グレイシャー国立公園・オリンピック国立公園
(2016/8/29〜9/8)

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2016年8月29日

成田空港の昼下がり、今回の旅のメンバー女性3人、男性4人が顔を揃えました。

シアトルで乗り継ぎ、グレーシャー空港まで飛びました。

この日は 大型バンをレンタカーして、夕刻、 ハングリー・ホースにあるモーテルまで入りました。

今回の旅では、アメリカ・ワシントン州シアトルの東、約950kmにあるグレーシャー国立公園と、同じくシアトルから150kmほど西にあたるオリンピック国立公園を訪ねたのです。

 

アメリカの秋の日和をぶっ飛ばす

8月30日

大人気の駐車場は早く入らないと満杯になってしまうとのことで、 各自朝食をすませ7時30分スタートです。

針葉樹林の間から美しいレイク・マクドナルドを眺めながらゴーイング・トウ・ザ・サン・ロードを東進します。山腹に刻まれたトラバース気味の道路の標高差約1000mを一気に登りきるとローガン・パスの駐車場、標高2026mです。ここは、岩壁にほぼ水平な縞模様が入った山々に取り囲まれています。

歩き始め

ローガン峠から出発

 

まずヒドゥン・レイク・オーバー・ルックを訪ねました。木道から始まる広い緩やかなトレッキング道路が導いてくれます。右手間近ににクレメント山(2670m)がそそり立っています。両側に広がるお花畑に目を奪われながら展望台に着きました。

これから毎日眺めることになる、森と泉が織りなす絶景との最初の出会いです。私は絶景のほかにも、足元の岩を見ていました。何億年かの昔、浅い水底に刻まれたさざなみの姿をそのまま残しているリップル・マーク(漣痕)がある赤っぽい砂岩を、大勢の人が事もなげに踏んでいました。

ジリスが餌をねだりに出てきては、胸の前に両手を合わせる可愛い仕草をしていまし

 

た。シロイワヤギも姿を見せてくれました。彼は訳知りで、道路際の岩角に立ち、バックにクレメント山が入る絶好のポジションで観光客にポーズをとってみせました。

ヤギくん

クレメント山とシロイワヤギ

 

午後、もう一つトレッキングを楽しんだあと、さらに車で東進し、セント・メアリーまで行き泊まりました。

途中、大規模な山火事の跡がありました。でも、山火事の跡はここ一箇所だけで、先年訪れたイエローストーンで見た、ここもかしこも山火事跡という風景とは全く別でした。

降水量は場所により、また季節により大きく異なるので、単純な比較は意味が薄いと思いますが、ウィキペディアで見つけた数字では、約600km南にあるイエローストーンの年間降雨量500mmに対して、ここグレーシャーでは年間約2000mmと4倍も多いようです。

ロッキーは山羊ポーズとる花野かな

 

8月31日

朝、まず北上し、次いで西に戻り、再度、国立公園に入ります。この辺りはメニイ・グレイシャーという名の土地なのです。

先日のハングリー・ホースといい、ここのメニイ・グレーシャーといい、18世紀末に、初めて文字を持った人たちが入ってきて、地名をつけた様子が何となく偲ばれます。

私たちはここで、スイフト・カレント・レイクとレイク・ジョセフィーヌというふたつの湖の湖畔歩道をトレッキングしました。

この地方の、湖と秀峰の組合せが絶好なビューポイントに、1910年台に作られた名門ホテルがあります。そして格好良い定期観光船が運行されています。湖畔に何箇所か船着き場がありますから、ビジターは体力に応じた距離のウオーキングが楽しめるようになっています。

さすがロッキーです。湖も広いしそれに映っている山も巨大です。そして 真っ直ぐ天を指している針葉樹の森が、静かな湖面に天地対称に影を映しています。その広がりはまさに果しがありません。

メニ湖グレーシャー

山と湖

 

この辺りの山肌には、上下に隣り合った白と暗色の地層がよく目立ち、山塊同士の関連を証明する鍵層になっています。その山肌の縞目は、ここメニイ・グレーシャーでは約10度ほど傾いています。今回の全行程で見た山塊の堆積面は、どこもほとんど水平でしたから、今見ている場所と、よその場所との間に断層があるに違いありません。

