題名:布哇(ハワイ)物見遊山

重遠の入り口に戻る

日付:2002/7/27


●ストレス
今回の旅行で一番特徴的だったのは、心理的ストレスの強さでした。

計画を立て始めた2月頃から、ずっと不安に胸を締め付けられ続けていたのでした。

6月以降のスケジュールには、すべて「無事に帰ってきたら」という潜在的な意識がありました。

その不安の種は、マウナ・ロア登山でした。

なにせ、あまり人が入らない山なので、地図を始めとして、あらゆる面で情報が非常に少なかったのです。

そして、過去に登った人たちから、このあたりの山では、空気が薄いために登山道で車がエンコしてしまった話や、帰路、道に迷い、緊急野宿に追い込まれ、ヘリコプターで救助された話など聞いていました。

言ってみれば、ちょっとイヤらしいところのある山といえましょう。

今回は、久しぶりに海外への一人旅、単独登山です。しかもこんな登山者の少ない山への単独行では、なにか不測の事態が起こったらお手上げです。
一応は山岳ガイドを頼みたいと思って調べてみたのです。
しかし、なにせ登山者が少ないので、ヨーロッパ・アルプスのように、ばらばらの登山者たちを何人かにまとめて、ガイドしてくれるような様子はありませんでした。

過去の自分の登山経験がなかったら、今回の計画は、不安で、とても立案できなかったでしょう。
ともかく、過去に登った4000mを超すピークの数々を思い出してみました。
そういえば昨年1年だけだって、1月にウイルヘルム山4516m、11月にランタン谷の4200m地点と、2カ所を踏んでいるのです。

標高が高くて空気が薄い場所で、車がちゃんと走るかどうかという心配もあります。
でも、昔、ボリビアの首都ラパスでは、庶民のごく普通の車が、こともなげに走り回っているのを見たことがありました。ラパス市の標高は約4000mなのです。そう心配することもないかとも思えるのです。

あれやこれや考えた挙げ句、もしも無理だったら、その場で打ち切って帰ればいいやと割り切ればこそ、今回のスケジュールは立てられたのでした。

なにか取り返しがつかないことが起こったとき、他人に迷惑がかかるような職でもあれば、すぐにでもハワイ登山計画は取りやめたことでしょう。
でも、この日頃、人間、年金を貰うようになったら、社会的には外の人たちの負担に甘えているのだという理屈が、心の中で鎌首をもたげつつあったのです。

話は変わりますが、今年に入ってから、身近に、90才を越えた方のご葬儀が2回ありました。
喪主に当たるご子息たちは、私と同年輩になります。
どちらのご葬儀でも、喪主さんが最後になさった会葬御礼が、とても印象に残っています。
両方のご挨拶とも、故人の御最後の様子を、かなり細部まで話してくださいました。
それが、饒舌と言ってはオーバーかもしれませんが、会葬お礼の挨拶としてはとても長かったのです。長い長い介護の苦労が片付き、ホットした気楽さが、そうさせていると見たのはひが目でしょうか。

ストレスが一番高まったのは、2日目に冷たい雨の中、ドライブしながらマウナ・ケアに入る登山道を探していたときでした。
もちろん雨具は持っていましたが、実際、雨の中を登ることは、殆ど予想していませんでした。
道路際に立っているマイル・ポストの何番目を過ぎたら右に入るとでも情報があれば、どんなに心が安まったことでしょう。
分岐には、マウナ・ケアのマの字もありません。それどころか、分岐した道をしばらく行ったところに「放牧中の牛に注意」という立て札さえあるのです。その時は、てっきり牧場の道だと思って引き返しました。
なおも先へと走り回っているうちに、標高が下がり始めました。どう考えても先程のところしか、脇道はないのです。
それで、再度、先程の道に入り直し、どんどん登って行くとビジターセンターがあり、そのとき始めて、これが探していたマウナ・ケア山への道であることを、確認できたのでした。
万事、このように「さあ、いらっしゃい、いらっしゃい」とでも言わぬばかりの日本の山登りとはまったく違っていて、山へは山の専門家だけが自己責任で入れといった、そっけない様子なのでした。

昔、会社の上司が「これからの社員は、ゴルフぐらいできなくっちゃ」と、部下の全員にゴルフセットを買わせていました。アメリカでは、このように親切に世話は焼かないで、自己責任でやらせる風土が強いのだと思います。

ともかく一時は、老いて精神力の弱ったこの私には、こんなストレスはもう耐えられないのではないか、こんな旅行もこれが最後だろうとさえ思えたのでした。
夏前から、ときどき「僕、ハワイのちょっと嫌らしい山へゆきます」とは山の友人たちに話しました。でも、もう一押しして、一緒に行ってくれませんかとは頼めなかった、気弱な性格が恨めしく思われました。

ストレスが、癌になる可能性を高めるという話しも聞きます。もしそうならば、私は今回のストレス漬けの状態で、癌だらけになっているはずです。
でも、有り難いことに、ストレスから解放されると、今度は天国がくるのです。

その典型的な例として、今回の旅の一場面で起こった失敗を、恥ずかしながらご披露しましょう。
ホノルルの国内線空港でパスポートを見せようと思って、胸にかけた袋に手をやると、空なのです。これには慌てました。
よく、パスポートをなくして大変だったという話を聞いていました。とうとうそれが、自分の身に起こったのかと思いました。
とりあえず、この際は国際運転免許証を見せて通してもらい、あと2日ある観光予定日をパスポート再交付に当てれば、なんとか帰れるだろうとまで考えました。
でも、私は寝るときもパスポート入れの袋を胸に掛けているのですから、盗られるとは考え難いではありませんか。
さっき、航空券を取り出したとき、横着して、袋をシャツから外に出さずに、切符だけ引っぱり出したつもりだったのです。そのときパスポートが一緒に袋から出て、どこかに落ちてしまった可能性はありました。
いま並んでいる列から飛び出し、探しに行こうかと思いました。
さらに、袋から漏れたパスポートが、床に落ちないでシャツとズボンの間で止まっている可能性もあると考えました。そんな思考過程を経て、シャツのお腹の辺を触ってみました。
ラッキー! あるじゃありませんか。
ストレスの3分間、そしてそのあと訪れた安堵の時間の幸福感。
貴方だってこんな経験をお持ちじゃありませんか。

今回の旅では、計画時点から、深く長いストレスに苛まれ続けていたことを告白します。
でも、幸いなことに、私はそんなストレスにチャレンジできる立場に恵まれていたのです。そして終わった今、いつまで続くかは知れませんが、差し当たって年金族コンプレックスから逃れ、馬鹿に幸せな心理状態なのです。

・梅雨深しハワイへ発つと言いかねて

●準備
マウナ・ロアは、登山口から頂上まで片道10キロと聞いていました。
名古屋市瑞穂区の当家から、東西南北、直線距離で10キロの地点をポケナビ(どんなものかは後述)にセットしました。そして、東西南北の順で歩き始めました。
東と西はズック靴で歩きました。足の裏が、随分と傷みました。二日連続では歩けない感じでした。
いつもは、登山靴で足の裏を傷めたことはありませんから、南方へは登山靴で歩いてみました。その結果、やはり靴が重いということは、余計に疲れるものだということが分かりました。そして、いつもはまったく気にならない足の裏も、結構ダメージを受けることが分かりました。
山登りと、街歩きではスピードが違うのが原因のようです。
街歩きでは時速5キロ程度ですが、山では平坦ではないので、平均すれば、その半分ぐらいになっているようです。
最後に残った北への10キロ歩行訓練は、そんなことをいろいろ考えているうちに、時間切れになってしまい、実現しませんでした。

高さのほうでは、昨年11月にヒマラヤ・ランタンで4200mまで行っています。その高度順化の効果がどれだけ残っているか、また、その後の加齢でどの程度能力が下がっているかを知っておきたいと思いました。
それで、ハワイへ発つ10日ほど前に、御嶽山3050mに登ってみました。
あくまで、高度順化の状態を見るのが目的ですから、ゆっくり登るつもりでした。でも、8合目を過ぎたところで、ちょっとオーバーロード気味になっているのを感じました。時計を見るとまだ1時間半ほど登っただけでした。ついつい、早いペースになってしまっていたのです。
あとは、まったく不安なしに頂上を踏みました。田の原から2時間50分でした。途中で、腰を下ろして昼飯のクラッカーを食べたのですから、そんなにひどいタイムではありません。頂上での空気の希薄感もありませんでした。
下りはさすがに体のバランスが悪くなっていて、数年前のピッチはとても望めませんでした。

・山下りて観光客に一瞥す


●マウナ・ケア
マウナ・ケア山は、標高4205m「白い山」という意味だそうです。なるほど、雪で真っ白になった写真がありました。スキーもできるのです。
ハワイ島は、南緯19度、フィリピン北部やインドのボンベイなどと同じ、かなり南の土地になります。11月から2月までが冬なのだそうです。そして、それ以外の月は、秋、夏、春などいわずに、普通の気候、本来の気候というようです。
マウナ・ケア山頂は、空気が澄んでいること、晴天が多いこと、人家の灯火が少なく暗いこと、という天体観測に適した条件を備えているので、世界各国がここに天文台を建て観測しています。
日本の有名な「すばる天文台」も、ここにあります。
天文台があるために、車で山頂付近まで登ることができるのです。
そのため、全般的な偵察と、高度順化には適当な山だと考えました。

