題名:98年北海道旅行

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日付:1998/10/1


98年北海道旅行{98/8/25ー9/1}

何時もとは、ちょっと変わった文体になってしまいました。

いわば、やったことを時系列的に並べた格好になったのです。

いままでの海外旅行では、カルチャーショックが大きかったせいか、テーマごとに論文形式で纏めていました。ところが今度の北海道旅行では、そのように構えると、あまり書くことがないように思われてくるのでした。そこで夏休みの日記風に、まずだらだらと書いてみて、あとでテーマごとに纏めようかと、まずスタートしてみました。

書き終わってみると、ユースホステルにしても、レンタカーにしても、星座探しにせよイマイチ希薄で、やっぱり書けないのも道理だったように思います。

しかし、通して読むと、コマネズミのように、貪欲に動き回っている様子が浮かんできているように思われます。

航空運賃とレンタカー料金にはそれぞれ約6万円とおごり、最低の泊まりは某ユースの一泊二食約3千円の例のように抑え、許された時間の中に詰め込む対象の数はけちらず、同じことをする中で経費は徹底的に切り詰めている、体面を無視した老人の記録をお目に掛ける次第です。

 

今度の旅行は結局、一人になってしまいましたが、最初は7月末にMさんなどと一緒に行く計画から始まりました。

それが私の側の都合から、スケジュールが狂ってしまい、彼らには予定どうり行って貰い、私一人、苦労して割引で買った航空券の変更が可能な限界まで延ばして、やっと実現したのです。

先に旅行を終えたMさんからの情報で、当初考えていた日高方面の山は、道路事情や、熊の出没など問題がありそうでした。

他方、私は今まで道南へは訪ねたことがなかったので、今回は主としてこの方面を計画に組み入れました。

 

 

●第1日

最初の日は函館へ飛びました。当然、早い便で行き、午後を観光に当てるつもりでしたが、これもまた当然、好ましいフライトは、早々に売り切れでした。

遅い便で函館到着16時、バスで市内に入りました。湯ノ川温泉を廻るバスでした。随分遠回りで、時間こそかかりましたが、なにせ始めての街ですから、地図と首っ引きで、ちょっとした観光バスの気分を味わうことができました。

 

 

私の68才の人生に、函館出身の友達は二人いました。

北海道大学出身のCさんはダンスがお上手な方です。若い頃、自分は冷えたご飯を食べたことがないと自慢して居られたのが、とくに今でも印象に残っています。記憶というものは、おかしなものですね。

 

もう一人のUさんは東京大学の出身で、40年前に私とアメリカで一緒に生活したことがありました。残念なことに、もう亡くなられました。

 

予想外に大きな街、函館の街をを旅しながら、しきりにお二人のことを思っていました。私といえば、68才になって、始めてこの街を訪ねることができたのでした。

 

意外に瀟洒なユースホステルに投宿し、小雨がぱらつく中を、まずは函館山を訪ねました。120人乗りのケーブルカーの連続運転のほかに、バスも山頂まで上がるので、展望台には大勢の人が押し掛けていました。

ここからは、いわゆる100万ドルの夜景が眺められるのです。

今ではあちこちの大都市に、テレビ塔、超高層ビルなど高い展望場所が出来ています。それらは、見下ろされる側は遙かに大規模な光の海でしょう。しかし、ここ函館山からの展望は、高度差333mと言う高さが抜群なのと、街の灯だけではなく、港と船とを身近に眺められる風情に格段のものがありました。

ここで食事した後、ハリストリス正教会や、日本人が最初に造った水道だの、高田屋嘉平の像を見て歩きました。帰ったのは23時近くになりました。こんな夜中までの勉強は、まったく新しいものを見るのが好きだからのことであります。

幕末、外国の侵略に対抗するため、函館は南部藩{盛岡}の分担範囲とされたので、この函館で、盛岡の新渡戸稲造、原敬の親族がロシヤ正教に帰依したとの説明がありました。

私の父も盛岡の出身なので、ここ蝦夷地に来ていた南部藩士のことが、親しみを持って偲ばれるのでした。

 

 

●第2日

この日は、駅のレンタカーの営業開始時間から、大沼、駒ヶ岳、恵山、立待岬、五稜郭と1日フルに廻りました。

レンタカーはその後、洞爺と千歳でも借りました。私が自分の家で使っている車は、大きいのですが、もう大分古くなってしまいました。

一人旅ですから、旅先では一番小さい車種を頼むことにしているのですが、新しい車は、小さくても結構静かで、アクセサリーも充実しています。何よりもガソリンの消費が少なくなっているのが良く分かります。

