題名:何故英語をしゃべらざるを得なくなったか

五郎の入り口に戻る

目次に戻る

日付:1999/4/2

 


15章:英語学校の終わりまで

最後がたぶんSpeakingとかそういうたぐいのクラスである。このクラスは結構面白かった。講師はスー(綴りに自信がない)というお姉さんである。それともう一人補助の女の子がついていた。このスーというのは今回の英語学校で唯一私が感心した講師だった。彼女が自分自身の経歴について述べたところによると、過去に台湾で英語講師をやったことがあったそうである。最初のクラスの前に鞭を渡されたので「何だこれは?」と聞いたら、答えは「それで言うことを聞かない生徒をなぐるんだ」であった。結局その鞭は生徒を殴るために使われず、ポインターとして使われたそうである。

さて彼女は大変Attractiveであるとともに、明確なクラス運営上の方針を持っていた。たとえば毎週でる「さてこの言葉の意味はなんでしょう」という宿題があった。どちらかといえば俗語的な言葉を5つか6っつ、次のクラスまでに調べて例文をつくってこい、というのである。もっともその宿題の目的はそうした俗語を教え込むことではなくて、その意味を調べるために、(たぶん)Americanに話しかけていろいろ聞く、ということにあったのである。とかく引っ込みがちになりがちな我々にとってこうした方法は確かに的を得たものだったかもしれない。

実を言えばこの宿題は彼女が意図した効果とともに結構私の語彙を増すのにも役だったのである。今でも覚えている言葉に"TP", "shot in the dark" "give me a break" "it's cool" "it's hot"などがある。私にとってこれらの言葉の意味を聞くのに一番お世話になったのは例の午前のクラスの講師であった。この男はちょっとまじめすぎてスーがだしてくる言葉の意味を聞くには必ずしも適当な相手ではなかったかもしれないが、私にはほかにChoiceはなかったのである。

さて、このクラスでは結構クラス外での行事があったのである。たとえばStanfordの中にはHoover Towerというのがある。Hooverというのは、かの有名なフーバーダムを作った大統領だ。実のところこの人間とStanfordがどのようにかかわっているか私はすっかり忘れてしまったが、とにかく彼はスーの言葉によれば「一番悪い時期に大統領になったものだから、何をやってもうまくいかなかった。逆にアイゼンハワーは一番いい時期に大統領になったから、何もしなかったけど国は好調だった」そうである。人の世の巡り合わせとはそのようなものであろうか。未だに何が目的だったのか覚えていないが、こうした話をそのタワーの前でして、その後タワーに上ったのである。このとき「高所恐怖症」という言葉を教わったのだが、残念ながらすっかり忘れてしまった。

またある時は、彼女のボーイフレンドも含めて、Typical American Foodを体験しようということで、Sizzrerに行った。最近は日本にもSizzrerがあってとんでもない値段の食物を売りつけているが、私が知っている限りでは確かに安めのTypical American Food(これが何だ?と言われてもこまるのだが)を食わせる、という評価にふさわしいことろのように思える。このとき一緒に参加した彼女のボーイフレンドは野球が好きで、その時間の前にスーがいったところによれば「みんなと野球の話をしたくてうずうずしている」ということだった。

当日はいったんスーのすんでいる学内の寮の部屋にあつまった。彼女にはルームメートが居る、というからどんな人かと思えば、結構年輩の女性である。彼女は学生なのだろうか?我々はちょっと不思議に思った。とはいってもそのルームメート嬢は大変Friendly に我々と話してくれたのだが。たぶんそこで我々はスーの彼氏が来るのを待っていたのではなかろうか。みんなで適当に話している間にアシスタントの講師のおねえちゃんが、ちょっと疲れているように見えたので"Are you tired ? "と聞いた。すると相手はちょっと意外そうな顔をして"No"といった。

何故私がこんな事を書くかといえば、この返事を聞いたときに私は自分の頭の中に妙な概念が巣くっていることに気がついたからである。日本で働いていたときは「疲れているな」という言葉は一種の挨拶であるとともに、誉め言葉でもあったのだ。ようするに目の下にくまをつくって疲れ果てた顔をしている、ということはまじめに働いている、という証拠。そうでなくて元気いっぱいであればあいつはまじめに働いていないのではないか、という疑念、という文化が確かに存在していたのである。今から考えれば実に馬鹿げた話であるが、私は未だにこうした概念は日本の会社員のどこかに巣くっていると思っている。早く帰れば「楽してますねー」とどこか非難するトーンで「感想」を述べられるのである。

