題名:沖縄

五郎の入り口に戻る

日付:2001/1/10

出発 | 首里、海軍壕 | 戦跡に洞窟に基地 | 城に島 | 名護市 | 本島北部


戦跡に洞窟に基地

翌朝目覚めると体が結構重い。このまま昨日のように寝ていたい妄想に駆られるが、8時半になれば下でレンタカーを受け取らなければならない。わおーんと吠えて気合いを入れると立ち上がる。

ご飯をたべて部屋でうだうだする。レンタカーがくれば部屋に連絡がはいりますから、と言われていたので待っていたら8時半ちょうどに電話がはいった。下におりてチェックアウト。レンタカー屋の人は若い女性だが、完璧な営業用の態度である。どこが見所だとか聞けるような雰囲気ではない。私は書類だのなんだのを受け取るととにかく車に乗り込んだ。

まずは装備品のチェック。するとカーナビ(大坪家では「かわなび」と呼称するが)がついていることに気がつく。今まで一度もかわなびを使ったこと無しにかわなびソフトの開発をすることになった私だが、これは恰好の機会だ。あれこれいじり回してみるか。

とはならなかった。自分がなまじそれに関わっているだけに「変な操作をすればハングアップするのではないか」などと妙にかわなびに同情的になってしまう。従ってそっとそっと使ってみたりするわけだ。とにかくひめゆりの塔、と目的地を設定すると出発だ。

画面上には青い経路が表示されている。最初の問題は「どうやったらこの経路にのれるでしょう」だがそうした心配をする必要はないことがわかった。彼は私が青い線からはずれればそれに応じて案内をしてくれるのである。

そのうちこのかわなびというのが実にありがたいものであることに気がつきだした。とにかく言われた通りに走っていればいいのである。うちの母のように交差点の50m手前で「あっ。そこ右。右に行きたいの」といいながら左を指さされることなどない。本当の事を言えば最初に使った経路は必要以上に懲りすぎていたのではないかと思うのだが、慣れない土地で地図とにらめっこしながらハンドルを握るような危険をおかすよりは、こちらのほうが100倍もマシである。

さて、朝日を浴びながら静かな路を走る。正月だから空いているのか、いつも空いている路なのかはわからない。海岸の近くにきたな、と思ったら「目的地の近くに来たので音声案内を終了します」と言われた。この先にひめゆりの塔があるらしい。

「ひめゆりの塔。無料」

とかいた看板があるから、そこにはいってみた。広々とした場所に車がぽつぽつ止まっている。奥の方になにかがありそうだ。これがひめゆりの塔かと思ったら、別の慰霊碑だった。どうやらここは入り口近くにある売店の土地で、無料で車を止めるかわりに、見学の後はおみやげをお買い上げいただけると誠にうれしいということらしい。ぶらぶらと歩くと本物のひめゆりの塔にむかう。印象なのはその場のしずけさだ。観光客が何人かいるのだが、彼らの声はほとんど記憶に残っていない。朝日の中、美しい花が静かに咲いている。

石碑をまずちらっと見る。その奥に資料館のようなものがある。ゆっくりと展示物を見ながら歩いていく。何度か繰り返し書かれているのは、戦闘の最終段階でひめゆり部隊に出された

「解散命令」

の無責任さをなじる言葉だ。それまで何も真実をしらせず自分たちを使って置きながら崩壊が近づくと投降の交渉をするでもなしに「解散」とはあまりではないか。ひめゆり部隊の死傷者の多くは、解散命令が出た後に生じた物だ、ということが具体的に数字で示されている。

それを読みながら私は考える。他人に考えを強制され、あげくのはてに放り出される、その悔しさはいかほどのものであっただろうか。人間は判断、選択の自由を何よりも求める。もっと不思議な事にそれを与えられると逆に誰かの考えに縛られたい、という願望を持つ人もでてくるのだがあくまでもそれは選択の自由があっての話だ。

