極東シベリア・ウデゲ族
(2015/8/30~9/6)

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わたしがシベリアへゆくと聞いた息子は「オヤジも、とうとうシベリア送りか」とメールしてきました。

人間社会では昔から犯罪者を労働力として僻地へ送り込んだものです。オーストラリア観光中、昔、ロンドンでハンカチ1枚を盗んだ罪で、この地に送り込まれた人があったと聞かされました。

もっと近い時代、ソビエトのスターリン時代には、政権にとって好ましくない者を次々とシベリア送りとし、社会の中枢から隔離したものです。例えば作家のソルジェニーツィンなどの名は、我々世代の記憶の中に染み込んでいます。 そんな昔の言葉を息子が知っているのに、いささかの感慨を催しました。なにせ、そんな息子のオヤジは大変な年寄りに違いありませんから。

私がこのシベリア旅行に飛びついた理由を挙げてみましょう。

シベリアとは 

 まず次に出てくる写真を見て下さい。

ロシアでシベリアといえば、ウラル山脈の東の地域を指すのですが、こんど訪れた場所は特別に極東シベリアと呼ばれ、広義の呼び方でないとシベリア扱いされないほどの僻地です。

ここはずっと清國の領土でした。 それなのに1860年、 北京が英仏軍に攻められていたときロシアが講和を仲介し、その仲介の代償としてロシア領になった土地なのです。

4千万年前までは日本列島はアジア大陸の一部でした。その後、日本海の部分に地球の奥からマグマが上昇してきて広がりました。その結果、日本列島は東に押しやられ、千五百万年前にほぼ今の位置に落ち着いたとされます。

地図

写真から分かるように、私たちが行ったビキン川の西側にもハバロフスクとウラジオストクを結ぶ低地が連なっています。もしここが割れめになっていたら、日本はもっとメタボだったでしょうし、また将来この線で割れて海ができれば、第二日本海、第二日本列島になるのかもしれません。

ともかくそんな因縁浅からぬ日本海の向こう岸の地を見たいという望みは、長年持っていたのでした。

訪問先は、ロシアそのもののハバロフスク市で丸一日の観光と、あとの5日間は少数民族ウデゲ族が住む 全くの辺境クラスヌィヤールの集落での見学体験で過ごしました。

平らな土地と緩やかな川


2日目、今回訪れたクラスヌィヤール村を目指しました。まずハバロフスクから大型バスで250kmほど南下します。途中からは未舗装の地道になっています。道はどこまでも真っ直ぐに造られていました。こうして濃い森林の中を、ビキン川に掛かる橋のところまで走りました。

その道はウスリー川の100kmほど東側を平行して南下する道なのでした。ときたま低いなだらかな丘があるぐらいで、なんとも平らな土地なのです。地図で見るとウスリー川沿いのメイン道路には沼や池のマークが一杯ありますから、もっと平らな土地に相違ありません。

私は過去に、あちこちの砂漠とか平原とか広い平らな土地を見た経験はあります。しかし、この沿海州シホテ・アリン山脈の西側の平地には、なんと樹木がびっしり生えているのです。これは初めて見る景色でした。

(飛行機の窓から見下ろたことがあるアマゾンやカリマンタンの森ならば、あるいはこんなに平坦な土地に樹木が密生しているのかもしれません)

チョウザメ
博物館で見たチョウザメ

橋から先、クラスヌィヤール部落までも、なんとか道はあるのだそうです。でもとてもひどい道だそうで、少なくとも川が氷結するまでは、船で川を使って行き来するのが通常の手段なのです。

橋から下流ウスリー川の合流点までは約100km,落差は90mほどですから、木曽川の犬山下流とほぼ同程度の傾斜で緩やかな流れです。日本を発つ前、グーグルアースで検索してみました。そのとき画面にこのビキン川が現れたときは、一体、どこの河口扇状地なのだろうかと思いました。川は幾筋にも別れ、屈曲を繰り返し、ときには三日月湖となり氾濫原を形成していて、 昔の絵地図で見る濃尾平野の木曽川とよく似た状態です。

