三国志 諸葛孔明 北伐の道を訪ねて


三国志 諸葛孔明 北伐の道を訪ねて

(2013/12/28~2014/1/5)

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この旅は普通のパックツアーではなくて、日本ユースホステルの特別企画なのです。

ユースホステル企画の旅としては、私は過去に、厳冬期のロシア、タクラマカン砂漠と2回参加しています。これらは、どちらも毛色の変わったツアーでした。そして、どちらの旅にも強い印象を受けました。現地を自分の目で見ることの大事さを痛感させられた、貴重な経験だったと思っています。


今回は三国志の旅だったのですから、非常に沢山の史跡を訪ねました。でも、それらをいちいち紹介することは、たとえば四国八十八箇所めぐりのお寺について、お寺の縁起など逐一説くようなものだと思うのです。特別に関心がなければ、みな同じに見えることでしょう。

写真1
写真2

〈各所とも外観はこの様に 内部はこの様に 人物だけが色々と変わっている〉

そこで、上に典型的な写真をお見せし、あとは一切パスすることにします。

そして旅程の前後関係など一切無関係に、あちこちで感じたことを、多少その雑感の傾向気味に集めるスタイルで纏めてみました。


いまどきの中國旅行参加者考

三国志シリーズは3年前から始まっていて、今回で最終回になるのだそうです。今回のメンバーは女2名、男5名の小じんまりしたパーティーでした。 私と、もう一人が初参加で、あとの5人はレピーター、すでにお互い気心の知れた仲間と見受けられました。


尖閣諸島、防空識別圏、靖国参拝と難題の続く今、ほとんど敵国もどきの中國へ旅行するなんてどんな奴だろう,だれでもそう思うみたいです。私といえば帰国後に「どうだった?」、「意地悪されなかった?」そんなように聞かれて、始めて問題を意識したのでした。

その点については、今回のメンバーたちは始めから、中國の旅行中に何か特別のことが起ころうなどとは思ってもみないようでした。旅慣れている、それも普通のパックツアーなどと違って、もともと異質な人類が住む国を旅しているという意識が非常に希薄な人たちのように見受けられました。

夕刻ホテルに着いて夕食を済ませると、街のコンビニに出かけます。そして、国籍など関係なく普通の人間として、おつまみ、ビール、ワインなどを仕入れ、誰かの部屋でワイワイやっていました。毎日そんな生活の旅をしていると、よその国を旅しているような気はしないのです。


今年の年末年始は、本来の休日の前も後も土曜、日曜とつながり、9連休と長くなりました。それをフルに使った9日間の旅行です。当然、まだお勤めがある人を対象にしているのです。毎日が日曜日の老人は2名、私ともう一人70才前の新老人でした。


三国志を看板にして回ろうというのですから、相当の三国志マニア、三国志オタクと想像されます。どんな人たちが現れるのだろうか、大変に興味がありました。

 結果として、やはり普段私が接している人とは、かなり違っている人たちのように感じました。もっともそれが、オタク人であるせいなのか、それとも今どきの若い人であるせいなのか、私にはわかりませんが。


 成都市の青羊宮という道教のお寺を訪ねた時です。

「これが羊の像です」と中国人の現地ガイドさんが説明しました。

十二支

〈青羊宮の十二支獣〉    

すると、すかざず、本を手にした我々の仲間のひとりが「これは十二支の動物の特徴を持ってるんだよ。ほら、鼠の耳、牛の鼻、虎の爪、・・・」と解説を始めました。

この日頃つきあっている私の周りの人だったら、たといそのことを知っていても、腹の中で「このガイドはこの程度なのだな」と思いながらも、何も言わず適当に話を聞いていると思うのです。


また、龐統(ほうとう)という蜀の国の孔明と並ぶデカブツの遺跡を訪ねたときのことです。拝む所、つまり廟を訪ね、引き揚げようとしました。

 するとまた「お墓はどうなの」と始まりました。ガイドさんは「そこは細い道でバスは入れない。歩かなくちゃならない。遠いし、私もまだ行ったことがない」と引き揚げようとしました。でも、また本を出して講釈が始まりました。「駐車場の角から入って、2kmって書いてあるわよ」、「僕の本だと1.5キロになってる」。

