題名: イギリス・アイルランドその3
(2005/7/2〜7/21)

重遠の 入り口に戻る

日付:2005/10/15


・イギリス、アイルランド、北アイルランド
今回の旅の報告も,やっと最後にたどりつきました。

「その1」も「その2」も読み返してみると、事実をさらっと記述するのでなく、くどくどと自分の考えをこね回していて、まったく汗顔ものだと反省はしているのです。
なんとかは、死ななきゃ治らないというやつです。
そこをなんとか「読む読まないは、こっちの勝手。書くだけ書いてみろ」と、ご容赦くだされば有り難く存じます。

五月、イギリス旅行の計画を立て始めたとき、次から次へと、行きたいところが頭に浮かんできました。
中国が、むかしの日本の先生だったとすれば、明治の日本の先生はイギリスだったといえるでしょう。
ロンドン、エジンバラ、グラスゴー、ダブリン、チペラリー・・・・と知っている名前が限りなくでてきます。そしてまた、それらの街には、訪ねたい場所がいっぱいあるのですから。
いままでの海外旅行とおなじ基準で訪問先を選んでいたなら、今回の少なくとも3倍の日数が必要だったと思うのです。

カットまたカット、予備日なしで、やっと20日の旅に詰め込みました。
さしたるトラブルもなく、全行程をこなしたのですが、あそこにも行きたかった、これも見たかったという場所が、山ほど残っているのです。
たとえば、シェークスピアのストラトフォードでゆっくりしたかったし、アイルランド西海岸にも触れてみたかったのです。
そしてロンドン市には、いちばん沢山、心残りのスポットがあります。
まさに「残心の旅」でした。 

・亭主運悪いと妻の日記帳  サイコロ



シェークスピアの生家



シェークスピアの墓のある教会

・ユーモア 
ベルファストからロンドンへ飛んだ日、午後の半日をロンドン市内の観光にあてました。
ほぼ10分間隔で回っている観光バスがあって、24時間以内なら好きなところで何回でも乗り降りできるのです。料金は3000円ほどでした。
バスは渋滞に巻き込まれて、定時運転をキープするのが難しいので、ところどころにチェックポイントが設けられ、そこで係員が時間調整をしています。
そんなある停留所で、運転手さんがこんなジョークを流しました。
「ここでしばらく停車します。さて、わたしは宝くじの抽選番号を調べに行ってきます。帰ってくるまで待っていてください。番号の当落をしらべてから、今の仕事を続けるかどうか判断するつもりです」。
わたしは生の英語をほとんど聞き取れないのです。でも、このバスでは、イヤホーンを差し込む穴を選んで日本語の解説も聞けるようになっていたのでわかったのです。

ロンドンからカンタベリーにゆく列車の中で、車掌さんがアナウンスしました。「先程の駅に入るときアナウンスするのを忘れました。Ψχξδφρ」
あとは全然聞き取れなかったのですが、乗客たちはドッと笑っていました。
中学に入り英語を習い始めたころ、イギリス人にはユーモアのセンスがあると習った、そんなことを思い出していました。



ロンドン塔

ロンドン塔の観光では、日本語ガイドホーンを耳に当てながら回りました。
その解説の最後に「みなさん、おめでとうございます。あなたはここに収容された沢山の囚人たちとは違って、いま自由の身となって城門を出て行くことができるのです」との声が流れてきました。
これなど、上質のユーモアといえるのではないでしょうか。
心の底から「まったくそのとおり、権力争いなんかごめんだ」と、いまの幸せを噛みしめたのでした。

別の日、ロンドン発の日帰りツアーバスに乗り込んだとき、ガイドさんがこういいました。
「みなさん、ストーン・ヘンジへゆくのは始めてですか?」。
「そう、わたしも始めて」。
みんながエッという顔をすると「今日は、まだ行ってない、今日始めて」。
でも、これじゃ親父ギャグですね。

冷える夜に追いうちかけるオヤジギャグ  無籍人

・博物館詣で

博物館へは、どこの町でも、時間の許す限り訪ねてみました。

ダブリンの博物館を訪ねたのは日曜日でした。
行ってみると、開いていないのです。掲示板を読むと平日10時〜17時、日曜日14時〜17時となっていました。
この地方では、このあとも何カ所かで、同様の時間表を見ました。日曜日の午前は、善男善女は教会にゆくものだということなのでしょう。それが実態なのか、それとも建前なのか、そのあたりは旅人の身にはわからぬことです。

