欧州 クリスマス・マーケット

女護がツアー

(2013/12/8~13)

重遠の部に戻る


女護がツアー始まり始まり

出発日の早朝、中部国際空港セントレアで団体ツアー受付に顔を出しました。

するといきなり「大坪さんですね」と言われました。その時は、どうせ飛び抜けた老人だから、わかったのだろうと思っていたのです。ところが時間になり搭乗口に集まってみると、なんと一行13人のうち男は私ひとり、添乗員さんも女性でしたから、14対1の女護が島状態のツアーになったのです。


旅の三日目、まるで平地、たとえあっても低い低い丘の続く、なだらかなフランドル地方をバスで走っていました。「戦争映画ではドイツ軍やアメリカ軍の戦車の大群が駆け回っているが、こんな景色を見ているともっともだという気がしてきますね。日本だと山ばっかりで、とても走り回れないでしょうから」というようなことを口走りました。

町並み
ブルージュの古都 熟女軍団は征く

あんまりムッツリしていると、不機嫌だととられやしないかと心配したからです。


といっても、男女共学だったのは小学校の四年生まで、おまけにタレントの名前などまるで知らない、要するに女性と話をするなんてことの出来ない昔人間の私なのです。

はたせるかな「それ、テレビででも見たんですかぁ」と冷たいご返事をいただきました。まあ、旅の全期間を通じてこんな感じだったのです。


水の都ブルージュでのことです。ブルージュとはブリッジ、橋のことだそうで、いたるところに運河と橋があるベルギーの静かな古都です。

とあるチョコレートを売る店での出来事です。私たちのグループのうち、買い物を早めに済ませた何人かがショーウィンドウの外で群れていました。「若いねえー」と声がします。「中に入ってとらせてもらったらいいのに」という声も聞こえました。なにごとかと見ると、当グループの美人のひとりがカメラを構えているのです。イケメンの店員さんがお目当てなのでした。

こんなにも男性に興味を持ってくれる女性がいると思うと嬉しくなったのでした。

でも、私だったら、お店に、いくら別嬪さんがいたとしても、写真なんか撮りやしません。撮ったってしようがないじゃありませんか。大体が、写真なんて撮るだけのもので、後ではあんまり見もしないのですから。男というものは大体そんなものだろうと思うのです。

熟女らに屈託はなしクリスマス


クリスマスマーケット

どうして今度のツアーを選んだかというと、私がまだ行ったことがない場所を、短期間に沢山訪ねることができるからです。全体では6日でしたが、往復の飛行機を除くと実質4日です。その4日のうちに、オランダのアムステルダムと マーストリヒト、 ベルギーではアントワープ、ブルッセル、ブルージュ、そしてドイツではアーヘン、ケルン、リューデスハイム、フランクフルトと駆けまわったのです。
クリスマスマーケットの旅ですから、街に到着するとまずクリスマスの屋台が並んだ広場などに案内され「この場所に、何時に集合。それでは解散!」ということになります。散策の時間は大体1時間半ほどのことが多かったと思います。こういう短い滞在にすれば、あちこちの街を訪れることができるわけです。
3日目からは、昼食、夕食も、このフリーの時間に各自で勝手に摂ることになっていました。これは時間の節約にもなりますし、土地の名物の正式料理を押し付けられ、体重増加に悩むことも避けられ合理的でした。
流石は現代の日本女性です。一度も、またひとりも、 散策後の集合にミスして、他人に迷惑をかけるようなことはありませんでした。
クリスマスマーケットというのは、日本の社寺仏閣でお祭に屋台が門前に並ぶようなものです。それが12月初めからクリスマスまで開かれるのです。ソーセージ、ワッフルなどの食べ物、ビール、ワインなどの飲み物、人形やキラキラの装飾品などのお店が並びます。私は最初に一箇所だけ見て、もう堪能してしまいました。

