題名:敦賀の山旅

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日付:1998/12/15


(1998年11月11日〜12日)

久しぶりに、心配の要らない、のんびりとした山登りをしてきました。

山登りにしては異例に遅い時間、6時に起きて、7時に家を出ました。

当然、道路は混んでいます。でも、車をのんびりと走らせました。

思えば、現役を退いた頃には、世間の人が忙しがっている時間に車を走らせて、道路を混ませては申し訳ないと、真剣に思っていました。あれからもう一年余、大分そんな気持ちは薄らいできているのに気がつきます。

 

木之本から東に入り、己高山(こたかみやま)鶏足寺の駐車場に車を入れ、やおら案内の看板を眺めていました。すると売店からおじさんが出てきて「拝観ですか」と声をかけてくれました。

そこで「山へ登るには・・」と聞くと、親切に道を教えてくれました。

 

この己高山は、昭和48年発行の「近畿の山」という本で見付けて以来、四分の一世紀も頭の中ににあった山でした。

じつはこの本は、当時何回か一緒に山へ行ったKさんから貰ったたのです。

いわゆる落丁本で綴じ紐がゆるんで、ぐじゃぐじゃになっていたのです。彼女は大変に実務的な人で、発行所に申し出れば代わりに新品を送ってくれるからと言って、私に呉れたのでした。

その後、この己高山の周りにある金糞岳、横山岳など、もっと高い山には登ったのに、なぜかこの山だけ残っていたのです。

そうこうするうちに何時の間にか、この山の名前が話題に上がらなくなってきたのでした。

そこで、ほかの多くの山のように、道路が上まで行ってしまって登山の対象にならなくなったのか、それとも藪山の自然に戻ってしまったのかなど思っていたのでした。

今回、敦賀に泊まることを前提に考えると、七々頭岳という山と組み合わせて丁度1日の山登りに適当と考え、情報はありませんでしたが、ともかく行って見たのです。

 

意外に良い山でした。

道はしっかりしていますし、標高差600メートル強、約2時間の登りも、まあ手応えがあります。頂上近くのちょっとした平地に、寺院跡が残って昔を偲ばせてくれます。また、山頂には神様の憑代でしょうか、注連縄を締めた自然石が鎮座していました。

半分ほど登ったとき、上の方で人の声が聞こえました。小学生の遠足でした。

つくずくと思いましたが、いろんな動物の中で人間ほどよく喋る動物はいないのではないでしょうか。とくに子供たちは途切れなく喋っていました。

頂上から下って来たとき、彼らはやっと寺院跡まで登ってきて、弁当を広げ始めていました。

そして口々に「今日は」と元気よく挨拶してくれました。

 

七々頭岳の登山口には、14時過ぎに着きました。

これも良い山でした。取り付きから、いきなり、かなり急な登りがありますが、あとは紅葉から、登るにつれて裸木になる快適な秋のプロムナードでした。

頂上には、ちょっとしたお寺がありました。向こう側に5分ほど下ったところに瑠璃池という水場があり、また左には3等三角点があります。

登山口に立てられた「頂上まで1900メートル」の標示から始まって、200メートルごとに残りの距離の表示が立っているのは珍しいことでした。どんな方法で、この標示を立てる場所を決めたのかと考えながら、登っていったのです。

4〜5人でまず頂上に登り、そこから200メートルの綱を引きながら下り、ジグザグの角では、それぞれの人が立ち止まり、最初に綱を出し切った地点を頂上まで200メートルのポイントとして決め、この作業を繰り返せば、相当正確に標示できることでしょう。トランシーバーの力を借りれば容易にできるはずです。でも実際には、どんな方法に拠ったことでしょうか。

 

その夜泊まった民宿は、敦賀の中心から車で10分ほどの距離なのですが、市内のひどい渋滞で小一時間もかかってしまいました。

その民宿は市の観光課から紹介してもらったのです。はじめは、魚釣りですかと聞かれましたから、それ目的のお客が一番多いのでしょう。「山登りに便利な」とお願いしたので、登山口の民宿を教えてくれたのでした。

 

なんとそこは、九州から出稼ぎにきている原発労務者の定宿だったのです。

彼らは、とても気のいい人たちでした。私が山登りにきていることを、良い趣味だと誉めてくれました。まるで、イギリスのジェントルマンを誉めるような様子だったのです。

彼らは食堂の冷蔵庫に、各自が冷やしている紙パックのお酒や、焼酎など出してきて呑んでいました。

儂たちにはこんなのしか買えないからなど言って、売り物にならない屑の辛子明太子を沢山持っていて、私に勧めてくれました。心から感謝して頂戴しました。とてもおいしかったのです。

 

みんなでテレビを見ていました。さすが原子力発電所の街、敦賀です。よそではやっていないような、科学技術庁長官が使用済み燃料の格納容器のデータ改ざんについて、しぼられているのが映っていました。意外なことに、その番組に彼らは全く無関心でした。

翌朝のテレビには、六ヶ所村に燃料が運び込まれるシーンが出てきました。立派なクレーンが幾つも映りました。この時は「すごい設備が出来ているんだね」とひとりが言いました。

