桂林8日間4万9千9百円

(2013年1月5日~12日)

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久しぶりの海外旅行です。

また例の老人の繰り言を聞いていだだけますでしょうか。

・お土産店2題

なにせ、お安いツアーですから、噂に聞いていたとおり、早々に桂林市所在の掛け軸屋さんに連れてゆかれました。「この店は値段は少々お高いかもしれませんが、固い商売をしているお店です。お買い上げいただいた商品に問題があれば、交換に応じてくれます」とガイドさんの説明です。

今年の年初は、桂林でも異常な寒さでした。桂林の緯度は北緯25度と尖閣諸島と同じで亜熱帯に属するのです。本来そんなに寒い所ではないようです。

したがって、もともと暖房設備は貧弱なのです。そこにきて、この異常な寒さですから、ホテルのレセプションの女性はダウンを着て働いていました。

でも、さすがお土産店ともなると、女性はスラっと見える制服のままです。多分、下着を重ねて寒さに対抗しているのでしょう。

私も家内も後期高齢者、身の回りの持ち物を増やさず身辺整理に務めている日々なのですから、買い物をするなんて考えてもいないのです。ところが、そのとき店にいたお客は、私たちのグループの5人だけでした。売り子さんたちは手持ち無沙汰の様子でした。そこで私としては、見るだけでも、多少は御愛想になるかとも思ったのです。

陶磁器は好きですから、眺めてみました。ついでに折角ですから、掛け軸も見ました。「見るだけで買わないよ」と宣言したのですが、売り子さんがあんまり盛んに勧めるので「中国の人は字が上手だね」というようなお世辞は申しました。

あっという間に戻り、もう御役目は終わったとばかり、ソファに深々と沈み込みました。ところが売り子さんは熱心でした。私がちょっと長めに眺めていた掛け軸を3点で3万円にするとシツコク勧めるのです。

もちろん、頑として取り合いませんでした。

彼女は方針を変更し、桂林の名物だという木犀の香りを活かした菓子を何種類も持ってきました。そして、例の「全部で千円」が始まります。時間とともに、その「全部」が、5個から6,そして7個と上がってゆきます。

私も世の中にお付き合いのある頃でしたら、お土産にと買ったことでしょう。でも、今の私には、リュックを膨らませ持って帰って、「こんな太りのもとを買ってきて、どうするの」と叱られることを思うと、どうしても首が縦には動かせません。

日中関係がギクシャクし、日本からのお客さんは半年ぶりだとガイドさんは言っていました。売り子さんたちは、砂漠で喉の渇きに苦んでいる人が僅かな水を目の前にしているような思いだろうと想像しました。私は誰かが、ほんの少しでも買ってくれれば、お店の人たちの気持ちが明るくなるだろうと想像しました。でも、その誰かは、私ではないのです。とてもつらい気持ちになりました。

私を捕まえていた売り子さんは、とうとう怒って見せました。「こんなコワイ人、見たことない」、彼女はそう言いました。コワイ人と言われたのは生まれて始めてでした。コワイは「怖い」ではなくて、「強い・強情な」なんでしょうね。

彼女は売り子さんたちの中で一番の美人でしたから、その神通力が通らなかったことが、彼女の自尊心を傷つけたのかもしれません。

私にとっても、この土産店での思い出は、なにかとてもつらいものになってしまいました。

旅行社としては,おみやげ店からのリベートも計算して、今回のツアーを計画したはずです。あちこちで、沢山のおみやげ店に連れてゆかれました。どこも、かっての上客だった日本人が途絶えてしまっているのです。ある店では日本語を使う売り子さんは休んでいると言っていました。そんな店でも韓国や南米のお客さんには、その国の言葉で対応していました。