聖夜街老犬添わせ物を乞う

路上の犬

        さあ! 今日も頑張ろうぜ

世間にはクリスマスマーケットツアーのレピーターもいて、去年はどこそこへ行ったから今年は別のところへという希望があるそうです。先様も心得て、飲み屋のマグカップを「2013年、 何々市」と美しい意匠で飾り、差別化、収集意慾をそそっているようです。

こういう臨時の市場は、大体、街の中心の広場などで開かれます。そしてヨーロッパではそんな広場は市庁舎、裁判所、教会、郵便局といった建物に囲まれています。私は教会の鐘楼に登ったり、クリスマスマーケットでない普通のマーケットを見物したり、城壁を探索したり勝手なことをしていました。

意外だったのは、どこも静かだったことです。日本だったら「本日はご来場・・・」というアナウンス、そして音楽がスピーカーから流されているのが常識です。ところがクリスマスマーケットでは、ジングルベルもトナカイさんもまるで聞こえてきません。

あちこちの屋台群の入り口にはアルコールを販売するの店があり、それなりに繁盛しています。でも、一向に静かでした。

音楽といえば、唯一、気がついたのは、大都市ケルンのクリスマスマーケットで特設の舞台が設けられ、ここからは「もみの木」のメロディが漏れ、身動きできないほどの人の流れが溢れている光景でした。

大聖堂聖夜の宴にのし掛かる

ケルンの大聖堂

    ケルンの大聖堂 右下の電灯が光っているところがクリスマスマーケット

覇権争いの庭
今回の添乗員さんは大変勉強家で、土地の歴史についてよく解説してくれました。
今回旅したフランドル地方は、旧フランドル伯領を中心とする、オランダ南部、ベルギー西部、フランス北部にかけての地域です。中世に毛織物業を中心に商業、経済が発達し、ヨーロッパの先進的地域として繁栄したのだそうです。基本的に魅力のある地域なのでしょう、その魅力ゆえに世界情勢に翻弄され続けてきたのです。
歴史を細かく書き出すと、あまりに複雑で嫌になることが確実ですので、いい加減に走ってみましょう。まずは2000年前のローマ帝国です。ついでフランク王国、スペイン王国、ナポレオン(フランス)、次々にそんな国の一部にされてきました。
オランダ王国として独立したのが1815年、さらにそのオランダからベルギーが分離独立したのが1839年ということです。
現在の国の概念とは違う領主様や王様を戴く国だったとはいえ、ひとりひとりの住民にとって、国が変わることがどんなものだったのでしょうか。 ひとりひとりの住民の意志が尊重されるなどいうことがあったとは想像しがたいではありませんか。
国境というものが、どんな理屈、どんな力関係で決まるのか、また上に立つ政府が変わると実生活にどんな変化があるのかなど、日本人にはわからない体験が、この地の人々の体には染み付いているのだと想像します。
日本人は、私が生きてきた時代に、急激に世界の一員であることを意識させられるようになってきました。振り返ってみれば、この極東の島国の地に住み着いて以来、国際問題に巻き込まれることの少ない、幸せな坊っちゃん国家だったのだなあと、つくづく考えさせられたのでした。

