題名:よしなしごと

重遠の入り口に戻る

日付:1998/2/5


・極楽浄土

 

こんなテーマで,以前この「山帰」に書いたことがある。それは,山を歩いていて, 容易に人の行けないところに,この世の天国を見つけたとき,自分の親しい人に見せたい,連れてきてやりたいと,しきりに思うということだった。

 先日何気なく本を読んでいたら,こんな万葉の歌が目に入った。

 

 伊勢の海の沖つ白浪花にもが

          包みて妹が家づとにせむ 安貴王

 

 家づととは,お土産のことである。そして安貴王は天智天皇の曾孫である。彼が,四囲を山に包まれた大和の国から出てきて,いま眼前の伊勢の海原に躍る波に心を弾ませ, 故郷の妻に見せてやりたいと思っているのである。千年前の古人も, まったく同じことを感じていたのだなあと, 今更ながら思ったことであった。

 1990年の忘年登山は, 奥美濃の大白木山だった。頂上の小屋で, 豪華な飲み会をやろうというのである。例のとおり, トップ集団は, もうとっくに行ってしまっていた。夕食までに小屋に着けばいいからと, 私は鈴木章夫君とゆっくりゆっくりとラストを登っていた。もう, きつい登りは終わり, ゆるい稜線登りにかかっていた。「こんな面白いところを, 急いで行く手はないね」と負け惜しみを言いながら, 私達は一息入れることにした。

 四囲の山を眺めるのは, 山屋の習性である。この日は, 山頂付近から上が, ガスに包まれた日であった。その休んだあたりから, 下の山肌は見えていたが,周りの山の稜線は姿を見せていなかった。

 一本立てた頃には, 周りのガスが薄くなり,それが夕日に染められて, われわれ二人は,オレンジ色の空気の中で荒い息をしていた。

 不意にはるか東の方に山が見えた。上もガス, 下もガス, そのガスの中にぽっと開いた穴の中に山が見えると思った。正確に言えば, 始めは本当の山とは思えなかった。夜店で売っている銀粉で書いた架空の山の絵のような,ぼんやりした影だった。その影は次第に, はっきり見えてきた。明らかに御嶽山だった。周りの雲は雨雲らしくドス黒く, 御嶽山だけが, われわれの周りを染めていると同じオレンジ色に染まっていた。二人は、ただ声もなく眺めていた。

 90年秋の尾瀬の旅も忘れられない。五時に宿を出た。夜中に周りの山々で冷やされ重くなった空気が底に溜まり,尾瀬ガ原は濃い霧に沈んでいた。その中を約 2時間, 人の気配のない木道をただ歩いた。霧が薄れるにつれて, 太陽が夢のように姿を現した。このときは, 共に語る人もない, ただの一人だった。

 その翌日, 会津駒ガ岳から中門岳への道も, また天国の一つだった。緑の絨毯が,たおやかに続き, あちこちに清らかな池塘が点在し, 冬の雪の深さが偲ばれた。おまけにこの日の, この稜線では, 昔, 一緒の職場で働いていた和田王久さんにばったり出会った。そればかりか,新ハイクラブの富田さん, 松本さんの御一行にも出会った。遠い東北の山で, 二組の知人に会うなんて, 全くの偶然以外のなにものでもない。

 極楽浄土は, 話を聞いた所へ行きさえすれば何時でも見られるという, 場所だけのことではない。その季節, 天候, 時間, 偶然の条件などが調ってこそ, 始めて成るもののように思われる。

 ガスの中に見え隠れする山や, 豊かに流れる清らかなせせらぎを見る時, 私はしきりにそれを好きな母のことをおもう。

 ある時は雪の谷に咲き初める健気なマンサクに会い, またある時は霧にそぼ濡れて揺れ止まぬチングルマを見, 雲海に浮かぶ島のような遠山を望んだ時など, その時々に, 見せてやりたいと思う数多くの友達が私にはある。そのことが,長年, 山を続けた功徳なのだろうと, 改めて幸せを噛み締めているのである。

