題名:科学について-相対性理論と疑似科学

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日付:2000/6/30


長さが縮むということ(再び)

「とにかく光速度は一定なんだ」

という仮定に基づいて、

「誰から見ても光速を一定にするためには。。。こうだ」

とばかりに水平な軸を傾けてみたのはいいが、これは果たして何を意味しているのだろうか。

 

それぞれの立場にとって

「水平な線」

というのは、

「同時なイベント」

の集合であることを思い出そう。水平な線に乗っているイベントは位置はちがえど、それぞれの立場にとっては同時に起こったことなのである。さて、先ほどの図を再掲する。

これで、あなたの立場からみると、同時であるイベントはすべからく水平な線の上にならんでいる。ここで花火1に信号が届いたとき、と貴方が信じる時、花火2になにがおこっているか?

この時点では、まだ花火2には信号が届いていない。届くのは右上にのびて行っている矢印が花火2の線と交わるところまでまたなければならない。

これが何を意味しているか?あなたの立場からみて、「同時」に花火1と花火2の状態を調べる。ところがこの二つの花火での「時間」にずれが生じているということだ。仮に花火1と花火2に「相手の宇宙船」からみてちゃんとあっている時計がおかれていたとしても、あなたが

「同時」

にそれらの時計をみれば、花火1の時計が(仮に)「5秒」とすれば、花火2の位置にある時計はまだ「(たとえば)3秒」を指している。

あるいは場合によってはこういう言い方がされている。花火2は花火1に比べて「過去」にある、と。しかし私はこの言い方は好きではない。過去だ未来だ、というのは暗黙のうちに時間の流れが誰にとっても同一である、ということを仮定しているように思えるからだ。花火1と花火2はそれぞれの時計を持っている。仮にその値がずれていたとしても、別にどちらがどちらの過去だか未来だかに回り込むわけではない。

 

これが光の速度を一定にするために水平軸をえいや、と傾けた結果である。そして前の

「動いている物体の長さを測る」

という話に戻ってみよう。長さを測るためには

「同時に2点の位置を測定する」

ことが必要だった。ところがあなたにとって同時としても相手の立場にとってみればそれは「同時」ではない。花火2が

「まだ届いてないよー」

と言ってから信号が届くまでの時間に、花火2はちゃんと上の図で右方向に移動する。従って相手からみれば、

「あのやろう。近い方の端と、遠い方の端がちょっと前にあった位置をはかりやがった」

ということになる。あなたは花火2の位置を「急いで」はかりすぎたのだ。むちゃくちゃ定性的な言い方をすると、こんなはかり方をすれば、長さが縮んでも無理はない。(下図参照)とにかく計っているものが違うのだ。棒の両端と言えばその通り。しかし違う時点での両端を計っているのである。

 では時計の遅れはどうしてくれる?とあなたは聞くかもしれない。

ここで話はいきなり花火の打ち上げを離れてさっきの

「宇宙船の天井に向かって光を発射し、反射して戻ってきたところで時計を止める」

話に戻る。ダイアグラムの上に書いてみると

こんな感じになる。相手の宇宙船からみれば、光はx'=0の地点からt'=0に発射され、x'=0の地点に0.6秒後に到着する。あなたからみれば、発射された点と床に届いた点は同一ではない。時間間隔は1秒である。

もしあなたが私と同じくらいに

「ふんふん。確かに計っている場所が違うから時間が違うのね」

と簡単に納得してくれる人であれば問題ない。しかし残念ながらそうではない。よく見てみよう。今計った二つの時間と間の辺は直角三角形をなしている。そしてこれでは斜辺のほうがその他の辺より短いではないか。

実はここまでいい加減に書いてごまかしてきたのだが、t-xの座標系とt'-x'の座標系では目盛りの間隔が異なるのである。というわけで、今は

「なんだか計っているところが違うのね」

として私はそそくさと先に行く。

ここで、よく言われる

「相対性理論の矛盾」について書いておこう。動いている相手の時計が遅れる、と聞く。私の時計が1秒経った時に相手の時計は0.6秒しか進んでいない。となると

(相手の時計)=0.6×(私の時計)