・病み居れば宗派は何かと子に聞かれ マダシナンゾ

こんど訪ねた地域で出土した土器、青銅器、鉄器の遺品についての全般的な印象は、BC1000年頃までは、エジプトよりは相当、中国よりは少々遅れていたように見受けました。ということは、日本よりはかなり進んでいたようなのです。
古墳時代からは、日本もほぼ並行していたと見てよいのではないかと思いました。
縄文後期あたりの金製品には、素晴らしいものがあります。朝鮮の金製品を素晴らしいと思ったことがありますが、もっと早い時期に、それよりも量も、質も、優れたものがあります、はるかに、と付け加えても許されるでしょう。
キンキラキンの展示には女性が群れていました。女性にも考古学を普及させようと、古代人がたくらんだわけではないでしょうが。

ダブリンでは、ライターズ・ミュージアム、つまり文人博物館にも行ってみました。
アイルランド共和国は、北海道ぐらいの広さのところに、約390万人住んでいる小さな國です。(北海道は567万人)
この小さな国から、バーナード・ショウ、イエーツ、ベケット、ヒーニーと4人のノーベル文学賞受賞者を輩出しました。
もともと9世紀には、ここダブリンから40kmほど南のグレンダー・ロッホ古代教会群に、ヨーロッパ中から学者、高僧が集まり、ヨーロッパの頭脳と呼ばれたともいいます。
文人博物館には、彼らが愛用した机、ペン、直筆のノート、初版本などが陳列されています。わたしには、ここで貸してくれた日本語のオーディオガイドの解説がとても面白く感じられました。



ライターズ ミュージアム


ジョナサン・スイフトは、イングランド人なのですが、ガリバー旅行記を書いて当時の政界を大いに風刺したのです。こんな危険分子は島流しにしてしまえとい うことで、ダブリンのセントパトリック教会の司祭長に任命したのだそうです。スイフトはここで30年ちかく司祭長をつとめ、一生を終わったのでした。 1726年、日本では元禄の享楽が終わったころのことです。
この教会は、アイルランドのカソリックの総本山で、たいへんに立派な教会です。
ついでながら、ヘンデルのメサイアの初演はこの教会で行われたそうです。
すぐ近くに、アイルランド国教のクライストチャーチがあります。建物は立派ですが、アイルランド共和国の人口の91パーセントは、カソリックですから、過去の統治政策の複雑な事情を物語っています。

マイ・フェア・レディの作者、バーナード・ショウはダブリンの生まれですが、一生、イギリスで活躍しました。亡くなったのは昭和25年のことです。
非常に頭のよい人で「女の歓びは、男のプライドを傷つけることである」、「私は無神論者だが、そのことを神に感謝している」といった調子の警句の山を築いています。
表面的なきれいごとに流れる、ジャーナリズム、大衆、政治家たちとは離れた立場から、人間社会にたいして痛い図星を突き続けたのです。
オーディオガイドは、そのことをイギリス人たちをキリキリ舞いさせた一生でしたと解説しました。
オーディオガイドからの日本語は、大学教授風の重々しい男性の声でした。
イギリスのウィットを語るには、甘ったるい女性の声より、こういう声が似合うと思いました。

こんな解説から、アイルランド人たちがイギリスについて語るとき、平常心でいられない雰囲気を感じたのです。
悪意というよりも、むしろ皮肉を楽しんでいるのかもしれませんが。

ベルファストにある、アルスター博物館はユニークだと思いました。
展示されている剥製にされた動物の何点かは「これは国際条約で取引が禁止されている○○です。ベルファスト国際空港で密輸品として押収されました」と解説してありました。
この博物館にはコンフリクト(紛争)というコーナーが設けられています。
よく見かける、イラクの戦場で銃を持った二人の英軍兵士の写真の上には、ローマ帝国の槍を持った二人の兵士が同じようなポーズをとっている絵が掲げてありました。
矢尻を打ち込まれ、斧で割られた古人の骨もありました。
とくべつ大きな石の棍棒もありました。当時にとっての大量破壊兵器です。

このコーナーを設けた人は、下記のような思想を持って展示品をアレンジしたように見えました。

【一瞬のうちに数万人の命を奪う核兵器は、どこの国のものであろうと廃絶すべきである。同様に、化学兵器、生物兵器など大きな破壊ポテンシャルをもつ大量破壊兵器は即刻廃絶すべきだ。
次の段階には、東京で一夜にして数万人の命を奪った、戦闘用飛行機、現在では戦闘用ミサイルも禁止すべきだ。約3000人の命を奪った9.11テロに使われた旅客機が、民生用であるために禁止できないのは残念だが。
戦車と機関銃も工業化とともに生まれた兵器で、いずれも画期的な殺人マシンであり、これらも廃絶すべきだ。
銃、ピストル、弓矢の類も、かっては生活上の狩猟道具だったかもしれないが、いまは野生動物保護の時代だから禁止可能だ。
飛び道具の禁止が達成されたあかつき、次の対象は剣や槍になる。これも目的は殺傷だから、禁止してもかまわない。
かくして人類は、力による紛争解決を、日常生活に必要なため禁止できない、包丁以下のレベルでおこなうという理想の社会を獲得することになる。