しかし、と思い私は嘆息する。「解散命令」を出したような無責任さは姿形を変え、きちんと今の世の中にも残っているものだからだ。以前勤めていた会社の幹部社員などという連中は間違いなく情勢が不利になれば

「おのおの血路を開け」

と聞こえのよい言葉で解散命令を出し、自分は安全なところに逃げて

「僕は、この戦いは最初からだめだと思っていたよ」

と無責任な評論などに興ずる人間達であった。私が見たのは彼らが会社の経営という問題に携わっている時の態度であり、人命がかかれば別だなどという議論は受け入れられない。彼らはあの時代に生まれても同じ事をしただろう。そんな彼らの馬鹿げた行動にいかに悩まされようが、その無責任さに憤ろうが私は未だちゃんと生きてここにいる。命まで奪われたわけではない。そんなことを考えながら戦死した女性達の写真を見て回る。生きたかったのだろうなと思いながら。部屋の中には生き残った人たちの証言を書いたものがおいてあるがそれを読むには耐えない。

最後の部屋に彼女たちが平和な時代にとった写真が展示されている。着物を着てお揃いで撮ったり。あるいはプールサイドで水にわざと足をつけてみたり。その姿とさっき見た戦死した彼女たちの姿を結びつけることはつらいことなのだが、それが事実なのだ。

資料館を出ながら考える。もし自分がその場にいたとしたら何ができたのだろう。今の我々であれば、解散命令を出すのではなく、交渉し民間人を投降させるべきだった、と言うことが確かに出来る。(年頃の女性達を投降させるのは、どの軍隊相手でも危険は伴うだろうが)しかしそれは米軍相手であれば、という条件つきだ。仮に相手が満州に侵入してきたソ連兵であったらはたして選択肢があったのだろうか。

またこんな事も考える。今の時代であっても残虐な犯罪は後を絶たない。それを聞くたびに「どうしてこんなことが」とか「社会が悪い」とかいう言葉も聞かれる。しかし戦争の元ではそうしたことが無数に起こり、それが異常な犯罪として残りもしなかったのだろうなと。

 

表に出てみると日が差し花が咲いている。静かなこの場所が55年前にどのようだったかは今からは伺い知ることはできない。出口の近くにはこの場所を見学した人たちの感想が張ってある。そのうちの一枚にはこう書いてある。

「俺は暴走族で、今まで学校でビデオをみせられてもなんとも思わなかった。しかしここに来て”自分は何をしているんだ”と思った。これからは平和を守る活動にいそしみたい」

「平和を守る活動」とは何だ。彼が知っているのであれば教えを請いたいくらいだ。昨日どこかで読んだ説明にこうあった。沖縄内部の争いが落ち着いて100年、戦いを忘れ平和に暮らしていた琉球王国は戦に長けた島津藩の敵ではなかったと。私が知っているのは抽象的な題目にしがみつき、その中で暮らしているだけではそれが達成されない、ということなのだが。

戦いを避けようと思えば、現実をそのままに見据え、見えない兆候を読みとり、情勢に応じ時には耐え、時には断固とした態度をとり、時には過ちを認め退かなければならない。その上地図もなく先も見えない状況で限られた時間、心理的に余裕のない状態-つまり合理的な思考が機能することを期待できない状況-で破滅的な選択を避けるだけの何かが必要なのだが、それが何なのか。英知が単なる頑なな態度と区別される線がどこにあるのか、果たしてそんなものがあるのか私には解らないのだ。

 

そんな沈んだ気分で車に戻ると、売店、土産物店の人たちはそれこそ「観光客の争奪戦」に大忙しだ。彼らの妙に明るい声はなんとなく奇妙に聞こえるが、彼らがいかに熾烈に観光客を呼び込もうとも人が死ぬわけでもない。