さて、相対性理論の名も示しているし、前提の一つは

「お互いにとって物理法則が同一」

ということだった。ということは、相手から見ればこちらの時計が遅れているはずだ。となると

(私の時計)=0.6×(相手の時計)

となる。ちょっとまて。これは明らかな矛盾ではないか。2番目の式に一番目の関係を代入すると

(私の時計)=0.6×(0.6×(私の時計))=0.36×(私の時計)

である。こんな妙な計算があるだろうか。こんなでたらめな関係を導き出す相対性理論は間違っている。(証明終わり)

 

実際こんな結論がでれば、世の中に顔を出したと同時に相対性理論はその名が日本語訳される前に(つまり相対性理論などという言葉が生まれることなく)命脈をたたれていただろう。では上の(完璧に見える)数式のどこが間違っているか?

 

ダイアグラム上で、

「何が同時か」

という線は「水平な線」で表される事は前述した。そして相対性理論が語るところによればこの

「水平な線」

は立場によって異なる。

先ほどあげた一番目の数式の関係は上の図で表されている。

では2番目の関係は?といえば、以下のような図で表される。

相手の方が天井に光が発射されたと「同時に」あなたの時計を読み、床に光が届いたと「同時」に時計を止めた時、同時の線というのは相手から見た話しだから上手のように傾いている。従って相手からみた貴方の時計は0.36秒しか進んでいない。

つまり上の二つの式で同じ(私の時計)という言葉で表しているものは、ダイアグラムでみれば別の部分を表しているのだ。だから

(私の時計その1:0.36秒)=0.36×(私の時計その2:1秒)

であって別に矛盾でも何でもない。もともと二つの式で計っているものが違うのだから、それぞれの立場から見て

「相手の時計が遅れている」

となっても問題はない。

と説明をつらつらとする。参考文献10にはもっとエレガントな説明が乗っている。しかしこれはある種不思議なことなのだがこの事をどう説明しようが理解できずに

「であるから相対性理論は間違っている」

と断言する人は私が思うよりも遙かにたくさんいるようなのである。

そうした人たちの考え方について思いを巡らせることがある。何が彼らをして理解から遠ざけているのだろうかと。思うに

「時の流れは誰にとっても同一だ」

という概念がすべての「合理的説明」を越えて頭の中に宿っているせいではないかと思う。さらにこのことは

「同時と言えば、誰にとっても同時なんだ」

という概念に結びつくのだが。

理論的な説明が示し、実験が支持している結果に対し自分の思いこみだけで反論できる、ということは「科学」の世界に話を限ればおかしなはなしかもしれない。

しかしもし日常生活で直面するいろいろな場面-この場面においてはそれぞれにゲームのルールがある-で多数決を取るとしよう。

そうすれば間違いなく

「時間の流れが異なるなんておかしな事を言う奴は信用するな。実験がどうのこうのたってそれが見えるわけじゃないだろう」

というほうに評決が集まることは間違いないと思うのだが。

 

話がそれた。この点については後ほど考察することにする。さて、ここで話を少し戻そう。

「何故同時が立場によって異なるのか」

を説明するときに

「ある点で起こった作用の影響が別の点にまで伝わる速度には上限がある」

と言った。これは一体いかなることか。何故真空中の光速が越えられない壁になるのか。それについて戻って穴をうめることにする。

 

速度を足すことについて-速度の壁

子供の頃「子供科学何故何百科」(こうやってかくと漢字だらけだが)には大抵

「ロケットは何故多段式なのですか?」

という類の質問があった。人類が月に行った時使ったところのサターンV型は3段ロケットである。月着陸というイベントの印象が強烈だったせいか、私が子供の頃はロケットと言えば3段式と思っていたが、親愛なる日本国の最新式ロケットH-IIは2段式である。