それから幾多の失敗を経て、「仕事をちゃんとしようと思ったらちゃんと休まなくてはならない」という信念を持つに至ったのだが、当時は私も「疲れてますね」という言葉を賞賛の意味も込めて使っていたのだ。彼女の大変意外そうな"No"という言葉は私にそのことを気づかせてくれたのである。"Are you tired?"という質問に賞賛の意味を込めるのは、きわめて狭い範囲でしか通用しない文化であると。

さてボーイフレンドが到着して、さっそくSizzrerに出発である。そのボーイフレンドは落ち着いた感じの好青年である。スーはどちらかといえば明るく外向的な感じだが、このボーイフレンドはそれとは反対の方向でバランスを取っているような人だった。彼はわりとだまっているので、私はちょっと話しかけてみた。「どのチームがすき?」とかいう話題である。さて彼の答えは覚えていないが、ここから話題は適当に進み出した。話は自然と以前日本のタイガースにいて、そのあと大リーグに戻ってホームラン王になったセシル・フィールダーの話になった。我々は「彼が居た阪神タイガースというチームはExtremely weakなチームだよ」と言った。すると彼は「彼が大リーグで所属しているDetroit TigersというチームもExtremely weakだ」と言った。我々はけけけけと笑った。よもやそれから数年後にそのDetroitに幽閉となり、Detroit TigersとNew York Yankeesの試合を観戦し、TigersからYankeesに移籍して観客からブーイングをあびるフィールダーの姿を見ようとは、神ならぬ身の私の知るところではなかった。

 

さてこのクラスの課外授業では(なんだかこの言葉にはHな響きがあるがそんなことは全く関係ない)もうひとつSan Fransisco GiantsとLos Angels Dodgersの野球試合の観戦、というのがあった。これにはほぼクラスの日本人全員が参加したと思う。(たぶん香港人とアフリカ人のハッサンは参加しなかったのではないか。野球は世界的に見ればマイナーなスポーツだ)何故Dodgersとの試合かといえば、この2チームはお互いを嫌悪している関係にあるからだ。これは後でわかったとことだが、米国のスポーツではこうしたあまり意味のない近隣ライバル関係というのはたいへんよく存在する。そしてそれはそのスポーツを楽しむ上で結構スパイスになっているのだ。この日は試合の前に誰かの挨拶があった。そしてその男は最後に"Beat LA"と言った。観客は大受けである。私がこの言葉で奇声を発することができるようになるまでにはまだ長い時間がかかりそうだ。

試合の内容は覚えていない。ただGiantsが勝ったことだけはまちがいない。この日何が一番印象深かったといえば、観客である。試合中にはウェーブもおこった。私にとっては初体験だったがそれはまあ小さな事だ。みんなのんびりと自分のスタイルで試合を観戦している。前のほうには若いお兄ちゃんが上半身はだかでなにかさわいでいる。それからも何度か米国でスポーツ観戦をする機会があったが、こうしたどこか余裕をもって試合を楽しんでいる観客の姿はいつも私の興味をかきたてた。

 

さてこのクラスはもちろんちゃんとした講義もあったのである。あまり覚えていないが、最初の方は二人くまされてロールプレイがあった。私はある男とくんで(このときの題がなんだったが覚えていないが)「タイでクリスチャンディオールの香水を買う」というやつをやった。内容は概略以下の通りである。私は店員の役で相方は日本からきた観光客だ。

客「香水ある?」

店員「あるよ。何がいい?」

客「私は日本から来た。日本で大切なのはブランドだ。(ここで「ブランド」という言葉を5回くらい繰りかえし。ちょっと笑いがおきる)というわけでクリスチャンディオールある?」

店員"Excuse me ?"

