題名:モンゴル国 テンゲル ハイルハーン峰

重遠の入り口に戻る

日付:1998/9/13

 


1998年7月、標高3943メートル、アルタイ山脈の未踏峰、テンゲル ハイルハーンという山に登りに行きました。

 

●スリにあうこと

関西空港を真夜中に出て、4時間の飛行で、モンゴルの首都ウランバートルの空港に未明に着きました。

市内のホテルで仮眠をとり、10時には有名な「ザハ」と呼ばれる青空市場の見物に行きました。

入り口をくぐると、まず自転車に関するありとあらゆる物を並べている場所がありました。新、旧の自転車、あらゆる部品がごったに、そして同じような店が幾つも並んでいました。

この青空市場は、だれでも売り手にも買い手にもなることができる、自由市場だとのことです。筵に商品を並べた、いわば店構えを持った人ばかりではなく、2,3の品を手に持った売り手だってうろうろしているのでした。

小1時間冷やかして廻った頃、案内をしてくれているモンゴル山岳会のバットさんが、私が腰につけていたポシェットを見て、チャックが開いているから閉めておけと注意してくれました。

私はポシェットから手帳を出し入れしてはメモしているので、閉め忘れることは往々にしてあることなのです。スリが多いと聞いているこんなところで閉め忘れるとは、俺としたことが、しまったホイと、チャックを閉めました。

5分ほどしてから、バットさんが念のため何か盗られていないか見た方が良いなと言い出しました。

開けて見ると、見事にやられていたのでした。

 

私が子供の頃は戦争中で、本などろくにありませんでした。それで父の書棚の本を読みまくっていました。その中の法曹界夜話というような題の本に、スリのことが書いてありました。

日本が鎖国を解き、外国人たちが横浜に入って来た頃、指先の器用な日本のスリたちが、青い目の人たちの心胆を寒からしめたというようなことが、書かれていたのを記憶しています。

仕立屋銀次などいう、スリの大親分がいて、一種のカンパニーを取り仕切っていたと言います。

当時のスリ師たちはプロ意識が旺盛で、刃物で袂を切って盗むなど、荒い仕事は軽蔑され、エキスパートともなると、警察の旦那とはとっくに顔見知り、警官の前で、気づかれないように仕事をしたり、被害者の懐から財布を抜き、現金だけ盗ってまた財布を返しておくという、腕の冴えを誇る、人間国宝のような者まであったといいます。

 

このモンゴルの市場の私の場合は、名古屋市が下さった敬老手帳と、それに挟んだ現金とキャッシュカード、それと旅のスケジュール表とを盗ってゆき、なにも返してくれませんでした。

でも、私にとっては貴重なメモの手帳や、サングラスなどは残してあったので助かりました。明治の日本なら、中の上ぐらいの腕前のスリだったのでしょうか。

 

国立デパート、中央郵便局と並んで、スリ、掻っ払いが多いと、どんな案内書にも警告してあるザハのことです。そんな所で、腰の周りにポシェットをつけ、手帳とカメラを出したり入れたりしている老人となれば、これはもうスッてくれと言わんばかりの姿に見えたことでしょう。

 

私がスッてくれと言わんばかりの態度をしているのは、昔からのことですが、実際にすられたのは、今回が始めての経験です。

やはり何と言っても、現役時代には、日頃の張りつめた生活の余韻で、どこか目に光る物があったのでしょうか。

それがいまはもう、極楽とんぼのトロントした、スリにとって取り付きやすい目つきになっているのでしょう。

そういえば、この年月、思わぬ所で蹴つまずいたり、昔はなかったことが、身辺に起こるようになってきているのに気がつきます。

伊勢物語の末尾に「ついにゆく道とはかねて聞きしかど きのう今日とは思はざりしを」という歌がのっています。そんな日が近づいていることを、いやでも感じない訳にはゆかないのです。

 

貴重品は、旅行の注意書に書かれている通り、徹底的に分散させていましたから、盗られた現金は、日本で、お国に強奪される税金はおろか、その利子にもはるかに及ばぬ額で、以後の旅行に差し支えはありませんでした。

すられることが分かっていれば、敬老手帳を、カードや現金を挟むために持っていたのは、まったく意味のないことで、これからは出来るだけ気を付けて避けようと思います。でも、年をとると、トラブルというものは、こういう思いがけないときに起こるものだという諦めも、どこかで感じているのです。

 

ところで、モンゴルのスリたちは今後どうなって行くのでしょうか。通訳さんの意見では、モンゴルでは最近、子供たちがそう言った悪事をはたらくのだそうです。多分、日本でもそうだったように、手間暇を惜しむようになり、技能は段々に低下してゆくのでしょう。

願わくば社会が安定し、あまり効率最優先の手段、つまり凶悪な手段に移行することのないように祈りたいと思います。

 

