題名:野沢温泉 朧月夜の館の

 

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日付:1998/4/25


「おぼろ月夜の館」 高野辰之記念館

 

野沢温泉村に最近開館した「おぼろ月夜の館」には、信州の誇るスーパーマン高野辰之氏の偉業の数々が展示されている。

 

玄関ホールに足を踏み入れると、彼の作詞になる、春の小川の歌のメロデーが流れてくる。「春の小川はさらさら流る」という誰もが知っている懐かしい歌である。

 

高野辰之は、この近くで生まれ、15才で高等小学校を卒業、直ちに母校に代用教員として勤務、32才の時、東京音楽学校に邦楽調査係嘱託として入り、間もなく弱冠34才で同校の教授となった。

 

私の妹、基代は、東京音楽学校の後身の東京音楽大学樂理科に入った。そして学校の寄宿舎に入っていた。

それは戦後間もない時代で、東京と地方の落差は大きかった。妹の学校のある上野の近くの御徒町で見かける、米軍関係者から放出された品々についての情報は興味津々だった。

妹が帰省の時に、お土産に買ってくる酒悦の福神漬と、アミの佃煮とを家中で首を長くして待っていたものである。日本の国力は貧弱で、食料の輸入など厳しい時代のことだから、佃煮の語源が佃島であるとすれば、まさに本場中の本場の佃煮であった。福神漬も変に甘くなくて、すこぶる美味しかった。

さらに、それらを、簡単に竹の皮で包んで売ってくれるのも、江戸前のキップ良さに思われた。

 基代は私より4才年下であるから、私がその寮を訪ねたのは、私が就職したすぐ後のことだったろう。出張のため、夜行列車で上京し、早い時間に寮を訪ねた。基代は学校のあちらこちらを、案内してくれた。

 次に基代が帰省したとき、「お兄ちゃんが寮に来たときに、みんなが覗いたのに気がついた?」と聞かれた。私が玄関にいる間、基代の友達たちが、どんな兄なのかと代わる代わる覗いたのだそうである。

実は、私はそのときは、ぜんぜん気が付いていなかった。  

あの頃の基代の友達たちは、今はもう、孫の居る年頃になっている。

今、私の周囲にいる、その年頃の女性たちから想像すると、彼女らの強烈な好奇心をもってしては、友達の兄貴を覗きにこずにはいられなかったろうと納得している。

睡眠不足と汽車の煤煙で、さぞかし冴えない男と見えたことであろう。もちろん、その鑑定の結果の続編などはない、その時だけの半世紀前のワンカットに過ぎないのである。 

 

 

 

 流れているメロディーが変わった。

今度は、「兎追いし 彼の山」である。志を果たして、いつの日にか帰らんと「故郷」を偲ぶ、花の東京で大活躍中の、信州出身の偉才の感慨が溢れている。

 

 私が始めてこの野沢温泉を訪ねたのは、まだ旧制高校の生徒だった頃だ。その頃、多分、まだ小学生だった弟と二人で、ある新聞社主催のスキーツアー参加して、この野沢温泉にきた。戦後間もない当時は、こんな遠い北の国にスキーに出して呉れるなんて、何もかにも、今とは違って、大変なことであった。

泊まったのは、麻釜の前だったと記憶する。建て替える前の、住吉屋さんだったような気がする。

朝、長い坂を、はあはあと喘ぎながら登ってゲレンデに通った。

その頃、野沢には確か、ゲレンデは二つしかなかったと思う。

お墓の横と、もう一つは壁といわれた急斜面とである。リフトなどなかったから、足で登っては、その分だけ滑り降りるのであった。長く滑り降りてしまうと後の登りが大仕事である。

だから、まるで自分の貯金を払い出すように、ちびちびと2,3回ターンしては、止まり止まりして滑ったものである。

宿の朝飯に納豆がついた。殆どの人はそれに手をつけなっかった。当時、名古屋の人たちには、納豆を食べる習慣がなかったのである。私と弟だけは、平気で食べた。

父が盛岡、母が弘前と東北系の家庭で育った私たちが、大変に特殊な存在に見えた。

当時はまだ戦後、何でも食べる私たち兄弟は、尊敬の目で見られたと、私たちは思っている。

 

また、音楽が変わった。秋の夕べに照る山紅葉。「紅葉」という曲である。これも高野さんの作詞だったのかと知る。

 

この野沢温泉へは、昔、母とスキーに来たことがあった。私が大学生だった頃のことである。

医学部の病理学の人たちが、実験の装置のことで、工学部の電気の学生に協力を求めてきた。どうしてその話が私に来たのか、今は覚えていないが、ともかく私がその話しを引き受けることになった。オールウエーブラジオだとか、ハイファイアンプだとか、いわゆる弱電が趣味で、また遺伝など生理学にも興味を持っていたことが理由だったのかも知れない。

医学部の人たちは、従来は蛙の心臓の起電力などを、オシロペーパーを現像した後で見ていたものを、なんとかテレビ用ブラウン管で大勢の人が同時に見られるようにできないかというのが、最初のテーマだったように思う。

なかなか難しい注文で、売り物になるような物は完成しなかったが、デモンストレーション用としてなら、どうにか使えるものを作った。

そのときの医学部の助教授のSさん始め病理学教室の人々、出入りの業者などのメンバーで、春休みにスキーに行くのが、何年か続いていた。

野沢は温泉があるので、大学助手のI さんのお母さんも来られた。

私の母は、その前年、赤倉に行ったときからスキーを復活させていた。母は子供の頃、弘前に住んでいた。お転婆だったそうで、男の子と一緒になって、凍った雪の上を滑っていたのだという。道具のあるわけもなく、ただ下駄で走って勢いをつけては、刃を横にして滑走するのだった。復活させたのは、母が50才に手が届く頃であった。その時は、その年でよくやるよと思ったが、今思えば、まだ若い女性であった。