この谷の一番奥に、氷河後退の指標になっているサラマンダー氷河が望見されました。地球温暖化により氷河が縮小してゆく様子が、1938年から2013年まで、5枚の写真で解説されていました。

ウィキペディアでの情報によれば、シアトル辺りは、氷河時代の最盛時、現在から約2万年前には1000mほどの厚さの氷に覆われていたといわれます。

南極のドームふじという地点は、氷の厚さが約3000mあるとのことです。 現在ボーリングを行い、約100万年前までの氷を取り出し過去の気候変動を調べる研究が進んでいます。この南極の地点では、とても人類が普通に生活できる環境ではありません。

人類がアジアからベーリング海峡を経てアメリカ大陸に渡ったのは、温暖化が始まった直後の、今から1万4千年ほど前のことだといわれます。度を過ぎた低温は人類と相性がよくありません。

ロッキー巨峰群秋暮

ロッキー巨峰群秋暮

 

ここグレーシャーの辺りは北緯50度に近く、旧樺太のソ連との国境線と同じぐらい高緯度です。標高からも元来気温の低い土地です。温暖化はここに限れば、むしろメリットなのだろうと思いました。

この日は、マクドナルド湖の末端、アプガーというリゾートに泊まりました。夕暮れも翌日の夜明けも、レイク・マクドナルドの鏡のような湖面にロッキーの巨峰群が影を映し、得も言われぬ絶景でした。

湖岸は赤、白、緑の円礫に敷き詰められ、ひたひたと湖水に洗われていました。日本なら五色ヶ浜とでも名付けられることでしょう。グレーシャー国立公園内は、どこもかしこも景色の良い地域です。その中でも特に最高の場所を選んでリゾート施設を作ってあります。ゆったりと広いこの国を羨ましく思いました。

獺の夫婦まったり秋の暮

 

ここまで私としては淡々と普通の紀行文らしく書いてきたつもりです。読んでくださって、いかがお感じでしたでしょうか。

でも、とうとう例の知ったかぶりの屁理屈を捏ね回したい誘惑に耐えられなくなったのです。以下、ゴタゴタした部分が出てきます。そこは読み飛ばして下さい。ひょっとすると、全部がそれだとお感じになるかもしれませんが。

さて、グレーシャー国立公園は、ロッキー山脈のアメリカ本土の北端、カナダと国境を接する位置にあります。

ロッキー山脈は北アメリカ大陸の西部を、南北ほぼ4000kmにわたり走っている大山脈です。最高峰は4401mのエルバート山です。ここグレーシャー国立公園は、私がかって訪れたカナダのバンフやジャスパーからは約500km南、またイエローストーンからは約600km北、いずれもロッキー山脈の一部分なのです。

峰々の岩壁に見られる、ほぼ水平の縞模様がとても美しいのです。

岩壁の縞模様といえば、グランド・キャニオンでは、深い谷の岩壁の縞模様が見どころになっていることはご存知でしょう。その岩壁の縞模様について、ウィキペディアでちらちら見たところでは、グレーシャーでもグランド・キャニオンと地質学的に似た点が多いようです。例えば、目にする縞模様の最下部の岩の層は先カンブリア紀、上の部分はペルム紀の堆積岩、また地域全体が隆起を始めたのは7000万年前などの点で同じのようです。

もともと堆積岩が出来るメカニズムは、次の3点が基本です。

(1)地上の凸部は風化や侵食で削られる(2)その岩の削り屑は、動く水、つまり川によって低い方に運ばれる(3)水が停まった所、すなわち湖や海の底で固形物が下に沈んで貯まる。

ある時期には、似たような砂や泥が、水底にある厚さまで貯まり層を作ります。

リップルマーク

リップルマーク・漣痕(水底砂層の化石)

 