私は例の通り、市場では人々の営みを見るだけで、何も買い求めませんでした。

ですからこの市場で、いわば「すられた経験」を買ったようなものでした。

この雑文だって、それなりの元手が掛かっているのです。

・モンゴルの夏日激しく燃えつ落ち

 

●聖なる山 テンゲル・ハイルハーン

約700年前の蒙古襲来の際、もしも神風が吹かなかったら、モンゴル(蒙古)は、日本に忘れられない影響を与えていたことでしょう。

また、年輩の人ならば、1939年に、モンゴルと満州国の国境でノモンハン事件が発生し、戦闘の主力はソ連軍ではありましたが、日本軍の第23師団が壊滅させられるという手痛い打撃を受けたことを覚えていることでしょう。

1945年、モンゴルはソ連とともに、既に敗色濃かった日本に対して宣戦を布告したのでした。第2次世界大戦の後も、シベリア抑留者の一部14000人がモンゴルに移送され、1597名が亡くなっておられます。炭坑で働かされたり、首都ウランバートルの今のオペラハウスも、この抑留者たちの力で造られたのだと言われています。

国土面積は日本の4,2倍、人口は増加しつつありますが約230万人、その4分の1が首都ウランバートルに住んでいると言われます。

社会主義国家として、ソ連の兄弟国家でしたが、現在は複数の政党があり、自由選挙が行われており、正式な国名も92年には「モンゴル人民共和国」から「モンゴル国」にと変わってきております。

 

大抵の人は、モンゴルと聞くと大草原のイメージが強いようで、いったい全体、山などあるのと言われることがよくあります。たしかに大まかには高原の国で、平均の標高は1580メートルと言われます。

結構、高い山もあり、一番高いのはフィチィン峰4374メートルです。

私たちが選んだ山は、テンゲル・ハイルハーンという名の山で、少なくとも外国人が登った記録はありません。

テンゲルというのは、青空とか王様とかの意味で、ハイルハーンは聖なるとか敬意を表す言葉だそうです。つまりこの山は聖岳、御嶽山の類の名前をつけられ、敬畏されているのです。

モンゴル国の西の端で、ロシヤ、中国と国境を接する辺りにあります。

ある程度、日本の人にもその名を知られているアルタイ山脈(全長約1800キロメートル)の中の独立峰です。姿は御嶽山に似ていますが、火山ではなく、泥岩、砂岩から成るドーンとした美しい山です。

標高は人工衛星から作られたアメリカの地図には13050フィートと記されていますから、1フィートを30,48センチとして換算すると3978メートル、われわれは自分たちの地図で3943メートルと言っておりました。ところが、モンゴル山岳会から頂いた初登頂証明書には3880メートルと書かれていました。

日本の人は太平洋海面を基準とした標高を使うが、我々は大西洋基準を使っているので食い違いが出ているのだ、と説明して、取り繕ってくれる人もありました。

別の機会に、モンゴルの田舎に入ってから、私と同じ68才だと言う人にお会いしたことがありましたが、その時、本人の言葉か通訳の意見かよくわかりませんでしたが「モンゴルでは年が幾つなんだなど、細かくは決めつけないのだ」と聞きました。あんまり詮索しないことにしましょう。

 

過去、この山に地元の人が登ったことがあるかどうかは、正直なところ定かではありません。

しかし、一般的に言って、地元の人たちが、年中雪を戴いた神々しい高山に登ることに、ネガチィブな感情を持っていることは間違いないようです。

日本でもイギリス人ウエストン氏の来日がきっかけになり、やっとスポーツとしての登山が始まったのでした。

また、ヨーロッパ・アルプスでも、100年前までは、高山には魔物が住むと信じられていたとのです。

実は同行したモンゴル人の一人が、以前、この山に登ったことがあると言っていました。ところが今回の登山で、その彼が、本当のピークの前のピークで、ここが頂上だと宣言し、岩影で火をたき、お祈りを始めたのです。

もっともその行為は、彼が前回、本当にここを頂上と思って引き返したのか、それとも地元住民から聖域を最初に汚したと、非難攻撃されることを逃れたかったのか、これも詮索はしないことにしましょう。

 

ロシヤ製のすこぶる頑丈な軍用トラックが、ローギヤで物凄くエンジンを唸らせながら、道のない草原をよじ登り、標高2800メートルの地点に遊牧民の移動用住宅であるゲルをベースキャンプとして設置しました。

登頂予定日は、まあまあの天気でした。

朝飯はオートミールでした。一行の中には、乳に砂糖の甘みが入っているのが気になる人がいました。私は53年前、戦争末期の食糧難時代に、15才の食べ盛りで、何でも口に入るものさえあれば幸せだという、つらい日々を送っていました。そこでは食べ物の好き嫌いなど、別の世界のことだったのです。このオートミールを美味しく頂けたのには、過去の辛酸が報われる思いでした。

