題名:何故英語をしゃべらざるを得なくなったか

五郎の入り口に戻る

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日付:2001/6/26


X5章:GM出勤

この日、GMについた時にはあたりは薄暗くなっていた。そうはいっても日が短いおりだから五時頃だったのだろうか。Tech Centerと呼ばれる巨大なエリアに数台の車が入っていく。

後から聞いたところによれば、このセンターは大学のキャンパスをモチーフとして建てられたのとのこと。広大な敷地に平屋、高くて2階建ての建物が点在している。ところどころに存在している白くてだだっぴろいエリアはなんなのか、などと考えていたが、それが池であると知ったのはそれから数ヶ月後のこと。行き先はどの建物なのか。なるほど、これか。しかし入り口はどこだ。どこからはいるのかについてジョーが何度か電話で聞きようやく入り口にたどり着く。

車から降りた私は薄いスーツに薄いコート。今から考えればよくあんな薄着で立っていた物だと思う。しかし緊張感はそうした寒さを忘れさせる。例のジュラルミン製のケースを持つと私はロビーに進む。入り口では一人ずつ名前と訪問先の相手を書かなければならない。受付にいる女性がそれをコンピューターに入力すると、シールとなって印字される。中にいる間はそれをつけていなければならない。

一行は我々4人に上役二人、営業のH氏にジョー、それにTR社の課長さんである。この課長さんは昨日のストリップ見物でまるで興味深い科学の実験を凝視するかのように女性に見入っていたとのことだが、今日はそんな様子を微塵もみせない。私はジョーと話していた。彼は言う。

「お前はStanfordをでて、GMで働くチャンスを得たわけだ。Dreams come trueだな」

私は何を言ったのだろう。もし私の記憶が正しければ顔を歪めただけだと思う。これが私の夢だというのか。この凍てついた土地で金属板の0.1mmの薄さを競い合うことが私の夢だというのか。今であれば

"My nightmare comes true"

とかいう文句を思いつくことができる。しかし緊張の極みにあった私にそんなことは無理である。

私がどのように考えようがこれが彼の夢であったことは-それはこの後明白になっていくのだが-間違いない。彼は今や努力の結果新しい受注の可能性をつかみ、その入り口までたどり着いたのだ。これがMarketing担当としての夢でなくてなんであろう。彼の夢、私の悪夢。しかし今はそんなことに考えを馳せている暇はない。ただ前に進むだけ。

皆が手続きを終わると並んでドアをくぐる。ただ前の人間について歩いて行くだけでどこをどう通ったか全く覚えていない。それどころかかなりの距離を歩いたはずなのだがそれも覚えていない。ただ緊張して廊下を歩いていく。

ほどなくして一室についた。細身で髭をはやした男にジョーが挨拶している

" I brought army today"

とかなんとか言っているのだが、確かにこの大行列はArmyと呼ぶのにふさわしかろう。ほどなくしてジョーが呼ぶから言ってみれば、私を先ほどの男に紹介してくれる。どうやら彼が相手であるマネージャーらしい。型どおりのNice to meet youの後

"彼はStanfordを卒業したんだ。英語は問題ないよ"

などと言っている。私は

"Well, I'm not sure"

とにっこり笑いながら答える。私が米国生活で学んだことが正しければ、いかにこの言葉が自分の不安を潜めながら発せられて居ようとも、ここはにっこり-アルカイックスマイルではない-をふりまくべき場面だ。相手は

"そんだけしゃべれりゃ大丈夫だ"

みたいなことを言っている。

さて、かくのごとき挨拶の山が終わると皆が席に着いた。先ほどのマネージャー-Rickと呼ぼうか-が演説を始める。我々はCooperative Sourceというものに選ばれたことは知っている。それがタダでGMに労働力を提供することも知っている。しかし本当のところ何をすればいいのかは全く知らなかったのだ。

であるからして自然とRickの語る声に真剣に耳を傾けることになる。しかしいかに真剣に傾けたところで彼が何を言っているのかさっぱりわからない。私は2年の米国生活と数ヶ月の出張を通じ、やたらしゃべる米国人と遭遇した場合、相手は

