題名: アメリカ西部大峡谷をゆく
(2003/11/1〜8)

重遠の入り口に戻る

日付:2000/9/18


サンフランシスコに着いたとき、ガイドさんから「坂の多い街です。名物のケーブルカーでも、お楽しみ下さい」と説明があるのが、世の中の通例でしょう。
でも今度の旅は、地学のエキスパートがついていて「坂の多い街です。丘は珪石か玄武岩から出来ていて固く、浸食から免れているのです」と説明してくれる、そんな科学っぽい旅だったのです。
たった8日間の短い旅でしたが、あまりにも飛び込んできた情報が多くて、今でも頭の中の整理がなかなかできないでいます。

この紀行文のなかでは、難しい話に触れるのは避けます。
もっぱら私にも理解できた、蛇の足ばかりを取りあげますから、どうぞ、お気軽に読んで下さい。

前にも書いたのですが、今年7月、アメリカ本土最高峰のマウント・ホイットニー(4417m)に登りにゆきました。そのとき、登山の予備日を使って、近くの観光地デスバレーにも入ったのです。まったく先入観なしに訪ねたのです。
そしてその地域一帯が、意外にも、溶岩や、そのほかの火山性の堆積物に覆われているのに、それを吹き出したはずの富士山とか御嶽山といったスタイルの高い火山は一向に目に入らなかったのです。
また、珍しく正断層の発達した地域だという説明も気になりました。
そこで帰国後、インターネットで、デスバレーを調べ始めたのです。
そのうちに東京地質協会が主催する「アメリカ西部大峡谷を行く」、ローウェル天文台、隕石孔、サンセットクレーター、グランドキャニオン、デスバレー、サンアンドレアス断層という見学会が目に入ったのです。
まさに、私の要求にピッタリのものでした。直ぐに申し込みましたら、あなたは3人目のお申し込みで、9月ごろになればツアーが成立するかどうかの目処がつくだろうとの回答でした。

こうして幸運にも、全員25名、うち女性9名という勉強ツアーに参加できたのです。

・霧の朝チャイナタウンに太極拳

●グループの面々
家内は、そんなツアーに参加するのは、どうせ変人ばかりでしょうから、どんな人がきてるのか見てらっしゃいと申しました。これは、変人を自認する私としても同感でした。

日程の真ん中ぐらいで、皆がカフテリア形式の食堂の片隅に固まって、懇親、自己紹介する機会がありました。各自好きなものを食べながらの気楽な会です。
あるいは超気楽といえるかもしれません。参加するも、しないもフリーで、実際、参加されない方もいたのです。

さて、その席上、あるご夫婦がこんな自己紹介をされました。
旦那様のほうは「私は人手が足らないと雇われる仕事です」と自己紹介されました。
これだけでは、何のことか分かりませんが、旅行中の私の観察から想像すると、土地利用に関して環境調査が必要になったとき、気象、地質、動物、植物などあらゆる分野についての総合的な知識が要求されるときが、出番のようでありました。
旦那様に続いて、スラッとした、なんとも知的な雰囲気の奥様が次のように話されました。
この人と結婚したとき、草や石ころを家に持ち返ってきては、飽かずに眺めるのを見ていて、何でこんなものが面白いのかと、私にはまったく分かりませんでした。
ひどいのは地図を引っぱり出したときです。何時間でも口も利かないで、放っておけば朝までだって眺めているのです。
様子を見計らって、お茶を出しました。でも、また暫くして替えにいくと、さっき出したお茶には手がつけられず、冷たくなっているんです。
今回は珍しく、一緒に行かないかと誘ってくれました。
今日は、グランドキャニオンのブライトエンジェル・トレール下降の旅を経験させていただき、心から感激しました。
そう仰って、旦那さんの方を向き「あなた、有り難う」、そして私たちの方に向き直って「皆さん、有り難うございました」と頭を下げられました。

一行の中には、職名はともかく、私の判断では、大学教授クラスの方が4人おられたと思います。
先生方のお話は、なにを聞いても面白いのです。
ある方が「過去、地球の温度が高かったときには、海面が高くなり川の勾配が緩くなり浸食が遅く、それと反対に寒期には浸食が激しかったはずだ」と仰ると、もうおひとりは「ここは海まで1000Km以上もあるので、日本の河川の浸食パターンは当てはまらないのでは」と反論されるなど、アマチュア地質マニアには楽しみが尽きませんでした。

高校の地質の先生が、4人グループで参加しておられました。
中国のある地域では、もう昔々から井戸水に砒素が含まれていて、大勢の住民が障害を受けているのだそうです。この方たちは、その原因の調査、対策の立案を中国政府から依頼され協力しておられるとのことでした。
昔、ある本で、世界のある地域では砒素をとると色白になるとされ、女性たちが積極的に摂取し、その量は未経験の人なら致死量にあたるほどである、という話を読んだことがありました。
考えてみると、水の中に、それが流れてくる地域の鉱物が溶け込み、含まれているのは当然のことです。その量が多いか少ないか、人体に有害なのか有益なのか、それともまったく無関係なのかが人間との関わりなのです。
ともかく今回のパーティには、砒素だとか水銀だとか、ことさらにオドロオドロしく書き立てたり、その横を通り過ぎるのも怖がるようなエモーショナルな人は、いなかったといえましょう。

若い女性2人のグループは、某国立大学の地球科学科の大学院生でした。
孫のようでとても可愛かったのですが、私のような爺いでは相手をするのも嫌だろうと想像し、ただ遠くから眺めていました。
でも、こういう人たちこそが、最新の情報を持っているのだろうと思いました。そこで勇気を振るって「第4期に氷河期と間氷期が交互にきた原因は、今、学校ではなんといって教えているのですか。たとえば、間氷期には動物が木を切って焚き火をして炭酸ガスを出したので温暖化したとか・・」と愚問を呈しました。
すると彼女らは、この老人を憐れむように「あれは今でも原因不明です。一説には大きな隕石が落ちて、チリを巻き上げ、太陽の光が地表に届ず・・・」と答えてくれました。

ひとりで参加された、ある女性です。
歩きながら「それなら、コクロクモか、アシタカクロクモです。どこで見られたのですか? あっ、それならアシタカのほうです。あの地方はアシタカしか居ませんから」。そんな会話を聞いて、私はもう怖くて凍ってしまったのです。(ここで上げたクモの名前だって私に覚えられるはずはなく、ただ雰囲気を伝えたいために、当てずっぽうに書いているのです)。
でも、最後の日、空港で「凄い記憶力ですね」と敬意を表させていただきました。
すると「大したことはないんですよ。でも、父が分類学者でしたから、そういう雰囲気で育ったもんで」と答えられましたが、やはり今でもDNAからして凡人とは違っているとしか思えません。

私のように、中部電力に勤めていた電気の技術者ですと、端的かつ愚直に披露される方はなく、皆さん二重三重にオブラートをかぶせてものを言われました。そういうわけで、ほかの皆さんの素性については、私の独断でしか言えないのです。どうも科学博物館のガイドさん、電気屋さん、飛行機を造っている機械屋さんなどもいらっしゃったようでした。

成田から出た本隊と別に、私と関西空港から行った女性は、あくまで主婦だとの一点張りでした。
でも、彼女は「ローウエル天文台と聞いたときに、震えがきたんです」と言われました。
そういえば、ほぼ全員、天文学にも興味を抱いておられるようでした。
実は、私もアマチュアとして天文学も面白がっているのです。

そういえば、旅行中ずっと同室だった方は、建材業に携わっておられるようでした。
そして、なんでも「一人っ子の娘を何回か科学博物館へ連れていっているうちに、こっちが好きになっちゃって」と、のめりこまれたようでした。
「皆さん、天文学にも関心が深いようですが、なにかメンバーに共通の性格でもあるんでしょうかね?」と、私が水を向けると「自然科学というものは、本来、面白いものですから、所詮、好きだということじゃないですか」と答えられました。