もう一件だけ、おみやげ店のことを書いておきましょう。

お茶を売る店です。小部屋に通され、閉じ込められました。そこのおばさんが渡してくれたパンフレットには、実に13種類ものお茶が記載されています。そしてそれぞれが疲労回復、視力減退、電磁波予防、美容美顔、胃腸癌の予防、高血圧、喘息、アレルギー、糖尿病、ダイエット、前立腺、不眠症、更年期障害など、ありとあらゆる体の障害に対応し、薬効があるというのです。お茶の店というより漢方薬屋といった感じじゃありませんか。おまけに、成分や医師の所見などの思考過程は抜きにして、断定的に、これを飲めば、即、この病気が治ると薬効ばかりを記載してあります。おばさんは、われわれの一人ひとりに、あなたはどれにしますかと尋ね、各種のお茶をそれぞれの勿体ぶった方法で煎じて飲ませました。そして茶菓子として木犀の花を使ったクッキーを食べさせました。

「いまから値段を言いますから、どれを買うか考えるのですよ」と宣言しました。私は、勝手に連れ込まれ、彼女が勝手に飲ませたんで、買わなくちゃならん義理はないと、仏頂面をしていました。わがグループは決して無口な人ばかりではないのですが、みんな黙って下を向いているのです。おばさんは可成り焦りました。「よく考えるのですよ」と声のトーンが上がってゆきます。

その様子が、昔、小学校で音楽の女の先生に叱られた記憶と重なりました。あれから何十年たったことだろう、いまこうして日本の老人たちが、叱られた小学生みたいに下を向いていると思うと、心の中で可笑しくて可笑しくて吹き出しそうになりました。

結局、無事に解放されたのですが、このお店には中国人の観光客が沢山訪れていて、それなりに勧誘に乗っているようだったので、救われる思いでした。

要するに、いまどき日本から中国に観光に行くのは、旅慣れた年配の人ばかりだと言ったら、ちょっと自賛が過ぎるでしょうか。終末期高齢者の人というべきかもしれません、ともかく物など買ってみようという人種ではないのです。


・15パーセント

インターネットの掲示板には、無責任な意見開陳が満ちあふれているものです。

先日、ある掲示板で、こんな書き込みが目につきました。

「尖閣問題以降、日本から中国を訪ねる観光客は85パーセント減ったそうだ。でもオレとしては、まだ行く奴がいるのに驚く。その15パーセントの奴らの顔が見たい」。これには私も同意見でした。もっとも、鏡を見ると、そのひとりが映っているわけですが。

今回のツアーは総勢、たった5人でした。ご夫婦1組と男3人です。

こんな少人数で、ツアーがよく成立したものです。旅行社は赤字だったことでしょう。中国観光が途切れるのをなんとか避けようと、泣く泣く催行したのだろうと想像します。

ガイドさんはあちこちで、あんな大きなバスにたった5人か、といわれていました。名古屋からは私ひとり、あとは皆さん、岐阜からの方たちでした。バラバラの日で申し込んだのに、ツアー会社が、偶然私の申込期間の時期に集めたようでした。

こんな時期に中国を訪ねるなんて、鳩山由紀夫のようなルーピーじゃないかと思はれるかも知れません。でも、彼が行ったのは1月15日、私が行ったのが1月5日、この私が彼の真似なんかするはずがありませんよね。

私たちのグループでは、食事の時に「北朝鮮に対しては、戦争も辞さないつもりじゃないと、主張が通らないよ」などとおっしゃる、左翼の反対みたい方もおられ、15パーセント組には政治色などまったくないと判断してもよいと思いました。

旅が終わったあと、いま振り返ってみると、全員、非常に旅慣れていることが共通点だったといえると思います。桂林についても、5人のうち始めて訪問したのは、私ともうひとりの2名だけだったのです。

こんな発言もありました。「朝、喫茶店に行ったら、コーヒーが一杯400円、中国も割安感がなくなりましたね」、ひとりでなにげに喫茶店にいってくるなど、旅慣れた人じゃなくちゃしませんね。

旅慣れているということは、外国人をメディアの目でなく、自分自身で判断しているということだと私は思います。中国人はこうだと断定的に決めつけるのではなく、中国にも色々の人がいる、そしてその主体は世界中どこでも同じ、つまり自分とあまり変わらない人たちだという認識を抱いているといったらよいかもしれません。

