題名:2000年の秋休み

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日付:2000/12/2

秋の休み | 旅先


旅先

荷物をかついでホームに降りる。終点まで乗っていた人はあまり多くはないようだ。小雨がふっているが傘が必要な程ではない。

ホームを歩きながら街の様子を眺める。当初今日はこのままここに泊まり、明日の朝一番の電車で帰途につくつもりだった。しかし街を見ると、どうやらここには何もないのではないかという気がしてくる。別に何をするわけでもないのだから何もなくてもかまわないのだが、全く理解できない理由により、どうも私はここで今晩をすごす気がなくなっていた。

とにかく出雲大社に向かおう。駅をでると矢印があちこちに出ている。何年前にここに来たか知らないがそのときの記憶は完全に消えてしまっているから、はじめてきた場所と同じ様な物だ。どうやらバスか別の電車にのるらしい。

てくてく歩いてなんとか電鉄の駅に着く。どうやら改修中らしく、あと数週間もすればきれいな駅になるのだろうが、今の駅はなかなか哀愁に満ちている。料金表を見てみると、出雲大社前にいくものと、松江温泉にいくものがあるようだ。松江温泉、これはいいかもしれない。今回の秋休み、幸いなことに多少体力が回復してきたからこうやって寝台車などに乗っているが、当初よれよれしていたころは

「これは温泉でもいって寝たきりの生活をしようか」

と真剣に考えていたのである。よし。出雲大社の後はこの温泉にいってのんびりすることにしよう。

そう決めるとことこと電車に揺られる。最初山に向かって一直線に向かって行くからこの先に出雲大社があったかと思えば、山をさけて曲がってみたり、そこからスイッチバックして進行方向が逆になってみたり、とにかく数年前ここに来たときの事はすっかり忘れていることだけを確信することになる。そのうち終点についた。ここが出雲大社駅である。

ホームに降りる。するとのぼりが数本目に入る。男と女の神様(これはもちろん日本古来の神様だ)らしき絵が書いてある上にはキャッチコピーが

「恋するまち 大社町」

と書いてある。

何だこれは。ここはとにかく由緒ただしい神様がいるんではなかったのか。10月には神様がうじゃうじゃ来るんじゃなかったのか。いつのまに縁結びの神様と言うことになったんだ。おれが知らなかっただけか。しかしこれでは

「万策尽き、かくなる上は神頼みしか」

と私が考えたように見えるではないかと、といって誰がお前のことなど見るというんだ。こうした自意識過剰的な妄想というのは、すべからく本人に自信が欠落していることから生じる物である、などということはどうでもよい。少し不安にかられた私は外で出た。

外から見るとなんだかちょっと変わった感じの駅舎である。古いおもちゃ屋のようだ。この駅舎も悪くないが、いっそのこと大社造りなんかにしてみると、駅から出てくる人がみな自分が神様になったような気がして悪くないのではないだろうか。

そんなことを考えながらぶらぶら歩き出す。平日の昼間ということもあり、表はとても静かだ。駅の前にはタクシーがとまっていて、そのうちの一人の運転手さんが私に何事か話しかける。今日は天気がいいからどこそこがきれいだとか言っているが、私はただにっこりと笑って手を振るだけである。

てくてくと通りを歩いていく。途中で昼ご飯をたべると、お腹もいっぱいになってご機嫌である。そこからしばらく歩くと鳥居が見えてきた。そこをくぐるとしばらく静かな道が続く。前回来たときは真夏で緑が濃かったが、今は落葉が始まっている。

しばらく行くと人がたくさん見えてきた。どうやらツアーがいくつも来ているようである。それにまじって私のような男性の一人がちらほらと見える。入り口のところでなんだか水で手をあらったりなんとかするのだろうが、私はいつもあれが苦手だから省略してしまった。そのかわりに

「なぜ出雲大社が縁結びの神様になったか」

という理由を表した銅像か何かを見ていた。片側に神様の格好をした人が居て、反対側からは波がどんぶらことおしよせ、その波の上になぜか金の玉がある。これが一体どうして縁結びに繋がるかは真面目に読まなかったのでわからない。