とうとう皆で歩いて、石垣を巡らせた龐統の土饅頭の墓へお参りしました。もう夕刻でしたから、今回の旅の中でも印象に残る シーンになりました。

土饅頭

〈 龐統のお墓、この時代はどれも土饅頭〉

こんな旅も6日目になりました。秦嶺(しんれい)山脈越えの日です。ガイドさんが「この山脈の最高峰は太白山、標高3723メートル」と口にした途端、「3767メートル!」と、なんとこの私が叫んでしまったのです。こういうことは、やっぱり伝染するようです。怖いですね。

よいガイドさんでした。なんといっても、私たちが知らないことを沢山知っていました。だからお客さんたちが学をひけらかしても、ちっとも凹んだりしませんでした。大学を出たと言っていました。


移動はマイクロバスでした。最初の日、私はノロノロ最後から乗り込みました。皆さん、二人用で荷物を置ける席とか、前の方の席とか、つまり良い席にさっと座っておられました。そしてそれがその後の定位置になってしまいました。何日目かに、ある女性が「お席、変わりましょうか」と言ってくれました。また、ある男性も自分から後ろの席に移って、さりげなく前の席を譲ってくれました。つまり、他人に気を使ってくれたのは、このおふたりだけでした。当然、世の中にはいろいろの人がいます。今度の旅では、周りに気を使わない人の率が、昔の平均的人間より多いのではないかという印象でした。


食事は中国料理です。食卓の真ん中がグルグル回るわけです。あるお方は毎回、「回してないと他人のことを考えずにドカッと取る人がいるから」と仰って、2本の指を器用に使ってテーブルを回し続けておられました。最初、私は、さてはバレてしまったかと内心ギクッとしたのでした。でも、本当に大食いの人が、私のほかにもいることがわかって、ほっとしました。

ともかく、テーブルを回す動機が、自分は取ったから次の方どうぞということではなく、自分が欲しいから回すのだ、であることは、グループの基本方針でありました。

日本の某地方のように「どうぞごゆっくり」と言われたら、「そろそろ帰って欲しい」と翻訳しないと、野暮だと非難される社会は、私は嫌いです。 はっきり意思表示するほうが好きです。

今回の旅行はこんな面々で、和気藹々スムースに終わりました。こういう生き方も悪くはありませんね。


今回の旅行に応募する前、私は三国志のことなど、まるで知りませんでした。ただ以前、新聞小説で吉川英治の三国志を読んだことはあったと思います。 70年も昔でしょうか。 それで、諸葛孔明、劉備玄徳、曹操、関羽、張飛と5人の名前だけは頭の片隅に残っていました。

そんな状態なのに、今回、三国志の旅になぜ応募したかというと、かって訪れた西安市と成都市の間を、沿道を見ながら車で走れることに魅力を感じたからです。まだ見たことのない土地に行ってみたい、そしてその始点と終点は知っているという条件が、余計に好き心を刺激したのでした。

また、そこには中國の歴史上、有名な難関であった秦嶺山脈があることも魅力でした。そして秦嶺山脈こそは2億3千万年前、北中國ブロックと南中國ブロックの地塊同士が衝突したとされる、地質的にも興味のある場所なのです。


私の計画を聞きつけて、息子が三国志の本を数冊、どかっと送ってきました。彼は以前から史記を始め中国の歴史が大好きなのです。私とても、これを機会に三国志を勉強したいとは思っていました。でも、読み始めると大変でした。

登場する人達の名前が、たとえば蜀の皇帝となった劉備の場合、姓は 劉、諱は 備、字は 玄徳、 諡号は 昭烈皇帝 、廟号は 太宗とも 烈祖とも呼ばれているのです。沢山の人の沢山の名前が、あちこちで勝手に出てくるのです。脳の劣化が進んでいる老人には、なにがなんやら、とても手に負えないことはご理解いただけると思います。



