ドイツ紀行
(2016/04/17~26)

重遠の入り口に戻る


ロンドン、パリ、ワシントン、モスクワ、北京などの首都へは行ったことがあるのにベルリンは欠落していました。
若い時のパターンでしたら一人で気の向くままにベルリンへ行き、博物館などゆっくり見物し、あとあちこちレンタカーで飛び回るのが理想です。でも、もう86才、パック旅行のお世話になりました。
それでもドイツ中、できるだけあちこち見られるツアーを選んだつもりです。

海外紀行文を書き始めたのは1983年、台湾の玉山登山でした。それからもう30年余の月日が過ぎました。
この間、日本も世界も大きく変わりました。ジャンボ機の就航を契機に、航空機による安価な海外旅行が日常化しました。80歳ををはるかに越えた今、海外の登山記録ももう書けません。 当節、ただ外国へ行っただけという訪問記など珍しくもありません。
そんな私ですが今度訪れたドイツについては、他国とは少し違った思い入れがあるのです。ドイツは、昔、共に戦った友邦でした。70年を越える敗戦国としての日々を経た今、その間の月日に両国の多くの国民が経験し、腹の中には共通認識として抱えながら、ともに敗戦国であるゆえに口にしなかった事どもが、まるでその事がなかったかのように忘れ去られてゆくのが気がかりなのです。

戦に負けた究極の責任は政府に帰します。そのため敗戦国の特徴として、戦後の風潮が反政府側に傾くのは必然的であります。責任のない立場からの発言は、往々にして現実から遊離した理想的・希望的主張となり勝ちです。浮いた観念論が世の中を席巻する年月が続きました。それで、いまや少数派となり消え去ろうとしている昭和一桁生まれの一人として、どうしても書き残しておきたいことがあるように感ずるのです。
世論に背を向けるのは、私が変人である故なのかもしれませんが、ともかく大真面目であることだけは信じていただきたいのです。

旅程
ドイツでは、 過去、その最高峰のツークシュピッツェ山へ登って直ぐにオーストリアに入ったのと、クリスマスマーケット見物で西部の都市に軽くタッチしただけで、それ以外は訪ねていませんでした。それで今回は出来るだけ走り回り、広く観るツアーを選びました。(行程表は次ページ)
たとえば1日でベルリンからフランクフルトまで580km走り、途中、ワイマールとアイゼナハの2箇所を見学した日もありました。高速道路が発達しているからこんなこともできるのですが。

外国を旅していると、国内にいては気付かない発見が何時もあるものなのです。

旅行日程

ドイツの人口は8,094万人、国土面積は日本の94%、日本と比べてずっとフラットですから、あちこちに人が住んでいてとても広い国に感ぜられました。 太陽光発電の設備も、平らな所にゆったりと置かれた大規模のものが多く、日本のもののチマチマした様子と比べると涙がでる懐いでした。

平和な村
ライン川ブドウ畑
平坦な大陸に村々が点在       
         ライン川河畔ブドウ畑


滞在した期間は風の弱い時期だったらしく、風力発電はあまり発電しているようには見えませんでした。しかし、あらぬ方向を向き明らかに故障停止しているものは非常に少なく、よく保守されていると見受けました。

風力発電-ドイツ
風力発電-日本
風力発電 ドイツ         
        風力発電 日本 青山高原


送電線は日本のものと比べ背が低く、平たく、土地を広く使っていました。土地代が安いのでしょう。  

送電線
送電線
ドイツの送電線 背が低く幅が広い


ホテルのテレビ・ドイツの復権

ヨーロッパは、日本やアメリカのようにどんどん新しい物に買い換える消費社会と違い、古いものをじっくり使うのだと聞いていました。
ベルリンでは、都心のベルガモン博物館から数キロにあるホテルに泊まりました。なんとそのホテルのテレビは、昔懐かしいブラウン管式のものでした。スイッチを押してから暫くして、ぼんやりと画面が現れてきます。
人気チャンネルはあちこちの部屋で見ているらしく、信号が弱くて、ちらちらとモ ザイク模様になってしまいました。なんとも懐かしい昔の風景でした。

真空管TV
トラバント車
ホテルのブラウン管式テレビ        
   トラバント車、不格好、低性能で共産圏と
   自由主議国家との差の象徴だった東独製の車。
   今は骨董価値?