燃料の節約だけを考えれば、新しい車に買い換えるのが良いのですが、そうすると廃車という大きな廃棄物を出し、新車として新規に資源を消費することになってしまうことを思えば、地球トータルとして如何かと思われるのです。レンタカーの固定費は約9000円、燃料費の2000円程度(いずれも1日あたり)よりもうんと高額なのですから。

洞爺ではカーナビゲーターの付いた車に乗りました。カーナビは今まで使ったことはありませんでしたが、やってみれば、説明書なしでも結構なんとか使えました。

以下はカーナビ初体験の爺さんの感想です。

画面に地図が出て、自分の今いる場所が分かれば、大体、目的は達する訳ですが、カーナビが得意そうに喋る「あと500mで左折です」というような、細かいアナウンスも大いに有効でした。

ところが、なにせ北海道ですから「約20キロ先を右折です」と言ったきり、あと言うことがない時はカーナビ君は不愉快そうでした。

たまたまカーナビが計算し表示したルートを外れると、「予定したルートに戻れば、誘導を開始します」と言いますが、これは間違いを直さなければ誘導してやらないということを裏から言っているわけですから、何となく不愉快な声に聞こえ、芸が細かいと思いました。でも本当は、聞く側のこちらの気分だったのでしょう。

駒ヶ岳は一般の人が行く馬の背と呼ぶ頂上から、さらに剣が峰を目指しましたが、細い踏み跡はトラロープで止めてありました。

恵山はまだ新しい火山ですから、頂上には奇岩怪石が林立しています。孫を連れてきたら、一つ一つの自然の造形を指さしては、あれはピカチュー、これはミューツーなどと喚き合い、さぞかし足が止まってしまうだろうと想像してしまいました。

演歌でお馴染みの立待岬に着いたのは夕暮れ、目の前の津軽海峡には漁り火が賑やかでした。五稜郭は既に真っ暗、連日、ご苦労様なことではありますが。好きなことは気にならないものです。

 

 

●第3日

次の朝、始発の電車でJRの函館駅に向かいました。ホームに入ると、たまたま青森行きの快速電車が発車してゆきました。それが昔、連絡船が待っていた港の方角ではなく、なんと反対の北の方に向かうではありませんか。勿論、今は青函トンネルで本州に向かう訳です。このお爺さんたら、まったく古いですねえ。

 

この日は、洞爺湖畔、有珠山、昭和新山、三松記念館、火山博物館を廻りました。

有珠山には、ロープウエイで登りました。案内板に日本語、韓国語、中国語、英語の説明がある繁盛振りで、あまりの観光客の多さに、柵の中から大人しく、ほやほや煙の出ている山体を眺めただけでした。

 

昭和新山の記事を、半世紀前に「子供の科学」という雑誌で貪り読んだ、その現場に立って、私はひとりで感慨に耽っていました。

昭和18年の暮れから約1年半の間に、地震、噴火に続いて地中から固まった溶岩が押し上げられて一つの山が出来たのでした。

戦時中に起こった天変地異ですから、軍隊や警察は国民の志気が低下することを恐れ、噴火と地殻変動は極秘の事項としていました。そこで、たった一人、地元の三松正夫さんという郵便局長さんが、新しく山が誕生する様子の調査記録を残したのでした。戦後間もなく、その過程を読んで、地面は動くものであると言うことが、子供だった私の頭に深く刻みつけられたのでした。

この貴重な資料が展示してある三松記念館は、意外にひっそりしていました。

小学校しか卒業していない素人ながら、彼が記録した昭和新山の成長過程は、世界の火山学者たちからミマツダイヤグラムとして賞賛を受けたのです。この奇現象の現場に、硫黄採掘業者などがうごめき始めたとき、国に保護する意志がないことを知ると、彼は自分の財産をなげうって土地を買い取り、現在は私有の特別天然記念物になっているのです。

知る人ぞ知る、この三松さんのお孫さんが受付に立って、お話など伺えるこの記念館を目にしても、大勢の観光客たちは、所詮、縁なき衆生です。マイクが大声でがなり立てる土産物屋で、熊の置物などの買い物に励んでいました。