そこからまた中に入っていく。お賽銭箱があり、みんな神妙に頭をさげたり、手をたたいたりしている。私は最近この神社でお賽銭をなげたり、頭を下げたり、ということを省略するようになってきている。しかし周りがみんなしているなか突っ立っているわけにもいかない。お金をなげ、そこにインストラクションが書いてあるとおり頭を下げたり手をたたいたりする。4度たたくのだが

「ぺちぺちぺちぺと」

といかにも情けない安っぽい音がするのは情けないところである。

そこがおしまいかと思えばちゃんと裏に本殿というか本体がある。この前来たときも思ったのだが、この神社は山をバックにしてそれと半ば一体化したように見え、あの山には神様もいるのかなどと感じさせる。本体のほうにも賽銭箱があるから賽銭を投げて頭を下げる。

こうしてとにかく神様に頭を下げる、というのはそんなに悪いことではない、と思う。日本の神様だからとにかくたくさんいて、喧嘩はするは、あれこれ楽しいことをやってくれるのだが、とにかく相手は人間ではない。その前で自分自身のありのままの姿を見つめ直し、素直に、謙虚になることができるような気がする。かといって物理的にそれと等価なプロセス-鏡の前ではだかになり、自分の姿と対面する-を経たところで同じ効果があるわけではない。

後で気がついたのだが、こういうときには何かをお願いするのではなかろうか。しかし頭を下げたとき、その中身は全く空であった。何を願えというのか。

 

一通り見終わると、右手にある宝物殿とういかなんだかそういう物にはいってみる。2階に上がるとあれやこれやの絵やら人形やら刀やらがかざってある。三重の塔の写真があるから何かと思えば、神仏の信仰厚いどこかの殿様が大社内に作ったのだそうだ。おおらかな日本の神様の事だから仏様が一緒に祭られていても何の問題もない。だいたい普通の日本人の頭の中では「神様仏様」とワンセットである。その後この塔はどっかにうつしてしまったらしいが、私は今でもおいておけばよかったのに、と思う。神だ仏だとうるさいことを言わなくてもちゃんと仲良く共存できる、ということを示すために。

中東のどこかの都市も

「このエルサレムには、キリスト教、イスラム教、ユダヤ教の聖地がございまして、ここに来ればそれらの聖地すべてにお参りすることができるという霊験あらたかな都市なのでございます。当地は年がら年中世界各地からお越しいただいた参拝客の方でにぎわっております。

それぞれの聖地では宗教ごとに形は違いますが、お札をお買いもとめ戴くことができまして、3枚そろえることを当地では”教揃い”と呼んでおります。このお札3枚セットにして持っていただきますと、縁結び、進学、就職、家内安全、交通事故、地震、雷、火事、家庭内暴力はてまた世界平和に格段の御利益がございます。

また3カ所回るのは面倒だ、という方には、多少割高になりますが、”教揃いセット”をお買い求めになることもできます。テルアビブ国際空港でも販売しておりますので、故国へのおみやげに是非どうぞ。また職場へのおみやげにしたい、という方の為に10組セット、20組セットもございまして、よりお買い得となっております。」

とくらいにいかないものか。同じ神のむじなだといのに何故そうまでして喧嘩をする。

そんなことを考えながら展示物の間を回る。何度かNHKでも見たし、本体の前にも発掘跡があったが、割と最近非常に太い柱の跡がみつかり、平安時代の本殿はとんでもなく大きなものであったと想像されている。実際その復元図に描かれた姿は畏怖を覚えさせるようなものだ。昔の姿に再建しては、とも思ってみたりする。今の本殿は18世紀に建てられた物らしいが、その前も結構何度か立て直しているらしいから、建て直しに関する抵抗というものはないと思うのだが。しかしあの偉大な神殿にしてしまうと高所恐怖症の人は上ることができまい。それでこそ人々には近寄り難く神々しいとも言えるのだが、適度なお金をとって中に本殿をおがませる、ということはできなくなってしまう。