日の出の1時間後に出発しました。コックのツェロモンさんが馬の乳を空に振り播いて、山がわれわれ登高者に優しくしてくれるようにとお祈りしてくれました。

木など一本も生えていない草原を、じわじわと登ってゆきました。そして、小1時間登った後、急なガレを登り尾根に取り付きました。

その後はひたすら、ガレの登りです。岩質こそ違いますが、御嶽山の剣ガ峰の頂上直下とよく似た登りでした。

野生の山羊の骨が何体も落ちていました。あの巻いた角が、始めは木の根っことも見えたのですが、頭骨と並んで落ちているのを見れば、紛れもない山羊だと分かりました。

標高3600メートル辺りからは、ところどころ雪面が出てきました。これからしばらくは、大きな岩の凸凹で苦労するか、雪の下が凍っているルートに出て肝を冷やすかの選択が続きました。

登頂開始から4時間、富士山頂と同じ3780メートルに達しました。これから先は緩い雪原の登りです。アイゼンを着け、二組に分かれ、4人ずつザイルで結んでの行動となります。非常に歩きよい雪質でした。

でも、さすがに夏です。何カ所か雪の裂け目があり、そんなところでは足許の深い底から、水の流れる音が聞こえて来るのでした。

先に述べた前ピークを過ぎると、しばらくは大きな岩塊の原をアイゼンをガリガリ言わせて通過し、いったん下り、さらに雪面を登り返すと、もうこれ以上高いところはありませんでした。出発してから約5時間半でした。

そこはなんとも広い頂上でした。累々たる岩塊がほぼ水平に拡がった広場で、少なく見ても一辺が400メートルはあるのでした。また、やや低く西に、野沢スキー場の上の平ゲレンデほどの広い雪原がありました。

モンゴルに来てから目に入るすべての景色が大規模なので、今までは、それとの比較で、この山もそんなに巨大だとは見えていませんでした。しかし、いざ最後まで登り切ってみれば、頂上は過去に見たことがない、だだっ広さでした。

まさにアジア大陸の山でした。

・チロチロと小川囁く花野かな

 

●道

地図を広げて、モンゴル山岳会のお兄さんに、車はどのルートを走って行くのかと尋ねました。「地図に出ている道は悪いから、こちらを行く」と、まことにアバウトな説明があったとき、なにか変な気がしました。

そのときはまだ、地図を見ている限りでは、山があり、川があり、道があり、日本を基準にした自分なりの情景が頭に浮かんで来たのでした。

しかし、地方都市ウルギーを離れ、10分も車を走らせると、これがモンゴルかと言う気がしてきました。

車は空港もあるウルギーと首都ウランバートルとを結ぶ主要道路を走っているのですが、ここまで来るともう舗装はありません。そして、道路と平行して草原の中にもタイヤの跡があるのに気がつきました。その中にどちらが本来の道なのか、はっきりしなくなってきました。小さい山があれば、道は左右に分かれ、またその先で合流します。

運転手はその時の気分で、左右勝手に道を選んで乗り入れます。そのうちに、車の跡も何にもないところを走るようになりました。草原を時速60キロほどでつっ走ります。トラックは上り坂にさしかかると、傾斜と自分の荷物の重さに応じて、適当にジグザグに切って登って行きます。その自由自在な振る舞いは、海を釣り船が走っているようなと評すれば当たっているのでしょうか。

こんな旅行を終わってみれば、モンゴル草原のドライバーにとって恐いのは、ぬかるみにはまりこむことだけではないかと思われるのです。

大きな軍用トラックの邪魔になるような、樹木も石もありません。

 

モンゴルの現状からは、夢幻としか思われませんが、13世紀に、ジンギスカンがアジア大陸を席巻したのは事実であります。

この広大な、人跡希な高原を旅しながら、しきりとジンギスカンの世界制覇の野望のことを思っていました。

西はヨーロッパ、東は朝鮮半島まで、馬で遠征するのには、途方もない月日がかかったに違いありません。また、戦士たちの命を支える米も野菜も出来るような風土ばかりではありません。

当然、資材も労力も現地調達しか外に手段があったとは思えません。そして、その侵攻スピードの速さは、地方、地方の人々が形勢を見て、強いほうに付いて、一緒になって弱いほうを攻める、ドミノ現象で達成されたのだろうと推察されます。

いったん、戦が始まってしまうと、もう、当事者にとっては、それ以外に選択肢はなかったのでしょう。

その動きの中で、今日の目で見れば、A,B,C級戦争犯罪人の山が築かれたことでしょう。

第2次大戦末期の沖縄戦に際して、攻めるアメリカ軍が、占領地の住民用として7万人分の食料を用意したことのほうが、人間の歴史の中では特別のケースなのだと思われるのです。

 

そもそも道には、個人が勝手に通った結果「出来た道」と、行政が計画的に「作った道」とがあります。

アダムがイブのもとへ通った道は、疑いもなく、自然に「出来た道」でした。

 