老幼男女25名、煙草を吸う人はひとりもいませんでした。
ラスベガス在住で今回の現地ガイドを勤めて下さったNさんが、唯一のスモーカーでした。

そういえば、通常の観光客とは毛色の違ったこんな団体ですから、ガイドさんは、さぞや、やり難かったと思います。
ラスベガスで折角ギャンブルの話を披露しても、地質学のタイムスケールで見れば胴元が儲けるに決まっているとクールに考えるような人たちが、興味を示すはずはありません。
ホテル・パリスのバイキングのグルメコースの宣伝も,空振りに終わりました。
サンフランシスコのフィシャーマン・ワーフで昼食をとったときのことです。サンフランシスコの旅行社のガイドさんが「ワインは7ドルです。税金、サービス料も含まれていますから、7ドル丁度で結構です」と言いました。
べらぼうな値段ではありますが、この何日か、本体値段のほかに税金とチップを余分に払わされていたので、正直7ドルポッキリと聞いて、なにかホッとした雰囲気はありました。
でも、メンバーのお一人が「そんな請求の仕方があるものですか。ワイン単独でいくら、税金がいくら、サービス料がいくらなのですか?」と突っ込みました。可哀想に女のガイドさんは、会社からそういえと指示されているのだと、言い訳一本槍でした。

サンアンドレアス断層見学の日は、ラスベガスのホテルから、午前3時30分モーニングコール、4時出発でした。
ラスベガスは24時間営業、夜の無い街だと宣伝されています。でも、さすがにこの時間には、ホテル1階に並ぶスロットマシーンに、へばりついている客はありませんでした。
私たちのグループはスロットマシンを囲み、ギャンブルならぬマシンの点検、研究が始まったのでした。なんとも微笑ましい情景ではありませんか。

●ローウェル天文台
旅の初日、名古屋の自宅で、いつものように朝5時に起き、犬を散歩に連れてゆきました。
関西空港を16時に飛び立ちました。
日付変更線を越えるので、サンフランシスコ着は同じ日の朝8時30分、乗り替えてフェニックス着14時、バスに乗りフラグスタッフ到着は19時30分。一旦ホテルに入り直ぐまたバスでローウェル天文台へ、見学後ホテル帰着21時という充実した日でした。
これは現地時間ですから、私の体から見れば下記のようになります。

05:00  起床・散歩
16:00  関西空港出発 機内で2食、仮眠
翌日
00:30  サンフランシスコ着
06:00  フェニックス着
13:00  ローウェル天文台見学後・ホテル帰着

この32時間のうち、機内やバスの中で仮眠しただけということになります。
老人になると眠りが浅く、また随時うとうと居眠りするようになります。
私の場合、もう勤めはありませんから、ふだんの生活でも好きなときに起きて、眠くなれば寝ればよいのです。
世間では時差ボケといいますが、私の場合は、いまさら時差に加勢して貰うまでもなくしっかりボケていて、どこでも結構小間切れに睡眠をとっているのです。

訪れたローウェル天文台は、冥王星の発見で、とくに有名です。
ご承知のように、太陽系の惑星は、水星、金星、地球、火星、木星、土星、天王星、海王星、冥王星であります。
1846年に海王星が発見されて以後、計算上、外側にあるはずの惑星が探し求められていました。
冥王星は太陽からの距離が地球の40倍ほども遠く、またその大きさが月の半分ぐらいしかない小さな惑星ですから、とても暗いのです。
その発見の栄誉は、1930年3月12日、このローウェル天文台の32.5cm望遠鏡に与えられたのです。
冥王星の発見は、今世紀になってから発見された太陽系惑星、そして自国における発見として、アメリカが大いに誇りにしているのです。

ローウェル天文台は、パーシバル・ローウェル(1855〜1916)という人が、一年中天候が良いこと、空が暗いこと、大望遠鏡を運び込むのに便利な鉄道があるという観点から、ここフラグスタッフに建設したのです。
今回、色々教えて下さったS先生が、ローウェル氏の年表を用意して下さいました。
私はこの年表を見るまでは、ある本に書かれていたとおり、ローウェルは貿易で財産をつくり、それを投じて天文学に没頭したのだと思っていました。
さあ、一度年表を見てみましょう。
ボストンの上流階級に生まれ、ハーバード大学に学び、とくに数学に優れていたとあります。
後半生、天文学に打ち込み、とくに火星表面の観察と第9惑星の発見に熱中したのです。
誠に面白いのは、ローウェル氏は日本の礼賛者であったことです。
明治9年、ハーバード大学を卒業した21才のとき、東京の築地明石町に住んだのです。その後、朝鮮政府のために働いています。
29才のとき、日本を再訪しています。
彼は34才のときには、能登半島を旅行し、かつイギリス法律学校で「劣悪なるヨーロッパ人になるなかれ。優秀なる日本人たれ」と講演したのでした。
36才のときには、日本でラフカディオ・ハーンと友達になっています。
この年、アガシーという友人と木曽の御嶽山に登っています。
また、神習教管長芳村正乗につき、神道の研究を始めているのです。
37才のときには、6インチ望遠鏡を待って日本を訪れ、観測の適地があるかどうかを調べています。
38才のときから、日本アジア協会誌に「秘教的神道」の掲載を始めています。
そして、結婚はなんと53才と遅いのです。
こうして見てくると、貿易でお金を儲ける時間があったようには思われないのじゃないでしょうか。
上流階級の出身であることが、ものをいったと想像されます。
かなり個性的な、自分がやりたいことを、やる男で、またそれが出来たということだったようです。

ローウェルは15年間も、火星表面の観測に打ち込みました。
火星に生物が存在することを証明したいと思っていたのです。
資料室に展示されていた彼が使ったノートには、火星表面にあると信じられていた火星人が造った運河のスケッチが残されていました。
私が子供の頃は、火星は地球のすぐ外側にあり、一足先に温度が下がった兄貴分なので、人類よりも知能の発達した生物がいるのではないかと、本気で思われていました。
例の、蛸のオバケのような火星人だって、知能が進んでいるから頭が大きく、重力が地球の38%と弱いからグニャグニャの足で十分だという理由からあんな想像図ができたのだそうです。
火星の表面は、地球上から観察したのでは、大気が邪魔して、いくら大きな望遠鏡でもぼんやりとしか見えないのです。
今でこそ、大気圏外に打ち上げられたハッブル望遠鏡や、探査衛星により、火星の表面は月面のようにクレーターだらけであることが分かっています。
それでも火星はまったくの死の世界なのでしょうか。現在でもまだ、水の流れた跡や、凍った状態の水があるのだろうなど、興味を提供し続けているのです。
さて、ローウェル氏は生物がいることを信じながら望遠鏡を覗き、ぼんやりした火星の像を眺めては、スケッチに励みました。
最初のうちは、粗い運河の図ですが、だんだん運河の数が多くなり、ついには火星人の高い知能への想像が膨らみ、最短距離を結ぶ大圏航路に相当するカーブまで記録しています。
その後、亡くなるまでの8年間を九番目の惑星の発見に費やしたのでした。
その冥王星は、ローウェルが亡くなってから14年後に、後継者トンボーが発見したのです。
冥王星は遠くて、月の半分しかない小さい惑星です。そこでは、1日は地球の6387日、1年が地球の248年と、とんでもないゆっくりした時間が流れているのです。

冥王星が9番目の惑星だとすれば、10番目の惑星があるのかという疑問が出てきます。
20年ほど前には、もっと遠いところに冥王星ぐらいの大きさのものがあっても、それは、もう暗く小さくて、発見される機会はないだろうとされていたようです。
今では、いろいろな探査衛星が打ち上げられ、地上からの観測以外に宇宙についての知識が増えてきました。
それから出てくる推論では、太陽系の中には、あるサイズを持ったいわゆる惑星のほかにも、結構小惑星はあるもので、冥王星ぐらいのものならば存在する可能性は大きかろうとされています。