勿論、先進国の雄、ドイツですから、基本的には普通のホテルには素晴らしい大画面の薄型テレビがありました。先のブラウン管テレビが数チャンネルしかなかったのとは裏腹に、大抵100チャンネルほどもありました。
いつもの通り私はツアーに一人で参加したので、ホテルの出発時間がゆっくりの朝など、話し相手がないので暇つぶしにチャンネルを回しては見ていました。
そんなにして見ていたテレビの印象から、国際の場におけるドイツ国の姿勢を論じてみようと思うのです。自分でも随分乱暴な話だとは思うのですが。
ホテルのテレビのチャンネルのアレンジは、ケーブル会社とかホテルがするのでしょうから、これをもって一国の印象を述べるのは「芦の筒から天覗く」以上の愚行でしょうが、まあ、眉にたっぷり唾を付けてお読み下さい。
でも、ホテルのテレビシステムの中に、どの国のチャンネルを幾つぐらい、そしてどんなグループにまとめているかで、なんとなしに設置者の思いが伝わってくるような気がしてきたのです。
過去に、ドイツ以外の色々な国のホテルでテレビを見ていた印象と比較すると、ドイツではCNNとかBBCニュースとか、他の国では一般的にメジャーとされているチャンネルが軽視されていました。ロシアのも淋しい感じでした。そして中近東諸国、それに中國が厚遇されているように見えました。
あたかも今の世界では ドイツが 中近東、中國などを率いて《Deutschland , Deutschland über alles , Über alles in der Welt . ドイツよ、ドイツよ、すべてのものの上にあれ、この世のすべてのものの上にあれ》ドイツ国歌歌詞を自負しているかのような感じを受けました。

正直の話、現在、自国が世界一だと思っている、ないしは国民にそう説いている国は、アメリカ、中國、ロシアではないでしょうか。
それに続く国々で、オレの言うことも聞いてくれやと控えめなのがイギリス、フランス、そして日本ではないでしょうか。
その中で、ドイツは巨大なEU圏の盟主として、自分らは第一のグループのリーダーだと思い始めているように見受けられたのです。

NHKのチャンネルは一度だけ表れました。それは私も知らないような日本工芸の紹介でした。他の国の海外放送が世界情勢についての情報提供をしているのとは別の雰囲気で、なんとも影が薄い存在でした。巨額の財政赤字を抱え、景気の綱渡りをしている日本なんか、 健全財政のドイツから見れば 目じゃないのでしょう。日本人はドイツのことを、ともすれば、第二次世界大戦で共に戦い、共に敗れた友邦国と思いがちです。でもドイツにしてみれば、日本は過去において敵だったり味方だったりした国です。民衆はともかく現政権としては、第二グループの一員としてしか見ていないのではないでしょうか。
国歌というものは、どこの国でも国民の一体感を高めるために自国を最大限まで称えるものなのですから、国歌の歌詞そのものに異議を唱える気はありません。でも、ドイツという国は本来的に恵まれた土地に優れた人たちが大勢いる強国です。
過去、長い歴史のうちに何回も、ドイツ国民は本当にユーバー アーレス《俺たち一番》と思い込み行動したことも確かであります。

ゲーテ
プロイセン
ワイマール劇場 ゲーテ(左)とシラー    
     軍国国家プロイセン、今は観光


ドイツ人
世界中の多くの国の中でも、日本人とドイツ人は性格的によく似ていて、その勤勉さ、真面目さといった面で最右翼に位置すると見なされています。

ブランデンブルグ-1989
ブランデンブルグ-現在
ブランデンブルク門 1989年     
        ブランデンブルク門  現在


最初に訪れた大都市、ミュンヘンで観光バスを降りる前に、添乗員さんからこんな注意がありました。「バスを降りるとまず自転車専用道路があり、それを横切って歩道に行きます。自転車にはくれぐれも用心して下さい。専用道路での事故責任は100%歩行者側にあるとされます。自転車の修理代も請求されます」。実際、自転車専用道路ではかなりのスピードで自転車が走っていました。

こんな話を聞いたこともあります。ドイツ人は交差点で自分の側が青信号なら、違反の車を見ても接触覚悟でに突っ込んでゆく。

高速道路での走行状態には深く感銘を受けました。走行車線と追い越し車線を頑なまでに守っているのでした。追い越す時だけ追い越し車線に出て、追い越しが終わるとすぐに走行車線に戻るのです。
こう言うわけで、追い越し車線に車は少なく、走行車線には車がびっしりと詰まり、みんな凄いスピードで走っているのでした。
日本だと自分の車の性能あるいは購入価格に優越感を持って、何時までも追い越し車線を漫然と走っているのは普通のことです。(JRバスがきっちりルールを守っているのを例外的に見たことがありますが)。
ドイツの高速道路の走行状態を見ていて、日本でも何時の日か自動運転がメジャーとなり、人の判断を介せず、決められたソフトウェアどおり運行されるようになったら、こんな状態になるのかと思ったことでした。

