題名:科学について-相対性理論と疑似科学

五郎の入り口に戻る

目次に戻る

日付:2000/6/30


E。=mc2について

幼いころ、原子爆弾が人類の未来に影をなげかけていると知ったとき、

「アインシュタインがこの式を発見しなければよかったのに」

などと考えた。しかし大きくなるにつれ、この式がなくても原子爆弾は開発されたであろうことを知り、人類の未来に影を投げかけているのはこの式だけでないことに気がつき、ついには自分の将来を心配するので手一杯になり、人類の未来を心配する余裕がなくなる。とにかく今日、明日、来年まではとりあえずこの自分をなんとかしなければ。

さて、とはいってもここでふと子供の心に戻ってみよう。現に原子エネルギーに我々の生活が多くを左右されていることは事実なのだし(この左右はもちろん悪い意味ばかりではない)この式は"A Brief history of time"参考文献1に乗っている唯一の式でもあるし、そして私が訊ねた質問の答えでもあるから避けて通るわけにはいかない。

この関係を導くためには簡便な方法がある。まずそれを述べるが、その前に注意書きをどうしてもしておきたい。この関係を導く為にはいくつかの前提を新たに付け加える必要がある。かといって再び新しい原理を付け加えようというのではない。「普通の物の見方」でならった法則のうちいくつかが変わらず成り立つ事を前提とするのだ。しかしここまでさんざん

「長さが縮む」

だの

「時計が遅れる」

だの聞かされてきた身としては

「なぜそれが成り立つと言えるのか」

と多少承伏しがたい感じを得ても不思議ではない(実際私自身そうした疑念からまだ自由になったわけではないから)おまけにもう一つ我々が慣れ親しんできた法則は書き直しを要求するのだからますます信用できない。

またもう一つ注意書きを。ここまで時間がどうの、長さがどうのと言ってきた。そして今度は

「質量」

について簡単にすませられず、「それは一体どのような意味で」と慎重に、疑り深く使うよう強迫観念に襲われるかもしれない。しかしどうしたってそれを避けることはできないのだ。だいたい質量とエネルギーが等しいなんていいだすのだから。

 

さて以下のような状況を考えよう。ここでの導き出し方はアインシュタイン自身が1946年に発表した方法による(参考文献14参照)

説明の前に懐かしい言葉を二つほど思い出そう。エネルギーと運動量である。

エネルギーという言葉の方はまあ耳にすることもあるが、運動量という言葉に関して言えば、学校を卒業してしまうと大抵の場合耳にしないのではなかろうか。たとえば質量mの物体が速度vで動いている場合には運動量は

運動量=m×v

ということになっている。そしてたとえば物体が衝突した場合でも、その前後で運動量が保存される、というのを

「運動量保存の法則」

とか言うわけだ。高校の物理ではこの法則を使ってあまたの問題を解いた覚えがある。たとえば

「左から質量1kgの物体が5m/secで、右から質量2kgの物体が10m/secで飛んできて完全弾性衝突(なつかしい言葉でしょ)をおこした。衝突後に二つの物体が一つの物体になったとするとこの物体はどちらにどれくらいの速度で移動するでしょう」

というやつだ。これを高校でならった式を使って解くと(左から右向きの速度を正とすると)

衝突前の運動量:1×5 + (2×-10) = -15

衝突後の物体の質量は3kgだから、衝突後の速度をvとすると

(衝突後の運動量)3×v=-15(衝突前の運動量)

v = -5

というわけで衝突後の速度は右向きに5m/secとなるのであった。

そんなことを考えながら次のような状況を考える。

質量mの物体の左右から光がやってくる。そしてどっかんと(たぶんこんな音はしないと思うが)物体に光が命中する。

さて、光なるものもちゃんと運動量だのエネルギーだの持っているのである。その昔小学生の頃に読んだ小説に、帆をはって太陽の光をうけ、その力で進む宇宙船の話がでてきた。なぜこんなことができるかと言えば、太陽からの光の運動量を宇宙船の運動量にするからである。しかしそうはいってもあなたは心に疑問がわきおこるのを感じるだろう。

「光の運動量ってどうやってでるんだ」

というやつだ。速度と質量を掛け合わせるたって、そもそも光の質量ってのはどうやって定義されるんだ?

