台湾あれこれ
(2018/11/28~12/03)

重遠の入り口に戻る


今回も東京地学協会の6日間巡見の旅です。

今回は思い切って地学と関係のない話から始めます。


・漢字の国の面白さ

屋台の漢字
街の屋台のお品書き

街で見かけた屋台の看板です。朝9時でしたから誰もいません。
一番左は何でしょうね。肉の丸いの、そう肉団子じゃないでしょうか。
その右は、肉のチマキ(端午の節句の)、想像ですがギョウザらしいと思いませんか。
その次は何でしょう。甜菜糖(テンサイトウ)の甜と 辣油(ラーユ)の 辣ですね。多分、テンプラのことなんでしょう。
右の方の「湯」はスープなのだと想像しますが、何のスープなのかは全くわかりません。
初めの二つの例は漢字が意味を表す表意文字として使われており、三番目は漢字が意味とは関係なく発音を示す表音文字として使われているようです。

この看板?
この看板?

この看板のことなんですが、一見、私のような老人が大酒を呑んでいる店を想像してしまいますね。でも、左側の英語を見るとロイヤルホテルのことだと分かります。
老爺の発音ローヤをロイヤルに当て、表音文字として使っているのです。

4階の看板?
4階の看板?

このビルの4階の「洗腎」、これって腎臓透析のことじゃないでしょうか。このケースでは表意文字だからこそ想像できる表現のように思います。

街を歩いていて看板の文字を追っていると、私は退屈しませんでした。 仮名のない国の面白さです。専門の表音文字である仮名を、日本では中世に独自に創ったのです。

そんなことで、街で撮った写真を、帰国してから色んな人に見てもらっています。
女の人は表音文字とか表意文字というような話は好きでないようです。
そして、屋台の看板の下に書かれた数字は、日本だったら何円ぐらいなのかと尋ねてきます。
台湾ニュードルは4円、だから120円とか160円になるねとお答えしています。
女の人は実務的なのでしょう。
一方、男は役に立たないロマンに熱中するようです。 考えてみれば、女の人がテレビ番組の「なんでも鑑定団」に、怪しげな骨董品を持ち込むのを見たことがありません。

言葉遊びを楽しむ人はかなりいると思います。
 あちこちの喫茶店の名前など、よく洒落た漢字を連ねて名付けていますね。例えば鈴都路(レトロ)とか茶居夢(チャイム)などが頭に浮かんできます。
私も中学校の低学年の頃、先生に渾名をつけ回って楽しんだ思い出があります。
男は結構、漢字の使い方に謎解きの興味を持つようです。
そんな遊び心に女と男の性差が感じられます。



・台湾島の地学

やっぱり地学についても少しは書かせていただきたいと思います。
台湾は九州より少し小さい島です。
そしてユーラシアプレートの東の端っこに乗っていて、東側の海溝でフィリピン海プレートが南東から1年に7cmの速さで下に潜り込んできています。

大陸プレート、海洋プレート
大陸プレート、海洋プレート

ということで日本とそっくりかと思っていたのです。ところが細かく見るとひどく違
うのです。一番奇異に思われるのは、台湾北部ではフィリピン海プレートがユーラシアプレートの下に潜り込んでいるのに、台湾南部では逆にユーラシアプレートがフィリピン海プレートの下に潜り込んでいると説明されている点です。南部では、軽いはずのプレートが重いプレートの下に潜るという一見おかしな現象なのです。

また、日本では海溝に近い方の地層が若くて大陸側が古いのですが、台湾では真逆なのです。頭が混乱してしまいました。

何年か前、地学を齧りだしてから私の脳味噌は岩より固くなっているのです。だから台湾の成因に関する説明をとても理解できないのです。
それで地殻プレートの衝突だって車の衝突と同じじゃないかと、勝手な仮設を立てて無理に納得することにしました。つまり自動車が衝突し、絡み合いスクラップになった現場を見てみましょう。前輪の右左と後輪の右左が辻褄が合わないことだって当然あるはずだという非論理的な理論です。

そこで、今回、先生方のお話の中から辛うじて理解できた項目をつなぎ合わせ、大変に荒っぽいのですが、台湾島の現状を次のように考えることにしたのです。

・地殻プレートの衝突状況は日本と比べて複雑であること。
・台湾島が海面から顔を出したのは数百万年まえで、日本列島が誕生した億年台よりもずっと若いこと。
・地盤の隆起速度は日本に比べで2倍ほど大きいこと。

