題名:レッタス・スキー 孤老でも

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日付:2000/1/20


(2000/2/6〜10)

 

20余年前に買い求めたスキーズボンを、いまだに、はいているのです。

なにせ、いくら運動着だといっても、年に数日しか着ないので、殆ど傷まないのです。

繕ってまでとは言いませんが、破れていない服を、どうしても捨てる気にはならないのです。

さて、20年前のスキーズボンは、脛も腿も腰もピチピチに締め付けるように仕立てられているのです。今では、ズボンのデザインが、どう変わっているのでしょうか。

知りません。

 

昔は、朝飯をすませ、スキー衣装に着替えるときに、若い男の子たちが、トイレに行って出すものを出さないとズボンのホックが掛からないなど言いながら、おなかを引っ込めながらはいていたものでした。

私は馬年の生まれですから、足が太いのです。いつもスキーズボンをはくのにとても苦労していました。

尺取り虫のように、ちょっとずつ、たくし上げながら、はいたのでした。

 

ところが、70才のいまは、スルリとなんのこともなく、はけてしまうのです。

それは、足の筋肉がすっかり落ちてしまっているからなのです。

何かの機会に、鏡に映った自分の裸を見ると、腰の骨ばかりが尖っていて、いかにも老人といった体型になっているのを思い知らされるのです。

70というのは、数字だけではなく、総てが確実に70年経ったということなのです。

 

ゲレンデで転んだときに、立ち上がるのがこんなにも難しくなっていたのは、想像外でした。

足や身体を所定の位置に持ってくるのは容易ですが、最後のヨッコラショと立つところが、いまいち力不足なのです。

もっとも、今では、1日滑っていても、せいぜい1回ほどしか転ばないのですが。

ついでながら、転ばなくなった理由を考えてみますと、向上心がなくなって無理をしない、具体的には常に体重を板の上に乗せている、ということにあるようなのです。

ともかく、今回、2度目に転んだとき、なかなか立ち上がることができませんでした。

一時は、こりゃ靴を脱いでやらなきゃ無理かなと思ったほどでした。

でもまた、老人というものは変なことを考えるもので、見ている人たちから、重大なダメージを受けていると思われるとみっともない、異常がないことを知って欲しい、そんな思いから、ばたばたと、やたら手足を動かしたのでした。

 

最後に転んだときには、その直後、リフトに座って登っている間に、転倒の原因がソフト、つまり技術にあるのか、それともハード、道具にあるのかと考えました。

そしてハードにありと結論しました。つらつら点検してみると、左の靴の裏に雪がこびりついていて、締め具から浮き気味になっていました。どっちみち、自己責任ではありますが、私のような年寄りでも、ソフトやハードという言葉に取り付けないほど化石ではないと言いたいのです。

 

かっては、転倒の名手を自称し、転ぶときもダメージを受けないようにスムースに倒れ、まだ速度の残っている中に進行方向にエッジを立てて立ち上がり、そのまま滑降を続けるなど、調子の良いことを言っていたのが、70才の今は全く惨めな有様なのです。

 

現在、スキー場ではリフト、ゴンドラをフルに使うので、自分の体力エネルギーを使って登ることは、まあないと言ってよいほどなのです。

9時から16時まで、昼飯の30分を除いて滑り通しだと言っても、実はその90パーセントまでの時間は、椅子に腰掛けて機械に運ばれているのです。

それでも長いコースでは、滑り降りる途中で一息入れることが必要なのですから、机に座って仕事しているよりは運動量は多いのです。

若いときは、1日滑ったあとに、日頃使わない腿や上膊の筋肉などが痛くなったものでした。

ほぼ同じことをしているのですから、今だって肉体が疲れていないわけはありません。

でも、ちっとも痛くならないのです。

今度のスキーで痛かったのは、首と肩ですが、これはスキー場に着いた朝からのことで、夜行バスの狭い座席で、無理な姿勢で寝たからなのです。

筋肉痛など起こる訳はない、もともと筋肉が無くなってしまっているのだからと言っては、自嘲が過ぎるでしょうか。

 

あちこちの関節の障害も、老人に共通した持病です。とくに膝の痛みで、スポーツから引退する人は多いのです。

私にも兆候はあります。でも、地震でいえばマグニチュード2程度のもので、ちょっとやりすぎたかなとマークしていると、いつか消えて行ってくれるのです。

考えてみれば、これまでの人生で、その程度のトラブルには、体のどこかで常に襲われていたように思います。完全な体調だったことなどありませんでした。

 

