題名:ジンギスカーン生誕の地・山と鱒と

(2001/9/22〜29)

重遠の入り口に戻る

日付:2001/12/8


・最後のテント生活

モンゴル訪問は2度目です。3年前に、この国の未踏峰テンゲル・ハイルハーン(3943m)という山に登りにゆきました。

私も老い先長くはないので、できるだけ同じ地域には行かないようにとは心掛けているのですが、誘われたらやっぱり行きたくなってしまったのです。

今回は山屋5人の身軽なパーティーでした。

 

関西空港を14時に飛び立ち、4時間10分の飛行で、モンゴルの首都ウランバートルに着陸しました。

旅の最初と最後の夜は、モンゴル山岳会の人のマンションに泊まりました。そのマンションは、外からの見かけやエレベーターは大変お粗末なのですが、中味は大違い、一歩玄関を入れば私の家と変わりません。子供部屋の様子だって可愛いおもちゃがいっぱいあって、娘の家のようなものです。

テレビの衛星チャンネルではNHKが入ります。モンゴルの人から、いきなり「先日の台風ではどうでした?」と聞かれ、びっくりしてしまいました。

ウランバートルは樺太と同緯度です。標高が約1300mと高いので気温は低く、今日から暖房が入ったとのことでした。暖房は火力発電所の廃熱を都会に持ち込んだ集中暖房システムで、快適です。

 

出発前日の名古屋の最高気温は34度c、もちろんTシャツ一枚で旅立ちました。

このため私たち日本人は、本能的に暑さを厭い、涼しさを歓迎する習慣が身に付いていました。

ウランバートルの空港を出て、車に向かうときに「モンゴルは、やっぱり爽やかですね」という言葉が飛び交ったのでした。

 

2日目に、モンゴルの山へ入る最初の旅でも、マイクロバスの車中、体が冷えるのは良いことだと思っていました。

私だけでなく、みなさん、小便が頻繁に出るようでした。私は年を取り、前立腺肥大の傾向があるので、小便がよく出ることは好ましいことだと思っておりました。

10時間近くのドライブで標高1500mほどの草原に着き,テントを張りました。

最初の夜ですから、夕食後、地元勢と焚き火を囲んで歌合戦などして、懇親をはかりました。

焚き火というものは、暖房の手段として良いものではありません。火の当たっている側はやけどをするほど熱くなるのに、あたらない方は冷たく冷えるのです。その上、風下に座ると煙に燻されますし、風上では腰や背中が冷えることになります。

この夜は、風の強い夜でした。背中が寒くて仕方なかったのです。我慢していました。

何年か前にカムチャッカへ行ったとき、焚き火で体をあぶったら、その夜、体がほてって、大変、寝苦しい目にあったことがありました。それでこの夜は、あまり体を温めすぎないようにという意識が働いていたのでした。

こうして寒い寒いと思いながら、ただひたすら、宴会が早く終わるようにと待っていたのでした。

 

寝る前に小便をしました。ところが、どうも出がよくないのです。パンツ、ズボン下、ズボン、オーバーズボンと重装備ですし、周囲が真っ暗なうえ、足下がフカフカした草むらで不安定でしたから、大部、普段とは様子が違うのです。

仕方ありませんから、一目散に寝袋に潜り込みました。ガタガタと震えがきました。

テントの中に寝袋で寝るときに、最初のうち寒いのは、なにも始めてのことではありません。でも、今までは段々暖かくなって、夜中からはぐっすり眠ることができたのです。

でも今回は、結局、朝まで寒い思いをしていました。

そしてなんと、トイレに3回も行ったのでした。狭いテントの中に何人もぎっしり寝ているのですから、起きたり、出たり入ったり、ほかの人にとっては迷惑なことです。

テントの出入り口は、表と裏とあります。表が広くて、裏はやっと抜けられる程度の穴なのです。

最初は近い裏口から出ました。そこに寝ていた0隊長さんは、そんな裏口から出る奴がいるとは予期していらっしゃらなかったので、熊かと思って驚き、私を抱きかかえました。

3回目は、なんとか明け方まで我慢しようと思ったのですが、どうしても我慢できませんでした。

テントから出るたびに、毎回、眩しいほどの星空は堪能できたのですが、気持ちは暗かったのでした。

 

私の父は、晩年、前立腺肥大に悩まされました。私ももうだいぶ前に、腰痛でX線撮影をしたときに、別件逮捕で肥大を指摘されたことがありました。でも、とくに支障があるわけでもないので、何もしないで放ってあるのです。

ともかくも、この明け方には、いよいよ、仲間の迷惑になるから、テントで泊る旅行には、もう連れていってもらえないなと観念したのでした。

 

でも、しぶとい私は、次の夜は焚き火で熱くて困るほど体を焙りました。時々は後を向いて、腰も暖めました。

寝るときには、ホカロンを寝袋の足の先と腰に入れました。

薬石効ありで、その夜は1度もトイレに行かずにすみました。

次の夜も成功でした。その次の夜は1回だけですみました。

話し合ってみると、私が寒いと思った夜は、ほかの人たちも寒かったとのことです。

最初の夜など、テントの中においたあったペットボトルの水が凍っていたほどの寒さでした。

こうして、とりあえず今度だけは、テント泊断念の宣告は、延期されたと言ってよいでしょう。でも、遠からず、その時は来ることでしょう。

 

・大草原蜃気楼にもゲル浮かべ  

 

・エルデネ登山

エルデネ山は首都ウランバートルの東北、直線距離にして200キロあまりのところにあります。

通訳さんは、エルデネというのは、宝石のことだといいました。でも、なぜ、その名が付いたかは聞き落としてしまいました。花崗岩からなる山ですから、水晶ぐらいなら見つかることでしょう。

頂上には測量に使った櫓がありましたから、過去に人が山頂に立ったことは間違いありません。

日本人が登った記録はありません。また、こんど同行した中にも、過去に登った経験者はいませんでした。およそ、人が登る山とは思えません。

登山道など、もちろんありませんし、測量櫓を建てた人が、どんな方法を使って行ったのかもわかりません。

 