交差点での黄色信号の扱いに、お国柄が出ています。
日本では、法規上は、対面する信号が黄色の場合停止線を超えてはならない 、ただし、安全に停止できない時はそのまま進むことができる とされています。いわば赤信号でも、ちょっとならば走ってよいのです。
私の住んでいる名古屋は、トヨタ自動車の主力工場が近く。車優先社会であるとされます。それで、いわゆる名古屋走りとして「黄色は急げ、赤色は突っ走れ」がルールだと揶揄されることがあります。60年前に免許を取得したオールドドライバーの私の目から見て、確かにひどい運転を目にします。
そんな状態で衝突が起こるのを避けるため、青に変わる時間を数秒遅らせ、オール赤の時間を作っています。
ところがベルリンあたりでは(ロンドンもそうだったと思いますが)青信号に変わる前に黄色を点灯させています。青くなったら直ぐ発進せよということです。多分、相手側の黄色信号が長く、赤信号では絶対に侵入しないことにしているのでしょう。

大昔、大叔父がドイツに留学していました。彼が公園を歩いていると遊んでいた子供に「今何時ですか」と尋ねられました。5時だよと答えると、「おいもう5時だ、家へ帰る時間だ」と子供たちが帰っていったそうです。ドイツでは子供でもちゃんと時間を守っていると聞かされました。
日本では会合などで、なかなか時間通りには集まらず、15分、30分と開会が遅れ、各地で「名古屋時間だから仕方ない」などと自虐的に諦めていた時代のことです。
日本も優秀な未来の指導者たちを留学させ、立派な国、強い国になりたいと学ばせていた時代がありました。彼らにとっては、社会の規則をきっちり作り、またそれを皆が守る、そんなドイツの社会が眩しかったに違いありません。

話はがらっと変わりますが、今回の訪独中、小銭のことで不愉快な思いをしたことが2度ほどありました。
 ユーロの小銭は小さなほうから1,2,5そして10セントと続きます。1,2,5セントは小さくて、 銅メッキ鋼ですから銅色です。老人には数字が読めませんから大きさで判断するしかありません。馴れないと急には見分けがつきません。10セント貨の材質はノルディック・ゴールド、銅89パーセントにアルミ、亜鉛 、錫が少量、金色ですから見分けがつきます。

後から考えると小銭の正しい使い方は、10セント貨を最小と思い込むことです。10セント以下は自分からは出そうとしてはいけません。それ以下の分は相手がお釣りでくれます。しばらくすると銅色の硬貨でポケットが一杯になりますから、それは教会の献金箱にジャラジャラ流し込めばよいのです。
たとえば8セント払うとき、2セント4枚だったり、5セント1枚、2セント1枚、1セント1枚だったりします。 私はケチでもありますが、律儀でもあります。
客観的に見れば、年取った外国人が固くなった指で小銭をノロノロ勘定しているのはまどろっこしいはずです。そんな老外国人が、ドイツ人の合理的精神に気に入られる訳がありません。
  ドイツには1930年台に障害者安楽死策のあったのも現実です。合理的精神と敬老精神の折り合いの一事例として取り上げさせてもらいました。
 日本のコンビニだったら、 女の子が釣り銭を手伝ってくれたりして「有難うね」と暖かい雰囲気になるのですが。

ノイシュバンシュタイン城

ノイシュバンシュタイン城 ここも中國人観光客で溢れる  

敬老精神といえば、ノイシュバンシュタイン城の現地観光バスで、こんなこともありました。中國人観光客が一杯詰めかけていました。 後から乗り込んだ私たち日本の老人たちのために、 先に座っていた中國の人たちが、我先にと席を譲ろうと大騒動になったのでした。東洋人のほうが敬老精神は旺盛のようです。

先日、ある訪日外人の声として、日本人はあんなに優しく親切なのに、どうして電車の中では席を譲らないのかしらという声が出ていました。そう言われてみれば、日本人は老幼男女、貴賎を問わず、男なら脚を広げる、女ならハンドバッグを横に置くとかコートの裾を拡げるとかして、いわば1.2人分のスペースを占拠しているのに気が付きました。
そして大抵の人はスマホに熱中し、我関せず焉の状況ですが、中にはこれこそ至福の時といった顔をして座っている人もいます。もちろんその人が、本来の一人前のスペースを守っていれば座れる人たちを、立たせてのことです。
私には、そんな1.2人分族の心理を理解できないのですが、「自分は人からとやかく言われたくないのよ」とか、「あんたより先に来たのよ」とかいった気持ちからなのでしょうか。
今度のドイツの旅では、公共交通機関を利用する機会はありませんでした。ドイツでは他人のルール違反には、かなりお節介に口を入れるそうです。 実際、どんな座り方をしているのか見てみたい気がします。
先日、同窓会の帰りに友人と地下鉄に乗りました。例のごとく7人掛けの所に1.2人掛けさんたちが5人座っていました。僅か10日のドイツ旅行ながら、いささかドイツ精神にかぶれた私は、友人と二人で多少広そうな隙間に入り込みました。
それで、つい隣のおばさまのコートの裾でも尻に敷いてしまったのでしょうか「そんなに寄らないで下さい!」と柳眉を逆立てられてしまいました。
あまりドイツ人流に合理的になると、人間社会住み難くなるようです。

