元祖〈カルスト地形〉訪問


元祖〈カルスト地形〉訪問

(2014/09/06~14)

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今回訪れたスロベニアはイタリア半島の付け根の東側にある人口約200万人、広さは四国ぐらいの可愛い国です。工業国としてヨーロッパ社会を支える一翼を担っています。サッカー、バスケットボール、登山などのスポーツでも世界的に頑張っています。

鍾乳洞で有名な秋吉台地域が、カルスト地形なのだとお聞きになったことがおありでしょうか。 あの灰白色の石灰岩が造りだす特殊な地形なのです。 スロベニアの「カルス」地方は典型的な石灰岩地域で、ここを対象として詳細に研究されたのです。ただ、発表する際にドイツの学者が「カルスト」という名を使ったので、それがそのまま定着したのだそうです。


今回は、カルスト地形という名前が生まれたその本場を、大学の自然地理学の先生が案内してくださる旅と知って、一も二もなく参加を申し込んだのです。

一行は14名、私以外はみな学校の先生方です。先生集団は、お互いに◯◯先生と呼び合っておられました。ですから私も8日間、大坪先生で過ごしてきたのです。

そんな学術的な旅ではありますが、どうせ私には高度なことなどわかりはしないし、書くことも出来ないのです。いつものとおり気軽にお読みいただければ嬉しく存じます。


石灰岩と私

石灰岩との馴れ初め

1945年8月15日、戦争は終わりました。私は中学校の3年生でした。
幸い、学校の校舎は激しい焼夷弾攻撃から免れ、焼かれずに残っていました。
しかし名古屋市の家屋焼失率は52パーセント、13万5千4百16戸という数字があります。先生も生徒も、半分の人は住む家がなかったのです。食べものだって、親が何処から工面してくれたのか記憶が無いほど不足していたのです。とても授業など可能な状態ではありません。
終戦の玉音放送を聞いたのは瀬戸の近くの小学校でした。その2週間ほど前から、昼間は軍隊の飛行場で飛行機を敵襲から守る掩体壕を造り、夜は小学校の教室で寝泊まりしていました。
玉音放送はガーガーと雑音だらけのラジオを大勢で聞くのですから、私には何も聞き取れませんでした。ともかく、戦争は終わったのだと知らされ、みんなと一緒に瀬戸電に乗り名古屋に帰って別れたところで、学校との縁は一時切れてしまったのです。
当時の日本では電話線でつながる電話でさえ、持っている家は稀でした。
私の学校は旧制の私立中学でした。5年制で、いまの中学と高校がつながったような形態でした。学校と地域とのリンクはなく、春日井や瀬戸など郊外から通う生徒も沢山いました。
なので、自分の家の近所に住む同級生たちとの行き来の間に得られる口コミだけが、学校についての情報源でした。
近くの桜山に住んでいた寺井君が「尾関君が渥美半島・田原のお母さんの家に疎開している。遊びに来ないかと誘ってくれてる」というのです。尾関君の家は今池でしたが空襲で焼け出されたのです。田舎には食べ物があると聞いていたので行くことにしました。なにを食べたか記憶がありませんが、何日か食べさせてもらいました。
そんなある一日、海水浴にゆくことになりました。山を越える近道と楽な回り道があるとのことでした。中学生でしたから近道をゆくことにしました。
はっきりしない沢を無茶苦茶登り、山を越え海岸には到着しました。今から思えば海抜250mの蔵王山を越え三河湾に出たのです。がらがらした石ころが詰まった沢を登った記憶があります。もちろん物資不足で靴などなく、下駄を履いて登り下りしたのでした。砂浜には辿り着きましたが、人っ子一人いない淋しい海岸です。疲れ果てていましたし、海水着があるわけでもなし、せっかく浜辺に行きながら泳がずにまた山を越えて戻ってしまいました。これでもフルに一日がかりでした。
その時の沢を埋めていた灰色の石ころが石灰岩だったのです。そして私はそれが石灰岩であることを知っていました。
そのころの私は、石ころの名前としてはもうひとつだけ、御影石を知っていました。それは我が家の石垣が御影石だったからです。
なぜ石灰岩を特別に知っていたかを考えてみると、学校の理科の実験で石灰岩に希塩酸をかけるとぶくぶくと炭酸ガスの泡が出て、燃えているマッチを試験管の中へ入れるとスッと消えたのが印象的だったからです。石灰岩は柔らかくて釘で引っ掻くと跡がつくから判別できると教えられ、なにか非常に特別な鉱物のように感じていたのでした。
握り拳ほどの石灰岩を渥美半島の田原からお土産に持って帰り、水盤に入れました。勉強で夜遅くなると鮒が石灰岩に寄りかかってじっとしていました。魚も寝るんだなあと思ったことを思い出します。