私が子供の頃には、町内の角の空き地に、近道をする人たちに踏まれて、斜めに草が擦り切れた「出来た道」がありました。

しかし何時の頃からか、公園の芝生に「立ち入らないでください」と立て札が立ち、それに人々が従うようになってからは、身の回りは、行政が計画的に「作った道」ばかりになってしまったと言って良いのではないでしょうか。

東海自然歩道の山間部など、本来は「出来た道」であったような所まで、今では「作った道」となり、何か事故が起こると、管理者の責任が問われる世の中です。

 

物理的には、好き勝手に歩ける、つまり「出来た道」が発生する条件の土地は、モンゴルでなくてもあります。

今の日本でだって、霧が峰の頂上辺りはそれに近いでしょう。

自然に道が出来てしまうのには、物理的条件の外に、社会的な条件が必要なのです。

土地の価値が認識され、その権利が意識に上れば、もう自然に道が出来ることなど難しくなってしまいます。霧が峰では国民の資産、子孫に残す貴重な自然という意識が、国立公園として、規制、保護につながってゆきます。

獣が通ることで出来た道が獣道、人が通ることで出来た道が道です。いまはモンゴルでは、石油エネルギーの力を借りて壮大に「出来た道」を造っているのです。

他人の家を訪ねるのに、道がないからという理由は通用しない国なのです。行こうとしても、私の車では、たどりつけませんでしたというならば、仕方ないということになるのでしょう。

 

ウランバートルからウルギーまで、アントノフ24という20年も使ったターボプロップ機の窓から、モンゴルの大地を覗いていました。大抵のところで、前述のように勝手に出来た道が見えましたが、全く見えない地域もあるのです。よほど、土地の塩分が多いとか何かの理由で無価値なのでしょう。

こんなことまでも興味深いので、どんなときにでも窓際の席が欲しくなるのです。

 

このようにモンゴルの地形の平坦さについて述べていますが、これはこの高原が大昔に海底から隆起し、その時出来た地面の皺が、長い長い年月の間に削りならされ、現在は、なだらかな起伏を見せているのです。

テンゲル登頂後、迎えにきてくれるトラックを待って何日もベースキャンプに滞在している間、元気な隊員、例えばAさんが、「ちょっと偵察に行ってきます」と出て行きます。ところが意外に長時間帰って来ないのです。それで、ほかの隊員Bさんが探しに行く、そんな時、Bさんも暫くは帰ってこないことになるのです。

探されていたAさんが戻ってきて「あとからBさんが探しに行ったけど会わなかった?」と聞かれて「いいえ」と答えます。

そんなことが、よく起こりました。

帰る日が近くなった頃、そのことが話題になりました。

大草原のあの稜線を越えたら、向こうがどうなっているか見通しがきくと思って登ってみると、その向こうには、またゆるい上りの斜面がある、そんなことの繰り返しでどんどん行ってしまう。帰りになってから、こんなに遠くまで来てしまっていたのかと、びっくりしてしまうというのが、共通の実感でした。

私もある時は遠くの高みから、ベースキャンプを見通し、遠くの山を目標に、途中の起伏などまったく構わずに歩いたこともありました。

またあるときは、自分が羊になったつもりで、起伏に応じて、楽なように楽なようにと辿ってみたこともありました。そしてこんなことを考えました。

人間がある場所からほかの場所に行く場合のルートの取り方を、類型的に考えると、短距離指向型と水平指向型とに分けられます。

大まかに言えば、前者は時間短縮指向であり、後者は人の消費エネルギー節約指向と言えましょう。

前者の典型は、武田信玄が騎馬軍団を短時間に移動させるために作った「棒道」であり、後者の典型は、発電所建設用資材を人力で運ぶために作られた黒部の「水平歩道」です。

人類は、主として石油エネルギーを投じて、両者の利点を共用できるように努めて来ています。掘削技術を駆使し峠の下をトンネルで抜け、ジェット機で飛び上がってはヒマラヤを越えます。

人の歩き方は、個人の生まれつきの性能や、その後の経験によりにも色々の特性があります。

例として自分について言えば、登るときの酸素取り入れ能力に難点があるので、ルートとしては、登りには緩い角度をとって速度低下を抑え、下りにはとんとんと歩ける限界で急角度のコースを採ると、最も楽に早く到着出来ると計算しているのです。

 

モンゴルの果てしなく広がる緩い起伏の草原、そこでは百人、百様の歩き方が出来ることでしょう。そんなことを言いたさに、ついつい饒舌になってしまいました。

淡き山淡く映して夏の湖

 

●山へ登る女性たち

今回の登山隊は6名、そのうち女性が4名と聞くと、大抵の人はびっくりなさいます。

隊長も女性です。良いじゃありませんか、世界には女性が天皇陛下になっている国だって珍しくはないのですから。

でも今回は、どの女性もすばらしい山歴の持ち主たちで、昨年まで世の雑事にかまけていた私など、とても足許にも及ばないのです。

そして、会話の中に日本山岳会東海支部のお歴々のお名前が、こともなげにポンポン飛び出してくるのです。

 