山登りの常識として、早立ちがあります。

明日のスケジュールをモンゴル側の親分、0ガイドに相談しました。

9時に朝飯にしようというのです。朝は寒いから、そうしろと言います。

時差だとか、夏時間の関係で、日の出が8時ちょっと前なのです。たしかに暖かくなってから動こうというのは、この土地での生活の知恵として、もっともなことかもしれませんでした。

しかし、なんといっても山登りのことですから、頼み込んで7時食事、9時出発という予定に早めてもらいました。

 

脱線しますが、われわれが旅をしている間に、モンゴルでは夏時間から通常時間に切り替わったのだそうです。到着したときは、日本時間と同じでしたから、時計はいじりませんでした。文明社会と離れて生活していたわれわれは、とうとう時計をいじらないままで日本に帰ってきたのでした。

その旅行の間に出会った唯一の時間のねじれは、われわれの時計で8時30分発だった帰路の飛行機が、実は世間では7時30分発であるということだけでした。

 

朝食のテーブルも椅子も、霜がびっしり降りていて、大陸の明るい太陽に照らされ、キラキラととても綺麗でした。そして、とても寒かったのです。

 

結局、実際に歩き始めたのは9時ちょっと過ぎでした。

白樺と唐松の疎らに生えたゆるい斜面を、適当に歩いてゆきました。

昨日車で山に入る道の途中から、あれが目指すエルデネ山だと指さされました。そのときに、どれもこれも同じ様な、なだらかな山が沢山ある一番奥に、一段と高い禿げたピークがひとつ見えていたのです。

その時は、0隊長が「わざわざ日本から登にくる山じゃないな」と呟かれました。たしかにそんな気分でありました。

われわれの感じでは、まず左の尾根に上がり、尾根伝いに右方向に回り込んでゆけばよいと思われました。

さて、われわれはテント場から多少右下がりに傾いた斜面を登ってゆきました。右の谷は、昨日先頭車がぬかるみにはまり込み、ワイヤで引いてやっと脱出した湿原の上部のようでした。

日本でしたら、あまり谷は横切らないのですが、ここでは谷といってもそんな大きな起伏や傾斜があるわけでもないので、適当なところから右へ行き30度ほどの傾斜を登って次の尾根に取り付きました。

この高みから眺めると、まったく人の影響を受けていない、完全に自然のままの山や川が視力の限界まで広がっていました。

こうして先ほどよりは一段高い、しかし同じようにゆるい疎林の斜面を歩いてゆきました。

この日は、日本人のほかに、モンゴル側から0ガイドと0通訳が同行していたのです。

もちろん道などありませんから、適当に歩いてゆくのです。ルートの選び方に、日本勢とモンゴル勢との間で、多少、違いが感ぜられました。

日本勢は、上へ上へと登るようなルートを取りがちですし、彼らは少々の下りだろうが「予め決めた方角へ進む」という感じなのです。

2時間ほど歩いたときに、われわれは見通しのきくところで方向を見定めたくなりました。尾根の背中に当たるところは、大きな岩が積み重なっています。そこをどんどん、高い方へ高い方へと歩いてゆきました。

右にも左にもこんもりした高まりが見えます。どちらが頂上だろうかという声もありましたが、なにせ、まだそんなに歩いていませんし、あたりの様子も先日見た禿げた山頂ではないのです。

 

「熊の子が見えた」と隊長が言われました。黒い動物がヨタヨタと穴に入っていったのだそうです。

その時は気が付かなかったのですが、モンゴル人の0ガイドは、拳銃を抜いて腰にかまえながら歩いていたのだそうです。

木の実を食べるために、木に登ったり、へし折ったりした熊の活動の痕を教えてもらっていた道でした。そんな場所は何カ所もありました。

 

歩き始めてから、まだ3時間も経っていません。こんなに早く山頂に着くとは思えません。前日、下から垣間見た山頂に続く尾根も、こんな様子ではありませんでした。そう思って、しきりに目を周囲に走らせていました。

ある場所で、右手の木の間に、禿げた山肌が遠く見えました。

「あれだ」と隊長と私と同時に叫びました。まだ半分も来ていないでしょう。それは予想通りでした。

苔の生えた大きな岩が積み重なった斜面を、谷まで下り、サラミソーセージとパンの昼飯にしました。「サラミの残りは持って行け。今夜、野宿になったらラーメンに入れるから」と、0隊長は厳しいことをおっしゃるのです。

食後、0研究員が流れの中に入り、岩をひっくり返して水生生物の調査を始めました。

小さなカワゲラの幼虫がいっぱいいるのだそうです。

 

0という名前が沢山出てきました。ゼロじゃなくて,オウなのです。

日本を出るときに、なんでこんなにオのつく人ばかり集まったのかしらと話題にしていました。

 

名前     文中名   備考

小川さん  0隊長    公務員

小川さん  0ジュニア  隊長のご子息

小川さん  0研究員   隊長の職場の部下

大塚さん  0女史    隊長の職場の部下

大坪    0爺い    私、無職

 

ところが、モンゴルでまた0が増えたのです。

 

オルギーさん 0ガイド モンゴル山岳会会長の三男

オドーさん  0通訳  ウランバートル大卒

 

このうちの3人は同じ職場の上司、部下の関係なのですが、まあ、次のような調子なのです。

「ボスが、私たちのためにテントを片つけていてくれるのに、私たちだけコーヒー飲んだら怒るかな」「きっと怒ると思うよ」。そういうことを上役の面前で言っては、楽しんでいるのです。

職場内ではいろいろの仕事のやり方があり、どれが良いと決めつける気はありません。

でも、私こと、0爺いとしては、組織が大きくなればなるほど、みんながやる気になってくれなくてはどうにもならないと思っていましたから、こういう和気藹々の職場になるように努めていたつもりです。

 