あちこちの都市で、第二次世界大戦中、連合国軍によって受けた被害を、ことさらに見せていることに、日本とはちょっと違った感じを受けました。
日本では広島の原爆ドームがその役割を一手に引き受けていますが。

フランクフルトのゲーテハウスでは、ことさら1枚のパネルに戦前、破壊後、修復中、現状を並べて展示していました。

ゲーテハウス

ゲーテハウス 左から 1870年, 1944, 1949, 1951年 如何に破壊され再建されたか  

ベルリン市内のカイザーウイルヘルム記念教会は、破壊されたままの姿を見せています。

戦前
空爆後
現在
戦前     
空爆後
一部は破壊されたまま展示

ドレスデンの聖母教会は完全に修復されていますが、壊れた壁の一部を教会の前の広場に展示しています。ドレスデン市はもともと軍需色が薄く、重要文化財が多くて日本の京都のような存在だったそうですから、ここを訪れる戦勝国側の観光客もこれを見て心の痛みを感じるかもしれません。

空爆被害
壊れた証拠
空爆被害             
        破壊された壁の展示


戦争を歴史として評価する場合は、戦勝側の見解でなされます。周りを海に囲まれ、過去に1度しか敗戦国になったことのない日本は、ひたすら敗戦国として恐れ入っています。
しかしドイツ人は過去においていろいろの相手と戦い、勝ったり負けたりした歴史を持った国民です。
まともな人がまともでなくなる、戦争そのものが悪だと身に沁みているのでしょう。自分も悪いことをしたが、相手だって悪いことをしてたんだとクールに主張しているように感じました。

絨毯爆撃
旅の4日目、ニュルンベルクを訪れました。添乗員さんから「ニュルンベルクはナチス党発祥の地として連合国に睨まれ、街の80%まで爆撃で徹底的に破壊されました」と教えられました。
日本の都市が大空襲を受けたのは1945年3月からのことです。
今回のツアーの一行は一組の新婚さんを除いて、みな若くはありませんでした。 でも、先の大戦中に実際に都市にいて空襲を体験したのは私一人です。

一般論としてドイツ人は第二次世界大戦の話をするのを好まないとされています。
もともと戦争そのものが忌まわしいものです。その上ドイツは日本と同様、甚大な被害を受けながら、敗戦国として戦争について全責任を言い立てられ続けてきたのですもの。

名古屋に対するB29爆撃機による攻撃は1944年12月13日から始まりました。最初のうちは飛行機のエンジンや機体の生産工場を狙って爆弾が投下されていました。
その後作戦は変更され、1945年3月12日からは市街地に絨毯爆撃を行うようになりました。絨毯爆撃というのは、攻撃する地域と範囲を決めその地域内には、まるで絨毯を敷くように万遍なく爆弾を投下する攻撃方法のことなのです。
こうして、地域内に存在する工場、学校、病院、住宅など一切、用途は関係なく、徹底的に焼き払う攻撃方法なのです。

ウィキペディアによれば、世界最初の絨毯爆撃は1937年スペイン北部の都市ゲルニカに対してナチスが行ったとされています。
第二次世界大戦中には、悪名高きドレスデン絨毯爆撃を始めヨーロッパの各地、日本の各都市、そのほか中國の重慶市で行われたとされます。
その後も1950年の朝鮮戦争、2001年のアフガニスタンなどの名前もあげられています。

私が住んでいた名古屋市に対する空爆は、1942年4月18日のB25来襲に始まり、その後1945年7月26日までの間、63回にわたって行われました。延2,579機が来襲し、投下した爆弾、焼夷弾の量は1万4千トン、死者7,858人、被害家屋135,416戸とされています。

日本に対する通常兵器による攻撃で最大の被害を生じたのは、1945年3月10日の東京大空襲です。325機のB29が来襲し、一晩で1,783トンの爆弾・焼夷弾を投下、攻撃を加えたのです。
公式には死者83,793名と発表されていますが、実際は10万人にものぼるのではないかといわれています。(こんなような非常事態時での被害の数字は相当巾のあるのが常識です)。

絨毯爆撃より過酷な被害を生ずるのが原爆です。一発の原爆による攻撃により広島ではその年の年末までに約14万人、長崎では7万人が亡くなったと推計されています。

無差別大量破壊の対象とされる都市の側では、学童疎開が行われていました。学童は都市に残る親元を離れ、農村に疎開したのです。日本では1944年8月から学童の集団疎開が始まり、その数40万人に達したとされます。
いまの平成天皇も当時は小学校5年生、日光に疎開されたのでした。
私の家でも弟、妹が縁故を頼って三河の山奥に疎開していました。疎開先では食料確保、伝染病の蔓延など苦労があったようです。14歳の私はもう工場で働く戦士の身でしたから空襲下の名古屋に留まっていました。