大望遠鏡のアイピースに映るぼんやりした火星の像を眺めては、運河の線を引っ張っていたローウェルの姿は、なにか、日本の神道に興味を抱いた情熱家に相応しいもののように思えてきます。
それと同じように人類は、今でも、どうにもならない混沌とした人の世を眺めては、やれ共産主義だ、民主主義が良いなどと、希望の線を引っ張っているのかしらと、不届きな連想をしてしまうのです。

その後も、ローウェル天文台の大望遠鏡は、人類初の月面着陸に備えて、データ収集の主力として活躍しました。
これが収められているドームに入ってびっくりしました。ドームの枠組みは材木で出来ているのです。それも細くて、日本にあったのなら、台風でとっくの昔に吹き飛ばされたに違いないと思われる華奢な造りです。
天井の円いドームの部分を回転させる機構には、フォードトラックのタイヤが使われています。スルスルと動くのではなくて、ガーガーと物凄い音がします。

見学を終わって外へでると、丁度雲が切れて、ローウェルの遺骸が眠るドーム型の霊廟が月光に浮かび上がりました。
あれほど、故人が眺めた火星が丁度地球へ大接近していて、赤い明かるい光を投げかけていました。
日本と緯度がほぼ同じですから、北斗七星と北極星も、しかと見届けました。
そして、この地に立ったことに、ひときわの感激を覚えたのでした。

・月光下火星に憑きし人の墓

●メテオ・クレーター
フラグスタフの街から東へ車で1時間弱、文字通り真っ平らな平原に頭の平らな丘が見えてきました。
それは、4万9千年前に隕石が落下してできた隕石孔(メテオ・クレーター)なのでした。上から見れば、お椀のように丸い窪みがあるのですが、横から見れば高さ30m、長さ2000mほどの平らな丘に見えるのです。
クレーターは直径1,2km、穴の深さ200mのまん丸い穴です。
(ミーティアあるいはメテオは流れ星のことです。メテオのほうが英語の発音に近いとされています)

「クレーター」とは、ギリシャ語のコップからきた言葉だそうです。広辞林で引いてみると、?噴火口、?とくに、月面に見られる噴火口状の地形・・とあります。
日本で噴火口といえば、富士山や浅間山を思い出すでしょう。大きな山体があり、頂上に溶岩を吹き出した跡が丸く落ち込んでいます。
阿蘇山、御嶽山など、頂上に複数の噴火口がある火山も、ごく普通に見られます。
箱根山のように、大量の噴出物を出し、地下が空洞になって落ち込んだのがカルデラで、これも十和田湖、田沢湖など数多くあります。

先年、トルコのカッパドキアに行ったとき、あの色鮮やかなキノコ状の岩が林立した奇観を眺め、この膨大な火山性物質を吹き出した火山が近くに見えないのを不思議に思いました。
ニュージーランド北島のタウポに行ったときも、あの琵琶湖とほぼ同じの大きなタウポ湖がカルデラで、その噴出量がベスビオス火山の20〜30倍、60〜100立方kmだと知っても、それに相応する山体が見えないのを不思議に思いました。3世紀の噴火とのことでしたから、浸食で山体が消えてしまったとも思えないのです。

ハワイ島のマウナ・ロアに登ったときは、バターが溶けたような粘度の低い溶岩が造る平らな地形にも驚かされました。

そもそも火山とその堆積物が造る地形についての知識は、考古学との関連で、多摩丘陵の末吉層を作ったのが箱根、富士、御嶽などからの火山灰であることを勉強したのが最初でした。

最初に述べた今年7月、カリフォルニア・デスバレーを訪問したときに、トルコのカッパドキアに似た高い火山のない火山性の平坦地を見て、日本における火山とその噴出物が造っている地形についての私の認識は、世界的には、むしろ特殊らしいと思い始めていたのでした。
そう考えると、今まで特殊な例だと思っていた、九州の南の姶良火山が膨大な噴出物を残し、現在、山体が無くなっているのも、結構普通のことなのだと思われてきました。

話が長くなって恐縮ですが、いま少しお付き合い下さい。
要するに、平ぺったい火山があることに、驚いているのです。
日本の火山、例えば浅間山は何回も噴火を繰り返し、噴出物が積み重なり、標高2542mの高山になっています。こういうのを復成火山といいます。
根気がよいのはイタリアのストロンボリ火山(918m)で、過去2500年の間、数十分毎に、繰り返し噴火を続けています。爆発力が弱く、数百m離れていれば安全に見物できます。
復成火山に対して、1シリーズだけの噴火で終わってしまうのが、単成火山です。
私は単成火山が活動しているところを見たことがありませんから、消防のノズルを真上に向けて放水したときをイメージしています。
猛烈な爆発で、軽石、火山弾、火山灰の混じった噴煙を高く吹上げ、それがドドドッと落ちてきて四方八方に広がる、そんな様子じゃないかと思います。
それなら、低い噴出口で広い堆積ができ、凄く危険そうです。
日本では複成火山が殆どですが、世界には平らな単成火山も結構多いということです。


要するに、もしも清洲あたりの平地に、縁の高さ30m、直径1200m、深さ200mのまん丸い凹みが出来ていたら、高い火山を見慣れた日本人なら、これが火山の噴火口だと思う人はなかろうと言いたいのです。

その事情を知らなくては、いま、訪れているメテオ・クレーターが、噴火口(ボルカニック・クレーター)なのか、それとも隕石孔(インパクト・クレーター)なのか、学者の間で長年論争の種になっていたことが分からないでしょう。

1871年、白人として最初の、クレーター発見の報告が出されました。この時は噴火口だと思われていました。
1890年頃、周りから鉄とニッケルの破片が見つかり、隕石の落下跡ではないかとの説が出されました。
1891年、ギルバートという大地質学者が、隕石説を否定し、かといって地中から溶岩が出ているわけでもないので、火山性の水蒸気爆発の跡であろうと断定しました。
それで一応、論争は終わっていたのでした。
今回の旅行で案内して下さったS先生は宇宙地質学者ですから、ギルバート先生の苦衷が分かるようです。
「責任者として、軽々な発言はできなかったのでしょう。いろいろの条件を消去法的に検討し、隕石孔ではないとされたのでしょう。退官のパーティでは、月の表面のクレーターと同じものかも知れないと発言されたそうです」と付け加えられました。

1902年、フィラデルフィアの鉱山技師バリンジャーは、ここは隕石が落下した跡で、地下に鉄、ニッケルの大きな塊があるに違いないとして、この土地5平方キロを購入しました。
彼は25年間、探査採掘に苦闘しましたが、世界大恐慌のこともあり、断念に追い込まれてしまいました。

これが隕石落下でできたインパクト・クレーターであることをはっきりさせたのは、宇宙地質学を創成したユージン・シューメーカー氏です。
1994年、木星にぶつかった小惑星、シューメーカー・レビ彗星を発見した人です。
案内のS先生はシューメーカーと、偶然ここで知り合ったので、説明にも熱が入ります。
シューメーカーは私より3才年上、1927年の生まれです。
カリフォルニア工科大学を卒業し、コロラド高原でウラン鉱の探査をしていました。
そのころ、アメリカではフォン・ブラウンがV5ロケットを使って月に行く実験を行っていました。シューメーカーは宇宙地質学者として最初に月面を調査する決心をします。しかし、何段階かの試験を受けているうちに、肝臓の欠陥から落第を言い渡されたのでした。落胆した彼は、そのとき随分汚い言葉を投げつけたのだそうです。
結局、彼は自分が月に行く代わりに、月に行く人たちを連れ、このメテオ・クレーターの崖を登り下りしながら、地質の見方を訓練したのでした。彼らが訓練のために何度も歩いて降ったルートは、アストロノート・トレイルと呼ばれています。前庭には宇宙船のカプセルが展示してありました。

