題名:マキアヴェッリと私

 

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日付:1999/3/16

初めに 君主について  リーダーについて 軍事について  人間について 彼に向けられた言葉について


人間について

さてここでは「人間について」ということで、マキアヴェッリの言葉のうち、人間一般についてかかれたと思われるものについて、at randomに書いてみよう。

 まずはたぶんこういう事を言っているから彼は「性悪説」をとなえたとされたのだろうな、、という言葉から。(私は彼は「性悪説」を唱えているとは思わないが)

 君主編32:人は心中に巣くう嫉妬心によって、誉めるよりもけなすほうを好むものである。

 こういうことを言う人間を「性悪説を唱えている」と言おうが、なんと言おうが私はこの言葉は真実だと思う。正確に言えば「心中に巣くう嫉妬心」によるものかどうか、というのは私にはわからないが。

さてではこの言葉の後半部分が真実かどうか、ということだが、私は真実だと思う。理由は簡単だ。部下を持つ人間向けにかかれた本には必ずと言っていいほどこういうことがかかれている。けなすより誉めろと。(あるいは「けなす」ではなく、「しかる」かもしれない。この二つは同義ではないが、人間はこの二つを混同してしまう傾向をもっているようである。)私は長年の(ついこないだ36年になったが)人間社会の観察の結果次の信条を開発するに至った。

「何かが声高にさけばれているとすれば、現実はそうなっていない」

従って上司たるものの心得として「けなすより誉めろ」が声高に叫ばれれているということは、現実の人間は「誉めるよりけなす、を好む」ものだと考えて間違いない。

さてこれが何からくるか、ということである。これを嫉妬心と呼んでいいのかどうか知らないが、人間の心の中には他人より優越でありたい、という願望がインプットされているようである。他人より優越である事を確認しようと思えば他人を誉めるより、けなすほうがたやすい手段だ。私はそんなところからこの性向は来ているのではないかと思っている。

さて仮に上記の性質が何らかの理由で(あるいは単なる偶然かもしれないが)人間の遺伝子に深く刻み込まれているとしよう。となればどうしたって人間は自分の優越な立場を確認したい、という願望なしに生きていけないのである。かといってこれは他人をけなすことのみで達成できることではない。他人をけなさなくて、自分で宣伝しなくてもその優越性が誰の目にも明らかだ、という人間はごくまれにではあるが、存在する。そういった人間はたぶんちょっと余裕をただよわせて他人をけなさず誉めるといったことが可能だろう。あるいは他人を非難するのではなく、相手にしないことによって優越をしめす、ということもあるのかもしれない。(実世界では滅多に見たことがないが)あるいはこの「優越性を確認したい」という遺伝子情報は人によってはかなり薄まっているかもしれない。そうなれば、こんな妙なことにかかわらずに生きていける人もいるだろう(こちらは何人か見たような気がする)優越だ、劣等だといっても所詮相対的なあてにならない評価の話だ。そんことに心をわずらわされることなく自由に生きたい、というのは荘子に流れる考えかたのような気がする。

ちなみに私自身について、であるがこのホームページにちらばっている他人や会社に対する罵倒、けなしをみれば、私がどれくらいの人間であるかわかろうというものだ。

私自身について言えば、日本の大企業の基準では、ものをはっきりいいすぎ「損をしている」そうだ。私は長らくこの言葉の意味がわからなかったが、30をだいぶすぎた今となってようやく思い当たるようになった。次のマキアヴェッリの言葉は何度も私が自分自身に向かって唱えている言葉でもある。

 

人間編43:ある人物が、賢明で思慮に富む人物であることを実証する材料の一つは、たとえ言葉だけであっても他者を強迫したり侮辱したりしないことであると言って良い。なぜならこの二つの行為とも、相手に害を与えるのに何の役も立たないからである。

 

私は人間であるから、相手を誉めることよりけなす言葉のほうが先にでてくる。そしてどれほどできているかわからないが常に現実を重んじることを心がけている。だから現実を見ることができるのに、常に自分の幻想の中に生きていようとする人間をみると、そしてその人間が私に命令を下す立場にあるといらいらせずにはいられない。