取り敢えず読みやすい文庫本を2冊だけ読み、あとは同行のオタクさんたちからの耳学問に頼ろうと妥協してしまいました。


三国志というのは魏、蜀、呉の三国の興亡にかかわる、百年弱の期間についての歴史を記したものです。魏について書かれた魏志倭人伝には、日本の卑弥呼が出てきます。つまり二千年ほど前、日本では弥生時代にあたる頃の出来事なのです。当時の日本の人口は2〜30万人と推定されています。同じ頃、魏は100万人、蜀は20万人、呉は60万人といわれます。質量共にはるかに先進国でありました。


さて、三国志オタクといっても、様々です。

石家荘で趙雲廟を訪ねたときです。われらが一行のマドンナさんが「わたしの子龍はどこにいるの!」と叫びました。

二千年の時を超えた萌え、なんとロマンチックなことでしょう!

子龍というのは五虎将軍のひとり趙雲の字(あざな、あだな)なのです。なるほどここの廟所では、彼ひとりだけ色白に、さしずめ今でいうならハーレーダビッドソンに跨っているイケメンのように作られていました。

子龍

〈左から二人目が ワタシの子龍〉


史実では、玄徳、関羽、張飛の三人が、生死を共にす る義兄弟の契を結んだことになっていますが、ここ趙雲の生誕地では、彼も入れて四兄弟の絵になっていました。

 今回のユースホステルのツアリーダーは博覧強記の人でした。

「孔明が南方を攻めたとき、ある川を渡ろうとした。土地の人が、ここでは生首を川に流し竜神を鎮めないと祟りがあると言った。まさか人を殺すわけにはいかないので、小麦粉の中に肉を詰め込んで代わりに流した。これが饅頭の起源といわれる」など、実にいろいろのことを、その真偽についての見解とともに教えてくださいました。


勿論、 メンバーの中には、展示してある像と肩を組んだり、掛札を指さしたり、名所巡りのパフォーマンスの上手な人もいました。


旅の行程

簡単に行程を地図に落としてみました。

旅程


峨眉山

三国志には関係がありませんが、世界遺産になっている峨眉山と楽山大仏も訪ねました。峨眉山は仙人が住んだといわれる峨々たる山容です。 2億6000万年前の大噴火で計50万立方キロメートルという膨大な量の溶岩が噴出し、これの影響による環境悪化で、全世界の海洋生物90%と陸地生物70%が絶滅したという説があります。 成都市から約160km南に位置します。

標高3073mの金頂ピークに、普賢菩薩を祀る立派なお堂と塔が建っています。

緯度は屋久島と同じぐらいですから、この冬の時期、標高2500mから上はすっかり雪に覆われていました。その中、大勢の観光客が訪れています。殆どの人は登山家というわけではなく、麓のお土産店で簡易アイゼン、竹の杖を購入したといういでたちの人達です。バスの終点から1時間半ほど雪道を歩いて登り、あとゴンドラで頂上にゆきます。

雪道では猿たちが待ち受けていて、荷物にアッタクしてきました。彼らはちゃんとしたバッグは無視し、スーパーのビニール袋を集中的に狙ってきます。「竹の棒を持っていれば盗りにきません、棒は猿避けなんです」とガイドさんが言いました。でも、一匹の猿が私たちの仲間に攻撃をかけました。

猿
〈サルがカモを物色中〉          

絶壁

〈2.6億年前噴火の玄武岩の絶壁〉


その人が追い払おうとすると、猿は叩かれまいとして竹の棒を握ってしまったのでした。私は持っていたストックで猿の腕を叩くべきだと頭では思ったのですが、可哀想な気がして結局は叩けませんでした。

後から、もしも、あれが猿じゃなくて人間だったら、明白な悪意なのだから叩いたのかしらと自問しましたが、結局のところ、なぜ躊躇したのかよくわかりません。


中國に宋襄の仁という故事があることを思い出しました。ネットで引いて見ると、

「春秋時代、宋(そう)の襄公(じょうこう)が楚(そ)と戦ったとき、公子の目夷(もくい)が、楚が布陣しないうちに攻撃しようと進言したが、襄公は、君子は人の困難にはつけこまないものだと言って攻撃せず、戦さに負けてしまったという故事による。

