題名:魏志倭人伝の道

(2001/3/16〜18 壱岐、対馬)

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日付:2001/5/3


・なぜ壱岐、対馬へ?

壱岐、対馬に行ってきたと報告すると、あまり耳にしない土地だが、何か見るものがあったのかねと聞き返されることが多いのです。

魚が美味かったと話すのも、おおよそグルメにほど遠い私としては、気恥ずかしくて「いやー、別になかったですね」と、ヘドモドしながら答えることになってしまうのです。

正直なところ、私は、まだ行ったことがないところを訪ねたいというだけではなくて、この地域が昔から大陸との交通の要路であったという、歴史上の興味があったのでした。

 

日本が始めて文字で記録されて歴史に登場するのは、今から約1900年前、中国で書かれた魏志倭人伝の中からであります。

今度の旅では、その魏志倭人伝に出てくる、対馬國(つま、対馬)、一支國(いき、壱岐)、末廬國(まつろ、松浦)、つまり朝鮮半島から日本に至る古代の交通路を訪ねたのです。

 

同行者は、いつものとおりMさんです。

Mさんは勉強家ですから、司馬遼太郎さんが書かれた「街道を行く」シリーズのうちの、「壱岐・対馬の道」という本を持ってきて貸してくれました。

それを道々読んだのです。

こうして私にしては珍しく、まず予習をしてから旅行をするという形となりました。

もちろんそれは、訪ねる場所を選ぶのに便利でしたし、また、訪れた先でその場にまつわる豊富な情報を得ることができました。

でも、帰って何日経っても、パソコンの前に座ってキーを叩く意欲が湧いてこないのです。

あれもこれも大作家が、ありとあらゆる資料を調べ尽くし、記述し尽くしていて、いまさら何を書けるのかしらと思われてくるからでありました。

また、そうは言いながら、彼氏のなぞりの旅をしてきたというのも、なにか今ひとつ本意ではないのです。

 

名古屋発の夜行バス「どんたく」号で21時に出発しました。そして翌朝6時、博多に着き、JRで唐津までゆき、あとはレンタカーで駆け回ることになりました。

朝、門司から先、終点まで、バスの車内で見せてくれたビデオが、結構面白かったのです。

「駅前団地」という名の古い古い喜劇映画なのでした。

内容はともかく、にわか成金の地主に伴淳三郎、土地の周旋屋にフランキー堺、田舎医師には森繁久弥、そしてあの御巣鷹山墜落事故にあい43才で亡くなった坂本九ちゃんが高校生として配されていると言えば、どれほど古いかお分かりになるでしょう。

私はそのビデオを、素直に面白がって見ました。でも「風とともに去りぬ」のような、いわゆる名画とは別のジャンルのドタバタ喜劇であります。

こんな映画に、いまの若い人たちも興味を持つものでしょうか。

若い人たちが、この種の映画に、馬鹿馬鹿しいとは思いながらも、戦後のある時期まで世間に存在した、一種の清潔感のようなものを感じてくれれば有り難いと思うのです。

帰路は博多から新幹線、レール・スター号で帰りました。

新幹線営業開始からもう40年近くの年月が経ちました。

開通初期の頃は、新幹線の車内で出張報告を書くと、振動が大きくてペンの着地点が定まらず、乱れた字になってしまったものです。そのため、翌朝出社して清書をお願いするのに、申し訳なくて仕方がなかったものです。

いまの車体は実に揺れが少なく、技術の進歩に感心させられます。

とくに、このレール・スター号の車体は、新しい換気システムが採用されているのでしょう、タバコの煙の処理がとてもうまくできていました。

私たちは、いつもの新幹線のつもりで2号車は禁煙車だとばかり思って座りました。ところが、このレール・スターでは、2号車は喫煙車だったのです。でも、有り難いことに、他人の煙がちっとも気になりませんでした。

これもひとつの行き方かもしれません。

 

最初に訪れた名護屋城は、豊臣秀吉が朝鮮征伐の基地として築いたものであります。

唐津から車で20分ほど北上した、玄界灘に面する呼子の街近くにあります。

秀吉は、1590年、小田原の北条氏を下し、仙台の伊達氏も帰服し全国統一を成し遂げました。

そして直ぐ、1591年朝鮮に出兵を命じ、自らも名護屋城に入り指揮をとりました。

この文禄の役は、最初は日本の16万の陸軍、9千の水軍が破竹の勢いで半島北部まで進んだものの、補給路を断たれ、明国軍の介入を招き、停戦、撤収せざるをえませんでした。

その後、秀吉と明国側、双方が主張する纏まりそうもない無理な条件を、交渉当事者たちが何とか言いつくろいながら和平交渉を続けていました。

ところが1596年、秀吉は明国側の「なんじを日本国王に封じ、朝貢を許す」という屈辱的な文面に激し、再度14万の大軍に出兵を命じたのでした。

このたびは戦意が盛り上がらず、苦戦しているうちに、1598年秀吉が病死し、完全な失敗のうちに撤退したのでした。

・暁天に雲薄々と冴え返る

 