旅慣れているということは、衝動的にお土産を買い込んだりしないことです。また、地元民のダンスといった夜のオプショナルツアーなどに参加しないことです。ガイドさんは僕の誘い方が下手なのかしらと悩んでいました。悪いのはお客さんなのです。旅行社にはまったく可哀想なことをしました。

でも、私がなぜこの時期に桂林へ行ったのか、まだご説明していませんね。

実は最初この時期、香港へ行って山へ登ろうと計画していたのです。費用は九州の山へ行くのと変わらないのですから。泊まるユースホステルまで調べたのでした。でも、この情勢下、もしも何かあったら、馬鹿な老人が単独で行って、周りに迷惑をかけたと非難されるのは確実に思えました。それで、いずれ一度は行ってみたいと思っていた桂林のパックツアーを選んだのです。

でも、香港にせよ桂林にせよ、なぜ中国を対象にしたのかといえば、なんといっても近くて費用が安いからなのです。


・安い旅

昨年春、南米にゆきました。そのあと、急に懐に冷たい風が吹き込む感じがし始めたのです。長年、自社株投資会で営々と貯蓄してきた電力株が、枝野大臣が「電力会社を分離」あるいは「風力発電の高価買い入れ」など、口を開くたびに株価を下げました。糊口を凌ぐのに事欠くわけではありませんが、老後の蓄えが減るのは、気分的に滅入るものです。

ついつい「桂林8日間4万9千9百円」というキャッチフレーズが目に焼き付きました。もともと私は、登山や地質・地形、そして歴史など、なにかテーマのある旅が好きなのです。そういう旅は、帰ってきた後で、なにか達成感のようなものが感じられるからです。

そうだ、こんどはどれぐらい安い旅ができるか、チャレンジしてみよう、そんなシミッタレなことを考えました。

というわけで、今回は金額がポイントですから、正確にあげてみましょう。

パンフレットトップの旅費  49,900円
海外出入国税       1,260円
燃料サーチャージ      13,000円
国内空港施設使用料    2,500円
一人部屋追加料金  30,000円


中国国内線空港税   1,538円  (100元)
中国国内燃料サーチャージ   3,998円  (260元)


終日自由行動日のオプショナルツアー  6,500円
名鉄電車 金山ーセントレア往復  1,580円 
特急券 帰路のみ (セントレア着陸21:05) 300円
タクシー         
帰路のみ (名鉄金山着 22:01) 
 1,780円
市内交通 敬老パス使用   0円


合計     112,356円

                                             
満足感との比較では、とても安く上がったと思っています。



・1月の桂林

桂林は北緯25度、亜熱帯です。1月の気温の平均値は最低5度、最高12度と,名古屋より4〜5度高いことになっています。でも、私たちがいたあいだは、最高が6〜7度で寒かったのです。なにより太陽を見たのは8日の間、3時間しかありませんでした。ホテルの窓から例の尖った山の写真を撮ろうとしましたが、ぼやっとしか撮れませんでした。最後の朝など雨の大降りで、なにも見えませんでした。

広域の天気図で見ると、大陸の大きな高気圧の南の部分になるわけですから、東風が多かろうと想像していました。ガイドさんに一年中の風向きを聞いてみました。「ここは山が多いから、風吹かない」という返事でした。滞在中まったく風がないわけではありませんでしたが、そんなに強くはなく、風向きはランダムでしたから、地形による局地風だと思います。何と言ってもどんよりとして視程が短く、私のように地形を見たい男にとっては不利な条件でした。ちょうど、北京で大気汚染のグレードが高いと報道されていました。桂林は汚染物質のせいではありませんでしたが、神経質な人なら、毎日毎日、深刻なスモッグだと思える状況でした。


・交通事情

桂林市の交通信号は、後発の利点を十分に活かして、矢印とフリッカーを多用した優れたシステムで運用されています。ガイドさんも「中国で変わったこと、信号を守るようになりました」と誇らしげに宣言しました。