冬なるに牧場の緑果て無きよ


ヨーロッパの国々
オランダの面積は九州とほぼ同じ、ベルギーはそれより2割ほど狭いのです。人口はそれぞれ1、600万人、1、100万人、ともに決して大きな国ではありません。
世界には中國・インドのような大国もありますし、オランダよりもっともっと小さな国だってあるのです。それぞれの国にはそれぞれの地理的条件や歴史があり、落ち着くべきところに落ち着いているともいえましょう。
それにしても交通や通信が便利になるにしたがって、小さいユニットだと効率化に乗り難くなる傾向は否定できないといえましょう。それあらぬか、ヨーロッパはEC体制をとり、いろいろの面、例えば通貨、交通などの面で、あたかもひとつの大国のように振舞っています。
しかしまだ、それぞれは個別の国でありますし、差し当たって国々で固有の言語がどうなっているのか、現地で見てみたいと思っていました。
オランダではオランダ語とフリースラント語、そしてかなり英語が使われているとされています。また、ベルギーではオランダ語(フラマン語)フランス語、ドイツ語とされます。
現地に到着してから暫くの間は、この看板は何語かなと、わりにその点に気をつけて見ていました。でもそのうちに、いろいろの店の看板を眺めているうちに、何語か考えてみるのが面倒になってきました。というのは、たとえば細かいつづりはともかく、レストランであることが始めからわかってしまうように思えたからです。また、たとえば単語の一部にPolic・・という綴りが目に入ると、何語かはともかく、警察のことだなと判断できるわけです。
 こうして、私のようないい加減な人間には、オランダの高速道路の出口に「UIT」と書かれていると、つい何となく「OUT」と読めてしまうようになってきたのです。
帰国してから北海のことをいろいろ調べていました。すると、日本語ー北海、英語ー North Sea、ドイツ語ー Nordsee、フランス語ー Mer du Nord、オランダ語ー Noordzee、デンマーク語ー Nordsøen、ノルウェー語ー Nordsjøenであることを知りました。確かにちょっとは違いますが、大体はよく似ていませんか。
こうしてみると、むしろ日本語こそが特殊なのではないかという気がしてきました。それにしても、日本語は中國語とはかなり共通点があって、メリットがあることは有難いことだと思います。

看板

    中国語は 500ユーロ以上お買い上げ送料無料 多分


オランダの干拓
オランダは国土面積の四分の一が海抜ゼロメートル地帯なのです。13世紀以来大規模な堤防を築き、内側から水を汲み出して国土としてきました。そのため「世界は神が作り、オランダはオランダ人が作った」と言われます。排水には、以前にはあのドンキホーテが挑んだ風車が使われていましたが、いまでは電動ポンプが取って代わっています。そして 風車は観光用にほんの少し残されています。
というようなことは、今回のツアーの前に知っていました。
でも、実際に訪ねてみると、いろいろのことが頭に浮かんできました。実物を目にするのと、ぼやっーと考えている時間があるからなのでしょう。

風車

    車窓からの観光用風車

アムステルダムでガイドさんから、建物の基礎の砂は、水を適当に含んでいるから硬いので、地下鉄工事に入ると水のバランスが崩れ、周りの家が傾いたりしてすぐ工事ストップになる、工事が何時完成するか誰もわからないと聞きました。また、オイルシェール採掘に伴って小さな地震が起こるので、ミニ液状化の障害が起こりはしないかと問題が提起されているとも言っていました。
そう言われてみると、あちこちのビルがそれぞれ前のめりになったり、そっくり返ったり、勝手に傾いていることに気が付きました。

住宅地など、地面すれすれまで運河の水面が高いのです。闇雲に排水するのではなくて、水位を保つように排水量をコントロールしているのではないか、と思いつきました。

また、飲み水と下水をどうしているのかも、気になりました。日本でしたら川の上流から飲料水を取り、下流に下水処理水を放出するわけですが、オランダでは周りが総て殆ど停滞した水なのですから。

広大な干拓地に、沢山の人が生活しているのだから、想定外の自然災害に襲われたら大変なことになりはしないかとも思いました。

今の時代ですから、ネットでいろいろ調べてみました。ところが、意外に、実質的な情報は少ないのです。間違っていたらお許し願うことにして、想像も含めてご披露させていただきます。(間違いを指摘していただければ、大変嬉しいです)

まず、大災害ですが「1953年2月1日の満潮の日に980ヘクトパスカルの低気圧がオランダ南西部を覆った。そして4.5メートル以上の高潮が発生し、破壊されたダムの長さは延長500kmにおよび、1835人の犠牲者、家を破壊されたもの20万人というオランダ史上最大の洪水被害が生じた(Wikipediaから引用)」。その後、400年に一回起こると予想される過酷な条件に耐える規模の対策を実施済みとのことです。