削られる土砂の原料が変わったり、空中の酸素の多寡のように環境が変わると、堆積物は、それぞれ別の色の層として貯まります。その堆積物は長い年月のうちに圧力や熱を受けて固い岩石になり、断層運動とか侵食により側面を人目に晒し、縞目として見られているのです。

グランドキャニオンでは現在の地表から1700mほど下の、現在コロラド川が流れている地点が20億年前に水底に貯まった層です。それから上に向かってその後の年代ごとに水底に沈んだ、いろいろの色の岩の層が連続して積み重なっています。

ところが15億年前の地層の上が、年代的に連続していないのです。いきなり5億年前の地層になっています。これは15億年前にこの地域が隆起し水面上に出てしまい、10億年のあいだは、貯まる側から削られる側になっていたのです。そして5億年前に再び水面下に沈み堆積が再開されたのです。現在、観光客が立っている地点は2.3億年まえの地層ですから、その時点でまた隆起し、水面上に出てしまっていることになります。

 

グレーシャー国立公園とグランドキャニオン国立公園との距離は1000kmを越します。岩壁の縞模様の成因は、両者、原理的には同じに違いありません。グレーシャーについては、岩石は古いものが16億年、新しいものは8億年という記事を見つけました。この国立公園の標高970mのレイク・マクドナルドから標高2670mのクレメント山頂上までの標高差1700mを、グランドキャニオンと一緒に考えて良いものでしょうか。

えらそうに書いていますが、全部ウィキペディアからの受け売りです。そんなことを私が知ってみたとて、世に益するところ皆無であります。でも、私としては知りたいのです。

これが好奇心というものなのでしょう。そういえばわが家の犬も好奇心の固まりなのです。なにせ散歩に連れて出ようものなら、拾い食いのチャンピオンなのです。

 

9月1日

この日はオリンピック国立公園への移動日です。シアトルまでは、来たときと同じ6枚羽根のターボプロップ機が運んでくれました。シアトルの空港では長い列に並び、バスで15分ほどもかかるレンタカー・デポへ運ばれ、例の大型バンを借りました。その後北上し、シアトル市街に入る手前でフェリーに乗り、西へオリンピック半島に渡ります。シアトル周辺は島が多く、また入江もあります。これらは、勿論、道路や橋で繋がれてはいますが、ワシントン州フェリーが 10 路線も運行され、時間短縮が図られています。

オリンピック国立公園の観光ベースとなる宿泊地ポート・エンジェルズの大きなスーパーで、翌日の昼食を仕込み、モーテルに入りました。

 

現地で我々一行7人はずっとレンタカーで行動しました。

グレイシャーで借りた車はシボレー、オリンピックではフォードでした。

どちらも、最前列に運転者と助手席、その後ろに3人掛けのシートが3列ありました。なんでも荷物の多い我々のため最後尾の席は外してくれたとのことですから、もっと乗れるわけです。ともかく日本じゃ見かけない、大型バンでありました。

私は車のことに詳しくはありませんし、借りた車の年式を聞いてみたわけでもありませんから、メーカーの優劣についてあれこれいう気持ちはありません。

でも、シボレーのものはシートベルトが細い紐でボデイと結ばれ、出入りに結構邪魔でした。また乗り降りのステップの段が高く、クライミング気味に活を入れることが必要でした。

アメリカの道路では、何度も、珍しい、大きな3輪のバイクを見かけました。私達が見たのは皆ホンダ製でした。富岡さんがテキサスでホンダが作っているんだと教えて下さいました。

同宿の二組の米人ご夫婦が、その3輪バイクで旅行しておられました。宿の庭で、それぞれの愛車に、一日の労をいたわるようにワックスがけをしていました。

じっくりと見せてもらいました。 前後二人乗りです。 カーナビは勿論、ヘルメットに仕込んだワイヤレスヘッドセットとか、まあ見たこともない多種多様なアクセサリーが付いていました。そう、どちらのご夫婦とも、相当のご年配、かつご裕福なご様子でした。