車に戻ると次の目的地を入力する。平和祈念公園だ。沖縄での戦没者の名前を刻んだ碑に親愛なるClintonが来ていたのを思い出す。しばしのドライブの後到着。ついてみると非常に広い公園だ。小山のほうにいろんな県別の慰霊碑もあるようだが、私はClintonが見ていた石碑のほうに歩いていく。名前がたくさん並んでいる。

この祈念公園は新しくてきれいだ。大規模リゾートホテルかと思うような大きな資料館もあるが残念なことに今日は休館日らしい。印象的なのは静けさだ。日が穏やかに射し、遠くに波の音が聞こえる。人はあまりおらずたこ揚げをしたり、おいかけっこをする子供達の姿が見える。ここは1945年にどのような事になっていたのか、この静けさはなんなのか。

丘の上に何かある。そこに登ると牛のにおいがするな、と思ったらすぐ裏に牛小屋があった。牛はのんびりと鳴いている。坂を下りると子供達が元気に遊んでいる。私だって子供の頃ここにくれば、きっと夢中になって遊んでいただろう。

 

車に戻ると出発した。次は玉泉洞だ。目的地を設定し、ほれほれをしている間についてしまった。

ここは地図の上では玉泉洞王国村となっている。母に言わせると見事な鍾乳洞があるとのことで、それは確かであった。私の知り合いに「洞窟が好き」という女性がいたが、私も旅行先に鍾乳洞があると必ずもぐる。ちょっと蒸し暑いことを除けば、ここは確かに見事だ。水の中に魚がいたり、手の長いエビのようなものがいたり、あるいはきれいにタイルが敷き詰められた上に滴が落ちてくるところが

「ここに鍾乳石がはえかかっているのではないか」

と思えるような色になっているなど見所は多い。しかし他に類を見ないのはその構造である。

入場券を買い、門をくぐると鍾乳洞の入り口がある。えんえんと歩くと鍾乳洞を出る。そしてそこから元の入り口まではびっしりと

「土産物屋」

が並んでおり、果たして自分がどちらに進んでいるのかも定かでなくなるほど

「次はこっち。駐車場まであと10分」

「次はこっち。駐車場まであと8分」

とかかいた看板に振り回される。珍しい南洋の果物を売っているところや、沖縄名産らしい黒砂糖など、面白いといえば言えるのだが、駐車場にたどりつくためにはそれらの土産物屋を一軒たりともとばすことはできない。あちこちの観光地でこれに類したものは何度か見たような気がするが、ここまで徹底したものは初めてみた。

というわけで、自然の驚異と人間の商魂に感動してそこを後にする。まだ時間は12時ほどだ。いくらなんでも宿を探して泊まるには早すぎる。実は今日ここを観た後何をするか何も考えていなかったのだ。普天間基地、それに嘉手納基地にいくつもりだったが、ストレートに行ったのでは早すぎるようだ。知念という場所から海岸沿いの道路をとおってゆっくりと回っていくことにした。

それまでのエリアはあまり人の家も無かったのだが、こちらを通ると結構人家がでてくる。海岸と丘の間の路をくねくねと走る。しかし道路は基本的によくできており、運転になんの支障もない。ラジオなど聞きながらぶいぶいと走っているとそのうち妙なことに気がついた。道路の両脇に見える人家の構造に何か違和感を感じる。

以前仕事で家の屋根についてあれこれ調べたことがある。だから気がついたのかもしれないが、ここの家の造りというのはどっかかわっている。まず第一に陸屋根と呼ばれる小型のビルのような、四角い家の形の屋根が多く、瓦とかスレートとか呼ばれるものがのっている斜めの屋根が少ない。

そして大抵の場合2階の屋根部が大きくはりだしている。見た感じとしては、2階の面積は1階の半分で、あと半分は屋根だけが覆っているような形だ。あそこまで屋根を長くはりだして何のメリットがあるのだろう。時々そこに洗濯物が干されているのを見た。確かに雨はよけられるが日当たりが悪いような気もする。あるいは屋根で遮ってちょうどいいくらいなのだろうか。