石灰岩の山との出会い(日本)

登山を始めた頃、鈴鹿セブンマウンテンの一番北にある藤原岳は手近な山でした。その登山ガイドにこの山が石灰岩でできていること、そして円い凹地のドリーネ、羊の群れのような白い露岩のカッレンフェルトを観察するようにと書かれていました。それが、なにかバター臭いような、学問的なような気がしたことを憶えています。

私は山岳巡礼派ですから、あちこちの山に登りました。ただ、日本ではいわゆる名山として取り上げられているのは富士山を始めとして火山が多く、石灰岩では、地元の藤原岳と伊吹山、そして遠くでは関東の武甲山と東北の五葉山が印象に残っています。

地球あちこち石灰岩

会社を退いてからは世界のあちこちを旅することが出来ました。自己満足と見えるかもしれませんが、訪問先の中、石灰岩との出会いを並べてみます。
全部をお読みになる必要はありません。どれほどあちこちで出会ったかを、太字で書いた名前で、ご覧いただければと思います。

メキシコではカンクンからマヤ遺跡を訪ねました。マヤ遺跡は石灰岩を使用して造られました。そこへ行くまでの低い雑木林の広大な大平原を走りながら「このあたりの樹は大きくなれません。地面の直ぐ下が水浸しの石灰岩の岩盤で、木々はその割れ目に根をコジ入れて生きているのです。」という説明でした。水を含んだスポンジとも例えられました。
また、ところどころに直径が30mほど、水面まで深さ20mほどの穴がありました。やはりドリーネで、ここではセノーテと呼ばれています。なにせ凄くスケールが大きいのです。下には鍾乳洞があって、その天井が落ちたものなのだといわれます。マヤ族たちの宗教的儀式に使われたとのことで、今でも水底から人骨が見つかるなどという話を聞かされた覚えがあります。


エジプト・ギザのピラミッドは、これまた巨大な石灰岩を積み上げて造られていました。すぐ近くにその採石場があります。そして大きな石灰岩ブロックをを切り出した残りの一部が、スフィンクスの像に整形されているのです。ここの3基のうちで一番新しく一番小さいメンカウラー王のピラミッドだけは、下部に花崗岩の巨大なブロックが積み上げてあります。花崗岩はこの辺りでは産出しないので、遠方から運んだものです。ここギザの環境下ではでは、花崗岩のほうが風化され難いと見受けられました。
同じエジプトの細長い塔、オベリスクには花崗岩を用いており、ずっと南のアスワンあたりで苦労して切り出している場所を見ました。
石灰岩にも色々あり、質の良い物を表面の目立つ所に使用しています。カフラー王のピラミッドのトップは上等品ですから今でも崩れず白く輝いていました。

ピラミッド

カフラー王ピラミッド(左)とスフィンクス


ピサの斜塔は大理石で作られています。大理石は石灰岩が熱と圧力で再結晶化したものです。

ピサの斜塔

ピサの斜塔 

この辺りの建物にはすべて大理石、石灰岩が使われていました。斜塔の螺旋状の階段は登った人が足をかけ易い部分が磨り減っていました。私は少しでも減らすまいと、今まで踏まれていない部分を踏んで登りました。


ドーバー海峡の白いチョーク崖も訪ねました。黒板に書くチョークの語源になった白い柔らかい石、石灰岩の崖なのです。白亜の言葉がピッタリの真っ白い崖です。バス停から貧弱な植生の平原を海岸まで歩きました。

ドーバー海峡の対岸、フランスのシェルブール方面でもやはり石灰岩の白い崖なのです。ここの風景は画家たちの感性を刺激するようで、よく画題になっています。私は展覧会でそんな絵に出会うと、あの石灰岩の崖だなと懐かしく鑑賞しているのです。

ドーバーの崖

ドーバー海峡チョークの崖


フランス中部にはラスコー洞窟があります。ネアンデルタール人、クロマニヨン人に絡むペリゴール地方を訪れました。トゥールーズからレンタカーを使ったのですが、当時のフランスでは一般道では道路番号が使われておらず、おまけにヨーロッパ村落は碁盤目でなく同心円状に組み立てられているので、ドライブには苦労したことを思い出します。

ルルドの泉

ルルドの泉と信者の列


フランスはピレネー山脈麓にあるルルドの泉はカソリックの巡礼地です。

1858年、泉に聖母マリアが現れ、ここの水には奇跡の薬効があると伝えられます。丘の上に聖堂が建ち、下の石灰岩の洞窟には善男善女が長蛇の列、車椅子の人たちが目立ちました。だれもかれもロウソクを持ち、聖歌の合唱が、まるで波が押し寄せるように流れていました。