さて、とりあえず段数の事は忘れるにせよ、前述の問いにはだいたい以下のような回答がなされる。

「例えば人工えいせいを打ち上げようとすると、毎秒8km以上の速度にする必要があります。

一段のロケットで秒速8kmにしようとすると大変です。

しかし3段式ならば

1段目のロケットで秒速3km

2段目のロケットで 一段目の秒速3km+秒速2km=秒速5km

3段目のロケットで 一段目の秒速3km+二段目の秒速2km+秒速2km =秒速8km

となり無理なく秒速8kmにすることができます。」

 

私はこうした説明を読むと「ふむふむ」と思いそれでおしまいになるのだが、年をとって疑い深くなった今となっては

「一段で秒速8kmが大変ったぁなにが”大変”なんだ?」などと考えたりする。本説明のもっと定量的な説明は参考文献12によるとして、ここではとにかく多段式のロケットを使うと、各段のロケットの速度が足されていることだけを利用して、速度を「うーんと」増す事を考える。

秒速2kmだ3kmだといわずに一気に

「各段が秒速15万kmのロケットを3段式にして発射」

としたらどうなるだろうか?

 

まずは「普通のものの見方」で考えてみる。(ちなみに前述の説明も「普通のものの見方」を使っているが)

 

一段目:秒速15万km

二段目:一段目の秒速15万km+秒速15万km

三段目:一段目の秒速15万km+二段目の秒速15万km+秒速15万km=秒速45万km

 

というわけで楽々光速を突破する。

この様子をダイアグラムであらわしてみよう。これまた前述したように、動いているもののから物を見ようと思えば、縦軸-時間軸-が傾くことになる。この「普通のものの見方」ではそれ以外の変化はないから話しは簡単だ。

(注:この図は間違い)

t−xはあなたからみた世の中。1段目は光速の0.5倍で進んでいくから、上の図斜めの直線で表される。2段目はそれに対してさらに0.5cの速度をもっているから、あなたからみれば1cの速度。3段目はさらに縦軸が倒れて1.5cだ。上図には時間が1たったときにそれぞれの段がどこに来るかも書いておいた。

 

さて、同じ様子を「特殊相対性理論」で書き表してみよう。まずポイントとなるのは光速-秒速30万km-がどの立場からみても一定であること。それを実現するように座標軸が傾く事。それに秒速15万kmとは光速の半分-つまり同じ時間に光速の半分の距離を進むということである。これらの事を考慮するとダイアグラムはどのようになるだろうか。

1段目は先ほどの花火ダイアグラムと同じだから、だいたい見当はつく。縦軸も横軸も傾くわけだ。でもって傾きは、

「光速」

の線の半分である。(下図のように

問題は次の2段目である。これはどうなるだろう。1段目に対する速度は光速の半分、ということは1段目からみれば、「同じ時間」に光速の半分の距離を進むわけである。となると(例によって「同じ時刻」を示す線が傾いていることに注意)

なんだかごちゃごちゃしてくるが上図のようになるのではないだろうか。ここまでくると勘がいい人は次に何が起こるか想像がつくであろう。3段目までプロットすると

こうなる。確かに段数が増すに従ってあなたから見ても速度はましている(傾きはだんだん水平に近くなっていく)しかしその増加の仕方はだんだん少なくなっているようであり、どうやらこのまま何段足したところで光速の線に限りなく近づくだけで越えることはできないようだ。

ふと気がつくと、もし時間軸の傾きが光速を越える-ということは光速の線を越えて寝るということ-になるとそれまでx(距離)軸が立ってきたのと入れ違ってしまうではないか。しかしこうやって速度を加えて行く限りどうやっても斜め45度の線-つまり光速-を越えることはできない。

 

これが真空中の光速が越えられない壁になる、という事である。

しかし、とあなたは考えるかもしれない。

なるほど。いかにも妙だが100歩譲ってだんだん速度を加えていっても光速を越えることはできない、と認めたとしよう。しかしいきなり最初から光速を越えて移動しているような物体があったらどうなんだ?今までの論議は速度を0から増していく場合には当てはまるかもしれないが、いきなり

「光速を越えてみました」

というものに適用できるのか?