こんな所で私事を挟むのは、いかにも場違いなのですが、実は、私の息子も宇宙飛行士を志願し、試験を受けるところまでは行ったのです。
「ママ、心配?」「アンタなんかに、助けて貰いたいと思ってるわけがないでしょ。私はよく分かってるから、ちっとも心配なんかしてないわよ」「そう言わずに、ちょっとは心配しろよ」そんな会話がありました。
何回も篩に掛けられるのだそうですが、ともかくも母親のお見通しのとおり、何回か目に落選しました。なにが理由だったか分からないと本人はいっております。ともかく、ダイヤモンドのように磨きに磨かれたスーパーマンだけに、宇宙往きの栄誉は輝くのでしょう。

このクレーターが隕石の落下によるインパクトクレーターであることが確定的になったのは、穴の端で地層が花びらのように反り返って逆転していることと、自然界には存在しない重い石英があることが証明されたという2点からだそうです。
自然界の石英は、世界中どこでも比重が2.29なのですが、ここでは隕石が衝突したときの高温高圧によって圧縮された、比重2.93と4.35と密度の高い石英が発見されているのです。
過去、地球に落下した隕石の3分の2は岩石質、残りの3分の1が韻鉄だそうで、ここのものは韻鉄です。
ここでは、直径30mほどの小惑星が、時速7000kmで衝突し、その5%は途中、空中で燃え、衝突したあと80%は熱で気化し、5%は周りに散らばり、10%が今も地中に埋まっている計算になるそうです。

現在では、世界中でインパクト・クレーターが約200箇所発見されていて、いろいろの条件が分かってきました。
それらの説明を聞いてから、改めてこのメテオ・クレーターを見ると、どう眺めても火山性のクレーターには見えないのです。
一行のひとりが「どうしてこれを火山性、ボルカニック・クレーターだと主張したのでしょうね」と漏らされました。
火星表面の運河の図でも感じたことですが、自然界の前では、人間は大洋の岸に立って海面を眺めている子供のような存在で、小は素粒子から大は宇宙の果てまで、探求のロマンの尽きることはないのでしょう。

今でもここは個人所有の土地で、展望台は常時オープン、クレーターのまわりは時間ごとに案内ツアーで見せてくれます。私たちは、案内人に連れられてクレーターの縁を200mほど歩いたでしょうか。
穴の底が見下ろせるところで、案内の小父さんが説明してくれました。クレーターのサイズや、隕石の衝突スピードなど、知っていることだけは聞き取れました。
説明の最後に「ある夕方、薄暗くなったクレーターの底に母と子が抱き合っているのが見えた。やがて、母親だけが微光を発しながら、ゆっくり天に上がっていった。なんでも、エーリアンはそんな風にして地球に降りてくるのだそうだ・・・」「なにを隠そう、この私がその時のエーリアンの子供なのだ」と、ガッツポーズをとりました。観客がアメリカ人たちだったら、ここでドット湧くのでしょう。
でも、話が英語であるうえ、風がヒューヒューと喧しくてよく聞き取れませんでしたから、私たちはただ、シーンとしていました。
折角の小父さんのガッツポーズが、なんとも空しく、お気の毒でした。
(私だって、言ってることが理解できたわけではなく、これはエーリアンという単語と、ガッツポーズだけから、ねつ造した作り話なのです)

今まで発見されているうち最大の隕石孔は、南アフリカにある直径300kmのものです。でも、このクレーターができたのは、20億年前だとされています。
ここアリゾナのものは、わずか5万年前にできたもので、コロラド高原にあるため、木が生えたり雨で浸食されたりしないで、状態が良く保存されていることが大変に貴重なのであります。
付け加えれば、ここは道路から近くて、見にゆくのが容易なのです。研究ではなく、観光に訪れる人も多いのです。
先程述べたシューメーカー氏は、1997年、オーストラリアの隕石孔を調査に行ったとき、交通事故で亡くなりました。そのときの隕石孔への旅は、なんと悪路を1000kmも走らなくてはならないのだそうです。

・隕石の丘に秋天限りなし

●サンセット・クレーター
メテオ・クレーターから、一旦、フラグスタッフの街まで戻り、こんどは北に向かいます。
さほど遠くないところにサンセット・クレーター・ナショナル・モニュメントがあります。ナショナル・モニュメントとは、ナショナル・パークより、規模とか管理基準が1ランク下なのだそうであります。
ここサンセット・クレーターは、擂り鉢を伏せたようなスコリア丘です。スコリアというのは、溶岩の中のガスが膨張して細かく割れ、黒い多孔質の破片になったもので、直径2mm以上、6.5cm以下の大きさのものをいうのだそうです。もっと細かいと火山灰になります。
スコリア丘は、写真で見ると大小が分からないので、富士山も大室山もその違いが分からないように、どれもこれも約30度の傾斜を持ち、同じ格好をしています。
ここサンセット・クレーターの火山活動は、1064年に始まり、その後200年ほど続き、噴出物が積もって丘になったのだそうです。
自然のことですから、地中からはスコリアだけではなくて、時として高温のまま溶岩が上がってくることもあります。スコリア丘はいわば砂山ですから、重い液状の溶岩が上がってくると、頂上まで上がる前に砂山の横腹を突き破って流れ出すのです。
ここでも何回も溶岩流が流れ出し、トンネルができたり、谷ができたり、新旧何層にも溶岩流になっています。その上にまたスコリアが積もったりして、吹き出した口がどこだったか分からなくなってしまっています。
この地域には、ほかにも、いかにも火山らしい赤茶けた小さなスコリア丘がいくつか見えました。
「あれも、小さな火口を持ったスコリア丘なのですか」と質問がとびました。
「あそこでスコリアが吹き出したものではありません。大きなスコリア丘の横腹から溶岩が流れ出したとき、砂山の一部が溶岩の上に浮かんで、あそこまで流れていったものです。空気中で相当高温に晒されなければ、あんな赤い色にはなりませんから」と教えられました。
こんなように理屈にあった説明を聞くと、眼前にその時の情景が浮かんでくるのでした。
自然科学の面白さは、こういう所にあるのではないでしょうか。

先日来、カリフォルニアで猛威を振るっていた山火事に、やっと引導を渡した冷たい風が吹き、ときどき時雨が襲ってきました。
元気な人たちは、計画通り外でランチを広げました。でも、何人かはギブアップしバスの中でサンドイッチを頬張りました。私もその組でした。
「年寄りの冷や風だ」と誰かがつぶやきました。ヤッパ、教養のある学者さんでした。

●グランドキャニオン
昼食後、さらに100kmあまり北に走り、グランドキャニオンのサウス・リッジのデザートビュー・ポイントに着きました。
途中、リトル・コロラド河に沿って走ります。もう、このあたりでバスの窓からグランドキャニオンと同じ、カラフルな縞模様の断崖風景が見られました。グランドキャニオンは、全長450kmと称されています。でも、このあたり随分広い地域が、谷の大きい小さいはありますけれども、よく似た奇観を呈しているのに驚きました。

最初に着いたデザートビュー・ポイントからは、峡谷の対岸に、地層の不整合が、はっきり見えます。
じつは、私にとって今回が、グランドキャニオンへの3度目の訪問でした。
今までは、ぼんやり眺めて、その雄大さ、美しさにただ感激していました。
そして、日本とちがって地層の縞が、あくまで水平であることに感心していました。
それは大地がしっかりしている証拠で、さすが大陸であるわいと感じていたのです。
でも、ここデザートビュー・ポイントで専門家から指摘されると、下の方の縞は約20度右下がりになっているのが分かりました。ここでは火山灰が海底に積もっていたのですが、10億5千万年前に地面が傾き、海から出て浸食されていました。そして、5億4千万年前に再び海底に沈み、堆積が再開されたことを示しているのだと思います。