そこでは、紛争による死者の数は、一件あたりでは確実に減少するが、紛争の抑止力も減少するので、地球全体として死者の数が減少するかどうかは不明である。】

つまり、紛争の存在と殺人手段の拡大は、人間が持つ本来の「サガ」であって、人為的に殺傷手段に制約を加えることは無条件に望ましいが、しょせん基本的な解決にはならないと語っているのでしょう。




今も昔も遠征軍は


現実世界では、殺傷手段を削減しようとする動きが、強力な兵器を自分たちが持つのは良いことだが他人が持つのは危険なことだとか、原子力利用が市民に貢献 するならよいことだが資本家の利益追求のためならば悪であるとか、そんな自己中心的、教条的な思考に邪魔されて進められないのは、まことに残念なことで す。
一方、ただひたすらに善意から平和を望み、国連にオリヅルを持ち込んだりする人たちもいますが、国連がどんなにして成り立っているのか、また、どのようにすれば動かせるのかを考えてみなければ、単なる自己満足におわり、役に立つものではないでしょう。
紛争の本場ともいうべき、北アイルランドのベルファストにある博物館で、こんな人間の本質を見つめるクールな目を感じたことは心に残りました。

大英博物館を訪ねたのは、2回目のテロが起こる2日まえでしたから、荷物の検査は厳格でした。ここへは日本人もいっぱい見にきています。



大英博物館


有名なロゼッタストーンは、ガラスケースに収められています。
そして、その前は人だかりで、チラッと写真を撮るのさえおおごとでした。
ところで、別の棟にはロゼッタストーンのレプリカが置いてありました。
ここは誰もいません。古代エジプト文字、エジプト民衆語、ギリシャ語と3つの違った字体で書かれた文章を、目を近づけて読むことはもちろんのこと、手で触ることさえできました。

ヒンドゥー教の神様で、首から上がゾウになっているガネッシュ様は金運の神様として人気があります。数年前インドを旅行したとき土産に買ったことがあった ので、どこへいっても目につきます。ここ大英博物館には、カンボジアのものとインドネシアのものとが展示してありました。
インドのオリジナルや、それから変化していった様子を面白く見せてもらいました。

昔、モンゴルのウランバートル市ボゴダ宮で、モンゴルの仏様たちがまるで赤鬼、青鬼のようなオドロオドロしいお姿なのに驚いたことがありました。
ここ、大英博物館には、仏教を軸として、それが各地にどんな姿で伝わったかを追ってゆける展示がなされていました。各地の仏教を見ているうちに、チベット のところに、まさにモンゴル仏教の源流といってよい仏像を見つけました。こうして、このことに関しては、チベットにゆかなくても伝播の流れがわかったので す。

ここ大英博物館も、パリのルーブル美術館などとともに、植民地時代に力ずくで、膨大な美術品、骨董品を収奪してきたとする世間の批判があります。
大英博物館の収蔵物は約700万点というのですから、もの凄いことです。
そしてそのうち、植民地とは無関係な、先史・古代ヨーロッパのものと版画・素描部門のものが500万点あり、大半を植民地から奪取してきたわけではないそうであります。
また、ルーブル美術館、エルミタージュ美術館では王家が収集したのですが、ここ大英博物館は、ハンス・スローンという個人の収集品がスタートになったという違いもあります。

展示を見ているうちに「物の価値」ということについて、いろいろ考えさせられました。物には・・・

1・手元に置いて、美術品として鑑賞するという価値があります。
2・ミイラやロゼッタストーンのように、古い、有名だという珍品価値があ   ります。
3・欲しいという人が現れたとき,お金に代わるという価値があります。
4・あれも持っている、これも持っているという顕示欲を満たす価値(国家   の威信など)があります。
5・考古学などの学術研究資料として、人間探求上の価値があります。

1〜4の価値に着目すれば、現所有者から引き離すことは難しいでしょう。
しかし、5番目の学術研究資料としての価値が大きい物については、人類共通の利益として、手段はともかくとして1カ所に集中させるメリットは大きいでしょう。
あるテーマが、土地の広がりでどのように変わってゆくのか、時代とともにどう変化するのか、もしも、わたしがその道の研究者だったら、大英博物館の研究員になりたいと希望するに違いありません。
また、タリバンによる仏像爆破や、バグダッドのアリババたちの手でおこなわれた資料の散逸、などをまぬかれ、しっかりした保管体制が採られていることは人類として感謝すべきことではあります。