モンゴルのお土産といえば、カシミヤの織物です。到着した次の日に、もうカシミヤの工場へ品定めに行きました。ところが、着いたのが夕方で、まだ店に人はいたのですが、販売は終わってしまっていて、こちらが山へ入るまでに再度訪問できる機会はないようでした。

案内人の努力で、次の日に、ある商人が売りに来て、女性が買い物をするのを見物する機会に遭遇しました。

審美眼の欠落している私は、全然買う気がないので、始めは他人ごととばかりボヤッとしていましたが「男の人のセンスなんて、まったくダメ」など面白そうな声が耳に入ったので、観察することにしました。

彼女らはそんな口は利くのですが、でも、自分が旦那にどんな風に叱られたかを、楽しそうに話し、むしろ聞きようによっては自慢しているようにさえ聞こえるのです。

いつもハイハイと、家内の言うことを聞いている私としては、たまには「馬鹿、そんな阿呆なことを言うな」など怒鳴ったほうが、女房孝行かしらと思ったほどでした。

「ベストはだめ」「V ネックなんて着たことないから要らない」など言っていた人が5分もしないうちに、「でも良い色合いね。一度着てみようかしら」と言い出します。

また「半袖はほとんど着る機会がないから」とか、「これじゃ職場には着ていけないわね」など、随分と思慮深いところもあるのです。

「これ旦那とペアで買って、マーケットに着ていきたい」など可愛いことを言っているかと思えば、「○○ちゃんに上げればいいわ。最悪の場合は」など、厳しい現実的な言葉も漏れてくるのです。

「こちらのほうが、ほかの人があんまり着ていないから」と、そんなことにプラスの点をつけるのも、私にはないセンスだと面白く拝聴しました。

どなたかが「もういい。そんなに迷うことないわね」と言ったようなところで、買い物は終わりました。

 

私の家では、もう昔々から、デパートに行ったときは「あなたは電気用品売場に行っていなさい」と命令されて、ビデオだのファクスなど見ているうちに、家内が買い物を済ませてくるシステムになっているのです。

だから今回は、心の中の動きの解説付きで、女性の秘園を覗き見る気持ちがしました。どうも私たちの年輩では、男女共学の経験がなく、それだけ異性に対して、いつまでも新鮮な感情を持っているように思われるのです。

女性たちは、情緒的、思いつき的なのですが、偉そうにしていた男たちだって、バブルに会って、過去に慎重審議した常務会の決定事項などがかえって邪魔になり、時代に後れをとる現実があります。もっとも、こんなことを言うこと自体が経済界の自信喪失で、そのために不況から脱出できないのかも知れませんが。

 

いつも思うのですが、肉体的に強い人が山に行くのではありません。それぞれトラブルを持ちながらも、その中でなんとか、やりたいことを現実のものとしているのだと思うのです。

今回のメンバーも、みんな明るくて、積極的な性格の人ばかりでした。そして、言うまでもありませんが、山へ行く女の人は、みんないい女なのです。

 

約半月のあと、ウランバートルに出てきて、NHKの衛星放送で新内閣の内容を知りました。女性たちに「新内閣は小渕総理、宮沢大蔵大臣だよ」と、御注進に参上したときに「わー、気持ち悪るー」という声が聞こえたように思いましたが、それは私の空耳だったに違いありません。

・大草原半円形の虹を掲ぐ

 

●家畜

ベースキャンプで食事を作ってくれたコックのツェルモンさんが、屠った羊のどこかの部分から小さな骨を切り出してきました。それをそのまま、サイコロにするのです。

当然、いびつですから出易い位置と出難い面とがあります。

もっとも出易い面は羊と名付け最下位です。山羊、ヤク、牛、ラクダ、そして一番出難い位置が馬で最強なのです。主人の意志を理解し、助力してくれる馬は、人間の子供の次という扱いなのです。

よちよち歩きの子が30センチばかりの棒を振り上げて牛を追い、大きな牛がのそのそ逃げて行きます。子供の頃から、我々とは動物との関わりが全然違うことを痛感させられました。

 

モンゴルの家畜の頭数は、人間の約12倍、2520万頭で、その60パーセントが羊だということです。

 

ベースキャンプに入る前の最後のゲルで、羊を1頭90ドルで買いました。200頭ばかりの群がぞろぞろ歩いているうちから、あれを、といった調子で選ばれてしまいます。「何か自分の運命が分かっているようで、可哀相で顔を見られないわ」までは良かったのですが「あなたたちも肥ると、ああなるのよ」には身につまされました。

殺したり解体したりする仕事は、男の役割です。血までもこぼさずに料理に使うのですが、男たちは少年に返ったように、とても浮き浮きしているように見えました。

 