アイルランドの石灰岩地帯では海の港の護岸に石灰岩が使われていました。

子供の頃の理科実験で経験した、希塩酸と炭酸ガスとの反応からの連想で、溶けやすいと思い込んでいた石灰岩が塩水に耐えて護岸に使われているのに驚きました。

気仙沼

気仙沼の折れ石


その後、東北地方、気仙沼の北で石灰岩の海浜を見て歩きました。大理石海岸とか折れ石だとか、海水に対しては石灰岩は意外に強いという印象を強くしました。海水のPHは8.4、ややアルカリ性なのだとかいわれているようです。


中國のジオパーク雲台山へは東京地学協会の巡見でゆきました。レセプションの建物の柱に使われている石灰岩に、皆さん目を見張りました。なんとも大きなフズリナの化石がいっぱい入っていました。


ベトナム北部のハロン湾は、海に怪奇な形の島々が無数に点在する世界遺産に指定された名勝です。ちょっとした水上学 

ハロン湾

ハロン湾の水上村

校まである水上生活者の部落も珍しいものです。あの島々は石灰岩が侵食を受けたもので、海の桂林と呼ばれることもあるそうです。ここでは鍾乳洞へも入ってみました。


2年前のこと、尖閣諸島のトラブルにより日本から中國への桂林観光客が86%も減ったと報じられました。石灰岩もさることながら、残りの14%の人ってどんな人なのかしらという点にも興味をそそられ、中國の桂林を訪ねました。

桂林

桂林

「世界中で、石灰岩地形の最も典型的な場所はここ桂林だ。もし地学がもう少し遅れて始まっていたら”ヨーロッパのカルスト地形”ではなく、”中國の桂林地形”と呼ばれていたはずだ」などと高言しているのに、それらしい博物館とか資料館とかは見当たらず、ただの観光に終わってしまったのは残念でした。

パムッカレ

パムッカレ

トルコのパムッカレは美しい昔からの温泉地です。 ここのリムストーンプール(畦石池)は、石灰岩が温泉に溶け込み地表に流れ出て析出し畦を作り、温水を湛えているものです。その数の多さと規模の大きさ、そして純白色の美しさはまさに世界遺産だと舌を巻くおもいでした。 温泉治療を期待し、昔から世界各地のリッチな病人たちが保養に訪れたのでした。その結果として、薬石効なく亡くなられた人も多く、ネクロポリスと呼ばれる霊園では、いろいろのお国柄の墓を見ることができました。

マンモスホットスプリング

マンモス・ホットスプリングス

 一面の地熱地帯で火山岩ばかりかと思われているアメリカのイエローストーンでも、マンモス・ホットスプリングスと呼ばれる場所はパムッカレのように白い美しい棚田状になっていました。成因はやはり石灰岩が温泉に溶け込み地表に流れ出て析出したものです。


ニュージーランドの土ボタルで有名なワイトモ洞窟がある地域も石灰岩です。鍾乳洞の壁や天井で土ボタルが青白い神秘的な光を放っていました。日本の純度の高い石灰岩を見た目には、えっ、これが石灰岩!と驚くぐらい土っぽい石灰岩だったという記憶があります。

ピナクル

ピナクル                                

オーストラリア南西部の都市パースからピナクルを見にゆきました。砂漠の中に人の背丈ほどの石の柱が林立し、なんとも不思議な光景で、奇異の感をそそられました。これも石灰岩が作りだした自然の造形なのだと知りました。


ルーマニアのカルパチア山脈は砂岩と石灰岩とで構成されているように見受けました。暑い日だったので、鍾乳洞に入ったら別世界のように涼しくて助かりました。何万年か前にアフリカからユーラシア大陸に渡り、フランス、スペインなどまで生活圏を広げていったネアンデルタール人、ホモサピエンスたちが、こんな鍾乳洞と緑豊かな道を辿ったのだろうかと想像したことでした。

ドロミテ

ドロミテ


さて、知ったかぶりの話が続きました。自慢らしく聞こえましたらお許し下さい。 いい加減に終わりにしなくてはいけません。これが最後です。


今回参加した巡見の前の月、山の仲間と北イタリアのコルチナダンペッツオオルティセイなどの街を基地としてドロミテ地方の山旅を楽しみました。

 ドロマイトという岩の名前は、この地方の名前ドロミテからつけられました。石灰岩CaCo3のカルシウムCa の相当部分が、同じ2価のマグネシウムMgと置き換わった岩なのだそうです。今回の巡見で先生に教えていただいたところによると、マグネシウムが50パーセ以上のものをドロマイトと呼ぶのだそうです。置き換わる作用は、圧力、つまり海底深く沈んだ時期があったのではないかとの説もあるけれども、はっきりしないとのことでした。