 事の是非や状況の正しい判断ができずに、つまらない思いやりを示す似非(えせ)君子を軽蔑して言う」。まさに私であります。


冬山登山など全く無縁な人たちが、沢山、ぞろぞろ登っていました。みんな、日本でいえば「ユニクロ」とか「しまむら」で調えたような、冬用の寒くなくて、そしておしゃれな服装をしていました。

二人ほど相当な年配の女性が、若者に担がれた担架に乗って登って来ていました。

みんな生活に余裕ができ、観光に来ているという明るい表情でした。

中國に人たちにとって、国富が上り坂の今が、最も幸せな時期なのかもしれないと感じたことでした。


生活に余裕ができたとき、観光旅行は人を手軽に楽しませてくれます。

現在、中国人が盛んに海外旅行をしていることは、よく報じられます。中國国内の旅行も大変に盛んであると見ました。

中國は三国志の本場なのですが、その関係の遺跡巡りよりも、ほかの観光ツアーのほうが一層盛んなように思われました。もっとも関羽を祀っているところは人で一杯でした。関羽は信義に厚い人として、商売の人たちから厚い信仰を受けているようです。日本なら、さしずめ豊川稲荷といったところなのでしょう。


蜀地方独特の古い家並みが残ると称する、黄龍渓という名所を案内されました。

有能かつ正直な現地ガイドさんは「これから、古く見えるように造った、新しい街へご案内します」と解説して見せました。大きな木製の水車が回ったり、せせらぎのほとりに床几などがしつらえてありました。


西安の近くを走行中、「馬超が生まれたのはこのあたりです」と ガイドさんが解説しました。なにせ、好奇心いっぱいのご一行のことです。早速「なにか遺跡でも残ってないの?」と質問が飛びます。「とくにありません」という返事に、皮肉屋のひとりがつぶやきました。「こんど来るときには、きっと出来てるよ」。


離陸上昇する中國

旅行の全期間をとおして、どの街でも、また何回でも、一行の中から「中國は来るたびに綺麗になっているね」と声が上がりました。

男性トイレでは、80パーセントまでは、接近センサー付きの自動洗浄だったと思います。

綿陽、広元など、おそらく皆さん名前を聞いたことがない地方都市でも、高層ビルが林立し、帰ってから、名古屋の久屋公園からの栄町の眺めが貧相に見えたほどです。

なんといっても現在の中國には、新しい、これから、という強みがあると感じました。


都会の表通りが近代的になっていることは、よく伝えられています。農村についても、何年か前までは土の壁で天井が低い家が代表的な印象でしたが、今ではその 横に、 白く塗られた壁の新しい家が建っているのが、ごく一般的に見られました。ここでも生活の質の向上が目立っています。一行の中から「観光客の目に触れるから、道路際の家だけ特別に綺麗にしてるの?」という声が上がったのももっともでありました。


成都市の街の中心部、片側4車線もある道路でのことです。ちょっとした渋滞があり、私たちの車も止まりました。すると窓の下で女の人が100元札を手でヒラヒラさせています。「あー、ぶつかったんだ」と声がしました。 追突したらしいのですが、そう大した凹みはありませんでした。 前の黒い車もドアを開け、男が出てきて立っています。 渋滞などそっちのけ、二人でしばらく口論していました。 警察や保険会社抜きの、現地直接解決の現場でした。おのずから相場のようなものも出来ているそうです。ガイドさんは「ちょっと安いな」とか言ってました。邪推ですが、薄利多売の当たり屋さんでも進出しているのでしょうか。


石家荘から北京まで約300km、新幹線に乗りました。途中、一箇所停車しましたが、時速約300km/h、流れるように走り1時間で着きました。(のぞみは最高速度270km/h)

中國の新幹線事情をネットで調べてみましたが、どうもよくわかりません。       

でも、日本とは比べものにならぬほど、沢山の路線があり、最高速度も300km,250kmなど いろいろなようです。

新幹線

 〈中國新幹線〉

新設線路を走るものや、在来線を走るものがあるのかもしれません。 高速道路でもそうですが、国が大きいだけあって設備の量が日本よりもずっと多いのです。それを考えれば、量産効果や研究開発費などの面でずっと有利になるはずです。