会社という枠をはめたときにその相手が自分の同じ会社の上司であれば、基本的に必要以上の遠慮はしない。相手が「ひょっとしたら明日になってみれば1+1=3になってるかもしれないじゃないか。君が1+1=2というのは悲観的すぎる。君はもっと馬鹿になったほうがいい」と言われれば「明日になっても私が脳天気になっても世界一の馬鹿になっても1+1=2ですよ」と答える。

さてこういう言葉をはくときの私の言い方はたぶん日本の標準からすると相手を怒らせるようなものになっているようだ。そして特に上司にとってみれば「この生意気な野郎」と侮辱されたような気持ちになることもあるだろう。そして最近までこうしたことを私は全くきにかけなかったのである。

さて時はうつり、私はある会社のペテンにはまり派遣社員として働く身分となっていた。正社員の場合は上司というの上司だから、嫌われてもどうということはない。しかし派遣社員にとって上司とは上司兼お客様である。従ってやたらと「意見を述べる」わけにはいかない。派遣社員とはまさに「奴隷」の道なのだ。そうした言葉を奪われた状態にしばらくおかれた結果私はある悟りを得るにいたった。

それは「相手を批判するときにあなたは何を達成しようとしているのか」ということである。言葉を述べる、あるいは何かをする、というのはすべからく目的があってすることである。というかそうであるべきだ。相手の機嫌をそこねる言葉を吐いて、あなたが目的とすることに対してどういう影響があるのか。

私が正社員であったときの目的は簡単だった。客先はこちらの上司とは違った考え方をするかもしれない。その客先に「1+1=3」なんていう事を言えば「この会社は頭がおかしいのではないか」と思われるだろう。相手が人の間はまだいいが相手が機械であれば壊れてしまうかもしれない。そして会社にとって好ましからざる影響を与えるだろう。となれば多少上司の機嫌をそこねようが、なんだろうが「1+1=2」と主張すべきだ。

ところが派遣社員の場合、会社に貢献するということは、「客先の機嫌をとり、同じ会社からたくさん人を雇っていただく」ということである。客先の会社がさらにその客先から「頭がおかしいんじゃないか」と言われようが、機械がふっとぼうが関係ないことである。(基本的には)上司兼客先の機嫌をそこねてまで「1+1=2」と主張するよりは、「いやー。そうですか。1+1=3ですか。気がつきませんでした。また勉強させてもらいましたよ」といい、客先に「1+1=2ですよ。こんなことも知らないんですか」と馬鹿にされれば、その帰り道で「今日は相手の機嫌がわるかったんでしょう。あるいは天候に恵まれなかったのかもしれません。まあこういうこともありますよ。いいじゃないですか。みんな一生懸命やったんだから」と言った方がはるかに所属する派遣会社の評判は高くなるだろう。そして客先にさらに多くの商品をお買い上げいただける-人を雇ってもらえる-かもしれない。となれば「会社に貢献する」目的を考えたときにはひたすら相手に調子を合わせるべきなのだ。

さて先ほどのマキアヴェッリの言葉の「なぜなら」以下を読んでみよう。マキアヴェッリは「相手を侮辱するのは人としての道に外れているから」などという理由で相手を侮辱することをいさめているのではない。それが「相手に害を与えるのに何の役も立たない」という理由で、そういうことをしない人間は「賢明で思慮に富む人物」である、と言っているのである。つまり「相手に害を与えようと思えば、感情の赴くままに相手を侮辱しても何の意味もない」と言っているのである。さらに言い換えると、「自分の目的とするところをしっかりと把握し、自分の言動がその目的に対してどのような意味をもつか、ということを考え、自分の自分の感情からでてくる言動をコントロールできる人は”賢明で思慮にとむ”」と読むことができる。

さて私の先ほどの体験に戻ってみよう。私は正社員である場合には「1+1=2」と主張することは会社の為になる、と書いた。しかし実はこの言葉はたいていの場合真実ではない。上司によっては部下の意見を全く聞かないからだ(こちらのほうが遙かに数が多い気もするが)この場合には私が感情と理屈に従い「1+1=2」と言ったところで何も達成できない。それどころか相手を侮辱しておしまいだ。多少私の気は晴れるかもしれないが本来の目的の為には何の役にもたたない。