風化にはドロマイトのほうが弱いのだそうです。そして沖縄の大東諸島はドロマイトでできているとのことでした。

このたったひと月後に今回の巡見があったのです。今回の巡見で得た知識があれば、同じドロミテ旅行でもずっと楽しかったことでしょう。人生、そう、うまくは行かないものです。でも、子供の頃から立派な先生について歩き、色々教えていただいたらどんなによかろうと思っていた望みは、とうとう叶ったのです。


飛び立つ思いで巡見参加

私の今までの石灰岩との関り合いをダラダラと書いてしまいました。
素人ながら常に石灰岩を意識していたことはお分かりになったでしょう。
こんな私が、大学の先生がネット上に発信された「日本の石灰岩の地域は国土面積の0.5%に満たない。しかし、世界的には約12%であると試算されている。今回はカルストの名称の発祥の地であるスロベニアを中心に典型的カルスト地形を見学します。」という巡見の募集を見たのですから、一も二もなく申し込んだのはご理解いただけると思います。

さて、私以外のメンバーはみんな学者さん、学者の卵さんたちでした。われわれの団長さんは若い頃、ここスロベニアの研究所に留学しておられたのでした。今回の巡見の詳細について企画立案と案内をしてくださったのはその頃の研究所の同僚たちなのでした。
帰国後、家内に「研究所の人たちは所長さん始めみんな一生懸命に教えてくれたよ」と申しましたら、「えっ、全部英語だけだったの!」と目をむかれました。私の語学力じゃロクに分かるわけないと、ちゃんと見透かされているのです。「2日目の昼飯の席で顔合わせを兼ねて自己紹介をしたんだ。先方の所長も一緒だったから全員、英語でやったよ。」というと、そう「普通のツアーじゃなかったんだね。」と、なんでスロベニアなのか始めて気がついたみたいでした。

自分より上等で、知識が深く能力のある人たちと何日間か暮らすということは幸せなことです。
自分の同級生が大学の名誉教授になっていても、そんなに恐れ入らないで普通に付き合っているのに、今回は分野がまったく違うせいもあって、昔、学生の頃に大先生の謦咳に接していた頃のような、かしこまった気持ちになっているのは、我ながら変な気がしました。

学問を好きな人たちというのは不思議な人たちです。
案内する方はあれも見せたいこれも見せたいと一生懸命です。案内される方もあそこへも行きたい、これも聞いておきたいと貪欲なものです。
「意外に時間を食ってしまった、ここは少し略します。」といいながら、いざその場へ着くと知識の限り詳しく説明してくれるのです。
そしてその説明に対して洗いざらい質問を投げかけ、写真を撮りまくるのです。
スロベニアでもバス運転手の労働規制は厳しく、一定時間運転した後は決められた休憩時間をとることになっています。ドライビングレコーダーでチェックされるのできちんと守られています。移動するのに意外に時間がかかりました。
まともな時間にホテルに帰ったのは、レセプションで所長夫妻が出席された日の一日だけでした。ほかの日はホテル帰着22時とか、予約したレストランの閉店時間を過ぎたため、スープだけお店でとり、メインディッシュは箱詰めテイクアウトしホテルの自室で食べたこともありました。
 最近、大抵の旅では私が最高齢者になることが多いのです。でも、今回は私より数ヶ月の先輩がおられました。その方はご夫婦とも終始お元気でした。
私について言えば、今度のような興味津々の旅でしたら、夜も寝ないで見て回りたいというのが本心なのです。
でも私の歳になると、頭と体の乖離がひどくなっています。気持ちだけは逸っているのですが、それは体の側の同意を得ている訳ではありません。自然に過労気味になっているはずです。
しかし、それについては、私に登山の経験があることが有難く思われます。たしかに疲れているはずなのですが、それがちっとも気にならないのです。
北アルプスの縦走路などでは、時刻が15時を回れば誰でも大抵はもうバテバテになっています。うっかり医者に見せたら、「即刻入院、絶対安静」なんていわれそうな連中が、山道を肩をゆすり喘ぎ辿っているのです。疲れても疲れることに慣れていれば相当の限度までは無理が効くものなのでしょう。

先生たちは、かなりはっきりとご自分の意見を口にされました。そして意見を闘わすというフィールドで親しくしておられ、これにはつくづく感心しました。
私たち世俗のものは心のなかに異論があっても、うっかり口にして相手の気分を害してはならないと、ついつい口をつぐんでいるものなのですが。

もうひとつ感心したことは、年配の皆さんはスロベニアの先生たちのかなり訛りの強い英語を、実にスムーズに受け入れ理解しておられたことです。よく、ブロークン・イングリッシュが国際語なんだという、諦め半分の話しを聞くこともありますが、 国際的な学会ではそんな雰囲気のことが多いのでしょう。若い人たちは、そんな中で育ち、やがて世界の場で活躍されることでしょう。これも今回感心したことの一つです。

