題名:志賀高原スキー

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日付:2004/4/9


2004年3月、生あってまた志賀高原で滑ることができました。

ずっと毎年、スキーを続けているのですが、昨年はこの時期、ニュージーランドを旅行していてチャンスを逃してしまいました。

思い返すと、67歳のとき、常勤の仕事がすべてなくなりました。 それから数年は、勤めの関係で頻繁に使った会社の保養所は遠慮して、昔々に行ったことのある懐かしいスキー場を、順々に訪ねていました。

もちろんそんな旅行をすれば、ひとりで行くことになります。

赤倉、野沢、五竜遠見など、行く先がひと回りを過ぎると、誘ってくれる仲 間がいないため、ついついスキーからも足が遠退きかかっているのです。

自分からどんどん動いて予約をとりつけ、この停滞から脱出すればよいことは、頭では分かっているのです。ところがそれができないのが、年をとったと いうことらしいのです。

栄の地下街を通ったときに、思い切って、旅行社でスキー旅行のパンフレッ トをもらってきました。料金はバブルの頃から見ると、安くなっているようでした。でも、どれも最低2人単位の旅行になっていました。

後日、旅行社のカウンターに立ち寄り、様子を聞いてみました。

「 ウイークデイなら混んでいないでしょうから、1人でも泊めてもらえるでしょうか?」。係のお嬢さんがどこかへ電話をかけてくれました。

そして「一泊、3000円追加料金をいただけば、泊めると言っています が]とのことでした。 「それじゃ、考えてきます」と答えて帰ってきました。内心は、昔、みんなでよく泊まった白馬の旅館に電話し、無理を頼み込んでみようかと思っていま した。

その夜、山岳会の総会、新年会がありました。そのパーテイの席上、山友達のSzさんから志賀高原にスキーに行かないかと誘われたのでした。

2月29日、朝、名古屋で野暮用をすませ、多治見までjRでゆき、Oさんご夫妻が運転する車に拾ってもらい、志賀高原に向かいました。この車の、もう一人のメンバーはKtさんでした。こうして集まってみると、私たちは30年以 上も前に、火力発電所で一緒に働いていた仲間なのでした。

・春雨やオレンジ色の電車来る

高速道路ができた今は便利なものです。16時を少し回った頃、もう今夜の宿、志賀高原高天原にある、ある会社の保養所に着きました。

翌日、まず一ノ瀬ダイアモンドのリフトで上がり、焼額山スキー場に向かいました。

一行のリーダーはSgさんです。私と同じ昭和5年のお生まれですが、心身と もに私とは全然デキが違います。本式の山男で、スキーもすごくお上手なのです。

モリモリと食が太く、それでいてキリッと締まった体型なのです。お顔の色 もよく、まさに通りのよい血管の中を、フレッシュな血液が勢いよく流れているのが、目に見えるようなかたなのです。

奥様を名古屋に残したままにして、白馬乗鞍国際スキー場の近くに住まわ れ、夏は栂池自然園でガイドを勤めておられます。それで植物の名前にはめっぽう強いのです。住民票まで移され、すっかり地元に融け込んでおられるのです。

今回もここへこられる前に八方尾根でスキーの大会に参加されたのでした。

Sgさんにつき従う一行は、リフトを降りると、あっという間に霧の中に見え なくなってしまいました。

私は2年ぶりのスキーです。何はともあれ、おいてゆかれないようにと、へっぴり腰の大ボーゲンで後を追っていました。

しばらくは、こんなにしてついていましたが、あるゴンドラの頭でビデオを回しているSzさんと私が、本隊から、はぐれてしまいました。

奥志賀のゲレンデは、私にとって20年前、盛んに滑ったホームグランドです。何はともあれ、そこへ行ってみようと焼額山の頭に通じている連絡路へゆきました。ほぼ水平の道なので、ストックを突いて漕いでいました。すると、 いきなり左の靴が板から外れました。

前にも、滑っているときに、小さなショックで外れたことがありました。

さては再発したのか、どうもバネのセットが緩いようだ、今夜、ちゃんと整 備することとし、ここはともかく先へ行こうと考えました。ところが今回は、何度はめなおしても、簡単に外れてしまうのです。

落ち着け、落ち着けと自分に言い聞かせました。よく見ると、バネを止めて いるプラスチックが老化し、割れていることが分かりました。

このあと、あらかじめ決められた昼食場所まで行くのが大変でした。 普段なら、斜面をリフトに乗って上り、だんだん望む方角に滑り降りて移動するのです。ところが、スキーで滑られないとなると、バス道路を歩くしかありません。スキーをかついで、くるぶしが曲がらない、カチンカチンのプラス チックの靴を履いてヨチヨチ前進しました。