この後、観光の中心であるマーサー・ポイントに行きました。
グランドキャニオンは世界の7不思議の一つともいわれます。
コロラド高原がゆっくり隆起したのを、コロラド川が削り込んで大峡谷を作り上げたのです。
峡谷の長さは東西に約450km、名古屋から広島近くまでの長さです。
この一事だけで、勘八峡、恵那峡はもとより黒部峡谷など日本の峡谷とはまったく別のスケールであることがお分かりでしょう。その姿も、日本では山と山の間が峡谷ですが、ここはフラットで広大な高原が、深く削り込まれているのです。
谷の巾は、広いところで29km、平均で16kmです。また、岸の絶壁の上からコロラド川の水面までの標高差は約1600mです。
両岸の断崖絶壁全体が色とりどりの水平な縞模様で、自然の浸食により、ピラミッド、ブリッジ、円形シアターなどの姿を残し、まさに千変万化の造形を見せています。

年間訪れる観光客は500万人といわれます。
いくつかの中空に突きだした展望台には、手摺りや防護網が取り付けられてはいますが、何といっても自己責任の国です、日本ほどガンジガラメに作ってはありません。
「年間、墜落して死ぬ人が50人は出るんですよ。気をつけて下さい」と、ガイドのNさんに脅されながら、みんな夢中でシャッターを切っていました。
誰かが「後ろにいる人を信じているから、こんな所に立っていられるんですねえ」と、感慨を述べられました。まことに、ごもっともと思いました。

・風渡る大峡谷や霰雲

●ブライト・エンジェル・トレール
3日目は、グランドキャニオンの地層について説明を受けながら、谷底に降りました。
5時にモーニングコール、6時過ぎトレール入り口に着いたときはまだ暗く、ときどき霰が当たってきました。ここは標高が約2100mと高いのです。
体操したり、説明を聞いているうちに、薄明るくなってきました。
道は巾が1.5mはあり、傾斜は緩く、危なくはありません。
グランドキャニオン峡谷そのものは東西に横たわっています。このブライト・エンジェルでは、それを直角に切って南北に走る断層があり、東側が50mほど落ちています。
断層の部分は、岩がぐしゃぐしゃになり、絶壁ではなくて、狭くて急な谷になっています。そこにジグザグに歩く道がつけられているのです。
降り口に当たる一番上にある、つまり一番新しい地層が2億4千5百万年前に海底に積もった石灰岩と砂岩からできたカイバブ層なのです。それから下がるにしたがって、古い地層になります。
名古屋の北にあたる土岐、瑞浪あたりの山の岩は、約2千万年前のものです。グランドキャニオンの古さが分かりますね。
ともかく、説明を聞きながら下ってゆきました。
先生は「先程の地点から何メートル降りました」とは、おっしゃらないのです。なんと、その表現は「先程の地点から9千万年分、降りました」でした。
こんなにして、最後にプラトー・ポイントと呼ばれる5億4千4百万年前の砂岩の場所まで降りました。
ここから下には、黒っぽい岩があり、それを穿ってコロラド川が流れていました。その黒っぽい岩こそ、まだ地球に単細胞生物しかいなかった、プレ・カンブリアと呼ばれる時代の地層なのです。
ヒンズー教の神様の名を採ったビシュヌ層、拝火教の神様から採ったゾロアスター層など約20億年も前の地層になるのです。地球ができたのが45億年前といいますから、その半分ぐらいの時代のものになります。
ここで、われわれが踏んでいる岩が、カンブリア紀に堆積したものなのです。そしてその時期から多細胞生物が生まれ、体が大きく形も様々になり、弱肉強食、適者生存の時代に入り、現在に至ったのです。

こんなことばかり読まされては、おおかたの方はウンザリなさるでしょう。
もうひとつだけ、話題を披露して終わりにします。

上から200mほど降ったところに、厚さが約100mある明るい色をした砂岩の層があります。この砂岩は、構成している砂の粒の角が丸くなっているので、海底ではなく砂漠に積もり、風で削られていたことが分かります。
つまり、この深い絶壁で見られる地層の歴史は、殆どの時期が海底であったのに、この砂岩が積もった時期だけ陸上だったのです。

先生「水平のまま隆起して海から陸になり、また沈降し海になったのです。堆積の状態は整合ですから、短い時間で移ったのです」。
質問「短い時間って、どれぐらいですか」。
先生「1万年か、百万年か、それは分かりません。でも、千万年ということはありません」。
「短い時間」が百万年とは、地質学って恐ろしいものだと思いました。

この日は、前半に渓谷を下りました。登山ならまず登って、帰りは下りになるのですが、ここではまったく逆で、それなりに大変でした。最後の人がホテルに帰り着いた時は、もう暗くなっていたそうです。

・年1ミリ200万年刻む峪

●ラスベガス
4日目は、朝ゆっくりでした。ホテルを8時に出発し、まずグランドキャニオンのウエスト・リムを歩いて回りました。
このグランドキャニオンを、最初に精力的に調査したパウエル氏を讃えた記念碑がありました。パウエル氏は南北戦争に参加した少佐で、突撃!と手を振り上げたとき弾が当たったとかで、片腕がなかったのです。
1869年パウエル氏を隊長とする探検隊が、コロラド川の濁流に挑み、このグランドキャニオンに達したのでした。そして彼は活き活きとした文章でこの壮大な景観を世に紹介したのでした。

我々にいろいろと教えて下さったS先生は、もうグランドキャニオンはアメリカの学者たちが徹底的に調べてしまっているので、我々が手を出す余地が残っていないと言われました。
ここまで、もう4日、いろいろ案内されて、アメリカの学者たちの精力的な研究結果を、あちこちで聞かせてもらったのです。
その感想をいえば、彼らが現場に足を運び、実に行動的なこと、素人を馬鹿にせず偉ぶらないで好奇心が強く、研究テーマを心から好きでたまらないこと、そんな印象を受けました。
シューメーカー博士が太陽系の小惑星を探しているのを、あるとき奥さんが手伝い「そんな難しいことをしてるわけじゃないのね」といって、天文学者になったと聞きました。
そういうことを許容する自由な空気って、羨ましいですね。
前述の通り、シューメーカー氏は、オーストラリアの隕石孔を奥さんと調査中、交通事故で亡くなられたのですが、奥様は今も、我々が最初の夜訪問した、ローウェル天文台の研究棟で仕事をしておられるようでした。
我われが子供の頃は、今のように米英とは言わず英米といっていました。イギリスひいてはヨーロッパに、アメリカより高い評価を与えていたように思います。アメリカは成金で、金はあるが基礎科学がないというような。
ヨーロッパ人なら熊と聞けば「脊椎動物大型哺乳類で・・・」と学究的になるが、アメリカ人は熊と聞けば「逃げろ!」だ、そんなようなプラグマティズムの国なのだという評判でした。
でも、今度の旅をしていて、決してそんなことはない、昔からそんなことのなかった、力のある恐ろしい国だと、心の底から思えてきたのでした。

さて、このあとグランドキャニオンを12時半にスタート、バスでラスベガスに向かいます。
最初はフーバーダムを経由する予定でした。でも事前の調査で、車にスーツケースを積んで通過することは禁止されていることが分かりました。
保安上の問題だそうです。
日本でしたら、上高地に入るところにある奈川渡ダムで、スーツケース携行での通過を禁止するようなものです。
ご承知のように、一昨年のニューヨーク国際貿易センター爆破テロ事件以来、アメリカ中の警備体制は大変厳しくなりました。
昨年6月、ハワイを訪ねたとき、空港のコインロッカーが撤去されていて、大変苦労したのが最初の経験でした。
どこでも空港の検査が大変です。靴まで脱がせてX線検査を通らせます。
コートはもちろん、背広の上着も脱いで、チェック・ゲートを通るのです。
別の旅ですが「そんなに脱げ脱げというのなら、パンツだって脱いでやるよ」、そんな無茶苦茶な日本語の会話を聞いたことまであります。
当然、検査や、検査装置の製造・販売、乗客の警備・誘導などに従事する人は、9/11以前より、大幅に増加しているはずです。
また乗客のほうも、長い列に並んで通過するため、従来より早く空港に駆けつけることが必要です。仕事をする時間が減って、それが並んで立って待っている非生産的な時間になってしまうのです。
仕事の効率の観点からは、テロ以前よりも、無駄な負担を強いられているといえます。
しかし、雇用の面から見れば、就職の機会は増加し、誰かが負担し、それなりの給与を支払って、世の中、回っている訳です。