若くて元気が良くて、当然地震が多そうな気がしてきますね。
ということで台湾の地震関係のお話をさせていただきます。


・台湾の地震

台湾の地震を日本のものと比較すると次の二点に気が付きました。

第一点は、台湾ではフィリピン海プレートの潜り込みによる海溝型の地震は、日本と違って、数は多いけれども皆マグニチュードが小さいこと。
第二点は、マグニチュード7以上の地震の総数は日本とあまり変わらない。しかし、面積が台湾は九州程度と狭く、殆どが内陸直下型地震なので被害が深刻なこと。

さて、見学したのは車籠埔断層保存園区と九二一地震教育園区です。
どちらも1999年9月21日未明1時47分に起こったM7.3の地震の被害地域にあります。この最近の大地震は、「九二一地震」とか「隻隻地震」とか呼ばれています。
地震現場は台湾西岸平野の台中市の近くで、平野と丘陵の接続部に当たります。
これらの展示設備を計画するにあたっては、日本の根尾谷断層観察館や野島断層保存館を参考にしたと伺いました。でも、台湾の施設のほうが新しいだけに、実地の断層地盤にプロジェクターから解説用の画面を投写して解説するなど、大変親切な作りになっていました。

先生に引率された小中学生が沢山訪れ、地震の恐ろしさや、それへの対策など学んでいました。
断層に引っかかりぐしゃぐしゃになった中学校の校舎がそのまま保存されています。台湾全体では2415人の死者が出たのですが、真夜中のことだったので、この学校では被害者はありませんでした。

潰れた中学校校舎
潰れた中学校校舎

地震で曲がった鉄道線路
地震で曲がった鉄道線路

鉄道の線路が写真のようにぐにゃっと曲がりました。その様子をこの教育園でも再現展示しようとレールを持ってきました。ところが曲げようとしてもとても本物のようには曲げられなかったのだそうです。そしてその曲げ損なったレールがちゃんと置いてあったのです。
その光景を見て、私は今度の台湾訪問来、ずっと感じていた台湾の人たちの大らかさに改めて気づいたのです。
ここ地震教育圏の、いわば出来損ないの展示を置いてある大らかさや、駅弁を近くのベンチで食べているような格好をつけない人たちの自然さが好きなのです。
多分、私には南方から渡ってきた人の遺伝子が入っているからなのでしょう。


・地球上・唯二の場所

フィリピン海プレートとユーラシアプレートが衝突し押し合っていると書きました。
両プレートの境界といわれるのが花東峡谷なのです。 見どころは台湾国営鉄道東部幹線の旧鉄橋です。プレート境界に河が流れ橋が掛けられています。鉄橋の途中が年々ズレてしまうのですから補修を繰り返していたのです。列車が走っている写真を見るとちょっと怖い気がします。 この鉄橋は1930年に設置され80年近く使われていました。   騙し騙し使っていた台湾人も台湾にいた日本人も、大らかだったのですね。

曲がった鉄橋を走る列車の写真
曲がった鉄橋を走る列車の写真

現在、鉄橋は上流に新しく掛け替えられ、旧橋はサイクリングロードになっています。 実は、私も橋と同じ1930年生まれ、現在86才、旧橋にご苦労様と言っておきました。

プレートを股にかけた我が団長
プレートを股にかけた我が団長

訪問者はこの橋の中ほどの境界で、両プレートを股にかけて記念撮影をすることになっています。
案内板には「プレート境界を見ることができるのはアイスランドとここだけ。まさに地球上唯二の場所」と書かれていました。「唯一」以外に唯二という使い方がある例に初めてお目にかかりました。


・観光一切なし

今回のジオツアーは単なる観光旅行ではないので、いわゆる観光地は殆ど訪ねないという触れ込みでした。
ここ野柳岬地質公園では写真のやや右、女王の頭の形の岩を撮影するベストスポットを求めて観光客たちが列を作っていました。