・迷惑な隣人

さて人間国宝の陶芸家、加藤卓郎さんが韓国を訪問されたとき、加藤という姓のため、秀吉軍の武将、加藤清正との連想から評判が良くなかったそうであります。

まったく、朝鮮半島に住んでいた人たちにしてみれば、秀吉軍のせいで、大変な迷惑を蒙ったのであります。

それだけではなく、秀吉敗退後にも、なお駐留を続けた明国軍にも大層悩まされたそうであります。

 

玄界灘に突きだした東松浦半島の先端近く、標高50mほどの小高い丘の上に立てられた名護屋城は、大きな城であります。

そして、その周りに諸大名の陣屋が配置されたのでした。総勢30万人の軍勢が集まったとのことです。

武士の職業は戦であるとは言いながら、遠くから狩り集められた連中はまったく嫌々来ていたに違いありません。

自分の権力に楯突くものには、残虐の限りを尽くす秀吉のことです。尻尾を振っておかないと秀吉に命を取られると思いながら、それこそ面向腹背の集団だったのでしょう。

晩年の秀吉は際限のない権勢欲に駆られ、いまや日本のトップに立ち、これからは中国、インドまで支配しようと手紙に書くところまできていました。周囲の人々が「太閤様にも狐がとりついた」と噂したと言います。

信長、秀吉、家康とも、我が郷土、愛知県の出身であります。

私が小学生の頃は、三人の中でも、秀吉にもっとも人気が集まっていたように思います。

先生が、そのように教えたと言うことだったと思うのですが、信長は切れ過ぎて人格的に問題があると言う印象でした。

家康は蔭でこっそり画策する、陰険な狸オヤジと思われていました。

それと違って、秀吉は誠意を持って主君に仕え、素晴らしい知恵をもって全国統一をやり遂げたと教えられたのでした。表面上、秀吉が皇室を大事にするように振る舞い、天皇から関白、太閤という位を頂戴していたことも、昭和初期には、もてはやされる

理由になったのでありましょう。

阪急電鉄を起こし、宝塚少女歌劇を始めた関西の事業王小林一三が、今太閤、つまり理想の成功者、とよばれていたのを覚えています。現在ならばシンデレラ・ボーイといったところでしょうか。

 

秀吉は若い頃、自分が仕えるご主人の足が冷たくならないようにしようとして、寒い朝、草履を自分の胸に入れて暖めていたと言い伝えられます。

また墨俣では、敵前で、一夜のうちに城を築いたといいます。

 

究極的に強大な権力を握った秀吉が何をしたかを考えると、日本人にも朝鮮人にも、秀吉なんかいなかった方が良かったに違いないと思うのです。

若かった頃の秀吉にまつわる美談も、それを評価して行った主君信長による抜擢も、大きな悪事を働かす過程になってしまったのでした。

私は年をとるにつれて、肖像画のなかの秀吉が、段々にいやらしい顔つきに思われるようになってきました。

この事はどうも、出世街道を登り詰めた太閤秀吉にたいするヤッカミではなく、通常の人間がたどる過程として、年をとるにつれて「将来の出世」というものがなくなり、「何をしたか」に心が移ってきたからのように思われます。

 

・太閤の夢儚しや梅香る

 

・縄文稲作

唐津では、この名護屋城の他に唐津城と菜畑遺跡を見ました。

菜畑遺跡は縄文晩期の遺跡で、1981年、ここで水田稲作の跡が発見されたのです。

従来は、日本では稲作は弥生時代になってから始まった、あるいは稲作が伝わってきて生産力が向上したために、縄文文化よりも高度な弥生文化が出現した、と考えられていました。

菜畑遺跡で発見された縄文稲作は、この定説を覆したのでした。

今では、ほかにも何カ所か縄文時代の水田跡や、稲の籾の跡が発見され、弥生時代開幕と稲作との関連が希薄になってきているようです。北日本にも、意外に早い時点から稲作がもたらされていたようであります。

司馬遼太郎さんは、弥生時代の繁栄は、稲という植物の導入がきっかけになったのではなくて、鉄器が普及するようになり、稲を水田栽培する際に必要な器具が大量に供給されたことによってもたらされた、と考えておられたようであります。

ともかく、ボツボツと新事実が出てきて、従来からの仮説が修正されて行く、考古学という学問はまことに面白い学問であります。

 

・春の夢吾に小夜姫領巾(ひれ)振れる

 

・壱岐の半日

東松浦半島の先端にある呼子の港から、フェリーで約1時間、壱岐の印通寺(いんどうじ)の港に着き、民宿に泊まりました。

この島から対馬への船は便数が少なくて、12時25分発に乗らないと行けないのです。

そうなると、壱岐で観光できるのは半日しかありません。

それで、前の晩にレンタカーを借りておき、朝早くから回ることにしました。

民宿の小母さんに、レンタカーを宿の前の岩壁に泊めて置きなさいと言われました。

車止めも何もない岩壁に駐車するのは、気持ちの悪いものであります。

山道を歩いているときに、実際に足が辿っているのは、せいぜい幅50センチでしょう。しかし、道幅50センチで両側が断崖絶壁だったら、誰でも、恐くて足がすくんでしまって、とても歩けるものではありません。