傷みやすい内蔵から食べ始め、太股やあばらはゲルの壁にぶら下げて、段々に食べていきました。10人で4日ほど食べたのです。

腐らないのは、寒さと乾燥のせいだったのでしょうか。

羊を食べた第一印象は、脂身が多いということです。解体するところから判断すると、私より脂が多そうだと見ました。

次の印象は、肉は固かったということです。私たちが平生食べている肉は、食べ頃の肉なので、新しい肉は固いのだと言いますが。

味の印象はその次ですが、ステーキにするところやリブ、レバー、骨の髄は、本当においしいと思いました。

 

私たちが滞在していた辺りでは、朝一番に馬の群が出てきて、草原の草を食って帰ります。その後に羊と山羊がごっちゃになって草原に出ます。最後にヤクがやってきます。ヤクは行動範囲が格段に小さいようです。牛の数は少なく、ラクダは旅行の途中でちょっと見かけただけで、稀でした。

200頭ほどの羊と山羊の群に入ってしまうと、もぐもぐと草を食う音が辺りに立ちこめます。好奇心の強い若い山羊が、カメラを覗きに来ます。彼らの意識は、その70パーセントほどが群から遅れずについて行くことに、残り30パーセントが草を食うことに向かっているように見えました。

自分が毎食毎食、羊を食べているせいで、羊たちが食べて肥って、その終わりに殺されて食べられるのが、哀れでした。彼らは、食べられるために、ただひたすらに草を食べているのでした。そう言うわけで、羊に関しては、畠で肥料をやって野菜を作っているのに近い感じがありました。

山から出てくるときに、運転手が羊を1頭買い、荷台に繋いで連れて帰りました。勿論、人間も荷台です。羊はポロポロと糞をしましたが、この頃はもう人間たちも馴れてしまって驚かなくなっていました。

トラックが羊の群の近くを通ると、買われた羊がトラックの上から群に向かって「メーメー」と呼びかけるのです。可哀相でした。

厳しい自然環境の中で、いろいろな性質の生き物を、それぞれの役割で利用している放牧民たちは、生き物だからと言って甘っちょろい平等感など持ってはいられないことなのでしょう。

 

住居のゲルの周りは、当然動物の密度が高く、一面、糞だらけで、踏まずに歩くことは不可能です。そして、その汚れた靴のままでゲルの中を歩きます。

ゲルのストーブは、木も焚きますが。馬の糞も大事な燃料です。

こんな生活にも、人間は意外に早く慣れてしまうものです。

将来モンゴルで、電気やガスの生活が一般化した暁には、馬の糞で煮た肉は、何とも言えない自然な味があるなどいう人が出てくることでしょう。どこかの国にもSLブームがあるのですから。

・夏夕暮ヤク等のドンと目が合ひぬ

 

●ポラロイド

モンゴルの田舎へ入るのに、気の利いた人がポラロイドカメラを持ってこられました。それもなんと今回は2人もおられたのでした。

最初にモンゴル人の家族を撮ってあげたプリントを、体温で暖め像が現れ始めたのを見たときの彼らの反応は、予期したとおりではありましたが、感激的なものでした。

次から次へと、撮ってくれとの催促があり、私もお相伴でモンゴルのお兄さんの歌や、馬の乳搾りをゆっくりと見せてもらえました。

珍しいモンゴルの鷹匠を見せて貰えたのも、ポラロイドのお陰でした。

あとは口コミで、撮って欲しい人たちが、向こうから我々のゲルに押し掛けてきました。

少年が二人で来て、自分たちの写真を見ると、にっこり顔を見交わし、さっと馬首を返して走り去ったときの凛々しさは、ビデオで撮っておけば良かったと惜しまれました。商売ビデオだったら、やらせで撮ったことでしょう。

もっとも、走り出した途端に、馬がブーとおならを漏らしました。

馬たちはいつも、主人を待っているあいだ中、驚くほど静かにしています。日本では社用車の運転手は、運転手同士よく情報交換をしているものなのですが。

馬たちは、静かに待っていた代わりかどうか知りませんが、走り出したときに放屁することが多いようです。

小雨の中、3人姉妹?が私たちのゲルを訪ねてきました。猫を抱いた子は、ある人は男の子だと主張しましたが、結局分かりませんでした。

というのも、テンゲル山の地域に住んでいる人は、80パーセントまでカザフ人だそうです。そしてカザフの人とモンゴルの人は言葉が通じないのです。

カザフ人は兵役に行って、モンゴル語を覚えてくるといいます。だからカザフの男の大人がいれば、会話はできるのです。もっとも、わがパーティの会話の得意なレデイは「可愛い猫ね。この家においていきなさいよ」など日本語で会話していらっしゃいましたが。

このグループの一番年上で10才ほどの金髪、碧眼の女の子は大きなリボンを結び、赤い靴を履いて写真を撮って欲しいと言うことが見え見えでした。そのおしゃれの姿で、道のない草原を1時間も歩いてきたのです。