クイーンズ・ヘッド
クイーンズ・ヘッド

私たちはこの野柳岬地質公園にある女王の頭を、新生界新第三系中新統大寮層の砂岩の、ノジュールを核とした硬い部分が、侵食から取り残された状態、として観察しました。

太魯閣国立公園燕子口
太魯閣国立公園燕子口

また、ここ太魯閣(タロコ)国立公園では、結晶質石灰岩(大理石)の地帯から西に進むにつれて黒色片岩の地帯へ変わってゆく様子を観察しました。


・台北(たいほく)帝国大学

 国立臺灣大学の廊下
国立臺灣大学の廊下

国立臺灣大学の廊下の写真です。私が名古屋大学の学生だった頃の教授たちの部屋とそっくり、なんとも懐かしく感じました。
福の字を上下逆様に張ったり、「よく冷えた ビール あります」と張り紙したり、人気がある先生の部屋なんでしょうね。
この大学の前身は日本の臺北帝国大学、日本統治時代の1928年に開学しました。日本の帝国大学は、東京、京都、東北、九州、北海道、京城、臺北、大阪、名古屋の順に設立されました。私には大阪、名古屋よりも京城、臺北を先行させた、当時の日本人の意気込みが分かるような気がします。


・北回帰線

台湾島の南の端から3分の1ほど北上したあたりを北回帰線が通っています。 シンボルの塔が建っていました。
夏至の日の正午にここに立つと、太陽は頭の真上になります。したがって自分の影は体の真下となり、つまり影が見えなくなるのです。
北緯23度26分22秒にあたるとのことですが、太陽と地球の位置関係は毎年一定ではなく、北回帰線の位置も細かく言えば移動しているのだそうです。メキシコのハイウエイの道端に年毎の北回帰線を示す標識が立っている写真があります。年によって10mほど動いているようです。
北回帰線を境にして、それより北を亜熱帯、南を熱帯を呼ぶのですが、私達が訪れたのは12月1日、冷たい雨が降っていました。

北回帰線ランドマーク
北回帰線ランドマーク


・台湾の人たち

今回のジオツアーでは、台湾島の東海岸の巡検にかなりの時間を過ごしました。
東海岸では道は殆どの場所で断崖が海岸に迫っていました。その険しい地形のため、1893年、日本の統治が始まった頃は東海岸には道路がなく、頼るのは船便だけだったといわれます。また集落間の交流も難しくて、使われる言葉も地方地方まちまちでお互いに通用しなかったといいます。
また、文字は使われておらず、地名など日本人が漢字を当て嵌めることをしたようです。

でも考えてみれば日本だって文字が入ってきたのは、中國で使われたのよりも数千年後のことです。またアイヌ民族など、とうとう文字を持たなかったのです。
昭和30年代までは、あちこちの海岸集落には貧弱な踏み跡しかなく、舟が連絡の手段だったのです。
100年ほど前までの人類社会では、そんなに格差が大きかったのです。

 台湾島 黒線は今回の経路
台湾島 黒線は今回の経路


台湾島の東側では、河口付近に小さな扇状地ができていて、僅かな住居がありました。そんな集落の高みに墓地のようなものが見えました。数十センチほどの高さの家形のモニュメントが密集し、屋根には十字架が付いていました。
案内してくださった台湾大学の方にお尋ねしたところ、それらはキリスト教のお墓で、東海岸の人は殆どクリスチャンなのだと教えてくださいました。
17世紀頃にはオランダが台湾を勢力下に置いたこともあるのです。そういえば南米のボリビアでも、同じような墓地を見たことを思い出しました。大航海時代、強国オランダやスペインは世界中に富を求め、またキリスト教を広めていたのでした。

今まで何回か台湾に来たときは、お寺に連れてゆかれたり、街のあちこちで小さな祠を見たりして、台湾イコール道教の国と思い込んでいました。今回の訪問で、東海岸ではほぼ100%キリスト教と聞いて、自分の無知なことを痛感しました。
また台湾島の色々の自然や社会を、西の平坦地、中央の高山帯、東海岸を一緒くたに論じてはいけないことを痛いほど感じさせられました。

台湾東岸の海岸岩壁
台湾東岸の海岸岩壁

そこで例の好奇心からウィキペディアを中心にいろいろ調べ始めたのです。

やってみると至近年については、沢山の情報が載っています。でも、私の知りたい遠い過去のことは意外に記載されていないのです。それで全く私流に、台湾島の人たちという題をつけて書き流してみることにしました。
裏付けのない私見ばかりです。誤りも多いに違いありません。ご指摘をいただけばそんなに嬉しいことはありません。