車の場合も、ハンドルもブレーキも正常だと分かっていても、ひょっとして海に落ちやしないかと、山の細道に立った時と同じような気がしたのでした。

 

壱岐の島の最高峰、岳の辻に登りました。

頂上には、各種電波のアンテナが林立しています。標高は、たったの213mで、頂上まで車が上がります。

壱岐は、直径15キロほど、面積が名古屋市の半分ぐらいの島で、主体は古い火山の溶岩台地であります。全体的に非常に平坦で、長崎県で2番目に広い平野だそうです。水田が沢山あります。

島の北の端だけは火成岩ではなく、数千万年前に生まれたと思われる堆積岩で出来ていました。

そんな北部の勝本という名の街に、俳人曾良(そら)のお墓がありました。

河合曾良は芭蕉に付き添って、奥の細道を旅したのです。そのことで私も曾良の名は知っていました。

芭蕉が亡くなってから16年後、曾良は巡検使という役人になり、地方の情勢を調査中、この地で亡くなったのでした。巡検使というのは、将軍が代わるごとに地方の情勢を調査する臨時の役職なのだそうであります。

曾良の生まれは信州の上諏訪であります。

その後、相次ぐ家庭の不幸で、伊勢長島の伯父の所に引き取られたりしたのでした。

その縁で、曾良の墓のある壱岐の城山まで、諏訪大社の御柱を持ってきて、立ててあったのには驚きました。平成4年の大祭で取り替えたときに、ここに持ってきたのだそうです。

20年も昔、長野に単身赴任していたころ、諏訪大社のお祭りで御柱を曳きずったことがありました。そのことを、この地で思い出そうとは、思ってもいませんでした。

当地は名古屋よりも暖かいようで、曾良の古い墓石には、もう山椿の花がボタボタと散り敷いていました。

 

1274年、文永の役で大陸からの侵攻を受け、守護平景隆が率いる日本軍が全滅させられた新城神社を訪ねました。すぐ近くにある、死者たちを弔う千人塚も訪ねました。島にはこのような千人塚が数カ所あるということです。

また、1281年、弘安の役では4万もの大陸軍に襲われ、弱冠19才の守護少弐資時が率いる日本軍が皆殺しされたところも訪ねました。双方とも、壱岐の島の東北部にあります。

壱岐の島では、子供がむずかったとき、静にしないとムクリ(蒙古)、コクリ(高句麗)が来るよ、と脅したといいます。

前日、名護屋城の記念館で、日本の秀吉軍が朝鮮側を攻め、悪行を働いたという説明を散々見たあとで、今度は日本側が攻め殺された所を見たわけです。

 

・春にわれ乞食やめても筑紫かな 曾良

 

・原の辻

中国の史書である漢書の中の魏志倭人伝には、弥生時代の日本のことが記述されています。その魏志倭人伝中に出てくる國の名前は、必ずしも現代のどこを指すかがよく分かっていないのです。

韓国から南へ、何里、あるいは何日行くと某国につく、そこを治めていたのは誰それと、國や首都の叙述が進んで行きます。

魏志倭人伝の編者が間違えたのか、それとも後で、書き写すときに間違えたのか、ともかく南と東を勝手に解釈しないと、理屈に合わないようなのです。

当時日本にあった國の名前が30ほど出てきますが、それらを率いていたのが、邪馬台国であり、その邪馬台国のトップが卑弥呼という名の女王であるとされています。

その邪馬台国は、昔から、九州にあったという説と、近畿地方にあったという両説ががあります。

ほとんど九州説に決まったかのように思われていましたが、奈良県のマキムク遺跡が従来の見解より古いといっては、また畿内説が蒸し返されたりしています。

 

こんな情勢の中で、一支国の王都だけは、ここ壱岐の島の「原の辻」に間違いあるまいとされているのです。

 

発掘現場は、一度発掘された後、埋め戻されてしまっています。

そういう事情ですから、遺跡の探訪は一支国遺跡博物館で展示を見学するのと、実際の地形を見ることになります。

王都があった時代は、今から2300年〜1700年さかのぼる弥生時代のことです。今、東海地方では遺跡の上に、既に現代人の住居が建て混んでしまっていて、大規模な発掘など出来ず、弥生時代の村全体の配置を把握するのは極めて困難です。

しかし、ここ原の辻では、全面的に発掘されたのです。そのため集落全体の配置を良く知ることができました。

全体として集落を守るために掘られた、円形の大きな溝、環壕が、東西350m南北750mと非常に広いことと、そのうちのかなりの面積が墓地に当てられていることなどに強い印象を受けました。

 

ついでながら、弥生時代になってから村の周りに、防衛のためと考えられる環壕が現れるために、縄文時代までは戦はなく、平和な社会だったと主張する人があります。

私は単に、縄文人が原子爆弾はおろか機関銃も持っていなかっただけのことだと信じているのです。

個人でも集団でも、人間は昔から争いをし続けてきたのです。

人類発祥当初は、個人が手でなぐる、足で蹴る、歯で噛みつくというレベルの争いだったのでしょう。

それから数百万年、相手より強くなろうという人間の思考体系が行き着いたところは、世界を二分する大きなグループに結集し、原子爆弾という強力な武器を使う修羅場だったのでした。