調べてみると、学童疎開はドイツ、イギリス、ソ連など、世界各国で行われていました。戦場から遠く離れた強国アメリカでさえ、それが計画されたというのですから驚きです。
ということは、世界のどの国でも、攻める方も攻められる方も、こういう無差別大量破壊が避けられないものだと認識していたことになりはしないでしょうか。

そうです、戦争というものは無茶苦茶なものなのです。
平常時ならとんでもないに決まっている無差別大量殺人でも、またほかの非行でも、戦時には、それを実行できる側が実力行使するものなのです。
交戦国相互の間では勿論、同一国内でも、戦時でなかったら謝罪しなくてはならないことが、数限りなく起こっていたのです。

先の大戦を振り返って、あのとき暗号を盗まれていることに気づいていれば、あんな負け方はしなかったのに、とか言って悔しがる人がいます。
また、ミッドウェイ海戦で大敗した時点で戦争を止めていれば、息子は死ななくてすんだのにと嘆く大勢の親がいます。
まったくそのとおりなのです。そもそも、どんな理由があろうと戦争など絶対に始めるべきではないものなのです。

さて、こうして戦争絶対反対とのぼせている私の頭に、あちこちの国のトップ、大統領、国家主席、首相、首長、最高指導者、党第一書記、そんな肩書の人たちの顔と発言がが浮かんでくるのです。
そしてその人、個人だけではなく、そのトップたちが説得し支持を得なくてはならない国民の存在を思うのです。
年間3万人もの銃による死者を出しながら、銃規制を選び得ないアメリカ国民の例を、だれも思わずにはいられないでしょう。

1・まずは戦争が起こらないようにするのが基本です。
争いを起こさないために国際ルールを作り、それを守るよう、同じ考えの人たちと手を組んで、具体的に行動しなければなりません。
2・同じ考えを持てない人たちの間で、戦争が起こるかもしれません。どうすれば、その戦争に巻き込まれずにすむか、極めて難しい課題になります。
3・それさえ、どうしても避けることができなければ、被る被害が一番少ないポジションを選択しなければなりません。
最低、この3点ぐらいは考える必要があります。
残念なことですが「戦争絶対反対」と唱える段階で思考停止していて、すまされることではないでしょう。
ダッカのテロ事件で「私は日本人。撃たないで」と叫んだ犠牲者を思うと胸が締めつけられます。
国際情勢や歴史からの判断が重要です。そして何より他人からの情報だけではなく、自分の頭で考えに考えることが求められます。

被爆体験から、話がつい長くなってしまいました。烏滸がましいですが、絶滅寸前の老・戦中派が訴える白鳥の歌だと思ってお許しを願います。

外国旅行と食事
旅の最後の日、 食後のテーブルに残飯の山が積み上がりました。
もうこの日の夕方には帰国の便に乗るというフランクフルトでの昼食でのことです。旅ももう終わり、無理に食べなくてもゴールは目前、テープは切れると安心した皆さんが残されたものなのです。
そういえば「昼飯も夕食も、朝の料理を出してくれればいいのに」とおっしゃったおじさんがおられました。ホテルの朝飯はバイキングです。昔、ヨーロッパの朝飯はコンチネンタルとかいって、ごく簡素なものでした。トーストにレタスの葉っぱが2,3枚だけで、卵もハムもなくてびっくりしたこともありました。
 現在では、ヨーロッパでも朝のバイキングは基本的に世界共通のメニューで、巨人・大鳳・卵焼き的な万人向きの品々が並び、その中から好きなものを皿に採ればいいようになっています。
「昼のスープはまだ口に合ったのに、これはなんとも」というようなコメントが聞かれるは毎度のことでした。   

旅行社のパックツアーですから、ソーセージ、ロールキャベツ、ミートボール、チキン、ポーク、マウルタッシェンなど土地の名物の献立を選んでくれていました。それなのに傍目で見ていると、次はどんな変なものを食わされるかと戦々恐々としている人が多いように見受けました。
もともと食べ物の旨い不味いに、絶対的、客観的な評価などあるわけなく、主観的な好きか嫌いかの問題なのです。
だから私は「フランス料理は美味くてドイツ料理は不味い」という人にはそうですねと応え、「ドイツ料理は美味くてフランス料理は不味い」という人にもそうですねと応えることにしています。
今まで出会った人で一番極端な例は、皿に魚が、あたかも泳いでいるように腹を下に背を上の姿勢に盛り付けされていたので、とても手がつけられなかったとおっしゃっていました。この人など、口にする以前に嗜好に合否の判断を下しているのです。
私は、まあ、その対極の性格で、リッチな国の食べ物は大体美味しいし、プアな国の食べ物には美味しく感ずるのは少ない、ぐらいの判断しか持っていません。
つい「僕はなにを食べても大抵美味しいと思います。変だと思われるかもしれませんが、そういうことは実際あるものなんですよ。うちの犬なんか、年中、同じドッグフードを与えられては、ワンワン言って美味しがって食べてます」。そう言いながら、自分は犬並だと白状してしまったと気づきましたが手遅れでした。