 今の時期は、渇水でも洪水でもなく、豊富な水がゆったりと流れていました。

長さ8m、巾70cm程度、ヤマハの船外機付きの 喫水が浅い川船が交通手段の主役となっています。お客2人と船頭との3人乗りが普通で、約30km/hで走っています。

ボート
船底をひたひたと打つ秋の波

ついでながら、旅の最後に観光したハバロフスクはウスリー川のもっと下流で、アムール川との合流点です。そこの海抜は約30m,そしてここから樺太北端の向かい側に開いたアムール川河口まで、直線距離で800kmもあるのです。気が遠くなるほどなだらかな地形です。市から対岸に掛かるハバロフスク橋の長さは260m,広い川幅一杯にに水がとうとうと流れていました。

落差が少ないのでエネルギーこそありませんが、H2Oとしての価値は大変なものです。

 古老訪問


 4日目、クラスヌィヤール集落の古老、お二人を訪問しました。

 最初に訪ねたのはクラゲアさん85才(女性)、ウデゲ族の正装で杖を2本ついて現れました。

古老
クラゲアさんの向かって右隣が85才の筆者

7年前80歳で亡くなった旦那さんもウデゲ族、おふたりの間に子供が9人、そして今では孫とひ孫が、それぞれ20人あまりあるとのことです。

男の子が2人しかなかったのを残念がっておられました。

残念といえば、彼女はクロテンや魚は捕ったが、カワウソだけはとうとう捕れなかったといって、これも残念がっていました。

しかし親孝行な娘さんたちが、つきっきりでクラゲアさんの面倒をみており、大変お幸せのご様子でした。わが家でもそうですが、男の子というものは身近な生活ではあんまり役に立たないものなのです。

彼女は3つほど昔話をしてくれました。昔々、ダブダラさんが歩いていると道に蛇が横たわっていてこう言った。「私を息子にして下さい、駄目と言ったらあなたは死んでしまいます・・・」と言うような調子の話でした。

その日の朝、会話が途切れ時間が持てなかったら困ると、各自質問のテーマを心づもりしていました。でも一旦顔を合わせると、話はクラゲアさんの口から次から次へととどめなく飛び出してくるのです。

私は先年105歳で亡くなった自分の母のことを思い出していました。母も、こんな場面に出会うと、自分の役目だとばかり張り切ってしまい、止めどもなく喋ったものです、多少出まかせも交えながらですが。

同家を辞するとき娘さんたちが私と会ったことで、亡くなった父親を思い出したと言ってくれました。私ももう85才、私自身が鏡を見るたびに、亡くなった父に似てきたなと思っている昨日今日なのです。

このシベリアの寒村で、はからずも両親のこと、そして自分の老いのことをしみじみと想わされたのでした。

次に訪問した家の奥さんはアントニナさん、79才、ハバロフスクの医学校を出て同市近郊で医療に従事しておられました。ところがあるとき先輩からここクラスヌィヤールのウデゲ族のことを聞き、1958年からこの地へ入り働いておられるのだそうです。

医療、歯科医、助産婦など地域の全般的な保健衛生への貢献を行政から評価され、授与された表彰状を見せてくれました。腕に袋を巻きボールを握って空気圧をかけ水銀柱で数値を読み取る、あの懐かしい昔の血圧計を持ちだして見せてくれました。

非常に理知的な印象の人で、おそらくこの集落のあらゆる面で文化文明の接点となる役割を担ってこられたのだと推察されました。

旦那さんのミハイルさんは69才、ロシア人でウラジオストクで働いていたのだそうです。でも都会の生活が虚しく自然が好ましくなって、この地に住み着き伐採の仕事をしていたとのこと。

お二人とも先年配偶者を亡くされ、2年前から一緒に住んでおられるだとのことでした。

歯医者もしていたとの話題から、この村では何歳まで何本ぐらい歯が残っているかという話になりました。それで我々日本人はどうなのかということで、各隊員から披露がありました。それによれば、全員、なくした歯は一本とか二本だとかで、いい年をしてシベリアへ来る連中は、歯が丈夫なんだとわかりました。

ともかく日本人は、この部落では想像すらできない健康優良爺たちなのです。 

ご夫妻で300坪ほどの屋敷を案内してくださいました。非常に沢山の種類の野菜が育てられています。そして、自然が好きだと仰るとおり、通路も畑も草ぼうぼう、その中にトマト、キウリなどが生っているが印象的でした。