今度現地に来てみて、今更のように、この地域全体が噴火口だらけであり、30年から50年の周期で噴火を繰り返していることを、実感しました。三松さんのように、一生の中に3回の噴火を経験するというのは大変なことではありませんか。

最近では1977年に噴火していますから、次回は2010年頃がその時期にあたります。

私にとって一番の収穫は、地元の当事者の方たちの口から直接、噴火があったとき、火山性地震とか沢の大きさや雨の様子などから、定量的、具体的な判断のもとに対処しておられる様子を、聞かせていただいたことでした。

噴火現象に対して、マスコミや行政は、所詮他所者に過ぎません。マスコミは記事が売れれば良いだけだし、行政は責任が第一です。彼らとは違った、人間らしい本当のことを聞くことは、納得もでき、自分の判断の的確さを確認できることですから。

三松記念館で、もうひとつ面白かったのは、見ざる、聞かざる、言わざるの、いわゆる三猿思想が日本だけのものではなく、アジアはおろか遠くヨーロッパまでも広がりをもっているテーマであり、各国から収集した三猿人形が展示されていたことでした。

 

洞爺湖温泉にある、火山科学館には、主として1977年の噴火の際の被害の展示がありました。そのほかには、日本全国のみならず諸外国からの火山の資料が集まっていました。しかし、これらを整理して、ストーリーに当てはめて展示するのは、なかなか難しいことだと思われました。

むしろ、ここ洞爺湖畔にあった北海道の教職員の療養所の歴史のほうが、私の興味を呼びました。

私の年齢ならば、よく分かるのですが、その病院は、戦後、肺結核の療養所として発足したのでした。

肺病は長い間、日本人、とくに青年男女にとって死に至る病でした。とくに戦後の劣悪な生活環境では、この病は猛威を振るっていました。

また、教職員たちは強大な力を持った日教組を作っていました。だから、この療養所に入ることの出来た人は、ある意味では、運の良い人たちだったのだろうと思います。

それが医療の進歩と生活環境の改善につれて、結核患者が減少し、途中からは結核以外のいろいろの難病患者も収容するようになりました。それでもなお患者数の減少が進み、ついに閉鎖に至った歴史が、主として白黒の写真で展示されていました。

この種の療養所の患者さんたちは多感な年頃であり、ここに幾多の恋が芽生え、数多い文学作品が生み出されたことだろうと、当時の世相を知るこの老人は、写真を前に感慨に耽ったのでありました。

それにしても人間というものは、ダイオキシンだ、環境ホルモンだなどと、次々に恐ろしいテーマを探し出し、人類が段々不幸になってゆくという幻想を愛しむものだなと、訝しく思わずにはいられませんでした。

ユースでは、向かいのベッドの青年と話をしました。東京から来たのだそうですが、槍ヶ岳、穂高岳など、当然知っているべきことを知らないなと思っている中に、言葉も少しおかしいなと感じました。台湾からの留学生だったのです。随分、日本語が上手で驚きました。

ここのユースでは、10パーセント以上が外国人だとのことでした。イランやイラクの若者も来たことがあったとのことです。こんなにして、お互いに知り合えるのですから、人間社会は段々良くなると私は信じたいのです。

 

夜は、同宿の若者たちとマイクロバスで支笏湖の花火を見に行きました。湖畔の大きなホテルの窓から眺められるように、船で移動しながら揚げてゆきます。水中花火というのでしょうか、大変に豪華で、かつ長時間楽しめました。

この花火は、町が温泉の入湯税で補助しているそうで、年、2億円使うと言いますから、豪華なのは当然で、お客も自分で払った金で見るのですから、納得のゆく使い方ではないでしょうか。

 

 

●第4日

明け方近くからひどい大雨になりました。ベッドの中でいろいろとスケジュールの変更を考え、この日に予定していた登山は思い切ることに決めました。

洞爺湖畔の、横綱北の湖記念館が近くにあるので寄りましたが、朝の6時ですから開いているわけはありません。

噴火湾沿いの快適な道路へ出て室蘭まで走りました。

なにか、北海道の人は、車をすごいスピードで走らせます。それでいて速度標識の配置は本土と変わっているようには思えないのです。

このような運転は、私のような小心者にとっては、正直言って、ちょっと困るのです。

とりあえず、車の流れに乗ることの重要性を優先させて走っていると、さらに追い越して行く車があります。

とても速度標識をベースにして取り締まっているとは見えないのですが、かといって流れに乗っていれば、捕まらない保証があるわけではないのですから、大変、気疲れしました。