さてエルデネ山ですが、頂上は、昼食をとった谷の、ひとつ右の尾根をつめたところにあると見受けられました。手前の尾根をトラバース気味に登っていきました。

私だったら、ほぼ水平に進み、向かいの尾根に移り、それから登ったことでしょう。

でも、0隊長は、今登っているこの尾根が、向かい側の尾根にスムースにつながっているのを知っているかのように、一定の角度で登っていかれました。

隊長の判断の当たりでした。平らな草原の中の流れを飛び越しただけで、向こうの尾根とつながっていたのです。

二人とも、頂上はもう近いと思っていたのですが、この小川の水量が多いのは気になりました。「山の裏側から流れてきているのかもしれませんね」というようなことを、話し合いました。

モウセンゴケの生えた湿原を突っ切ると、木のない、まるで巨大な堤防のような草つきの斜面が目の前でした。遠くから見ていた頂上に違いないと思われました。

もう出発してから5時間は経っています。高度計は2110m、計算ではあと200mほどのはずです。頂上直下の余裕というわけで、腰を下ろしキャンデーなど口にしました。

一服したあと、みんな、どんどん登ってゆきます。私こと0爺いはどうしても遅れるのです。

「頂上ですよ!」という声が上から降ってくるのを、今か今かと待ちながら喘登していました。ところがその声は、ぜんぜんかかりません。

そのはずです。斜面をやっと上に抜けると、その先にまだ、ゆるい登りの平原が広がり、遠くにもうひとつ高みがあるのです。

その高みはお城の石垣のようにも見えて、そのときには、ちょっと気が重くなったのです。でも、前の人たちが登ってゆくので、自分にだって登れないことはあるまいと、

自分に言い聞かせました。

取りかかってみれば、どの山にもある巨石のガラ場で、とくにどうということもありませんでした。

それを登り切ると、また、平らな広い原っぱが広がっていました。今度は遠くに櫓が見え、先に登った人たちが見えました。頂上なのです。出発してから約6時間たっていました。

3年前のテンゲル・ハイルハーンに次いで、モンゴルで二つ目の頂上です。両方の山とも、頂上の広さは尋常ではありません。大陸では、あらゆるもののスケールが大きく、空気が澄んでいて遠くのものも近くに見える傾向があります。この山の頂上の原っぱも、ナゴヤドームが四つとか、六つとか入る広さのようでした。

 

幸い天気が良く、頂上からは360度の展望が楽しめました。周囲全方向に、同じ様な標高2000mをちょっと越えた高さの、なだらかな山々が見えました。谷の幅は約30キロほどですから、八ヶ岳と南アルプスの間と似ています。山の浸食がほぼ終点に達していて、標高差は800m程度、緩やか、かつ単調ですから大変に広い谷に見えます。そして遠くには、もうロシアの山まで見えていました。

 

帰り道として同じルートをとると、巨岩の崖を登り返さなくてはならないのが嫌でした。また、みすみす熊のいるところを通ることもなかろうと、別のルートを採ることにしました。

今いる尾根をともかく道路まで下り、道路を歩いて帰ることにしたのです。道路はぬかるんでいて車は通れませんが、歩くぶんには迷うことはあるまいと想像したのでした。

下る尾根には、随分広い山火事の痕がありました。まったく人手の入らないこの日のルートにも、山火事の痕は何カ所もありました。多分、落雷で発生した山火事なのでしょう。

 

今日のパーティでは、0通訳だけが山のエキスパートではありませんでした。

前日、0隊長は彼女に、無理だから来るなと、かなりきつく申し渡していました。しかし、なかなか頑固な娘で自分の意志を通し、とうとうついてきていたのでした。どうも0ガイドが「オレが面倒を見るから」と言ったようでもありました。

彼女は足が痛むようで遅れがちでした。

そんな条件や、どこで谷を渡るべきかを隊長は考えられたのでしょう、できるだけ歩きやすいところを選んで尾根の右側に降下を始めました。谷まで下るとちょうど太い倒木が流れの上に丸木橋のように掛かっていました。隊長はこれを渡りました。

正直に告白すると、私は谷に下りるのは問題だと思っていたのです。

つい一月前、北海道の神威岳で谷川を約10回、じゃぶじゃぶと渡ったことが頭にこびりついていたのでした。日本の険しい谷では、川が崖にぶつかって曲がるところでは、道は絶壁に遮られ、対岸に渡らざるを得ないのです。橋があればともかく、なければジャブジャブをするより仕方ありません。

さいわい、ここモンゴルの山の斜面はゆるいのですから、尾根の横腹の斜面を歩くのも可能であります。その利点を活かして谷に下りきらずに道路まで出れば、一回のジャブジャブですむのではないかと思っていたのでした。

しかし今回も、0隊長の判断の勝ちでした。一カ所だけ軽い高巻きがあっただけで、間もなく川から離れ、一度も足を濡らすことなく道路の方にと向かうことができたのでした。

ともかくも車の轍のある湿原に出ました。こんな所は冬に地面が凍結している間に、土地の人が車でくることがあるのでしょう。

私は地面の固そうなところを選んで歩きましたが、だんだん靴に水が沁みてきました。

昨日、車がはまって引き返した湿原かと思いましたが、そうではありませんでした。

湿原を抜け出し、比高で20mほど高いシラカバの生えた固いところを乗り越している頃から、暗くなってきました。

次の湿原に入る頃には、もう真っ暗になってしまいました。

有り難いことに、そのとき遠くに光が見えました。留守部隊がお迎えに来ていてくれているのが分かりました。こうなれば、もう、あとは時間だけの問題です。

月齢は7日ぐらいですが、緯度が高いので月は南に低く、薄暗いのです。もうその頃はリュックからランプを出すのも面倒で、薄暗い月光に照らされた湿原を、大きそうな草の株を選んで踏んでは歩を進めました。そうこうするうちに、昨日、車がはまってしまい、荷物を下ろして軽くして、ほかの車に引っぱり出してもらった古戦場にきました。もう、あとは固い道を少々歩けばよいのです。