さて、実はこの光の運動量というのは、普通の物体のようには定義されない。前述したマックスウェルの方程式から、ある神秘的な過程を経ると、光のエネルギー(E)と運動量(P)の間に以下の関係があることが導かれると言う。(この神秘的な過程を理解していないので、天下りは許してね)

E= c・|P|

つまり運動量の絶対値に光速をかけたものがエネルギーというわけだ。

さてここでようやくさっき揚げた図にあれこれ書いてある式の説明がつくわけだ。左右からくる光のエネルギーはE/2ずつとする。すると運動量はE/(2C)となるわけだ。

運動量を持つもの(光)が衝突したのだが、左右から同じ大きさの運動量を持つものがぶつかったので衝突の後も物体は微動だにしない。

 

さて、同じ状況を、図の上から下に速度vで動いている立場から観てみる。すると衝突前から物体は上方に速度vで動いているように見える。

 

さて、何が前の図と違うかと言えば、物体が速度Vで動いている。これはさっき書いた。もう一つの違いは光がこの図では斜め上方に向かって進んでいるように見えることだ。これも観ている立場が下に動いているのだから、なるほど、こうなるのね、と考える。

さて、今回の図でも変わらないものと言えば、光が衝突する前と後の物体の速度である。さっきの図では速度は衝突前後で両方とも0。今回の図では両方ともvである。

ふーん。なるほどね、とここで納得してもらっては困る。今回の図では光は斜め下から当たっていることになる。ということは、普通に考えれば衝突後には少し物体の上向きの速度が大きくなってほしいところだ。いわば斜め下からボールをぶつけられたようなものだから。

ここで上下方向の運動量保存則を考えてみよう。それには、光の運動量が上下方向にいくつかのかを考える必要がある。

光の速度は(例によって「光速度不変」の原理のせいだが)この立場でもcである。でもって上方に物体はvで動いている。光が発射されてから衝突するまでの時間をtとするとその間に進む距離はctとvtである。この関係を図にすると

となる。光の運動量を上下方向と左右方向に分解したときも上のと相似の直角三角形ができるから、光の運動量がE/(2c)とすると、

上下方向の運動量= E/(2c) ×(V/c) = EV / 2C2

となる。

さて、この値がでたところで、さっきの図で運動量がどうなっているか考えてみよう。衝突前の運動量は

mv(これは物体の運動量)+2×(EV/ 2C2) = mv+EV/C2

衝突後の運動量は

mv(物体の運動量だけ)

となって、衝突の前後で運動量が保存されていないことになってしまう。しかし私はここでいきなり言い出すのだ。

「運動量保存の法則は、特殊相対性理論を使った際にもなりたつ」

今までさんざん時間がのびるだの、長さが変わるだの言っておきながらなぜそこまで「運動量保存法則」を弁護しようというのか、という疑問がわき起こっても私には言い返す言葉がない。であるから私はあなたの格別の慈悲にすがりながら次に説明を進める。

 

さて、上の式はとりあえず疑いようがない。なのに運動量を保存させようと思えば、できることは一つだけだ。すなわち衝突の前と後で

「質量が変化した」

とすることである。

「なんじゃそりゃ!」

というあなたの叫び声も運動量保存の法則を偏愛している私の耳には届かない。私の頭にあるのは運動量保存の法則への愛であり、それを守るためであれば質量が変化することなど物の数ではないのだ。

さて、ここで何がどうなっている、とすれば運動量保存の法則が成り立っている、と主張することができるのだろう。まず定性的に考えると、衝突前の運動量のほうが衝突後の運動量より大きいように見える。ということは、衝突後の質量が増加している、としなければつじつまが合わない。