私は派遣社員として言葉を奪われた生活をしている時に、言葉の有無が結果に対してどのような差異を産むかを観察した。その結果得られた結論というのは「言っても言わなくても結果に大差はない。特に大きな会社で長いスパンの仕事をしている場合には」というものだ。となれば自分が上司と異なる意見を抱いた時には「何も言わない」をデフォルト値として持った方がよさそうである。言葉を発して自分の正当性を主張し、上司の間違いを指摘したところで上司は侮辱された、と感じるだけだし、何の役にも立たないからだ。

さてかくのごとく、悟りを得た、などといい、偉そうな事を書いてみてもどうしても私としては「けなす、あらを探す」ほうが「誉める」感情よりも先にでてきてしまうのである。人間であることの性向からはそう簡単には逃れられない、ということか。

さてこうした(たぶん私だけに限らないであろう)人間の「誉めるよりけなす」事を好む性向から何が生まれるか。

 

人間編46:いかに多くの人のためになることでも、新たに大事業を提唱するのは、提唱者にとって大変な危険をともなわずにはすまない。(中略)この種の危険はなぜ生じるのか。

それは人間というものは結果をみて評価を下すものだし、もしもその事業の成果が十分でなければ、責任はすべて、提唱者であるあなたに押しつけるからだ。(中略)

それで、このともなわずにはすまない危険をどうしたらいささかでも避けることができるかだが、それはもう、事を進めるのに可能なかぎり控え目にやる、をモットーとするしかない。

つまり提唱者は自分であるということを明示してはならず、そのうえ、提唱する際にも、やたらと熱意をこめてやってはならない。

ここでマキアヴェッリは大事業を提唱する事に対する危険性は「人間は結果を見て評価を下すものだ」ことからくるとしている。しかしながら、「まあ一生懸命やったんだから、よしとしよう」というわけのわからない経過を重んじる評価が好きな国に生まれた私としてはこの意見に全面的に賛成、というわけにはいかない。

やはり前述した「人間は誉めるよりもけなすほうを好む」という人間の心の奥底に潜む願望によるもの、としたほうがすんなりととれるのではないか。仮にあなたが大事業を成功させたとしよう。多くの人はたぶんそのことを賞賛してくれるだろうが、その心の中のどこかに「あのやろう、成功しやがって」という感情が入り込むのは人間である以上さけられないことなのだと思う。それが仮にあなたが失敗すれば容赦なく吹き出してくる。そういったことではなかろうか。

さてこの言葉を見たときに「どっかでにたような話を聞いたことがあるな。。」と思った。内容からして現実を「賢く」生き抜く為のものだから、老子かな、と思って私は老子を斜め読みすることおよそ3度に及んだ。(老子は結構短いので、こうした斜め読みには便利だ)しかしみつからない。

うーむ。あの言葉はどこでみたものだったか、、と思って「もしや」と思って探してみたらやはり荘子だった。

 

荘子内編応帝王編:名誉をうける中心にはなるな。策謀を出す府とはなるな。事業の責任者になるな。知恵の主人公にはなるな。究極の立場とひとつになってゆきづまることなく、形を超えた世界に遊び、自然から受けたままをじゅうぶんに享受して、それ以上のものを得ようとはするな。

 

両者の言葉の前半はにている。後半はにているのかそうでないのかちょっと判断に迷うところだ。「自然から受けたままをじゅうぶんに教授して、それ以上のものを得ようとするな」ということが、「可能な限り控えめにやる」ということになるのかどうかはよくわからない。そうなることもあるだろうし、そうでないこともあるだろう。