「頭の中にあることを全部しゃべってはいるが、その実何もわかっておらず、何も言っていない」

可能性が高い、という経験則を作り上げていた。ひょっとするとこの男はその類ではないか。

そんな私の考えをよそにRickはスピーチを続ける。しょうがないから私は少し聞き取れた言葉だけをメモする。数週間たってようやく自分たちが何をするか理解したとき、このメモを読み返し

「なんと。鍵となる数字がこんなに話されていたではないか」

ということに気がつき、それをさっぱり忘れてしまった自分の頭の出来を呪うことになるのだが、それは後の話し。私は相変わらず断片的な言葉のメモを続ける。TR社の課長さんはそれを時々のぞき込んでいる。私に理解できないくらいだから彼にはちんぷんかんぷんだろう。それでもなんとか聞き取ろうとする意欲には頭がさがるがそのメモをとっている私自身自分が何を書いているのか解っていないのである。

まもなく彼の話は終わった。ジョーは何かを聞いているが、元の演説の内容が理解できていないから何のことかわからないし、思うにたぶんジョーも何を言っているかわからなかったのではなかろうか。

さて、話はそれから使用するCADシステムの話しになった。最初の話しによればGMは場所と必要な機材は無料で提供すると言う。そこらで

How many tubes do you need ?

とかなんとかいう言葉が飛び交う。Tubeとはなんのことだ?会話からさっするにどうやら端末の数のことのようだ。ディスプレイを意味するCRTのTは確かTubeの略だったはず。私は

We need two tubes.

と答えた。本当の事を言えば常時Tubeを使うのは設計男だけなのだが、何か要求するときは必要最低限のかずより少し増やしておくというのは社会人の常識である。なに、あまったらなんとかすればいいんだし。

そうこうしているうちにGMが使っているCADプログラムと○○重工が使っているCADシステムが似てはいるが異なっているものであることが話題となる。どうする?どっちのプログラムを使いたいんだ?という問いが飛び交う。私は

"GMが使っているシステムに合わせるべきだ"

とかなんとか言った。今から思い出してもこの発言はスムーズであったとは言い難い。しかし質問に対しては何か答えなくてはならない。いくつかの質問には髭を生やしたいかつい顔の男が答える。この男は異常な早口でかつぼそぼそしゃべり、その答えはほとんど理解できない。

そのうち「じゃあ実物を見てもらおうか」とかなんとかいう話しになったらしい。みんなでぞろぞろと部屋をでると2階に向かう。もっとも道順はさっぱりわからない。くねくねと曲がりくねった道を通っていくと広い部屋に通された。その部屋はとても広大であり、その中にボンネットをあけたり外板を一部はずしたような車両がたくさん置いてある。どうやら現在生産している型の陳列所のようだ。

そこで皆が好き勝手に見学を始める。GMの技術者がなにやら説明をしているが、日本側の人たちはそれを聞いていたり、あるいは勝手に実物に見入ったりしている。私はといえば、こうして展示されている車など初めてみた。であるから何がみるべきポイントなのか、何が難しくて何が気を付けることなのかさっぱりわからない。しかしおそらく最も英語がしゃべれる技術者ではあるだろうから、

「聞きたいことがあれば何でも言ってください」

と言って回っている。しかし私に通訳を頼もうとする人間はいなかった。私は

「ほうさすがに管理職の人たちだ。これを観れば何をするか解るのか」

などと考えていた。

 

さて、そうした見物も一通り終わると、「ではまた明日」ということでMeetingはお開きとなった。たぶんだれかに案内してもらってだと思うが、我々は出口までたどり着いた。ここは我々がはいった場所からどれくらい離れているのか見当もつかないし、車までどの位十日もわからない。その長いかもしれない距離を、凍えるような気温の中歩くのはいやである。不幸なドライバー数人が車を持ってくる間我々は勝手な事をいいながらぼんやりしている。入るときにはシール式の身分証のような物をもらったが、ふと観ると出口にはそのシールがたくさんはりつけられてボールのようになったものがある。何人かがそこにシールをはり、日本からきた某課長はそのシールを自分の鞄に張り付けた。おみやげにするらしい。