時々瓦でふいた屋根もあるのだが、観光用の写真でみる赤い、もしくは灰色のちょっと変わった恰好の瓦である。そして瓦の間は頑丈にコンクリートだかしっくいだかで固めてある。以前建築関係の人に

「瓦屋根の下には防水シートを引いてあるんですが、台風の翌日とかは水が漏れたといって電話がはいりますね」

と言われたことがある。普通の瓦だのなんだのは基本的に重ねてあるだけだ。それでちゃんと水を入れないようになっているのだが、夏になれば台風がばんばん通るこの地ではそんな構造ではとても持たない、ということなのだろうか。

そして運転していくうちに、どの家にも屋根の上に給水用と思われるタンクがあることに気がついた。陸屋根が多いのはこのタンクを設置しやすくするためだろうか、とも思ったが普通の△屋根の家にもちゃんとタンクが設置してある。そのタンクもむき出しにするのではなく、周りを四角く囲った物が多く、その囲いには一定の模様がついている。

旅行の後に母に聞いたところでは

「台風が来た時など断水が多いので、ああした給水タンクは必須品なんだって」

とかいうことらしいのだが。

さて、かように家の造りなどに感心している間に、半島をぐるっとまわってだんだんとりあえずの目的地、普天間基地に近づいてきた。かわなびはその威力を発揮し、私にあれこれの事を教えてくれる。ふと気がつくと近くに琉球大学があることに気がついた。私が高校生の頃は偏差値が低く比較的入学しやすい国立大学とよばれ

「新設校などは国立大学入学者数をあげるため、猫も杓子も琉球大学を受験させる」

などと先輩が言っていたのを思い出す。ちょっと覗いてみようかなどと思うのだが、長時間ドライブするときのいつもの悪癖でとくに目的もなければ時間の余裕もあるのに

「とにかく先をいそがなければ」

という強迫観念に襲われる。今これを書いている時点では「何故いかなかったのか」と思ったりするのだが、所詮は後の祭りだ。

さて、そうは言った物の妙な脅迫観念も生理的欲求には勝てない。私は基本的にオトイレが近い人間である。おまけに何故かダイエットコークのペットボトルを開けてしまい、なんとなくオトイレに行きたい気分になっている。それに昼をすぎてお腹も減った。さっきの玉泉洞で食べた

「トロピカルフルーツ盛り合わせ」

で昼飯はおしまいにしようかとも思ったのだが、やはりあれだけではなんともならないようだ。かわなびに表示される「スーパー」という文字にひかれてそこに車をとめる。

トイレを済ませると昼飯の物色である。何を食べようかな、やっぱりお腹にたまるものと言えばご飯である。と思ってみていくとポーク卵おにぎりと書かれた妙なおにぎりがある。その名の通り、おにぎりにいり卵とポークが挟んであるのだが、このポークがまるではんぺんのように平べったくて大きく、おにぎりからきっちりとはみでている。なんだかわからないがこれにしよう。車の中でパクパク食べてみるとこれがなかなかおいしい。私は自分が飲食店を営もうと思ったことは生まれてこの方一度もないのだが、もし自分が何かの間違いでオニギリ屋をやるとすれば是非これをメニューに加えたいと思う。しかしこのはんぺん状の「ポーク」と称されているものは一体なんなのだろう。

さて、生理的欲求もおとなしくなった後はまたドライブである。ここらへんからかわなびの画面には茶色で塗りつぶされた部分が多くなる。米軍の施設である。

普天間基地というのは何かと有名になっている。そしてそれが住宅地に隣接していることで問題になっているとのことだ。ということなので、その周りを一回りぐるっと走ってみた。確かに住宅がある近くにあるのだが、私が走った場所が悪かったらしく、基地があることはわかるのだが、滑走路だのなんだのはさっぱり見えない。なんとなく遠くにちらほら建物が見えるだけである。