実はそうした想定にはちゃんと科学的な意味がある。壁は確かに存在しているが、速度を0から増して行ってもその壁が越えられないように、反対側に存在し、別の方向から壁を越えられない粒子を考えるのは相対性理論にそいながらも可能なことである。普通の粒子と反対の性質をもち、エネルギーを失えば失うほど早く走り、エネルギーを得ると速度が落ちるがどんなにエネルギーを得てもその速度が光速を下回る事はない。この性質が妙と思われるのであればその通り。もっと妙な事にこの粒子の静止質量は虚数の値なのである。

この粒子は現在のところ検知されていないから、単なる理論的な存在ではある。しかし名前はちゃんとついている「タキオン」というのがそれだ。この粒子に関しては私の理解の範疇を越えるのでこれ以上この文章では扱わない

 

 さて、ここでちゃんとした形の「速度合成則」をいきなり天下り式に書いてみる。

この式であらわさあれる速度wは、速さvで走っている立場から速度uで物体を発射した場合に、止まっている立場からみた速度である。この式をじっと眺めてみよう。まずuもvも光速であるところのcに比べて小さい場合を考える。すると分母の2項目は非常に小さくなり、分母はほとんど1になる。すると

W = u + v

であって、「普通の物の見方」が示すところの速度合成と同じである。日常生活で遭遇する範囲において、「普通の」速度合成則は、特殊相対性理論が示すところの速度合成則の近似になっているわけだ。

次の極端な場合として、uもしくはvのどちらかがcである場合を考える。するとcでないほうの片割れがどんな速度であろうとWはcになってしまう。このことから、

「速度を0から順々に足していく」

方法では光速であるところのcが速度の上限になり、それ以上にはならない、ということが示される。

私もそして、たぶんこれを読んでくれている人の何人かは

「何だそれは。何でそんな馬鹿な事が断言できる?」

と多少疑問の念を感じるだろう。そしてこの疑問に対する次の言葉(参考文献12の「ルクソンの壁」からの引用)

「なぜと聞かれても困る。これが宇宙を成り立たせている仕組みなのだ。」

はここに記述しておくに足りるだろう。繰り返しになるがここにもう一度書いてみよう。

「理論とは要するに宇宙全体あるいはその限定された一部についてのモデル」

であり、行うのは詰まるところふるまいの記述なのである。

「これはどうしてか」

という疑問は別のモデルの導入により答えられることになるかもしれない。しかしそうして究極的にたどり着くのは一組のモデルであり、

「なぜそのモデルなのか」

という問いに対しては

「これが実験結果と適合するから」

としか答える方法を持たない。そして単に実験結果と適合しているから、だけでは答えられない疑問がある、というのもフェアな指摘である。

「そうした問いは無意味である」

というような答えは「科学のルール」の殻の中にとじこもる、独善的な反応でしかない。

 

さて、次にはかの有名なエネルギーと質量の変換について説明する。 

次の章


注釈

ないだろうか:なぜここだけ語尾が自信なさげかと言うと、本当に自信がないからだ。ここの説明の仕方についてはなかなか類似の文献をみつける、あるいは思い出すことができない。間違っていたらごめんなさい。もし「こう間違っている」と教えてくれればもっとうれしいです。本文に戻る

 

この文章では扱わない:このトピックに関しては私が知っている範疇でも何冊か本がでている。ブルーバックスには「タキオン」を扱ったものがある。あるいはよりコンパクトに読みやすい物としてはアイザック・アシモフ著「わが惑星、そは汝のもの(参考文献13)」がある。本文に戻る