いずれにせよ「大事業の提唱者」というのは大変なことのようである。これに関しては縁がないので単に想像するだけだ。

さてあなたが実力と運に恵まれて大事業に成功したとしよう。すると現れるのが、こびへつらい、おもねる人たち(らしい)である。

君主編35:なにしろ、人間というものは誰でも、自尊心をくすぐられるのは気分の良いもので、それでつい、この「ペスト」に感染してしまうことになるのだ。

私は長年の観察の結果「相手が誰であれ、ほめられればうれしいし、けなされればうれしくない」という信条を開発するに至った。この性向がなにからくるか、というと人間の心の奥底には誰しも自尊心、自分を尊いとする心が根強く巣くっているのではないかと思う。従ってほめられてそこをくすぐられれば誰でも簡単に喜ぶ。前述した「他人をけなす」という性質もせんじつめれば自分を尊いとする気持ちの裏返しではないだろうか。

史記の刺客列伝には「士は己を知る者のために死す」という言葉がある。自分を尊いと思うが故に、それを認めてくれた相手には命をささげてまでも報いよう、ということだろうか。自尊心が強く、それが認められなければられないほどこうした気持ちは強くなるだろう。

こうして人の言葉により、よろこび、命を捧げてまでつくそう、とすることは人として生まれ持った性である。しかしその喜びも必ず長くは続かない。相手が「多くの人-民衆」であるときはなおさらだ。

 

国家編34:民衆ほど軽薄で首尾一貫とはほど遠いものはないとは、ティトウス・リヴィウスの評価であるが、他の多くの歴史家も、これと同じことを書いている。

 

多くの人から一定の意見をうけたとしよう。それが賛美であるかもしれないし「あいつをつるせ」という叫びかもしれない。しかしながら「多くの人から一定の意見をうける」ということは「その相手はあなたのことを少ししか知らず叫んでいる」ということなのだ。多くの人が貴方の事を深く知るなんてことはどうやたってあり得ない。

あなたの本質が一夜にして変わるわけではない。しかしあなたに対して意見を述べている側は「あなた」を見ているのではない。彼らがみたいと思っている「あなた」の像を作り上げて見ているだけだ。おまけに人は誰しも多数の集団に属していると個人の責任、という概念が薄くなってとんでもなく軽薄な事をしでかす。集団心理、というやつなのだろうか。

おそらくここに書いたことはどこにでも書いてあるし、誰もが言葉の上ではわかっていることなのだろう。しかしそれを知りながら、人間は他人の誉め言葉やけなし言葉にいちいち反応せずにはいられない。他人の気持ちが-それが個人であれ大衆であれ-たいそう変わりやすいものであることを思うとき、まるでこうした人の姿は、東から風がふいたと言っては喜び、西から風がふいたと言っては悲しむようなものだ。気まぐれに吹く風によって一喜一憂するのが人の性というものか。

ここまで「他人の言葉によって一喜一憂する」人の性について書いてきた。「人の言葉」というものと同じくらい「運」というものもきまぐれである。さいころをふって賭事をすればこの気まぐれさはすぐにわかる。別にあなたが精進したからかといって、6の目が多くでるわけではない。しかしながら、「運」が向いたときはそれを自分の力のため、と思い、「運」が離れたときはそれをほかの人の性にすると人は考えがちかもしれない。そしてきまぐれな「運」によって世路音で見たり、意気消沈してみたりする。

しかしながら、その「一喜一憂」を完全にさけることはできなくても、その程度をある程度押さえることは可能である、というのが以下の言葉だと思う。

 

人間編6:衆に優れた人物は、運に恵まれようと見離されようと、常に態度を変えないものである。(中略)

しかし運命に振りまわされやすい性向は、実は、受けた教育の結果であることが多い。教育が正しくなされない場合は、運に振り回されやすい性格になる。反対に、それが正しくなされていれば、逆境にも動じない人間になる。

なぜなら、教育は人間社会を知ることを教えてくれるものなので、その変転の激しさを理解できるようになり、そのいかんにかかわらず、動じない性格をつくりだすことになるからだ。

この言葉の最初の部分については賛成だ。風が東から吹こうが、西から吹こうがその本人に増減があったわけではない。そのことを自覚できる人間は、おのれと外部のものの区別がつく人間である。何が自分が持っている者で、何が虚ろな言葉かを区別できるということは、現実をありのままに認識できる、というこである。私の信条が正しいとすれば、現実をよく知ることができなければ、現実によく対処することはできない。現実によく対処することができる人間が「衆に優れた人物」と言われても何もおかしくない。