石灰岩地帯の特徴

見物とは言わず「巡見」というアカデミックな言葉を使ったのですから、今度の旅で勉強させていただいたことの幾つかをここでご披露させていただいてよいでしょうか。
柄にも無いことをと、冷や汗をかきながら書いているのです。

石灰岩(CaCO3、炭酸カルシウム )はライムストーン、、白雲石(MgCO3、炭酸マグネシウム)はドロマイトと呼ばれます。
最初に浅い海などで珊瑚などの生物の骨格、サンゴ礁などとして石灰岩が作られます。その後何らかの作用でカルシウムが海水中にあるマグネシウムと置き換わってドロマイトになるのだとされます。名前は両者の率50%を境にして変わります。カルシウム51%ならば石灰岩、49%ならばドロマイトというわけです。存在場所も性質もよく似た兄弟のようなものですから、今回の文中ではとくに区別せず石灰岩と呼んでいます。

地表は雨によって侵食され地形を造ります。その侵食の方法が石灰岩はほかの岩と大変異なります。
ほかの岩では、こすれる、ぶつかる、膨張収縮を繰り返すなどの機械的な要因で砕かれ、いわば削られて、礫、砂、粘土など粒子の形で雨水に運ばれます。
ところが石灰岩の場合は空気中にある炭酸ガスが溶け込んだ雨水に化学的に溶解し、イオンの形で運ばれます。このため石灰岩地帯の川の水は、恐ろしいまで透明に澄み切っています。

さて、岩と土との地層ではどちらが水を通しやすいでしょうか。直感的には固い岩の方が通し難いようにも思えます。しかし地層のようにある程度の大きさを持ったものを対象にすると、岩には割れ目があるため、均質で目の詰まった土よりも水を通しやすいのです。
富士山周辺には白糸の滝を始め、あちこちに広く細い流れの滝が見られます。これらの滝では、岩盤の隙間を流れてきた水が、下にある火砕流の砂層で遮られ、崖の所で滝となって落ちているのです。

こんど見て歩いたカルスト地域は標高海抜数百メートルの石灰岩の台地です。大気中の炭酸ガスを含んだ雨水は石灰岩の表面だけではなく割れ目を伝い下方にも流れます。まわりを溶かすので割れ目は次第に広がってゆきます。砂とか粘土とかは存在しないのですから、通路が詰まることなどありません。海面まで、勝手に岩の弱点を通路として探しながら流れてゆくのです。

水の通路が広くなったものが鍾乳洞です。直径数十メートルにもなり、水が横に流れるのもあり縦のもあります。洞窟の底を川が流れているものは侵食が進行中ですし、もう一段下にある鍾乳洞に水が落ち込むところでは壮大な地中の滝になっています。そして今まで流れていた下流部分は乾いた鍾乳洞になります。
地中の状況は複雑怪奇です。トレーサーを注入し水の挙動を調査したところ、場所によっては水が地下を通り分水嶺の反対側に流出していることもあるそうです。
過去に地表を流れていた川の水が、今ではすっかり地下の鍾乳洞に潜ってしまった涸れ谷も何箇所か見せてもらいました。

スロベニアから国境を越えイタリアに入ったところにティモバという街があります。午前中にスロベニアで見たレカ川が、途中から鍾乳洞に入り、日の目も見ずに35kmも流れてきて、ここアドリア海の海岸近くの山裾で再び地表面に現れていました。大きな水力発電所の放水路のようで、かなり水量でした。

近くに写真のような教会がありました。正確に言えば外観は教会でした。中身はキリスト像の前に浅い水溜りと石の枠で囲まれた泉がありました。僧侶や信者がいる雰囲気ではありません、なんなのでしょうね。場所柄、水神様かもしれません。壁には銃弾の跡があり、戦闘時、シェルターにされたことは確かでしたが。



教会もどき

教会もどき

雨水が石灰岩を溶かす早さは、理科の実験のイメージと比べると、とても遅いのです。少し溶かすと、水はもう腹一杯になってしまいます。流れていく途中で温度、圧力、周りの炭酸ガス濃度などによっては溶かし込んでいるイオンを持ちきれなくなり、また元の石灰岩として吐き出してしまいます。この現象を石灰岩を析出するといいます。
ご想像の通り、こうして無数の鍾乳洞ができ、天井から鍾乳石が垂れ下がり床からは石筍が伸びているのです。