とくに変わったのは、黄色信号で減速/停止に入るアクションで、監視カメラで黄色信号で減速しない運転者を見つけ次第、厳しく罰金を徴収することにしてから、よく守られるようになったとのことでした。確かに停止を前提にした減速は、日本とは比べものにならないほど厳守されていました。日本では、「黄色は急げのサイン。横からの車が青信号で交差点に入る前に通り過ぎちゃえ」という大勢の声で、横の信号が青くなるのを遅らせ、両方向とも赤信号とする時間を設けた方式をとっています。大国である中国は、小国日本に追随するのを、潔しとしたくなかったのでしょう。欧米流の「黄色すなわち減速」方式を固執する気のようです。

そういったわけで、都市部はよいのですが、町外れになると信号はない、車は多いで、大変な状態です。両側ともぎっしり車が詰まっています。脇道から入ろうとする車は、気長に待つより仕方ありません。そして目の前に少しでも隙間ができれば、車の頭を突っ込みます。そしてさらに、センターラインの向こうの車線にまで入ろうとしたりします。向こうの車線では、そんな車を入れてやろうなんて思いもしません。それで、手前の車線の流れはその割り込んだ車のせいで、何時までも止まったままというわけです。

それを見ていて、尖閣諸島のことを思い起こしました。一生涯、こんな暮らしをしている人たちなのだから、ルーピーが隙間を作ったら、すかさず頭を突っ込んでくるのは日常茶飯事、当たり前のことなのだろうと。

交通事情には、車だけではなく歩行者の分野もあります。

ゼブラ柄の横断歩道が設けられてはいます。そして、横断歩道での人身事故は、間違いなく車の運転手が罰せられると聞きました。でも、実際には横断歩道など殆ど無視されていました。横断歩道が少ないというより、道路を横断する人の数があまりにも膨大というべきなのです。市街地では、道路上に車と歩行者があまりにもゴチャゴチャと混在しているので、日本での概念を持ってすれば、よくも事故が起こらない、またはきっと事故が多発しているに違いないと思うことでしょう。

でも、見ているうちに、ちゃんとそれなりのルールがあるのが分かってきました。

センターラインが安全地帯になっているのです。そして車線を分けている線が、次のランクの安全地帯なのです。ですから、ちょっと隙間があれば、1車線分向こうの線まで辿り着き、次のチャンスを待つのです。こうすれば、広い道路に切れ間なく車が走っているように見えても、案外横断するチャンスを掴むことができるのです。

線の上に立っていて危なくないか、と仰るかもしれません。でも日本でだって、片側1車線の歩道のない道路では、路肩を歩いている横を車が走っているではありませんか。多少、詭弁っぽくはありますが、間違いではないでしょう。日本でも中国でも、車は原則、線の上は走らないのです、とくに中国ではそういうことになっています。車線変更は、人がいないところ、あるいは人をどかせてすればよいのです。なんといっても、日本でも中国でも、大原則は「事故を起こさない」ことなのですから。


・テレビのチャンネルから

ホテルのテレビにはケーブル・テレビが入っていて、50チャンネルほど見ることができます。

スポーツ・チャンネル、お子様チャンネル、経済チャンネルなど、日本と同様、いろいろ流れています。 ニュース・チャンネルでは、「 最もタカ派の人物が日本の首相になった」と、日本の某有力紙と同様、非難がましい論説を流していました。

そんななかで、 常時、 反日専門チャンネルが3本流れているようでした。

ひとつのチャネルは、中国軍の武勇談です。イケメンの隊長さんが、日本兵の不寝番がうたた寝をした隙に、後ろから声も立てさせずに刺し殺し、忍者もどきに塀を乗り越え、部下たちを引き入れるというような活動ぶりです。この隊長さん、まるで必要でもないシーンで、とんぼ返りをして見せたりもするのですが、 日本兵に殺された子供に復讐を誓う場面も出てきます。

この物語の演出では、戦っている日本兵が鉄兜じゃなくて、観兵式の晴れ着ともいうべき丸くて赤い帯の入った帽子を被っているのです。言ってみれば、フロックコートをきてサッカーをしているようなもので、笑えました。