さて問題は後半である。「教育は人間社会を教えてくれる」ものなのだろうか?(それが動じない性格をつくりだすかについては後述する)この質問には慎重に答える必要があるように思える。たとえば「今の日本の教育はくさっている。学校で学ぶことなど社会でなんの役にも立たない。学校なんていかなくてもいいんだ」と叫べばこれはよくある通俗的なドラマのセリフだ。(あるいは本気でこう叫んでいる人もいるのではなかろうかと思うが)そしてたとえば大学を出たときの自分と今の自分を比べて、どちらが人間社会についてよく知っているかと言えば、たぶん今の自分だと思う。これは何も年が増えただけの効果ではない。なんらかの理由によって私がずっと学生を続けていたとして今の年になったとしてもあまり人間社会について深く知ることはなかっただろう。

さてこう考えてみるとあまり教育に効果はなかったと言うことになりそうである。しかしこう考えてみよう。つまり仮に私が高校、大学にいかずに働いて今の年に至った場合と今の場合でどちらが「人間社会を知った」といえるかといことである。

学校でうけた教育だけでは足りないことはたぶん間違いない。しかし今から考えると試験の前に一夜漬けで覚えた言葉や断片でも今の生活に役立っていることに気がつく。あるいは当時教科書に載っていて興味を持った本を今読み返してみて、新しい意味を発見する事も多い。そのような学校で受けた教育をトリガーとした勉強によって、いろいろな人がいろいろな時代に何をいったか、何が起こったかを知ることができる。そして自分が体験したことが、自分が直接体験したわけではないけれど、いつの時代にも存在したことなのか。ほかの人はどのように考えたのか。その結果はどうだったのか、などを知ったり考えたりすることができる。それは私にとって結構楽しいことであるし、ある意味人間社会での普遍性と特殊性について考えるきっかけと材料を与えてくれる気がする。

学校の勉強をあなどってはいけない」というのは私の数ある信条の中の一つだ。前述した二つの例を考えてみよう。今の私と、中卒で働いていて36になった自分である。後者の場合あるいは今頃ちゃんとした落ち着いた生活をしていたかもしれない。そしてそれなりに幸せに暮らしていたかもしれない。しかし人間社会の知り方はきっと今とは違っていたと思う。どちらが幸せかなどということは比べようもないが。今のところは私が(幸運にも)受けることができた教育は人間社会を知る上でのいろいろなきっかけになってくれた、と書いておく。

さて最後の「人間社会を知ることが動じない性格をつくりだす」ということであるが、これも確かにある程度正しいと思う。人間もって生まれた性格には結構な差があるようだ。「器が大きい」「器が小さい」というのは人間の性格を評価するときに使われる言葉だが、この器の大きさのほとんどの部分は生まれたときに決まっている気がする。しかしながら仮に小さな器とうまれた場合であっても「禍福はあざなえる縄のごとし」とか「物事の評価というものはすべからく相対的なものである」ということを知っていれば、少しは目先の事物に一喜一憂することも少なくなるかもしれない。

東から風が吹いたと言って喜び、西風に変わったといって悲しみ、北風が吹けば怖れ南風がふけば怒るのは人間の性というものだろう。仮にそのことを言葉の上で知っていたとしてもそうした心の動きが生じるのを止めることはできない。しかしそうであっても風はどちらの方向からも吹いてくること。そして人の心がそうしたあてにならないものに左右されることは古今東西そう代わりはないこと、人の世とはそのようなものであること、を知っていることは確かに「動じない」と人から見られる性格を作り上げる上でいくらかの影響を与えるのかもしれない。

 さて、私はこれまで結構偉そうなことを書いている。しかしながら自分が実際に人の世で行っていることを振り返るとき、私はマキアヴェッリの次の言葉を思い出さずにいられないのである。

 