猫のミイラ 古代エジプト 大英博物館


急に俗っぽい話になって恐縮ですが、テレビの「なんでも鑑定団」を見ているうちに、1から4までの価値は、実物と寸分変わらぬイミテーションと入れ替えても、依然として残るように思えてきましたがいかがでしょうか。
学術研究資料としては、本物でなければまったく意味がありませんが。

・鑑定に出してお宝ゴミとなり 僕ちゃん

たとえばロゼッタストーンを夜こっそり入れ替えたとします。
翌日、イミテーションのほうには人が群がるのに、本物のほうは自由に手で触れられることでしょう。
正真正銘の大富豪の夫人の胸に輝くダイアモンドは、例外なくイミテーションで、本物は金庫の中に保管されているという説もあります。

・率直で公平無私で出世せず 寒月



さすが大英博物館 将軍様の国からも


・ザ・ロンゲスト・ダイ
ロンドンに帰ってきた次の日の朝です。
6時に目が覚めました。同室の若い男の子3人は、まだ裸ん坊でグウグウ寝ています。
こっそり部屋を抜け出し、オックスフォード・サーカス駅から地下鉄でビクトリア駅へ。どうせ早く着き過ぎですから、明日からのバスツアーの発車場所を確認しておきました。

駅で軽い食事をして、7時33分発の列車でカンタベリー・イースト駅へ。イギリスの鉄道は、出発の15分ぐらい前に、出発ホームその他の情報がテレビ画面 に表示されるのです。その画面には後部4両だけは途中から分岐するラムスゲート行きで、前のほうに乗ればよいことも表示されていました。
それを見て、時刻表に2段書きしてあった意味が始めて分かりました。

沿線は昨日まで旅していた北アイルランドとくらべて緑が濃く、牧場、麦畑、リンゴ、ブドウなどの果樹園が目につきました。ゆるやかな起伏の連続で、鉄道は頻繁に掘り割りを通過します。
隣の席には、母親に連れられた10歳前後の男の兄弟が乗っていました。
もう始めから終わりまで、ふたりともまったく無言で、なにやらゲーム機を夢中になって突ついていました。どこの国も同じだと懐かしく感じました。



どこの子も


カンタベリー・イースト到着は9時3分でしたから、まだ薄ら寒く、街も大聖堂も静もっていました。
カンタベリー大聖堂は、英国国教の総本山なのです。
ここの大司教であったトーマス・ベケットは、聖職者の特権を巡って国王ヘンリー2世と不仲になり、暗殺されてしまいます。
日本では平清盛が全盛時代、平氏にあらざれば人にあらずと、この世の春を謳歌していた頃のことでした。
さてその後、数々の奇跡が起こります。たとえば、トーマス・ベケットの骨は難病を癒すとして尊敬を受け、イギリス屈指の巡礼地になったのでした。
ロンドンから南東へ約100km、徒歩で2〜3日、巡礼地として格好の場所でもあります。
有名なチョウサーのカンタベリー物語は、この道中に聞いた話として組み立てられています。
大聖堂は、その壮大な壁といい柱といい、単純な仕上げのものは何一つとしてなく、装飾に次ぐ装飾がゴテゴテと施されていました。
大伽藍の壁際には、数々のお坊様の石像が寝ておられました。その石の像の下には遺体が葬られているのです。何度見ても外国の、伽藍の中につくられたお墓からは、異様な感じを受けます。



カンタベリー大聖堂


・賽銭のわりには多い願いごと ひとつ目小僧

駅へ戻り、列車を待つ時間も無駄にはせず、日本の家に電話しました。まったく忙しいことです。
次のドーバー駅はさすがに国際駅です。フランス語のSortie(出口)が、Way Outと併記されていました。
現在では大陸とはトンネルで結ばれ、新幹線ユーロスターを使えば3時間の旅でロンドンからパリまでゆくことができます。昔のドーバー港の繁栄は知りませんが、くらべてみればすっかり寂れていることでしょう。
ともかく港まで行ってみました。豪華なフェリーボートが停泊し、白く美しいホテルが港を圧して建っていました。