客「クリスチャンディオール?」

店員"I beg your pardon ? "

客「クリスチャンディオール???」

店員「(ため息をついたあとで)お客さん。ここどこだか知ってる?タイだよ。タイってのは仏教-ブッディズムの国なんだ。そこで「クリスチャン」ディオールとはどういうつもり?ここにはそんなものないよ。あるのはこれ。「ブッディズムディオール」これはいいよ。私は強く推薦するね(I highly recommend this)」

客「それってブランド品?」

店員「タイじゃすごい有名ブランドだよ(ここでまた「ブランド」を5回くらい繰り返し)」

客「じゃそれ買った」

これのアイディアはほとんど私の相方から来たものである。彼は大変こういうくだらないギャグが好きそうな人間であった。幸いにしてこれは結構なうけをとった。私としては一安心である。ちなみに文中私が使った" I highly recommend this"という表現は私がJohns Hopkins Universityからうけとったレターのなかにあった表現で、そのレターを何度も読み返した私はこの表現を覚えてしまったのである。

 

さて概略こんな調子でクラスは進んでいった。終盤には二つのグループにわかれてディベートがあった。題を与えられて、それに相対する意見をもつ2つのグループに(無作為に)わけられる。そして一定のルールに従ってディベートが進められる。形式は次の通りだ。まず最初に両グループからひとりずつが主張を述べる。次にお互いに質問をする。それに受け答えもする。それが終わると質問のSummaryのスピーチをして、最後にClosing Statementをしゃべっておしまいだ。最初にやったのは「喫煙に反対する人、賛成する人」というやつである。私はたぶん喫煙に反対する側にまわったのではなかろうか。そして質問をする側か、あるいはその質問に対して答えのサマリーを言う立場だったような気がする。

この時の内容についてはあまり覚えていない。一つだけ明確に覚えているのは例の香港の反動家ことジアンの発言である。彼は質問をする側に回ったと思うのだが、彼はわけのわからない比喩をもって質問をしてきた。曰く

「喫煙は健康を損なう、というデータがあるが、こんな例がある。うちの庭の草の長さを観察したところ、私の体重と完璧な比例関係にあることがわかった。従ってあなたたたちは私の体重を減らそうと思えば家の庭の草をかれ、というのか」

いま書いていてもわけがわからないが、とにかく彼はこう言ったのである。(当時私の英語は今よりもさらにあやしいものだったが、彼の英語も流ちょうではなかったので、まず間違いなく聞き取っていたと思う)私はそれに対して「あんたの言うことは全く無意味だ。いちいち反論はしないが、いい統計の本を推薦してあげるよ」と言った。

従って火花をちらすような議論がおこったわけではない。最後にスーは講評としていろいろ言った後に

「アメリカで普通こういう題でディベートをやると、喫煙賛成派は"Smoking is great! Everyone should smoke!"とか言って、喫煙反対派は"Throw everyone who somkes into jail"とかいって、そこからだんだんと近づいていくものだけどね」

と言った。このクラスの構成員の80%は日本人である。従って論戦の基調はだいたい日本調で行われるのである。両方のグループとも最初からまあ妥当な妥協点であるところの「分煙」なる妥協案に近づいた所からスタートしていたのだ。スーが言ったようなものすごい極端な意見から入る、なんてことは誰も気がつかなかった。これは私にとってはちょっと新鮮な経験であった。

 

さてディベートの機会はもう一度あった。今回のテーマは「安楽死」についてである。安楽死に賛成の立場と反対の立場に(たぶん無作為に)わけられてあれこれ言うわけだ。今度は事前にグループ分けと題材が与えられて「ディベートは来週だからがんばって準備してきなさい」ということだった。

さてそうと決まれば事前に準備である。グループ構成員の大半は日本人だから相談は日本語で行われる。クラスにひとり西部セゾングループを退職して留学に来ているおにいさんがいた。彼は自費で来ているだけあって、意気込みがすごかった。聞いたところによると、高い金払ってきているんだから、この学校にあるすべての施設を使い倒してやるとわめいていたそうである。さてかのごとく彼の意気込みはすごかったのだが、彼がはく言葉は今ひとつ何をいっているのかわからなかった。彼は最初にしゃべる役だったので「最初のステートメントで先制攻撃をかけて圧倒的優位に立つべきだ」とか何とか言った。なるほどそれはもっともだ。では何をしゃべるのか?というと特に彼にもアイディアがあるわけではないらしい。彼は理解不能な事をしばらくしゃべって事前の打ち合わせはお開きになった。