帰国してからウィキペディアで調べてみました。3輪バイクのことは「Trike  トライク」というのだそうです。ネットの写真で見る日本のものは、アメリカで見た神々しいまでの美しいものとは似てもにつきません。やはりまだ日本では市民権を得ていませんものね。でも、ある値段表に800万円とありましたからスッゴイ贅沢なものなのでしょう。

そういえば、昔、カッコいい人達が乗っていた、屋根を畳むコンバーチブル車を今回は見かけませんでした。昔のコンバーチブル族が、今ではトライク族になっているのかもしれません。

三輪バイク

デラックスな三輪バイク、トライク

 

勿論、道路を走っている車は、台数では断然、普通乗用車が多いのです。普通乗用車は日本、韓国、欧州製のものが多く、アメリカの国産車は少数派のようでした。

日本でしたら、乗用としては普通の乗用車とマイクロバスで殆どの用を足していますが、アメリカでは随分変わった車、それも大きくて頑丈そうなのが結構幅を利かせています。日本の軽自動車に当たる分が、アメリカでは大きくて馬力の強い重自動車になっていると言えるかもしれません。農場での作業を兼ねたり、またホビーとして楽しんでいるのかと思いました。

アメリカの車社会を見ていて、アメリカの豊かさと、強い自由の風土を見たように感じているのです。

もともと個人の自由と、格差の解消とは、どちらも大切ですが、またお互いに相反する概念でもあります。両者の間のどの点にバランスを求めるかは国によって色々です。

縄文時代のような狩猟採集に頼っている全員が極貧の社会では、格差の生じようもありません。現在、日本もアメリカも地球上で最も豊かな国であります。日本は世界の中でも、和を尊ぶ、格差が際立って少ない国だと思います。アメリカは旧世界の桎梏から逃れ建国された精神からして、大変に自由を尊ぶ国です。

 

 

9月2日

このモーテルはサービスで朝食が付いていました。玄関受付のスペースに用意されています。

ジュース、コーヒー、トースト、りんご、そしてたんぱく質としてミルクとヨーグルトを食べました。こんな簡単な朝食でも文句を言わずにすましているアメリカ人を私は好きです。

この日、まずハリケーン・ヒルを目指します。車で標高約1500mまで登って駐車、そこから標高1750mのピークまで、広いしっかりした登山道を登りました。

朝、下界は晴れでしたが、山中ではガスに巻かれ、お目当てのオリンピア山(2427m)は見えずじまいでした。

中腹までは針葉樹林ですが、上部は谷間など気象条件の許すところ以外は、一面の草地になっています。なにせ寒くて、車の中で昼飯をすませました。

 

山の名を看板に追う霧の海

 

斎藤さんがオリンピック半島の名前の由来を教えてくださいました。ちなみにリオ・オリンピックは、先日終わったばかりです。

18世紀末、イギリスの船乗りがこの沖合にやってきました。そして半島中央にそそり立つ美しい山を望見しました。それがギリシャのオリンポス山を思い出させたのだそうです。クーベルタン男爵の主唱により近代オリンピックが始まったのが1896年、こちらのオリンピック半島の命名のほうが老舗なんだよとのことです。

本家のギリシャのオリンポス山は標高2917m,実はオリンポスという名の山は火星にもあってこちらの標高は25000mとのことです。

午後、レイク・クレセントに寄りました。湖水が極端な貧栄養だとか、見たことがないほど、湖水が透明でした。

 

氷河湖や透きとおるさま恐ろしき

 

9月3日

午前、ホー・レイン・フォレストを訪ねました。

ここはガイドブックには、シアトルのような高緯度のところにある温帯雨林であると、物珍しそうに書かれています。ジャングル、スコールという言葉から熱帯雨林を連想させ、それがこんな寒いところにもあると珍しがらせている観があります。でも、もともと温帯というのは熱帯、寒帯に対する概念で、緯度ではなくて気温と降雨量で定義されています。それに適合しさえすれば北緯60度でも温帯なのです。言ってみれば日本の殆どの原生林は、温帯雨林なのです。