その一方、北海道のドライバーたちが、信号灯の指示にきっちり従っているのは、とても気持ちよいと思いました。名古屋では、信号灯が緑、黄、赤と変わっても突っ込んでくる横着なドライバーが沢山いて、全体の車の流れを阻害しているのですが。

室蘭は山と入り江の街という印象でした。大雨の日ですから、見通しが利かないので、余計に山が直接海に落ち込んでいるように見えたのかもしれません。

ヨットマンの常識として、海の深さは、近くの山の高さと同じというのだそうです。つまり室蘭は、深く大きな船が入れる良い港なのでしょう。そう言えば、長崎も似ていました。

 

室蘭を過ぎると、急に車の数が増え、沿道のお店にも、レジャーランドにも活気が出てきたように感ぜられました。やはり大企業があり、人口が多いからなのでしょう。

こうして白老のアイヌ部落、ポロ(大きな)ト(湖)コタン(村)へ行きました。

ここにいる間、バケツをひっくり返したような大雨でした。アイヌの衣装をつけた若い美しい娘さんが、衣装とは不釣り合いなモダンな傘をさしていました。ほんとのアイヌは、大雨の日にはどうしていたのでしょうか。ま、この中身の娘さんだって、仕事が済めばルーズソックスに替えたりするナウイ女性なのでしょうから。

檻の中を、大きなヒグマがぐるぐる歩き回っていました。顔の大きさは、とても威嚇的でした。檻のない山の中でなど、出くわすことのないよう祈りました。

白老では、仙台藩の陣屋跡にも行ってみました。

これは、国設の立派なものです。ひどい雨で、お客は私一人でした。だから、係りの人が親切に説明してくれました。

幕末、日本の北方領土は諸外国に狙われ、とくにロシヤとは危険な関係になってきました。幕府は、東北の諸藩に命じて、守らせました。各藩に軍隊と行政官とを派遣させ、自分の領地の一部のように扱わせたのです。

仙台藩は雄藩ですから、この白老あたりから、遠く択捉島まで割り当てられたのでした。

幕府も金欠、藩も金欠というわけで、出張旅費は個人持ちだったといいます。

白老の原住民400人のところに、仙台藩駐留軍が120人、個人的に原住民とは交際してはいけない、迷惑を掛けるななど厳しい軍律を書いたものが残されています。

白老勤務は1年交代でしたが、12年間に24名病を得て亡くなっています。最後は国元が官軍にやられてしまい、自然解消になってしまいましたが、結果的には日本領土として温存できたわけです。

昭和20年8月15日、終戦の後でも、千島ではソ連軍と戦闘があったのだそうです。日本の軍隊は敗戦を知っており、武装解除の準備をしていたところ、ソ連軍が攻撃をしかけて来たと言います。日本の指揮官は本土の上司に処置を聞いたところ、反撃せよとの指示があったとのことです。結局、多勢に無勢、全滅してしまったのですが、そのためにソ連の進出が遅れ、先にアメリカ軍が進駐し、分割占領を免れたとも言われているのです。

今の国境を確保するためには、長い歴史の先輩の尊い努力があったのです。

この後、オロフレ峠を越え、三階滝、苔の洞門を見物し、ニセコJR山の家に泊まりました。

この日は、雨の中のドライブだけで、硫黄泉の湯に浸かり、ビールを飲み骨休めをしました。

 

 

●第5日

7時、食堂が開くのを待って食事し、すぐニセコアンヌプリに登りました。前日、雨と霧で、すぐ西の隣のニトヌプリ方面で行方不明者が出て、地元の消防団が大勢入り、騒然とした朝でした。「山に登るんじゃないでしょうね」とメイドさんに言われましたが、本当は、山に登るのでした。

有名なニセコアンヌプリも、ただ登っただけで、霧と足許の岩と、避難小屋を見たきりでした。

後、ニセコのスキー場、豊浦、有珠など見物し、洞爺駅で車を返し、JRで千歳まで行きました。

ここまでの旅は、ずっと時間管理を自分でしているので、いわば気の休まるときがなかったのですが、しばし、それをJRに任せ、泥のように眠りました。

苫小牧ではもう覚め、大きな王子病院などが目に飛び込んできて、王子製紙の企業都市だと言う印象を強く受けました。

千歳駅で、またレンタカーを借りました。

素晴らしい道を苫小牧のほうに戻り、ウトナイ湖のユースホステルに着きました。

 

