題名:何故英語をしゃべらざるを得なくなったか

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日付:1998/5/29


6章:一ヶ月の出張-その後

 

さてそうしてあれこれ暮らしながら日を過ごしているうちに全体会議の日となった。そしてこれを境として米国出張はあまり楽しくない物になるのである。

会議は数日間行われる。最終日には客先を招いて中間報告が行われる。それまでの数日は散会してる企業のうちの中核企業が参加して報告の準備のための会議を延々と行う。

会議は三つのグループに分かれて行われる。(対象としているシステムがおよそ三つのカテゴリーにわかれるコンポーネントで構成されているからだ)私はそのうちの一つのグループの担当であり、この分野はとても定量的な評価が難しく、検討の進め方すらもよくわからない状況だった、、、私だけでなく、SAICのFreemanや、その他の企業の豪華絢爛たる経歴を持つエキスパートにとっても。

さてこのグループのチェアマンはFreemanである。私の会社からは私とA先輩、それに私の会社のプロジェクトリーダーが参加していた。しかしプロジェクトリーダーは事の重大さは理解していても実際にグループをまとめるだけの経験は有していなかった。

さてそうなると当然の事ながら、期待は「経験豊富、担当分野のとりまとめであるところのSAICの担当者Freeman」に集まるわけである。ところがこれは会議が始まってすぐ判明したことだが、この男はちょっと目を離すと会議から消えてしまうのである。正直言ってこの男がどこに何をしに行っているのかは定かではない。しかしとにかくどこかに行ってしまうのである。そして残った彼のアシスタントは前述したように、とてもあてにはならないような男だ。

SAICの社員は秘書を除いて全員個室を持っていた。そして暗黙だかどうかしらないが、約束事として、在室の間は部屋の扉を開けておくようになっていた。ところがこのFreemanだけは在室の際でも部屋を閉めている男だったのである。今から考えればこの男は働きながら地元の大学に行っていたので、部屋に閉じこもって宿題か何かをやっていたのかもしれない。

さて、結局SAICの面々は役に立たない。ここにもう一つ助けになる可能性のある人達がいた。日本側の私が担当しているシステムのとりまとめの○○Cの人達である。彼らは能力、経験、まじめさ共に全く申し分ないが、、、今回のスタディのように、自分から要求を考えるような、非常に早い段階の概念設計をするのに必要な「いい加減さ」に欠けていた。非常に概念が曖昧な段階では、多少疑問が残るところがあっても「これで行こう」と割り切らなくては間違っていようが正しかろうがその場に立ちすくんだままとなる。そして彼らは非常にまじめに悩んではいたが、会議を進める助けとしてはあまり期待できなかった。

となるとどうなるか。。。残るのは結局私とA先輩しかいないのである。

自分がやっているものが何か今ひとつ疑問がもてないままに、会議を進行させるのはあまり楽しい作業ではない。おまけに英語でしゃべった経験はこれまでに皆無と言っても良いほどなのである。一つだけ良い要素があった。他の二つのグループと違って、このグループを構成する人達は日本人、米人を含めて非常にグループでの検討推進に協力的な人達だったのである。他のグループはやたら文句を言う奴とか、すぐに雑談を始める奴とか、これまた「自己主張のちゃんとできる」面々がそろっていたらしい。

さて私は文字通り泣くような思いをしながら会議に臨んでいた。とりあえずシステム構成案を三つ考え、それに対して検討をするようにメンバーに頼んだ。最初メンバーはみなおとなしく検討していたが、そのうち某社のHedroとい男が演説をぶち始めた。彼が「このやり方ではまずい」と言っていることだけは理解できたが、それ以上何を言っているかは理解できなかった。

また彼は個別に「ここをこうしたらいいのではないか」と教えてもくれた。(Lockheedから来たメンバーも同じく提言をしてくれた)しかし如何せん何をいっているかわからないのである。

自分が自信を持っている分野であれば会議を取り仕切ることはできる(はずだ)。自信を持っていない分野でかつ言葉が不自由な状態で取り仕切るなんてのは私にとっては暗闇でバスケットのシュートを決めるよりも難しい(私は目を開いた状態で、昼間であってもバスケットのシュートの成功率は1%以下である)

このグループ討議は一日半だったが、それはとてもとても長い時間だった。明日が客先への説明というときに各グループごとに発表があった。Freemanは「おまえやるか?」などとたわけたことを言っている。"I think you do it"と答えると彼は素直に前に行ったが、冒頭いきなり「この発表は本来Mr.(私の上司)かMr. Otsuboがやるべきものだが、代わりに私がやる」などと述べた。これでこちらはまたがっかりである。翌日彼は自分がしゃべった内容をタイプアップして持ってきた。これで彼は自分のお役はごめんだと言いたかったのだろう。

翌日の客先への説明では、私が担当した分野はほとんど触れられなかった。だから客先の質問に応対することには特に神経を使わずにすんだ。

その後、Warp Upと称して、「次の会議までにどんなことをするか」ということを各グループ発表することとなった。今度はFreemanも観念したのか、「お前がしゃべれ」とは言わなかった。私はA先輩と、「次の会議までのスケジュール案」を作ってFreemanに見せた。彼は

"Great"