用心して、ヒロの町を朝5時前に出ました。
前述しましたように、標高1900mほどの地点で、冷たい雨や霧に濡れながら、道を探しました。
でも、快適な舗装道路を登って行き、7時30分頃、標高2700mのオニヅカ・ビジターセンターに着くと、雲の上に出ました。日光が燦々と降り注ぎ暖かくなり、車のヒーターを止めました。
このあたりの天候は、常時、貿易風と呼ばれ東風が吹いていて、その風が山を駆け上がるとき、標高1000〜2000mの範囲で雨っぽい雰囲気を作っているのです。そして、日光が強い時間には、雨雲の勢力が弱くなっていることが分かりました。
ハワイ島出身のエリソン・鬼塚氏は宇宙飛行士でしたが、チャレンジャー号の事故で亡くなったのです。それを記念して、ビジターセンターにオニヅカの名前を残しているのです。
高度順化のため、ビジターセンターで最低30分は、展示など見学しながら過ごすようにとの注意書きがありました。
ところが時間はまだ7時半、開館は9時と書かれていました。それじゃ、待てませんよねえ。どんどん登って行きました。空気の薄さが気になっているので、深く息をしていたつもりです。
でも、勧告を無視したことは、気になっていたのです。
そんなとき、ある瞬間、視野が周りから暗くなり、狭くなり始めたのです。これは過去何回か経験したことのある、一種の酸欠の症状なのです。
一目散に、でも、慎重に慎重に、空気の濃い、低いところを目指して、引き返したのです。

高さとしては始めての高さではありません。でも、車の運転という点では今回が最高点になりました。
ずいぶん、姿勢も良くして、深呼吸も意識していたのですが、やはり車を運転する姿勢は、前コゴミになり、肺活量が少なくなっていたのでしょう。
ビジターセンターで車を降り、歩き回りました。ちょっと登って、息がハーハーなるまで、体に負荷をかけました。8時半に掃除人夫が上がってきました。床をポリシャーで磨くのですが、なかなかドアを開けてくれません。
待ちきれなくて、再度、車をスタートさせました。

この道は、頂上まで殆ど舗装されていますが、ビジターセンターのちょっと上のところだけが、2キロほど地道になっています。その部分は、毎日、グレーダーで削り、平らにしているようでした。なにか訳があるのでしょう。

馴れた人が見たらおかしいぐらい、車を労りながら登ってゆきました。
天文台が沢山立っているところの入り口で駐車し、4205mのマウナ・ケア山の頂上を往復しました。赤い荒い火山灰に覆われた山頂でした。
雲海を抜けた上ですから、燦々と日の光が降り注いでいました。
北の離れたピークに、日本の「すばる天文台」が見えます。ほかの丸っこいドーム型の天文台の中では、ちょっと角張ったシルエットでした。
その向こうには、後日訪れるマウイ島のハレアカラ火山が見えました。
大まかに8つあるといわれるハワイの島々は、こんなふうにして、お互い隣の島が見えるのです。島の間の交通は、現在は、もっぱら飛行機に依るのですが。
南には、50キロ距てて、マウナ・ロア山が見えます。
予備知識のない人が、マウナ・ロアが見えると聞いたら「えっ、どこに山があるの」と聞き返すことでしょう。そんな、とても山とは思えない平らな高まりが、海抜4169mのマウナ・ロアなのであります。

ここでちょっと、ハワイの地質の話をさせてください。
太平洋の真ん中あたりに地殻の割れ目があって、地球内部から溶けたマグマが吹き出しています。溶岩が積み重なって海上に現れると、島が誕生したということになります。生まれた島は大陸移動説が教えるとおり、一年に約6センチのスピードで西のほう、つまり日本のほうに動いてきます。
このまま動けば、計算上は1億年経つと、茨城県の沖にハワイの島が見えてくることになります。

島は、だんだん雨、風、波などによって、削られて、いずれは海面から姿を消します。そんな頭のなくなった島の胴体が、ハワイから点々と日本の方につながっているのです。たまたま珊瑚礁を頂きにして、ちょっと頭を出しているのが、たとえばミッドウェイ島なのです。

今あるハワイの島々の中では、一番南東にあたるハワイ島が一番新しく、その島の中にあるキラウエア火山は、今も常時、溶岩を噴き出しています。私が登ったマウナ・ロア山も18年前に、大量の溶岩を流し出し、成長を続けているのです。

実は、ハワイ島の南にもっと新しい島の胎児がいて、30キロほど離れた海の中で育ちつつあります。現在海面下1000mほどまで上がっていますから、あと6万年経つと海上に姿を現す勘定になるのです。

マウナ・ロア山は、海底から盛り上がり海上に頭を出すまでに200万年、それから今の高さになるのに100万年かかったといわれます。
現在、海抜4169mですが、裾野は水深5500mの海底にまで伸びています。底から山頂までの高さは1万mに近く、世界の最高峰エベレストよりも高いことになります。
マウナ・ロアは、タラタラと流れやすい溶岩を噴出しています。そのためよほどの量を吹き出さないと、標高は増えません。
バケツに砂を入れ床に逆さに置いて山を作れば、たとえば40センチぐらいの山は出来るでしょう。これを富士山と考えてみます。
次ぎに、砂の代わりに、流れやすい溶けたバターを入れたバケツを逆さにすることを想像してみて下さい。四方に流れ出し、中央はいくらも高くならないでしょう。2杯目を注いでも、そんなに高くならないでしょう。こうして100杯目を注いだときに、1mの高さの平ぺったい山になったとします。
それがまさにマウナ・ロアなのです。
大きなマウナ・ロアの底に、小さな富士山を置いた模型が展示してありました。マウナ・ロアは体積1万立方マイル、世界で一番容積の大きい火山なのです。
それが、前述のように、50キロ離れたマウナ・ケアの頂上から見ると、あまり平らで、おおよそ山には見えないのです。
ついでながら、マウナ・ロアというのは、現地の言葉で「長い」とか、「丘のような」という意味だそうであります。

地球だって半径6400キロもある大きな丸いボールなのです。それを見て、地平線など表現するのは、直感的に平らだと思うからです。
茫洋とした大人物といえば、大石内蔵助、西郷隆盛、東郷平八郎、チャーチルなどを思い浮かべます。人間も、あまりに大人物になると、茫洋と見えるのかも知れません。
この連想は、私のように、なにも取り柄のない人間には都合のよい例え話のように思われるのです。だって、ボーとしているように見えるのも、実は、大人物であるセイなのかも知れないではありませんか。
あなたも、この指に留まりませんか。

さて、マウナ・ケア頂上から車に戻って、クッキー、ミルクで昼食としました。さらには、ケア山頂上の緯度、経度、高度のデータをポケナビのメモリーに打ち込みました。

ここで、また、ポケナビの説明です。
ポケナビというのはポケット・ナビゲーターの略称なのです。
10センチX5センチ、重さ150グラム、単三電池2本で22時間働くことになっています。
カーナビと比べて、小さく軽いだけに、機能ははるかに簡略なものです。
でも、衛星からの電波を受けて、緯度、経度、高度は精度よく分かります。
ハワイの若い火山では、樹木がまったくありませんから、どこでも衛星からの電波が良く受信でき、完全に信頼できます。
地図は入っていませんから、新しいところへ行くのには、それほど有力な装置とは思いませんが、自分が実際に通った道は記憶させられるので、来た道を戻るときには大変威力を発揮するのです。
高山病で頭の働きが悪くなっていたせいか、ともかく、しばらくポケナビで遊んでいました。すると天文台のほうから車がきて、おじさんがいろいろ質問するのです。
「気分はどうだ」「最近、体調が悪かったことはないか」。心配してくれているのです。わたしにすれば、せっかく空気の薄いところへきたので、明日のために馴れておきたい、なるだけゆっくりしたい気持ちでした。実際、まったく平地にいるのと同じ気分だったのです。
おじさんは拍子抜けした様子で「なんかあったら言ってこい。おれはレンジャーだから」と言って戻って行きました。

慎重に慎重に、2000m地点まで戻りました。
まだ早いので、明日、マウナ・ロアに入るルートを偵察しておくことにしました。
この道は、無人の気象測候所に行く道で、ガタガタ道だとか、全面舗装だとか、命あっての物種、などのいろいろの情報がありました。
入ってみると、アスファルトではなく、なにか赤っぽい色の舗装で、穴ぼこが多少ありました。溶岩の原っぱですから、車道を造ろうとすれば、簡易舗装が一番経済的だろうと思われます。
悪戯好きのアメリカ人でしょう、白いセンターラインが書いてありました。いかにも、ペンキの缶に小さな穴を開け、バンパーに吊して走ったみたいで、ヒョロヒョロした線でした。車のセンターに合わせて走るのには役に立ちます。
もともと1車線ギリギリの道に、20分ほど入りました。確かに移動してはいるのですが、目指す山は、まだまだ遙か彼方なのです。そこでまた、臆病風が頭をもたげました。もしも、パンクしたりエンジンが止まったら、今日の内には一般の車が走っている道まで歩いて出られないだろう。宿にメモを置いてきたわけではないから、今日はここまで、と引き返したのです。