家庭菜園
 家庭菜園では雑草も可愛がる 左上は衛星放送アンテナ


庭でミツバチを飼っておられます。その横を通るのに、ロシア人の案内役も一瞬足がすくみました。でも、ミツバチたちは、聞いていたとおり意外に温和、私たち日本人にも友好的で、まったくトラブルはありませんでした。

両家の訪問は、予定では10時から12時となっていましたが、実際には話が弾み、終わると14時になっていました。

スケジュール表には最古老訪問と記載されていました。それを、私たちは無意識に、古老といったり長老といったり、とくに差別しないで口にしていました。でも真面目な通訳さんはその相違に気づき、古老と長老とどちらが正しいのですかと質問してきました。どちらも正しいが、長老の方をよく使うよと誰かが返答していました。でもよく考えると、古老は昔を知っている点だけに価値がある存在、そして長老はそれにいくばくかの権力を合わせ持っている場合に使われるはずですね。

訪問を終ってみると、クラゲアさんは子供、孫、ひ孫とその配偶者を合わせると、人口約700人のこの村では大勢力です。大和朝廷の大伴氏、物部氏にでも比肩されましょう。事実、行く先ざきで一族のだれが顔を出しました。まさに長老の名に当たるのだと思いました。一方、アントニナさんは村のインテリジェンスを束ねる文部科学大臣とでもいった存在なのでしょう。

魚釣り

5日目の午後は半日、ビキン川で釣りをしました。

キャンプ地から更に小舟で10分ほど下流へ下った所が釣りのポイントでした。ちょっとした中洲です。

キャンプ場の持ち主のニコライさんは釣りの神様なのだそうです。彼の娘婿のガイドさんが、ビキン川は全長560kmですとか解説を始めた途端に、ゴムズボンに身を固め中流まで入り竿を振っていたニコライさんは、もう結構なサイズの鱒を2匹釣り上げました。
釣り竿は全員の分はありませんでした。途中で勧められて、私も10分ほどお付き合いをしました。でもその後はもう、ニコライさんがどんな釣り方をするのかだけを観察していました。この釣りの神様は毎回、違った場所に疑似餌を振り込んでいるのです。そして魚信のあったところだけ、繰り返し餌を送り込んでは釣り上げるのでした。

他の人達は本流ではさっぱり魚信はありません。それで、川の流れでできた小さな水溜りで釣っていました。ここには15cmほどの小魚がいて、結構付き合ってくれるのでした。さすが自然学研究会のメンバーですから、小魚たちを直ぐにリリースしていました。
私は子供の頃魚釣りが大好きでした。オヤジは私には付き合いきれず、職場の同僚に世話を押し付け、私はその人を大好きになり懐いていたのでした。

私の釣りの最後は、数年前、モンゴルのオノン川、50cmほどの鱒を6匹釣ったことがありました。

今回は、他の人達が釣っているのを見物しながら、夏目漱石の小説「坊っちゃん」のなかにある次のシーンを思い出していたのです。
教頭の赤シャツが、新米教師の坊っちゃんを自分の陣営に囲い込もうと企んで釣りに誘います。坊っちゃんは考えます。「一体釣や猟をする連中はみんな不人情な人間ばかりだ。不人情でなくって、殺生をして喜ぶ訳がない。魚だって、鳥だって殺されるより生きてる方が楽に極まっている」。こうして沖に出て釣りが始まったものの、「赤シャツ」と「のだいこ」の二人が、ゴルキという小骨が多くって美味しくない小魚を釣っている間「胴の間に仰向けになって、さっきから大空を眺めていた」と天衣無縫な坊っちゃんぶりを発揮していたのでした。

告白すると、このたび私はビキン川で最初にニコライさんが釣った鱒の目を見た途端、急に可愛そうだと思ってしまったのです。
そういえばこの日頃、うちの庭の樹の枝にも「君が悪いわけではないんだが、ほかの樹の都合もあるから」と因果を含め剪っているのです。

この心変わり、やはりお迎えが近くなってきたせいなのでしょう。
   
   繰り返し魚信を探る秋の河
   
   秋の鱒釣り上げられて目の哀し

GPSのお手柄

GPSというのはグローバル・ポジショニング・システムの略で、手のひらに入るぐらいの端末で、衛星からの電波を受信し、自分の位置、緯度経度高度などが分かるのです。私が使っているのは、画面に、歩いてきた軌跡が表示されるようになっています。