たんぽぽ

本場の西洋タンポポ 
総苞が見事に反り返る  

実際、私はなんでも美味しと思いますし、そう公言もしています。でも、本当は味覚が鈍いだけなのかもしれません。そこへもってきて、大戦末期の食糧難で飢えていた日々の記憶が、なんでも口に入りさえすれば有難い、と感じさせていることもあるのでしょう。正直のところ、先刻数え上げたばかりのマウルタッシェンという料理だって、どんなものでどんな味がしたかまったく思い出せないのです。

もう何十年も前のことです。外国旅行から帰ってくると、食べ物で苦労しませんでしたかとよく聞かれたものです。日本の普通の人は、我が家で食べ馴れていたのとは違った食事を食べさせられることは、苦痛であると考えるのが普通でした。自分が日頃食べているものが最高だとする諺に「手前味噌」があります。それに反して、よそに行くと美味しいものがあるという諺は思いつかないのです。

もっとも人間にもいろいろあって、 旅に出てその土地の有名なグルメを食べたいという人も全く無いわけではありません。
 本場のフランス料理を食べたいという人もいました。
また、富山に行ったからには本場でホタルイカを食いたいと、時期外れの冷凍物を食べていた御仁も知っています。
スペイン旅行中、ある地方でドングリで育てた豚だから味に丸みがあると講釈されて、感激して食べていた人もありました。
ま、ともかく、外国旅行をしていて、珍しくて、美味い料理にありつけると期待する積極派は1%もいないでしょう。99%までの人は、次の街では、どんな馴れない変なものが出てきやしないかと、恐れオノノいている組なのだと思いますがいかがでしょう。


ポツダム
1945年8月15日、日本は連合国に降伏し、太平洋戦争は終わりました。
少し堅苦しい言い方をすれば、日本政府は、日本に無条件降伏を勧告するポツダム宣言を受諾したのです。
 終戦のほぼ1カ月前7月17日に、ベルリンの近郊ポツダムにあるチェツェーリエンホーフ宮殿に、第二次世界大戦後の処理を相談するため、アメリカ、イギリス、ソビエトの首脳が顔を揃えたのです。
具体的には、外相理事会の設置、ドイツ占領統治問題、ポーランド問題、賠償、旧枢軸国政府の取り扱いなどが話し合われ、会議は8月2日に終了したことになっています。
会議の始まる2日前、スターリンは日本との不可侵条約を破棄し対日戦に参加する旨、アメリカのトルーマン大統領に伝えました。
また会議の前日、トルーマンはニューメキシコ州アラマゴードで原子爆弾の実験が成功したという報告を受けたのです。
まさに日本にとってカタストロフィの日々でした。7月26日、 対日降伏勧告が、アメリカ、イギリス、中華民国の三国名によって発表されました。このときソビエトはまだ参戦しておらず、イギリスのチャーチルは帰国中 、中華民国の蒋介石は不参加 で、アメリカのトルーマン大統領が3人分の署名をするという慌ただしいものだったのです。降伏の勧告には、即刻降伏しないと、ドイツをやっつけたよりも強い力で、速やか、かつ徹底的に日本を破壊すると威嚇(あるいは忠告)する文言が入っています。
 
今回私が訪れたチェツェーリエンホーフ宮殿には、世界各国から大勢の観光客が押しかけていました。美しい宮殿ですが、それ自体はとくにどうといったことはありません。でも、チャーチル、トルーマン、スターリンといった昔の連合国首脳の面々の写真がふんだんに飾られていました。一緒に行った日本人たちは、太平洋戦争の終結という表題がついた、原子爆弾のきのこ雲の写真にとくに惹きつけられ、盛んにシャッタを押していました。

各国首脳
展示
旬日後、日本にとどめを刺す連合国首脳    
 左からソ連スターリン、米トルーマン、英チャーチル 
   End of Pacific war 広島のきのこ雲に見入る
   日本人達


