題名:今年のスキー

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日付:2002/3/28


また出てきた老人のスキーの話など、もうお読みになりたくないかもしれませんね。

そう思いながら、好き勝手に書き散らしてみます。

 

さて、今年のスキーは、どこへ行こうかなと考え出してから、なにか、ぐずぐずと自分一人で問題を抱えていたのです。

昔だったら、周りの人にしゃべったり、パンフレットを集めたり、電話をかけたりと、なにかと動いたものだったのですが。

「こういう計画がありますが、一緒に行きませんか」、「うん、それに乗せて下さい」そんなことにならないかなあと、ただ、ぼんやり時間を過ごしてしまうのです。

どうも、この傾向は、このことだけでなくて万事に共通していますから、一般的に年をとるとこういうことになるようです。

だからこそ、定年や引退や隠居だとかいう社会システムが出来たことを、肯定的に感ずるのです。

 

会社にいた頃は、スキー部の関係とか寮の関係などで、行き先はほとんど奥志賀と決まっていました。

しかし、会社を辞めてからは、昔むかし行ったことのあるゲレンデを訪ねるセンチメンタル・ジャーニーを決め込んでいたのでした。

こうして、赤倉、野沢、五竜遠見などのスキー場に行ってきました。

しかし今や、その種の行き先も、やや尽きた感があるのです。

 

旅行代理店の店先でスキーのパンフレットを貰ってきました。

なにせ場所を決めていないのですから、軽い気持ちで、ぼんやりと、日帰り、夜行日帰りなど、ささやかな旅の欄を見ていました。

もう何年か、日帰りスキーは一回1万円程度と思っていましたが、今回見てみると結構安くなっているのです。スキー人口が減って、必死に客を引こうとしている現れなのかもしれません。

そのうちに、平日の半泊日帰り7500円というのが目にとまりました。

それに「数河スキー場」というのがあったのです。

 

もう、35年ほど前、Hさんという会社の同僚と、お互いの家族連れで、この数河にスキーに行ったことがありました。

当時のことですから、文字通り素人の民家がやっている民宿に泊まったのでした。まだ、母屋と便所とが別の棟になっていて、トイレにゆくのにひどく寒かった記憶があります。

ゲレンデは上が急斜面で、途中から緩くなっていました。

初心者はその緩くなったところから滑り始めるのでした。

若かった私は、最初こそ子供の面倒を見ていたのでしょうが、そのうち一人で勝手に滑っていたようです。なにも冷酷なわけではなくて、もう子供たちを何回かスキーには連れてきていて、子供たちもそれなりに馴れていたのです。

 

そのうちに、それまで音楽を流していたスピーカーから「名古屋からお出での大坪さん、救急所までお出で下さい」という声が流れました。

一瞬、耳を疑い、やがて体中の力が抜けてゆきました。

ともかく救急所まで急行すると、間もなく救助隊員が橇を流しながら下ってきました。

当家の末の男の子が乗せられていました。

「どこが痛いの」と聞いても、ただ泣きじゃくっているだけです。まだ、幼稚園にも通っていない頃だったのです。

ぶつかった相手も来てくれていました。

なんでも、緩斜面の上部で息子が滑り始めたときに、上から急斜面を降りてきた相手が避けきれずに衝突したようでした。

お互いに住所氏名を確認しましたが、どうも私が厳しいことを言ったようで、救急隊員が「お互い、楽しみに来ているんですから」と取りなしてくれたのを憶えています。

 

ともかく、早く名古屋に帰って良い医者に見せなくてはと思い、さっそく家路を急ぎました。

小一時間も走ったでしょうか、家内が「この子、大丈夫だよ、見てごらん」と言います。

ホンダ360という軽四輪の後部座席に子供3人を積んで走っていた頃のことです。子供同士で、暴れていたのでしょうか。

ちょっと大袈裟だとは思いますが、後年、末っ子は「なによ。わーわー泣いてたくせに。ちょっとたったら後ろの座席で逆立ちなんかしちゃって」と、よくからかわれたものでした。

 

さて、今回のスキーの旅です。

名古屋のバスセンターを20時半に出たバスは、60人乗りの大きな車体にたった11人のお客しかいませんでした。男性はわずか2人でした。

「男性割引にしてくれない?」と、冗談が出たほどでした。

高山で乗り替えてから数河までは、5人、男は私一人でした。

民宿には午前一時に着き、すぐ寝てしまいました。

朝食は8時から、名物の朴葉味噌を始め、食べきれないほどの大ご馳走をゆっくりいただきました。

リフトは9時まで運転されませんから、これでよいのです。

私が学生の頃はスキーに行くと、みんな食堂の達磨ストーブを囲んで夜明けを待ち、窓が白んでくるとすぐゲレンデに出ていって滑ったものでしたが。

 