残留組の若者エッコ君が迎えに来ていて、最年長のゆえをもって、わたしのリュックを持ってくれました。大抵の山では、私がビリになるのですが、今回だけは0通訳さんが、その役を引き受けてくれました。

車の輪が回ると、ほんの5分ほどでテント場に着きました。21時でした。

 

この日は、行動時間が12時間と長くなってしまいました。

0 ジュニアが「頑張りましたね」と、私を労って下さいました。

その言葉はとても嬉しかったのですが、本人としては、あまり年をとったような自覚がないのです。そのことは、自分が年とってみないと分からないと思うのですが。

 

ともかく、やせ我慢でなしに、こんな誰も行ったことがなくて、頂上かと思っていってみると、まだ先に高みがある、そういった探検気分を味わえるのが未踏峰の醍醐味といえましょう。

帰りの道だって、地図があるわけでもなく、ただ、勘だけに頼って歩いてきたのです。

そんな山旅を私は好きなのです。

 

・天蓋を絹雲二分大枯野     

 

・釣り師のユートピア、オノン川

0隊長は、登山だけではなく、渓流釣りの大家でもあります。

山から下りてきた次の日、テントを畳んで、釣りを目的にオノン川に向けて移動を開始しました。

朝9時にスタートし、草原の中の道を走りに走りました。

入ってきたケルレン川に沿っているうちは道が分かりましたが、近道すると言って脇へはずれてからは、どこをどう走っているのか、もうさっぱり分からなくなりました。

あるようなないような幽かな道になったり、ぬかるみに車がはまって引っぱり出したり、羊や馬、牛を脅かしたりしながら、ともかくも走り続けました。

峠のようなところを越したと思うと、また峠にかかります。小川があっち向きに流れたり、こっち向きに流れたりします。

金色に輝くシラカバの黄葉を賞でながらの、贅沢なドライブです。

草の丈の高いところは、冬に家畜を飼うために残してある草原で、丘の南側にあたる比較的暖かい場所を選んであるのだと、0隊長が教えて下さいました。

モンゴルは日本の4,5倍の土地面積を持ちながら、250万人しか養い得ない、良く言えば自然度の高い、悪く言えば生産性の低い土地なのです。

 

15時頃だったでしょうか、前の車が止まり、立っていた1人の男と話をしていました。こうして道を聞くことは、今までもしばしばあったことなのです。ところが今回は、その男を車に乗せました。

その男は、その日の夕飯時にもキャンプにいました。それで、0通訳さんに事情を尋ねました。

「あの人、車に乗りたいと言ったのです」

「話しているうちに、オノン川を知っているから一緒に行くと言ったのです」。

われわれの質問、「あの人って、これから僕らとずっと一緒にいるの?」。

「そんなことない」「それじゃどうして帰るの?」「集落で馬を借りて帰ると言ってる」「急にいなくなったら、家の人、心配しない?」「ううん。モンゴルの人なら普通のこと」。

0爺いは、耳が遠いので、話は多少は違うかもしれませんが、大体はそんな様子でした。

たしかにある朝、彼はもういませんでした。運転手に聞くと「ひゅー」と手でどこかへ行ってしまったという身振りをしました。

 

そういえば2日前にエルデネ山に入るときも、最後の集落についてから案内人を捜したのでした。

その村へ入ると、0ガイドは小さな売店を開いている家の人と話していました。1時間ほどしたら、丸めた毛布を担いだ人が現れ、車に乗り込んできました。おまけに、夫婦で来たのです。彼らはわれわれと二晩泊まって帰りました。

こんなふうに、急に言われて、ふっと出られる人がいるのですね。

 

そういえば、井上靖の小説「蒼き狼」にも似たシーンが書かれています。

若き日のジンギスカン、鉄木真(テムジン)が、盗まれた8頭の馬を取り返そうと、道端にいた男に見かけなかったかと尋ねます。男は見たと答え、鉄木真に協力して取り返そうと家には何も言わずに、すぐに出発したのでした。これが後のジンギスカンの片腕になったボオルチュとの出会いです。

このあたり行動になると、遊牧民はわれわれとかなり違った思考体系を持っているとしか思えません。    

 

さて、日が暮れた頃「金鉱につき関係者以外立入禁止」と札の立ったところに立ち入り、燃料を買って補給しました。

そのうちに道をはずれて無茶苦茶走ったと思うと、急に止まって、今日はここで寝るのだということでした。

もう、21時でした。

アット言う間に、夕食が出来ました。

同行しているコックの小母さんはホテルの調理人とかで、手際も良いし、日本人向きに毎食サラダをつけてくれたり、それにちょっと美人でもありました。名前に0がついたかどうかは、確かめませんでしたが。

この夜は、時間も時間でしたし、風が強く、定番の酒盛りはなしで、すぐ寝てしまいました。

夜中、テントに雨が当たっている音がしていました。

翌朝、最初にテントを出た誰かが「わっー」と叫びました。次ぎに出た人も「わっー」

と声を挙げました。私も出た途端思わず同じ声を挙げました。

7時半でした。ちょうど太陽がのぞいたのです。広い広い平らな平らな草原が、赤い朝日に照らされて赤一色の世界になっていたのです。

自分の蔭が細長く、足下から何キロも先の丘までずっと伸びているのです。

 

この日も、草原を走りに走り、少数民族ブリヤート族の部落で燃料や食糧を買い足したりして、13時頃やっとオノン川に着きました。

 

オノン川はアムール川の上流です。アムール川は黒竜江ともいわれ、旧満州国とソ連との国境になっていました。総延長4440キロともいわれます。私たちが釣りをした、ウランバートルの東北400キロほどの源流部でも、日本でいえば千曲川が新潟県に入って信濃川と名前を変えるあたりほどの水量があると見受けました。

魚影が濃いうえに、体長1,5メートルにも達するイトウという鮭科の大魚も釣れることがあるのだそうで、0隊長によれば「世界の渓流釣りをやる人なら、一生に一度は行ってみたいと念じている」川なのだそうであります。

 