この日、最初の列車だけは事前に時刻表で選びました。でも、そのあとは夕方になったらロンドンへ戻ろうというだけの、まったくいい加減な行き当たりばったりの旅をしたのです。
鉄道の乗車券は、フレキシーパスというのを日本で買ってゆきました。2ヶ月間のうち任意の4日を選んで、乗り放題なのです。3万円弱でした。すでにエジンバラからマンチェスターに移動するときなどに使い、この日の分が最後でした。
イギリスは鉄道王国といわれています。現在は民営化で沢山の会社に分割され、駅で会社別につくられた時刻表を見ても、どうしたらベストの旅が選べるのかまったくわかりません。
鉄道の旅も、もうこれで4日めですから、そんな鉄道旅行の要領がわかっているので、窓口に行き「わたしはこのパスで旅行しているのだ」とお客であることを納得させたうえ、「イーストボーンにゆく一番よい方法を教えてください」とお願いしたのです。
駅員が行く先の駅名をコンピューターに打ち込むと、ゾロゾロと印刷されたA4の紙が出てきました。
それには、駅名 発車時刻 乗車時間 乗り換え待ち時間 の順で4行印刷されていました。つまり、3回乗り換えろと指示しているのです。
まず、駅を出て左に行って赤い色のバスに乗れと、駅員さんがいったようでした。バスの運転手に紙を見せると、これに乗ればいいというのです。書いたものがあると、お互い、まことに確実です。
最初は一瞬、鉄道でなくてバスを使うと余分の出費になるのかと思いました。でも、外国旅行では、時間が高価なのだからケチるなと、自分に言い聞かせました。
ところがここは鉄道が廃線になり、鉄道会社が代行運転しているバスのようで、チャージはありませんでした。もともとイギリスでは、たいていの乗り物には黙って乗ればよいので、検札のときに切符不所持が発覚すると高額の罰金をとられるシステムなのです。


ドーバー港


途中、乗り換えたヘイスティングスという街は、1066年フランスのウイリアムが攻め込んできて英国王ハロルド2世を打ち破り、イギリス王ウイリアム1世として即位した、その戦場となった地だそうです。
元寇よりは約200年前の事件ですが、蒙古軍に負けて占領されたようなことがイギリスでは起こったんですねぇ。

イーストボーンからはローカルのバスで、名勝セブン・シスターズへゆきました。
むかし、学校で黒板に字を書く白い棒をチョークといいました。セブンシスターズは、その原料として使われたチョークの、高さ30mもある真っ白で垂直な崖が海に落ち込んでいるところなのです。
ここは、恐竜が歩き回っていた7000万年ほど前の白亜紀に、海底に生物の骨が積もって石灰岩質の地層になっているのです。


チョーク(白亜)の断崖


崖が見られる海岸に出るのには、バス停から片道約3km、草原を歩いてゆかねばなりません。当然、人は多くありません。
日本だったら近くまでバスが入り、茶店ができ観光客が溢れているに違いありません。
イギリス社会が自然保護に取り組むストイックな態度には、素直に脱帽しました。
口では大げさに温暖化を憂いてみせても、現実には排気量の大きい高級車にうつつを抜かしているどこかの国民とは大違いであります。

シーフォードから乗った超ローカル線は、むかし映画で見たことがある、座席ごとにドアのある車体でした。走行中にドアを手で開けられるかどうか恐る恐る押 してみましたが、動かないようでした。停車中ならば、ホームと反対側のドアでも開けられることを実験で確かめました。こんなことを試してみるなんて、まっ たく馬鹿ですねぇ。
こうしてブリテン島の南の海岸を西へ西へと列車の旅をつづけました。
家がまばらな内陸とは異なり、海水浴場とリゾートハウス、小さな集落が連続し、昔の知多半島の朝倉、古見、新舞子などの様子が思い出されました。


ポーツマス港 (蔭に軍艦が)


ポーツマスに着いたのはもう19時になっていました。ここは軍港の街であります。大きな商船の蔭から、大砲を装備した軍艦が見えていました。
昭和天皇は1921年、皇太子時代、同盟国イギリスを訪問されました。
そのときは戦艦香取に座乗され、このポーツマス港に到着されたのでした。
天皇は、若い日に親善を深められたそのイギリスに、20年後、宣戦布告せねばならぬ事態に会われました。そこに至る過程で、ドイツ、イタリアとの三国同盟 を推進しようとする陸軍や外務省にたいして、かなり苦言を呈されたと伺います。狂信的な自国中心主義者であったヒットラーと組むことには、さぞかし胸を痛 められたことだろうと拝察するのです。
そういうこともあるのですから、あちこち外国を訪問し、そこに住んでいる人たちと直接知り合うようにするのは大事なことだと、わたしは自分の海外旅行に我 田引水的言い訳をしているつもりなのです。もう遅い時間ですから、ここからロンドンに戻りました。ロンドン・ウォータールー駅に到着したのは午後9時ちか く、さすがに疲れ、自炊は止めました。
こういうときのため先日から目をつけていた「そば」という店に入りワンタン麺とビールを注文しました。そんな軽い夕食でも2000円ほどするのですから、ロンドンってまったく物価が高い感じです。