5日目の午前中、半日、原生林に踏み込み樹相の観察をしました。
今回我々グループのリーダーを勤めてくださったMさんは理科の教師、校長まで勤められた方です。森の中で彼と現地のガイドがいろいろと教えてくれました。

ハバロフスクからついてくれた通訳さんは23歳の女性、勉強家ですが、少々頭が固いところがありました。樹高20mのチョウセンゴヨウの大木を、ハイマツと訳するのです。両方とも葉が5本だからでしょうが最後まで違和感がつきまといました。。「ここにはハルニレ、キハダなどが植えてます」というのは「生えています」のこと、「あの亡くなりそうな木は・・」は「枯れそうな木」のことなのでした。

この地方の森には二つの大きな特徴があります。

そのひとつは、このシホテ・アリン地方は冷温帯樹相なのですが、氷河期にも氷河に覆われなかったので第3期の樹相が残っていることです。

日本では化石にしか見られないもう絶滅してしまった植物が、ここではまだ青々と生き続けているのだそうです。

もう一点は、いろんな種類の木が混じって生えている、混交林を構成していることだそうです。地球上どこでも、年間の気温、降水量などの条件が植物の生存に厳しくなると特定の樹種しか生育に適さず、単一の樹種の純林になっていることが多いのです。ところがここでは、いろいろの種類の木が共存しているのです。よほど植物たちにとって生育に適しているのでしょう。そして広大な森林、タイガを形成しているのです。

一行6人でその原始林に踏み込みました。人跡といえば広大な森のなかのキャンプ場のみで、それもベッドが5つしかないささやかなものです。人跡稀な森、当然原始林です。踏み跡など全くありません。ガイド任せです。私はGPSを見ながらついて歩いていましたから大体の様子は把握していました。真っ直ぐ西へ向かい、斜面を下り始めたら左折し、小さな涸れ谷に沿って戻るというコースのようでした。

キャンプに帰り着き昼食を待っているときです。Mさんが手帳がないと言い出しました。あちこち洗いざらい探しましたが見つかりません。今日は巡検5日目、手帳には貴重なメモが記録されています。植物観察に熱心なMさんは、朝も早く起きてあちこち探索、メモしておられたのです。

原始林

GPS
原始林とGPS画面

今日の観察で最後にメモしたのは、ベースからはそんなに遠くはないようなのです。でも、ニコライさんもガイドさんも両手を後ろに引いて、お手上げだという仕草をしました。

「見つかるかどうか分かりませんが、GPSを頼りにして、来た道を辿ることはできますが」と私がオズオズと申し出ました。

全員で探しに戻りました。いざ始めてみると、その難しさに私も始めは当惑してしまいました。画面上に歩いた道のトレースはあるのですが、まずどの方向へ踏み出したらよいかは分からないのです。少し歩いてみれば新しいトレースとして表示されるので、もっと右寄りだとか、あるいは反対方向だとか分かるのですが。また衛星からの電波を受信し緯度経度を計算する時間も必要で、表示が少し遅れます。こうして、最初はとても効率の悪い試行錯誤を繰り返していました。皆さんもGPSなど当てにならんと思われたようで各自勝手に動き回るようになってしまいました。

でも、Tさんは私のそばにいてくださいました。私は、彼がおおよそ前に戻ってきたGPSのトレースに沿い、さまよっているのに気がつきました。もともと原生林に踏み入ったときは、人は少しでも藪が薄くて見通しの利く方向へ進むものです。また、やはり6人歩いた跡は、草の葉が裏返しになったり、倒木の苔が剥げたりしているものです。Tさんは原住民ナナイ族の伝説的名猟師デルス・ウザーラのように微かな手がかりを見つけ動物的な勘で進んでおられるのです。私はTさんの後にぴったりくっついて、Tさんがルートを外れるたびに、もう少し左ですというようなことを言いながら、GPSのトレースを辿りました。この探索システムが機能し始めてからはすっかり自信がつきました。