ここのレイン・フォレストが特に持て囃されるのは、コケの茂り方がずば抜けている点でしょう。

車が国道101号線から別れ、谷に入ったときから、森全体にぼやっとコケがついているのがわかりました。さらに約30kmほど奥に入ったビジターセンターの辺りは、もうコケだらけ、まるで異次元の世界のような雰囲気でした。

苔

温帯雨林・苔の森

 

ループになった観察用のトレイルがふたつあります。こんな木漏れ日の景色は写真にとっても、目で見たのとは全然ちがうと思いながらも、誘惑に駆られ絶えずシャッターを押しながら徘徊しました。

コケの森としての雰囲気は、ニュージーランドのミルフォード・トラックとよく似ています。でも 森を形成している木が 、ミルフォードではアカブナな どの中高木でしたが、ここではシダー、スプルース、ファー、ヘムロックと呼ばれる針葉高木樹類なのです。これらはスギ、ツガ、モミなどの類なのです。そしてここの原生林では、真っ直ぐ天を突くように伸びて森を形成しています。

私はコケもさることながら、この巨木群に心を奪われ、ビジターセンターで一番高いのは何メートルかとわざわざ訊ねてみました。パンフレットを呉れました。281フィートのダグラスファーというのが出ていました。高さだけでなく幹の太さ、葉の茂りを勘案した総合点なども記載してありました。

こことミルフォードとを比較してみました。緯度、オリンピック北緯48度、ミルフォード南緯44度、最高気温、オリンピック24度、ミルフォード19度、最低温度、オリンピック2度、ミルフォード1度、年間降雨量、オリンピック3393mm、ミルフォード6700mm。ちなみに年間降雨量は、東京1405mm、尾鷲4001mmです。世界の何処かには、まだ有名になっていないコケの森がありはしないかと思いませんか。

 

秋の日が潜り込み得し苔の森

 

この日の午後は、まずリアルト海岸に行きました。

三井さんの旅行グループは、予めメンバーに番号をつけておいて、半日ごとに車の座席をローテーションすることになっています。公平、明瞭で気持ちのよいシステムです。

この日の午後、ちょうど私が助手席に座ることになりました。助手席は視野が広くて結構なのですが、重い義務もあります。ナビゲーションとドライバーの目覚まし役です。 森の中の陽溜りでピクニックランチをすませた後です。わざわざ、ドライバーの山田さんから私に、国道からリアルトへ入る脇道に注意しているようにと言われ、地図まで渡されました。

神妙に、RIALTO、リアルトと口の中で繰り返していました。

でもハット気がつくと、車が止まっています。T字路なのです。照れ隠しに「この辺でしょうか」と言ってみました。でも、実は全然違ったのです。出発してから未だ幾らも走ってない、国道への入り口だったのです。どうも車輪が回りだして間もなく、私は眠ってしまったようでした。

こんな頼りないナビゲーターですが、名ドライバー山田さんのおかげで、無事リアルト海岸に到着しました。山田さんはまだお若いとはいいながら、あんなトレッキング、そしてランチのあと、よくも眠らないで安全運転ができるものです。つくづく感心させられました。私など若かった最盛期でも、とてもできなかったグレイト・パフォーマンスです。

リアルト・ビーチは太平洋に直接面した海岸です。抜けるような好天、光る海原に崖の切り立った小島が浮かんでいました。

ここで度肝を抜かれたのは、打ち上げられた流木の帯です。伊勢神宮の鳥居よりももっと巨大な流木が延々と浜を埋め尽くしていました。アメリカ人たちはずっと先まで歩いて見に行っているようでしたが、我々は、さすがアメリカ大陸、さすが太平洋と、膨大な流木帯の取っ掛かりでもう呆れ返り引き返してしまいました。

 

何処よりか巨大流木秋の潮

 

流木

流木の帯

 

 

9月4日

今日はシアトル空港まで帰る日です。ポート・エンジェルスから101号線を東に進みます。一昨日からこの101号線のお世話になっているのです。ときどき片側一車線のしょぼい様子になったりするものですから、実は州道なのに、高名な101号を名乗っているのかとも思っていました。でも、これは真正真明の〈US 101〉だったのです。