500万年〜
ユーラシアプレートの東縁にあたる部分が、フィリピン海プレートの潜り込みにより隆起し、台湾島として海上に姿を現したのが約500万年前です。その後、島の東側に海岸山脈が持ち込まれ、ほぼ現在の姿になったのが約200万年前といわれます。
その後、約200万年の間、島は豊かな自然環境そのままの状態でした。なにせ20万年前にアフリカで誕生した新人類・ホモサピエンスが島に入ってきたのは3〜5万年前と推定されています。台湾と大陸との間の台湾海峡の巾は約130km,フィリピン・ルソン島との間のバシー海峡は約150km,長い時間が経過する間に人類は、多分、何回も両方から渡って来たのでしょう。

5万年〜
それからまた約3〜5万年の間、島はやはり豊かな自然環境そのままの状態でした。
この長い時間の間、まだ古く貧弱な生活手段しか持たなかった人間たちは、過酷な自然環境の中で、いわば絶滅危惧種としての存在だったと思われます。
その頃、人間たちの生存を脅かしたのは何だったのでしょうか。
実際に今度の旅で、台湾で人間の敵は何ですかと聞いてみました。虎とか熊はいないようです。ハブなどの毒蛇なら多分いるでしょう。
でも、答えは病気だったと言い切ってよろしいかと思います。今から100余年前まではマラリア、デング熱、コレラ、細菌性赤痢などの病気が猖獗を極めていました。
ウィキペディアを見ているとこんな記事に出会いました。
「島内の武力反抗勢力を平定するためとして上陸した日本軍は五千人に近い死者を出したが、そのうち戦死者はわずか百六十人ほどで、四千六百人は風土病に罹った戦病死者だった」。19世紀に入ってからのことです。
これが正確かどうか自信がありませんが、同様の記事はあちこちに見られます。

八仙洞・古代人が住んだ海食洞窟
八仙洞・古代人が住んだ海食洞窟



台湾島は西側の標高の低い平野と、東側の山岳地域から成り立っています。

現在の目から見ると、農地として利用できる平地のほうが住みやすいように見えますが、蚊による病気の感染、汚染水による消化器関係の病気拡大を考慮すると、結構、気候が寒冷で綺麗な流水のある山岳地域の方が、人間が細々と生きてゆくには適していたかもしれません。

今回、私たちは東海岸で、八仙洞と呼ばれる遺跡を見学しました。崖にできた洞窟に人が住んでいた跡です。洞窟はいろいろの高さに全部で11箇所ありました。

これらの洞窟は海に面した崖が浪の衝撃で侵食されてできた海食洞と呼ばれるものです。

一番高い標高130mにある洞窟からは、2万年前に人が使った石器が見つかりました。その人達は、当時、海に面していた洞窟で暮らしていたことでしょう。

台湾島東岸は隆起しています。地震のたびに隆起し、2万年の間に130mの高さにも達したのです。

17世紀〜

17世紀初頭、やっと記録のある時代に入ります。

いよいよヨーロッパ諸国の東洋への進出が台湾にも及んできたのでした。

島の南部をオランダ、北部をスペインが統治したといわれます。

 日本の種子島への鉄炮の渡来(1542年?)もこんな動きの中のことです。

その後、台湾は明国の鄭成功がヨーロッパ人から取り返しましたが、明朝は清朝に変わてしまいます。そして清國は初めて自国の版図として組み入れたのでした。

世界史の中で、国とか国境とかいう概念が意識され始めてきた時代です。

この時代、台湾の住人も、やっと近代社会に触れたのです。

想像ですが、それまでは猖獗を極める病魔に苛まれ、人は辛うじて生き残っているだけの存在だったのでしょう。そんな時代には、希薄な密度の人間たちが、ムラ成立以前の小集団として生きていたのでしょう。つまり、グループの頭もグループ全員と同じように働かなくては食べてゆかれない、そんな小集団だったことだったろうと思います。

清國の版図には入ったものの、清國が領有した212年間に大小100件の反乱があり、清國政府はそうガチに反政府勢力を封じ込めるようなことはしませんでした。なにせ大国ですから、自分勝手に振る舞う辺境民族はあちこちに一杯いたことでしょう。

大陸からの移民が多かった台湾島の西部区域には行政組織があったかもしれませんが、山岳地区、東海岸地区はまだ部族がばらばらに割拠している状態だったのでしよう。

言ってみれば、清國の版図といっても、地図を自分の国と同じ色に塗る、あるいは係争になれば「固有の領土」と主張する程度の現実だったのでしよう。

19世紀に入って、1871年台湾に漂着した琉球島民54人が殺害された事件が起こりました。その件で日本政府が抗議したとき、清國政府は「台湾人は化外の民で清政府の責任範囲でない事件(清政府が実効支配してない管轄地域外での事件)」として責任回避したぐらいだったのです。