0隊長はルアーの第一投から、ものの5分もしないうちに、70センチほどの鱒を掛けました。

そうしてその獲物を、0女史に引き揚げさせるサービスまでする余裕振りです。

 

私といえば、今度ここへくるというので始めて長靴を買ったぐらいで、魚釣りにはずぶの素人ですから、猫に小判、豚に真珠と並んで「0爺いにオノン川」といったところでありました。

教えていただいたとおり、上流に向かってルアー(擬餌針)を飛ばします。流れの中のルアーとそれを追いかけている魚とを想像しながら竿とリールを操るのです。

こんなように理屈があったり、段々上手になるようなことは好きな性分であります。

半日の間に、60センチほどの鱒を3尾揚げましたから、真剣に楽しんだといえましょう。

 

0隊長はイトウの大物を釣るつもりで、外国に注文して手に入れた特別のルアーを持ってきておられました。

そのルアーは、体長20センチほどの魚が野ネズミの毛皮を背負っていて、針だって大変に大きなものでした。

ちょっと時間が足らなくて、そのルアーには十分な活躍の時間がありませんでした。

やっぱり1週間とか時間をかけ、地形もよく呑み込んでおかないと、暗い中で行動するのは冒険だと思います。

釣れた魚たちの中にイトウの子供が混じっているといって、0隊長が魚の口を閉じて見せて下さいました。口の底の部分が蛙のように平ぺったいのが、それだということでした。

獲物は焼いて食べましたが、多すぎて、粗末な食べ方になってしまい、心が痛みました。

釣ること自体は、たしかに面白いのですが、今度からは、みんな針からはずして逃がしてやろうと思いながら食べていました。

 

0隊長は後日、街へ帰る日の朝も時間を惜しんで、ケルレン川で釣りをされ、一匹揚げられました。そこは川底に藻があるところでしたから、モンゴル人が「あんな釣りにくいところでよく釣ったな」と感心していました。ご本人は「オレはやっぱりモンゴル人だからな」とお得意でした。

 

そうそう、0隊長は「オノン川は、渓流釣りをする人なら、一生に一度は訪ねたいと思っている川だ」に続けて「一度オノン川で釣りをしたら、そのあと10年間はホラを吹いていられる」とも言われました。

自分に当てはめて、10年後に81才の爺いがホラを吹いている情景を想像するとまったくゾッとしないのであります。まあ、その間には話を、現実に釣った数十センチの鱒から、1メートルを越すイトウにまで成長させようとは企んではいるのですが。

 

大陸の奧の大河に水豊か   

 

・草原の旅

モンゴルを旅すると、平生は意識に登らなかった道というものについて、改めて感ずることが多いのです。

そういうわけで前回訪問したときも、道について、紀行文の中でゴタゴタとご託を並べ立てしまいました。

そのことを、多少は恥ずかしく思いながらも、また今度も書かせていただこうという魂胆なのです。

 

都会は別として、モンゴルで道路といえば、ほとんどの場合、大草原の中を人間が勝手気ままに走った痕といった程度のものであります。

今回の旅でも、地方の地道をさんざん走り回った末、5日目に舗装道路に戻ってきたときには、まるで夜が明けたような気分がして感激したのでした。

 

さすがに大型車が頻繁に通る国道級のルートだけは、はっきりわだちができています。

ただし、それだけに深く抉られたりして荒れていますから、前車のわだちを避けて通っている車も多いのです。その幅は錦通りと桜通ぐらいの間隔が開いていることはよくあります。でも、視界を遮る障害物などない大草原ですから、大局的には間違えてとんでもない方向に行ってしまうことはありません。

 

問題はそれ以外のローカルな道です。心細くなるような幽かな踏み跡になることもありますし、右せんか左せんかと迷うような分岐が、結構沢山あるのです。

モンゴルの人たちは、みんな大変に目が良いそうです。また、ドライな気候ですから、霧で方向が分からなくなることも、あまりないのでしょう。そして、われわれには同じように見えるなだらかな山でも、彼らは微妙な特徴を、いつも選別し記憶するのに馴れているのでしょう。なによりも最後の手段として、モンゴルの人たちはモンゴル語が話せるのですから、ゲルに行って聞けばよいのです。

そういう条件のもとでしたら、まず大体の方角を決めて、あとは歩き良さそうなところを歩いてゆく方法が素直だと思えるのです。

そんなルート・ファインディング方式のまま時が移り、馬が車に変わったと考えればよろしいでしょう。

こういうわけで、基本的に、道標によって旅しようという発想がないのです。だから道標はまず皆無であります。

たまたま、日本の若い人がバイクで旅しても、目的地に着くのは至難の業だといわれています。

 

今度の旅でも、結構、道が分からなくなって、運転手さんがゲル(移動住宅)に聞きに行きました。土地の人は「あの山の麓に道があるよ」といった感じで教えてくれるようでした。そうなれば草原を、「あの山」目指して闇雲に走れば、やがて道に出くわすのです。

 

また、山に登っていて気がついたのですが、なだらかな山では、どんな歩き方だって可能だということが、日本人には、なかなか心底からは納得しきれないのではないかと思いました。

日本では山岳地形が急峻なので、たいていの場合、登山ルートは谷の道か、尾根の道を撰んではつけられています。その途中で、やむを得ないときにだけ、急斜面をジグザグで登るパターンをとっているといえましょう。

モンゴルのように、何億年か昔から地殻変動がなくて、風化によって削り尽くされた平らな平原でしたら、出発点と目的地を直線でつないだルートを行くのが合理的なのです。

(もっとも特別の場所では、比較的若い地殻変動によってできたと思われる、日本にもあるような鋭い崖も目にしました。後日、博物館で、この国でも地震が皆無ではないことを知り、我が意を得た気持ちになりました)。

 