ほかのチャンネルでは、日本軍が国際法で禁じられた生物兵器を扱っています。その厳重な秘密倉庫に、中国の若き男女がアメリカ人と協力して忍び込もうとしていました。

〈テレビから 日本の漢字ならば多分、我2架軍機対日軍機実施査証監視〉


このほか、毛沢東と蒋介石が、ある時は協力し、またある時は反発しながら、ともに日本軍と戦っている劇を流しているチャンネルもありました。

某観光地の、お土産店の店先でのことです。紺の布に白字を染め抜いたノレンを売っていました。そのあるものは「釣魚島是中国固有領土」と、読めました。

繁華街を歩いてい て、お店の中のテレビから「キャー」という声が聞こえたら、日本軍の残虐行為のシーンが流れているのではないかというような気分になりました。 多分、間違ってはいないでしょう。

ガイドさんによれば、昨年夏、桂林でも反日運動はあったのだそうです。「なんにも知らない若い人が騒いだ。でも、警察が抑えたので大したことなかった」そうです。

もう八十余年、世の流れを眺めてきた私には、こんな社会現象が「中国における反日運動」という特別なものには思えないのです。

メディアがこれでもかこれでもかと煽りたて、事実を体験したことがなく、考えるよりも感じるタイプの一部の人たちが燃え上がり、それが、まるで国民一人残らずが、そのように思っているかのように喧伝され、政治に利用される現象は、たとえそのテーマがどんなものであっても、またどこの国であっても、何時の時代でも起こっていると考えます。

遠くは、ヨーロッパ諸国で、聖地奪回の声を掲げた十字軍もそうだったのでしょう。そして近くの日本でも、大東亜共栄圏、鬼畜英米と騒ぎ立て、負ける戦争に突入した反省は、日本の後期高齢者の心には通ずるはずです。こんど訪ねた中国でも、40年前に吹き荒れた文化大革命・紅衛兵の狂乱があったことを思い出す人もあるでしよう。

公害、いじめ、体罰、沖縄駐留米軍、オスプレイ、地球温暖化、反原発など、テーマはなんであれ、こうした社会の行動はワンパターンであります。この現象は、ホモサピエンスの作る社会が持つ根源的な特性なのでありましょう。


・占領軍

いつも、中國を訪ねて静かな田舎の景色に出あうと、60年前、日本兵たちがドヤドヤと押しかけてきたとき、どんなに嫌だっただろうと、申し訳ない気持ちになります。

いまも沖縄で「またもや駐留米軍の不祥事発生」とめくじらを立てていますが、アメリカほど質の良い軍隊は、史上初のものでありましよう。なにせ沖縄戦では、捕虜が出ると予想し、そのため6万人分の食料を持ってきたというのですから。それ以前、人類は長いあいだ戦闘時の食料は、現地で調達するのが常識だったのです。

日本軍が中國に攻め込み、中國の人に迷惑をかけたのは日本が強かったからで、中國が強かったら逆になっていたのでしょう。

とはいっても、今、700年前の元による壱岐・対馬侵攻時の惨状など持ちだしても仕方ありません。わたしは今の中國の村人たちに、素直にお詫びしているのです。

・着ぶくれて川下りする面白さ



・観光2題

4時間強の漓江下りは、桂林観光のハイライトです。外人用の観光船には、我々のほかには大勢の南米チリからの観光客、リッチな中国の観光客などが乗り込んでいて、とても賑やかでした。

すごく寒い日で、例の次々と現れる奇岩怪峰の頂上に霧が吹き付けて凍りつき、白く見えていました。この日は、厚い雲に覆われた霞んだ日でしたから、まさに水墨画の世界でした。ガイドさんは「あそこに見えるのが望夫石、若い母親が子供を背負って夫の帰りを待ち望んでいる姿です」、「突き当りに見えるのは九馬画山、岩壁の模様が馬に見えます。あなたには何頭見えますか」など、熱心に解説して感心させようとします。

正直の話、お客さんたちは、そんな解説には、大して心を奪われてはいないように見えました。なにも考えなくても、行く先々に大自然の感嘆を誘うシーンがめぐってくるのですもの。

あまりに沢山の◯◯岩がでてくるものですから、中国人って景色に名前をつけることを楽しむ人たちなんだなと思えてきました。日本でも亀岩とかローソク岩など名前を付けますが、これももとは中国から伝えられた習慣なのかもしれないと思ったほどです。