旅に出るときには、行き先について、特別に考えなくても、何となく、どんな所かを想像しているものです。例えば、駅の前にお店がごちゃごちゃあって、コンビニがあってとか、そんな想像をしています。

行ってみると、想像と合っていたり、大変違っていたりします。

このウトナイ湖は、大はずれのほうでした。

ウトナイは白鳥の来るみずうみという印象が強く、湖畔にお店があって、氷など書いた旗が翻っている、そんなことかと思っていたのです。

実際に行ってみると、ユース入り口のバス停からあとは、結構長い未舗装の地道が続いていました。後刻、この地域にある建物は、ユースと自然保護センターの二つしかないことを知りました。

ウトナイ湖サンクチュアリは、ある意味で、自然保護運動が最高に盛り上がったバブル期の産物なのです。どちらの建物も、目立たずひっそりと森に沈んでいました。

ユースの先客に、一見、人嫌いのようなお兄さんがいて、暮れかかる湖を見渡せるベランダで、ギターをボロンボロンと掻き鳴らしていました。

8月は渡り鳥たちの端境期なので、広い湖には白い大きな鳥が、ほんの二群しか見られませんでした。

ここのユースホステルは、伝統的なパターンを残していました。つまり、アルコール禁止、男女別棟宿泊と相互訪問禁止、食事の後の皿洗い、部屋の掃除などを義務付けているのです。

その代わり、料金も「簡素な旅行により未知の世界をたずね」とあるユースホステル趣旨にぴったりのお安いものでした。

次代の若い人たちの中にも、こういうスピリチュアルな世界に理解を持ってくれる人がいて、是非、残していってほしいものだと思いました。

ユースの管理人のお姉さまが(本当はユースではペアレンツと呼ぶのですが、女性は死ぬまで、68才の爺にペアレンツと呼ばれては嬉しくないでしょうからこうしておきます)焼き肉のホットプレートの洗い方を、教えてくれました。私は自分でも洗う気はあったのですが、同じプレートを使っている若者が、その洗う仕事は僕がしてあげます、と言う態度を見せてくれました。結局は、そうする前に次のグループに引き継いだので、我々は洗わなくてよかったのですが、「今時の若い者って親切だな」と感心しました。要するに、どんな世代にも、色々な人がいるということでしょう。

 

 

●第6日

ベッドを直し、朝食を食べ、歯を磨いて、7時半には車のタイヤが回り始めていました。

時々雨の来る中を、苫小牧の街を車から見て通りました。市役所始め、随分と立派な近代的な建物がありました。

しかし、どこかに「でも・・」という感じが漂っているのを感じたというと、思い過ごしだと言われるでしょうか。

まだ10年ほど前、経済が好調のころには、活力溢れる都市活動のマイナス面が声高に咎められ、これからは地方の時代だと、他人も言い、自分も信じ「地方、地方」と、日本をあげて、総痴呆になっていました。

そんな時代に建造された輝くばかりの巨大な建物が、北海道拓殖銀行が倒れたのが大きく影響し、いまその内側から段々空疎になってゆく、そんな局面を迎えているように思えてならないのです。

この地域には、金融市場などいう掴みどころないものとは違い、実体がある大きな製紙会社が現実にあるのですから、ぜひ頑張ってもらいたいと思いました。

暗い空が融け込んでいる太平洋に、大きな船が何隻も停泊しているのが見えました。そんな海岸道路を東進し樽前ガローというガイドブックにある名所を訪ねました。ガローとは、渓谷の両岸が絶壁になった場所をいうのだそうです。

靴を履いていると、軽自動車が隣に来て止まりました。日曜日ではありましたが、雨もよいの朝8時半です。駐車場にはこの2台しか車はありません。

おじさんが降りてきて「どちらへ行かれるのですか」と聞きます。ガローと答えると「立派な足拵えをしておられますが、そんな大した所じゃありません」というのです。一緒に行こうという雰囲気でもありませんでしたので、ひとりで歩き始めました。

道の両側の樹相を見ると広葉落葉樹が主体で、日頃見慣れているものと、そんなに変わっているとは思えませんでした。そうこうするうちに、さっきのおじさんも歩いてきました。腕に緑色の腕章など巻いているのです。どうせ二人なら一緒にと思って、話しかけましたが、自然保護の役員さんとしては、植物にあんまり詳しいようではありませんでした。