この余りに強力な殺人手段は、人類を破滅させかねないと認識され、それ以後ほぼ半世紀、大きな戦争はなくなってしまいました。

 

もろもろの自然の動物、とくに弱者であるオオタカ、トキなどは、どんなにか人類の破滅を望んでいることでしょうか。人類に友好的な、犬、猫などほんの少しの種類の動物を除けば、人間以外の動物はみんな人間の破滅を望んでいると言ってよいでしょう。

なにせ、人類は遺伝子のDNAレベルで、平和を渇望しながらも争いから離れられないようにできているのですから。

遺伝子組み替えで、戦争をしない人類ばかりになったら、どんな地球になるのかしらと想像してみるのも、一興でありましょう。

 

弥生時代に祭を行った場所、船着き場なども、ここの遺跡で特定されたのであります。

有名な佐賀県の吉野ヶ里遺跡とは相違があると専門家は言いますが、私は、両遺跡は、大変によく似ていると思いました。

また、弥生時代の村の姿を想像するベースになる点で、この両遺跡を訪ねることができたことを有り難く思いました。

そう言えば、もっと古い、約5000年を遡る縄文中期ごろの村、青森の三内丸山遺跡でも、広くて小高い丘があり、また広大な墓地があり、ある意味では似た感じがするのです。

いずれも、人口の多さではトップクラスの村なのでしょうけれども、それらは意外に大きなスケールのものだったようであります。

 

・目瞑りて弥生時代の丘に立つ

 

・対馬の民宿

壱岐から対馬までも、フェリーに乗り約1時間で着きます。

対馬では厳原市の「民宿いづはら」に泊まりました。

一般論で民宿といえば、町はずれの農家などが、片手間で泊めてくれるという印象があるのですが、ここの民宿は、なんと街中の歓楽街の一角にあったのでした。

名古屋でも最近では滅多にお目にかかれない、キャバレーまであったのです。フィリピンの女性がいるとありました。

民宿のおばさんに「キャバレーには、どんな人が行っているんですか」と聞いてみました。

「私たち、行ったことがないから知りません」と言われてしまいました。

これは、誠にごもっともな返事であります。

漁民相手に苦労したことのあるMさんが言いました。「今、懐にお金がなくても、漁師は明日魚群が回ってきて、大漁でお金がごっそりはいるかもしれないと考える。でも、農家の人は明日、畑でキャベツがどっさりとれてお金が入るとは考えられない」。

確かに対馬には農村が殆どなく、漁師が多いところのようなのです。

お金は天下の回りものなのですから、お金を流せば、デフレも防ぐことが出来ますし、そのいくらかはフィリピンまで潤すことになるのです。

それにしても、ちゃんとお魚が獲れるといいですね。

 

観光客は、天気を気にします。とくに私たちは山へ登ろうと言っているのですから、天気には最大の関心があるわけです。

民宿のおぼさんは、テレビをNHKの天気予報にしてくれました。でも、それが終わり、あの懐かしいニュースの始めを告げるメロディーが流れた途端、チャンネルを民放に切り替えました。

民放の画面では、チャパツの若い男のタレントさんが、木の板に釘を打って露天風呂を作り、お湯を注ぎ込み、いい気持ちで浸かります。

間もなく、側面がはずれ、タレントさんはお湯と一緒に流し出されます。

民宿の人も、工事で泊まっている同宿者も、それを見て、キャッキャ、キャッキャと大喜びでなのです。

テレビは、そのハプニングの瞬間をしつこくリプレイします。

いろいろな角度から撮ってあるのですから、間違いなくヤラセでありましょう。

私がタレントさんを見るといえば、NHKのクイズ番組に回答者として登場するときぐらいでしかありません。この日の民宿のおばさんのお陰で、タレントさんが、いわば本業で稼いでいるのを始めて見ることが出来ました。

同宿のおじさんは「読みませんか」と、新聞をすすめてくれました。でも、それはスポーツ紙で、プロ野球のオープン戦の記事ばかりで、森総理でも、ブッシュ、プーチン大統領でもありませんでした。

昔、中国で、ときの為政者の名前を尋ねられた農民が、満腹した大きな腹を叩きながら「一向に知らない」と答えたとのことです。よく治まっている時代は、かくあるものなのだそうです。

政治の混乱、デフレの脅威と、暗い話題の多い日本であります。

しかし、ひとたび外国旅行にでると、日本からの観光客がひしめいていて、世界にある沢山な國の中で、日本がどんなに豊なのかを思わせられることばかりであります。

我が国で、選挙の際の投票率が低くなり続け、その原因が政治不信であるといわれますが、本当の原因は、なにも際だったこともしない政府のもとで、国民が飢え死ぬこともなく、むしろプチ・デフレを楽しんでいることにあるのかもしれません。

 