さて、ゲレンデには7名しか滑っていませんでした。

その中で、2枚の板のスキーを履いているのは私一人、あとはみんなスノーボードでした。

ほとんどは初心者で、緩いゲレンデでバタバタとコケていましたから、大部分のゲレンデは私一人で使わせてもらったのでした。

2本あるリフトのうち、急斜面に上がる方のリフトを約3時間文字通り独占しました。

昼飯を食べに行くときに、リフトの世話をしてくれる小父さんに「ちょっと昼飯にいってきます」と挨拶しました。そうせずにはいられない雰囲気でありました。

 

リフトに吊り下げられて登ってゆくときに、雪の表面につけられた自分の滑った模様、シュプールを眺めるのは楽しいものです。

ゲレンデは一応、圧雪されていましたが、スキーの底に程ほどの抵抗感がある状態で、綺麗なシュプールが刻み込まれていました。

4秒ほどの周期で、繰り返しゆっくり曲がった、滑らかな弧が描かれていました。自分で言うのもおかしいのですが、大変に素直な丸みが続いていました。

72才の人生を顧みて、いかにも私らしいシュプールだなと思いました。

つまり、のんびりした、頑張らない、イージーな生き方そのものだと言いたいのです。

 

それにしても、往復のバス料金、豪華な朝食付きの民宿半泊、リフトの一日券を、ツアー料金7500円の中から、どんなふうにして分けたのでしょうか。

この年になると、ただ安ければ良いということではなくて、よろず世の中のことが心配になるのです。

 

帰りのマイクロバスのお客は、往路と同じでした。

私以外の4人の若い女性は、女子大生のようでした。

なにせ彼女らの相客は、灯が消えたような爺さんがひとり、それも先程のゲレンデで人畜無害の証明付きですから、すっかりリラックスした様子でした。

ときどきわざとらしく「エーッ。オトコと一緒にー!」と声を張り上げるのです。本当は品行方正な子たちなのに、そんなことを言ってみるのが面白くて仕方がないのでしょう。

私の孫も、中学一年生になりました。孫も友達たちと、やがてこんな会話を楽しむようになるのかしらと想像しながら、とても可愛く思ったのでした。

 

道はずっと飛騨川に沿って下り、濃尾平野に出てくるのです。

明るいうちに下流部まで戻りました。沢山の水力発電所に再会することができました。

私が参画したダムの改良工事が、見事に完成しているのも、嬉しく眺めさせてもらえました。

上流から連なる沢山の発電所群を見ていて、父のことを思い出しました。

父は、発電所に発電量の指令を出す仕事をしていました。

父は「発電所の能力や、上流の発電所から下流の発電所まで水が流れ着く時間を全部憶えていたもんだ」とよく自慢していました。

70年も昔は、夕方、都会で電灯をつけるのが電気の主な使い道でした。それに合わせるように、上流の発電所は午後3時頃から水を流し発電を始めます。その水が段々下流の発電所群に流れ着き、合計した発電量が6時頃に最大になるように、名人芸を振るっていたのでしょう。

実は私も、飛騨川にある全発電所名を知っていたのです。ところが今度バスに乗っていて、上流から順になぞってみると、一カ所どうしても名前が出てこないのです。

あの下呂の近くの、大容量の、最後まで制御所のあった、蝸牛のような鉄のケースに潜って水車に触ったことのある、と具体的なことは全部数え上げられるのですが、発電所の名前だけが、どうしても出てこないのです。

翌日になって、やっと「東上田発電所」と頭に浮かんできました。

私も、偉そうなことを言っている足元で、こんな老人性物忘れが進行中なのです。

 

夕刻、トイレ休憩で、大きなお土産店に停車しました。

広い駐車場には、観光バスが沢山止まっていました。

なにせ今の日本の平日のことですから、どのバスもどのバスも老人ばかりです。

それらのバスのフロントガラスに表示されている「00温泉」「00観光」などと書かれた行き先表示を見て、大変不遜なことですが、私のスキーの方が能動的だと、優越感のようなものを感じたのでした。

たった7500円の貧弱な半泊のスキー旅行です。

年甲斐もなくそんなツアーに参加して、もしものことがあったらどうするのだ、というのが世間の公平な評価でありましょう。

そんなスキーの旅なのに、自分では結構、いい気分になれるなんて、老人というものは、まことにおかしなものであります。

 

・ゲレンデに己が心の弧を描く

 

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