今度の旅では、2台の車を連ねて走り回りました。

なんども、1台がぬかるみにはまり込み、残った車からワイヤを出して結んでは引き出したのでした。

帰ってきてから、その話をしていましたら、心配性の人が、2台ともぬかるみにはまったらどうするのだと心配してくれました。

たしかに2台とも動けなくなってしまって、救援を乞いに人が住んでいるところまで行こうとすると、とてつもない距離があります。そんなときは仕方がありませんから、丘に上がって焚き火をし、のろしを上げたものでしょうか。そうすると、遠くの羊飼いが見付けて、馬で駆けつけてくれるなどということになるのでしょうか。私たちも、もしもそんな経験したら、また紀行文の話の種がふえたのにと、くやまれます。

いずれにせよ、車に食糧は沢山積んでいるし、テントはあるし、命の心配はないのですから。

 

われわれグループが使った車の一台はロシア製、もう一台は日本製のワンボックスカーでした。

日本では、一般的に、ロシアの工業製品は、粗悪な、時代遅れの製品だと思われているのではないでしょうか。なにせ、1世紀近くお客さんの厳しい選択を受けていなかったのですから。

でも、私は前回の訪問で、物凄い軍用トラックが、悪路をものともせずに走り回るのを見て、その恐ろしいまでの威力を肝に銘じていたのです。

こんどの、ロシア製のワンボックスカーだって、車内暖房のファンはこれ、それから暖気を送るパイプはこれと、見えやすく、じつに機能的に造ってあるのを、感心して見ていたのです。

自由競争社会のユーザーたちは、自分の気に入らないと、自動車製造会社をいとも簡単に潰してしまいます。それで各メーカーとも、格好良く、人間に優しいなどと甘い言葉で宣伝し、機構を隠し隠して、メカというよりは床の間の置物のような小綺麗な車にしてしまっています。

いざ故障して直す段になると、ロシア製なら、仮に溶接するとか、テープを巻くとかで、なんとか人里までたどり着けるのに、格好良い車は、ねじが一本抜けただけで、お手上げになりそうです。

つまり、私はロシア製の機械の頑丈さに、少々畏敬を感じているのです。

しかし、こんどの悪路を走り回って、日本製の車も強いなと感心したのでした。モンゴルの人たちの評判も良いということは、今度乗った特定の車だけの強さではなく、日本車一般について優秀であると認められていることを感じたのです。

しかも、これは日本で十分働いたあとに、中古車としてこの地に再登場し、荒れ野で大活躍しているのです。

同じ生産ラインで生まれ、日本だけで生を終わった兄弟たちは、その持つ能力のほんの一部しか発揮する機会を持たなかったのだと、運命というものを感じさせられました。

車は三菱のデリカという名前のワンボックスカーでした。

 

・モンゴルの枯野黄色の帯締めて 

 

 

・グローバル・トラスト運動

オノン川から帰路についた日のことです。3時間ほど走ると、遠くの丘に縞模様が見えてきました。最初は八ヶ岳の縞枯山を連想して「あれは自然のものですか、それとも人工のものですか」と尋ねたほどでした。

近づくにつれて、その黒い縞は耕したところであることが分かりました。

全面に渡って耕すと、風で土が飛ばされてしまうので、100m幅ぐらい交互に草原を、元のまま残してあるのでした。

いずれにせよ、日本では想像のつかない、規模の大きさでした。

小麦畑にするのだそうです。

井上靖の蒼き狼には、13世紀のモンゴル高原の人口は200万人とありました。

(ほかには、50万人と推定した資料もありましたが)。今でも、人口は250万人であります。草原のまま、牧畜を続けていては、その土地の生産性では、それだけの人口しか養えないのでしょう。

草原を耕し、畑にするために土地を追われた遊牧民たちは、都会の近くにゲル(放牧用移動住宅)を移し、牧草を草原からトラックで運んでもらって、牧畜を続けるのだそうです。

なるほど、ここでも北海道の牧草地のように、牧草を大型機械で刈り取って丸めたようなブロックが点々と目につきました。

モンゴルの人々だって、冷害の悲惨さから逃れたいのでしょう。また、子供たちに、今までよりも十分な教育を受けさせたいのでしょう。快適な住居にも住みたいのでしょう。

そのために、より、生産性の高い畑作に手が着けられ始めているのです。

こういう向上思考体系をとる人たちの住むところですから、近くの村には銀色のタンクや、傾斜したコンベヤー、そして煙突が目につきました。

 

牧畜による自然破壊を第一次破壊と呼べば、農耕と呼ぶ第二ステップの自然破壊が、今まさに始まりかけているのです。

知床のナショナル・トラスト運動などの延長として、グローバル・トラスト運動など始めて、いまのうちに自然破壊の芽をつみ取るべき刻ではないでしょうか。

現状の生産手段レベルのまま凍結する見返りとして、モンゴルの人たちにも、日本人がしているのと同じ生活ができるように、募金運動を始めてはどうでしょう。エルメスのバッグや、ローレックスの時計のように、実用品より遙かに高価なブランド品を持てるまでにです。

でも、問題が起こることは予想されます。この土地利用計画を進めているのは、モンゴル政府のようです。もともと、この国では土地は全部、国有なのです。そして、より決定的なことに、住民たちは、自分のゲルの周りに人工衛星から受信するアンテナを置いたりしている、ものごとを自分の責任で判断するまともな人たちなのですから。

 

・大草原吹き抜く風の広さかな 

 

・チンギス・ハーン

アジアの生んだ一代の英雄チンギス・ハーンは、日本ではジンギスカンと言った方が、とおりがよいかもしれません。

モンゴルの焼酎アルヒの代表銘柄は、チンギス・ハーン印であります。お土産店にゆけば、何もかにもチンギス・ハーン印であります。

今回はまだ見掛けませんでしたが、もうちょっと日本からの観光客が増えれば、ウランバートルのファースト・フード店で、羊肉を使った「チンギス・バーガー」などが売り出されるに違いありません。

 

今回訪れた地域は、チンギス・ハーンが生まれ、また葬られたとされる地域であります。

その土地は、オノン川、ケルレン川の源流にあたるブルカン嶽の麓ということになっています。ブルカン嶽という名の山は今はありません。このあたりの山群を総称してブルカン嶽と呼んでいたのだと解釈されています。

 