探索の最初の部分では多少外れてしまったけれども、こんど戻るときには間違いなくその道を戻れると確信しました。

ややあって、大木の脇で、Mさんが「あった」と声を上げられました。GPSを信じていた私といえども、そのとき、奇跡が起こったように嬉しさいっぱいでした。

この紀行文を書いていて、ふっと思ったのです。あのとき、GPSの説明などしたのは失敗ではなかったかと。芝居気たっぷりに天を仰いでは、進路について啓示を受けたかのように振る舞っていれば、ウデゲ族のシャーマンになることができたかもしれません。

動物の足跡観察

6日目、キャンプの近くの林道を歩きながら、キャンプのご主人のニコライさんがガイドしてくれました。ここは森のなかのただ一軒だけのキャンプ場です。交通は川を舟で移動するしかないのですから、車はまったく見かけません。でもこの道は明らかに林道で、泥道に車の轍が残されていました。厳寒期に川が凍結したとき氷の上や、凍ったぬかるみの上を車で走れるというような話しを通訳さんから聞いたような気もしますし、あるいは私の勝手な想像かもしれません。ともかく、その泥の表面に残された足跡から動物の種類を教えてくれたのでした。

現在でも冬には猟にくる人がキャンプに泊まるのだそうです。 狩猟生活者にとって、足跡から情報を読み取ることは必須の要件です。

約100年前、ロシア探検隊のガイドを務めた現地ナナイ人猟師のデルス・ウザーラは、地面に残された足跡から、それが老人だったのかそれとも若者か、そしてその人の体調まで読み取ったのだそうです。その動物的な勘の鋭さを、ロシア政府が派遣したアルセーニエフ探検隊長が称賛し書き留めています。

今回の私たちの観察会ではアカシカ、ノロシカ、タヌキ、ウサギ、イノシシ、クマなどの足跡が見つかりました。

この1週間、動物の話をしていると必ずアムール虎の名前が出てきました。アムール虎はこのビキン川流域自然保護活動の大看板なのです。

先年、NHKが取材したときにも、アムール虎はストーリーの中心でした。

クラスヌィヤール民族センターのお土産店の紙袋にも、この店でお土産を買えば、アムール虎の保護に貢献することになりますと印刷されているぐらいです。

現在の生息数は数百頭といわれます。 前述の村の古老クラゲア婆さんは、兄が一生のうちに5回出会ったと言っていました。出会うのは極めて稀なことに違いありません。

この日もニコライさんが、これは虎が引っ掻いた跡だと樹の幹を指し示しましたが、私は内心、これは我々に対するサービスであろうと邪推していたのです。

観察会の最後に、これがこのウデゲの森で最も凶悪な哺乳類の足跡だと指さされました。それは、なんと我々の足跡で、おおいに納得したのでした。

トラ
博物館にて

サウナ

バロフスクのホテルは、ごく通常のシャワーとバスタブでした。

クラスヌィヤールでは、ゲストハウスもキャンプ地も、ロシア式サウナしかありませんでした。

サウナは、日本でも温泉やゴルフ場で見かけます。若い頃は物珍しさに入ってみたことがありました。でも年とともに、体に良いとかよりも気分優先になり、 もう何十年も、 大きな浴槽にドボンと浸かる方ばかり選んでいるのです。

今回はシャワーも湯船もないところですから、皆さんとご一緒にサウナを使いました。

18時と指定すると、ガンガン薪をくべて、その時間にはサウナの小部屋はもうアッチッチ、80℃にもなっています。いわゆる乾式というやつです。ここでは人間の数と周りの森と考え合わせれば、どんなに盛大に木を燃やしても罪悪感はありません。

人よりも少しでも早く服を脱いでしまい、できるだけ窯から遠く熱くない場所に座るのがコツです。

最初の日だけは、まじめに汗が沢山出るまで我慢していましたが、次の日からはあとで水を浴びるのが心地よく感ずるほどのブロイラー加減で打ち切る方針に変更しました。

体を叩くための白樺の小枝を束ねたものを 最初の一回だけ使ってみました。 街の市場で売られていましたが、観光客用ないしはマニア用ではないかと思います。

私は何事も事後にウィキペディアなどで調べる方なのですが、今回入ったサウナはフィンランド式とかいうもので、高温が与える体への負担を考え、週に一回程度にすると良いなど書いてありました。
ところが、渡された旅行案内には、毎日夕方、ロシア式サウナをお楽しみいただきますと書かれていたので、そのとおり律儀に毎晩欠かさず楽しんだのでした。