スロベニアにある鍾乳洞は3万箇所とも1万箇所ともいわれます。とくに美しい20箇所が観光用に開放されています。私たちはそのうちの2箇所を見学しました。
シュコツィアン鍾乳洞は比較的閑散でした。同行してくださった研究所の所員が「この石筍は成長が早くて3000年でここまで大きくなりました。こっちは5000年たっていますが、まだこれだけです。」など、こと細かに教えてくださるのです。この世にこんな贅沢があるのかしらと感激の時間の連続でした。

ユネスコの世界遺産であるポストイナ鍾乳洞は世界的に超有名です。200年ほど前から、世界中の延べ3400万人が見物に押しかけたのだといいます。

ポストイナ1
ポストイナ2
ポストイナ3


(ここの3つの写真はポストイナ鍾乳洞)

帰国後、ここの土産話をしていると、家内は「写真で見ると鍾乳洞なんてどこでも同じね。」と冷たくのたまいました。でも実物は想像を絶するものでした。世界のどこの鍾乳洞でもよいのですが、そこでの最高のスポットを想像して下さい。ポストイナ鍾乳洞では、そんなよそでならば最高の見せ場になっているようなスポットが50箇所は、ゆうにあるといってよいでしょう。
入った所がもう立派な鍾乳洞なのです。こんな所が200メートルも続けばそれだけで立派な観光地として売り出せるでしょう。それなのにこのポストイナ鍾乳洞では入り口からかなりの部分は電動のトロッコで飛ばし、その先の最高の見せ場だけを1時間半かけて歩いて鑑賞するようになっているのです。いくつかの洞窟をうまく結合して一周りするように作られています。鑑賞の最後もまたトロッコに運ばれて元の地点に戻ってきます。そのトロッコの線路が複線になっているといえば度肝を抜かれましょう。

話を、そんな石灰岩地帯で暮らしている人たちの生活に移しましょう。
スロベニアのこの地域の年間総降雨量は日本とほぼ同じ約2000mmです。月別で見ると梅雨、台風の影響がないだけ年間フラットです。
石灰岩の大地は細い割れ目が無数にあって、そこから水が潜り抜けてゆく状態です。そのため、雨がなければカラカラの干ばつ状態になり、また一旦 雨が降れば貧弱な排水系では捌き切らず水浸しになります。
事実、各戸あるいは部落単位で天水を蓄える貯水槽が造られており、また家ごとに非常用の舟を備えている村もあったのです。現在は、自然に任せるだけでなく電気で水を汲み上げ給水したり、排水路を開削したりして住みやすくしつつあるとのことでした。

ブドウ畑

ブドウ畑

実際にはカルスト地域といえども、岩盤の上を土壌のようなものがほんの少し覆っています。本質的には石灰岩は溶けてしまうという説明に対して「あのなけなしの土壌のようなものはなんですか」と先生にお訊ねしました。石灰岩が生まれたときの不純物や風で他所から運ばれたものなのだとのお答えでした。
基本的に農業にも林業にも不利な土地のようです。ある村ではブドウの栽培だけがどうにか可能で、かえってそこの赤ワインが希少価値がある名物になっているのだそうです。
 でも、そのワインのブランドの名が、ブラディ・ティア(血の涙)と名付けられていると聞きました。

貯水槽

部落の共同天水貯水槽
     


ドリーネと呼ばれる円形の窪みの底は僅かな土壌が溜まりやすいので、それにしがみついて、ささやか畑作が営まれていました。
大部分を占める平らな土地は第二次大戦前は羊の牧草地として使われていたそうです。でも、現在では若者たちが放牧より高い収入が見込める工場などに勤めるようになり、緑の牧草地は放棄され、自然の緑の雑木林に還りつつあるようです。


内戦考

途中の一日、隣国のクロアチアまで巡見の足を伸ばしました。
この日、久し振りに厳格な国境審査を経験しました。両国ともユーロ加盟国ではあります。スロベニアは工業国としての能力が高く完全なユーロのメンバーです。しかし、クロアチアはまだ通貨もユーロではなく国境審査も省略されていません。とくに現在は、中東、アフリカからヨーロッパ先進国への違法移民の問題もあって、その通過ルートとして警戒されているようです。一旦、バスから降り歩いて国境を越えました。

クロアチアでも石灰岩が造り出すいろいろの地形を見学し説明を受けました。特にユネスコの世界遺産に指定されているプリティビツェ湖をじっくり見学しました。ここでは川の水に溶け込んだ石灰岩がいろいろの条件で析出し、石灰華段丘(トウファダム)となり127の湖を造っている世界最大規模のものです。 中國の九寨溝と同様のものであります。

この日は20年前の内戦の跡を案内されました。これは現地の人ならではの企画で、観光だけで通り過ぎるのと違い、クロアチア、そしてバルカン半島の抱える難題に触れたように感じています。
大型バスがよくも入れるなというような細い道に入りました。北海道のどこかで出会ったようなゆるい起伏の高原状の景色でした。ここでもドリーネという円形の窪地や涸れ谷を見学しました。