・雲海を抜けて来世の日に佇てる


●マウナ・ロア
いよいよ今回の旅のメインイベント、マウナ・ロア登山の日です。
昨日の経験で、朝、ある程度時間が経ったほうが、雲が下がって、山の上の天気は良くなりそうだと判断しました。それで、6時ちょっと前に宿を出ました。
標高1900m地点で分岐の山道に入ったのが7時、8時過ぎに登山口(標高約3400m)に着きました。

これまでの記述で、私が何を心配していたかが、大体お分かりと思います。要するに、なにか不測の事態が起こったときに、それが誰にも知られないだろうという点でありました。
この山道をポコポコ走っているうちに、一台のジープに追い抜かれました。
ちょっと広くなったところで、避けて抜いてもらったのですが、私の赤いダッジが入っていたと伝えてくれる人ができたことで、急に気持が軽くなりました。
心配の三分の一ほどは、解消された感じでした。
この日はこれからも運がよく、私以外に山に人が入っている情報に次々と出会うことができて、心の雲は、もう急速に晴れていったのです。

登山口の一般者用駐車場には、大きなランド・クルーザーが入っていました。だれか山に入っている模様なのです。さらに気が楽になりました。

この直ぐ上が、気象観測所なのです。地球温暖化の話で、大気中の炭酸ガスが年々増えてくる様子を示す、ギザギザの線のグラフを見た人は多いでしょう。夏は樹木が炭酸ガスを吸収固定し、冬には葉が落ち炭酸ガスが出てくるのでギザギザになるのです。
あのグラフの炭酸ガス濃度を、1958年から連続して測定しているのが、ここの気象観測所なのです。
アンテナが林立し、銀色に輝く建物が何棟も見えました。
無人観測所と聞いていたので、まったく人がいないのかと想像していました。でも、こうしてみると、色々の機械を動かす電気を発電するとか、研究者はともかく、サポートする作業員は要るのだと思いました。先程のジープはそんな人のものだったのでしょう。

しばらく登って行くと前方に人影が見えました。
下ってきたのは、日本人らしい女性でした。ためらうことなく、日本語で「こんにちは」と声をかけました。
「おひとりですか」と聞かれました。「ええ」。「すごいですね。ハワイに住んでいらっしゃるのですか」。「いいえ、日本からきました」「すごいでね」と、やたら感心されてしまいました。
彼女は、団体ツアーできていて、1時間ほど登ったところでリタイアし下ってきたのだそうです。

この日、ガラスのようにテカテカしたのや、石炭殻のようにトゲトゲしたの、アスファルト舗装のように板状になったのなど、ありとあらゆる種類の溶岩の上を歩いて登ってゆきました。
尾根とか谷とかいうものはなくって、のっぺらぼうの斜面を登って行くのです。でも、丁寧に岩を積んで登山路を示すケルンを作ってあるので、登るほうもそれを丁寧に拾って行けばよいのです。
2時間ほど登ったところで、ちょっと車道に入りました。もちろん、一般車は登山口以降は進入禁止ですし、この車道は観測所の人たちが、観測機械を設置する作業のときなどに使うのでしょう。とても普通の車で入れるような、まともな道ではありません。
ここでまた、男女二人、下ってくる人とすれ違いました。
男性に「どこまでゆかれますか」と聞かれました。途中からリタイアしてきた様子でした。わたしは「まあ、嫌になったら止めて下りますわ」と答えました。ヨレヨレの爺いの一人旅なのですから、率直なところ、そのとおりなのです。女性が「もちろん、頂上ですわね」と、取り繕って下さいました。日本語のやり取りでした。
そのあと、溶岩でなくて、火山灰が締まった、ごく普通の山道も通りました。
そのうちに、ついに傾斜が緩くなりました。そして、遠くにひときわ大きなケルンが見えました。頂上が近い感じになってきたのです。頂上は右のようでもあり、左のようでもあります。
そのあたりは、阪神大震災で壊れたアスファルト道路のように、板状になった溶岩が乱雑に散らばったところで、大きな割れ目以外はどこでも歩けるのです。ともかく、大きなケルンだけを目標に、歩きやすいところを登っていったのです。
誰もそうするのに違いありません。実は、これがあとで問題になるのです。

大ケルンを過ぎると、日本人の団体ツアーの6名が降りてこられました。
「もうすぐ、クレーター・リムです。さらにその先は15分か30分か、ともかくしばらく行くと、火口を覗けます」と、親切に教えてくれました。
日本から、このマウナ・ロアへの団体ツアーは、年間10隊までは出ていないでしょうから、わたしは大変にラッキーだったわけです。

その後、私が山を下っているときに、白人が2人登ってくるのとすれ違いました。
ここアメリカ・ハワイの山で、この日登った12人のうちの、実に10人までが日本人だったということは、当地でのアクティビティを示す象徴的な出来事だと思いました。

いわゆる登山路終点のクレーター・リム(噴火口の縁)へは、4時間弱で到着したのです。
自分でも驚くぐらい、よいペースでした。
そこで気分をよくして、広い火口に溜まった溶岩が、諏訪湖に張った氷の、おみ渡りのように、板状に固まっては割れているクレーターに降りて、かなり先にある、ぽっかり口を開けたホット・スポットまで歩いていってみました。
それの向こう側にいったところで、いよいよ人間の痕跡がなくなったので引き返しました。

登るとき、あんなに嬉しく眺めたあの大きなケルンのところまでは、とんとんと疑いもせず歩いて戻ってきたのです。ところがここで、降りてゆく道が,はてどれかなと分からなくなったのです。
大きなケルンのすぐ下には、深い裂け目があるのです。私はその東側を登ってきたのでした。でも、そこに立ってみると、裂け目の西側の足跡のほうが沢山歩かれているようなのです。つい、西側に入りたくなります。
こういうときは、落ち着かなくてはと、自分に言い聞かせました。足元を見ると、人の歩いたような跡は、無数にあります。だってみんな、大きなケルンだけ見て、好き勝手に来るからです。そして、そういう登り方ができる地形なのです。
遠くを見通すと、ケルンを積んだ道が、3方向に伸びて行きます。
感じで判断する限り、3つともまったく同じ感じに見えるのです。だから、感じに頼るわけにはいきません。
登ってくるとき、西にケルンの連なりが見えましたから、それではないはずだと頭は考えるのです。でも、足跡の濃さから見ると、それに入ってゆきたくなるのです。
いよいよ、ポケナビの出番です。西寄りの踏み跡に入ってみると、画面は、すぐに登ってきたときのルートの線上から外れたのです。
ポケナビの画面に出ている登ってきたときの線の上に、歩いて戻りました。そこにも、幽かながら踏み跡があったのです。
それからは下るほどに、ほかのケルンの道から遠ざかり、踏み跡も濃くなり、自分が正しいケルンの道に入った確信が湧いてきました。
もしも、ポケナビがなければ、迷い迷い頭で考えたルートを辿ったことでしょう。ほかの人たちは、いったんそのようにしては、行くほどに足跡が薄くなるので引き返したりして、正しいルートに収斂しているのだと想像します。それでも何とかはなるのですが、足跡が薄いだけに相当の時間、疑いながら、不安の中を下ったに違いありません。心の負担が少なくて済んだことは、まったくポケナビ様のお陰でした。

マウナ・ロアの下りは快適そのものでした。
溶岩が筋になって流れ落ちた、その筋の上を、次のケルンを目指してたどるのです。タラタラの溶岩の流れですから、気になる凸凹はありません。そして、溶岩の上には、小石や砂もなく、ちっとも滑らないのです。
普通の山でも、こんな岩脈に沿って下ることはあります。でも、その末端はたいてい急な段になっています。ところが、ロアの溶岩は実にスムースに次の岩の筋につながって行くのです。よほど水のようにスムースに流れたものと思われます。まったく気を遣わずに、とんとんと下ってゆけました。

こうして、7時間後、車のところに帰り着きました。
往復9時間ぐらいは覚悟しなくてはと、山行報告で読んだこともありました。
私は単独行でしたから、どうしても不安から、早め早めに動いてしまったのだろうと思います。

さて、登山口にはまだランドクルーザーがいて、先に降りた人たちが、乗ったり降りたり、なにか食べたりしているのです。
わたしは、これから走る狭い道の途中で、すれ違いのルールでもあって、時間調整のために待っているのかなと思いました。
それで「何か、待っておられるのですか」と聞いてみました。すると「まだ、二人、上にいるので」という返事でした。
下り道では、前述のように登ってくる白人二人しか見ていませんから、おかしいなと思いましたが「お先に」といって、帰ってきました。
まだ、上にいるという二人がご無事だったことを、お祈りしました。
なにせ、このマウナ・ロアの下りで迷い、一夜、野宿して,翌朝ヘリコプターで救助された人を知っていましたので。
ともかく慎重に一般道路まで出ました。
ここまでくれば、もう、どんなひどい事故を起こしても、それは誰でもすることだと、世間が許してくれると、すっかり肩の荷が軽くなったのでした。
マウナ・ロアが終わるまでは、自分にも「富士山に単独行でゆくのに、心配する奴などいるものか」と言い聞かせていましたが、そのとおり、何事もなく終わったのでした。