日本では、最近、大学院に法律系の講座を沢山創るのだそうです。
これだって、私にはとても、今まで法律屋が少なくて社会的に困っていたとは思えません。
例としてオウムの裁判を見ると、弁護士が社会的に生産的なものとは、まったく思えないのです。
もちろん弁護士の人数を増やして、何でも裁判で決めて行くシステムもあり得ますし、また、それによって増加する雇用と報酬も、社会全体で何となく負担してゆくことになりそうに思えます。
自分でも、年をとると、どうしてこう血圧が上がらないような思考体系になってしまうのかと、不思議の感に襲われているのです。

さて、コロラド川を渡り、アリゾナ州からネバダ州に入った途端、ラフリンという小さな町に大きなビルがあり、カジノと派手なネオンサインが輝いていました。ルーレット・ストリートなどいう町名表示が目につきました。
ラスベガスに入る直前、例のアメリカ西海岸の南北を繋ぐ、交流送電線と直流送電線を組み合わせたパシフィック・インタータイの下を潜りました。
また、日本では中部電力だけが採用している3導体や、垂直配置複導体の送電線にも気がつきました。
地学協会のツアーで来ていても、私は、やっぱり昔電気屋なのです。

社会は、環境保全・自然に抱かれ優しい暮らしを、という掛け声とは反対に、だんだん自然から離れてゆきます。
一次産業、二次産業、そして三次産業と移り、いまやサービス産業が隆盛を極めています。
実際、世界中探しても、ラスベガスほど変化の激しい街は、ないのではないでしょうか。
街の真ん中にこそ、巨大な高層ホテルがあります。しかし、基本的には荒れた砂漠を、電気を始め、エネルギーをふんだんに使って人間が生きられるようにしているのです。
土地そのものは、どれだけでもあります。平屋が、まるでアメーバのように、とめどもなく水平に広がり、膨張しているのです。
昔は街の外だった空港が、今では街の真ん中になってしまったといってもよいでしょう。なにせ観光地ゆえに、訪ねてくれるお客様は神様なのです。お客様にとって便利な場所、極端にいえば、カジノの直ぐ前にでも、空港を置いておくサービス精神を持っているのでしょう。
日本で激しかった、空港追い出しの反権威運動家など、付け入る余地はないはずです。

45年前のラスベガスの街では、「金色の蹄鉄」屋にあった、親指を立てたネオンのカウボーイが招くように動いていたのが、もっとも豪華なデスプレイであったと思います。
あのとき、一般世間ではお目にかかれない1ドル銀貨を、ここで手に入れました。
うらぶれた男に「一文無しになった。家へ帰る金を貸してくれ」とねだられました。
かねて聞いていたように「電話賃をやるから、家に電話しろ」、そう答えて5セント渡したのでした。
12年前再訪したときには、夜の街を、一際入念にお化粧し着飾った人たちが歩いていました。
今はもう、普通の人が押し掛ける遊園地ムードだといってよろしいでしょう。沢山のアジア人も目につきました。
ガイドさんが言いました。「お金を貯めて、この街にきて、ほどほどにギャンブルでスリルを味わい、ショウを見るのがアメリカ人の夢なんですよ」。
今度案内してくれた年輩の日本人の小父さんガイドは、自分がラスベガスに住んでいるので、そういうアメリカ人ばかり見ているのでしょう。

この街のホテルは、非常に割安だと聞いています。
また、市営の高層大駐車場では、何日駐車しても無料だと聞きました。
その理由は、この街にきてくれた人は、なにがしかのお金を、ギャンブルを通じて納めてくれる勘定になっているからだそうであります。
なにせ、およそどのホテルでも、1階はすべてギャンブルの場所になっているのですから。

ラスベガス大学には、ギャンブル学科があるのだそうです。
ガイドさんの話では、そこではギャンブルで儲ける方法を教えるのではなく、管理の方法を勉強するところのようでした。
そんな話を聞いているうちに、私は、またぞろ面白くなってきたのです。
どんな手段で大勢のお客さんを呼び込むのか。上手に良い気分にさせてお金を気前よく頂戴する方法はいかに、胴元の儲けを正確に把握するシステムの構築、ギャンブル業の再生産を維持できる最大限の税収をどう計算するのか、そのほか知りたいことばかりです。
なかなか美味しそうな産業ではあります。できれば日本でもやったらどうかと思いたくなります。
でも、こういう気分産業は、ブランドがものをいうはずです。
東京ディズニーランドと大阪USJとの差は歴然たるものがあります。
まず、最初にトップをとった、「世界のラスベガス」のブランド、集客力は絶対の強みを持っているはずです。
こんなつまらないことを考えていると、次回は「日本ギャンブル学会」のツアーでも探す羽目になりそうなのです。

日本からついてきてくれた添乗員さんは、みなさん地学協会の人たちは、あれだけ各所で火山を見てきたのだから、ここでもホテル・ミラージュの噴火ショウだけは、ぜひ見るべきだと慫慂しました。
素直な私は、噴水を赤いライトで照らし、恐ろしい爆発音を聞かせる、このショウだけはやっと見て義務を果たしました。
なにせ、朝早くから夜遅くまで、本物のアメリカの地面を見て回るほうが、より楽しかったのですから。

・不夜城ともどっこい月のラスベガス

●デスバレー
ラスベガスから北西に約400km、3時間半バスで走りました。デスバレー国立公園の東の外側の道です。
この道の途中に、過去に原子爆弾の実験が行なわれたネバダ実験場がありました。もちろん、実験は一般道路からは遙かに離れたところで行われたのですが、遠くからでもキノコ雲が見えるので、ラスベガスから何台も車が、見物に来たものだそうであります。
この地域は、いまでも、厳格な軍の管理下にあるとの解説でしたが、帰ってから調べると、毎月一般人にも見学ツアーが提供されているようです。やはり国民感情には、大変気をつかっているようです。
スコティ・キャスルというところから西進し、デスバレーに入り、その後ずっと公園の中を南下し、日没後、ラスベガスに帰りました。

このデスバレー国立公園は、南北200km、東西100km、長野県とほぼ同じ面積です。
「死の谷」という名前の通り、そこでは雨が少なく気温が高く、まったくの荒れ地であることが、観光ポイントであります。
まず、雨ですが、このデスバレーでの年間平均降雨量は50mm、これは日本の平均の僅か3パーセントに過ぎません。
気温も高く、1994年には48度C以上の日が31日、43度C以上の日が97日、最高気温が53.3度Cだったそうです。
昔、ゴールド・ラッシュの頃、西部を目指した人々のうち、この谷に迷い込み、何人かが命を落としました。幸運にも脱出できた人が振り返って「デス・バレー(死の谷)」とつぶやいたところからこの名になったというのです。多分、作り話でしょうが。
ともかく私としては、死んだ人ばかりではなく、こんな厳しい土地で生き残った人があったと聞かされて、昔の人は強かったと、ひたすらに感動するのです。
今年6月、マウント・ホイットニーに登りにきたとき、ここにあるデスバレーの博物館に入りました。そして、地質の説明コーナーで、シェラネバダ山脈とブラック・マウンテンのあいだに正断層が生じ、このデスバレーが落ち込んだのだと知りました。
それを読んで、私はゾクゾクするぐらい米州大陸の地質に興味をかき立てられ、こんどの再訪につながったのです。