君主編34:人間の頭脳には三つの種類があることを、覚えておくべきであろう。

第一の頭脳は自力で理解できるもの。

第二のそれは他者が理解したことを鑑別できるたぐいのもの。

第三は、自力でも理解できず、かといって他者が理解したものへの鑑別能力もないもの。

この頭脳の分類方法及びタイプごとの頭脳の存在分布についての考察については全面的に賛成である。実際私が観察したところによれば、第一の頭脳:1 第2:3 第3:5000くらいの存在比率ではないだろうか。

さてこの頭脳の分類に従ってこの世を見てみると、一番陥りやすい間違い、というのが第2の頭脳と第1の頭脳を混同することである。言っている事を聞くだけではこの二つは区別できないのである。

今まで何度も「言うことは立派だが、やることはヘボ」な人間を見てきた。その結果私は「人間、言うこととやることは全く別」という信条を開発するにいたった。世の中実にいいことを言う人は多い。(それより10倍も言うことがわけがわからない人間-第3の頭脳をもつ人間だ-は多いのだが)「あんなやり方をしちゃだめだよ」、とか「あの考えはここが間違っている」とか。

若い頃の私は「なるほど。そういうものの見方もあったか。ああ。この人はいいことを言う。きっと立派な人に違いない」と思っていた。そしてその人が何か馬鹿な事をやっても「きっとこの人には何か深い考えがあってやっているのだろう」と思っていた。思えばあのころはとても幸せな時代だった気がする。

しかしながら「実事求是」をポリシーとする私しばらくたって遙かに幸せでない結論に達した。つまり「いいことを言うからといって、立派な人ではない」ということである。他人を批評することと、自分が理解して実行できることの間には深くて長い溝がある。私が見たところ第2の頭脳が進化して第1の頭脳になることは滅多にない。(正確に言うと見たことがない)このマキアヴェッリの言葉は「自分が理解できる」としか言っていない。しかし「実行をする」ためには「理解する」が前提となるのは当然である。

雑誌の後ろ表紙にのっているあやしげな通信販売の製品で、ヘッドホンとマイクが組になったやつがある。自分がマイクにむかってぶつぶつ言ったことが耳に聞こえる、というやつだ。能書きによればこれによって記憶力が飛躍的にアップするのだそうだ。私はときどきこれをプレゼントしたい人に出会う。言うこととやることが正反対の人だ。その口から流れるご立派な言葉を自分で聞いてみてはいかがでしょうか、と言いたくなる。とはいっても自分で「ああ。あの製品でも購入してみるか」と思うこともそれに負けず劣らず多いのであるが。

 

さて最後に、「リーダーについて」を書いているときに、思いついた人間がもっているある性向について書いてみよう。

君主編67(一部):第一は、人間というものは新しいこととなるとなんにでも魅了されるもので、現在の状態に満足していない者はもちろんのこと、満足している者まで、変わったことを求める性向では同じだということである。

国家編16:古の歴史家たちはこういっている。人間というものは、恵まれていなければ悩み、恵まれていればいたで退屈する。そしてこの性向からは、同じ結果が生じるのだ、と。

まったく、存亡のかかった戦いをする必要のない場合でも、人間は野心のために戦う。

ここで書くことが妥当か、あるいは「リーダーについて」で書くことが妥当が(あるいは書かないことが妥当か)多少まよったのだが、これから書くことはリーダーというよりは、リーダーについての本を読むのが好きな人たち(たぶん私のその一人だが)に関することだからここに書いておく。

「リーダーについて」の章で私は「ビジネス書などに書いてあるリーダーの姿と、現実の今の日本で成功するリーダーの像は全く違う」という事を書いた。そしてそれがなぜだろう、と考えた末に私はもう一つの「人間について」の性質に思い当たったのである。

それは「ないものねだり」だ。夏になればこんなに汗をだらだら流さずスキーができた冬はいいな、と思い、冬になればこんな重いコートを着ないで活動的に動き回れた夏はいいなと思う。よほどひどい事でない限りとかく人間は「今ないもの」を願望するものである。そのことはマキアヴェッリの上の言葉にも表されている。

とにかく人間というものは今結構不足なく暮らしていても、なにかと「変化」を求めるものなのだ。国家編16の言葉によれば、そのためには戦いすら辞さない。(たぶん自分が第一線で銃を持たない、という条件付きだろうが)

