題名:マキアヴェッリと私

 

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日付:1999/3/18

初めに 君主について  リーダーについて 軍事について  人間について 彼に向けられた言葉について


彼にむけられた言葉について

さて最後に彼に向けられた言葉について、そしてそれが何を物語っているかについて書いてみようと思う。ここで書くことは今までに書いたことのまとめである。

これまで何度か書いてきたように私はマキアヴェッリは徹底して現実を重んじる人だったと思う。その姿勢は以下に示す彼の言葉にも現れている。

君主編1:わたしがここに書く目的が、このようなことに関心をもち理解したいと思う人にとって実際に役立つものを書くことにある以上、想像の世界のことよりも現実に存在する事柄を論ずるほうが、断じて有益であると信じる。

古今東西多くの賢人たちは、想像の世界にしか存在しえないような共和国や君主国を論じてきた。しかし人間にとって、いかに生きるべきかということと、実際はどう生きているかということは大変にかけはなれているのである。

だからこそ人間いかに生きるべきか、ばかりを論じて現実の人間の生き様を直視しようとしない者は、現に所有するものを保持するどころか、すべてを失い破滅に向かうしかなくなるのだ。

そして彼の現実的な姿勢は、宗教にも一言言わなくては収まらない。私は宗教とは「かくあるべき論」を天下り的に人の頭にたたき込むものではないかと思っている。確かにこれも一つの方法だ。現実に目を閉ざし、(そうせざるを得ない場面も多いが)「かくあるべき」を唱え、それが現実に見えるようになれば、確かにそれは心の安らぎとなるであろう。

君主編48:われわれの宗教(キリスト教)は、心理と正しい行き方を教えてくれるが、現世的な名誉を重んじることは教えてくれない。(中略)

反対に我々の宗教は、行動的な人間よりも、つつましく瞑想的な人間のほうを良しとする傾向が強い。しかも、謙遜と服従を最上の美徳として、人間が実際にある姿を軽視してきた。

そして、彼は現実を重視するから、結果を重視する。現実に存在するのは(少なくとも意味を慎重に用いた場合には)結果だけだからだ。

君主編5:しかし君主(指導者)は、それをしなければ国家の存亡にかかわるような場合は、それをすることによって受けるであろう悪評や汚名などはいっさい気にする必要はない。

君主編39:結果さえよければ、手段は常に正当化されるのである。

この場合の「結果」という言葉の意味を狭義にとるか広義にとるかで、この言葉の意味は変わってくる。国家を率いる人間は国家百年の計を考え、大多数の人間が「結果は悪かった」と見るような判断を下さねばならないことがあるかもしれない。百年後からみれば「良い結果を生んだ」と思えるような判断である。

しかし大抵の人間は100年生きないし、思考が届く時間はもっと短い。この言葉は多くの場合「悪辣な権謀術数も辞さない」ものとしてとらえられているようである。私にはマキアヴェッリの元々の意図がどちらにあったか、あるいはどちらにあったにせよ、その言葉の生まれた背景は、ということについての知識がないし考察するのに十分な材料も持っていない。

しかしながら今の日本においても「マキャベリズム」が或程度Negativeなイメージをもってかたられるのは、そうしたこの言葉の受け取り方にもよるのではないか。

確かに私が知る限り現代の日本では(そしておそらくはほかの場所でも)「マキャベリズム」というのは「確かにそうかもしれないけど、ちょっとねえ」というイメージでとらえられていると思う。しかしその言葉がいつまでたってもすたれず使われているのは現実の社会にそれがいつでも存在しているからではないか。

現実の社会にあるものを言葉にしてNegativeな評価を得る、というのは人によっては少し不思議と思えるかもしれないが、現実の世界にある人間をみれば不思議でもなんでもない。人間にはいくつかの性質がある。

・現実から目をそらし、自分の願望を現実として見る傾向。または「であるべき」論をもって「である」論を置き換えてしまう傾向。

・上記とも関連するが、「あってほしくない」ことから目をそらせばそれが存在しなくなる、かのような幻想

かくして「現実を直視した」マキアヴェッリには悪評がつきまとうことになる。しかし彼はあくまでも現実を起点に考える。それがいかに「あってほしくない」ものであろうとも。

君主編6:もちろん、このわたしの考えは、人間がみな善人ばかりであったらな、無用になるであろう。だが、人間というものは愚劣でエゴイストが多いのが現実だから、あなたもまた、自分にとって最もよかれと思う方法で行動するしかない。

 

私は個人的に彼の言葉の多く(すべてではない)に共感を覚える。そしてそれとともに彼に向けられた言葉についても思いをはせずにはいられない。現実を語れば石が飛んでくるのは私自身何度も経験したことだ。現実を冷徹に観察し、そして合理的な思考を上にのせれば未来の予測は或程度可能である。しかし預言者は武装しなければその身さえ保つことはできない。 

君主篇74:武装せる預言者は、みな勝利を収め、非武装のままの預言者は、みな滅びる。なぜなら、民衆の気分は変わりやすく、言葉での説得では従いてこさせることができなくなったときは、力でもってそれをさせる必要があるからだ。

ここでマキアヴェッリは非武装の預言者が滅びることについて、一つの理由を述べている。私はもう一つつけくわえたい。自分のみたい幻想を現実として見、幻想のなかに安住している人間にとって、現実をそして現実に基づいた合理的な推論による予言を聞くことほど不愉快なことはないのだ。仮にその予想が当たったとしても決して賞賛を受けることはない。よくて無視、悪ければ預言者が予言をしたために災いが起きたことにされるだろう。

 

彼の現実主義と合理性に裏付けされた(と私は思っている)言葉がどのようにその後の世に受け止められたか。そしてそうした「悪評」をこうむりながらも何故未だにその言葉が伝えられているか。それらはいずれも人間とそれがつくりあげた社会がどのようなものであるかについて、あれこれ考えさせてくれる。

私が「マキアヴェッリ語録」を読んで感じたことは以上である。


注釈