彼女らはゲルに30分ほどいたでしょうか。猫のこと以外に話題もなく、帰って行きました。

その後、彼女らを見ていると、400メートぐらい行った所で、もう人目がないと安心したのでしょうか、3人固まって熱心に写真に見入っていました。とても可愛いと思いました。

このほかにも、鉱泉に行った帰りに寄ってみたとか、なにやかにやで、「また来た。また来た」という状態になり、私はここをテンゲル銀座と呼ぼうと提案したほどでした。

・秋隣鷹の目に澄む蒙古の天

 

●共産圏

旧ソ連が崩壊してから、やがて10年になります。今頃共産圏など言うのもおかしいのですが、私にとってはいわゆる共産圏は初経験なのです。年月はまたどんどんと過ぎてゆきますから、今の印象を書き残しておきたいと思います。

ウランバートルに近づくと、巨大な冷却塔が見えました。最新の第4発電所だと言います。

お得意の計画経済で、エネルギーは電気と決め、政策的な料金を決めたのでしょう。家庭ではすべて電気で、ガスは全く導入されていません。

市民の足としてバスもありますが、幹線にはトロリーバスが走っています。排気ガスがなくて良いですねと誰かが言いましたら、通訳さんが「でも、停電が多かったときは大変でした」と言いました。それはそうでしょう。

郊外では、地域暖房用の直径数十センチの保温したパイプが地上を走っています。市内では道路の下に埋め込んでありますから、そのインフラは大変なものです。

1月の平均温度がマイナス26度という寒さですから、暖房設備にお金を掛けるのもうなずけます。

市の中心街はレーニン通り、バルチザン通りなど中央分離帯もある大通りが碁盤目に通り、計画性が強いことが見受けられます。

ところが、アパート群になると道も広場も舗装してないこともあって、まったく乱雑に建てられているように見えました。

我々外国人が食べる、つまりどちらかというとハイクラスのレストランが、大通りに面しているのではなく、そんな汚らしいアパート群の中にあるのも奇異な感じがしました。

おまけに、それらが営業中なのか休業なのか外見では分からず、一番始めに行った店が休業だったショックが後を引いて、案内係りが営業中であることを確かめるまで、みんなは車の席を立たない癖がついたほどでした。

お客を呼び込もうとする風土の欠如は、レストランだけではなく、お土産店も博物館も、外からは開いているかどうか分かり難いと思いました。

もっとも、その裏返しかも知れませんが、物の値段に掛け値がないのが普通だということは、私のような面倒くさがりには、大変に好ましく思われました。

私たちが泊まったホテルは五階建てでした。男には5階が割り当てられましたが、これはエレベーターがなく、リュックを担ぎ上げなくてはならない関係でした。もっとも大きな荷物を担ぎ上げてくれるホテルの係りはちゃんと配置され、しっかり仕事をしてくれました。

多分、事情は同じだと思いますが、アパートも事務所もデパートも、大抵の建物は、4−5階で統一されているように見えました。エレベーターなしで土地を有効に利用するルールを、計画的に定めるとすると、平屋でも超高層ビルでもなく、こういうことになるのでしょう。

 

どの建物も外観は綺麗だとは思えませんでした。

アパートは2軒お訪ねする機会がありました。

アパートの外観はぼろぼろで、通路は薄暗く、古い倉庫のような感じです。ところが、一歩玄関の戸の内側へ入ると、そこはまったく別の世界になりなります。

綺麗なカーペットを敷き、日本製のテレビ、ビデオがあり、1軒の電話はコードレスフォンでした。日本の私の家の子供たちの家と変わりません。

ウランバートルの街を歩く人の身なりはこざっぱりし、好感が持てます。

大枠は国が与えるもの、その中で個人が工夫して上手く生きて行く、万事そんな感じでした。

封建国家であった江戸時代の商人たちは、外見は質素、祖末を装いながら、実質は裕福、お洒落を楽しんだと言います。

仏教に「外面如菩薩、内面如夜叉」という言葉があるそうです。外見は美しく優しく見えるが、心は残忍、冷酷な人だとの意味だとのことです。つい、その反対だなと思いました。

・ロシヤ製トラック花野踏みにじる

 

●ホースライデング

最初予定していた飛行機の便がとれないなど、モンゴルへ行く人も結構いるのだなと感じていました。「地球の歩き方」という本にも、モンゴルのがあるのです。

気がついてみれば、若い人にとっては、モンゴルの大草原のゲル訪問や乗馬トレッキングは格好いいことのように受け取られているようなのです。

私たちの目的は山登りでしたから、旅程の大部分、乗馬はもっぱら見る立場でした。

モンゴルの馬は、サラブレッドと違って、背が低いのです。それにモンゴルの人がまたがっているのが、いかにもモンゴルらしい絵になっているのです。

 