道端にまだ新しい墓標がありました。十字架に内戦での死者の名前、そして1962年生、1991年没と刻まれていました。
この辺りから、案内してくれた研究員が、道路から外れ草むらへ踏み込んではならないと、口うるさく警告し続けるようになりました。まだ地雷の処理が終わっていないというのがその理由でした。
どこまでも、過疎地というか、一軒、二軒の家がポツンポツンと建っているような荒れ地が続きます。焼けたまま放棄されている家もあり、屋根の落ちた家ありの様子です。そのあるものはすぐ隣に新しい家が建てられてもいました。
ある一軒の焼けた家の前でバスを停め下りてみました。すっかり焼け落ち、石積みの壁だけ残っています。クロアチア語で「きっと帰ってくる。この場所は手を付けないでくれ。」と書いてあるのだとのことでした。でも、それからもう20年経っているのです。帰ると書いた人はどうなったことでしょうか。

この家の横を通る小道がありました。その小道を15メートルほど入ったところに立て札が立っていました。「地雷注意」「立入禁止」と書かれているとのことでした。

村の中心なのでしょうか20戸ばかり家が固まったところにはお店もあり人の生活の気配がしました。でも、指差される先には、壁に弾痕のある家や、焼かれたまま放置された家が見えました。

焼かれた家

(内戦で焼かれた家)

内戦は旧ユーゴスラビアの崩壊の過程で発生しました。
この地域、バルカン半島が”欧州の火薬庫”と呼ばれていることは承知していました。でも、何だか、いつまでもゴタゴタのあると所だぐらいの、ぼんやりした認識しかありませんでした。
今だって、そんなによくわかっているわけでもありませんが、調べたことを並べてみましょう。

旧ユーゴスラビアの面積の3分の1が石灰岩、これでは豊穣の地とはいえないと思いますがいかがでしょうか。
また、「戦争をしていては豊かに なれないと」のも確かでしょう。

今から約100年前第一次世界大戦が終わり民族国家思想が高まりました。それまでオーストリア・ハンガリー帝国の中に含まれていたバルカン半島の諸民族にも、自分たちだけの国として独立しようという機運が高まりました。
イギリス、ドイツ、ロシアなど諸大国の思惑に振り回されながら、いろいろな内容のユーゴスロビアとして離散集合を繰り返していました。

ユーゴスラビア

面積(万km2) 人口
万人
GDP×
10億ドル
一人当たりGDP ドル 宗教
スロベニア 2.3 203 47 22,756 カソリック
イスラム
クロアチア 5.6 440 58 13,562 カソリック
セルビア正教
セルビア 7.7 986 43 5,907 セルビア正教
カソリック
ボスニア・ヘルツェゴビナ
5.1 376 18 4,598 イスラム
セルビア正教
モンテネグロ
1.4 63 4 7,026 セルビア正教
イスラム
マケドニア
2.6 206 10 4.944 セルビア正教
イスラム
コソボ
1.1
182
7
3,846
イスラム
セルビア正教
アルバニア
2.9
320
13
4,609
イスラム
カソリック
日本
37.8
12,653
4,905
38,491

この地域は第二次大戦ではドイツ・イタリアの侵攻を受けました。それに対抗するパルチザンが組織され終戦まで抵抗を続けました。パルチザンのリーダーだったチトーはその優れたバランス感覚とカリスマ性により諸国をまとめ上げユーゴスラビア連邦人民共和国を設立し、1945年から1991年まで存在していました。

 もともと「七つの国境、六つの共和国、五つの民族、四つの言語、三つの宗教、  二つの文字、一つの国家」という戯言があったほど難しい国家でありました。
チトーが亡くなった1980年からは内紛が絶えませんでした。ついに1991年スロベニア・クロアチア連合が独立を宣言し、約10年にわたる内戦に入ったのです。
そのごたごたの経緯をネットで見ると、まあその複雑で長く続くこと、うんざりします。おおまかに言えば一番人口が多いセルビア人たちの持つ力と、他の国からの平等を求める主張とがぶつかっていたように思えます。
「兄弟愛と統一」をスローガンにしていたユーゴスロビアですが、しょせん人間社会に争いはなくならないのですね。

どうすれば戦争はなくなるのでしょうか。
人を殺し人に殺され、街を焼かれ、富を浪費する「戦争というもの」に賛成する人はないでしょう。子供を鉄砲玉に当たらせたい親などあるはずもありません。
戦争を職業とする軍人だって、戦場よりも、ちゃんと食事を摂りベッドでゆっくり寝る、平時の生活のほうがどれだけ快適かはいうまでもないことです。ましてや 命を落としたり、障害者になったりする戦争など、ないに越したことはないと考えるはずです。