デスバレーに入って、まず最初にウベフベ・クレーターを見学しました。
大きさや格好だけ見れば、先日の隕石孔とそっくりですが、周りを火山噴出物が埋めていますから、明らかに火山性のクレーターと分かります。この頃、私にも多少は鑑識眼ができたと思いました。

このウべフベ・クレーターの脇で、このあたりの土地の成因について、レクチャーがありました。
基本的には、太平洋が広がっているので、太平洋の東北と南西にあたる北アメリカとインドネシアなど東南アジアでは右ずれ断層、北西と南東にあたる日本と南米では左ずれ断層が発達しています。
そして、横ずれ断層では、地殻に引っ張る力が生ずるのだそうです。
アメリカ本土の西部にあたる、シェラネバダ山脈からコロラド高原まで広がる、もとは約250kmだった土地が両側から引っ張られて、現在は倍の500kmの長さにまでに伸びているのだそうです。
「伸ばされるときに地殻が割れ」て凸凹になります。この地殻の割れが正断層なのです。
技術の発達した今は、レーダーエコーという方法で地表面の凹凸を細かく調べ、それに見やすいように影や色をつけることができます。この方法で作った写真を見ますと、地形の凸凹、つまり山脈と盆地が20対ほど、東北ー南西の方向に見事に並んで、縞模様を作っているのが分かります。
デスバレーもその地殻構造の一部なのだそうです。ここでは落ち込んだ地面が、西半球で最低の、海面下85mであります。その向かい側の山がテレスコープ山、3368m、そのコントラストを観光の種にしています。でも、世界では死海の海面下400mというのがあります。

この日もこのあと、3カ所ほどの断層、砂丘、小石が締まったデザート・ペーブメント、風で削られた三稜石、塩湖など、見ものがいっぱいありました。
この日の最後に、昔ここに迷い込んだパイオニアたちにとって、熱砂の地では地獄の苦しみだったと想像される塩水湖「バッド・ウオーター」を訪ねました。もう暗くなり、析出した塩の道を歩いているシーンが、あとでビデオでみると、まるで雪道のように写っています。

今回のデスバレー再訪で、ちゃんとした人から説明を聞くということは、こんなに素晴らしいことなのかと、改めて感じ入りました。
前回、火山性のものだと思いながら見ていたのは、第3期の火砕流とのことでした。
そしてまた、湖の底に貯まった第3期の湖成層もありました。
前回どうにも分からなかった黒い岩は、つい2〜3日前グランドキャニオンで覚えた、まだ地球上に多細胞生物が発生していなかった20億年ほど前の、先カンブリア紀のものだと教えていただきました。今回はブラックマウンテンという名の、そんな古い岩でできた山に沿って走ったのでした。

今回私が参加したきっかけは、このデスバレーが火山性の堆積物で覆われているのに、それを噴出した大きな火山が見当たらないのを不思議に思ったからですと、S先生にお話ししました。
それについて先生が仰るには、実は最近も、この近にあるビショップという町で地面が動き、噴火の前兆かと騒がれたのだということでした。しかも、このあたりの噴火は、火砕流タイプなので、被害が大きかろうと不安が広がったのだそうです。
そのため地価が下がり、地主から地質学者が非難を受けたとのことでした。
そのビショップという町の中華料理屋で、今年夏、登山にきたとき、われわれ山屋たちが昼飯を食べたのでした。

でも、こんなこともあるのです。
カリブ海に浮かぶプレ島でのことです。ここのサンピエール市の南7.5kmのプレ火山(1397m)は、1792年、1851年と噴火した前科があります。でも、その時はひとりも死んでいません。
1902年、4月2日から硫黄の匂いが強くなりました。23日には火山灰が降り始めました。25日には火口が開き、火山ドームが成長を始めました。5月5日には火山湖から熱水が溢れ25人の死者が出ました。
でも、新聞は小さく報道しただけでした。それというのも、市長選挙が5月11日に控えていたので、住民が避難し選挙ができなくなるのではないかと考えたからだということです。
5月8日7時52分、ついに運命の大爆発が起こり、時速160km、1000℃の熱風がサンピエー市をひとなめし、2分で海岸まで達しました。
地下牢に入れられていた囚人など2人を除き2万8000人の市民が全滅したのでした。
日本の地震予知でもそうですが、自然災害につながりかねない予兆をみつけたときどう扱うか、学者・為政者の苦悩には同情を禁じ得ません。

●サンアンドレアス断層
ラスベガスのホテルを朝4時に出てサンフランシスコに飛び、まず市の南、メンロパークにある連邦地質調査所を見学しました。
今度の旅行で、断層関係の説明をしてくださったT先生は、先年、ここの調査所で共同研究しておられたのです。
その時の同僚たちが、玄関のドアを開けて歓待してくれました。
昔、私も研究所に勤務したことがありました。高名な研究者たちが、少しも偉ぶることなくフレンドリーに迎えて下さるのを見て、自分の仲間たちもそうだったと懐かしさがこみ上げてきました。
アメリカ人たちは、とくにフレンドリーな人たちだと思います。
ここで、いろいろ面白い説明を聞かせて貰いました。
サンアンドレアス断層は、長さが800km、名古屋から盛岡までもある世界でも有数の大断層です。ロスアンジェルスの東北を通り、サンフランシスコ市中心のやや太平洋側を北上しています。
平行して近くに幾つも断層があり、サンアンドレアス断層系と呼ばれることもあります。
アメリカ本土から見て、断層系の太平洋側の土地ガ、毎年48mmの速さで北に動いています。
アニメで動きを見せていただき、よく理解できました。

地震予知に関しては大変研究が進んでいて、サンフランシスコ湾岸地域には活断層が10本以上存在し、こんご30年間にマグニチュード6.7以上の地震が起こる確率は、62%であると算定された旨、公表しているのです。

世界中どこで地震が起こっても、この調査所で地面の震動を集め、震源の位置と深さ、地震の大きさが、即刻分かるシステムができているそうです。
核実験でも、地面の震動ですから、隠すことはできません。
実際、地震を感ずると、世界中の専門家たちは、インターネットで、この連邦地質調査所のサイトにデータを取りにくるのだそうです。
先日、サンフランシスコの博物館を訪ねたとき、リアルタイムで地震状況が表示されているのを見ました。「わがシェイキング・ステイツ(揺れる州)では、今日は朝から4回地震があった、マグニチュードは1回目3.8、2回目4.2」などと出ているのです。
アメリカの力は恐ろしいと思いました。

サンアンドレアス断層は、大変長い断層ですが、中央部は地殻のズレがスムースに進むのだそうです。これはクリープと呼ばれ、地震にはなりません。
北の端、南の端、つまりサンフランシスコとロスアンジェルス付近では、断層がズルズル動かないで、岩盤が急にバキッと折れたり、ガツッと外れたりして大地震になるのだそうです。
なぜクリープするのか、先生たちの会話を傍聴したところでは、あまり何回も擦れたので引っ掛からなくなってしまったとか、蛇紋岩という軟らかくて滑りやすい岩が潤滑剤になっているとかの説があるようでした。
でも、断層によっては、地表面に近くて軟らかいところはクリープしているけれども、深いところの岩盤は動いていないのもあるようで、神様のお作りになったものは、メーカーがお客様の意を体して作っているものとは別で、とても一筋縄ではゆかないようでした。

1906年のサンフランシスコ大地震のときに、地表に現れた断層の跡を、サンフランシスコの南、ロストランコスと、北に行ったポイント・レイアスの2箇所で見学しました。
いずれも右ズレで、地震の起こる前には真っ直ぐだった木の柵が、断層でズレているのが分かるように残してあります。前者が90cm、後者は6mと大きくズレています。