そうして、母は赤倉でも野沢でも結構上手に滑っていた。

そんなわけで、野沢にいる間、私の母はスキーを楽しんだが、Iさんのお母さんは、温泉に入っては、編み物をしておられた。

この時には、もう野沢スキー場にも材木を櫓に組んで作ったリフトが出来ていた。ディーゼルエンジンで動かす代物であった。ゲレンデも、新しく、いくらか奥の方に伸びていたように思う。

いずれにせよスキー場の数もスキー客の数も今と比べて桁外れに少なく、鶴田浩二という当時の有名な映画俳優と、野沢のリフトの列で何度か一緒に並んだものだった。

また、それまで紙幣だった100円が硬貨に切り替わる時期で、硬貨は東京では既に流通していたが、私たち名古屋ではまだ見たことがなかった。リフト券を買ったお釣りの100円硬貨が珍しかった。

 

春がきた 春がきた どこにきた、という曲も高野さんの作詞である。

ここの展望台へ登ると信濃川を隔て、戸狩のスキー場が真向かいに見える。

昔、ある春の朝、私は戸狩の駅でディーゼル車を降りた。信州百名山のひとつ、鍋倉山に登ろうというのである。子供たちが私の靴を指さして、オイ、ほんとの山靴だぞ、と騒いだ。

町の中で、大勢の人たちが茅葺きの屋根の葺き替えをしていた。大量の茅を扱うため、なにせ、私が行こうとする道はおろか、そこら中、大変な埃であった。

後はもう、よく締まった雪を踏んで、登山者はおろか、人ひとり会わぬ春の一日を過ごしたのであった。牧場を過ぎ、急傾斜をよじ登り、ブナの林の緩やかな雪の斜面をゆっくりと登って頂上に達した。ブナの木の根元の雪が、丸く大きく深く融け込み、土地の人たちが、春は立木の根元からくるという、言葉そのままの様子を見せていた。

終日、高曇りの穏やかな春の日だった。

駅に帰り着くと、売店のおばさんが、今朝着いた人ですね、どこへ行ったのと聞いてくれた。この駅では一日に何人も乗り降りしないのであろう。つい、なにか買ってしまったような記憶がある。

飯山線は列車の本数が少なく、かつ接続も不便である。帰りに乗換駅の飯山で、ブラブラ、町を歩いてみた。

通りかかった古い木造の市役所のガラス窓から、書類が窓際に山と積まれているのが見えた。

そのうちに、静かな町の、さらに静かな一角に、お寺が沢山集まっている場所へ出た。

ふと入ったお寺で、ちょっと尼さんの質問に答えていると、今お茶を差し上げますから、ここでお待ちなさいと縁側に座らせられた。しばらく待つうちに汽車の時間がきてしまった。

「すみません、時間がきてしまいましたので」と奥へ声を掛けたが返事がない。

申し訳ないとは思ったが、どうしようもないのでそのまま失礼してしまった。15分ほど待ったことだし、許していただけるかとは思うものの、折角のご厚意を無にしたことは、今でも気に掛かっている。納屋で野沢菜でも出していて下さったのだろうか。

この飯山という街はお寺だけでなく、仏壇、仏具を商う店が軒を連ねる、ちょっと変わった雰囲気の街であった。

 

白地に赤く日の丸染めて ああ美しや 日本の旗は、というのも、高野さんの作詞である。

また、記念館が、とくに「朧月夜の館」と名付けられているのは、ご本人が「菜の花畑に入り日薄れ」という歌詞の、朧月夜の歌を気に入っておられたからだろうか。

 

 私は48才の年から3年間、長野支店に単身赴任していた。会社の健康保険組合は、この温泉の某旅館と契約し、シーズン中はいつでも比較的安く泊まることができた。

また毎年春になると、健康増進の目的で1泊2日の組合主催のスキー講習会が開かれた。

会社の図々しい輩は、始めから温泉に入り、麻雀ばかりして帰るという噂もあった。係りの若者から、滑らなくてもよいから、せめてスキーだけは持ってきてくれと言われたとの笑い話もあった。

私は一日の中に牛首尾根のダウンヒルを三本やって、足ががくがくになったり、ともかく滑りまくっていた。

疲れ切って、宿の岩風呂に浸かり、たらふく飲み食いして、部屋に戻り、男女大勢とわいわい遅くまで騒いだ。実は、その頃私はスキー部長だったのである。

この野沢にも雪の多い年と少ない年とがあった。三月のある日、雨氷現象で上の平の木々の枝と幹が、ことごとく透明な氷で覆われ、それが横からの日に照らされ、風にからからと音を立て、文字どうり氷の城の中にに立ち尽くす感があったのは忘れがたい。

 

あれから約20年、すべての会社生活は終わった。

今回は、たった一人で、民宿組合に斡旋してもらった宿に泊まり、シルバー割引のリフト券で滑りに滑った。

そしてその、わずか3泊4日のスキーの旅で、こんなに沢山の楽しい思い出に浸ることができた。

もしも、再び訪れる機会に恵まれたならば、今度の旅も、次回は、数々の楽しい思いでに、またひとつ「退職したての訪問」という思い出が追加されるのである。

これが良い人生と言わなくてなんであろう。

 

 

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