・仰ぎつつケルン追行く溶岩(らば)の径

●キラウエア火山
マウナ・ロア登山が終わって、観光に入りました。2日がかりでハワイ島を一周しました。ハワイ島は四国の半分ほどの、ハワイでは最大の島なのです。
私は素直に、時計の針と同じ方向に回りました。
ヒロの町を8時に出て、キラウエア火山には、もう9時過ぎに着いてしまいました。
途中に溶岩樹公園というのがあり、見たいと思っていましたが、どう行けばよいのか分かりませんでした。観光パンフレットには出ているのですが、それはなにせ絵図面のこと、不正確なものです。道路には頼りにしていた看板、標識類は見ませんでした。
ハワイでは、キャプテン・クックにせよ、よほどの観光地でないと、日本のように看板を頼りにしてたどり着くことはできません。

キラウエアは、巨大なマウナ・ロア山(4169m)の裾野、山頂から約30キロ東に下がった標高1240mのあたりで、現在も溶岩を流し出している、「かさぶた」みたいな存在です。
ここからもマウナ・ロアに登る道を図示してありました。そして、それは
4〜5日かかるから、十分用意をするようにと書いてありました。 
ホテル、広大な火口、火山観測所、博物館、展望台などがあり、火口をめぐる20キロ弱の一周ドライブ・ウエイがあり、観光客が一杯訪れています。
博物館では、この地域の火口数カ所に設置してある振動記録計の実物を見ることができます。そのうち2カ所のものは、円筒形の紙の上で長い針が震えていました。
そのほか、地面の傾斜の変化を見るための、真鍮でできた水槽など、昔、中学で実験に使ったような装置が展示してあって、懐かしく眺めました。
どうせ現実には、電子的なセンサーを使い、記録、情報処理など高度な技術に支えられているはずですが、何といっても目に見えるものは分かりやすいのです。
炭酸ガス、遺伝子、放射線など、目で見ることのできないものの、世間での扱われ方に一言ある私ですから、屈折した気持ちで眺めていました。

ここから海に向かって地面の割れ目があり、新旧の火口が連なっています。それに沿ってチェーン・オブ・クレーター・ロードという約40キロの道路があります。入ってみました。
昔、噴火した火口では、いまはもう樹木が生えていました。そんなところに新しい溶岩が流れ込んだのもありました。傾斜があるとは見えない平坦な地形ですが、水のような溶岩が低いところを探しながら流れて行くのです。
10キロほど走ると通行止めの看板があり、おじさんが二人、番をしていて、入ってはいかんと言うのです。
なんでも、流れ出した溶岩で、森が火事になってるというのです。
私は「今でも噴火が続いていて、消火活動をしている証拠写真を撮っておこう」そう言ってカメラを構えました。
おじさんは「このでっかいトラックを写すのを忘れるなよ。オレたちは火消しじゃなくて、通行止めをしてるだけだがな」。そんなことを言うのです。こんな調子のアメリカ人を、私は好きなのです。
このあとラジオのニュースで、消火には4日ほどかかりそうだと報じていました。

その後、島の西海岸にある街、カイルア・コナを目指し走りました。
道程の殆どは、荒涼とした溶岩の原でした。溶岩が厚く積もったところは、道が登りになり、展望台になったりしていました。
その様子は、島原で雲仙岳の周りを走るのに似ていますが、スケールが、とても比較にならないほど大きいのです。
さすがに、噴出してから時間の経った場所では、木が生えていました。
道路は海岸線に出ることはなく、標高500mぐらいの高さを鉢巻き状に走っています。そのため集落は、涼しく、湿度も低い快適な環境になっていると思いました。
この日は、マウナ・ロアの南側を半周した感じで約240キロ走り、西海岸のキャプテン・クックで泊まりました。
最後の頃、激しいスコールに襲われ、観光は止め、パイナップル・ガーデンという宿に転がり込みました。
その夜、横になりながら今日の旅を思い返していました。溶岩、また溶岩の一日でした。
そういえば、一日中、川や水というものを見た記憶がないのです。
この島は、年中、貿易風という東風が吹いていて、島の真ん中の高い山にぶつかり、東側では年間雨量3400ミリという多雨地帯になっています。日本の平均が1800ミリですから、倍ほどです。
反対に島の西側では風下になり、635ミリと少ないのです。
いずれにせよ、降った雨は、石炭殻のような溶岩に吸い込まれるか、アスファルトのような溶岩の上を流れ去るかしてしまいそうです。貯まったり、小川となってサラサラ流れる様子は想像できないのです。
翌朝、宿の人に水はどこから持ってくるのかと聞いてみました。
「あそこのポットさ」というのです。屋根の樋の下に、プラスチックの容器が置いてありました。このあたりは、どの家も天水を使っていると言っていました。
でも、コナの町は、大きな、立派な観光地です。そこでは公営の水道局が深い井戸を掘って、質のよい美味しい水を供給しているそうです。

・夏帽子目深く引いてハワイなり

 

●プウホヌア・オ・ホナウナウ
ちょっと試しに発音してご覧、と言いたくなる地名ですね。
古来のハワイ語は、母音は5つで日本語と同じですが、子音がp、k、h、l、m、n、wと7つしかないのです。
例えばアメリカ人のSamuelという名前が、ハワイ語ではsがないため、Kamuelaになるのだそうです。
時速55マイル、90キロと高速で走っていると、こんなハワイ古来の町の道標が出てきても、俄に判断しにくいのです。ジョージ・ストリートとかレイク・アベニューならすぐ頭に入るのですが。

さて、プウホヌア・オ・ホナウナウは、古来宗教の神殿で、今は国立歴史公園になっています。
16世紀、キリスト教が入ってきて、旧来の宗教は邪教として駆逐され、神殿は破壊されたのでした。でも、500年前のことですから、どんな様子であったかは、かなり正確に分かっているといえましょう。
ここホナウナウは大変美しい海岸で、神殿や人物像が復元されていました。
人物像は、いかにもポリネシアンといった様子でした。
ハワイ古来宗教の神殿には、犠牲神殿と避難神殿があったとのことです。
興味を引いたのは、避難神殿のほうです。
悪事を働いたり、戦争に負けたり、いずれにせよそのままでは殺される状態の人が、ここに逃げ込みます。そしてここで、神官のお祓いを受けると、再び復帰できるのだそうです。
天武天皇になられた大海人皇子は、兄の天智天皇との間がヤバクなったとき、政権に興味はありませんと宣言し、吉野の寺に逃げ込まれたといいます。
どこかの国の代々の大統領も、政権を追われると、祠に籠もるのが例となっていたようです。
冷却期間を置くのは、人間の知恵でしょう。

ローマにはヴィリプラカ女神という夫婦喧嘩の守護神がありました。
難しくなると、二人で女神の祠へゆきます。神官などいないのですが、ここでは、信心深いローマ人は、ある決まりを守りました。それは、女神に訴えるのは、一時に一人に限る、という決まりでした。
一方が訴えている間、他の一方は黙って聞くことになります。黙って聞いていれば相手の言い分にも理がないわけでもないことに気がついてきます。それを繰り返していれば、やがて二人で手を取り合って帰る、ということにもなりかねない仕掛けであったようです。

ここには1mX0.7mぐらいの岩に将棋盤のように筋が刻んであり、白黒の小石が置いてありました。やはり、ゲームだったのだそうです。
また、ちょっとした池があって、その解説に「真水と海水の混じった池。王様に食べさせる魚を太らせた養魚場?」と書いてありました。
何事にも目くじらを立て騒ぎ立てる国から離れ、神聖な遺跡なのに、こんなジョークを飛ばしているのに会えたことを、幸せと思いました。

カイルア・コナの街を観光し、北上しました。空港があり、新開地ですから素晴らしいハイウエイが走っています。日本からの観光客を隔離しているデラックスなリゾートホテル群があるのですが、溶岩原に木が生えた未開の地に作るのですから、いわゆる高層ホテルが林立する熱海、ワイキキなどと違って、ハイウエイから引っ込んだところに個人別荘風に作られているようでした。
ハイウエイの両側の真っ黒な溶岩の崖に、白い珊瑚礁の小石で作った、ハート印にジャック・アンド・ジルというような落書きが続いていました。
こういう人類共通の性癖について、私は最近、人間だけでなくてチンパンジーなどとも共通のものではないかと思うようになってきました。最近の研究に依れば、人間とチンパンジーとは、遺伝子の98,2パーセントまでは共通なのだそうですから。

プウコホラ・ヘイアウ国立歴史公園というのに出くわしました。
何でも見てやろうで、入ってみました。
ハワイを統一したカメハメハ大王が、ここに神殿を造れば天下が手にはいるとの御神託を受け、造った神殿跡です。
人手が足りずに、大王自身も海岸から溶岩を運んだと伝えられます。
カメハメハ大王は、ハワイ諸島の一番南のハワイ島の生まれです。最初の都はこの島のカイルア・コナでした。
次がひとつ北のマウイ島のラハイナ、そしてさらに北のオアフ島ホノルルと、首都は北へ北へと動いたのです。
カメハメハは、ハワイ島で覇を争っていた従兄弟に、仲良くしようと持ちかけ、この地に招待しました。そして、心を許し訪ねてきた従兄弟を殺し、ハワイ島を統一したのでした。
その後、近代兵器を持つ西欧の勢力と結び、各地の勢力を押さえつけ、ハワイ全土の統一をなし遂げたのでした。
あくどい点では、徳川家康による全国統一があげられます。国家安康という鐘の銘に、家と康とを杵で突くとはと、いちゃもんをつけ、また約束を反故にして大阪城の堀を埋め、豊臣家の息の根を止めたのでした。腹黒い狸親父というのが彼のイメージです。
でも、そのお陰で、その後、300年間、太平の世が続いたのです。いつまでも、武将たちの抗争が続くよりは、庶民は幸せだったというべきでしょう。