よく言われていることだが、最近日本の政党が言うことはだいたいどれをとっても均一化してきている。米国の民主党と共和党も同様だ。しかしそれでも時々政権の交代や、議席の増減が起こる。なぜかといえば、現状がなんとなくいやだ、と民衆が飽きてくると「とにかく変化」をもとめるようになるからだ。実際のところ別の政党が議席をふやそうがどうしようが起こることはあまり変わらないのだが(議席をふやした側の議員はこうは思わないだろうが)とにかくそれを求める。そしてその状態に飽きるとまた別の方向に変化を起こす、だいたいそんなものである。

しかしながらこの「変化を求める心」には大きな、あまり語られない前提が隠されている。それは「基本的にあまり不足なく暮らしている」という現状を壊さない、という範囲の変化しか許容しない、という隠された人々の願望である。日本を例にとれば、たとえば目先をドラスティックに変えようと思えば共産党に政権を執らせると面白かろう。しかし誰もが「それは行きすぎだ」と感じている。彼らが議席を増やすことはあるかもしれない。しかし本気で「共産党が政権を担当するべきだ」と思っている人間には私はあったことがない。それどころか共産党員でさえ本気ではそう思っていないのではないかと思っている。彼らの中のあまり頭が狂っていない人間は自分たちが政権を獲得してしまうと、そして公約を実行してしまうと共産世界の実現より早く自分の日々の食事がなくなることをなんとなく知っているのではないか。

さて話がだんだんそれていくが、何が言いたいか、というと先ほどの「ないものねだり」からちょっと発展させて、人間は「自分のある程度の生活が保障された上でのないものねだりが大好きだ」といえるのではないか、ということである。なぜこんな事を言うか?前述した「書物でみなが読んでいる(つまりあこがれている)リーダーと現実社会で出世するリーダーの違い」が、これで説明できるのでは、と思うからである。

「君主について」で引用した言葉を再掲しよう。

 国家編44:困難な時代には、真の力量をそなえた人物が活躍するが、太平の世の中では、財の豊かな者や門閥にささえられた者が、わが世の春を謳歌することになる。

衆に優れた大人物は、国家が太平を謳歌している時代には、えてして冷遇されるものなのだ。

マキアヴェッリの言っていることは基本的に正しいのだと思う。しかし私ならば違う言い方をする。困難な時代と国家が太平を謳歌している時代では「優れた」人物の定義が異なるのだ。

三国志にでてくる曹操に向けられた有名な言葉に「治世の能吏、乱世の姦雄」というものがある。本によっては「彼は治世にあっては有能な官吏として、そして乱世にあっては覇者として活躍しうる、両面を備えた人間であった」と書いているものもあるが私は賛成しない。彼は治世の能吏たりえなかったのだ。30過ぎに彼は一度田舎に引っ込んでいる。彼の言葉を信じればそれは「あまりに正義感をもってやりすぎた」ためである。彼は治世の能吏たりえなかった。理由は彼が判断力、決断力、実行力そして(彼なりの)正義感に富む人間であったからだ。治世に-国家が太平を謳歌してる時代-での「有能な人物」というのはそんな人間ではない。自分の考えを持たないか、あっても隠し通し、権力におもねり、権力を持っている人間には「誠に結構でございます」以外の言葉をはかず、「正しいこと」というのは自分が考えたことではなく、自分が所属する組織が規定することだ、と頭から信じることのできる人間である。

さて「時代ごとの有能さの定義」がここの主題ではない。それが時代により異なることだけをここでは言っておく。

ふりかえって今の日本は「困難な時代」だろうかそれとも「太平を謳歌している時代」だろうか?あまたある雑誌や評論やビジネス書のたぐいは「現在の日本は困難な時代に直面している」と書く。というかそういったたぐいの本がそう言わなかった時代があったのだろうか?困難だ、太平だ、というのはすべからく相対的な評価である。今が困難な時代だ、というのならば、いつの時代に比べて「今は困難な時代」だと言うのだろうか。