さて、夕暮れの中我々は食事に出発である。日本料理屋でなんだかんだと食べている間日本側のトップは日本に向けて報告書を書いている。それに曰く

「以前と話が変わってきている。前回のミーティングでは基本設計をしてほしい、ということだったのだが今日の話では詳細設計をしてほしいということだった」

私はなかなか大したものだなあと思った。あのわけのわからないミーティングの後にこれだけ確信に満ちた報告書を書くとは。一応英語も分かっているのであるのだなあ。しかし実は彼らは何もわかっておらず、あの場にあった現在生産中のモデルを、「次のモデルがもうこんなにでてきている」と勝手に勘違いし、「ここまでできていれば詳細設計だけやればいいよね」と自分勝手なストーリーをでっちあげた、ということに気がついたのは数週間後の事であった。我々はこの次のモデル-まだ図面の上にも存在していない-を設計するために雇われたわけだ。しかしそんなことにおかまいなく日本側の管理職達は自分達のストーリーを組み立てていたのだ。そして彼らのこうしたストーリーの自分勝手なねつ造はこれが最後になるどころか、この後ますます風速を増していくことになるのだが、それは後の話し。

私は皆とあれこれ話していた。なんだあのアメリカ人は。なんでもかんでも頭の中にあることをしゃべればいいと想いやがって。これは今から思って解ることなのだが、私はまだまだ狭い物の見方をしていたのである。後から解ったことだが私の予想は半分正しく半分間違っていた。ともあれこの日もしこたま食べさせられた私はよれよれになってホテルに戻り、 日記にこう書いた。

「しかしここの暮らしは嫌いだな。やたらくわされて。。しかしみんなあれだけ英語がわからんくてよくいままで商売をしてきたものだ。」

 

さて、翌日はいよいよ本番の初出勤である。既に米国に駐在している先輩の部屋に皆があつまる。きっちりと背広を着込んで緊張気味だ。しかしどうやらまだ相手と連絡が付かないらしい。まあ例によって例のごとし。この仕事についてからというもの、物事が予想通り進んだことなどないのだ。いちいち騒いでもしょうがない。このまま今日は話が流れてしまえばいいなあ、などと思っていたら本当にそうなってしまった。最終的にで結論はGM側の受け入れ準備ができていないから今日はこなくていいよ、ということである。

話は先延ばしになっただけで何の解決にもなっていないのだがとにかくその日は暇になった。しょうがないからみんなでフォードミュージアムという博物館に行こうということになる。駐車場から門までの間がやたらと寒い。ようやく入り口にたどり着き中にはいると、これまた異常に広大である。名前にフォードとあるくらいだから車の博物館かと思えば最後のほうには「アメリカの家具」の展示なんかがある。もっともここにはそれからも何度か来たが、最初の車の展示で力つき足は棒になり、家具は一度も観なかったのだが。

しかしその車の展示だけでも印象的であることは間違いない。歴代大統領が使った車というのが展示されている。JFKが暗殺された時に乗っていた車もあったように思う。その他名前も知らない一般の車から日本車までごろごろ展示されているが、別の意味で有名なフォードエドセル-事業の大失敗の例としてビジネススクールでは必ず教えられるそうだが-だけはみつからない。

そこで何人かは日本に帰り、我々だけが残された。この日は今から考えれば2月の14日、バレンタインデーなのだが、この年だけはそんなことは頭の片隅にも登らなかった。それから二日間は週末であるからお休み。あまり何をしたか覚えていない。初日に話題になっていた「何台端末がいるか?」という話題から発展して、もし我々が慣れ親しんだCADプログラムを使おうとすれば、レンタルせねばならん。週末にその目処を付けておけとか言われたので、イエローページとにらめっこして数件電話をしたように思うが、もちろん週末はそうした店は休みで、答えるのはAnswering Machineばかり。

そんな何もしない日も3日になるとそろそろ飽きてくると思ったところで月曜日。今度は本当にGMに出勤だ。

 

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注釈