村長さん

スケジュール表には、ただ、村長さんにお会いしますとだけ書かれていました。

旅の3日目、我々は村の学校の入学式に出ることになっていましたから、そのついでに役場に寄るのかしらなど想像していました。

ロシアの学制は3,6,2の11年制だと言っていました。この村の人口はわずか700人なのです。で、学校は小学校、中学校、高等学校がいっしょの校舎に入っています。入学式もみんな一緒くたでした。体育館で行われ、先生、生徒そして父兄たちもみんな立ったままです。座っていたのはただひとり、アコーディオンの奏者だけでした。一年生と先生との掛け合いがありました。「決まりを守りますか?」「ダー」、「いたずらはしませんね?」「ニエット」どこでも子供は可愛いものです。(ロシア語は分かりませんから推察です)

そのうちに村長さんは我々と昼食を一緒にするためにゲストハウス来るのだと伝えられました。昼になると、遅れるから先に食事してくれとゲストハウスのおばちゃんが言いました。

また今度は夕食を一緒にという情報が入り、暫く待っていました。ところがまたまた、遅れるという情報です。

もともと必要性があることではありませんから、こっちも勝手に、村長さんは始めから会う気はなかったのだろうと断じて、ウォッカなど飲んで盛大に夕食を済ませました。

ところがそのあと21時頃になって、村長さんは勇ましく4輪バギーに乗って現れたのです。

飲みながら話しましょうやと持ちかけると、普段は飲むのだが今は体調が悪く飲めない、そのうち日本の病院に入ることになってるというのです。

最初にこちらから、ここが世界遺産に指定され自然保護のメッカになりそうで我々も嬉しいです、お互いがんばりましょうというように持ちかけました。それに対して村長さんは、それはそうだが住民の生活も考えなくちゃと答えるような、まともな人物でした。

日本ではあまり知られていませんが、極東シベリアには、そこに住むアムールトラや広大なタイガの森などがあり、人類による開発が遅れ、自然がよく残されているとして自然保護運動の分野では金看板になっているのです。

豊かな自然環境の中で、住民は昔ながらの平和な暮らしているというわけです。

今回訪れた私たちグループの平均年齢は、贔屓目にみても70才半ばです。

深い森の中に赤ずきんちゃんが住んでいて、狼がおばあさんの作り声で呼びかけるなど思っているわけはありません。

そんな酸いも甘いも知った方たちではありますが、クラスヌィヤール村でウデゲ族の実生活を見ていて、えっという顔をされた場面を下記に拾ってみました。

・ウデゲ族が意外に他民族と結婚し、純血が失われつつあること、
・部落で牛を飼育していること、
・中古車が14万円ほどで購入でき、結構、車も使われていること、
・どこにでもテレビのアンテナ(結構、錆びてる)があること、

それでいて、一週間遅れでやってくる第2次隊に、どんなお土産を持ってきたらよいかを伝えようと、通訳の携帯電話でハバロフスクの事務所とつなぎ、さらに東京の旅行社につながらないかと騒いでいる時には、原始社会に入っているという意識を、まったく持っていないように見えたのは不思議でした。

人間は生まれてきた以上、何時かは必ず死ぬという事実を納得しない人はありません。でも現実に、身近な人を亡くすれば悲しまない人はありません。

漱石の草枕の冒頭にあるように「智に働けば角が立つ。情に棹させば流される」のが人生であります。住民にいつまでも昔のままでいてほしという感情と、生活向上への望みを抑圧するべきではないという知性と、どちらももっともなのです。       

おばさん

クラスヌィヤールのおばさんたち

強制的に住民を一箇所に集中居住させ、混血を勧め、伝統文化など民族のアイデンティティを破壊し、国家に同化させる政策をとっているのだとする意見があります。

また、輸入木材で家を建てている日本国民は、大企業、輸入商社と共に森林破壊の共犯者であるという意見もあります。

20万年前アフリカで誕生した現生人類が、6万年前にユーラシア大陸へ渡り、約3万年前にシベリアや日本などまで拡散してきたのだという説があります。それ以降3万年の間に生じた生活の違いは見ての通りです。でもそれは時の流れの一断面にすぎません。将来、どんなように変化してゆくものでしょうか。