上水は遠くを流れるライン川から取水し、海岸砂丘まで約50Km送水、砂丘の砂を透過させ上水として使っています。こんな方法で、莫大な量の水を長期にわたって継続的に得られるものでしょうか、ちょっと心配ですが。
飲用水としては、近代国家の常識として、さらに高度な処理をしているのだと思います。私は旅先で、文明国ではミネラルウオーターでなく水道水を飲むことにしていますが、アムステルダムの水は癖のない美味しい水でした。ナポレオンが「アムステルダムの   
水だけは飲みたくない」と言ったと伝えられていますが、それは200年も前のことですから。

水面の制御は、住宅地では土地のレベルマイナス20cm,牧草地では植物の根以下のレベルを目標に給水と排水を行なっているようです。土地の高さは場所それぞれですから、適当な大きさの土地をブロックごとに堤防で囲い、そのなかで水面の高さをコントロールしているのでしょう。排水は、共通の水路を通し最終的に大きな堤防から外へ出すのでしょう。
オランダは、基本的に年間降水量が約800mmと日本の半分しかなく、しかも季節による変動が少ないので、とても有利な条件になっています。

堤防といえば、木曽三川の治水で腕を振るった明治政府招聘の外人技師デ・レーケはオランダの人です。
ネットで彼の伝記を読みました。彼は木曽三川だけでなく、大阪の淀川や富山の神通川にも参与していることを知りました。明治の始めの頃は、土木工事の知識・技術では日本とオランダで天と地の差があったことでしょう。彼は技術的にも適材で、人格的にも誠実な人でした。彼を得たことは、日本にとってまことにラッキーなことでした。

北風にオランダ風車馬耳東風


有料トイレ考
今回訪ねたオランダ、ベルギー、ドイツの3か国では、トイレは原則として有料でした。料金は50セントが普通ですから、日本円では70円ほどになります。
勿論、レストランに入り食事をすれば、そこのトイレは無料で使えます。
もっともファーストフードチェーンのバーガー・キングでは、地下のトイレにちゃんと番人がいてお金をとり、用後にお手拭きの紙を渡してくれました。
アムステルダムでは繁華街に、喫茶店などと並んでトイレ屋が同じスタイルの看板を揚げていました。

トイレ屋
    中央に男女のトイレマーク お金をとるから当然”お店”


バスのドライバーは「日本人はよくトイレにゆくから、途中でもう一箇所余分に停まるよ」など言っていましたからそういう評判のようです。
私は日本で団体旅行をするときは、トイレ・ストップではほとんど毎回お付き合いして用を済ませています。無料ですし、交通渋滞などに会ったとき、他の人と違う条件だと一人だけ困ったりするだろうと思うからです。
今回は正直なところ50セントのお陰で、あと何時間で目的地に着くかしらなど、思わず知らず頭のなかで計算しているのに気がつきました。また、年をとると排尿に、はかが行かないのです。最後の一滴まで、ちゃんと排出するように時間を掛けている自分に気がつき思わず苦笑させられました。
便器の前に立って用を足しながら、医療や介護のサービスで、その軽減や無料化が過剰な要求につながるという論争を思い出していました。

吾ほどの年寄りは見ず聖夜街

弱き者、汝の名は
前に述べたブルージュの街では、ベギン会修道院の庭園も通ってみました。1245年に建てられた建築群で、世界遺産に登録されています。最初は十字軍遠征に夫を連れてゆかれた妻などが集まって、共に働き生計を立てるための設備だったのだそうです。十字軍はローマ法王の「イスラム教徒に奪われた聖地エルサレムを奪還せよ。神はそれを望んでおられる」という要請に従ったことになっていますが、現在では、その実態には人間臭い様々の事情があったのだと解釈されています。いま、その建物は修道尼院になっています。写真撮影は禁止、夜間は閉鎖されます。

修道院
    修道院の隣のレストラン 窓に尼さんの人形が


ここは北緯50度と千島列島の北端にあたる北の国ですが、温かい海流のお陰で冬もさほど寒くはなく、庭には芝が青々と広がり、人影まばら、この時期でもただ静まり返っていました。

クリスマス修道女らは潜みをり



おわり


重遠の部に戻る