船客の中には変な観光客がいました。「柔らかいところが削られて、固いところが残ったのでこんな景色になったのだと説明があった。そして、皆さんは、それで納得し、それ以上考えもしない。でも、どうしてあんなニョキニョキと岩峰が残るような条件で硬くなったのか。周りの山のうちには、普通のナダラカな山だってあるじゃないか。古生代石炭紀に堆積した石灰岩によって形成された土地が、世界中どこでもこんな形になっているわけじゃない、なにか桂林だけの特別な理由があるはずだ」彼はそんなことを頻りに考えていたのです。

別の日、蘆笛岩という鍾乳洞へ案内されました。鍾乳洞ですから、上から垂れ下がる鍾乳石や、下から成長した石筍の織りなす奇怪な造形が、ブルーやレッド、グリーンの照明に浮かび上がり観光客を喜ばせていました。ここでも「天を支える二柱」、「頭を隠した鯉」など、漓江下りと同様に◯◯岩が数限りなく説明されました。極め付きはクリスタルホールです。これも本来、物理的な訳があってできた空洞なのですが、天井の高さ20m弱、幅100m弱という、とてつもない大きさです。ところがこの空洞の奥の方に水を貯めて池が造ってあります。その向こうの背景をブルーのライトで広く照明し、その前に様々な石筍をしつらえ、夜のスカイスクレイパーを演出しています。おまけに時間を決めて大音響の音楽を流すのです。ガイドは音楽が始まるからと、見物を急かせました。当然のこと、われわれの1人が「下から立ち上っている石の柱は、始めからあった自然のものなのか」と質問しました。ガイドは「後から置いたのもある」と口を濁しましたが、石筍なら上に鍾乳石があるはずですから、ほとんどの石筍が後から人為的に置かれたものと想像されます。やや離れた場所からのぞかせて、ほら桂林の夜景に見えるでしょうと、とくに解説されました。

鍾乳洞内の歩道も歩きやすいように舗装されていますし、いずれにせよ観光客のために大いに人工の手が加えられています。日本でしたら、とんでもない自然破壊だと、血圧を上げる人が出てくるに違いありません。

科学的な説明は2点だけありました。この鍾乳洞が7千万年前にできたことと、石柱が成長して百年後に天井に届くといわれている、のことでした。

ここにもやっぱり、変な観光客がいたのです。「この鍾乳洞は全体的に水気がなく珍しくドライなもので、一部を除いて殆ど変化が止まっているのではないか。高い石柱となっているのは、カルシウムを溶かし込んだ水滴が、石柱の円周端に達するまでに石化してしまうためであろう。してみれば、とても百年では天井まで届くはずがない。

それに石灰岩が堆積したのが3億年前、洞窟になったのが7千万年前ならば当然生物化石が見つかるはずだが、そのことは一体どうなっているのか」そんなことを考えていたのです。

もちろん、このおかしな観光客とは、かく申す私なのです。

事前に、ネットで桂林の特殊な地質、地形のことを調べていました。

石灰岩地帯の特殊な地形を、カルスト地形といいます。かつて著名な英国のカルスト地形学者が桂林の岩溶研究所を訪れた際、もしも、ここの石灰岩地形が最初に研究されていたなら、スロベニアの地方名に因んでつけられたカルスト地形に代わってグイリン(桂林)地形という語が生まれていたことだろうと語ったということです。ここは、そんな世界を代表する特殊な石灰岩台地なのです。

この桂林にきた以上、その「中国岩溶地質館」を是非訪ねたいと思っていました。

終日自由行動という日に、そこへゆきたいと思いガイドさんに尋ねましたが、そんなところは聞いたこともない、だれも知らないよ、と言われてしましました。取り付く島もないので、ホテルの女性に桂林市の観光案内所に聞いてもらいました。でも、結局わかりませんでした。