満足して展示室を去るとき、入り口(兼出口)にいる女性が何事か私に声をかけた。「何事か」と書いたのはそれが私に聞き取れなかったからだ。普通は

「ありがとうございました」

とかなのだろうが、なにせ神様のところだから何か変わった声のかけ方でもあるのかもしれない。かといっていきなりとって返し

「今なんていいました?」

などと詰問するわけにも行かない。ひょっとすると一階の入場券売場にいる女性も同じことを言ってくれるかと期待して降りていったが、彼女は何もいってくれなかった。

 

外に出ると日が照っている。紅葉した山をバックに本殿がきれいだ。写真などとると私はまたぶらぶらと歩き出す。本殿から離れて歩いていくと、たくさんの絵馬がかかっているのに気がつく。

いつ頃からか知らないが私はこうしたところにかかっている絵馬を見るのが好きになった。人の願いというのは実に様々であり、神様の前で発せられる言葉は方向はいろいろであるが、私にああれこれ考えさせたり笑わせたりしてくれる。

ここは縁結びの神様ということになっているらしいからその方面の願い事が多い。まず一番最初の段階では

「とにかく相手を見つけること」

であり

「素晴らしい人と巡り会えますように」

というのがある。これは大抵一人で書いているが、中には、親とおぼしき人が、娘または息子の事を願っている物もある。私は

「ひょっとするとうちの母もこれくらい書いているかもしれない」

と思ったりもする。正式には

「五郎のことなんかあきらめたわ」

と公言している母であるが、ふとした機会に発せられる言葉は私の胸をつきさす。この前など実家で

ノータリン犬

と誉れの高いアイちゃんをかわいがりながら

「アイちゃんはちょっとノータリンだけどね。でもねー。大学なんかでたってねー。お嫁さん来ないしねー」

と語りかけていたとのこと。公式に断念を名言している以上、絵馬を書くことはあるまいが、心のうちではこうしたことを何度か考えているのではなかろうか。

さて、お参りしたかいがありめでたく相手がみつかったとしよう。(私にとってこれはうらやましいことなのだが)すると今度はその思いが届くことを祈るようになる。

「○○君に思いが届き、両思いになれますように」

といったものが何枚かある。どうやらこうした事を書くのは年が若い女性が多いようだ。確かに男がこうしたことを書いていればケツでもけっとばし

「神頼みなどせず、とっとと告白しろ」

と言いたくもなるが。

さて、またまた念願かなって思いが届いたとしよう。しかしそこから結婚にいたる道のりは必ずしも平坦ではない。かくして

「来年こそは二人一緒になり、末永く仲良くくらせますように」

と二人でお参りにくるわけだ。こうした絵馬は二人別々の名字が書かれている。そして念願かなって夫婦になれば、結婚のお礼と「末永く幸せにくらせますように」とおとぎ話の結びの文章を願いにくるわけである。そして幸せな結婚生活をおくり、子供に恵まれれば、今度は子供の良縁を祈ることになり、環がとじることになる。

 

そうした縁結びの物にまじって、両親や、あるいは子供の病気が治りますように、という切実な文字も目に付く。病気の治療にはまず良い医者(この「良い」というのを軽んじてはいけない)にかかることが第一だが、そうした上にできることと言えば祈ることであろうか。縁結びの神様だかなんだか知らないが、とにかく偉い神様なのだから。そうした絵馬を見ると私はどんな思いで書いたのだろう、と思い文字をじっと見つめる。どのような気持ちでここに来たのだろう、病気は治ったのだろうか、と神妙になった私はなおも絵馬を見続ける。

 

すると必ずそうした敬虔な気持ちをうちくだく絵馬が登場するのだ。よくあるのが

「○○君に思いが届いてカップルになれますように。あと成績がよくなりますように。あと○○大会で優勝できますように。あと。。(さらに数項目続く)」

という「いくら払ったか知らないがそれはちょっとよくばりではないか」というものである。そうしたものは大抵小学生の低学年が書いたのだなという文字で書かれており、まあ

「かわいいかわいい」

と言えるものだが、中にはどう見ても成人式をむかえているだろうにそうした「なんでも列挙」の願望を掲げているものも存在する。この日みた絵馬の中にもそうしたものが散見されたが、今日一番印象に残ったのは力がどっとぬけるようなものだった。

 

