題名:何故英語をしゃべらざるを得なくなったか

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日付:1998/6/8

 


11章:After Valentine

さて英語講座の初日、2月15日と言えば2月14日の翌日である。今となっては単なる「寒い日」となった2月14日だったが、当時は結構重要な意味を持つ一日でもあった。そして我々のオフィスのあたりではこの年が(多分)義理チョコの最盛期であったのだ。

多感な中学高校時代を「前評判の大坪」という異名とともに過ごした私は、この日にチョコレートをかき集めることにほとんど強迫観念に近い物を持っていた。「前評判の大坪」とは何か?特に中学時代は、バレンタインデーの前になると無責任な予想が横行する。そして私はその「無責任な予想」においては前評判が必ず高かったのである。曰く「大坪は2個は固いな」

その日はとても緊張して始まる。何をみても神経が刺激されるような状態だ。「おっ。あの子がこちらを見ているぞ」と妙な妄想にとりつかれる。昼休みの頃になると(ああ。一日の半分が終わろうとしている。中には戦果を誇っている奴もいる。何故私には一個ももらえないのだろう)と思い始める。

そしてほとんどの場合がっくりと肩を落として家路につくことになる。夕日は輝いているが決して暖かくはない。そして家に帰れば母親に「五郎。10個ももらえた?」と馬鹿にされるのである。ある漫画にバレンタインデーを扱ったシーンがあり、そのなかにこういうセリフが出てくる。

1%の希望は時として完全な絶望よりもたちが悪い

そして私は「あの前評判は一体なんだったのだろう。。。」と思いにふけりながら夜をすごすわけだ。

さてこうした暗い少年時代の反動が22をすぎてからでたとしても誰が私を責めることができよう。会社で「ノイローゼだ」とか「鬱病だ」とか言いながら女の子からチョコレートをかき集めてはいたのである。おまけに数週間前から女の子の周りを徘徊し「大坪五郎でございます。最後のお願いにやってきました。今年も大坪、大坪五郎をよろしく」と事前運動に余念も無かった。。。しかしよく考えてみればこの年は「ごめんね、うまく笑えずに。とっても喜んでるんだけど」とかなんとか女の子に謝っていた気もする。

おまけにこの日は何故か退社した後もあちこち走り回っていた。結局寮で安らかな眠りについたのは朝早くになってからだった。そしてそのまま私は英語の研修に向かうこととなった。

 

さて2月は日本全国寒い季節であるが、富士の裾野はもっと寒い。私は多分苦虫をかみつぶしたような顔をしながら研修場に着いたのだろう。

今回の研修は事前に宿題がでていた。いくつかの文書を与えられ、そのうち一つを選んでプレゼンをしなさい、というやつである。英語でのプレゼンならば一年前に泣くほどやっている。私が選んだのは当時話題となっていた「Noと言える日本」をもじった「Noと言えない日本」という題名のエッセイだった。

さて私はそれまで日本で働いている「英語教師」全般になんとなく嫌悪感をいだくようになったいた。あいつらは一体何をやっているんだ、というわけだ。熱意はいいとして、今まで行ったどの英会話教室でも特に感心させられる内容があったわけではない。この調子だったら私が外国に行って日本語講師をやるのも簡単そうではないか。

しかし今回の講師陣はひと味もふた味も違った。事前の神戸での説明会でも気が付いたことであるが、彼らの英語は異様にわかりやすい。まるで自分の英語能力が向上したか、と錯覚するほどである。おそらく「日本人にわかりやすい英語」をしゃべるためにずいぶんと訓練をしたのではないかと思うくらいだ。

次に彼らの言動はすみずみまで考慮が行き届いていることに気が付いた。たとえばまずクラス分けの発表があって、それぞれのクラスはA,B,Cという名前である。ふと考えるとこれは参加者のなかで、英語のレベルで分けたのではないか、と思う。連中は「A はAdvancedのAだよ」と言う。やっぱりそうか、と思っていると次には「BはBestのBだよ」とくる。最後には「CはChosenのCだよ」と言うような次第である。実際には英語の能力で分けたのかもしれないが、こういったさりげない冗談が各所に効果的にちりばめれれていた。そして彼ら自身が他人から見て明らかに疲労しているときでもこういったユーモアは絶えることがなかったのである。