 ・冬の靄切り裂く中國新幹線


日本でも昭和40年代の高度成長の頃、訪日外国人のコメントとして「大きな藁屋根や釣瓶井戸など、古き良き日本はどこへ行ってしまったの」などと、感傷的なコメントがマスメディアに取り上げられていた時代がありました。今の中國はまさにそういった様子であります。世の中にはいろいろの人がいます。私は中國の人たちの今の生活向上を、素直によかったと思っています。

線香づくり


〈お爺さんは老人会で線香作り〉         

洗濯

〈おばさんは泉でお洗濯〉


中国人も日本人も現生人類ホモサピエンス


河北省石家荘のガイドさんの話です。「河北省はいつも北京市の犠牲にされているんです。北京の人たちのせいで、自然環境を破壊され汚染を持込まれています。

今朝もテレビで、地元のお婆さんが、村にダムが建設され、私たちの綺麗な水を持っていってしまわれたと訴えていました」。

日本だって昔から、迷惑だけ地元に残して、都会に電気を持って行ってしまうという地元の声があります。その当人は、都会で作られた車を乗り回していながらの発言なのですが。

このガイドさんの説明を聞いていて、中國も間違いなく私たちと同じ現生人類、ホモサピエンスが作っている社会なのだと、改めて強く感じました。

千手観音

〈千手観音 腕は木製〉


 他国のことを、あまり褒め上げるのも当たりませんし、あまり非難するのは間違っている上に将来に禍根を残すことになります。


石家荘の広隆寺を観光している時のことです。身の丈22mもある有名な千手観音像について「この仏像の腕から先は、戦争中の物資不足の際、供出させられました。今の腕は木で作ってあります」とのことでした。日本でも同じ理由で、お寺の鐘を供出していたことを思い出しました。石家荘は、子供の頃、新聞のニュースに登場したことのある町で、日本軍との戦場になった土地です。

今、お互いに仲良くし、観光しているなんて幸せなことだと思ったことでした。


劉備玄徳が漢中王に即位した漢中王設壇処の敷地の一部に、簡素な建物がありました。世の中のお手本になる女性をお祀りしてあるとのことで、ちょっと覗いてみました。

 中國では伝統的に男尊女卑だといわれています。しかし、 呂后、 則天武后、西太后など強烈な女性権力者が猛威を振るったことも有名であります。   

写真1
写真2

入り口の看板の文字、節度、孝行、貞淑、熱烈なんていいじゃありませんか。民間信仰というか、道徳教育というか、ともかくもここでは、女も男も安らかな顔をしておられました。


 今回、帰国して間もなく、2007年に起こった中国製冷凍ギョーザ事件の犯人として、石家荘市にある製造元「天洋食品」の元臨時 従業員、呂月庭被告に無期懲役判決が下されたとの報道がありました。

 それで気になったものですから、周りの人に何回も日本のアクリフーズ製冷凍食品の農薬混入事件はその後どうなったんですかと聞いてみました。皆さん「えっ、なんのこと言ってるの?」といった感じで、まるで意識していないようでした。

 ところがその数日後、アクリフーズ事件の犯人が特定され、彼の過去の犯罪歴、変わった性向などが猟奇的興味をそそるように大々的に報道されています。

 日本で起こった例外的な犯罪は、それが例外的であることが広く認識されていますから、スーパー、コンビニなどでの購買態度は殆ど変わっていません。

 ところが中國で起こった犯罪は、日本では事件発生直後の中国政府の強面の対応も反感を呼び、「中國からの輸入品なんか毒が入っていて」と、中國では例外的ではなく普遍的に起きているように誤認されていたといってよいでしょう。どうしようもない報道の限界であります。できるだけ沢山の人たちが、国の違いだけではなく、自分と異なる分野のことを、正確に知り適切に判断することは人類社会の幸福につながると思います。しかし、歴史を学ぶと、その能力は、そんなに向上して来ているようには見えません。