今度赤倉に行ってみて、スノーボードが認知されてきたことを痛感しました。

スノーボードは、テレビなどでご承知でしょうが、念のために説明しますと、長さ1メートル、幅30センチほどの板の上に両足を固定して滑るスポーツなのです。ストックは使いません。

スノーボードは15年ほど前に登場しました。そしてその頃は、転倒して頭を打つことが多くて、危険性が大きいと報道されたことがありました。

なにせ、両足を一枚の板の上に固定しているので、単純に立ち止まっているのが難しいようです。自転車と同じことなのでしょう、スノーボーダーたちは、ゲレンデでは、滑っているか座っているかのどちらかなのです。

始めの頃、スノーボーダーたちが、ゲレンデのいたるところで座り込んでいるのは、異常の目で見られました。また、エッジで雪を削るのも、スキーとはまた別の感じでした。

そんなことで、保守的なスキーヤーたちは、スノーボーダーたちを異端視していました。

そして、特定のスキー場とか特定のゲレンデ以外では、スノーボードでの滑降は禁止されていました。当時は、人気のないスキー場が、スノーボード滑降可能と宣伝し、客引きをしているような状態でした。

 

スノーボードは、習い始めはスキーより遙かに難しそうです。でも、ある程度上達すると、微妙な体のバランスで、多彩なパフォーマンスを繰り出すことができるようです。

スピードだって出せますし、ゲレンデの外の悪路でも結構こなせます。

バランスの良い若い人にとっては、さぞかし面白かろうと思われるのです。

 

スキーもスノーボードも、基本的には若い人のスポーツでしょう。そして若い人も直ぐ中年になります。ファッションはあっという間に変わっていきます。

時期にもよるのでしょうが、今回、赤倉では両者、ほぼ半々でした。

 

志賀高原が標高2000m程度なのに較べて、赤倉は1000m程度と低く、その分寒くなくて、年寄り向きではあります。

しかし赤倉では、ほかの多くのスキー場と違って、60歳以上のスキーヤーをシニア料金で優遇するような甘いことはしていません。

また、赤倉地区にある、数十本のゲレンデでは、若者好みのスノーボードに全面開放を唱っています。

これらから見れば、赤倉は若者歓迎、老人無用のスキー場と宣言しているようにも思われます。しかし、これもひとつの見識であり、気持ちが良いではありませんか。それでも本人が、充分元を取ればいいのですから。

 

ところが、山の一番上にある雪質の良いゲレンデだけは、今でもスノーボードは禁止で、スキーヤー専用になっているのでした。

ちょうど、そのゲレンデのリフトの乗り場に行ったときのことです。

平日なのに、珍しく長い列ができていました。そして、無人のリフトの椅子だけが、次々と山頂目指して運ばれて行っているのです。

背伸びして、前を窺うと、改札口で背の高い若者が何か盛んに喋っているのです。やっとその若者が、立ち退いたのを見るとスノーボードをはいていました。

なぜこのゲレンデではスノーボードを禁止しているのか、なぜ俺を入れないのかと、改札係に食ってかかっていたのでしょう。

世の中には、他人の迷惑など構わずに、あるいは他人の迷惑を武器として、横車を押す人がいます。

飛行機のハイジャックなどは、その典型です。

各種反対運動に、その匂いがすることもあります。

社会としては、そいうことがあると不能率にはなります。

でも、そういう遺伝子を持った人は、どんなところにも百人に2人ほどは必ずいるもので、人類は過去もそうして生きて来たし、これからもそうして生きてゆくものなのだと、70才のスキーヤーは、こんなように世の中を斜めに見るのです。

 

マイルド・セブンのラリーというのをやっていました。

9カ所のチェックポイントを巡り、応募用紙の升目にスタンプを押して応募するのです。

私はどこのスキー場へ行っても、最初にそこにある全ゲレンデを、さっと回ってみるのです。こんどは、2日目にラリーのことを知りました。だから、もう、1回全体を巡りました。

最初の日のように、歯抜けのリフトが残ることなど気にしなくて良いので、次のリフトに乗るのに、ゲレンデではない斜面を突っ切ったりしました。

その時、不意に、若い日の喜びが蘇ってきました。

自分で目的地を決めて、自然の林の中の処女雪を踏んで進む、それが私の一番好きなスキーなのです。そして今は、それを可能にする体力が殆ど残されていないのが、どうしようもなく残念です。