現在、チンギス・ハーンが住まいとした都の遺跡を探索するのに、考古学者たちの間で激しい競争が繰り広げられているのです。

アメリカのシカゴ大学とモンゴルの合同探検隊が、今年の夏、チンギス・ハーンの陵墓を発見したと報じました。

すぐ、続いて、日本の國學院大學とモンゴルの共同探検隊も、別の場所で移動式天幕の遺稿を発見したと発表しました。そして、シカゴ大学があげている地点は、10〜12世紀の陶器が散乱していて、時代が違うとかなり激しく、否定しています。

その場所については、わが0隊長にも一言あるようであります。

こんな情勢の中で、現地に足を踏み入れたのですから、私の胸の内には、むくむくと疑問が沸き上がってきたのでありました。

 

大きくいえば、疑問は次の2点なのです。

 

第一の疑問点は、どんな手段でチンギス・ハーンは沢山の人を統率し、広大な地域を支配したのかということであります。

それは彼の力量なのか、知恵なのか、人徳なのか、一体何だったのでしょうか。

第二の疑問点は、こんな生産性の低い土地で、経済のファンダメンタルズが低いはずなのに、なぜ世界を席巻できたのかということです。

 

3年前に訪れた地域は、首都ウランバートルから、西へ2時間も飛行機で飛んだところでした。

そこは、チンギス・ハーンにとっては、本拠ではなくて、ウイグル、カラ・キタイなど西方の国への侵略の通路でしかありませんでした。

私の関心も次の文章のようなものでした。

 

《モンゴルの現状からは、夢幻としか思われませんが、13世紀に、ジンギスカンがアジア大陸を席巻したのは事実であります。

この広大な、人跡希な高原を旅しながら、しきりとジンギスカンの世界制覇の野望のことを思っていました。

西はヨーロッパ、東は朝鮮半島まで、馬で遠征するのには、途方もない月日がかかったに違いありません。また、戦士たちの命を支える米も野菜も出来るような風土ばかりではありません。

当然、資材も労力も現地調達より外に手段があったとは思えません。そして、その侵攻スピードの速さは、地方、地方の人々が形勢を見て、強いほうに付いて、一緒になって弱いほうを攻める、ドミノ現象で達成されたのだろうと推察されます。

いったん、戦が始まってしまうと、もう、当事者にとっては、それ以外に選択肢はなかったのでしょう。

その動きの中で、今日の目で見れば、A,B,C級戦争犯罪人の山が築かれたことでしょう。

第2次大戦末期の沖縄戦に際して、攻める側のアメリカ軍が、占領地の住民用として7万人分の食料を用意したことのほうが、人間の歴史の中では特別のケースなのだと思われるのです。》

 

私自身が、71才になるまで、チンギス・ハーンにそれほどの興味を感じたことはありませんでした。

そんな私ですから、この文章を読んで下さる方たちに、チンギス・ハーンに興味を持っていただくには、どんなように書いたらよいのかと大いに悩むのです。

 

チンギス・ハーンに関する本を幾つか読んでみました。

とくに、井上靖の「蒼き狼」は、むさぼるように読みました。地下鉄の中で名古屋駅にゆくのに過ごす15分の時間にも、夢中で読み入りました。

こんなに無我夢中に本を読んだのは、小学生の頃に「ノラクロ」を読んでいた時以来のような気がします。

チンギス・ハーンが生きていた西暦1200年頃、モンゴルには文字はなかったようです。

元寇で日本に攻めてきたクビライは、チンギス・ハーンの孫です。これから見れば、モンゴルは、中国はおろか日本と較べても、文字の点では大変遅れていたのです。

「元朝秘史」という本があります。チンギス・ハーンが外国へ侵略を始め、外国の歴史書に記録される前のことは、この本にしか記録がないとのことです。

この本は、最初はモンゴルの話し言葉をウルグイ文字で書き、それを明の時代に漢字に書き改め、その際、音標文字として蒙古語の音のまま記した、日本の古事記のようなものだそうなのであります。

 

チンギス・ハーンが率いる蒙古軍が通った跡には、草も生えないといわれるほど、殺戮と略奪が徹底的であったと伝えられます。

「蒼き狼」の本から、幾つか引用させていただきます。

「メルキト部衆の大虐殺が行われた。男という男は、それが老人であれ、幼児であれ、悉くが殺される運命を持った。毎日のように川原の刑場へ運ばれるメルキト人たちの列が草原の中を通った。そして女という女は、平地に集められ、家財道具はこれまた一品も残らずやはり同じ地域に山と積まれた。羊や馬も一カ所に集められた」「酒宴は夜まで続いた。楽器は鳴らされ、人々は唄い、夫や父や兄弟をみな殺しにされたメルキトの若い女たちは征服者たちの前で踊った」「タタルを屠ったら男は尽く殺さねばならぬ。女と羊と財宝は正確に二つに分けねばならぬ」「女子供や羊や馬の群は長い隊列の最後尾に配された。隊列の後尾に続く女たちの慟哭が、夜となく昼となく聞こえた。彼等は自分たちの上を見舞った非運をなかなか諦めようとしなかった」。

いたるところで、こんなことが繰り返されたのでした。

 

チンギス・ハーンの基本方針は、トルーマン大統領が広島、長崎で行ったことと同じで、ひとつの都市で凄まじいまでに残虐な破壊を行えば、次の都市では無抵抗で降伏しやすくなるし、モンゴル軍にも不必要な損害を出さなくてすんだのだと、ロンドン大学教授モーガン氏が述べておられます。

もっともモンゴルの場合は、服従したとしても、そのときだけは殺されませんが、やがて兵士として戦の最前線に使われたり、労務者として酷使される運命だったのです。

元寇・弘安の役のときに日本侵略に押し寄せてきて、台風で海底の藻屑と消えたモンゴル軍も、実質は中国の宋の兵士たちが10万人、韓国勢が4万人だったといわれます。

 