ちゃんと計算をしてみよう。衝突後の質量をm’とし、さらには無理矢理衝突前後の運動量が等しいとしよう。すると成り立つ関係式は

m’v(衝突後の運動量)=mv+EV/C2

→v(m’−m)=EV/C2

→m’−m =E/C2

つまり衝突の後にはE/C2だけ物体の質量が増したというのである。つまり質量の増加分をΔmとすると

Δm=E/C2

→E=Δmc2

というかの有名な式がでてきてしまう。

さて、ここの説明では、今まで特殊相対性理論で使ってきた前提と、

「運動量保存の法則は正しい」

という前提を使うと、エネルギーと質量が等しいという結論が導かれる事を示した。そうはいっても大抵の場合こうすらすらといわれても何か釈然としないものを感じるのではなかろうか。そりゃ確かに式は正しいようだから、さっきの二つの前提を元にすればこうなる、ってのはわかるが、だいたい

「運動量保存則を守るために質量が変わることにする」

ってのが実にうさんくさい。そうまでして運動量保存則を守る理由はなんなんだ・

 

 

もう一つの「質量増加」と呼ばれるものについて(この章の内容は参考文献11第一章に多くをおっている)

 

さて、ここまで質量とエネルギーが等価だということを書いてきた。物体に吸収された光のエネルギーはどこにいったか?実は質量になったのだあという実にあやしげな論法だが、とにかくそう書いてきた。実はこの文章を書くまで自分でもごっちゃにしていたのだが、特殊相対性理論の本を読んでいるともう一種類の「質量が増える」話しがある。

いわく

「物体の速度が増すと質量が増える」

というやつである。しかしながらこちらのほうはそれほどストレートな話しではない。

 

細かい説明を除いて、特殊相対性理論が導くところによって、ニュートンの第2法則を考えてみよう。

F=ma

書き直して a = F/m

である。この式が何を言っているかといえば、物体に加わる加速度は加えられた力を質量で割ったものである、といっているわけだ。ところが多分ここまで読んできて「相対性」という言葉に対して脅迫観念を抱いているあなたは、こう考えるだろう。

「それは誰にとっての話しだ。誰にとっての加速度だ。誰にとっての力だ。誰にとっての質量だ」

今迄力と質量の話しはあまりしていない。しかし加速度とは定義によって

「単位時間内に速度が変化するわりあい」

なのである。そしてここで既に

「あてにならない」

時間という言葉がでてきてしまっている。脅迫観念はただの観念には終らないかもしれない。

 

さて、前の章で特殊相対性理論の範囲中では、速度は素直に足されないということを書いた。加速している本人にとってみれば、自分に加わった力の分だけ加速しているのだが、はなから

「あいつ動いていやがる」

と見る立場からはそうは見えないのである。

 

具体的にはどういうことか?たとえば相対性理論が発表されるまえに行われたこのような実験がある。

 

2枚の板の間に電界をかけておく。そこに電子を通すわけだ。電子はマイナスの電気をもっているから、電界の大きさによって進行方向は変わる。

さて、ここで電子のスピードをだんだんあげていったとしよう。定性的に言えば電界をとおっている時間が短くなるのだから(板の間をすばやく通り抜けてしまう)曲がりが少なくなる事が予想される。

しかし実験結果はこの定性的な予想とはあっていない。曲がり方は電界の強さ、電子の電荷、速度から計算されるよりも小さくなるのである。電子はなぜかしらねど速度が上がると

「曲がりにくくなる」

のだ。

 

さて、同じ状況を電子の側から見てみよう。少なくとも曲がるまでは等速で動いており、電界をもった板が近づいてくるように見える。速度がどうあろうと、電界の大きさと自分がもっている電荷の大きさ、それに質量によって曲がる量がきまる。

ところがここで速度によって変化してしまう量がある。板の長さだ。運動しているものの長さは縮んで観測される、ということは前述した。結果として板の長さが縮んでしまうのである。板の長さが縮むということは、 

「なんだ。最初10mの板の間をとおると聞いていたのに、5mしかないじゃないか。ってことは横向きの力をうける区間は半分になるわけだ」

 