ラリーに興味を持つ人は、100人に1人もない様子でした。そして、見かけた女性は応募用紙を何枚も持ち歩いて、判子を幾つも押していたのです。

いろんな人の名前にして応募するのでしょう。目的を当選することに置けば、これは効率的な方法ではあります。

 

・春の雪兎乱舞の足の跡

 

泊まった宿は、民宿組合に電話して、料金が高くないお宅と希望を言い、斡旋してもらいました。

日曜日の夜に出発して、木曜日の昼に帰ったのですから、普通の人が職場で働いている日々です。宿の客は3夜とも私一人きりでした。

料理は、ご主人が作っておられるようでした。料理自慢というのでしょうか、品数が多く、量も一杯だったのです。

私は本来大食漢なのですが、さすがに降参してしまいました。

「お願いですから、もっと少しにして下さい」「この海苔の佃煮、嫌いではありませんが、なにせ年寄りのことで、もうおなかが一杯です。手を着けずに残します。明日の朝に食べさせて下さい」など、勝手なことを申し上げました。

奥さんが「ところで、お幾つになられますか」と、聞いてくれました。

生まれて始めて「70才です」と答えました。まさに、その3日前に70才の誕生日を迎えたのでした。

さて、引き上げる日に、ご主人がバス・ストップまで送って下さいました。

「私も昔は随分滑ったのですが、数年前から止めました」と言われるのです。

いつ、どんな理由でスキーからリタイアするかは、私にとっても重大な関心事ですから「どうして、止められたのですか」と聞き返しました。

「どうしても、寒い時期には疲れるでしょう。疲れると仕事ができなくなるから。友達もみんな止めたし」とのお答えでした。

そして私の年のことは奥さんから聞かれたのでしょう。盛んに「お元気ですね。感心しました」を連発されるのです。

そんなに言われると、正直のところ、かなり良い気分でした。

この分だと、私も、もう4〜5年すると「そろそろ喜寿ですよ」など、自分の年にサバを読んで、多めに言い出すのではないかと思ったほどでした。

 

着いた日は、晴れて山が見えました。

次の日は、午後からボタ雪が、猛烈に降りました。その次の日も次の日も雪がチラチラする日でした。

赤倉スキー場は志賀高原などと較べて標高が低いので、雪の質はあまり良くないと思われています。

でも、標高の比較的高い北斜面に、ちょうど私が好きな傾斜のゲレンデがあります。

そしてそこが、最高の雪の条件になったのでした。

このお気に入りのゲレンデを使って、リフトで7分ぐらい登り、スキーで1分弱で下ることを、飽きずに繰り返していました。

明らかに錯覚なのですが、まるで上手になってしまったように、大変に気持ち良く、滑り続けることができました。

揃えたままの左右の板を、少し前後させ、スムースに体重を移し替えると、いわばひとりでに回ってゆくのです。

帰る日の最後の一滑りは、もうこれで終わりだから、一番好きな滑りをやろうと思いました。

そして、練習めいたこちょこちょ曲がりなど止め、斜面の幅をフルに使って、スーイ・スーイと飛ばしながら、大きく回転しては滑り降りました。本当に良い気持ちでした。

 

・越後では土砂降りのやう雪が降る

 

昔、一緒に行ったことがあった妹に見せようと思い、自分を入れて、赤倉観光ホテルの写真を撮りたいと思いました。スキーを外している人を探すと、若い女性の一行がいました。

シャッターを押して下さいと頼むと「お一人で良いですか」と言われました。「だって、一人しかいないんだから」と野暮に答えると「若いギャルなど隣にどうですか」と、すっかりからかわれてしまいました。

 

腰に巻く「物入れ」が壊れました。買った頃は、確かポシェットと言っていたと思います。最近では、ウエスト・バッグのほうが通りが良いようです。

それのチャックが、時々、勝手に口を開けるようになってしまいました。

一昨年、モンゴルのウランバートルの青空市場で、スリの被害に遭った奴です。もう何年、お世話になったことでしょう。でも、こうなったら、もう物騒で使えません。

また帽子が飛ばないように、シャツとの間をクリップで留める紐が壊れてしまいました。

スピードが上がって、帽子が飛んだときに,どうせくっついているから、後で被り直せばいいやと、放っておいたのがいけませんでした。

帽子が風で激しく振り回されたのでしょう、クリップがバラバラになってしまいました。

70才の今、何時、どんな理由でスキーを止めることになるのかと、考えているのです。

10年前には、体力がなくなるのか、膝とかどこかが痛くなるのか、それとも一緒に行く友達がなくなるのか、そんな条件を理由として考えていました。

3年前から、同行する友達はなくなりました。体力と痛みの制約は、ゆっくり進行中です。

70という年齢で、しかも独りきりで計画してスキーに出かけるという話はあまり聞きません。

しかし、してはいけないと言うわけでもないでしょうし、実際、やればできてしまうのです。

いずれにしても、そう先は長いとは思われませんので、多額の設備投資が必要になったとき、つまりスキーの板が折れるというようなことが起こると、新しく買うことは慎重に検討しないといけないかもしれません。