乗馬は、つくずく、若い人のものだなというのが実感でした。

体が柔らかく、体重が軽い少年が最もフィットしていることに、異存を唱える人はないでしょう。

テンゲル登頂成功の噂が広がったのでしょう。次の日の夕方に、ベースキャンプ用にゲルを我々に貸してくれた、例の私と同い年の爺さんが馬で訪ねてきました。

生憎、ひどい雨が来て、爺さんは1時間以上もゲルで休んでいきました。

帰るときに、馬に乗るのに馬を岩の横につけ、自分は岩の上から乗るのでした。それでもよろよろという感じでした。

彼に限らず、老人たちは乗るのに苦労していました。とても、ヒラリと打ち乗りというわけにはいけません。

老人は、着膨れていることも、ハンデイになってしまいます。

残念ですが、老人は楽しんで乗るのではなく、仕方なしに乗っているというように見受けられました。

 

帰りの飛行機便を待つ日々の間に、ウランバートルから約70キロ東北に入ったテルジンというリゾートで、私たちにも乗馬の機会が巡ってきました。

始めの日は、乗馬に慣れるために約2時間乗り、次の日は、あるゲル部落まで伝統的なモンゴル料理を食べに行くために、実用的な乗馬旅行をしました。

2日とも同じ馬でした。人に合わせて、私には年寄りの馬をあてがってくれたようでした。

我々の腕で、乗馬についてあれこれ言うのは、烏滸がましいことでしょう。

早く言えば、馬任せでした。

私の馬は、私と似た性格のようでした。登るときには緩やかなルートを採り、帰路になると急に足が速くなり、群のトップになったりするのでした。

さぼっていると、時々モンゴルの馬方が来て「ちょ、ちょ」と気合いを入れてくれましたが、私は「いいよ、いいよ、好きなようにおやり」と日本語で言っていました。

2日目に、鞍を締め直すときに、馬の背中に鞍ずれが出来ているのを見てからは、余計に無理をさせたくなくなりました。

 

訪問したゲルでは、典型的なモンゴル料理の用意が、もう出来ていました。

材料は、直前に中身をすっかり抜き取った首から下の山羊の毛皮と、抜かれた肉、野菜です。

首から、材料と塩と焚き火で熱した石ころを詰め込み、首を針金で強くしばり、こんどはトーチで外からバーバーと炎を吹き付け、焼けた毛をこそげとります。

あとは、ばらばらに切って、中身も外皮も食べるのです。

 

今年のモンゴルは天気が悪く、私たちが滞在した半月のうち一日中雨が降らなかった日は2、3日しかなかったように思います。

この夕方も、料理を作っている途中から雷雨になり、薄暗くなった頃にやっと小止みになってきました。

濡れた鞍を拭いてもらって、帰途につきました。まったく知らない道ですから、100パーセント馬任せです。

私の馬は、この時刻には黄色い花の咲いた木の枝を食うことに決めているようでした。やたら寄り道をして、それを食べるのです。

幸い、右、左はよく手綱のとおりに動いてくれる馬だったので、あまりみんなと離れないようにコントロールしましたが、食いたいだけ食わせながら歩いて行きました。

最後には22時を過ぎ、道は真っ暗でした。

村に近ずくと、私を乗せた馬は自分の家に帰りたがっているようでしたが、私は私のゲルのほうに歩かせました。9人中、3番目に帰り着きましたから、まあまあではありましたが、私のような甘い主人ばかり乗せていたら、1週間もしたら、ぐうたらな馬鹿馬になってしまうことでしょう。

翌日、ふだんは使わない筋肉が痛くなったりして、乗馬も決して楽ではありませんが、今後、旅をするのに乗るか歩くかと聞かれたら、やっぱり乗るほうを選ぶだろうと思います。

乗馬を経験したことの1番の収穫は、それからというものは、馬に乗っている人を見ると、真剣に、どんな乗り方をしているかと、興味を持って見るようになったことでしょう。

よく見ると、百人、百様の乗り方をしているものです。

 

出会ったモンゴル人たちは、みんな上手に馬に乗ることができました。

モンゴル、大草原、ゲル、乗馬のイメージは、まだまだ健在です。

でも、田舎でも非常に稀ですが、オートバイを見かけることもありました。その一番の利点は二人乗りができることのように見受けられました。

オートバイは都市では、まだほとんど見られないのですが。

 

42年前、アメリカにいたとき、乗馬クラブへ連れていってもらったことがありました。

白い馬に乗ったときに、アメリカ人の中から「オー、エンペラーひろひと」と声が掛かりました。たしかに戦前は、ニュース映画の中で、天皇陛下は白馬を召され、軍隊を観閲しておられました。

また、私の祖父は軍人でした。出勤する時間になると、馬丁が馬を引いて迎えに来た時期があったと聞いています。

日本だって、私の世代にでも、今とは比べものにならないほど馬が身近だったのです。

「いつの日にか、モンゴルの人たちが、ここのリゾートに馬に乗るために来るようになったら大変だね」と誰かが言いました。

・雷鳴や山羊首切られ腹割かれ

  

重遠の入り口に戻る