題名:2000年のゴールデンウィーク

五郎の入り口に戻る

日付:2000/5/22

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後編

翌日私は実家でのんびりと目覚めた。

とはいっても長男が帰省したというのに両親ともどこかに遊びにいってしまって私は実家に一人である。

いや、正確に言えば一人ではない。気がつくと視界の端で金魚がぱくぱくやっている。

彼らはだいたい午前中に人影を見かけると反射的に水面近くに上がってぱくぱくやる。(夜は人影があってもしらんぷりをしている)最初は

「おなかがすいているのかな」

と思ったがうちの母曰く

「金魚たちは、どれだけ餌をやっても人を見るとぱくぱくする。10回たてば10回やってる」

だそうである。

とはいってもきっと彼らはきっと飢えていたに違いない。そのぱくぱくの度合いもいつもより激しいようだ。私は餌をぱらぱらとまいた。金魚にもやはり要領のいいやつと悪い奴が居て、要領の悪い奴は私が餌を落とした位置ではなく、いつも父が(餌をやるのは父の係りだ)餌を落とす位置でいつまでもぱくぱくやっている。その間に要領のいいやつが一旦場所をかえてあらかた餌を食べてしまう。

さて、金魚に餌をやるという仕事も終わると私は暇である。文章を書いたりプログラムを書いたりすることもできるがどうやら天気はいいようだ。となれば少しは表にでてもいいのではなかろうか。

こんなことが考えられるとは、だいぶ気力が回復しているのかもしれない。3ヶ月ほど前であれば間違いなく布団をかぶって一日こんこんと眠っているところだ。あるいは単に布団をかぶって昼間に寝るには暑くなりすぎているためだけかもしれないが。

 

さて、どこへ行こう。私はパソコンおたくだから、出かけるといってもその手の店を徘徊するのである。昨日探していた部品が安くうっていないかと思い2−3軒まわってみたがどうやら素直に横浜で買うのが一番のようだ。

さて、では帰ろうかと思った瞬間、街にいくつかのポスターがでているのに気がついた。

「レンブラント、フェルメールとその時代」

とかなんとかいう題名で、フェルメールとおぼしき絵が描かれている。なんたる偶然。これで私は35枚中6枚のフェルメールを見ることができるわけだ。私はさっそく県美術館に向かうことにした。そこで私は立ち止まった。県美術館とはいったいどこにあるのだろう。

理論的には私は名古屋に25年以上は住んでいたはずである。であるのに県美術館と言われてもそれがどこにあるのかわからない。しょうがないから本屋にはいって名古屋のガイドブックを立ち読みする。なるほど。あの建物か。

行き先がわかればあとは一直線。地下鉄をおりて徒歩2分で目的地についた。入り口では

「オーディオガイド500円です。大変興味深い内容となっております」

とお姉さんが単調に繰り返している。私は未だかつてこうしたものを利用したことはないのだが、そのときは「ちょっくらつかってみるべえか」という気になった。

 

中に入ってみると混みすぎず、空きすぎず。適度な数の人が絵を鑑賞している。いつものことながら私は美術展に来る人を眺めるのも好きである。派手すぎず、かつどことなく知的で上品な感じの人が多いからだ(私がその範疇に収まるかどうかははなはだ怪しいものだが)絵を観たり人を見たりしながら、さっそくさっき借りたオーディオガイドを試してみることにした。

今まで美術館ではだだだと走り、自分の目に付いた絵の前でちょっととまる。そういったことを繰り返していた。これまではそれで格段不便も感じなかったのだが、解説を聞いているうちに、このオーディオガイドというのはなかなか結構な物である事に気がついた。

解説を聞いているうちに絵とは画家が意図を持ってかくもの、という当たり前のことに今更のように気がついた。たとえばある絵には凍った運河の上でスケートをしている人が描かれている。登場人物は多彩なのだが、その絵からはどことなく歓声や声が聞こえてこない。ガイドによれば作者は生まれつき耳が不自由だったとか。それを聞いて再び絵を観ると確かに寒々しい。

あるいは他の絵では「教訓を示している」と言われるのだが、その教訓が何かは私にはわからない。ただそう思って絵を観ると確かに何かの意図を持って書かれているようにも思える。そんなことを考えながら会場を回る。場内は空いているというわけではないが、列ができるほど混んでもいない。自分のペースでまわればよい。

 

さて、終わりに近づいたところでお目当てのフェルメールである。手紙を開封しちょっととまどっているような女主人と使用人らしき女性。彼女たちの顔は昨日見たものと同じくどことなく卵形だ。解説を聞きつつ絵をみつつ。解説に従って暗い周りを見てみたり、彼女たちの表情を見てみたり。

こうしてみると確かにフェルメールには独特な何かがあるような気がしてくる。それは光の使い方なのかし、人の描き方か、あるいは正確に計算された構図なのか、それらが一体となっていることなのか。

 

ふんふんと頭を振りながらこの日の美術鑑賞は終わりである。今日はおみやげを買うこともなかった。しかし売店で「解説書」を立ち読みしていて私はあることに気がついた。大阪で私が見なかった一枚のフェルメール「天秤を持つ女」はなんとフェルメール最盛期の傑作という評価を得ているのだ。そう思って写真をみれば、これは確かにそう呼ばれる価値がある絵かもしれない。しかしそれは実物をみなければわからない。この休みの間に私が学んだように。となればフェルメール展が終わる7月までの間に私はもう一度大阪に向かうことになるのだろうか。

このゴールデンウィークが始まる時には、まさか一枚の絵を観るために大阪に行くなどとは考えもしなかった。このことがあとどれだけ残っているかわからない自分の時間に一つ楽しみ-実物の絵を観るという-が増えたことになってくれればありがたいのだが。

 

翌日空虚な仕事が待っている横浜に帰った。これで一人での休みは終わり。明日からはまたあの生活が待っている。


注釈