PM2.5

「蜀犬、日に吠ゆ」という古くからの言い伝えがあります。蜀、つまり今の四川省はいつも霧が立ち籠めていて太陽が見えない、たまに太陽が見えると、蜀の犬は見慣れぬ不審な者が現れたとばかりに、吠えたてるという意味だそうです。

確かに今回も四川省にいるあいだ、自分の影をぼんやりとでも見たのは、5日の間に半日だけでした。ところが魏の国、陝西省に移動した日は、今回の旅で、唯一、日本晴でした。でも、よく見ると真上の空は真っ青でも、地平線はぼんやりと薄黄色に濁った、黄砂地域独特の景色でした。

マイクロバスの窓ガラスは、四川省にいるあいだ水滴で曇り続けていましたが、陝西省に入るともう露に視界を遮られることはまったくありませんでした。大気中の湿度が違うのです。        

中国の空

〈中國の空どんよりと 西安市郊外〉


私が中國へゆくと聞いた娘は「2.5PMをたっぷり吸っておいで。じーちゃんは日本の公害を生き抜いてきたんだから大丈夫」とメールをくれました。

 歳月を重ねても、一向に人間ができてこない私は、いくら不評判でも、またまた正論を持ち出したくなるのです。


・ 黄砂飛ぶ空に冬の陽うっすらと

報道では、 PM2.5濃度が高いために、昼なお暗いのだと 認識している様子でもあります。そのために外出が控えられているというように伝えられます。まるで、窒息しそうな雰囲気であります。

中國の空といっても、本当は場所により、また時期により、一言でその状態を断言できないことは重々承知しています。でも、私の経験でも、また多くの人の印象を聞いても、中國の空は昔々から何時もすっきりしないと評価されていたといえましょう。

中國は西に砂漠を控え、空気中の微粒子はもう何千年も前から相当多かったに違いありません。今回も例のごとく、メディアがことさらに危機感を煽り立て、専門家も迎合的にコメントしていることは間違いないところでしょう。 やはり本来は、 2.5PM問題を自然な霧や黄砂と合わせ、科学的総合的に報道するのが、あるべき姿だろうと思うのです。


大国中國

無知を曝け出しますが、私は中國についてまったく無知なのだなと思い知らされることが何度もありました。

6日目、バスで北上し、途中、ここで四川省から陝西省に入ったのだと告げられました。

南の蜀の国と北の魏の国を隔てる大障壁は秦嶺山脈、そして通過できるのは今回通った漢中市を通るルート、そしてもう一つはずっと西、600kmほど西の赤壁あたりのルートだというぐらいの認識しか持っていませんでした。

バスが進むにつれて腕時計に仕込まれた高度計がだんだん上がってゆきます。標高900mを越え、長い長いトンネルを過ぎ、やがて下り坂に入り川の流れの方向も北向きから南向きに変わりました。       

分水嶺

〈左が長江、右が黄河の分水嶺〉


私は、てっきり秦嶺山脈を越えたと思ったのです。こうして、その日は諸葛孔明が最初に葬られたお墓を拝み漢中市に泊まりました。

次の日に、今日が秦嶺山脈越えだと告げられました。確かにこの日は標高2000mほどまで登り、秦嶺山脈を越えました。途中に幾つもトンネルはありましたが、いわゆる峠の部分は日本でいえば高山市のような広い平らなところで、ちょっとした街や兵舎群があり、峻険とは程遠い様子でした。

 後で色々の地図を見ていましたら、最初に越えたのは大巴山脈という山脈だったことを知りました。今まで中國に関して、等高線の入った地図を見たことはありません。道路と都市ばかりが書かれた地図しか見てなかったのです。

そして何より、狭い日本と、とてつもなく広い中國のスケールの差が身についていないことを思い知りました。

2000年前の三国志時代には秦嶺山脈が魏国と蜀国を隔てる大障壁だと繰り返し書かれています。それで、いまでもここが省境なのだと思い込んでいました。しかし現在は、秦嶺山脈より南の、やや小さい山脈が陝西省と四川省の省境になっているのでした。