桂林は遊ぶところで、勉強するところではないんですね。それはそれで大らかでとても良いことだと思います。でも、この変な観光客にとっては、必要でも義務的でもない、ただ興味本位の詮索がとても楽しいのです。遊学っていう言葉がありましたっけ。

大らかな中国人社会についての感想には、次項で触れたいと思います。


・大国中国

旅の6日目、桂林の北北東70kmほどのところにある霊渠を見学しました。

霊渠というのは、BC214年秦の始皇帝が完成させた、運河なのです。この運河で長江(揚子江)と珠江をつなぎ、中国の中部と南部の交流を開いたのだそうです。


日本で卑弥呼が登場するよりも、まだだいぶ前の時代に、こんなにも大規模、かつ高機能の土木工事が行われ、それが今だに存続していることは驚きでした。

でも私はここで、別の意味で中国という国について、いろいろと考えさせられたのです。

それというのはガイドの説明が、目の前で見ている現実と合わないように感じたのです。それで帰国してからネットで霊渠について調べてみました。すると、霊渠については、それはもう沢山の記事、見学記がありました。それらにはガイドさんの解説と大同小異の話が書かれています。

してみれば、それが公式見解であるように見えます。そしてそれに私が疑念を呈することは、客観的に見れば、馬鹿げている、あるいは間違っているに違いありません。

川の水の季節的な流量変化を始めとして、いろいろの条件があるなかで、その中の一時期を瞥見しただけで、私見を言い募ることの愚かさを承知のうえで、私の意見を述べてみましょう。

霊渠についての現在、現地でおこなわれている説明は、成都にある都江堰についての説明に、あまりにも無批判に引っ張られているように思われます。

都江堰はユネスコの世界遺産に登録されていて、超有名です。BC251年完成とされていますから、霊渠よりやや先行、ほぼ同時代といってよろしいでしょう。

成都の都江堰の主目的は、農地を灌漑するための取水です。ところが桂林の霊渠の主目的は運河による船の運行だったのです。前者では送り込まれる水の量が必要条件ですが、後者では船を浮かせる水深が必要条件なのです。船の運行には水の流速は遅いほうが望ましいはずではありませんか。

その主目的をごっちゃにしたまま、堤の姿が「人」の字に造ってあるだとか、やれ「天秤」だとか、中洲の先端の 魚の嘴に似た 形状で水量を分割しているだとか、桂林の川下りや鍾乳洞でも述べたように、理屈よりも姿、形に想像を膨らませることを楽しむ中国人の性向を感じたのです。

霊渠は、日本では想像もできない遠い昔の設備ではありますが、現代の中国の水利土木の技術者による研究などあるに違いないと想像します。そういう論文などまったく目に触れず、怪しげなお話が孫引き孫引きで通用し、沢山の人がそれを楽しんでいる社会現象を、やはり日本とはちょっと違うように感じたのです。

私は、中国の大衆は大陸的でおおらかで、羨ましい社会だなと思うのです。実際、大衆にとっては、いろいろの事象について、その故事来歴や原因結果などどうであっても関係のない話です。ただ、見て面白く、それに感動していれば良いではありませんか。日本だったら、やれ、その話は正確さが足らない、外人にそんな説明をしちゃ国辱モノだなど、正義漢づらをしたお節介なインテリ・クレーマーたちが出てくるだろうと想像します。

私には、中國では情に棹さす人と情に流される人の相互関係が大変希薄で、お互い、ほとんど無関係で存在しているかのように見えるのです。そしてその理由は、中國が日本人では想像ができないほどの大国であるからだ、と感じたのです。 

日本では、中国人の犯罪だとか有害食品の報道を見て、中国人は悪い人たちだと決めつけている人は多いのです。 私は従前、 そういう人たちに対して「中国の人口は日本の10倍、美人も10倍いるし、ブスも10倍いる、悪い人も良い人も10倍いるのさ」と応じていました。

湘江と漓江をつなぐ赤い線が霊渠

この筋書きは、人数だけでなく、質の面でも当て嵌まるかもしれません。1万人にひとりの天才(善でも悪でも)が、中国では日本の10倍いるでしょう。これを延長して考えると一億人 にひとりの天才は日本はひとり、中国は10人、10億人にひとりの天才は中國にはいるが、日本にはいないことになります。ピンとキリとの差も、日本よりずっと大きいはず?、でしょうかねぇ。