この日は、結局、地下鉄2回,鉄道8回,バス3回と乗り継ぎ一日中駆け回った、長い長い日なのでした。

そうそう、この項の見出しに使ったロンゲスト・ダイの説明をしていませんでした。
ある一日観光ツアーを終え、ロンドンに帰ってきた夕方のことでした。
バスガイドさんが、お別れの挨拶をしました。
「・・・・any day . 」と言い始めると、お客さんたちが先回りし、声を揃えて・・・アニイ・ダイと言って、大笑いになりました。
英語を習った人にとって変わった発音に聞こえ、また真似しやすいのが、ロンドンっ子の「ダイ」のようでした。



イギリス北部のハイクロス (一種の十字架)


・ジョン・ブル魂
英国型紳士というイメージがあります。
格式張った、礼儀正しい、約束を守る、そんなイメージでしょうか。
また、イギリス人の誇るジョン・ブル魂とは、正しいと信じたら、どんな困難があっても、石にかじりついてもやり遂げる、そんな態度を指しています。

こんどイギリス人たちを見ていて、やはりそんなムードを感じました。
かれらは、最近の200年ほどの歴史の中では、常に勝者でありました。
その自信から自分たちは正しい道を、まっすぐ歩くのだという誇りを持っています。

イギリスの交通信号は日本とは変わっています。赤信号で止まっていると、まず、黄色が追加点灯します。こうして、赤と黄が点灯している状態から青に変わるのです。いわば、もうじき青になるから、発車の心構えをするようにと教えているのです。
イギリス人は規則どおり、信号が黄になると減速し、赤になる前に停車し、赤の交差点には入りません。
日本では、信号が黄になると加速し、直交車線の車が入る前に交差点を通過しようとします。そのことを見越して、直交する側の信号も、しばらく赤のままにしておき衝突を防止しています。

ついでながら、わたしの経験ではオーストラリア、ニュージーランド、ユナイテッド・ステイツはイギリス形のマナーでありました。
日本で一番日本的だったのは、沖縄のおばさまたちでした。信号灯の黄が赤になってもズルズルといつまでも交差点に入ってくるのでした。

メキシコでは、これはもう確信犯的に自己判断で、行けそうなら一方交通の道にも、反対から入ったりしていました。
イギリスも日本も、交通規則をよく守る国なのですが、それなりに違っているのは興味深いことです。

信号灯は車専用で、歩行者用ではないと思ったほうがよいようです。そう割り切って、地元の人と同様に、自己責任で歩いてきました。その気になれば、かなり道路横断するチャンスは多いものです。
たった20日間のイギリス・ウオークでしたが、クセになってしまい、日本に帰ってきてからも、つい飛び出しそうになっては戻りました。
日本では、物理的な危険こそありませんが、社会的制裁を受ける危険があります。やっぱり、郷に入れば郷にしたがうのが正解です。

イギリスでは、フォークという並び方が日本より徹底しています。
フォークとは、例の、窓口が沢山あっても、並ぶのは必ず一列で、空いたところへ順にゆく方法です。トイレやキャッシュコーナーで行われています。
イギリスで驚いたのはスーパーでもこれなんです。品物の棚とレジの間の狭い通路に、横一列に並びます。10ほどあるレジに高くかかげたランプが、点滅する のが空いたサインなのです。当然、列は長くなりますが、どんどん進みますし、公平感がなんとも気持ちよいものです。

話はちょっと横道にそれます。
キャセイ航空のチェックインカウンターでも、この並び方でみんな順番を待っていました。ところが中国人とおぼしき若い女性がふたり、それを無視して、たま たま空いたカウンターに進みました。列の中から「ならべ」と声が飛びましたが、かれらはまったく平然と手続きをすすめました。キャセイ航空は中国の会社で すが、そんな無法な客を受け付けるほうも受け付けるほう、みんな呆気にとられていました。

・正論を言わぬ我慢が首つなぐ 残ったマン

ロンドンの地下鉄のエスカレーターの速度は、ロシアほどではありませんが、日本より多少早いように感じました。
そして、登りと下りの仕切に、はっきり「 Stand right、 立つ人は右側に」と表示してあるのです。
世界中どこでも、エスカレーターには、じっと立っていたい人と、歩いて登りたい人と両方います。
イギリスではその現実を認めて、はっきり効率的に整理しているのです。
日本では、新聞の投書欄で見るかぎり「立っていたら、歩いて登る人に突き飛ばされた。急ぐならエスカレーターじゃなく、階段を駆け上がればよい」という弱 者の声ばかりが優勢です。実際、他人を思いやる気がなくて片側を譲らない人も、たまに見かけるのです。日本では、イギリス流に強者にも権利があると、はっ きり割り切るのは無理でしょうから、なるようになると放っておくのが無難というものです。