食堂では、みんなが昼食に来るのをMさんと待っていました。

Mさんも、昔は登山にスキーにと、勇名を轟かせたかたです。

農林省に勤めておられたとお聞きします。

名古屋に広い土地をお持ちで、それを数軒の病院に貸しておられ、グループの中で、ことあるごとに財閥、財閥と羨まれておられます。

ここ数年は脚に不安があって、スキーから遠ざかっておられました。でも、 お孫さんのスキーには付き合っておられるようですので、いずれ復帰されることでしょう。

写真の大家で、今回の旅でもチャンスを捉えては写真撮影に打ち込まれてい るのでした。

昼食後、Mさんの車に乗せていただき、高天原の保養所に帰り、そこで貸し スキーを借りました。

そして捲土重来、始めの計画通り、奥志賀スキー場に行って滑りました。焼額山頂上のゲレンデは、粉雪で雪質が良く、まるで腕が上がったようにスイス イ滑ることができました。

ここのダウンヒルコースの中頃には、狭くて急なところが一カ所あったのです。でも今回は、ほとんど気がつかないうちに通り過ぎてしまいました。

コースをブルドーザーで広げ、傾斜も緩くしてしまったようです。

昔は狭くて、みんながそこで短いピッチでターンするので、コブがひどく、とても滑りにくいところだったのですが。

そういえば有名な志賀高原ジャイアントコースも、昔と比べて、フラットで滑りやすくなっていました。昔はコブコブでカリカリに凍り、とても怖いところでした。

昔、ここで転んで青血になった私の腰を見て、娘がさもいたわしそうに、眉をひそめたことを昨日のように思い出しました。あのころまだ幼稚園にも入っていなかった娘が、いまはもう高校生の母親なのです。

保養所の管理人のご夫婦は、料理の腕自慢のようでした。毎食、毎食、趣向を変えては、美味しいものを食べさせてくださいました。

この保養所をお世話してくださったのは、Tさんです。

Tさんはその会社の偉い方です。ここの管理人さんの娘さんがまだヨチヨチ歩きの頃から、この保養所を使っておられたそうです。

今は、その娘さんのヨチヨチ歩きの子供さんが、Tさんをサンタのおじさん と呼んではなついているのです。だってTさんは美髭をたくわえておられるのですから。

Tさんは、ゴルフもシングル、スキーも今流のカービングスキーになってか ら、その正しい滑り方をシャカリキに追求しておられます。

Tさんの、出世する人が身につけている細かい気配りには、ただただ感心していました。

Tさんの奥様、そして関西の高槻からこられた奥様の友人も一緒に参加しておられました。旦那様のTさんは奥様に、みんなにお酒を注いで勧めなくっちゃと、何回 も、おっしゃいました。でも、そんな付け焼き刃が場違いに見えるほど、いかにも育ちの良いおっとりした奥様でした。

グループには、二人のKtさんがおられました。

お一人のKtさんは、印刷会社に勤めておられるときに、機械に挟まれ片腕をなくされたのです。

今回の帰路は名古屋まで、そのKtさんが運転する車に乗せていただいたのでした。スキーもバンバン滑られますし、ゴルフだって私よりはるかによいスコアで回られるのです。

Ktさんのお話を聞いていると、私の右腕か左腕のどちらかは、ミスショットをするために付いてるような気がしてきたぐらいです。

なにより、肉体的なハンデイをまったく気にせず、自然に振る舞っておられ るその精神力には、尊敬以外のなにものもありません。

もう一人のKtさんは、私の昔からの友達です。

火力発電所で一緒に働き、同じ社宅に住んでいたことがありました。

昔も、この志賀高原に一緒にスキーに来たことがありました。その帰りのバスの中で、Ktさんから、これからは海洋開発だ、スキンダイビングだと煽られ ました。

スキーの滑りにシュノーケルの潜りと、Ktさんがどんなに積極的な性格かがわかっていただけますね。

じつは、そのときのKtさんの話に刺激されて、私もスキンダイビングにトライしたのでした。紀伊長島で潜り、ウエットスーツを買いかかるところまでいったのです。

あのあと、もしも私が海辺の事業所に配属されていたら、モグラーになっていたかもしれません。たまたま転勤先が長野支店だったために、山屋になってしまったのですが。

Kjさんは、会社は同じですが、事務系の方です。昔、家内と社交ダンスを習っていた頃、ご一緒しました。

昔、MDが出始めた頃、私が最初に見たのがKjさんの持ちものでした。こん ども、ワイシャツの胸ポケットに入る超小型のデジカメを持ってこられました。何でもスット取り込む、素直で柔らかい頭脳を持っておられるのでしょう。