今回訪ねた桂林は、中國の南の端の地域で、雲南省、貴州省などに接する広西壮族(チワン族)自治区にあります。南はベトナムと国境で接しています。さて、中國でこそ少数民族とされるチワン族ですが、その人口は実に1850万人と多いのです。オランダの国民人口1600万人より多く、スウェーデンの900万人と思い合わせると大変に大きなな少数民族だと思いませんか。

中國は、人数も多ければ、その人の資質もピンからキリまである大国なのです。日本のような、国としての一体感などあろうはずはありません。遥かに遠くに住んでいる漢民族やウルグイ族がどうしようが、とくに自分と関係はないのです。こうして、自分の損得に関係することはあくまで頑張るけれども、他人は他人として付き合うのを、天与の条件として月日を送ってきたのでしょう。

帰国後、「中国、いかがでしたか」と声をかけられたときに、「ええ、面白かったです」と 単純には 答えられなかったのは、中國が大国であり、実はピンからキリまでいろいろありだと考えてしまったからです。

中國とお付き合いしてゆくのに、日本と同じような国だと考えては、事を誤ると思うのです。


・手袋紛失

最終日の最後の見学先は、碑林でした。ここでは桂林の奇景を作り出しているあの石灰岩に、長い時代にわたって、その時代時代の名筆が字を彫り込んでいます。玄関に碑林桂海と大きな字を彫り込んだ2m四方ほどの大きな石の額が立てられていました。海は、沢山あるという意味だと聞きました。

ここの園内で、ラクダの姿に似た岩に着いたとき、右手の手袋がないのに気が付きました。

寒い日でしたから、 ムービーとカメラの シャッターを押すたびに、手袋を脱いだりはめたりしているうちに落してしまったのです。

私は手袋をなくすことは、ほぼ不可抗力だと割り切っています。そこで今度の旅でも、リュックにもうワンペアの手袋を入れていました。そして、もう翌日の朝は空港から帰国するのですから、困ったわけではありません。

私としては,ここまで失くさずに来られたのは上出来で、いまさら落し物をしたと騒いで、周りに面倒をかけるまでもないと思いました。でも手袋というものは、落とされた方も、残された方も、両方揃っていればこそ価値があるのです。手袋さんが、あの揃っていた頃のことを恋しく思ったら気の毒だという気持ちは残っていました。

紛失に気づいてからホテルに帰るまでの一時間ほど「おれは手袋を見捨ててしまうのか、それとも探しに戻るのか、最終的にどう振る舞うのかしら」と、自分を、まるで他人のような目で見ていたのです。

ホテルに帰ると、まだ四時です。とくに用もありません。碑林までは歩いて十五分ほどです。歩いてゆき、門番と手真似で交渉するのも面白かろう、見つからなくたって、もともとのこと、話の種が出来るだけでも面白かろうと思えてきたのです。また、この数日間、ただバスの中から見ていただけの、あの中国人たちが車の洪水の中を歩いて渡る道路横断も経験してみられると、ちょっとした冒険気分に誘われました。

碑林の玄関で、門番に手袋をした左手を見せ、その左手の人差し指で素手の右手をつつき、そして園内を指しました。これで失くした手袋を探しにゆきたいと、わかったんですね。門番は行けと言いました。

正面の道を行こうとすると、後ろから「おーい」と声をかけられました。そういえば、さっきは右方向に行ったのでした。それで、右手に行くと、また「おーい」です。今度はポカンとしていると、男の人がきて、先方の岩の上に乗っていた手袋をとって渡してくれました。私がそこで落としたのか、もっと奥で落としたのを誰かが持ってきてくれたのか、そういう中国語はまったくできません。ただただ、「シェ、シェ」と御礼を言っておきました。こんな中国語ならば、だれでもできますよねえ。

旅の最後に、こんな親切にしてもらって、ニュースなどには登場しない、私と同じような普通の中国人たちをすっかり好きになったのでした。


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