と言った。

この言葉はとても印象が強かった。おかげで私の脳裏にこの"Great"という感嘆詞は深くきざまれることになる。この一連の出張が終わった後から私は「宴会で英語を叫びまくるイヤな奴」という名前をつけられることになるが、この時-そして今にいたるまで-いきなり飛び出してくる感嘆詞はだいたいの場合"Great"なのである。

さてGreatの一言の後いくつか細かい仕事を片づけて最初の出張は終わりになった。帰りの飛行機が機器の故障で遅れてしまい、成田に一泊するというおまけ付きだった。そしてあたりまえのことだが私はこのアナウンスがさっぱり理解できなかったのである。しかしそんなことで落ち込んでいる場合ではない。とりあえず日本語で仕事ができる世界に戻ってきたのだ。やれやれ。

 

正確に何日に帰ってきたかは記録がない。しかし帰ってきた週の金曜日には課の宴会があった。そして次の週4月11日にはTOEICを受験している。正直言って何故こんな時にTOEICを受けることになったのか全く覚えていない。留学生に決まったことと何か関係があたのだろうか?

さて悲惨な経験は幸いにしてプラスの面ももたらすこともあるのである。以前とてもTOEICが消耗するいやなものである、と思ったことは前述した。しかしこのときはそういう印象は全く残っていない。あの悲惨な会議を思えばTOEICの試験くらいネコの手をひねるのようなものである。別に会話が聞き取れなかったって、それに想像力を働かせて怪しげな英語で答えなくちゃいけないわけじゃないんだから。

このときの結果はListening 360 Reading 345 Total 705点だった。これが2年前の640点と比べて、着実な能力の向上を示している物か、あるいは単に不確定性原理の神様がちょっとほほえんでくれただけのかはわかない。しかし重要なことは、依然として私のTOEICの成績は本来の留学生の「最低要求」であるところの730点に到達していない、という事実である。

この二日後には、「新入社員の先輩との懇談会」というのがあった。これから配属の希望を出そう、という新入社員に各部の雰囲気を知ってもらうために各部から若手の先輩が一人ずつ出て後輩からの質問に答える形で自分の部をアピールする、という企画である。

私はこの日どのような格好で登場したかを覚えている。Hutsvilleの航空宇宙博物館名物土産の、ワッペンがたくさんはってあるジャンパーに、同じくHutsvilleで購入した金ぴかのジュラルミン製のアタッシュケースをもって颯爽と登場した。一週間前の泣きべそかいていた社員の面影はどこへやら、当日私は実にご機嫌であった。

新入社員から「英語は勉強した方がいいでしょうか」という質問が出た。これに対し私の答えは(まってましたとばかり)

「こういう仕事をして、自分が担当している分野での米人のエキスパートと接する機会がたくさんありました。英語ができればもっと彼らからいろんなことを学べるのにな、と思いました。」

であった。泣きべそをかいていたことも忘れて、全くいい気なものである。実際この時は英語力の向上意欲(だけ)には燃えていたのである。もっとも(これも繰り返しになるが)この意欲の半減期はおよそ一週間なのであった。

 

しかし私が意欲を高く持とうが低く持とうが、次の出張は一ヶ月以内に迫っていた。おまけに今度は(今回私がFreemanに押しつけた)人前に立ってしゃべらなくてはいけない運命も待っていたのである。おまけに留学に必要なTOEFLのスコアをとらなくてはいけない。こちらのほうの時間ももうあまりないのである。

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注釈

自己主張のちゃんとできる:(トピック一覧)実際このグループのディスカッションの様子はすさまじかったらしい。そして私は数年後に同じ事を体験することになる。本文に戻る

 

最初の出張は終わりになった:この出張の最中、既に留学候補生となっていた私は一応モーテルの部屋でも英語の勉強はしたのである。詳細は「留学気づき事項第3章-TOEFLについて」を参照のこと。本文に戻る

 

課の宴会:この宴会が、YZ姉妹とその一団との一連の交友のはじまりとなった。詳細は「YZ姉妹」を参照のこと。本文に戻る

 

ネコの手をひねるのようなもの:原語は「赤子の手をひねるようなもの」である。これはうちの母の造語だ。母がこの言葉を実家で吐いたとき、しばらく沈黙があって、父親が落ちついた声で言った「由紀子、普通日本語では”赤子の手をひねるようなもの”と言わないか?」しかしおそらくネコの手をひねるのは、赤子の手をひねるのと同じくらい簡単なことだろうと思い、私は最近こちらの方を使っているのである。おまけにこの言葉を発したときの周りのリアクションを観察するという楽しみもある。本文に戻る

 

不確定性原理の神様:(トピック一覧)この神様は時々ほほえんでくれたり、あっさり見放してくれたりする。ここの部分を普通の言葉で言えば、640点と705点の間に有意差があるか、ないかということになろうか。本文に戻る

 

ジュラルミン製のアタッシュケース:ZEROとかいうブランドのもので、$467だった。中に何もはいっていなくても異常に重い、という問題はあるが、今でもばりばりの現役である。新幹線で座席が見つからなかったときにいす代わりにできる、という利点が捨てられない。本文に戻る

 

留学に必要なTOEFLのスコア:私が米国出張中及び帰ってからどのようにTOEFLに取り組んだかについては、「留学気づき事項」の3章「TOEFLについて」を参照のこと。本文に戻る