島の最北端、コハラ半島にはいると、景色が一変し、緑の牧場になります。地質が古く、安定しているのです。
ハヴィという小さな町は、カメハメハ大王が生まれた土地です。カメハメハの像が立っています。
この像は最初ホノルルに建てるため、イタリアのフィレンツェに注文したのです。その像が海に落ちて沈んだので、再度、作り直し、ホノルルに建てました。
その後、海から引き揚げたのを、今度は、彼の故郷、ここハヴィの村に建てたのだそうです。
この話は、ある本からの引用ですから、どこの海に落としたのかとか、そのときの保険金はどう処理されたのかは、私に聞かないで下さい。

・炎昼や白目の白きカメハメハ


●パーカー牧場
ハワイ島一周も、帰路に入りました。ハワイ島ではヒロに次いで大きな町、ワイメアを見物しました。標高800mほどで、まさに快適な気候であります。
ここでの見どころは、パーカー牧場と言うことになっています。
19世紀はじめ、アメリカの青年パーカーが、カメハメハ大王に気に入られ孫娘と600エーカーの土地をもらったのが始まりだそうです。
今では、個人所有の牧場としてはアメリカで最大、柵の長さが1200キロ、家畜の給水管の延長が300キロと聞きました。
ビジター・センターに6ドル払って入りました。お客は私一人でした。映画の準備ができたら呼ぶから、それまで展示でも見てろとおばさんが言いました。パーカー一族の写真だとか、手紙、着ていた服だとか、ベッドカバー、私はそういうものはあまり興味がないのです。
呼ばれて映画のホールに行きました。大きなホールに一人だけです。
「日本語がいいか?」と聞かれたので「イエス」と答えました。おばさんはスクリーンの裏でゴソゴソ探していましたが、日本語が見つからないから英語でやると言いました。
牧場の歴史、現在の仕事を紹介する、なかなか面白い映画で、私は相当疲れているはずなのに、全然居眠りなどしませんでした。

さて、わが家で、犬を飼ってから間もなく2年になります。
そのお陰で、このところ動物たちの言葉が分かるようになった気持ちが強いのです。うちの犬、ダックスフントのあいちゃん(男のあいちゃんなんです)は、お喋りではありませんから、言葉が分かるというよりも、お互いの表情で会話ができるといったほうが実状に近いでしょう。
パーカー牧場の映画の中で、牧場のカウボーイたちが投げ縄で子牛の足を縛り、押し倒します。手早く識別用に焼き印を押しつけ、消毒の粉を振りかけ、予防注射を打ちます。
そんなとき2年前と違って、今の私には子牛たちの言葉が聞こえるのです。
「お母さんと一緒に居たいよー」「なんで僕だけ捕まえるの」そういっているのです。
焼き印の鏝が、熱い、痛いというより、なによりも、みんなと一緒に居たがっているのです。
この映画にそんなナレーションを付けて、クジラ委員会に押し掛けるグリーンピースの人たちに見せてやりたいと思いました。
子牛たちは、一連の処置が終われば、仲間のところに返してもらえます。でも、いつかは牛肉になるのです。
クジラも殺したくありません。牛も殺したくありません。若木も老木も切りたくありません。虫だって殺したくありません。みんな、可哀想です。
そんな沢山のことの中の、ひとつのことだけしか考えないで、自分だけが正しいと主張する人と話すことは、時間の無駄に過ぎないように思えます。

島をほぼ一巡し、再びヒロの町に入る直前、海を見下ろす丘に墓地がありました。それが、まさに日本の墓地そのものに見えたのでした。
入ってみました。こういう所が、計画的な観光と違うところなのです。
入り口に近い方には、苔生した墓石が、奥の方には新しいのがありました。
ハワイ島ヒロの町は日系人が中心になって作り上げたといわれます。スイサン(水産)・フィッシュ・マーケット、ツナミ(津波)博物館など、日本語が使われています。
この墓地は、4分の3ぐらいが日本式のお墓でした。その中にはかなりの数の、家の形をした沖縄様式のお墓もありました。
20パーセントほどは韓国の方のお墓でした。上に石が乗った確か奈良の般若寺にある笠塔婆と同じのもありました。般若寺のも鎌倉時代に帰化人が親のために建てたものだったような記憶です。
墓地の一角には、西洋人の土葬の、上に墓石を置いたのもありました。
墓地の中央には、某大手電機メーカーのコマーシャルに出ていた「この木何の木、気になる木」のバニヤンの大樹があって、広く葉を差し伸べていました。
もう日暮れが近づいていました。朝鮮、琉球、大和、西洋それぞれの人たちが、この世の勤めを終へ、今は浮き世の国籍というしがらみを離れ、祖先と同じ様式の奥津城に眠り、共に太平洋を見下ろしている、その無常が身に沁みました。

・太平洋潮風重く吹き募る

●ヒロの町角で
・シニア、チップ
ヒロの町でスパゲティと大きく書かれた、小さなレストランに入りました。
メニューを開いてみましたが、よく分かりません。それで、その中のローカル(ご当地もの)と書いてある欄の一番最初の品を指して「これ下さい」と注文しました。これは外国じゃ、いつものことなのです。

持ってきたのはスパゲティではなくて、ご飯の上にハンバーグが乗って、さらにその上に卵の目玉焼きが2つ乗っていました。久しぶりの日本食みたいなものですから、とても美味しくて、ガツガツ食べました。
あとで調べるとロコ・モコとかいう名の食べ物のようです。
たしか、コカコーラも飲んで6ドルほどでした。ウエイトレスさんが、シニア割引の特権を行使するかと聞きました。当然「イエス」とご好意に甘えることにしました。
食べているうちに、そうだ、レストランじゃチップを15パーセントほど置くものだ、日本人は忘れがちなので顰蹙(ひんしゅく)を買っていると、ガイドブックに書いてあったことを思い出しました。よそのテーブルを見ると、お客は勘定書を持ってレジに行って払っているようです。
私はレジで支払うときに、1ドル余分に出して「これ、チップだ。とても美味しかったよ」と鷹揚に言いました。ところが相手は、まるで鳩が豆鉄砲をくらったような顔をしました。
彼は、しばらくして、ガイドブックにチップのことが書かれていたことを思い出したのでしょう。やっと「サンキュー」と受け取ってくれました。
そういえばマクドナルドや、バーガーキングでチップを払っているのを見たことはありません。
日本人観光客がガイドブックを見て入り、何十ドルのグルメを楽しむレストランと、現地の庶民が入る、シニア割引などしてる食いもの屋とは別物なのかもしれません。
当分、ヒロの町で「英語の下手な爺いが、チップというものを置いていった」と話題になっているかも知れません。

庶民といえば、私は道にドンドン駐車して、町の見物をしていました。
駐車できるような裏町の空き地には、粗末な服装の子供たちが遊んでいるのが普通でした。
どのガイドブックににも、車上狙い、置き引きに気をつけるようにと、書いてあります。でも、犯罪で食べて行こうという手合いは、有名観光地でリッチな観光客を狙うのじゃなくちゃ、商売にはならないでしょう。
私は、普通の庶民というものは、自分と同じ程度の善人だと信用しているのです。

・土人とも若きは羨しカヌー漕ぐ

・セルフ・ガソリン 
考えてみると、前回アメリカで車を運転したのは、もう6年も前のことになりました。
今度、セルフサービスのガソリンスタンドに入ってどうすればよいのか、ちょっと自信がありませんでした。
最初の店では、すみませんがと断って、ガソリンの入れ方を教えてもらいました。前回と比べて、システムの状態表示が出るようになっていて、使いやすくなっているように感じました。
次の日は、早速、自分でやってみました。ところが「カードを入れ直して下さい」と表示が出るのです。なんという鈍いセンサーだと思い、カードを通し直しました。そんなことを3回ばかりしていましたら、スタンドの女の子が出てきました。そして、カードを私から見れば裏返しにして通しました。すると機械は受け付けたのです。
こんなにして、すっかり自信をつけてしまったのです。
そんなある日、目抜き通りのスタンドに入りました。すると若いお兄さんが出てきてガソリンを入れようとしました。私は当然自分で入れるつもりでしたから、ついつい日本語で「なんだ、ここはセルフじゃないのか」と言ってしまいました。すると相手は素晴らしく勘の良いお兄さんで「セルフサービスの店と、同じ料金にしていますから」とこれは英語で返事をくれました。