戦争をなくするために、世界中の国に残らず日本国憲法第9条を採用させる、あるいは戦争の悲惨さを語り継ぎ広めるというレベルの平和願望もそれなりに大事なことです。
でも、現実に何故その戦争が起こったのかを考えると、なにかそれなりの理由が付けられているようにしか思われません。
いろいろ考えているうちに、私には、人類は戦争そのものは嫌いだけれども、何々のためという冠、カンムリがつくと、その戦争は必然的運命のように感じてしまうと思われてきたのです。
「神がそう仰る」の十字軍、「奴隷解放のため」の南北戦争、「アラブの春、民主化のため」の中近東諸国の動乱、最近では「カリフ制によるイスラム国家樹立」を掲げるイスラム国などの”冠”が目につきました。冠のつけ方がうまいと、平和希求を標榜するマスメディアからでさえ、応援の声がかかる戦争もありそうだと考えるようになったのです。
そこでネットで「戦争の目的」と引いてみました。すると他にも「どうして戦争を始めるのか」とか同じような項目がいくつもあり、どの項目にも投稿は溢れています。
議論は盛んなのですが、つまるところ戦争の原因は、先取り独占欲、泥棒、約束違反、異宗教への反感、威圧と反発、派閥争い、内政失敗の誤魔化し、妬みといった人間的なものにあるという意見に収斂しているように感じられます。


ギリシャ神話

さて、今回足を踏み入れた旧ユーゴスラビアの南隣にギリシャがあります。
私はギリシャ神話のこんな二つのストーリーを思い出していました。


〈 大神ゼウスは神様たちの総元締めであった。 そのゼウスも一目置いているプロメテウスという神様がいた。彼は人間たちが貧しい暮らしをしているのを哀れに思い、神々の住いから火を盗んで人間に与えた。
ゼウスは常々、神々の優越性を保つため人間に火を与えるべきではないと考えていた。それで段々賢くなる人間を眺め、ひとつ懲らしめてやれと考え、地上に贈ったのが美女パンドラだった。
プロメテウスは常々弟のエピメテウスに「ゼウスの贈り物に碌なものはない。気をつけろ」と言い含めていた。ところがたまたまパンドラが訪ねてきたとき、兄のプロメテウスは留守だった。女というものを見たことがなかったエピメテウスは、パンドラの魅力に目が眩み家に入れてしまう。パンドラは贈り物の壺をゼウスから渡されるときに「絶対に開けてはならぬ」と厳しく言われていた。でも、そう言われれば余計に開けてみたくなるものである。
パンドラがほんのちょっとだけ、と蓋をずらすと何やら怪しい姿のものが立ち上り四方に飛び散った。直感的に悪いものだと感じて蓋を閉めたが、残ったのは希望だけであった。
そのとき飛び散ったのは、病気、悪意、戦争、嫉妬、災害、暴力などありとあらゆる”悪”であった。それまで地上には、なにひとつとして”悪”などなかったのに。〉

〈大神ゼウスは人口問題で悩んでいた。「この調子で人が増えていったら、食料が足らなくなる」。「そうだ。戦争を起こして殺し合いをさせよう」。
そこでテティスの結婚式に、争いの女神エリスだけには招待状が届かぬように仕組んだ。エリスは自分だけ招待されないのだから腹を立てた。それで純金の林檎を一つ持ってゆき、結婚式の披露宴の窓から投げ込んだ。女神たちが林檎を取り上げて見ると”一番美しい女神へ”と書かれた札がつけてある。
「これは私のよ」「なに言ってんの。一番きれいなのは私に決まってるじゃないの」「とんでもない・・・」と争いが始まり、この女神たちの争いが後のトロイ戦争につながった。〉


さて、この二つの話はいかがでしたか。
パンドラが戒めに背いて開けることを見透かしながら「開けるな」と責任逃れを仕組んだ上で”悪”を人間世界にばらまいたゼウス、 戦争で人口を減らそうと企み争いの種を播いたゼウス、「みんなゼウスが悪いのよ」と、合理主義者のギリシャ人は二千年も前に考えたのです。

過去にもう出来てしまったことは今更仕方がありません。責任は全部ゼウスに押しつけ、人間同士は”悪”を認めつつ許しつつ未来を考えるだけの智慧が、はたして人類に生まれ育つものでしょうか。
それには美しげに見せる冠を脱がせ、いつも素顔の「戦争」を見ていなくてはなりません。

「人間が歴史から学んだことは、歴史から何も学んでないということだ」とは元イギリス首相チャーチルの警句です。
 私もそう思います。


おわり



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