スキーには、昔もご一緒したことがありました。でも、今回伺いましたら、数年、中断しておられたようです。

なんでも、転倒して頭を打たれたのだそうです。こんどはヘルメットを冠っ て参加されました。

ヘルメット組は、Tさんご夫妻とこのKjさんのお三人でした。慎重なんですね。

でも、ちゃんと手を打ってチャレンジしておられるのですから、慎重かつ勇 敢というべきでしょう。

実は私も欲しいのですが、はたから私のやることを眺めていると、頭の芯まで石でできているとしか思えないはずです。もしもヘルメットなど買ったら、 ナンデ?と不振顔をされるのが心配ではたせないでいるのです。

Oさんは、ご夫婦で参加されました。

Oさんとは、うんと若い頃、やはり火力発電所で一緒に働いていました。

もともと技術屋なのですが、会社のPR館の次長を勤められたり、営業の仕事をなさったり、幅の広い方なのです。

いまは、第2のお勤めです。いろいろお話を伺いましたが、会社の家来になる人ではないとお見受けしました。

今回の旅行の3日目は、Oさんの奥さんのお誕生日でした。

夕食のときに、誕生祝いをして、奥さんを驚かそうと、みんなで密かに企みました。

旦那さんは、午後、一行から抜け出し、志賀高原を降り、信州中野の町まで ケーキを買いにゆかれました。旦那さんがスキー場にいなくなったことに気づいた奥さんは、どこに行ったのかしらと心配されました。

お茶目なSzさんは小指を立てて「これじゃないかね」、そんなカラカイかたをされたのでした。

夕食のテーブルに着くとき、みんながお祝いの体勢であることに気がついた 奥さんは、すっかり照れてしまわれました。

ともかく、無理やり真ん中の椅子に座らせ、みんなでハピー・バースデーを歌ったのです。 「誕生日を祝ってもらうなんて、生まれて始めてです」。奥さんも、そうおっしゃって、結局は喜んでおられました。

私はこの誕生祝いの行事が、今度集まった人たちの生き方の根底に流れているムードを象徴しているのだと感じました。

人生で意味があるのは、人を喜ばせ、自分も楽しむことではないでしょう か。

3月の声を聞いても、志賀高原はマイナス10度ぐらいに冷え込みます。

熟年の身で、好き好んでこんな厳しい環境を訪ねるスポーツマンたちは、こ んなにして楽しみを作ることも上手なのだと感心しました。

・雪女誕生日には杯過ごす

今回のメンバーの皆さんについて、いろいろ書いてきました。

ここまで書いてきて「誰か忘れちゃいませんか」と、叱られそうな気がしています。

Szさんです。そう、私を誘ってくれたSzさんです。

Szさんは、体も心も大きな人です。

斜に構えたりしないで、テレビの朝ドラも大河ドラマも、おれは見てるよと公言されます。 ある夜「NHKの番組、プロジェクトXをぜひ見たい、でも、いつも途中で、ついうとうと眠ってしまい、ちゃんと見られない。大坪さん、あんたはいつも堅苦しく正座しているので、つい緊張してしまう。今夜は、あんたの部屋のテ レビで見させてください」そう言って私たちの部屋にこられたのです。

お陰さまで、わたしも、今まで見たことがなかったプロジェクトXという番組を、じっくり楽しむことができました。

こんなエピソードをご紹介したのも、Szさんが、ばらばらの個人を結びつけてグループにまとめる、不思議な魅力の持ち主であることをわかって頂きたいからなのです。

Szさんは、来る4月から、地元の町内会長を務められるのだそうです。

今回の旅行を通じて、ご本人も周りのひとたちも、その町内会長就任を種に、さんざん軽口を楽しませてもらったのでした。

3日目は、寺小屋山の頭で、何本か滑りました。この午前は、宿舎の娘さんが同行して、華麗な滑りを見せてくれました。

彼女はデモンストレーター・クラスなのです。じつに安定して滑るのにただ ただ口をあんぐりさせて見とれていました。

雪質の良いところで滑るのは楽しいことです。思うようにスイスイ弧を描くことができます。寺小屋山の頭は標高が高く、ゲレンデは粉雪でした。私たち は、ここでしばらく遊んでいました。