さてディベートの当日である。結局何が話し合われたわけではないから、何も準備したわけではない。つまるところ手ぶらなわけだ。うちのグループのOpening Statementは例のセゾン退職男である。彼が詳細な準備をしたのは間違いない。彼は大変いきごんですごいいきおいでしゃべりだした。しかし正直なところところどころ聞こえてくる"Death"という言葉以外何一つ理解できなかった。彼はJapanese Englishをしゃべっていたはずだから、彼の英語が理解できなかったのが原因とは思えない。

さて双方のOpening Statementが終わると質問のコーナーである。この前に少しハドルタイムがある。そこでこちらの質問係りであるジアンはひとしきり相談があった後に「よしわかった。例(Example)を使って質問してみよう」と言った。その瞬間皆が"No example"と言った。香港お姉さんは中国語で何かわーわー言って彼をとめた。また家の草の長さがどうのこうの言われたらたまったものではない。

さて相手のグループの質問係りは○○地所からきている女の子である。彼女は明らかに何かの機会にディベートのやり方(作法)を習っていた。こちらの返答係りが少しでも回答につっかえると"thank you . I would like to ask next question"と言うのである。ほかの日本人からもこうした「相手が返答につまっていたら、どんどん次の質問にうつる」というやり方をちらっと聞いたことから、たぶん日本のどこかのCommunityではこれが正しいディベートのやり方だ、ということになっているのだろう。これはルールを決めた論議だから、確かにその論議の中で有効に勝つ方法を考えればよい。しかし私の狭い常識からいうと、こういう質問の仕方はあまり上品であるとは思えない。相手がつかえていればつかえていたで最後までちゃんと聞くのが礼儀と思うのだが。(相手が意味のないことをとうとうとしゃべりだした場合は話は別である。実際返答ができない場合にこうやってごまかすことも多いとは思うのだが)

さて質問と応答がひとしきり終わると今度は双方がサマリーのステートメントを出す番だ。私はこちらの質問に対して相手が答えた内容について逐一反論していった。安楽死の判定はどう行うのか。死は付可逆な変化だ。もし安楽死判定の後に医療の進歩により治療可能な事がわかったら、誰が責任をとるのか。法律的にカタがつくとしても、家族はどのように思うだろうか。その重要な責任を個人が負えるものだろうか。。等々である。そして最後に「我々はそちらのグループが指摘した内容を考えても依然として安楽死には反対する」としめくくった。

最後に我々のグループのClosing Statementを述べるのは「日本たばこ産業株式会社」からきたお兄さんである。(とはいってもたぶん私と同じ歳だっただろうが)彼はこれまた大変な熱意を持って持論を述べた。問題はその持論はそれまでの話の筋と何の関係もなかったことだ。彼はよくはわからないが、安楽死を姥捨てかあるいは妊娠中絶か何かにたとえて「安楽死は殺人だ」とわめきだした。彼のそうした叫びとともにディベートはお開きとなった。

結局今回はたぶん私が今まで経験した英語学校でのディベートの中で一番それらしいものであったと思う。しかしその中でのロジックが各個人の間で一貫していたかと言えばそうはとても言えない。相手の出方、こちらの論法を無視して持論を述べるだけの人が多かったのも事実だ。しかしながら私は本物というか米国人がやるディベートを見たことがないから(大統領選の時は別である)米語でいうところの"Debate"という観点からみてどうなのかはなんとも言えない。

 

さて我々がしゃべりおえるとスーとアシスタントは相談タイムにはいった。そして「結果を発表しまーす。引き分けでーす。みなさん、よくできました」と言って手をぱちぱちたたいた。彼女はそれから講評を述べだした。両方とも指摘すべき大きな穴を残しているけどね。まあよかったと思う、ってなところである。それから個人に対しての感想を述べだした。スーの講評を聞いていると、私がほかの人に対して抱いた感想(ここにかいたようなことだ)はそう間違っていなかったのだな、と思った。あたりまえのことかもしれないが、実社会でこう思えることはとても少ない。「何でこれがええんじゃ」と思うようなことには何度も出会う。「こんなんのが称揚されるのだったら誰も苦労はせんわい」というやつだ。スーは講評の最後で一文だけ、"Goro's summary was excellent"と言った。これはこの英語学校で私が受けた数少ない誉め言葉だった。

 