ここまでわざと、右ズレ、左ズレ断層という呼び方の説明をしないできました。いよいよ、ここで申し上げることにしましよう。
断層を見学してバスに戻るとき、ある方が「みなさん、足が早いですね」と仰いました。
そうなんです、ご本人から見れば他人が早いのですし、逆に他人から見ればそう言っている人が遅いのです。
断層のズレは、本人が基本で、自分は元どおりの場所にいて動いていないと思いこんで、判断を下すのです。自分は動いていないのに、断層の向こう側が右にズレたとき、右ズレ断層と呼ぶのです。同じ断層なら、自分が断層の向こう側に渡り、また断層に顔を向ければ、やっぱり右に動いたことになります。

1906年4月18日にサンフランシスコを襲った地震はマグニチュード7.8の大きなもので、大被害が出ました。約800kmと大変に長い、サンアンドレアス断層の北の部分約430kmが活動したのでした。これだけ長いと北から壊れ始めた地殻の割れが、南端に達するのに30秒ほどかかるのだそうです。
この規模の地震が、もし現在起こったら、数千人の死者と数千億ドルの経済的損害がでるものと想像されています。
1923年9月1日マグニチュード7.9の関東大震災が起こったとき、サンフランシスコの人たちが温かい救援の手を差し伸べてくれたのは、自分たちの辛い体験があったからだといわれています。
14年前、1989年にもサンフランシスコは大きな地震に襲われています。あの湾の対岸にあるバークレイ市と結んでいるベイブリッジの上段が落ちたのでした。
そして、また大地震が、遠からず、必ず起こると警告されていることは、この紀行の別の所で述べました。
確かに地震対策は年とともに、また経験とともに進歩しています。
昔だったら、震度4ともなれば、かなりの被害が出ましたが、最近では何ごともないケースも聞きます。
でも、それ以上の規模の大地震が、必ずくると警告されているのも、厳然たる事実です。
それにも関わらず、そのために人が土地を放棄する例を、日本では見たことがありません。
サンフランシスコ市でも、トランスアメリカ・ピラミッドなど新しい超高層ビルがどんどん建ち、住宅がどこまでも広がり続けています。
どんな大きな地震でも、過去に経験したような周期で起こっていたのでは、人間という動物を追い払うことはできないと断言できるでしょう。
地震・雷・火事・親父といわれます。でも、その恐いものの筆頭の地震ですら、タフな人類にかかっては、この体たらくです。
親父など屁でもない、それが人類の進歩なんでしょうか。ましてや、私のような爺いでは。フッと吹かれて飛ばされるよりしかたないのです。

今回の旅行では、あちこちで随分沢山、断層を見ました。
サンフランシスコ地域以外は、殆ど木が生えていない荒れ地でした。いわば地球が裸でいてくれたので、皺や傷跡がよく見えたといえます。
一行の中には、旅行中、バスの中から景色を眺めていて、このあたりは怪しいですな、と断層地形が分かる方たちもおられました。
でも、わたくしといえば、先生に教えていただき、図面と照らし合わせ、やっと成る程と分かるのでした。
でも、経験不足、形状認識音痴の私には、最後まで、山や谷を見て、ここは断層地形らしいと発言できる自信は生まれませんでした。
悔しまぎれに申し上げれば、断層の露頭を観察すること自体は、全体の一部に過ぎないと思うのです。
その土地に立って周りを見回すこと、それに関する研究結果を読み地下で起こりつつある現象に思いを巡らすこと、それが依ってきたる地球メカニズムを知ること、あるいはその過去を探り将来を想像すること、そんなことの総合されたストーリーが、断層の上に立つことで、より身近になり、今後の楽しみのキッカケになる、そんなことが意義なのではないでしょうか。
いわば奈良の飛鳥の地に立って、7世紀の人たちの生活を想い、蘇我の馬子暗殺の政争を偲ぶ、そんなハードウエアの下に眠る膨大なソフトウエアに触れなければ、十分な醍醐味を味わえないのと似ているといえましょう。

・活断層端然として秋の湖

帰国の日の朝は、もう飛行機の出発時間に間に合えばよいのですから、ちょっとゆっくりホテルのテレビを眺めていました。
今度の旅の最初の頃、イラクでアメリカ軍のヘリコプターが撃墜され16名の兵士が亡くなったのでした。
ある民間放送では、それに関して、毎日毎日、繰り返し繰り返し放映していました。
家族が待ちわびている家のベランダで、帰りを待つ黄色いリボンが揺れている様子、棺が原隊に帰り同僚たちから哀悼の礼を受ける場面、戦死の通知を受けた家族、友人たちが故人について悼む様子、そんな悲しい場面を繰り返し繰り返し報道していました。
アメリカ国民の深い悲しみ、その中で役目とはいいながら、ブッシュ大統領やラムズフェルド国務長官は、さぞかし心を痛めているだろうと、そのご苦労を思っていました。
そんなあるとき、字幕に「Home versus State」の字が浮かんだのに気がつきました。
「家庭 対 国家」という意味だと思います。

我が国は、極東軍事裁判で、戦勝国によって犯罪国家の烙印を押され、それから敗戦国のままで半世紀の時が過ぎました。
自分の国の権利義務を、地球上の普通の国と同じようには考えられない日本です。
「国のため」という言葉を口にするとき、どこか疚しい気持ちに襲われるのが実状でしょう。
この難しい問題は、また別の機会に考えてみたいと思います。

サンフランシスコ近郊を回っているとき、ある先生が、私が名古屋に住んでいることをご存じなので、こんな話をサービスして下さいました。

あのゴールデンゲートブリッジの基礎になっている岩盤の赤いチャート(珪石)は、岐阜県にあるチャートと同じ色で、同じ動物の化石が入っているのですよ、と教えてくださいました。私も、知ったかぶりで、あの根尾谷のチャートですか、など申しておりましたが、私がどんなに面白く、嬉しく感じたか分かっていただけますでしょうか。
私の人生の幕切れに賜った、幾つかの世界を訪れる旅で、自分の目で見た、アフリカ大陸の赤い岩、オーストラリア大陸の赤い岩、インド亜大陸の赤い岩、それらは、かってゴンドワナ大陸で同じ続きだったのではないかと想像を楽しんでいるのです。

小学生のとき、プリズムで分けられた7色の光を見て感激し、それから理科が好きになりました。でも本当は、自分が生まれつき理科少年であることに、あの虹の色を見たときに、気づいたのかもしれません。
それから約60年、日本という国で、サラリーマンを勤めてきました。その間じゅう、自分の中の理科少年は意識しないままで生き続けていたのだと、今になって思うのです。
自然の現象を見たとき、バラバラに丸暗記するのではなくて、みな基本的な法則に当てはめながら、自分流に取り込んで来た日々だったように思います。

孔子の論語に出てくる年令の別称のうち、40才を指す「不惑(ふわく)」の言葉は、比較的よく知られています。
孔子は自分の人生経験から、15才に、学を志す「志学(しがく)」を当てることから始めています。
30才にして立つ「而立(じりつ)」、40才にして惑わず、50才にして天命を知る「知命(ちめい)」、60才は万事心得ているから何を聞いても不思議に思わない「耳順(じじゅん)」、70才は心に欲する所に従っても法を踏み外さず「従心(じゅうしん)」としています。
冥王星の外側にあると予想された惑星探しの例にならえば、70才超過の年令では、どんな別称になるのかという疑問が湧きます。
喜寿、米寿、卒寿、白寿と続きますが、それらは論語にはありません。孔子は74才で亡くなったのですから、自分の人生経験として書けないわけです。そういえば百の上の横棒ーを除いた白を九十九に当てるなんて、おやじギャグめいていますね。

わたしが70才を迎えたのは、何年も前のことです。もう今すでに、冥王星あたりの、遠くて暗い、おぼろげな存在になってしまっています。
いまさら外国を訪ね、あれこれ見ても覚えても、世の中のためには、いささかの役にも立たない領域に入っていると自覚しています。
ただ、かって理科少年だった頃のこころに立ち返り、心に従って好きなことができる幸せを、こうして噛み締めているのです。

・秋高し少年の日の夢叶う

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