私は「今は太平を謳歌している時代」とするほうがよっぽど正しいのではないかと思う。昭和にはいってからこれほど平和で安定した時代があっただろうか。景気は悪いらしいが町に失業者があふれるわけではない。暴動がおこるわけではない。戦争は遠い世界のこととしか思われていない。タレントが知事になっても何も問題がおこるわけでもない。体を売る少女は町にあふれているが、それは生活の困難のためではなく、小遣い金ほしさのためなのだ。

さてこう考えてくると、現在の日本にいきる人間が、過去に生きた人間の姿から何かを学ぼうと思えば、たとえば江戸時代の太平の世にうまくやって出世した人間、あるいは中国で太平の時代に常に皇帝のまわりに存在し、権力を握るに至った宦官たちのやり方から学ぶべきなのだ。なぜかと言えばそれこそが「太平の世における有能な人間」だからだ。

ところが電車の中にぶらさがっているビジネス書の広告を見ると、そうした企画というのは存在しないようだ。なぜか「今という乱世を生き抜くための知恵を学べ」とか言って、本当の乱世に生きた人間の名前が並んでいる。場合によっては簡単に人間の首が飛んだ時代の人間の名前だ。自分の首が明日の朝までつながっているかどうかわからない。つないでおきたければ相手の首をちょんぎらねばならない、そうした時代に活躍した人たちの名前だ。彼らが活躍できたのは、首が簡単に飛ぶ(これは物理的な意味でだ)世の中であったからであるから、先ほどの私の定義にしたがえば彼らの「有能さ」というのは今の時代においては何も意味を持たない。

しかしながら(ここでようやく本題に戻るが)これが人の性向というものだろう。私はかけてもいいが、そうした乱世の英雄の話をあこがれをもって読んでいる人間のほとんどすべては乱世に生きるより、今の太平の世の中に生きることを選ぶと思う。太平の世で平和な生活を謳歌しながら、それにはあきたらずに乱世の英雄の話を読んであこがれる。(彼らの話はなんの参考にもならないのだから、その話を読む、ということは、学ぶことではなくて気晴らしにすぎない)クーラーのきいた部屋で、アフリカのジャングルでの生活を夢見る。どうもこうしたことは人間に(なぜか知らないが)備わっている性質のようである。

 

次の章


注釈

何かが声高にさけばれているとすれば、現実はそうなっていない:(トピック一覧)私が働いていた会社の上司に、しゃべっている間に「自分がいかにすばらしい人間か」宣伝しなくては気が済まない人が居た。彼にもこの言葉をあてはめることができるかもしれない。本文に戻る

 

荘子:参考文献一覧)万物斉同の哲学、とでも呼ぶのだろうか。本文に戻る

 

馬鹿になったほうがいい:(トピック一覧)トピック一覧経由この言葉が使われている場所をみてもらうと、私がどのようにこの言葉と出会ったかがわかる。本文に戻る

 

老子:(参考文献一覧)こちらのほうは人間社会をそのままに見つめた上での、生きるための知恵が書かれているところもある。本文に戻る

 

相手が誰であれ、ほめられればうれしいし、けなされればうれしくない:(トピック一覧)おまけに人間は自分が嫌っている相手からもほめられることを期待するほど身勝手である。本文に戻る

 

史記:参考文献一覧)ここであげた言葉は私も好きである。ということは私も人並みの自尊心を持っている、ということになる。本文に戻る

 

士は己を知る者のために死す:(トピック一覧)トピック一覧経由、この言葉に関するあれこれの駄文が参照できる。本文に戻る

 

人間、言うこととやることは全く別:(トピック一覧)ときどき「正の相関関係」どころか「負の相関関係」があるのではないか、と思うほどだ。本文に戻る

 

学校の勉強をあなどってはいけない:トピック一覧)実際高校の倫理社会の時間に「こんなもの役に立たない」と言っていては私はこんな文章を書くこともなかったかもしれない。この文章をかいたからどうだ、と聞かれると困るのだが。本文に戻る

 

実事求是:(トピック一覧)この言葉は毛沢東がかかげたものだが、彼は自分の耳と口の間の神経が切れていたのだろうか。本文に戻る

 

曹操:(トピック一覧)魏の太祖。本文に戻る