ということになり、曲がり方は少なくなる。

ここで何が起こっているのか?数式で書くと、素直なニュートン力学第2法則であるところの

a=F/m

となる。さっきの式にルートがくっついている。

さて、ルートの中は速度が大きくなrにつれて小さくなるから、速度vが大きくなるにつれて同じ力を加えても加速度aは小さくなる。

このルートは前の章でやれ時間がのびるだの長さが縮むだののときにさんざん出てきた割合だ。さっきの

「粒子の立場からみた絵柄」

をみれば、長さが縮むのと同じ割合で加速度が小さくなるってのはなんとなくわかってもらえると思う。

ここでちょっと書き方をかえて

 

としてしまい、分母を「相対論的質量」なる言葉でまとめる方法は、あちこちにでてくる。ルートの中はvが大きくなるにつれて小さくなるから、分母は大きくなる。この定義に従えば「速度が増すと質量が大きくなる」という命題がでてくるわけだ。 

そしてこうしてしまえば愛する

F=ma

はそのままで成立する。もっともmはいきなり「相対論的質量」というものになっているが。電子が曲がりにくくなるのはすべてmが変化-増大するために起こるのだ。

 

正直に書くが、相対論的運動論の話し-つまり特殊相対性理論を使った場合に、運動に関する式をどのように解釈すべきか、という点についててはこの文章でこれ以上かかない。前述の相対論的質量なる言葉を使うとあれこれの説明がすこぶる便利にできる(場合がある)らしいのだが、この概念の導入に伴って問題を指摘する向きもあるようだ。たとえばある人の発言によれば

「少なくとも「今まで」および「現在」は幾つかの「質量」という用語が混在しており,誤解の無い範囲で使い分け,誤解の恐れのある場合にはどの質量かを明記していると思います。」

ということなのだが、この文章自体状況をちゃんと把握していないと何をいっているのかわからない。「誤解の恐れのある」場合を具体的にあげてみよう。次のような疑問を考える。

 

「なるほど。運動すると質量が増すのか。でもって光速に近くなると質量がとんでもなく大きくなるわけだよな。質量がとんでもなく大きいといえば、確かブラックホールってものすごい質量があつまって引力が大きくなり、光すら脱出できないって代物だよな。でもってなんでもすいこんじゃうという。

ということは何か?がんばって電子でもなんでもやたらに加速すると小型のブラックホールができるんだろうか?」

 

あなたが例えば何らかの破壊的な団体に属していて

「おお。これは証拠を残さないテロができるぞ。このブラックホールを国会議事堂に打ち込んでやろう」

と思って日夜粒子の加速に血道をあげても無駄である。粒子を加速するのは速度が増すにつれてずんずんと難しくなる。しかしあなたが一生懸命その粒子による引力を測定したところで、それが増えるわけでもない。なぜかと言えば、

「速度が上がると質量が増える」

というのは、いわば「曲がりにくくなる」ことを示すための便法であり、別にそれによってたとえば粒子が余分に増えたり、はてまた万有引力が大きくなるわけではないのである。

 

具体的に起こることというのは前述の式である。したがってまたちょっと形を変えて

 

 

としてもよい。この場合には、分子をひとまとまりと考え「力が薄まっている」というように解釈できる。これは解釈をどうするかの問題であって、どちらかが絶対に正しいということではない。

 

これに対し、前に述べた

E。=mc2

のほうは実質的な話である。核分裂を起こすまえのウラン235と分裂後の質量を計ってみれば確かに減っている。そしてその質量減少分はどっかんとエネルギーとして放出されているわけだ。 

 

さて、質量に関する話はこれくらいにして、最後に私が高校生の時にもった疑問「双子のパラドックス」について書いてみる。 

次の章 

 


注釈

エネルギー:ここでエネルギーというか、質量増加分のエネルギーはどのような形で存在しているのだろう?光が物体の吸収されたとすれば、たぶん熱か何かの形で物体にへばりついているんだろう。実際物を熱するとその質量は増大するらしい。 本文に戻る