叶わぬことながら、あと200年も生き長らえてその経過を眺められれば、どんなに面白かろうと思うのです。

村長さんは、自分の責任下にある人口700人のこの村の医療や教育、より魅力的な職を求め都会指向になりがちな若者たちのことなど腹の中では考えながら、日本から来た自然愛好家たちを相手にしていました。

抑留兵士の墓参

8日目、今日が最終日です。ホテルから空港に向かう途中、シベリア抑留兵士たちの墓地を訪ねました。第二次大戦が終わったあと数年間にわたって、約60万人の日本兵がソビエトに不法に抑留され、飢えと寒さの中で森林伐採などに強制労働を強いられました。そしてその一割ほどの人が、再び故国の空を仰ぐことな、くシベリアの地に埋葬されているのです。

今度の旅行では、成田空港からシベリアへ飛ぶ機内でも、またハバロフスクに滞在したホテルでも、シベリア墓参団の人たちとご一緒になりました。男女半々ぐらい、私たちより少しお若い方々でした。亡くなられた抑留兵士たちの子供さんの代になっているのです。墓参団の方たちは、私たちがビキン川に行っている間に、お墓の整備をなさったのでした。

墓地の全体の様子は、4年前にSさんと訪れた時と変わっていません。ただ、今回はゆっくりだったので周りをよく見渡しました。

大きな木が鬱蒼と茂った森全体がハバロフスク市民の墓地になっています。道などほとんど整備されておらず、斜面のあちこちにぼちぼちと墓石が建っています。雰囲気的には高野山の墓苑に似ていますが、墓石の密度は疎ら、墓石も小さいのです。 訪れた日はちょうど何か特別の日らしく、入り口でお花など売っていて、全体としてかなり大きな墓地であることがわかりました。

墓

抑留兵士の墓 どんな物語があるのでしょうか

日本人抑留者の墓地は、墓苑のいわば入り口の一角を占め、ここだけ平らに整地されています。

包括的に、日本人墓地と書かれた石塔と木の柱が墓地中央に建てられています。

個人の名前の石塔が建てられているのはほんの数基、柵の近くの片隅に佇んでいます。その墓石のひとつを写真に撮りました。素人の関係者がカッターかなんかでなぞったのか、それとも遺族の方が書かれたお名前を、漢字に馴れないロシア人の石工が刻んだのでしょうか、思わず涙を誘われました。

ほかの殆どの日本兵のお墓は土葬の石の枠があり、日本語で名前が刻まれた金属プレートが打ち付けられていました。

ここに葬られている方々は300名とのこと、抑留され、過酷な労働を強いられ亡くなった多数の方たちのほんの一部なのでしょう。
まさに「異国の丘」で、帰国の日を待ち望みながら果たせなかった方々が眠っておられるのです。沢山のお墓の一列ごとに線香を捧げ黙祷しました。
    
   いまぞ佇つ異国の丘に露の墓


終わりに

最近、末から二人目の孫が、修学旅行に行ったからと、お土産を送ってくれました。彼自身の判断で買った、彼の人生の最初の買い物でしょう。可愛いものです。日光に行ったのだとのことです。
私は、1942年、もう73年も前、修学旅行に行ったことを思い出していました。

その頃、すでに第二次大戦に突入していました。総ては戦に勝つために動員され、日常の生活は切り詰められていました。

一年前までの小学校の修学旅行は、奈良・京都への一泊旅行でした。修学旅行というものは、小学生としては初めて家族と離れ友達たちと寝る機会です。夜、枕投げなどして騒いで先生を煩わせた話など、胸をワクワクさせて聞いていたものでした。

でも、私たちのときは、もうそんな悠長なことは許される状勢ではありませんでした。戦勝を祈願するという名目のもとに、伊勢神宮に日帰りする修学旅行となったのでした。電車の本数も減らされていましたから、席に座れずに、ずっと立ちっぱなしだった記憶があります。

時は移り、私たちの子供たちはみんな、ちゃんとした修学旅行に行くことができました。

そして孫たちに至っては、就職前旅行とかでヨーロッパまで足を伸ばしたぐらいです。

今の私はといえば現役を退いたあと、幸せなことに、やれ登山だ歴史だ地学だと気まま勝手な旅を楽しんでいるのです。

あと何回、こんな終学旅行が許されることでしようか。

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