・地際より虹鮮やかに立ち上がる

●ハレアカラ山
ハレアカラ山(3055m)は、マウイ島にあります。
私はいったんオアフ島に落ち着いてから、日帰りで訪ねました。
マウイ島はオアフ島とハワイ島の間にあり、飛行時間はたった20分ほどです。
頂上直下まで舗装道路を車で登れます。
途中、いろいろ道草を食いながら、2時間ほどで頂上に立ちました。
こういう山ですから観光客が沢山歩いていました。
ヒマラヤとここだけで見られるといわれる、シルバー・スウォード(銀剣草)が、手厚く保護されていました。
よくこのハレアカラ山(太陽の家の意)は、世界最大の休火山と書かれています。
マウナ・ロアのように容積が世界最大の火山、コトパクシのように標高が世界最高の活火山というなら分かります。でも、ハレアカラは、なにが最大なのかが分かりませんでした。
どうも、周囲34キロといわれるクレーターが、世界最大ということらしいのです。
ところが、この山のクレーター(噴火口)地形は、本当は噴火口ではなくて、浸食の過程で、たまたまクレーターのような形を呈しているのだと、ここハレアカラのパンフレットでわざわざ断ってありました。
旅行案内書などいうものは、元本から引用するケースが多いので「北海道には梅雨がない」「セイタカアワダチソウがブタクサで喘息の原因」みたいな、俗説が幅を利かせることもあるものだと思います。
損にも得にもならないことで、通説に異を唱えるのは、野暮なことだと思いますが、まあ見てしまいましたから、書いた次第です。
なんといっても3000mを越す山頂まで車で上がることができて、荒涼とした、この世ならぬ景色を眺めることのできる良い山です。
また、頂上から自転車で下るのも、この山のアクティビティのひとつです。
お揃いのユニフォームとヘルメットに身を固めた人たちが、自転車を積んで登った大きな車に、まるでヒヨコが母鶏の羽根で守られているようにサポートされながら、自転車で下っていました。
もしも再訪できたら、試してみたいことのひとつです。

このマウイ島では、西岸にある旧都ラハイナも観光スポットです。空港のあるカフルイ市内に戻り、軽食を食べ、ラハイナに向かいました。
道路は大変な渋滞でした。事故とか工事があったわけではなく、ちょっと走ったかと思えばまた動かなくなる、いってみれば江ノ島あたりと似た、自然渋滞のようでありました。
貧弱な道路状態のところに、観光ブームで、容量以上の車が押し掛けているのでしょう。アメリカの交通渋滞を経験するために、レンタカーを借りたような、あほらしい気分になってしまいました。

考えてみると、アメリカはグローバル・スタンダードとかいって、いろいろな制度を押しつけ、日本経済をぐちゃぐちゃにした感があります。
それなのにアメリカ自身は、マイル、ガロンをグローバル・スタンダードのメートル、リットルに合わせる気はないのです。交通標識だって、グローバル・スタンダードで決められた斜線の禁止は使わないで、Don't Stop などと、文字で書いているのです。
自分の都合を他人には押しつけ、自分はやらない、そういうダブル・スタンダードを、アメリカ人たちは無邪気にやっているのです。
こんな様にして、渋滞に遭うと、どうしても良い印象なんか、持てるわけはありません。

・吾が影の失せるまで日の高うして

●ホノルルを嫌いになったワケは
旅の6日目に、ハワイ島からオアフ島ホノルルに移動しました。
僅か40分ほどの飛行ですから、9時30分には、もう、ホノルル空港に着きました。
この日、私の目論見では、大きな荷物を空港のコイン・ロッカーに預け、まずアリゾナ記念館あたりの見物をし、時間があればダイアモンド・ヘッドを訪ねたいと思っていました。
さて、コイン・ロッカーの場所を尋ねると、昨年9月の同時多発テロ以降、コイン・ロッカーは閉鎖され、荷物を預けるなんてとんでもないことだと言われてしまいました。
いくら私でも、大きな荷物をかついで観光というわけにもゆきません。仕方がありませんから、いったん宿にチェックインし、荷物を置いてくるよりほかに、手段はありませんでした。
例えてみれば、小牧の名古屋空港に着いて、すぐ、明治村を見にゆきたいのに、いったん東山公園あたりの宿に荷物を置きにゆくようなものです。
バスは2系統あるのですが、なかなか来ませんでした。

空港から街へ向かうバスは、ニミッツ大通りという道を通りました。
そのとき、戦中派の私は「いざ来い、ニミッツ、マッカーサー・・」という、第二次世界大戦中に歌われた歌を思い出しました。
ニミッツはアメリカ海軍の提督、マッカーサーは陸軍の将軍でした。
神国日本では「ニミッツ、マッカーサー、来て見ろ、ひどい目に合わせてやるから」そう歌って志気を盛り立てていたのです。
実際に、彼等が現れたとき、地形が変わるほど熾烈な砲爆撃を受けて叩きのめされたのは、私たちだったのです。
そういえば、「くたばれGNP」と大見出しを新聞に踊らせていたのを、いま、打つ手のないデフレの闇の中で思い出すのです。
とかく、景気の良い掛け声は、眉に唾をつけて聞いたほうがよいようです。

ともかく、再び空港を通過したのは3時間後でした。
アリゾナ記念館へは、訪ねる人の列に混じって、気ぜわしく急ぎました。
すると、立て看板に、警備上の必要から、荷物は預かり所に預けるようにと書いてありました。預かり所は、テントで作ってありました。
2ドル払って、小さなデイ・バッグを預けました。
やっとアリゾナ記念館の受付にたどり着き、入場券をくれと頼みました。
軍隊の制服まがいの服装をした年輩のおばさまが、私のウエストポーチに目をつけ、それも預けてこなくちゃダメと言うのです。
仕方がありませんから、また、預ける人の列に並びました。
預かり所の人の仕事ぶりを見ていると、実に手際が悪いのです。エフを付けているのに、ちっとも系統立てて扱わないのです。
たまたま、係りが私のバッグの近くに行ったときに「ザッツ イット。ブルー ワン」というように声をかけてやっと手に入れたのです。
ともかく、こうしてポーチも預けました。
さて、受付に戻って「入場券をくれ」というと、「今日の分はもうなくなった」というのです。「だって、さっき、おばさんが」、と言っても、ラチはあきません。
そのうちに、くだんのおばさんが戻ってきました。
「さっきあんたが預けてこいと言ったから預けてきたのだが、今度は切符がなくなったと言われちゃったよ」と、文句を言いました。
おばさんは「さっき、お前が来たときに、もう、今日の入場券はなかったんだ。資料館の写真でも見てゆけ。庭へ出れば、港も見える」と言うのです。

アリゾナ記念館は、沈没した戦艦アリゾナの上に造られているのです。
先年、ある国の偉い人が、アメリカを訪ねるのに先立ってここを訪問し「日本って、ひどい国だよね。あのころ僕らは、お互いに、お友達同士だったよね」とパフォーマンスしたところです。
ルーズベルト大統領のお友達だった蒋介石さんを、台湾に追いやった側の人なのにです。

すべてが分かっていれば、空港から大きな荷物をアリゾナの預かり所まで持ってきて預ければよかったのです。
ともかく、あるところでは警備上荷物は預からぬといい、また別の場所では警備上どんな小さな荷物でも預からなくてはいけないといい、結果的に6500キロも飛行機で飛んできたお客様の意に背こうというのです。
私はカッとして「いいよ。もう頼まれても見てやらないよ。どうしても来てくれというなら、今度は爆弾を積んでくるよ」と、言いたくなりました。
でも、今、愛国心の塊になっているアメリカ人たちには「へー、爆弾だって。なんと古いことを。ミサイルじゃないの」と、せせら笑われるのが、関の山でしょう。

同時多重テロ以来、この例のように、アメリカ社会では、彼等が本来大嫌いな非能率な行動を余儀なくされているのでしょう。

また私にとっては、世にあった頃、何回か事件に出会ったときに、確率で物事を考えられない世間を相手に、ことを収めるために、やむを得ず、随分と問題を含んだ対応策をとったことがありました。いま、その報いが、ここアリゾナ記念館で身に降りかかったような気もしたのです。

46年前、始めてアメリカにきたとき、親切な人にドライブに連れていってもらいました。
そのとき、ある道で、その人の幼い息子が「この道、大嫌い」と言いました。なぜとたずねると「この道には歯医者があるから」と言ったのを覚えています。
私のホノルル嫌いも、そんなとこです。
美人にニコッとされれば、いっぺんでとろけるような理由なのです。

この午後、折角、近くまで来たのですから、日本の降伏文書調印式がとり行われた戦艦ミズーリと、敵の艦船44隻撃沈の栄光に輝く潜水艦バウフィン号との、両艦内を見学しました。

ついでながら、帰国する朝、陸軍博物館も訪ねました。
全体に、事実を大変客観的に扱っている感じが伝わってきました。
たとえば、真珠湾攻撃をアメリカが事前に知っていたかどうかについて、イエスとノーとそれぞれ3つずつ論拠を並べてありました。
こういう公平さは、アングロサクソン以外の民族には存在しないのではないかと、かつは尊敬し、かつは底恐ろしく感じました。

・三伏の陽降るミズーリ後甲板



●ホノルルのバス
まず、どしょっぱつに、度肝を抜かれました。
国際空港のバス停には、前のほうに「東行き」、後ろのほうに「西行き」と書いてありました。
ワイキキは東ですから、前のほうに並んでいました。
説明書に乗れと書いてある19番のバスが来ました。迷わずに乗り込みました。ところが、私より前に乗った連中が、戻ってくるではありませんか。それでも私はすっかり東行きだと思いこんでいて、1ドル札を料金箱に入れてしまいました。
運転手が、お前ワイキキかと聞きます。そうだというと、これは西行き、反対方向に行くと言うのです、そして乗り替え票をくれました。乗り替え票は、2時間以内ならば名古屋市の敬老パスと一緒で、どこ行きにでも、何回でも使えるからこれでよいのです。