 ・雨天決行

 当社の山岳部の山行計画には,いつから雨天決行と書かれ始めたのだろうか。

 私は山岳部の, そんなに古い部員ではない。それでも入部した始めの頃には, 新聞の天気図の下の端に台風の渦巻き模様が現れようものなら, たちまち山行計画が中止になった時代を覚えている。折角, 休日を山のために空けていた時など, 悔しくて, 一人で出掛けたこともあった。

 長野支店時代に信州百名山に通っていた頃,茶道部の上田営業所との交歓会が,土曜の夜に軽井沢であった。翌日の楽しみに,みんなはテニスのラケットを持って行った。私はというと,ラケットの外に山のリュックも併せて持って行った。翌日は雨だった。それで私だけ, 鼻曲山に登って横川に下ったのだった。晴天ならば高い山,雨ならば低い山というのが,当時の常套手段だった。こういう風だったから,ちっとも家に帰らない単身赴任者として,悪評紛々であった。

 山に取りついたものの, 悪天候でギブアップした山の記憶も多い。天候のみならず, 猛烈な藪で,早々に退却したこともあった。昔は, ナイーブで,かつ, ノーマルな山屋だったのだ。

 ところが最近では,中電山岳部の辞書から, ギブアップという文字が, 消えたような感がないでもない。

 記憶をたどると,決行とギブアップが天秤にかかっていた山行として, 十年程前の能郷白山がある。信州百名山の著者, 清水栄一さんが長野から登りにきた。山岳部で御案内した。初日は登山口にテントを張った。明け方近くから雨になった。翌朝, 私はどちらかといえば, 弱気のほうだった。だから,小林元紀さんが「すごい青空だ。雲の上は青空だ」と叫んだときも, 冗談だと聞き流した。

 ところが,そのうちにみんなのムードが,行ける所まで行こうということになった。

 尾根を登り切り稜線を少し行くと,雨は雪に変わった。その時私は,これで登頂は貰ったと,すっかり楽観論者に変わったのを,今でもありありと思い出す。

  ともかく,いつの頃からか, わが山岳部では雨天決行の山行が続いている。

 と言っても, 反省がない訳ではない。

 圧巻は笊ガ岳であろう。雨の中,残雪の上を15時間歩いた。それでいて,すぐ近くにある筈の双耳峰の片割れさえも,霧で見えなかったという惨めな山行であった。おまけに帰りの林道では,ときどき車を止め,落石を片付けながらやっと脱出したのだった。これじゃ雨天決行も考えなくっちゃと, 誰かが言った。

 糸瀬山も相当なものであった。誰かが止めようじゃないかというかと思ったが, 誰も止めると言わなかったので,止められなかったと, この時も誰かが言った。

 はるばる遠征したから仕方がないともいえるが,91年の東北の早池峰山と岩手山も相当な雨中登山であった。

 

 確かに, 雨や雪に対する山の装備は良くなってきた。とくにゴアテックスは大変な威力を持った武器である。

 そして, 装備の進歩だけではなく,悪条件の中を登り切った実績の積み重ねで, 最近では, よくよくの天候でないと, 弱音を吐く人はいなくなってしまった。

 大体, 最近では, 悪天候の道の無い山に登っていても, 登れないのではないかという不安感がまるでないといってもよい。みんながそうなってしまっている。

 いつまでも, このような自信に満ちた山行でありたいと思う。それにはやはり, 事前の充分な研究で, なんとか登られる山を選ぶことと, 最終的には現場の状況判断で無理をしないことが不可欠である。

 間違っても, 冬の剣岳など選ばないことだ。そして,退くべき時は退くことだ。

 

・ところで貴方は何時退くの

 還暦を過ぎてはや2年,太股やふくらはぎが, 心なしか細くなってきたようだ。

 それでいて体重は変わらないのだから,山に登るためのハードの条件は, 相当悪くなっているのに違いない。

 この先,どんなことがきっかけになって,山から引退するのかと,時々は考えるようになった。私の場合,引退のきっかけが, 肉体面からくるのか, それとも精神的なものからくるのだろうかと,怖いもの見たさのように想像して見ている。