まず最初の数行にはこう書かれている。

「昇竜のごとく、星に手が届くように、今年は飛躍の年でありますように。」

なかなか男らしい文字で書いてある。それまで恋愛ざたの絵馬をやたらと見てきた私としては

「おお。なかなか気宇壮大で頼もしいではないか。日本男児たるものかくあるべき」

などと好感を持って眺める。すると次の行に書いてあるのが

 

「祈 教員採用試験合格」

 

もちろん何がどれくらい重要かというのは人によって様々だ。彼の空には

「教員の星」

が輝き、幼い頃には「教員養成ギプス」をはめ(それが何なのか想像もできないが)、父は「何!会社員になりたいだと!」と言ってちゃぶだいをひっくりかえし、柱に縛られてしまった彼は足の指に涙をつけ、床に二次方程式の解法解説を二〇〇〇回描き、そして

「校庭の桜を切ったのは私です」

と校長に申し出たのだろうか。

などと自分の頭の中で想像をたくましくしたところでこの脱力感はどうにもならない。いくらなんでも昇竜のごとく星に手が届く、とまで言って於いて教員採用試験合格はないのではないか。昇竜というからにはせめて中日ドラゴンズの優勝くらい願ったらどうなのかと思うのは私が名古屋出身の人間であるせいだろうか。

 

そんなことを考えながら来た道を逆に戻る。曇り空であるが、紅葉がきれいだ。てくてくと歩いて駅に戻り、とことこ電車にのって目的の「松江温泉」についた。しかしどこが温泉なんだかはっきりしない。手がかりを求めて案内図を見ると

「宿泊のご案内は、松江駅の観光案内所で」

となっている。しょうがない。バスにのって松江駅に向かう。この松江というところに来たのは17歳の時だから20年前だ。そう思って街並みを見ると、バス通り沿いに立っている建物はどうみても20年たっているようには思えない。高校の時は松江というのは落ち着いた静かな都市というイメージを持ったが、ここから見る限りではそうしたイメージはほとんどない。明るい、新しい建物のほうが住んでいる人にとってはずっとよかろう。

しかしながら今の私は観光客であり、住んでいる人の都合などは考えもしないのである。なんとなく松江に泊まる気が失せた私はその日もっと先の米子で泊まる事にした。ホテルにはいり、翌日の指定券を購入してご飯を食べる。ここ数日変わったものばかり食べていたから胃腸も疲れているようだ。なんだか軽い物が食べたくなって「焼きそば風スパゲッティ」なるものを注文した。

窓際の席に座ってぼんやり外を眺める。今日は一日中晴れのち雨のち曇りのち晴れ(Repeat)という感じの天気だった。松江から米子に向かう電車の中でも見えたが、今も外に虹が見えている。ウェイトレスのお姉さんが喜び外に出て中にむかって(たぶん)「見て見て」と叫んでいる。

その虹を見ながらぼんやりと考える。安っぽい作り物にあるようにきれいな空を背景にした虹などは生まれてこのかた見たことがない。後ろにあるのはよくて白い空。大抵の場合は黒っぽい雨空だ。あたりまえだ。そうでなければ何故空気中に水滴があるというのだ。そしてきれいな半円形になることはあまりなく、だいたい一部分だけが見える。

この空に七色の円弧が見えるというは確かに妙なもので、古来虹が現れる事を様々に解釈した人もいるのだろう。「平将門」という大河ドラマで、TVでは最後に虹が現れ「将門様はあそこにいらっしゃる」などとなにやらあやふやな希望を持つように言われるのだが、原作では凶兆としてとらえられている、と読んだ覚えがあるような。

虹は吉兆でも凶兆でもない。光の反射だ。それに意味をもたせ将来の事を計ろうとしても無駄なこと。それを知りつつもしたくなるのが人という物だが。山をバックにした木造建築物に小銭を投げ手を合わせても何がわかるわけでもない。素直な自分と対面した後には、自分で先の見えない将来を推し量り、判断をしつつ進んで行くしかない。

 

翌日昼間に電車を乗り継いで横浜に帰った。さてつかの間の秋休みは終り、新しい職場で仕事だ。


注釈

ノータリン犬:ちなみに母は私の事も「うちの子ね。ノータリンなの。ノータリン」と連呼しているが。本文に戻る