土地のスケールの大きさは、戦争のとき、軍隊の移動、そして何より戦力を維持するための食料など物資を輸送する手段が大きな問題になります。

70年前、日支戦争では日本軍が中國に攻め込みました。しかし当時でも、都市と道路は占領してもそれ以外には敵が残っていて、こちらが小人数になると襲われる、つまり面としてはなかなか制圧出来なかったといわれていました。

三国志のスケールでみると、20世紀の日本の軍隊は何年もかかって、二千年前の魏の国の一部、呉の国の一部に入っただけで、蜀の国に至ってはほんの一部に空襲を加えただけだったのです。

三国志に記されている戦いの様子には、相手の戦線を長く薄く広がらせて叩く、敵の物資の輸送路を長く引き伸ばし、あえて決戦を避け持久戦で自滅を待つなどの戦略が盛んに登場します。

日中戦争で現地に入った軍隊は、中國のスケールの大きさの実情を身にしみて知ったのでしょうが、日本国民全体にとっては、そのスケールの大きさを武器にした戦術などは、とても想像もつかなかったと思います。まさに、孫子の「敵を知り、己を知れば、百戦危うからず」の逆です。日本は敵を知らぬ島国だったのだなあというのが、後出しジャンケンでしょうが、この私の感想であります。


漢文授業のこと

私が中学校の頃には漢文の時間がありました。今から思えば、4世紀頃に中國の文字文化が日本に伝えられてから20世紀まで、われわれの先輩には大陸から知識情報を収集しようとする価値感と意慾が連綿と続いていたのですね。

漢文の授業では、漢字ばかりが、主語、述語、目的語と並んだ中國の原典を、主語、目的語、述語の順で、仮名まじりの日本語に直すことを教わりました。

中國の古文には素晴らしいものがあります。その中でも「出師表(スイシノヒョウ)」と『赤壁賦(セキヘキノフ)」が、うっすら記憶に残っていました。

今回、成都の劉備玄徳と諸葛孔明を祀る武侯祠で、岳飛の書になる前出師の表の碑に出くわしました。不勉強で、ここにあるとは知らなかったので、大いに感激しました。

223年、白帝城で危篤に陥った蜀の皇帝劉備玄徳は、宰相の諸葛孔明を枕元に呼びこう遺言しました。「もし我が子の劉禅が補佐するに値する男なら、どうか盛り立ててやって欲しい。だが、その器量がないと思うなら、そなたが代わって帝位につくがよい」。

出師の表

〈出師表の碑〉

これほどまでに信頼された孔明は、劉禅を必死に盛り立てようとします。出師表は孔明が出陣に際して、都に残る劉禅に、政治のことは誰に、軍事のことは彼に聞けなど理を尽くし情を込め述べた上奏文なのです。この文を読んで泣かないひとは人ではないと言われる名文です。

玄徳が遺言したとき、劉禅は19歳でした。親でさえ、出来損ないと思っていたのでしょう。孔明はやがて戦病死し、その後、劉禅は戦わずして魏に降りました。

この碑を前にして、私めはルーピー総理に仕えた官房長官は、さぞかし辛かっただろうと涙したことでした。

「国破れて山河あり」と詠んだ杜甫の草堂も、このすぐ近くです。杜甫は、この地で詩聖李白とも会っているのです。この日は、漢詩の世界に浸った半日でした。


・ 出師表独り涙す冬の旅



マナーを守りましょう

保安検査、つまり空港で行われているような、持ち物検査とボデイチェックは、今の中國では独特の体系で行われています。えっ、こんな所でと思うぐらい行われていました。博物館や貴重な観光施設はともかくとして、鉄道駅に入るのにもチェックがあります。


思っても見て下さい、名古屋駅で利用者全員に適用しようとしたら、どんなことになるでしょうか。当然、長い列になります。ここには、中國名物の横入りが未だにいました。彼は自分でも良くないことをしているという自覚があるので、決してこちらの顔など見ないようにして、我々グループの真ん中に割り込んできました。

5年ほど前に訪中したとき、上海の空港でのことです。両替店の前で、どれほど両替するか鳩首協議していたところ、中國のお巡りさんに「列に、列に」と言われたことがありました。彼は、我々がゴチャゴチャ先を争って窓口に押しかけていると思ったのでした。そのとき、中國も進んだものだと感心したものです。   