さて英語教師に感心している場合ではない。私が入ったAクラスの授業はさっそく始まった。最初は宿題のプレゼンテーションである。

Instructorは「さて誰からやる?」と聞いた。日本では、特に○○重工ではここで手をあえて「では私から」という人間はたまにはいるが滅多にいない。しかしそこでひるむようなInstructorではない。彼らはちゃんと彼らなりの順番を考えていたのである。これはおそらく事前の説明会のinputを元に決めた物だろうが、実に見事にできていた。すなわちプレゼンに慣れていない人が最初に、慣れている人間が最後にくるように並んでいたのである。

一通りプレゼンが終わると、Instructorと一緒に自分がやったプレゼンのビデオをみて反省会が行われる。翌日には同じ題でまたプレゼンをやらねばらない。私は自分のビデオを見てみたが、まず最初に気づいたことは冒頭いきなり深いため息をついたことである。ビデオカメラはかなり遠くら写しているにも関わらず、そのため息がはっきり聞き取れる。おそらく私でなくても「これは一体なんなんだ」と思ったことだろう。当時の鬱による落ち込みはかくのごとく深かった。

Instructorは「あなたのはちょっとしたチューニングくらいでいいわよ」といった。「他に気づくことは?」と言われて「論理が一カ所ギャップがある(本当は飛躍している、と言いたかったのだが、言葉が思い浮かばなかったのである)」といった。別の評価表では「ちょっと問題があるけど、それはここでは問題ない」と書いてあった。彼らの教育の目的からすればとりあえず主張における論理の一貫性というのは後回しでもいいのである。目的をはっきりした教育というのはこうでなくてはいけない。

「あんた、ポインタを振り回す癖があるわね。」とも指摘を受けた。なんとハワイでやったときのと同じ指摘だ。そして一応翌日やり直すときに気をつけてはいたものの全く同じ指摘を受けることになった。

さてその晩私はちょっとだけ練習してそそくさと眠りについた。ああ。お布団が好き。

翌日はみんなの練習の成果の見せ所だ。皆前日とは別人のような見事なプレゼンを披露していった。たった半日アドバイスを受けるだけでこれだけ見事なプレゼンができるとは。「ちょっと知っている」ことと「全く知らない」の間には深くて長い溝がある、とはまことに真理だな、、と感動している間に自分の番になった。

部屋に女性は一人だから"Lady and gentlemen"と前置きして始めた。さすがに何度も練習するとうまくしゃべれるもので、途中までは実に軽快に進んだ。そこでInstructorが「あと1分」という看板を出した。

「あと1分」でどれくらいしゃべれるものか?私はこの瞬間パニックに陥った。そしてあっさりと結論を述べておしまいにしてしまったのである。するとInstructorは失望したような顔して「最後だけもう一度」と言った。

引き続きパニックに陥っていた私は、結末を少し変えてしゃべったが、それでもInstructorはご機嫌ななめであった。しかし「もういいわよ」と言った。思えばこの講座はこういったちょっと得意、ちょっと失望の連続であった。

 

(続く) 


注釈

2月14日:トピック一覧)ちなみに今年(1998年)は長野までオリンピックを見に行ったが「天候不順」にして、入場券を持っていた競技がキャンセルになり何も見ずに喫茶店でモーニングをたべて帰ってきた。本文に戻る

 

馬鹿にされる:トピック一覧)これは母にとって私をからかうのに格好のネタであった。もっともうちの父は毎年「今年はチョコレートを載せるリヤカーを持っていくか」などと言っていたが。本文に戻る

 

1%の希望は時として完全な絶望よりもたちが悪いトピック一覧):このセリフはうる星やつら(参考文献一覧)からの引用。

あたるがラムからチョコレートをもらえない、というエピソードから引用した。この中で「チョコレートはみんなが見ている前でわたすもんじゃ」というセリフがでてくる。しかしこの気持ちは女性にはなかなかわからないだろう。本文に戻る

 

あちこち走り回っていた:走り回っていたので、悪いことをしている暇もなかった。実際このころは名実共に「夜でも安心」の五郎ちゃんだったのである。本文に戻る

 

Lady and gentlemen:本来であれば"Ladies and Gentlemen"と、Ladyが複数形になる。本文に戻る