でも、そういう高額商品は、レンタルも広く一般に使われているのです。

 

本当に、なんの理由でスキーをリタイアすることになるのでしょうか。怪我なのでしょうか、意欲の喪失なのでしょうか。

 

独りスキーヤーになってから、これで野沢、赤倉と経験したことになります。

野沢は、長野に単身赴任していたとき頻繁に滑ったところでした。

その後、名古屋から若い人たちとスキーに来るときは、もっぱら本格的な志賀高原ばかりでした。

とうとう自分だけになったので、懐かしくて野沢にも行ってみたのでした。

 

赤倉はもっと古い話になります。

1936年、私が幼稚園の年長組だった年と、その翌年、小学校へ上がったときに、父親にここへ連れてきて貰っています。その後は、戦争の深刻化で、スキーどころでなくなってしまったのでした。

訪ねたのは正確に言えば池ノ平で、上越館という名の宿でした。

父のスキーは、板に穴が開いていてそこに革ひもを通し、靴を縛り付けるものでした。

私のは、子供用の簡単なカンダハーでしたが。

父は、始めて滑る私に、トイレで屈むようにして、重心を下げれば転ばないと教えてくれました。もちろん、洋式トイレじゃありません。私の変な格好はそのせいなのです。あれから、60年余、しゃがみ加減で。転ばないように滑っているのです。

ある日、父たち大人は、宿の近くで滑っているよう私に命じて、自分たちは朝早くから妙高山に登りに行きました。

野尻湖が見えるところまで登って,一気に滑り降りてきたと、大人たちが大事業を成し遂げたように、お酒を飲んでは気勢を上げていました。

考えてみれば、父もまだ、40才前だったのです。

今はゴンドラに乗ると、野尻湖が見えるところは、ものの数分で通過してしまい、はるか上の方まで運んでいってしまいます。

川の対岸に見える野尻湖の岸には「これがまあ ついの住処か 雪五尺」「雀の子 そこのけそこのけ お馬が通る」など、くだけたユニークな俳句で知られる小林一茶が住んだ柏原の町です。

 

・観光船がっちり食わへ湖氷る

 

1950年ごろには、数年続けて、名古屋大学医学部の人たちと赤倉観光ホテルに泊まってスキーをしました。

これには妹と行ったこと、母と行ったことがありました。

その頃は、比較的緩い斜面の上と下に滑車があって、その間に走っているロープを掴んでは滑り上がる設備ができていました。

また、多少複雑な機構で、Tバーをお尻に当てがって、滑り上がるリフトもありました。

ホテルには、ミキ・トリロー氏が泊まっていたことがありました。われわれの友人と風呂で知り合ったとか言って、私たちの部屋にきて、お喋りをサービスしていってくれました。

当時、NHKの人気番組だった、日曜娯楽版をやっていたトリローさんです。静養のため来ているのだ、お忍びだから黙っていてくれとおっしゃっていました。

 

何かの因縁で、赤倉で始めた私のスキーを、この赤倉で滑り納めることになるのだろうか、そんな思いも、リフトに揺られながら頭をよぎりました。

でも、正直のところ、この思いには、リフトの上では全く現実味は感じませんでした。

 

今や、表日本の東名高速と裏日本の北陸道は、長野道で結ばれました。このようにして、環境破壊の基本的ツールは、着々と、お膳立てされてきています。

そして、そのお陰で、長い買い物休憩をとっても、なお、5時間ほどで赤倉スキー場から名古屋まで帰ってくることができるのです。

雪深い越後から遙かに遠ざかり、中央道の内津峠の下り坂から、名古屋の灯を見下ろすようになってから冷静に考えると、今回がスキー納めになってしまう可能性だって、あながち否定できないような気分になってきたのでした。

 

・夕暮れて双塔の街冴返る

 

 

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