに熱弁をふるったのに、こいつは何もわかってなかったのね」という実に不満げな顔をした。向こうは不満だろうが、こちらはどっとこれでまた落ち込むわけである。ああ。やっぱり私は聞き取れないのね。こんなのでこれから2年やっていけるのかしら、と思ってしまうのだが。

よく(というか英語学校であれば必ずであるが)「わからなければ聞き返しなさい」と言われる。そして「日本人はShyだからなかなか質問をしない。これはよくないことですよ」と言われる。しかしながら私が考えるにつけ、どんなトピックであっても(仮に英語であっても日本語であっても)相手が話している内容の中の不明な部分がある一定の割合を超えると、その質問すらできなくなるものだと思う。あるいはその「一定の量」に日本と米国で平均をとってみれば差があるのかもしれない。しかしその「一定量」が存在することは、私が知っている限りでは同じ事だ。

しかしこんなことは今だからいえることだ。当時の私にとってたいていの「英語の会話」というのはその一定量を超えるものであったから、質問すら容易にすることはできなかった。そして「ああ。私は質問もできない。こんなんで(以下同文)と落ち込むわけである」だからこのクラスについてはあまりいい思い出が残っていない。

 

さてこの英語学校がある程度進んだところで、一度屋外でパーテーがあった。パーティーと言っても屋外で軽くワインなど飲みながらわーわーしゃべるのである。お互いそう知った同士ではないし、周りは昼間だし。というわけで日本流の宴会とはだいぶ様子が異なる。なんといってもお互いになんとか共通事項を見つけだし、しかも英語でできうる限りIntelligentな会話をしなくてはならないのである。思えばこのときがこちらでこれから何度か経験し、苦闘することになる「パーティーでの会話」に初めて直面したときではなかったか。

とはいってもこのときはそれほど悲惨ではなかった。日本人は山ほどおり、いざとなったら日本人と日本語で会社の話でもすればいいからである。とはいってもそればかりではつまらない。我々は午前のクラスで一緒のアンジェラちゃんとそれにいつも影のようにくっついている男(私はこいつの名前を忘れてしまった)としゃべっていた。彼女は台湾人なのだが、「あたし日本語たくさん知ってるわよ。お父さん、お母さんはもっとしゃべる。日本が占領していたときにならったらしいの」と言った。その瞬間その場に居合わせた日本人全員が「遺憾の意」を表した。そのとき「全くなんて事だ。よその国なんか占領しているとろくなことはない。きっと私の孫の代までこのことは尾を引くぞ」と思った。思えば「戦争は数年だが、そこで生じた評判というのは数十年数百年を生きる」という信条を(言葉にしたのは最近だが)いだきはじめたのはこのときからかもしれない。

とはいっても当時の人の考え方を非難するのは簡単だが「ではどうすればよかったのか」と言われれば誰も簡単には答えられない。当時は世界地図の上で自分の国の色が増えていくのを誰もが当然のごとくきそっていた時代だったのだ。人口はあまりにも多く、国土はあまりにも狭く感じられた。今のように少子化だの、人口減少だのとは反対の悩みが本気で信じられていたのだ。当時の人にしてみれば「地図上で日本と同じ赤い地域が増えることは子孫のためだ」と思ったのだろう。時代が変われば恩も仇に変わる。それでなくても何かをしたときの結果を予測するなんてのは不可能なことだ。

さてこのときは多少アルコールが入っていたが、私はスムーズにしゃべれなかった。感覚的にはいつかハンツビルに出張して、酒をのみながら秘書のおねえちゃんとわーわーしゃべっていたときのほうがスムーズにしゃべれた気がする。なんてことだ。私の英会話能力は退化しているのだろうか?今から考えればおそらくそれはたまってきたストレスのせいであっただろう。しかしそんなことは当時の私にはわからない。ストレスはたまる一方であった。

 

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注釈

戦争は数年だが、そこで生じた評判というのは数十年数百年を生きる:(トピック一覧)もっともこの信条にはあるていど時効があるのだが。本文に戻る