最初に乗ったときは、町の様子も、宿の場所も分からないものですから、バスの車内前部にある電光表示で、次々に出てくる通りの名前を一生懸命見ていました。
その後、いろいろの路線に乗ってみて、だんだん分かってきたのですが、空港線には電光表示機がついた新しいバスが投入されているようです。ほかにはアナウンスのあるもの、アナウンスさえもないものもありました。

日本人観光客が、律儀に時刻表らしきものを見ているのを見掛けました。だから、スケジュールは、一応、あるのでしょう。
でも、実際は何台も続けてきたり、来ないとなると30分近くも来なかったりします。バスは、日本でもそうですが、周りの道路状況などに強く支配されるので、まったく不定期といっても過言ではないようです。
一例をあげれば、ホノルルでは車椅子の人たちも、頻繁にバスを利用しています。そんな車椅子の昇降が、あるとないとで、所要時間はすっかり変わるわけです。
現地の人たちは、バスのスケジュールには完全に順応ができていて、どんなに待たされても、いらだたしい様子を見せる人はありませんでした。

バス経路はある意味ではうまくできています。
例えてみれば、どのバスもバスセンターを出て、ウエスチン・キャスル、名古屋城、県庁、市役所、国際、観光、ヒルトンホテル、市美術館、栄交差点、松坂屋、蘭の館、東急ホテル、鶴舞公園までは共通に廻ってから、堀田行き、八事行きなど本来の目的地に向かうのです。
観光客としては、便利な面はありますが、なにせ時間がかかるのです。
そもそも、急いで観光しようという心がけが間違っているのでしょう。


面白いルートもあります。
市の中心を出発し、オアフ島の中央経由で島の北端まで行き、東海岸沿いに戻ってくる、一周ルートです。一周、4時間、100キロほどだろうと思われます。
名鉄バスセンターから東海市、常滑、野間、内海、豊浜、武豊、半田、大府と廻ってくるぐらいのループです。
それでも料金はほかの短距離の場合と同じで、大人1ドル50セントです。65歳以上ならば、それを証明できるカードを示せば、シニア料金75セントで利用できます。
お前、それに乗ったかですって、もちろん乗りましたよ。
オアフ島の真ん中あたりには広大なパイン・アップル畑がありました。
ヘリコプターが農薬か肥料かを播いていました。それも、1機じゃなくて2機も飛んでいたのです。
島の東の海岸は、背後に山が迫っています。そしてその山は、もとはハワイ島のようななだらかだった火山を、長年、東風と波が削ったものなのでしょう。岩壁や尖峰を持った、オアフ・アルプスと呼んでも恥ずかしくないような山容でありました。
北端には、ヒルトン・タートル・ベイという素晴らしいリゾートがありました。

そうそう、ホノルルのバスには、窓にカーテンがありません。
20年ほど前のことです。市の交通局にこんな苦情がくるようになったのだそうです。
「近頃、太陽の光が一筋でも射し込むと、さっとカーテンを引く人が多い。外が見えなくて、何のためにハワイ観光に来たのかと、実に不満である」。
当局が、その頃急増した日本のおばさんたちから意見を聞いてみました。
「私、こないだハワイへ行ってきましたの」。
「それでどうでした」。
「建物が建ってて、人が歩いてて。
私、リージェントに泊まりましたの。ロビーのシャンデリアが素敵で。それにソファの模様がとても南国的で。
そして何より、グッチのお店でダークスーツの若い男性が、日本語で親切にしてくれるのよ。
バスなんか、カーテンさえ引けば、家のリビングにいるのと一緒で快適
だし」。
なにせ、ホノルル市にとってお客様は神様です。当局者が一生懸命、いろんな価値観を持った人たちに、共通して気に入るような設備ができないものかと研究しました。そして、色はかなり濃くなりましたが、カーテンなしでも我慢してもらえるような窓ガラスの開発に成功し、採用されているのだそうです。
この項は、私の作り話ですので、念のため。
・夕立やパイナップルの海うねる

●ダイアモンド・ヘッド
ダイアモンド・ヘッドはハワイにとって、ひとつの象徴の様な存在です。
ワイキキの海岸の東方で、海に向かって突きだした右肩上がりの横長の山です。これは実は、古い火山のクレーターの縁の最高点(232m)なのです。古代ハワイ人は、鮪の額と呼んでいたそうです。確かにそういえばそんな格好に見えます。
一見、ただの山に見えるこのダイアモンド・ヘッドが、実はハワイを防衛する要塞であることを知っている人は意外に少ないようです。
私は、半日、ビーチ観光も兼ね、市バスをつかって、登りに行きました。
アラモアナ・バスセンターからは、オアフ島の南東部を周回する長距離バスが出ています。
バスは出発すると市の北の山に登り始めます。パンチ・ボウルという小火山を右に見てパリ峠を越え,カイルアの町に入ります。このあたりの山は火山なのに、激しい浸食を受けていて、八ヶ岳の大同心などよりもっと鋭いピークを見せています。
なんでも、この近くのワイマロナという所に、横綱、曙の像があるのだそうです。一生懸命目を凝らしていましたが、見つかりませんでした。観光バスじゃないのですから、仕方ありません。
美しい海岸線を眺めながら、シーライフ・パークに着きます。ここで逆回りのバスと出会い、20分の休憩があります。
ココ・ヘッド、ココ・クレーターという小火山を見て、カイの港を過ぎると住宅地に入り、間もなくワイキキに戻ってしまうかというところに、ダイアモンド・ヘッドのバス停があります。
大抵の人は車で駐車場まで入りますが、私は仕方ありませんから15分ほど車道を歩きました。右手に、軍の施設があり、立ち入り禁止と書いてあります。
登山道の入り口は駐車場の奧です。1ドル払ってパンフレットをもらいます。
山など登ったことのなさそうな観光客たちが凄い勢いで歩いてゆき、すぐ、フウフウいって休んでいます。途中からは、まあ、それらしい山道にはなります。そして、頂上直下に、真っ暗な螺旋階段があります。
それを抜けてホットしたところで、いきなり「ご苦労様、登山証明書は要らないか」と言われます。「イエス」と答えると、2ドル出せと言われます。なんか、トントンとうまい具合にできています。
その時は、日本の観光地にある通行手形や提灯でも買わされたみたいで、俺としたことがと、忸怩たるものがありました。
でも、後で読んでみると、まるでエベレストにでも登ったような荘重な書き方ながら、中身は「0,7マイルの未舗装の凸凹道を、滑り落ちたり迷ったりすることもなく正式に登頂に成功した。暗いトンネルを抜け、狭い砂穴の中、271段の螺旋階段を突破し・・」と洒落のめした、楽しめる文章でした。
あとはコンクリートでできた展望台で、涼しい海風に汗を収め、絶景を楽しむのです。
このあたりには、かなりしつこく、ここダイアモンド・ヘッドが要塞であることを説明してあるのです。
この山にも5カ所の砲台があります。そして一番高いところには、4層になった砲撃統制所がカモフラージュされていて、島の別の場所に設けられた砲台にも指示を与えるようになっていたのです。
ハワイが独立国で、世界各国が捕鯨の基地として使っていたのは、せいぜい100年ほど前のことであります。ですから、アメリカの領土となってからも、他国に侵攻される可能性は、当然、念頭に画いていたのです。

・帆船やハワイはまさにブルーなる

●アラモアナ・ショッピング・センター
ショッピングだって!、お前としたことが、何を血迷ったことを言い出すのかとお思いのことでしょう。
もちろんショッピングをしたわけではありません。
ここは、バスセンターにもなっているんです。
午前中、4時間かかる島の周回バスが発着したのも、午後、またダイアモンド・ヘッドへ行くバスに乗ったのも、ここのバスセンターなのです。
ちょうど昼時になりましたから、人の流れを観察し、また臭覚を働かせ、ここにある大食堂を探し当てました。
体育館ぐらい広いフロアに、椅子、テーブルが置いてあり、周りにいろんな国の料理店があるのです。好きなものを買ってきて、食べればよいのです。簡便なことこの上ありません。

朝、早く宿を出たので、トイレに行ってないことを思い出しました。気にすると行きたくなるものです。
大体、私はデパートのトイレを使わせてもらうことが多いのです。なんといっても清潔ですから。
ここのSデパートに入ってみました。女性用のトイレはありました。
殆どの場合、男性用のは、それと対照のような場所にあるものです。ところが、ここではどうしても見つからなかったのです。デパートそのものが、女性用のものばかり並んでいるようでした。トイレどこですかと、店員さんに聞く勇気はありませんでした。
アラモアナはショッピングセンターですから、洒落たお店が軒並みに並んでいます。でも、小さな店は私には無用のものですから、駆け抜け、大きなデパートらしきところを探して入りました。
コンシアージュとかいう宝石店だったような気がします。ピカピカの床で、なにかキラキラしたものが一杯並んでいました。驚いたことには、店員は日本人の男の子たちで、ご苦労様に真っ黒な背広を着ているのです。
こういう店ですから、お客は疎らですが、お客のほうは超薄着なのです。まったく、違和感の標本のような気がしました。
いつか、名古屋でマキシム・ド・パリに入ったときより、もっと場違いな気分でした。
そうそう、大事なのはトイレなのですが、デパートならよくある、女の人と男の絵に矢印を書いた標識など、どうしても見当たらないのです。
実際、宝石店にトイレなど、まるで似合わないものなのですから。
それにもメゲず、70年の経験を活かして、海を見ながら食事する洒落たテラスの蔭に隠してあるトイレを、ようようのことで探し当てたことでした。