 肉体的な制約は,絶対的な条件である。死んでしまわないまでも,循環器障害,関節障害などいろいろのケースが考えられる。

ところで,野獣は傷を負っても,人間ほどには苦痛を感じないという。人間なら歩けないほどの傷でも,群れから脱落せずに行動しているとのことだ。多くの動物は,厳しい自然の中で,群れから離れることは,死と同意義なのだ。

 人間の山屋も,自分の弱みを他人に見せることは良いことではない。山では各人が,能力の限界に近いところで行動している。自分が苦しい時は, 周りの人だって苦しいのである。自分の責任はあくまで自分で持つべきであって, 他人の同情を引こうとするのは,まことにみっともないことだ。

 91年の忘年山行は, 前夜中からひどい下痢に襲われていた。当然, よく寝られなかった。それは風邪から来た下痢らしく, 幸いにも全く苦痛はなかった。年をとるといろんな経験をしている。それで,今回程度ならば, 山へ入ることは一向にかまわないと判断した。なにせ口から入る物すべてが, 下痢の原料になるだけだと思ったので,パンを一個食べただけで一日を過ごした。そして, そのことは誰にも言わなかった。

 そんな私ではあるが,他山の石ということもあるかと思い, 恥を忍んで私の体の老化のフィーリングを披露しようと思う。

 山へ登るとき起こる障害は, 息が切れたり苦しくなること, 足腰がだるくなったり痛くなったりすることなどである。だから,肉体的な障害は大まかに呼吸系と運動系と分けられよう。  若い頃の私は, 呼吸系にまず限界が来るのが常であった。老化の兆しはその逆転であった。つまり運動系の限界が, 先に来るようになったのである。

 具体的には腰のジョイントが, 痛くなるようになった。一番始めに気が付いたのは, ジョギング中であった。59才の秋,30 年来の持病の腰痛が悪化し,しばらく走っていると, どうにもこうにも腰が痛くて走られなくなった。ところが, 一旦休むとまた走られるようになるのである。機械的なシミュレーションで考えれば,エネルギー発生に伴う, 廃棄物の除去能力が不足している感じなのである。

 その障害を,ジョギングでは走りと速歩とを混ぜることで解消した。山ではとりあえずペースを落とすことで, 耐えている。そして,その運動系からくる限界速度で登れば, 呼吸系では僅かに余力を残しているというわけである。

 そういえば,50 代の後半になったころ,大した運動もしないのに, まるで山から帰った時のように, ふくらはぎに半ば快い疲労痛を感ずるようになった。ストレッチをすると, 大変気持ちがいい。思えば, これが老化の一現象であった。血流の減少なのだろうか。 老化は,髪や皺に見られるように, 人によって大いに差がある。私の経過が, 他の人の参考になるかどうかは, まったく分からない。しかし,折角,年をとるのであるから,自分を客観的に眺め, 情報提供をしているわけである。

 ところで引退の条件は,スキーについての経験から言えば,体の老化よりは,むしろ昔から一緒に行ってくれていた友達がなくなるという,環境面から来るようだ。

 当面は中電のスキー部の連中に,無理を言っては連れて行って貰ってはいる。彼らは決して嫌な顔は見せない。それでも,スキー宿の夜に,彼らの会話についてゆけずに黙りこくっている,かっての会社の上司が, 彼らにとってどんな存在になっているのかが分からない私ではない。若い人達に余分な負担をかけているのがなんとも心苦しい。

 娘は, そんな父親の気持ちを知って,孫の子守の手伝いに一緒にスキーに行かないかと誘ってくれる。いいアイデアだとは思う。しかし,若い人から一緒に行こうと言われても,本当は遠慮するべきではないかと, 自分の心がつい呟く。

 

 とかく老人には,ひがむ,かたくなになるなどの欠点があると一般的に言われている。 とは言うものの,敵を知り己を知れば百戦危うからずという古語もある。

 なんとか私も, 老人の欠点を見つめつつ, 若い人達の気持ちを思いやって,一日も長く一緒に連れていってもらえるように頑張って見たいと思っている。

                                  おわり

 

重遠の入り口に戻る