東館山から林間コースを下ると、いきなりブナ平のゲレンデにでました。

私がスキーを始めたのは幼稚園のときでした。当時、名古屋にはスキーなどする人は殆どいませんでした。そのため、その後、学校や職場の仲間たちでスキーに行っても、自分が初心者だと思った記憶はないのです。

でも、こうしてブナ平の緩斜面に立ってみると、昔の自分は、今と較べるとまだまだ初心者だったなと思い出されるのでした。

もう年を取って、体力やバランス感覚は、争いようもなく低下しています。 でも、昔の自分を初心者だったと感ずるほど、技術面では向上している意識はあるのです。

こんなところが、スキーの醍醐味でありましょう。

河原小屋の食堂で昼飯をすませました。

このあと、なんとなしにグループはバラバラになりました。

ちょうど、ジャイアンツ・ゲレンデの半分を使って、回転競技が行われてい ました。「午後は、あれを見てイメージ・トレーニングだね」だれかがそう言ったと思いました。

わたしは、ジャイアンツを一本滑って、奥志賀のゲレンデにゆきました。

やっぱりホームグラウンドに惹かれるのです。行ってみると、そこは閑散のひとことでした。

奥志賀は、数ある志賀高原スキー場群の、一番奥に位置しています。

バブルの崩壊、若年層の減少を受けて、スキー人口が減っているとは聞いていました。おまけにこの日はウイークデイでした。でも、そのゲレンデの閑散ぶりには改めてびっくりしてしまいました。

3日間を通じて、リフトに乗るのに列を作って待ったのは、ある朝、宿舎を出てきた中学生の団体とかち合った、たった一回だけでした。

最後の日には、朝、宿をチェックアウトし、横手山で滑りました。

この日借りたスキーは、いわゆるカービングスキーでした。スキー板の横の線が、中央で細くなるようにカーブを描いているのです。

この形だと、回転のときに前と後ろの部分が、雪面を強く捉えることになります。

昔は、この作用をスキー板の中央が浮くように曲げたベンドで行わせていた のです。私の古いスキーは、ベンドがへたってしまっていました。でも、劣化が毎年段々に進行してきたので、あまり気がつきませんでした。

ともかく、カービングスキーを履くのは、今回が始めてでした。

まことに快適でした。この日は、雪質も良かったのです。

長年、したいと思っていた滑りが、いともたやすくできたのです。

他の人が私の滑りを見ていて、なんと言うかは知りません。でも、私自身は 肩の線を進行方向に直角にキープしたまま、体重の僅かな移動だけでスイスイと曲がりながら滑り降りている気分でした。

・神仙も滑るや尾根に雪煙

帰り道のどこかで、だれかに「大坪さんは、山でも単独行が多いのですか」 とご質問を受けました。そう聞かれることはよくありますから「みんなと一緒に行くほうが好きなのです。でも、都合や天気が合わなかったりして、日本百名山も、後で数えたら半分ぐらい単独でした」とお答えしました。

でも、考えてみると、今回、みんながグループで行動しているのに、私だけがときどき外れてしまい、勝手気ままなやつだと思われていたのかしらと反省しているのです。

たしかに私にはベースとして、勝手気ままが好きな性向があります。アルプスのモンブランやハワイのマウナ・ロアへ1人で行ったことは、やはり変人といわれてもしかたないでしょう。

でも今回は、心ならずもはぐれてしまったのです。

一回は、選手たちの回転競技を皆さんと一緒に見ていて自分の滑りの参考に するよりも、自分で1本でも余分に滑りたいと思って、滑りに行ってしまったのでした。そのあと皆さんを見つけられなかったのです。

もう一回は、皆さんが準備している間に1本余分に滑ろうと、目の前にきた 空いたリフトに飛び乗ってしまったのです。ところが、その横手山第一リフトが意外に遅くて長かったのです。9分29秒もイライラしながらぶら下がっていたため、はぐれてしまったのでした。

私も若い頃は、四六時中、協調、協調のお勤めでした。どんなときでも、団体行動を優先させていたと、本人は思っているのです。

でも、老い先が短くなると、どうしても我意に負けてしまうのですね。

老人の我が儘というわけです。

それを反省もせずに、言い訳する、それどころか理屈を付けて正当化を試みる、そんなところがまったく許せません。

自分でも分かってはいるのですが。

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