地下鉄の座席で、まるで二人分の席料を払ったような座り方をして、他人の権利を侵害している様子を見るのは、わたしにとって一種の苦痛であります。
それで、わたしはどこへ行ってもその点を観察しているのです。
これについては、イギリスでもやはり苦労しているらしく、いろいろの方法が試されているようでした。あるロングシートの車両では、思い切って席ごとに肘掛けをつけ、ひとり分の権利を明確化していました。
ひとり分の席を名古屋の地下鉄より少し深く、くぼめたのもありました。
この方法がアカラサマになると、シンガポールのように、プラスチックのバケットシートになるのですが。
東京のJRのように、それとなく掴まり棒を立てて、2人と3人に区分けしているのは見ませんでした。

過去、世界のリーダーであったイギリス人たちは、自分たちが法律を作り、その法律を守るという自負心がつよいようです。かたくなといえばかたくなですが、卑屈さがありません。ひとむかし言われた日本の武士道と似た、清々しい趣があります。
その反面、日本のように戦に負けた國では、負けた責任はどうしても指導者層に負わされます。
立法府の議会は国民が選挙によって選んでいるのですが、そんなことは忘れられ、政治家たちの私利私欲と権力闘争の場であるとして語られます。
また、法を執行する行政も悪口の言われっぱなしであります。
こうして根付いた「自分たちは犠牲者なのだ」という意識が、社会的責任を忌避する姿勢を生むことになりがちです。
とは言っても、国連に加盟している約200もの國を見渡せば、イギリスと日本とは、よく似た法治国の優等生同士なのですが。


地下鉄駅にて アサヒがんばれ


大英博物館は、今から約250年前、ハンス・ローンという、アン女王の侍医までつとめた人の収蔵物を、国家が買い取って博物館にしたのが始まりです。
そして、開館以来、現在まで、入場無料を貫いているのです。
入場無料は、ルーブル美術館やエルミタージュ美術館、そして、あの金持ちのアメリカでさえなしえなかった、世界で唯一の事例なのです。
わたしの記憶でも、イギリスは1960年代、国力が衰退し、ポンドの価値が下がり、英国病と呼ばれ、同情を買った時代がありました。そのように、財政的に 苦しかったことは、過去、何度もあったのです。そして1759年の開館以来、何十回も入場有料化が論議されました。
しかし、その声はいつも立ち消えになったのです。
その理由は、有料化によって見学者の数が減ったのでは、博物館設立の意義に反すると結論づけられたからなのです。
これは、エリートの考え方です。そしてそれが通るところに、イギリスの古武士風の清潔さがあります。

民主主義の原則は、自由と平等であります。そして世界には、いろいろな民主主義があります。
フランスは、選挙により、頭のよい、能力のある人を選出する、つまり学歴重視の民主主義だといわれます。
イギリスは道徳的に志の高いエリート政治家、いうところのスノッブたちに期待をかけた民主主義のように見えます。
アメリカは、旧世界のくびきを逃れたという意識が強くて、極端な平等主義に立脚した民主主義でした。建国まもなくの時期には、海軍大臣を新聞広告で公募したといわれるほどです。もっとも、その後、現実に即して変わってきてはいますが。
日本は、どうでしょうか。
昭和初期までの国家主義色の濃い民主主義が、第二次世界大戦後、アメリカ主導によって、世界でも新しい形の民主主義国家として生まれ変わってきたのです。
そこでは、アメリカによる、かなり教条的な平等主義と、冷戦下において西側に組みした日本を弱体化しようとする東側国家の意図に、大きく影響を受けたように思われます。
こうして戦後60年間、エリート叩きをつづけ、世界でも、もっとも平等になった日本は、将来、やはりそれなりの道を歩むことになるのでしょう。

・金のこと知らず気楽なサポーター 凡栽

どんな政治体制だって、やってゆけないことはないものです。
でも、あっちこっちの国民の生活を見て、いろいろ考えるのは楽しいことであります。

・正論は会社出てから天に吐く 夢追人

・英語って
こんかい英語の国イギリスを旅して、こんなに言葉で苦労するとは、想像もしていませんでした。
ちょうど、ロンドンのテロ事件で鉄道ダイヤが乱れ、駅のアナウンスが頼りの綱という時期だったのす。でも、あのガーガーいうアナウンスは、100パーセント聞き取れませんでした。


テロ! ロンドンへ来るな


帰国してからそのことでボヤいていましたら、ある人が「本当にそうだね。
僕だってアチョプリがアテンションプリーズだって、最後になってやっとわかったよ」と上手に口まねしてくれました。わたしは彼からそれを聞くまで、アテンションプリーズだという慣用語だと気がつきもしなかったのです。
イギリスでの英語は、わたしのアメリカ耳には、いろいろ変わって聞こえました。たとえば「STATION」は「ステイション」ではなくて「スタイション」と聞こえることが多かったのです。
英語ってイギリス語なのですから、イギリスで英語に文句をつけるのは、もう完全におかしいことは承知の上でもうしあげているのです。
でも、正直なところ、分かりやすい英語と、まるで分からない英語とががありました。