公園や、展望台の場所を教えてくれましたが、足も遅いようでしたから、お先にと言って別かれました。

ここのガローは人工の手が入っておらず、ほんの一部分しか見られませんが、小雨の中、うっすらと霧さえかかって、人ひとりおらぬ流れは、とてもメルヘンチックでした。

小一時間、木苺をつまんだり、ユースで、つい若い人に連られて食べ過ぎた朝飯をこなしたりました。

駐車場に戻ると、私の車が一台だけ、雨に濡れていました。

察するに、どこかこの近所の道路際に自然保護員さんのお家があり、車の音がしたので出てきて下さったように思われました。植物を盗掘する悪い人もいるでしょうから、大変です。

次は、千歳市にある「サケのふるさと館」へ行き淡水魚の勉強です。なんと、ここへ来る道がインデアン水車通りと名付けられているのです。その水車の堰の下に大きなサケが泳いでいました。後で川の側面からガラス窓を通してこのサケを見ましたが、川にあんなに大きな魚が泳いでいるのを見たのは感激でした。見ていると少年の日の血が騒ぐのです。

サケは秋の一時期に、押し合いへし合い、上ってくるのだと思っていましたが、早いのは8月中旬から、遅いのは12月始めにやっと、というのもあるのだそうです。もっとも、ピークは9月、10月だそうですが。

ここでは、ボランティアさんたちが説明をして下さいます。やけに質問の多い爺さんだと思われたに違いありません。

先年、ボリビアとペルーとの国境のチチカカ湖で、紅マスを食べたとき、これは日本から移殖されたものだと聞きましたが、それを確かめることができました。

さらに紅マスの先祖をたどると、阿寒湖に行き着くことも学びました。

紅マスの先祖の紅サケは、普通に川と海と行き来していたのですが、阿寒岳が噴火し川が堰き止められました。川の上流にいた紅ザケの群は海に帰れなくなり、湖に住み着き、栄養不良で小さくなって紅マスになってしまったことを知りました。ここの水槽で紅マスの雄を見ていると、小型なだけで、まったく紅サケと同じ顔をしています。一度この顔を見ると、この話は絶対に忘れられなくなります。

それから約160キロ走り、16時、富良野の山部「ふれあいの家」に着きました。この時間に着ければ、明朝の登山口を調べておけるのです。

食堂で、名物の石焼きのロースを食べました。実は、昼は千歳市の焼き肉屋でホルモンを食べたのでした。これは、一月前のモンゴルが懐かしくて、つい頼んだのでした。やっぱり日本のホルモンの方が美味いと思いました。昨日のユースの夕食も、ラムの焼き肉だったのでした。なにか焼き肉ばかりが続きました。でもいいじゃありませんか、肉は冷凍してあるし、あとジャガイモとタマネギがあればよいから、安くて美味しくて。作る方も、食べる方も手軽ですもの。

 

●第7日

わりにタフな山、芦別岳に登りました。標高差1400メートル、4時間半の登りはかなりなものです。

月曜日でしたから、この日は単独行が2組、あと6人パーティが1組だけだったと思います。

頂上の岩峰から、白い霧だけを眺めました。12時半には麓に帰りました。

占冠でハンバーグを食べ、日高町の角のコンビニエンスで食料を仕入れ、夕張岳の山の家に向かいました。ところが、16時、道がテープで止めてありました。大分引き返し、やっと見付けた人家に車を止め、犬に猛烈に吠えられながら尋ねると、運良く道路管理をしている人の家でした。4日前の大雨で道路が川に削られ、とても入れぬとのことでした。

そこで4日前に雨で断念した恵庭岳に転進することにしました。支笏湖ユースに着いたのは、もう19時でした。

先日、予約を入れたときは、満員で断られていたのでちょっと心配でしたが、この日は天候不順のお陰でしょうか、あっさり泊めてもらえました。

20時、ペアレンツの小父さんが、15人ほどのホステラーをマイクロバスでミステリアス・ツアーに連れていってくれました。

月のとっても青い夜でした。「遠回りして帰ろうか」などジョークを飛ばす、面白い小父さんでした。

支笏湖から大分東になる展望台で、色々と星のことを教えてくれました。8月最終日の20時ですから、こと座、白鳥座、鷲座、銀河が頭上にあります。ときどき薄い雲が飛んできましたが、やはり空気は澄んでおり、邪魔になる周囲の光はありません。