・禽鹿の道

対馬は魏志倭人伝の中で「山険しく、深林多く、道路は禽鹿の径(鳥や鹿の通るような小道)の如し。良田なく、海物を食らって」と書かれています。

東西の幅10〜15キロ、南北の長さ65キロほどの細長い島です。

三重県の桑名から名張までの鈴鹿山脈、布引山脈を、ドボンと海に浸けたような格好です。

なにせ海からすぐ山で、耕地はたった4パーセントしかないのだそうです。

今でも平地は人間が占領し、神様には、もっぱら山の上に住んでいただいているようです。

私たちは古代史に興味があるので、神名帳に乗っている神社とあれば、必ずお社を拝ませていただきました。鳥居をくぐる度に、ヤレヤレまた登りかとゲンナリしたものです。こうして、この島で登った比高差を積算すれば、結構な数値になるはずであります。

 

山国の島、対馬では、第二次大戦後まで、近代的な道は、僅かに厳原と雉知との間、約10kmにあっただけで、もっぱら河床を通路に使っていたのだそうです。

 

壱岐も対馬も、いわゆる大手のレンタカー屋さんはありませんでした。そこで、観光案内で地元のレンタカー屋さんを調べました。

そこには軽4輪車があるのです。料金は小型車と較べて、たかだか1日に1000円安い程度なのです。でも、いつか奄美諸島に行ったとき、軽自動車を借りたら、小さな島ではかえって小回りが利くだけ使い勝手が良かったのを思い出しました。

今度も、島では軽自動車を借りたのです。

全行程を通じて、立派な道をすっ飛ばすことはありませんでしたから、この選択は成功だったと思っています。

今は軽自動車でも、4ドア同時ロックだったり、騒音だって巡航に入れば気にならないほど静で、装備が良くなっているのが分かりました。

 

民宿の小母さんがこう言いました。「気をつけなさいよ。なにせここじゃ、向こうから道の真ん中を車が走って来るんだからね」。

これは、きっと、以前、この民宿に泊まった本土の都会人が漏らした感想なのでしょう。

確かにこの島で唯一の国道、382号線だって、センターラインを引けない狭いところがあるのです。

島の道は総じて、狭い、曲がりくねっている、大きなアップダウンが続くなどの条件はあります。

それにも増して、決定的なのは走っている車の密度が低いことでしょう。向こうから車が来ないと思えば、誰だって、道の真ん中をぶっ飛ばす癖がつくことでしょう。

もっとも、私のように本土にいても、もっぱら山道を走っている男にしてみれば、この運転マナーだって、そんなに違和感があったわけではありません。

女性ドライバーが「避けるのは、あんたのほうよ」と可愛いらしく振る舞っているのも、共通していました。

強いて特徴を言えば、壱岐、対馬では、どこまで走っても、また何時間走っても、片側3車線の直線道路に出会うことがないという点でしょうか。

 

また、対馬をドライブしていて気がついたのは「トンネル内点灯」と表示されていても、ヘッドライトをつけない人が80パーセントほどいたことでした。

そのことを指摘しましたら、でも、一旦つけると消さないんですよ、と返事が返ってきました。気をつけてみると、それも事実のようでした。

電車の中でお化粧したり、未成年がタバコを吸ったり、まあ、軽い反骨精神を、ここではこんな格好で見せているのかもしれないと思いました。

 

対馬は南北に細長い島です。北島、南島と呼ばれますが、これは島の中央部に西側から海が深く入り込んでいるからです。実際は狭い陸地で繋がっていたのです。

陸地の幅が狭くなったところに、大船越と小船越という地名があります。

船を峠まで引っ張り上げて反対側の海へ運ぶのですから、大きな船を越させる小さな峠の方が大船越、小さな船を越させる大きな峠を小船越と呼んでいました。

いまでは、そんな陸の幅が狭くなったところを開削して、東西の海を船で航行通過できるようになっています。

私たちのように旅行者としてマクロにものを見ると、石油エネルギーで、高速に移動できる現在には、なぜそんな開削をしたのか不思議に思えるのです。

昔のセンスでは、この島の中央部に住む人が、向こう側の海に出ようとしたとき、切り開きがあれば、島の南端または北端を迂回する必要がなくなるので、非常に便利だったのでしょう。

こうして大船越に、昔、1704年、殿様が切り開きを掘った意図は理解できました。

また、1904年、海軍が掘った切り開きは、日本海海戦のとき、バルチック艦隊を迎え撃った、水雷艇が通ったのだそうです。

対馬海流は、太平洋を時計回りに流れている黒潮の支流で、東シナ海から九州と朝鮮半島の間を通り、毎秒200万トンも日本海に流れ込んでいるのだそうです。流速は早いときは時速5キロほどにも達するのだそうです。海軍が掘った切り開きでは、西から東に海水が相当の速さで流れているのがよく分かります。

対馬海流の温度は、夏には26度、冬も12度とのことですから、壱岐、対馬両島の気候を穏和にしているのです。

 

・はるばるの旅にしあれや早菫

 