戦後すでに70年を経過し、原爆投下、戦争終結、それに続く被占領時代を実際に体験した人は少なくなりました。
わたしはその時期を経験した一人です。覚えていることをそのまま書いてみます。もっとも、当時私は、本人だけ大人になったつもりの、15才の少年でしたから、至らぬ点はご容赦願います。原爆の存在はずいぶん古くから知っていました。世界で一番高い山とか、一番深い海とかいった豆知識を盛り込んだ小冊子に書いてあったのです。 小学校高学年あるいは中学に入りたての頃見た記憶があります。
その小冊子には、マッチ箱一つで大都市を灰にできる爆弾と書かれていました。なんでもウランという物質から出てくるエネルギーが凄いとのことでした。
ドイツの学者がウランの核分裂によって膨大なエネルギーを取り出せると発表したのが1937年ですから、子供の豆知識本に登場しても不思議ではありません。
そんな知識を持った日本の子供たちは、科学技術に優れたドイツが、早くそれを実用化して、敵をやっつけてくれたらいい、そう願っていたのでした。
なにせドイツは科学技術の進んだ、日本にとってお手本の国でした。みな本心、科学ではドイツのほうがイギリスやアメリカよりも進んでいると信じていたのでした。明治以来、外国留学の行先として、政治や海軍、芸術の分野ならフランス・イギリスが先生でも、科学、工業、医学、音楽に関してはドイツが最高だと信じていました。
とくに医学の分野では世界で一番進んだ国と信じられていました。長いあいだ日本の医者の世界での術語は、ほとんどドイツ語でした。英語など使い始めたのは、戦後大分たってからのことであります。医者のことをドクターではなくドクトルと言っていました。そのドクトルたちは、患者の病状をカルテに記録していました。カルテとはドイツ語でカードのことです。
世界最速のメッサーシュミット戦闘機、V1号、V2号のロケット兵器など新兵器を登場させたのもドイツです。

戦争末期、繰り返される空襲に、われわれ国民に一種の馴れが生じていました。B29が多数機で編隊を組んでくるときは、爆弾、焼夷弾攻撃なので逃げなければ危ない。しかし一機だけ高空を飛んでくるときは偵察、写真撮影をするだけで爆撃ではない。そんなふうに考え、軍は空襲警報は出さず警戒警報だけですませるようになっていました。
でも、8月6日広島に1機だけ侵入し投弾、その一発で広島市が壊滅したとの情報を知り、1機で侵入してくるB29が急に怖くなったのでした。
私たち中学生の中の理系の連中は、きっとウラン爆弾だと話し合っていました。ところが公式には新型爆弾として発表されたものですから、正直言って「えっ、ウラン爆弾のほかにも新型爆弾なんてあるの?」という感じでした。

当時、日本国民は負けたこともなく、降伏したこともなく、占領されたこともありませんでした。それらで、どんな事態になるのか、まるで理解していませんでしたから、いつまでも戦い続けるような気持ちでいたと思います。
沖縄の次に連合国軍はどこに上陸してくるだろうか、それを迎え撃つための戦力をどこに温存しているのだろうかなど、本気で考えていたと思います。実際、徹底抗戦を視野に入れて、長野県松代に戦争遂行の中心組織を移すための巨大な地下壕が建設されていたのです。
そんななか、ソ連の満州への侵攻、新型爆弾による広島と長崎の壊滅と続く事態を受け、ほとんどの国民が、これではもう駄目だと観念したのは事実です。
長崎へ2発目が来たということの重さに、これからずっと続けて落とされるだろうと感じたのでした。

歴史にイフはありません。
でも、もしもポツダム会議が開かれる一週間前に原爆実験が成功していたら、アメリカはソ連の参戦を断ったかもしれません。
また、もしも原爆実験が一ヶ月遅れ、ソ連軍が釜山港あたりまで迫っていたとしたら、日本はどうしたでしょうか。原爆投下なしでも降伏したでしょうか。

原爆投下という行為について謝罪云々という言葉が聞かれます。
原爆投下の是非を、あの70年前に論議するのと、21世紀の今日論ずるのとでは、環境がまったく違います。

時々刻々多数の人命が失われつつある狂気の戦争を、悪の象徴である敵国を壊滅させ、自国の勝利で終わらせることが出来る新兵器の使用を拒否することが、人類の歴史のなかで起こるとは想像できません。
原爆の投下によって戦争は終わりました。広島と長崎で被害を受けた多くの方々には何とも申し上げる言葉がありませんが、その半面、結果的に多くのアメリカ軍、そしてもっと多くの日本人の生命が救われたことは疑いありません。
手を合わせながら、沖縄戦で亡くなられた方々の数字をあげておきます。
日本側 188,135(一般住民 94,000人 軍関係者 94,135人)
アメリカ側 12,520人