なんのかんのと暮らしているうちに、英語学校は終わりに近づいてきた。各クラスとも最後の時間には、インストラクターと一対一で面接がある。そこで評価を聞くわけである。

思えばこのころはかなりストレスと疲労がたまっていた時期でもあった。前述したとおりストレスがたまると私の英会話能力はどっと低下する。そうなるとますますストレスはたまり、、Stanfordでは毎日午後には晴れる。そして学校はとても広くてきれいなのだが私にはどことなく日差しさえも黄色く斜陽からのもののように見える。生活はなんとかしているがまだ楽しみを見つけることができるほどではない。加えてこのころは運転免許試験に2度も落第した時期でもあった。英語の能力は進歩どころか退歩している来もする。。「こんなのでやっていけるのだろうか」という疑問は頭にこびりついて離れないのである。

さてそうした鬱気味の私に返ってきた結果である。PresentationとListening Comprehensionはまあ平均か平均よりちょっと下、という感じであった。噂によると特にListening Comprehensionのクラスではあまり発言が少ないと「評価不能」という答えが返ってくる項目もあるそうだ。Listening Comprehensionはまあしょうがないとしても、Presentationの評価が低かったのはちょっと意外だった。自分でそんなにできが悪かったとは思っていなかったからだ。こんなことをうだうだ考えているとますます太陽の光は黄色っぽく見えてくる。

最後はスーのクラスの評価だ。ここで受けた評価は実に彼女らしかった。たぶん誰にも同じような評価をだしたと思うのだが、とにかく各個人のいいところを見つけて評価しようという態度が文面に現れていたからである。私に関して言えば、「課外授業にも積極的に参加しました」とかなんとか書いてあった。感じとしては小学校低学年の通知票の通信欄に書いてあることに近いだろうか。そして「ディベートの時のあんたのサマリーはよかったわ」と言われたので私は"I was just lucky"と言った。私はこの言葉を聞いたときに自分がどんなにほっとしたか覚えている。逆にいうとそれだけストレスがたまっていたのだろう。

 

英語学校のしめくくりとして、最後には大仰な卒業式がある。この前の年は「卒業生代表」のような形で日本人がスピーチをしたというが、この年だれかがスピーチしたかどうか私は全く覚えていない。なんやかんやの後に一人ずつ前に行って卒業証書をもらい、握手する。そして最終的な評価をもらう。

その紙には各項目について「これはOK」とか、「これはちょっと不足しているから、入学してから履修することを推薦(recommend)するよ」というチェックがしてある。私のを見ると、PresentationとWriting(?)に関してRecommendがついていた。プレゼンテーションというのは、私が比較的自信を持っていた分野だったので、この評価はショックだった。インキュウ・リーが近くに来たので「どうだった?」と聞いてみた。彼の紙を見るとはほとんど全部OKだ。「こっちは二つRecommendをもらっちゃったよ」と言った。彼は「あんたはPresentationよかったと思うけどね」と言ってくれた。私は大変うれしくない顔をしながら「おれもそう思うんだが」と答えた。

こんな調子で英語学校は幕を閉じた。とりあえずは終わったものの私はまだろくにListening もSpeakingもできない状態である。今から考えてこの英語学校がなんの役にもたたなかった、とは言わない。その後しばらくしてわかったことだが、英語の能力というのは、経験と比例して直線的にのびていくものではないのである。ちょっと向上して長い停滞期間がある。そして忘れた頃にちょっと向上する。たぶんこの時期は長い長い停滞期間にはまっていたのではないか。

そして2年間の米国生活はまだ始まったばかりであった。

次の章


注釈

お互いを嫌悪している:それから数年して、野茂という日本人がDodgersで大活躍したとき、日本にはにわかDodgersファンがあふれた。私はそれを大変複雑な心境で眺めていた。米国に単身のりこんで活躍することがいかに大変かはよくわかる。しかし何も私が愛するSan Fransiscoの不倶戴天の敵であるDodgersにいかなくてもいいだろう。本文に戻る

 

安楽死:英語でのつづりは、"euthanasia"。カタカナで書くと「ユーサネイジア」と聞こえる。スーがいうには、昔この言葉を初めて聞いたとき「何でアジアの若者が問題になってるんだろう?」と不思議に思ったのだそうだ。彼女には"youth in Asia"(ユース・イン・アジア)と聞こえたのである。本文に戻る