・海幸彦、山幸彦

対馬の西岸中央部に和多都美(わたづみ)神社があります。

海中に一の鳥居が立ち、そのあと約100mほどの参道が続き、ご本殿がありました。社殿の奧に巨木が絡んだ岩盤(いわくら)のある、いかにも古そうなお宮さんであります。

御祭神は豊玉姫で、古事記に出てくる海幸彦、山幸彦の物語は、ここが発祥の地なのだと書かれていました。

ここから20分ほど北へ車で走ると、海神神社という式内社がありました。

こちらはかなり大きなお社で、海岸から50mほど登った山の上にあります。

ところが、なんとこちらも豊玉姫、海幸、山幸の元祖を主張しておられました。

たまたま2つの神社は、海岸と山上とにあり、神話の立地条件とぴったりですから、ご両社で、うまく神様を分け合えるのではないかと愚考した次第です。

 

・梅ほろほろあの頃はみな若かりし

 

・国境のごたごた

661年、天智天皇は、朝鮮半島にあった國、百済の援助要請をいれ出兵し、新羅と戦いました。当初は順調でしたが、663年8月、白村江(はくすきのえ)の戦いで、介入してきた唐軍に完敗しました。

勢いをかった大陸軍に、今にも日本本土まで攻め込まれるかと恐れ戦き、大阪にあった都を内陸の大津に移し、大陸からの道筋に防衛のための城を築き、敵襲を伝達するための狼煙システムを整備しました。

 

Mさんと私の歴史探訪の旅の回数も数多くなりました。

天智時代に築かれた朝鮮式の山城や狼煙場のおかれた峰々も、過去に数カ所見ました。

今回はその最北端まで行ったわけです。

最北端にある韓国展望台は、韓国風のスタイルで造られています。

展望台の壁には、ここから見た釜山の夜景の写真がパネルになって展示されていました。びっくりするほど良く写っていました。

なにせ、ここまで来れば、あと朝鮮半島まで約40キロしかないのです。

この日は、残念ながら激しい黄砂のため、韓国を目視することは出来ませんでした。

 

対馬北部にある千俵播山は、韓国の見える狼煙場でありました。ここで上げられた狼煙が、北九州、瀬戸内海を経由して、奈良公園の飛火野まで届けられるのでした。

発見したのが、使節船のときは1炬、敵と判断されれば2炬、2百隻を越える大船団の時は3炬上げることになっていたそうです。

 

金田城(かねだのき)は、対馬中央部の浅茅湾に設けられた城であります。

太宰府の大野城、吉備の鬼ヶ城などと同じ造りの城であります。

谷筋には水門と呼ばれる石積の門を設け、また山腹には延々と神籠石(こうごいし)といわれる石垣を巡らしているのです。

手抜きしてない立派な城です。でも、どうしてこの場所に築いたのかと思ったのでした。

俄に訪れた私には、なぜ集落など守るべきもののないこの地を選んだのか、その選択の理由がどうしても分かりませんでした。

先日訪ねたニューギニアで戦われた日米の戦争を振り返ると、米軍は、こんな待ちかまえた堅固な陣地は飛び越えては攻めたててきたのでした。

 

ところが、なんと明治時代になっても、やはりここの山頂に砲台を築いているのです。

そのことから、天智にも明治の日本人にも、1200年を隔てても共通の思考体系があるように思われたのです。よく言えば、相手も自分と同じような考え方をし、この場所に攻めてくると信じ込んでいるように見えます。

進歩がないのでしょうか。

中世の終わり頃、和冦という海賊が東シナ海を暴れ回っていました。

貿易の話し合いが不成立になったときに暴力を振るうといったものから、略奪専門のものまであったようであります。

和冦という字からは、日本人を連想させます。なるほどスタートは日本人だったようですが、こういう性質の人はどこの国の、どこの地方にもいるものなのです。結局、日本人は3割程度であったと書いた本もあります。

ともかく、朝鮮南部で乱暴を働くのは、対馬に根拠を持つ集団だと見られていたようです。

そこで、耕地が殆どない対馬の実状から、李朝はこれを止めさせるため、対馬の島主であった宗氏に官位を与え、年200石の米を与えたのでした。この関係は、途中に途絶えた時期もありましたが、ともかく幕末まで続いたのでした。つまり、対馬は日本と朝鮮に両属の関係にあったのでした。

1947年暮れ、もしくは次の年、韓国の李鐘晩大統領が、「対馬は韓国領である」と表明したのは、こんな事情があったからなのかもしれません。

李大統領は本気だったようですが、この申し入れに対して、当時日本を占領していたアメリカの国務長官ダレス氏が、対馬は「きわめて長期間に渡り日本領土であった」と答え、決着したのでした。

なにせ、古事記の冒頭の國生みの項に、次の記述があるぐらいなのです。「次ぎに伊伎島を生みき」「次ぎに津島を生みき」と。8世紀初頭から、日本は両島を自分の國のものだとしていたことが分かります。

 

1861年には、ロシアの軍艦ポサドニック号が、対馬に来て租借権を要求し、拒否されると占拠したのでした。

幕府はイギリスの力を借り、これを追っ払ったのでした。

 

・黄砂して韓国を見ぬ丘に立つ

 