ハワイ州の収入の1位は観光、2位が軍事関連です。観光収入は全収入の半分以上を占めています。
5年前のデータですが、一人の観光客が1日に落とす金額が出ていました。(グラフから拾いましたから、概数です)
       
       アメリカ人        日本人   単位 ドル
合計      155         290
宿泊       60          90
飲食       30          40
交通       25          15
ファッション   15          95

アメリカ人は交通費だけが高いのは、レンタカーを使うからだろうとされています。

ハワイ州の人口が121万人、2000年度に訪れた日本人観光客は186万人といわれます。

日本人は、ホノルルよりもっと田舎で素朴なハワイ島では「外国人」として遇されていると思いました。
しかし、ホノルルでは、生活ルールでハワイ人と対等のウエイトを持った、「日本観光客人」として扱われている感じがありました。
つまり、ホノルルのバスの中で、こんなことがあったと報告しようとすると、実は、それはハワイ人の習慣ではなくて、「日本観光客人」の習性だったというようなことは、大いに起こりそうなのであります。

・汗若しダークスーツに身を固め



●ホノルルの町角で
・ワイキキの浜
ワイキキではハイアット・リージェンシー・ホテルと背中合わせのような、一等地にあるユース・ホステルに泊まりました。
部屋は6人部屋、こうなると部屋は夕方早くから暗くしておき、寝たい人が寝るだけの場所になり、寝ない人はロビーでテレビを見たりお喋りしたり、というわけなのです。でも、実際は場所が良いので、みんな出歩いているようでした。
私も毎晩、ワイキキの浜に出ました。
海風に吹かれながら、薄暮の7時前後に小公園で上演されるフラ・ダンスを見ました。曲によってそれぞれ違っているのですが、ただ見ているだけじゃ、そんなに面白いものだとも思いませんでした。
むしろ、日曜日の夜に、即席フラダンス教室の素人の生徒さんが踊ったのは、面白く見ました。女の人と比べて、男って下手だなと思いました。男はどうも一生懸命になり過ぎて、力が入っちゃうからなのじゃないでしょうか。

沖合で楽しんでいるサーフ・ボードも見物しました。
波の前の斜面に、波と同じスピードで乗っていればよいわけです。
上手な人は、信じられないほど低くなった波をうまく利用して、岸辺近くまで乗ってくるのです。
私は、こういう理屈のあることは好きなたちですから、いつか機会があったらやってみる気はあります。
でも、ひとりの山登りはともかく、ひとりの水遊びは、どうもサマにならないように感じているのですが。
ハワイの文明開化の頃、白人宣教師が、住民が波乗りのほうが面白くて、ちっとも教会に来ないので、禁止しようと本気で考えたそうです。
確かに、殆どの人は下手なのに、みんな最高に楽しんでいました。

ワイキキの海岸には、何カ所か、小公園やテーブル・ベンチをしつらえた休憩所がありました。そんなひとつでは、何卓もチェスを楽しんでいました。
ある夜のこと、そんな場所で、全身薄いブルーの衣装に身を包み、帽子と顔を、目の粗い網で包んだ女性がじっと座っているのに気がつきました。
あれは、ベールというものでしょうか。私など見たこともない、ルノアールの絵にでも出てくる、貴婦人といった様子でした。
彼女は、夜でも裸ん坊の多い、ワイキキの浜では異色を放っていました。
さて、次ぎの夜に、彼女は花の一杯ついた麦藁帽をかぶり、やはり貴婦人然として海を見ていました。
そういえば、私が最初にワイキキの街に着いたとき、バス停で、物凄い皺くちゃの女性が、臍出しルックで歩いているのを見かけました。
さすが、ワイキキだと思うと同時に、凄い美意識だと肌寒くなったのでした。後で考えると、あれは彼女だったような気がするのです。

ワイキキは案外、雲の多いところだと思いました。
3夜とも、低い、小さい積雲が、空の50パーセントほどを、いつも隠していました。
まず、高層ビルと雲の切れ間に、北極星を見付け、あとは全天、次々に星を探って行きました。
この時期、西にはヴィーナスが明るく、その右下にジュピターも見えました。
アークトゥルスが、まさに頭の真上に見え、また、さそり座も高く輝き、南の島にいることを実感させられました。
さそり座といえば、その尾を銀河に浸しているのです。そして銀河といえば、南十字星があるはずなのです。
この6月、暗くなる頃、南十字星が南東の空、地平線から10度弱の高さに輝いていました。南半球で見るほど高くありませんから、大気の厚い層を通してですが、流石は一等星の集団ですから、見事でした。
南十字星を、昔のハワイの人は「月のお気に入り」と呼んだのだそうです。

・麗しの十字星(じゅうじ)は月に愛さるる

・ラブハンターかギャングか
マウイ島のハレアカラ山(3055m)を日帰りで訪ねた日、朝5時前に宿を出ました。
ワイキキの街には、こんな時間に開いている店もあるのです。
ドウナッツとコーヒーの朝飯を食べました。
日本人らしいご夫婦が、座って食事しておられるのが目に入りました。
なにせこの街は日本人だらけですから、普段だったらこんな時に、私は口など利かないのです。
でも今日は、すごい早朝です。「お早うございます」そう言って、隣のテーブルに座りました。
返事はありません。
食べながら観察していると、ご夫婦ではありませんでした。
両方とも年輩のおばさんでした。
私の目も良くないのですが、言い訳をすれば、男も女も年をとると中性化するのは事実であります。そのうえ、おひとりは髪を短くし、帽子をかぶっておられたのです。
「天国や地獄の話は、勧善懲悪の作り話だわよ。生きてるあいだに好きなことしなくっちゃ」そんな話をしておられましたが、そのうちに急に話題が変わりました。
「昨夜ね、○○番のバスの例のところで変な連中が乗ってきたのよ。わたし嫌だったから、次で降りちゃったわ」。「あいつら、隣の席にどうぞなんていうけど、わたし嫌だから座らないで立ってんのよ」。
そんな、危ない男たちに狙われ、どんなにして逃げ回っているかという話題の競争が始まったようでした。
私には、彼女たちが話している危ない男たちというのが、海外観光地につきものといわれるナンパのことなのか、それともギャングなのか分かりませんでした。
まあ、とりあえず、男に狙われる自分の色香を、女同士で自慢し合って楽しんでいると考えましょう。
そうすれば、このホノルルでは、シーサイド・レジャー、買い物と並んで、そんな楽しみ方もあるのだと、感心する種になるのですから。
さて、食べ終わって立つときに「お先に」と声をかけましたが、返事は下さいませんでした。
私も、まだ男の華の一片の残った、彼女らにとって多少危ない男に見られたと、自惚れておくことにしましょう。

・入れ墨や臍の周りに花咲かせ

●兄さんエッチ
帰りの便のジャンボ機は満席でした。
余裕を見たつもりで、2時間ちょっと前にチェックインしたのですが、もう「この便はオーバーブッキングです。貴方には補助席をあげますよ。席があってラッキーでした」と言われました。
その席は、23H「兄さんエッチ」という、変な番号の席でした。
正規料金を払っている私が、とんでもない安い料金しか払っていない団体さんより冷遇されるのは理屈には合いませんが、なんといっても数は力なのですねえ。

同時多発テロで、ハワイへ飛行機に乗ってくる観光客が減ったらどんなに困るかは、想像がつきます。それで、昨年末、ハワイからホノルル市長だったか誰かが、日本に誘致に来られたことが新聞で報ぜられました。
それが頭にあったので、テロの5ヶ月後の今年2月、私はこのハワイ計画を立てました。
でも、申し込みましたら、航空会社が便数を半分にしていて、そのときは席が取れませんでした。
こちらにも、息子の結婚など、いろいろ都合があって、6月になってしまったのでした。

物理的に、ハワイの土を踏んだのは、今度が2回目です。
1956年、当時、まだジェット機は飛んでいませんでした。プロペラ機のストラト・クリッパーでした。ウエーキ島で一回目の燃料補給、ハワイへは二回目の燃料補給で降りました。そうしないと太平洋を横断しサンフランシスコに行けなかったのです。
そのとき、ホノルル空港の入国審査で、検査官が、私の鞄の中にあった、セロファンの袋に入った「味の素」の白い粉を不審がりました。一生懸命「テイスティ、テイスティ」と抗弁していたのを思い出します。
そのときは、空港外には出ませんでした。帰国は横浜へ直行する船で帰りました。

実質的に、ハワイで刻を過ごしたのは、今度が始めてです。
ご覧の通り私の旅など、困っているハワイを助けてあげたなど、大口を叩けるものではありません。
せいぜい、貧者の一灯といったところでしょう。
それどころか、なにかと理屈をこねるだけでモタモタした老人を、10日間、アメリカが介護してくれて、その間、日本が楽をしていた、というのが実体なのかも知れません。
なにはともあれ、私にとって、終わってみれば、沢山の人にサポートしていただいた、なんとも楽しい旅でありました。

・朝顔の蔓競わせて吾が余生    

重遠の入り口に戻る