あまり見る物もなさそうなので、隣接している嘉手納基地のほうに向かう。こちらは異様に大きく、私が走っている場所から見えるのは広々とした丘の連続した風景である。帰ってきてから父の文章を読んだら、ちゃんと滑走路が見えるポイントがあるのだそうな。やはりちゃんと下調べとかして行くべきだったというのは後で考えたことだ。

こうして基地の周りを走っているといくつか気がつくことがある。一つはフェンスのこちらと向こうで土地の使い方が全く異なっているということだ。フェンスの向こう側の土地の使い方はアメリカの田舎でよくみる風景とまるでかわらない。ゆるやかな丘がつらなっており、路沿いに駐車のスペースがもうけられているのだろうか、車が並んで何台もとまっているのが見える。建物は平たく大きく、ものすごい間隔(日本的なセンスで行けば)をもって建てられている。

ではフェンスのこちらはどうか、と言えば、紛れもなく日本だ。しかしその雰囲気はどことなくアメリカっぽい。どこがと言われると言葉に詰まるのだが、看板に横文字が多くなっているだけの差異ではない気がする。後日のことだが、あまりかわなびの画面も見ずに走っていて

「あれ、ここらへんの風景はなんだかアメリカっぽくなってきたな」

と思って路の反対側に目をうつしたら米軍基地があってびっくりした。

翌日沖縄の新聞を読んでいたら

「基地反対運動に住民がもりあがらないのが不思議だ。慣れてしまうのが一番恐ろしい」

というコメントが載っていた。摩擦があり、反発がありながらも異文化との接点では相手側の影響をさけることはできない。日常的に隣接して住んでいる人たちの苦労というのは走り抜けただけの観光客には伺い知ることができないのでこれ以上のことは考えないことにしよう。

さて、そんなことを考えている間に、嘉手納も後方に去ろうとしている。そろそろ午後の2時。まだ早い時間なのだが小心者の私は今晩泊まる場所についてあれこれ心配しだす。こんなに大きな基地があるところだからまわりに街もあって、泊まるところくらいあるだろう、と高をくくってきたのだが、こうしてぶいぶい走っているだけではホテルなどは見あたらない。何故かはしらねど疲れがどっとでてきた気がする。ひょっとするとさっきのポークオニギリが効いたのかとも思ったがどうやらそれほどひどくはない。しかし快調とはとても言えない。とにかく泊まるところを探さなければ。

そう思ってかわなびの神様に(いつの間にか神様に昇格である)たよることにした。宿泊施設を表示、とやるとこの近辺には見事なくらいに存在していない。かわなびに載るくらいのは大きなところだと思うのだが、それにしても少ない。逆に那覇周辺にはこれでもか、というほど密集している。

しょうがない。そこからもっと先にいって、なんとか岬という観光地らしいところのホテルにたどりついた。最初構えを見たとき

「うげげげ。これは結構高級ホテルではないか」

と思ったが体がよれよれになっていたので、とりあえず中に入ってしまう。値段を聞いて卒倒しそうになった。昨日まで泊まったホテルの3倍である。おまけに相手は

「ここですと見晴らしがあまりよろしくありませんので」

と言ってさらに1.5倍の値段の部屋を進める。私は眺めなどどうでもよくとっとと寝たい気分だ。安いところでいいから、と言うと相手は宿泊料にさらに上乗せして金をよこせといいだした。余った分は明日返すと言うのである。リゾートホテルというのに泊まるのは生まれて初めてという気がするが、世の中にはいろいろな風習があるものだ。私が何か金がかかる施設を使いまくって逃げることを警戒しているのだろうが、何をそんなに使えというのが、と想像力が及ばないあたりが貧乏人らしいところか。とにかく言われた通りの金額を放り出すと部屋に向かいくてっとたおれこんだ。

この日泊まったホテルが以下にコストパフォーマンスの悪いところであったか気がつくのは翌日の事になるが、その日は「明日とりあえずどこに行こう」だけ決めて寝てしまった。

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注釈