・ハングル

去年秋、大分市で謡曲の会がありました。会の後、永年念願していた高崎山の猿たちとの交換をしてきました。

高崎山の猿園には韓国からの観光団が大勢来ていて、韓国語の解説が流れていました。

常時、韓国からはお客さんが頻繁に訪れているようでした。

そう言えば数年前、韓国の大邸で万博が開かれ、私も視察に行ったのです。

その万博会場に九州の高校生が沢山来ているのをみて、子供なのに、こんなに外国に来てるなんてとびっくりしました。

でも、所要時間や交通費のことを考えると、当然のことだと納得したのでした。

所詮、国境はあっても、九州と韓国とは距離は近いのです。

 

国境というものは、極めて人為的なものなのです。

対馬の人にとっては、一番近い大都会は、韓国の釜山なのです。

昔は対馬の北部に住む人は、日帰りで釜山へ映画を見にゆくのが普通だったと司馬さんは書いておられます。

もっとも現在は、ジェットフォイルという高速船が、時速80キロで走り、対馬の厳原と福岡の間を2時間10分で結ぶようになっているのですが。

 

日本各地の観光地で、表示にハングルが使われているのは、そんなに珍しいわけではありません。

東京の上野公園にも、ハングルの表示があると聞きます。

しかし、日本で一番韓国に近い鰐浦の郵便局の表示が、日本語、英語そしてハングルでも書かれているのを見た時は、やはりちょっとした感慨が湧いてきたのでした。

 

・白嶽

白嶽は対馬で霊山として崇められている山なのです。

山登り屋のMさんと私のことです。帰る日の朝、この白嶽に登りました。

標高僅か515m、対馬の最高峰矢立山(649m)には及びませんが、山頂に石英斑岩の岩頭が2本屹立していて、見るからにイワクありげな山容であります。

登山口の標高が140m程ですから、標高差約400m、1時間ぐらいで登ることができるのです。

麓は照葉樹、頂上近くまで登ると、さすがに落葉樹が現れてきます。

頂上直下に奧社がありました。

 

前にも触れたのですが、地学の目で見ると、壱岐と対馬は対照的であります。

壱岐は平らで水田の多い島です。それに対して対馬は鋸の歯のような、山ばかりの地形で、耕地面積は4パーセントしかないのです。

両者とも堆積岩と火成岩から出来ていることは共通していますが、壱岐は、主体は溶岩であるのに対して、対馬は殆どが堆積岩から成り、ほんの一部だけ火山岩が入り込んでいます。

そしてまた、その火山岩が、壱岐ではまるで、盾を伏せたように平らなのですが、対馬では角のように尖って突き出しているのです。

この辺りの土地の骨格は、中生代に出来たと言います。中生代は6500万年から2億5千万年前までとされています。そのうちのどんな時期に、どのようにして出来たのでしょうか。

また、それがその後、どんな過程で姿を変え、現在の姿になっているのでしょうか。

氷河期には、海水が氷となって極地方に固定され、海水面が低下しました。

現在の水深は、壱岐と対馬の間の対馬海峡が120m、対馬と朝鮮半島との間の朝鮮海峡が140mです。リス氷期には水面が約100m下がったと推定されていますから、その頃、このあたりは陸続きに近かったのでしょう。

そんなとき、この地域はどんな景色だったのでしょうか。

壱岐が霧ヶ峰、対馬が南アルプスというような景色だったのかもしれません。

壱岐で岳の辻、対馬では白嶽と登り、そんな想像を楽しんでいたのです。

 

・春潮を見下ろす砲台跡なりし

 

・旅の終わりに

今度の旅行を終わって見ると、今までに読んでいた歴史が、さらに身近になったことを強く感ずるのです。

 

魏志倭人伝のなかの対馬の項に出てくる禽鹿の道が目に浮かんできます。

一支の國に出てくる「三千ばかりの家あり」の項に目をやれば、あの原の辻の平らな土地を眺め回していた記憶が浮かんでくるのです。

白村江の敗戦、その後の狼狽振りや、必死になって調えた防衛手段もリアルに蘇ってきます。

ヨーロッパにまで攻め込んだ余勢を駆って、日本本土を目がけて潮のごとく押し寄せる蒙古軍の足跡も見てきました。

秀吉の暴挙と諸大名の苦労も、改めて身に沁みました。

19世紀以来、事あるごとに見え隠れするヨーロッパ諸国の東洋侵略に対する恐怖と、防衛手段も見ました。

多くの事件の裏に、巨大かつ強力な中国の影があることも痛感させられました。

 

先進国である中国に較べれば、遙かに遅れたのですが、この地域に國が成立してから現在まで約2000年のあいだ、我が国が外国を意識し、接触してきたのはまさにこの地域だったのです。

秀吉が明の皇帝に「お前を日本のトップと認めよう。上納金を受け取り仲間に入れてやろう」と言われて激怒したのは、いかにも大変な間違いでした。

もともと、中国はそんなように、発言する國なのであります。

 

中国は中華思想の國だと言われます。つまり世界は自分を中心にして回っていると考えるのです。自分の國は立派で、周辺の國は野蛮国であるとする建前なのであります。

日本とは比べにならない広い土地に、膨大な民衆が生活しているのです。海岸から山奥まで、土地柄も生活手段も種々雑多であります。

そんな民衆を束ね、國として成立させるためには、狭い国土に均質な国民が住んでい

る日本人には想像が出来ないほど強烈な求心力が必要とされるのです。

教科書の検定問題にしろ、台湾の李元総統へのビザ発給にしても、他国の内政に干渉してきて、日本政府といえども自分たちのコントロール範囲のことだと、自国民衆に示威する必要があるのでしょう。