アメリカの国道1号線、US Route1は東海岸を北はメイン州から南のフロリダ州まで、ボストン、ニューヨーク、ワシントンなどの主要都市を経由して走っています。

それに対抗するように、西海岸ではワシントン州からカルフォルニア州までサンフランシスコ、ロスアンゼルスを経過しUS Route 101(ワンノーワンと発音する)が走っています。

今回訪れたオリンピック半島はその最北端なのでした。ここまで北上してきた〈ワンノーワン〉は半島の北端で東に変針、そしてまた行き詰まりで南下し、遂にはワシントン州の州都オリンピア市でその旅路を終わっているのでした。

60年前、私はロスアンゼルスからサンフランシスコまでグレイハウンドのバスに乗り、この〈ワンノーワン〉を通ったことがありました。その頃まる一年、ニューヨーク州に住んでいてルートワンを散々走った身には、ワンノーワンは日本に帰る道すがらどうしても通ってみたい道だったのです。

 

オリンピック半島の森林は、日本では見られない雄大な森林に覆われています。日本の観念からすると、ほぼ無限と感じられるほど広大です。

昨日訪れた流木の浜でも、太平洋の波打ち際から20mほどのところまで密生した針葉樹林が押し寄せていました。

60年前、下宿のおばあさんにくっついて教会へゆきました。牧師さんは敗戦国から来た心細げな若者に「私はシアトルに住んでいた。シアトルではフォレストのウッドを伐り、ラムバーを積んだ舟が盛んに日本に向かったものだ」と親近感を演出してくれました。その時は、フォレストとウッドは分かりましたが、ラムバーが分からず仕舞いでした。なにせ私たちは中学3年生から学校へは行かず、工場で戦闘機を造っていたのですから。勉強など禄にしていないのです。

あの頃、同じ会社の若者がニューヨークに5人派遣されていました。今、残っているのは私のほか、もう一人だけです。予期せぬ〈ワンノーワン〉との出会いに、頻りに懐旧の念に浸っていたのです。

オリンピック半島のブレイン・ブリッジからフェリーに乗船します。

フェリーはシアトル港の52埠頭に到着しました。市の中心部へ直付けの感じです。

 

みなさんは街中で散策・ショッピングを楽しまれました。私は別行動で、航空博物館の見学に行きました。

フェリー入港

シアトルへフェリー入港

 

航空博物館へは市バスで30分ほどかかります。運転手に「シニアか?」と聞かれました。「パーフェクト・シニアだ」と答えました。普通料金は2.5ドルなのですが、シ

ニアなら1ドルなのです。86歳の私がシニアに見えない訳はなく、一瞬、お世辞を言ってくれたのかなと思いました。でも、考えてみれば彼は私に親切にサービスしたいと思い、そして服務規程では質問を投げかけ返事で確認せよと決められているのでしょう。

シアトル市とシータック国際空港のほぼ中間に、通称ボーイング・フィールドと呼ばれる別の飛行場があり、航空博物館はその片隅にありました。

この場所で1916年、ボーイング社が産声を上げたのでした。今年は丁度、100週年、あちこちに100と書いた幟が立っていました。

新古、大小、ありとあらゆる航空機が展示されていました。

初期の飛行機は木組みに布を貼ったものです。小学生の頃、竹ひごをローソクで熱して曲げた翼に雁皮紙を貼っていたことを思い出してしまいました。初期のボーイングの工場はまるで障子の桟でも作っているような雰囲気です。

最新の物件としては、スペースシャトルまで展示してありました。

双発で乗客30人のDC3旅客機までは、屋内に天井からぶら下げられていました。それより大きなものは、さすがに屋外で展示されています。

航空博物館については、いろいろ書き出すと限りがありませんし、特に航空に関心のある方以外には退屈でしょうから、ひとつだけ印象的だったことを書いておきます。

 