長々と戦争の話が続き、暗い気持ちになっています。
お読みになった方も巻き込んでしまったかと、申し訳なく思っています。


ふたりのフリードリッヒ二世
ポツダム会談が開かれたツェツィーリエンホーフ宮殿の近くにある、サン・スー・シー宮殿に案内されました。
この宮殿の名前はフランス語で、憂いのない宮殿を意味するのだそうです。 プロイセン王フリードリッヒ二世が建て、自身、35歳から亡くなる74歳まで住んでいました。
いろいろと解説を聞いているうちに、どうも私が知っているフリードリッヒ二世より新しい時代の人のように思われました。
私が塩野七生さんの本で知っていたフリードリッヒ二世は、ローマ法王からの命令で、十字軍を率い聖地イェルサレムの異教徒を追っ払えとせつかれながらも、中々腰を上げず、最後は破門されたりして、やむを得ずに出かけた人でした。アラブのスルタンからもその人柄を評価され、ある期間、聖地を取り戻し、平和のうちに共存したのでした。
このフリードリッヒ二世は中世キリスト教の桎梏から脱し、やがて来るルネッサンス時代の魁とも見なされる皇帝だったのです。
ここで私の知識の無さを告白しなければなりません。旧制中学校時代、2年生で東洋史、3年生で西洋史を習うことになっていたのだと思います。2年生になったのは戦争が日毎に深刻化してきた1943年、東洋史を齧りかけた頃から学校の授業は減りました。軍用飛行場や高射砲陣地の建設に、しょっちゅう狩り出されていたのです。3年生に入ってからは毎日工場通いで、学校へは1日も行かず飛行機の部品を作ってばかりいました。学校で西洋史はまったく習っていないのです。

さて、今の時代ですから、帰国して早速ウィキペディアを見ました。
なんとフリードリッヒ二世と名乗る人は、過去、山程いたことが分かりました。
私が以前から知っていた人は、皇帝と呼ばれるフリードリッヒ二世、13世紀の人です。
もう一人目立つのが、今回訪れたサン・スー・シーの、大王と呼ばれるほうのフリードリッヒ二世、18世紀の人なのです。文武両道において傑出した人物で、プロイセン国を強大かつ盤石にしたのでした。

無憂宮
フリードリッヒ二世の墓
フリードリッヒ2世が建てた無憂宮   
 愛犬と眠るフリードリッヒ二世の墓 
  馬鈴薯がゴロゴロ


この大王フリードリッヒ二世は、ジャガイモとも縁が深いのです。南米アンデスを原産地とするジャガイモは、ヨーロッパでは色々の風評に毒され、中々普及していませんでした。彼は、それが気温の低いドイツに適した作物であることを見抜き、強権まで行使してジャガイモの普及に力を入れたので有名であります。それあってか、ご承知の通り、現在、ドイツの主食はジャガイモであります。
晩年、孤独で人嫌いになり、犬たちだけが心の友になってしまいました。犬たちの傍に葬って欲しいと頼んだといわれます。紆余曲折の末、200年後の1991年、犬たちの墓と列んで遺体は葬られました。
西洋のお墓ですから、平たい石が埋めてあるだけですが、上にジャガイモが何個かゴロンと散らばっていました。

誰でしたか、あるアメリカの大統領が「ワシントンに来たら犬を飼いなさい」と忠告したそうです。他人の足を引っ張ろうと権謀術数が渦巻いている巷で、犬だけが唯一の信じられる友達だと言いたかったのだそうです。

こんな偉い人達の噂を並べた後に、私分際がものを言うのは大変はばかられることであります。
お気づきのように私は、平和を強く願っています。 それ故に、それを実現させるための具体策に真剣に取り組もうとはせず、ただ平和、平和と格好良く言葉に酔っていたり、人気を集めるために使ったりしている者が多い、人類という存在が疎ましく感じられるのです。現生人類が発生以来たどってきた20万年の月日の延長そのままに、争いと、争いの手段を高める兵器開発の運命から逃れられないように見えるからです。ある意味で人間嫌いになっているのです。

宗教とはまったく別の次元で、私の思い込みのレベルの話ですが、私は死後の世界があると考えることにしています。そこには私の知っている人たちが先に行っています。そして私が行った時に「よく来た」と迎えてくれて、楽しく過ごせるはずなのです。私は極楽へゆくつもりですし、私と仲良くなかった人はもうひとつの方へ行っているはずなのですから。

わが家の犬たちは、昔、若かった頃、私が長い旅行から帰ったとき、玄関に足を踏み入れるか入れないかのうちに飛んできました。
そして、もう気が狂ったように「じーちゃん来た、じーちゃん来た」と吠えまくり、周りを走り回り、お腹をだしては撫でろと催促したものです。

何時の日か、私が次の世界に一歩踏み入れたとき、一番最初に見つけてくれるのは一緒に暮らした愛犬たちだと信じています。
あの「じーちゃん来た」を始めるときの、彼らの目つきも、ありありと想像できるのです。
フリードリッヒ2世にあやかりたいと願っています。

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