ダブリンのグレンダロッホに観光にいったときは、案内してくれたガイドさんの英語が、涙が出るほどよくわかりました。それで、街に帰り着いて別れるとき に、感謝の念がつのり、つい「You speak very good English 」と口にしてしまったのでした。このときは、われながら変なことを言ってしまったと思いました。

甥っ子の一郎君が教えてくれたように、イギリスでは、住んでいる地域で使う言葉が違っていて、それをいつまでも変えないのだといいます。
名古屋の近所だって、岡崎、桑名、津、伊勢と、それぞれ多少言葉が違うのは、わたしにも分かります。でも、それで不自由しないのは、やはり日本語がわたしにとって母国語だからなのです。

そもそもわたしは、年齢とともに聴力自体が相当低下しています。
子供たちが、誕生祝いに補聴器を買ってくれたのは、一昨年のことでした。
それに、もともと、わたしはそんなに英語が分かるわけではないのです。
たいてい、相手がこういうことを言うはずだという、ヤマカンに頼り、あとは耳に引っかかる単語から大意を想像しているのです。
それでも頭脳の若いうちは、最初の日に「アニイ ダイ」といわれれば、2日目には「スタイション」が駅だとわかり、3日目にはこちらから「オーカイ、Okay」と返事するように学習能力が働いたものです。
ところがいまや、その頼りのカンピューターも、寄る年波で、ソフトウエアには虫が入り、計算速度も遅くなっているのです。
それで悔し紛れに、60年まえ占領軍として日本にきていたアメリカ人が、じぶんは日本語が達者だと思っていても、いま来日して若い人の日本語を聞いても、ほとんど聞き取れないだろうと考えてみたりするのです。

・まる暗記あいさつしたらまる忘れ 老年兵

わたしに対応してくれた窓口の人は、平均、通常人の3倍は時間をとられていたと思います。世間様にこんなに迷惑をかけてまで、自分の好きなことをさせてもらっていていいのかしら、と反省のし通しなのです。

というわけで、聞き取れない原因は、主としてわたしの側にあることは認識していました。
ある日、とうとうこんなことが起こりました。
ロンドンから観光バスでストラトフォード・アポン・エイボンへゆきました。ここはシェークスピアの生まれた町です。日本語ツアーという甘い餌につられて、1万円以上も張り込みました。昨年秋、パリでおなじ会社のツアーを使って良かったと思ったからです。
ところが今度ロンドンでは、イギリス人の日本語ガイドでした。60人乗りのバスでしたが、日本人を最後に乗せました。当然空いている席にバラバラ座ることになります。
ひとりしかいないガイドさんが、英語でしゃべり、こんどは日本語で話すのです。
「左に見えるのがBBCです」といっている頃にはBBCはありません。「右に見える紫の花は・・」、そこはもう牧場で、のんびり牛が横になっています。
半分しか時間をかけないのですから、とうぜん情報量は少ないのです。そしてなにより、イギリス人の日本語ですからやっぱり少し変です。
おまけに同乗しているイタリア人たちは、英語がすんで日本語になると、自分たちがガイドさんより大きな声でおしゃべりを始めます。
というわけで、料金が高いだけの、まさに羊頭狗肉の旅でした。日本語ツアーでなければ6000円といったところでしょう。


シェークスピアの奥さんの生家


ガイドさんは、日本人を対象にして話すときには、昼飯はどこで食べると美味しいとか、グルメ向きのことをいっておりました。わたしには一向に縁のないことで、あんまり日本人を金持ちだと尊敬するな、と心に思っていました。
一日の終わりに、シェークスピアの奥さんの生家にいったときのことです。
到着直前に、なんでも、クッキーだとかドリンクだとかいっておりました。それをわたしは、テッキリ、また喫茶店でも推薦しているのだろうと、ぼんやり聞き流していたのです。
見物を終わって駐車場へ帰りましたが、バスのドアが開いていないので横に立っていました。みなさんはバスのほうをチラッと見るだけなのです。そして、道を 横切って喫茶店にゆきます。まだ、時間が早すぎるのかなと思って、わたしも一緒にそちらに行きました。行ってみて分かったのですが、ここのティータイムの お茶と菓子は、ツアー料金に含まれていたのでした。
そのとき、これじゃもう英語どころか日本語だってわからない可哀想な老人になっているのではないか、ひとり旅など、もうとても無理なんじゃないのと、しみじみ感じたことでした。

そしていまは「さだまさし」が歌った関白宣言の気分でいるのです。


オレに旅行はできない!

多分できないと思う

できないんじゃないかな


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