日本統治〜

そしていよいよ1895年(明治28年)、日清戦争の結果として台湾は日本の統治下に入ります。

この時期の日本は、自国が明治維新後に西欧先進国を模範として大改革を断行し、ようやくその結果が出てきた時期です。大いに張り切って台湾も近代化しようとしていたと言ってよろしいでしょう。

行政制度、とくに喫緊の伝染病防止として水道の整備、学校制度の確立、水利、発電、鉄道、道路などソフト・ハードの面から強力に改革を進めたのです。

国立臺灣大学(元日本の臺北帝国大学)
国立臺灣大学(元日本の臺北帝国大学)

住民にはいろいろ立場の違い、考え方の違いがあるのは当然です。

総ての台湾人が日本の施策に肯定的だったわけではありません。沢山の抵抗はありました。でも、明治の日本人は近代国家を頑なに理想視していましたから、反体制派は厳しく制圧し、近代国家の体裁を整えたのです。

植民地経営というものは本質的に多くの問題を抱えており、世界のどこでも、またどの時代でも問題がなかった例はありません。

日本人にもいろいろの考えの人が居ます。台湾人にもいろいろの人種や、それぞれの考えの人がいます。総てが天国のように楽しくスムーズに収まったわけではありません。

日本統治の功罪については、いろいと議論がありましょう。

でも、社会の良し悪しを判断する際の定量的なヒントとして、日本統治時代の初めと終わりのの人口の数字を上げておきます。

1905年は3、039,751人、1940年は5、872、084と約1.9倍になっています。

台湾では悪疫に悩まされていたところに、テイクオフ期の日本が関与するという良いパターンだったのです。

(古い時代の人口はわからないのが普通です。でも、日本では縄文、弥生時代の人口が2〜30万人だったという推計があります。台湾の昔を想像するに際して、少しでも手掛かりがあったらどんなに良いかと思いました。)


第二次世界大戦後

1945年、日本の敗戦により日本の統治は終わりました。

そして1947年、中国共産党軍に敗れた蒋介石が中国本土から台湾に逃れてきました。これをもって中華民国と中華人民共和国との2つの中國になり、それからは国際政治の面ではその時々の情勢に翻弄されています。

本土の中華人民共和国と比べると、 台湾、中華民国は小さな島国です。

 しかし、現在の人口は2300万人を越えています。 ヨーロッパなら大国です。

世界188国中、GDPは22位、一人当たりのGDPは36位、日本が26位なのですから立派なものです。

日本の旧植民地という意味で、台湾が韓国と比較されることがあります。

台湾は19世紀末、近代社会にテイクオフしようという時期に日本と出会ったのでした。

他方、大陸と地続きである韓国は、日本に仏教や文字など先進文化を伝えた国です。そして長い年月、中國、ロシア、日本などとの接触の中で、国家という認識を持ちながら生きてきた国なのです。

国の歴史を見ると、台湾と韓国は随分違うのです。


・里心

以前、我が家には犬が2匹いました。2歳違いでしたが、年上のが2年前に亡くなりました。彼は賢いやつで、私が緑色のお札、つまりドルを勘定し始めると長い旅行だと察し付き纏わったものです。
残された下の犬も間もなく15歳になります。人間で言えば100才あたり、私達と老々介護の日々です。賢い犬ではありませんが勘はよいのです。
今度、旅に出るとき、何とも言いようのない哀しそうな目で私を見ました。何時もの通り「きっと帰ってくるからお利口しておいで」と言って頭をなでてやりました。
帰国の日、「あと何時間かで家に帰ったらさぞ喜ぶだろうな」そんな思いでいる私の目に、台中市の街中でこんな看板が飛び込んできました。

獣医の看板
獣医の看板

横断幕は「1000ドル以上お買い上げ100ドル買い物券提供」でしょう。左は「開心的 跳躍口偏に巴」、右は「我們是 永遠的 好朋友」とあります。
謎解きの種ですね。

台中市のデパートにて
台中市のデパートにて

そのあとデパ地下の食堂で昼食にしました。
そのデパートの玄関でこんなものを発見しました。「文化物産嘉年華」と書かれています。
私の母は青森県弘前市の出身です。台湾でこんな日本・青森県・弘前市の物産展に出会うなんて何かのお引き合わせでしょう。
ともかく台湾地質巡検は初めから最後まで心温まる毎日でした。

重遠の入り口に戻る