彼らの中には六ヶ所村に行ったことのある人もいるようでした、彼は「いやー、立派なもんだぜ」と言いました。「テレビにこんなの出たの、初めてだ」「マスコミは反対の連中の言うことしか取り上げないから」と言い合っていました。

私が先日まで電力会社に勤め、原子力の必要性など訴えていた男であることなど知ったら、さぞかし色々と胸の内を話しても呉れたことでしょう。

 

彼らに、皆さんのようなお仕事だと不景気は関係なくていいですね、そんな水の向け方をしてみました。ところが、なにせ休みが多くなって、出稼ぎにとっては辛い日々なのだとの返事が返ってきました。

電力事業は今どき珍しい、業績の安定した業種なのです。それが大事だと思われる原子力発電所の保守の仕事を減らしているような口振りでした。もっとも、電力では仕事を業者に出さずに自分たちでやっているのかもしれませんが。

いずれにせよ、お金の廻りが悪くなっているのは間違いない事実です。収入の確保できる企業まで支出を抑えていて、いったい景気は回復するものなのでしょうか。

こういう因果関係については、経済学者が発言し、マスコミが報道するべきですが、そういうアクションは人類の歴史の中で行われたことはないようです。

偉い人たちのお考えになることですから、この国際化の時代に、失業率も貧富の差の拡大も、国際水準にする決意なのでしょう。だから、甘えは許されないと言っているのも肯けます。

 

翌朝6時、ミュージックサイレンからドボルザークの故郷の人々のメロディーが鳴り渡りました。すると部落中の犬たちが、いっせいにそのメロディーを合唱したのは愉快でした。犬は遠吠えできるのですから、かなり良い線で歌も唱えるのです。もっとも、子犬たちは大人の真似をして吠え立てるのですが、ただキャンキャンとしか鳴けず、ご愛嬌でした。

 

この日は、西方岳と栄螺岳に登りました。

花崗岩の山ですから、全体が猿投山と似た雰囲気です。登り始めは、あまりにもしっかりした階段などが作ってあり、自然とはほど遠い様子でした。しかしそれも送電線を過ぎると快適な山の道に変わります。

40分ほど登ったあたりに、石英の岩脈が現れました。磨けば玉になる、瑪瑙の原石の石英の結晶がごろごろしているのです。

私の両親が新婚当時この敦賀を訪ねたのだそうです。母は軍人の娘なので祖父の軍務の関係で、ここで暮らしたことがあり懐かしかったからでしょう。そのとき二人で海岸を散歩していて、水晶を拾ったのだそうで、記念として大事にとっておいています。水晶も瑪瑙も石英の結晶ですから、この土地にあるのも、もっともなことだと思った次第です。

この山塊の稜線からは西側にも東側にも、それぞれ原子力発電所が見えます。

登山を終わり下ったところが、浦底と言って敦賀原子力発電所のあるところです。前述の「近畿の山」の本では、ここから船で敦賀に帰ると記してあります。

昭和40年代までは、この部落には、車が入れる道はなかったのです。原発が来て、始めて道が通ったのです。

今でもバスは、朝、昼、晩と一日に3本しかありません。昼のバスが出るまで、2時間もありました。歩くことにしました。

北の海には冷たい風が吹いていました。海の水はもうすっかり冬の透明度を見せ、波が立っても些かも濁ることはありませんでした。

ここは小学校と中学校とが併設された小さな部落でした。

車道には、大きなトラック、ライトバン、そしてタクシーが結構沢山走っていました。

私も昔、何回かタクシーでここの発電所に訪れたことがありました。今日は車道を約2時間歩きながら、今更のように、発電所の存在が地域にお金を落としていることがよく分かりました。

ついつい、タクシーに乗っている人に目が行きました。白髪の人もいました。その人たちは体は楽かも知れませんが、発電所に着いたら相手からこんなことを言い出されるのではないか、そうしたらどんな方向にに話を持って行こうかなど、考えながら乗っておられるに違いありません。

敗残兵のように、足を引きずって歩きながら「でも、間違いなくこの俺の方が幸せに違いないと」と、やせ我慢する私でした。

 

敦賀市からの帰り道、湖北の渡岸寺に寄り、国宝の十一面観音様にお会いさせていただきました。

これも今までに、もう数え切れないほど何回も、拝ませていただいているのです。

お寺は、このところ見る見るうちに立派になってきました。実入りがよろしいのでしょう。

「皇太子殿下からご下賜金をいただいたとあるが、いったい何万円だったのですか」なんて聞いている人がいました。

十一面観音様のお像の解説も、訪ねるたびに手慣れてくるようです。でも、この歳になると、前回聞いた説明は、いい加減忘れてしまっているので、聞く度に新鮮に聞こえます。

また、若い頃のように、聞いたことを覚えておかなくっちゃと意気込んだりせず、どうせまた忘れるワ、と気楽に聞いていられます。あれもこれも老いの幸せのひとつのように思われるのです。

感謝することしきりの旅でした。

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