入り口左に世界大戦のメモリーというホールがあります。

入るとすぐ第二次世界大戦開戦当時の戦闘機群が迎えています。最初にイギリスのスーパーマリン・スピットファイアがいます。3万機以上生産され、バトル・オブ・ブリテンを勝ち抜き、ヒットラーの英本土上陸計画を断念させた立役者です。左には当時世界最高速であったドイツのメッサーシュミットMe109が展示されています。それに対面してアメリカのカーチスホークP40、これは当時でもやや古くて性能が低く、ゼロ戦などに苦戦した機種です。でも流石にアメリカです、生産数は13000機にのぼり、次世代機の出現まで繋いだ機種です。

それに続く展示では、主翼が3段積みになった第一次世界大戦で戦った連中が、敵味方何種類もありました。

 

そしてぐるっと回った最後の出口に、第二次世界大戦のエース戦闘機、最後のプロペラ機となったノースアメリカンP-51が飾ってありました。このP-51こそ、私にとっては実際に機銃掃射を受けた敵機なのです。

途中、囲いのあるコーナーで映画が上映されていました。丁度疲れていたので座って休みながら観ました。

映画は第一次世界大戦での死闘、その後のヒットラーとナチの台頭、イタリアのムッソリーニ指導のファッショ化、日本の大陸への侵略、連合国軍の猛攻、そして原爆投下による平和の回復、タイムズスクエアでの群衆の歓喜の嵐と、まさにそうかそうかと一筋のストーリーで進行し、些かの躊躇もありません。戦いに勝つということは、こういうことなのだと思わされました。

三葉機

第一次世界大戦時代の三葉機

 

悪魔役の主役はドイツ、映画全体のまず80%まではドイツの非行をこれまでかこれまでかと暴いていました。

日本に関連する分は少なく、中國人を目隠しして処刑する場面、昭和天皇が馬上で閲兵しているシーン、神風特攻攻撃、沖縄戦、そして広島の原爆投下などが出てきただけでした。

そういえば展示品にも、日本のものとしては隼戦闘機が1機だけだったと思います。

そしてなにより印象的だったのは、この映画をアメリカ人は誰ひとりとして見ないのです。20人分ほどの席のあるこのコーナーに、日本から来たお爺さん、つまり私一人だけがずっと観ていたのでした。

 

秋天下大統領機そらの色

 

9月5日

シアトルを12時過ぎに飛び立ち、成田へ向かいました。10時間強のフライトですが途中、日付変更線を通過するので、成田への到着は日本時間の9月6日の昼過ぎになります。

往復とも、成田とシアトル間のフライトはジャンボ機,シアトルとグレイシャー間はボンバルディアのターボプロップ機でした。

帰りのジャンボ機の席では007の映画「スカイフォール」を観ていました。

映画の中では、007が重傷を負いながらも奇跡的に助かり、再び仕事に復帰します。ピストル射撃の命中率も悪くなり、体力検査も芳しくなくて不合格の判定なのに、例の笑顔を見せないM16の女性ボスが総体的な判断から敢えて復帰を認めたのです。

そんな007に対して、政府保安当局の要人がこうコメントします。

「007,君は人生を誤った。名誉の負傷の結果として、赫々たる栄光の中の引退を選択するべきだった。復帰したばかりに、だんだん老いてゆき無能力を嘲られ恥多き終末を迎える結果になるのが目に見えてる」。

脚を引きずりながら歩き、上り坂になると急に速度が鈍る今の私も、周囲からそんな目で見られているのかしらと、とても重い気持ちになったのでした。

でも、世の中には色々の考えを持った人がいるのです。ましてや警察の旦那たちは、シャーロック・ホームズにおけるレストレード警部、ルパンに対するガニマール警部のように頭の固い人種として描かれているのです。そんな人種の批判に対して、なにもそう気にすることはないかもしれません。

そして最終的には他人がなんと言おうが、自分は自分なのです。

今少し、周りの方々にご迷惑をお掛けしながら、やりたいことをやろうと思っています。

 

9月6日

昼下がり、成田空港の荷物受け取りのターンテーブルで流れ解散しました。

旅の始まりから終わりまで、みんな、一言も文句を言うこともなく、実に合理的な楽しい仲間でした。

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