緑の保護

〈緑の保護 足元注意〉

ともかく、いま中國では「マナーを守りましょう」と盛んにキャンペーンされているそうです。時間を貸してあげようではありませんか。                   


天安門

帰国の日、関西空港に帰る3人には、4時間ほど余裕時間ができました。それで天安門に行ってみました。予期したとおり、ここの警戒はとても厳重だと見ました。あまり理由はわかりませんが、あちこちで何回もチェックされました。

私はボデイチェックをマッサージと読み替えていますので、ちっとも気になりません。ただ、言われる通りしていればいいのですから。

毛沢東記念堂では入り口の検問ゲートで、カメラの持ち込みで引っかかりました。

大変です。持ち物を預ける店は随分と遠い所まで行かねばならず、また戻ってくるのに何回も検問を通らなくてはならないのです。

同行していた友人が先に堂内を見てしまい、カメラを預かってくれたので私も入りました。毛沢東の遺骸を拝観し建物を出るのに、5分ぐらいかかったでしょうか。建物を出るやいなや未だ規制区域の中なのに、中国人たちはスマホなど取り出して盛んに写真を撮っていました。もちろんお咎めはありません。

天安門
〈天安門にて〉              

 ここで当局がやっていることは、撮影禁止ではなくて写真機携行禁止なんですね。ここ聖なる天安門は「理屈を言うな、俺の決めたとおりしろ」と中國人民にヤキを入れるのもひとつの目的なのでしょう。

毛沢東といえば、現在の中華人民共和国の建国の父として、比べるものなき偉大な存在であります。流通しているすべての紙幣に、彼の肖像が印刷されています。しかし、彼がとった世直し策、文化大革命の手先になった紅衛兵たちの狼藉と、失政に起因する飢餓で4000万人の国民が命を失ったのだともいわれています。

毛沢東思想とは、マルクスとレーニンが確立した共産主義を理念としながら、それを中国の実情に適応させた、農民中心の革命方式を指しているものとされています。

もっとも共産党という衣は着たものの、毛沢東本人は「資本論」など読んだことはなかったという説があるほど、他の共産主義国とは一線を画し、自分の国を重視したように思われます。

私は資本論を読んだことはありませんが、どうも現状を、搾取する資本家と搾取される労働者に二分し、国家の計画により世直ししようということのようです。

何時の時代の世直しにも、人間の持つ「怨み」が潜んでいるものです。


毛沢東思想が最も徹底して行われたのは、カンボジアのポルポト政権でありました。ポルポトに、自分よりも優位だった人に対する「怨み憎しみ」を煽られた少年兵たちは、金持ちを殺し、行政権を持ったとして役人を殺し、人気の女優を殺し、技術を持っているとして街の時計屋を殺し、眼鏡をかけているインテリを殺し、一説には国民の3分の1にあたる300万人を殺したといわれます。

今では、 中華人民共和国に吹き荒んだ文化大革命の実態は、知識人、文化人を迫害し文化遺産を破壊した文化大破壊であったと評価されています。

ただ、19世紀末に清國が崩壊してから分裂状態だった中國を、1949年、毛沢東が中華人民共和国として統一した功績は、なんといっても大いに評価されてしかるべきでしょう。

もしも現在なお、その直前の状態のように、つまり国民政府軍と共産党軍が中国大陸で戦い続けていたとしたら、どんなに悲惨な状態が続いていたことでしょう。それはなにも中国国民にとっての不幸だけではなく、全世界的に見ても、とても迷惑、厄介であることに違いありません。

神ならぬ身の人間が作っている世の中です。不具合もあり不満もあることでしょう。でも、戦争がないということは素晴らしいことではありませんか。見た目がよい空手形ではなく実効性のある戦争回避策が求められます。

諸外国との関係、 沖縄基地などの問題も、この視点から考えるべきでしょう。

魏、蜀、呉の三国が、100年近く戦に明け暮れた歴史を物語る三国志の旅の締めくくりが、毛沢東一色の天安門であったことも、なにかの縁のような気がしたのです。


おわり


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