私も、ほんとに久しぶりに、人工衛星が飛んで行くのを見ました。

みんなで展望台に登りました。月の光の中に、この間から親しんできた、樽前、恵庭、有珠、後方羊蹄山、ニセコアンヌプリらしい山が黒々と座っていました。どれもこれも、方角は合っているのですが、距離は近すぎるようにも思われましたが、見ていて飽きませんでした。

なんとか流れ星を見付けようということになりました。筵を敷いて、何人か仰向けに寝転がりました。

そのうちに寝転がっている女の子が「あの星ぐるぐる回ってる」と言い始めました。

聞いてみると、織女星のことを言っているようなのです。それこそ、真症真銘のミステリアスではありませんか。

なかなか人間が出来た小父さんで「ほんとにそう見えるね、一度、頭を固定してみようか」など言って、バスに寄りかかり「光が強過ぎるから、そう見えるんじゃないかな」など言ってくれました。

普通は星はフラフラは動かないことになっています。でも、次にあげた各項目の原因から、動いているように見える条件がない訳でもないのです。

1,空気の密度が変わるため、動いて見える。陽炎はゆらゆらします。風の強い日ほど星がきらきら瞬きます。

2、地面は微動している。

3,人間の目から脳までの知覚系統で揺れ認識が発生することがある。お酒に   酔ったり、病気になったりすると、実際に意識することがあります。

ただし、1と2とでは、ぐるぐる回って見えるというほどにはならず、女の子が言っているのは、3の要因からなのでしょう。

3の要因は、病的になればはっきり分かりますが、軽微な場合は隠れているはずです。どんな人間にでも、認知機能に揺れがないということはまずないでしょう。むしろ、それが重症か軽症かの違いとみるべきでしょう。

私だって、恒星は動かないと思って見ているから止まって見えているだけで、まったく未知のものについて判断を求められたとき、動いているか止まっているかを、正確に答えられる自信はありません。

そういう人間たちが作っている社会なのですから、自分が偉いと思っている人が偉いはずはないのです。

誰かが流れ星を見たら帰ることにしようということにして、しばらくみんなで暗い空を眺めていましたが、意地悪にちっとも飛びませんでした。諦めて引き上げました。

 

●第8日

そっと寝室を抜け出し、恵庭岳の登山口に車を止めたのは5時10分でした。パンと牛乳で朝飯を済ませ、5時半には歩き出しました。山頂はまたもや霧でした。お陰さまで北海道の山の霧は、みんな白いことを確認しました。車に戻ったのが10時半でした。

ユースの風呂を借り、長い山旅の汗くさい服をしまい、短パン、Tシャツのレジャースタイルへと変身し、また150キロ飛ばし、夕張の石炭歴史記念村へ行きました。

この日本の代表的な炭坑は、三菱のものだっただけあって、基礎的な調査から、開発、改良、労務対策、安全対策、ドイツからの技術導入など、あらゆる面で重厚な取り組みをしていたことが感ぜられました。

アンモナイトの化石ひとつとっても、なにせ掘るのが専門で、その量も莫大だったのでしょう。私が今まで見たこともない立派な化石が、文字どうりごろごろしていました。

安全については、私も現役時代は大変に苦労しました。次々と対策を打ち、それなりに良くなってはゆくのですが、ポロッと出てくる災害に泣かされている有様が察せられ、身につまされるのでした。炭坑も閉鎖になり、私自身も責任の座を離れ、今更のように、来し方行く末を思ったことでした。

発見の経緯は、先進国アメリカの偉い博士が、下流の河床で石炭の露頭を見付け、この上流に良い地点があるだろうと予言したことで始まり、日本の偉い博士たちが探し当てたようでした。

当時、人跡未踏の森林に分け入り、地表を探すのは並大抵の苦労ではなかったはずです。

今のような、センサーやデータ、理論があるわけではなし、山師の仕事ですから外れることの方が多かったことでしょう。

そんな中で、この夕張の地で、3メートル近い厚さの石炭の露頭を見付けた時は、どんなに感激的だったことでしょう。

私は興味津々、採掘に当たった人たちの組織の変遷を読んだり、ヘッドランプをつけて採掘の様子を示した坑道を歩いたり、ここでの持ち時間の1時間半は、あっというまに過ぎてしまいました。

あと、千歳でレンタカーを返し、空港に送ってもらい、カフテリアで一人きり、旅の打ち上げの祝杯を挙げ、21時半には名古屋の家に着いたのでした。

 

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