 

あらゆる時代を通して、また、どの国に限らず、反政府勢力とマスコミがコンビで奏でる自国民の礼賛と外国に対する強硬な要求は、大衆の耳に快く聞こえるのであります。

たとえば、永年、泥沼の症状を呈している中東紛争も、局外者の目で観察すれば、悪いのは相手であり戦に訴えても正義を通せと要求する民衆たちを、どの線なら収める

ことが出来るのかと、リーダーたちが模索しているように見えるではありませんか。

そのことは、決して他人事ではありません。

日露戦争講和条約締結の時のことです。

日本は国力を使い果たし、山のように海外借款を抱え、戦場でも力の限界に達していたのでした。

アジアにおけるロシアの侵略を快く思わないアメリカの仲介で、考えられる限界とも言うべき日本に有利な条件で講和を結んだのでした。

しかし、政府の処置を弱腰であると非難する民衆は、1905年9月5日、日比谷公園で数万人の反講和集会を開きました。それを阻止しようとした警官に投石、2警察署、23派出所、交番を襲いました。翌6日には13のキリスト教会、電車15台、東京市内の交番の70パーセントを焼き討ちしたのです。この動きは、その後全国に波及し、約1月続いたのでした。

 

昭和10年代、中国大陸での戦争が泥沼の状況に陥り、講和のきっかけを探っていたときも、条件次第では日本国内で暴動が起こるかもしれないと懸念されていたという説もあります。

「同朋の尊い血潮を流した土地である。寸土といえども返すことは許されぬ」というような元気の良い議論に血道を挙げる雰囲気ではなかったでしょうか。

当時、どんなに勇ましい報道がされていたかは、退却を転進と、また、敗戦を終戦と言い変え、昨日までの論調との繋ぎに務めていたことから、容易に推察されるでしょう。

そういうわけですから、民衆の感情を収めるためにする発言は、それなりに扱うべきであり、秀吉のようにそれに対して激怒し軍を催すなどは、まことにナイーブに過ぎます。

自國のために、どうすれば一番良いかを考えるべきなのです。

そして、出来ることなら、相手國の人たちの幸福まで考えてやってこそ、大人の行動だというものでありましょう。

しかし、相手側が権力を誇示したいと言う目的を達成するために、強硬発言を繰り返すのも一つの段階でありますが、もしもその発言内容を本当に実現させられれば、もっと強力な権力誇示になるわけです。

そこで國として、あくまで力がなくては、独立は保持できないのです。

所詮、どのグループが良くて、どのグループが悪いなど言えるものではありません。

相手のために命でも捧げるような気持ちで一緒になった恋人同士でも、時が経つと冷たい仲になることは珍しくありません。

相手のグループのことを「迷惑な隣人」と思うことも、また相手からそう思われることも避けられることではありません。

もともと、他国、他民族の対する評価は厳しいものです。

新聞の犯罪の報道に、犯人はイラン人らしいとか、東南アジア系らしいとあれば、つい、やっぱりそうかと頷いてしまうのです。

それも、真面目な外国人のほうが遙かに多いと、理性では考えた上でのことなのです。

100人の善人に1人の悪人が混じっているとき、あの國はひどいことをする国民だという評価が下されてしまうのです。

そして、どの集団にも、100人に2人ぐらいは、必ず悪人がいるものなのです。

こうして、隣人は迷惑な連中だと、お互いに思っているのが、世界中どこでも普通なのです。

 

兄弟喧嘩で、相手を殴るのはどうしても力の強い兄貴の方です。しかし、兄が弟を可愛がり、守ってやっているのも現実です。

國の関係でも、過去の歴史を見ると、強い國が弱い國をどんなに好き勝手に扱ったのかと思うと、意外に抑制が出来ているようにも思われるのです。

その理由は、人間として基本的に、則隠の情、つまり可哀想だという気持ちがあるためでしょう。

さらには理性的に将来のことを考え、いつまでも継続的に関係を続けようとすると、そんなにひどいことは出来ないことになります。

人類愛、道徳、宗教という形で現れることもあるでしょう。

人間集団同士が戦争という場面で接触すると、悪い面ばかり出てきます。

今まで外国人と殆ど接触したことがない素人が、戦という明日のない状態で接触するからであります。

口コミ、あるいはその類の、片輪ともいうべき情報伝達を通じて、少数の悪人が、折角の多くの善人たちの努力をぶちこわし、憎しみを煽ってしまうのです。

自分個人、あるいは自分のグループの利益のために、隣国に対して、対抗意識、危機感を煽ることは、世界中で普遍的に行われています。

しかし、相手を憎むように教育し、しむけることは、良くないことであり、結局、お互いのためにならないのです。

民衆が努力して事実を知り、それに基づき正しく判断するようになり、賢明な人がリードする世の中が、いつの日にかは人類に訪れるものなのでしょうか。

 

・冴返る高みに星のささめごと

 

 

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