服従を迫るモンゴルの使者を切り捨てた日本は、まともにゆけば蒙古側では、皆殺しのランクに入っていたはずです。まさに、九州壊滅を防いでくれた玄界灘、様々であります。

インドも、いったんは攻められながら、作戦放棄に救われました。こちらは、ヒマラヤ、様々だったようです。

 

紙の上だけで中国の歴史を習った記憶では、人口が多く、文化も進んだ南方の大国が、北方の武力にだけ優れた小さな国に征服されるというパターンが繰り返されたようでした。そのために、万里の長城が築かれたと教えられた記憶があります。

私は、実際にその土地を踏んだものとして、その北の国の土地の不毛さは想像を超えたものであると、伝えておく義務のようなものを感ずるのです。

その土地に千人の人が一週間滞在するケースを考えても、自動車で食糧を運べなければ、私には賄う自信はありません。

1人の人が数頭の駱駝に食糧など荷物をつけて運んでくるとしても、駱駝の餌にする草があるとは思えないのです。

秘法で作った仙薬を呑めば、一日一粒で生きてゆけるという話もありますが、それならば可能でありましょう。

 

さて、晩年のチンギス・ハーンは、労多くして功少ないインド侵攻を中断し、故郷へと引き返します。途中、かって徹底的に壊滅させたブハラ、サマルカンドなどの街を通過します。そこは、たった数年の間に、何事もなかったかのように繁栄を取り戻しています。街を支配するために、部下である少数のモンゴル兵が駐屯しているのですが、彼等には同朋を迎えるという悦びの表情は見られないのです。

井上靖はこう書きます。

「ジンギスカンはあの大虐殺をもってしても、何ものをも変わらせることができなかったことを知らないわけには行かなかった。徒に夥しい数の人間を殺し、城塞をこぼち、不幸と悲嘆をばら撒いただけであった」。

 

彼はまた、チンギス・ハーンの征服欲の原動力を、こう説きます。

当時の美しい女のたどる運命として、自分の母があちこちの部族に奪われていたため、チンギス・ハーンは自分が誰の子であるか自信がありません。

それで「上天より命ありて生まれたる蒼き狼(あおきおおかみ)ありき。その妻なる惨白き牝鹿(なまじろきめじか)ありき。大いなる湖を渡りて来ぬ。オノン河の源なるブルカン嶽に営盤して生まれたるバタチカンありき」というモンゴル族の発祥の神話の中の「蒼き狼」になることを目指し、次々に敵を作り戦いを挑んだのだというのです。

他人事ではありません。「豊葦原瑞穂の国は、これわが皇孫の・・」というような神話をわれわれも持っているのです。

地球上の、いろんな民族が、それぞれ、いろんな神話を持っていることでしょう。

今のところ、わりとまともなアメリカが、オンリー・ワンの軍事大国であるのは有り難いことだと思いませんか。

 

「部落間の小闘争に明け暮れていた貧しい遊牧民族を、蒼き狼の裔(すえ)たらしめたのはジンギスカンであり、ジンギスカンの出現によって初めて、蒙古民族は全く別の優秀な民族に生まれかわったのであった」。

井上靖は、このように書いています。

また、ナポレオンは「余の人生はジンギスカンほど偉大であったとは言えない」と語ったといいます。

 

私はモンゴルを二度訪れ、この国を自分の目で見て、チンギス・ハーンがしたことで、今、何が残っているのかと問わずにはいられませんでした。

略奪した山のような財宝は、なにも残っていません。

先進国であった金国から農業技術者を捕らえてきて習ったと書かれている農業技術でさえ、ほとんど消え去っていたのです。

800年経った今に、モンゴルという国名があるのが唯一の結果ではないかと思うぐらいです。彼がいなかったら、メルキトとかタタルという国名だったかも知れません。

でも、それがどうだというのでしょうか。

人類全体を見たときに、チンギス・ハーンでも、ナポレオンでも、豊臣秀吉でも、ヒットラーでも、世間で偉大な指導者、英雄といわれる人が、いてもいなくても、また、なにかしてもなにかしなくても、月日が経てば、結局、なにも変わっていないと思うのです。

そして、そのときの個人レベルでは、死んでしまう男たちはともかく、残された女や子供たちに胸の張り裂けるような、いつまでも癒されることのない悲しみを与えたのです。

個人にとっては、ささやかで平安な一生を終わることが、終局の幸福ではないでしょうか。それは物質の問題ではなくて、あくまで自分自身の心の問題であります。

しかし、現世で力を預かったものは、ひとりでも多くの人が、幸福な人生を送ることができるようにするべきでありましょう。

 

富みに恵まれ、文化に優れ、大軍団を持った大国が、武力と残虐な心を持つだけの貧しい小国に次々と敗れていった現実は、敗れた側に問題があったのではないでしょうか。

平和とか愛といった崇高な理念を、ただ空虚に唱えるだけで、それを堅持する手だてを講ずることなく、現実には、権力欲に駆られお互いの足の引っ張り合いばかりをしていたり、儲かるか儲からないかだけを最終目的に置くことを恥としなかったり、自分のことだけしか考えず他人を思いやることをしない、そういった素地のもとでは、社会はあっけなくひびが入って崩れるのでしょう。

 

いま海岸で波を見ています。

冬の冷たい西風に押されて、次々と波が押し寄せてきます。

波はゆるやかな砂の傾斜を、駆け登っては引き返して行きます。

先程、沖を通過した巨大なフェリーが作った波でしょうか。

大きな波が連続して押し寄せてきました。

その中に波頭が白く砕けるほど大きな波があります。

その波は砂浜の奥深く、どこまで駆け上がるのでしょうか。

おっと、意外にも早く勢いを削がれ、消えて行ってしまいました。

それは、自分の一つ前の波も大きかったからでしょう。

前の波が引き返すときの勢いに、力を削がれてしまったのでしよう。

 

チンギス・ハーンの運命の星は、ちょうど波が砂浜の奥深くまで駆け上がる、そんな時代に光っていたのではないのでしょうか。

 

・秋の水モンゴルの雲浮かべをり  

 

 

 

 

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