題名:大姑娘山

(2004/7/21〜30)

重遠の入り口に戻る

日付:2004/9/12


「四姑娘山トレッキングと大姑娘山登頂10日間」というツアーで、中国に行ってきました。

◆漢字の國
中国はほぼ2000年前から、文字を始めとしていろいろ貴重な文化を伝えてくれた、わが国にとって特別な関係にある國です。
旅行中、中国語と英語とで併記された説明の看板を何回か見ました。
さっと見た印象では、まず中国語のほうに目がゆき、大体の意味が分かることが多かったのです。でも、やっぱりツメになると英語のほうが頼りになりました。
国際交流が盛んになった現代は、エスペラントが期待された明治・大正時代よりも、さらに世界共通語が重要な世の中になりつつあることを痛感するのです。
3年前、パプア・ニューギニアを旅行したとき、将来は、どこの國どの民族も、みんな自前の言葉のほかに英語も話すようになるのではないかと思ったことがありました。そのときの文章をもう一度引用させていただきます。

「19世紀末、ヨーロッパ諸国による本格的な支配の手が入ってきた頃、パプア・ニューギニアの社会は、まだ原始の姿をとどめていました。
あちこちの狭い地域に、自分たちだけの言語を持った少人数の民族が、周りとの関わりなく、バラバラと暮らしていたのでした。
ニューギニアにあった言葉の種類の数の多さについては、500とか800とか諸説あります。
そんな雑多な人たちが、一つの國として纏まるためには、共通語が必要です。ここパプア・ニューギニアの場合は、英語が選ばれたのはひとつの成り行きでありました。
その目的が、英国人と正式に話すことよりも、まず何より、お互い同士、できるだけ多くの人が意志を伝え合うことなのですから,簡単、容易であるに越したことはありません。
そんなようにして使われた言葉は、本当の英語ではなく、地方化された英語で、ピジン・イングリッシュというのだそうです。
ちょっと古い辞書で引いてみると、ピジン・イングリッシュとは「中国人が使う商用英語」とあり、ピジンとはビジネスの訛りとされています。
もっとも、ピジン・イングリッシュというものは、なにも中国やニューギニアだけではなく、世界各地にあるようです。」

さて、わたしが断定的に世界共通語として英語をあげたのは、現在地球上で経済力、軍事力で圧倒的な強さを持っているのはアメリカであり、またインターネットが事実上英語で成り立っていることが念頭にあったからです。
しかしその後、イラクを取り巻く国際論争を見ていて、わたしは自分の思い込みを反省させられました。
やはり国際共通語として何語を採用するかというようなことは、国際会議の場で決めてゆくべきなのでしょう。

中国が最大の人口を擁することを根拠に中国語をあげるかもしれません。
シラク大統領は、かってナポレオンも使い、国際会議の場で共通語であったフランス語の復権を主張するかもしれません。そして英語たたきにはイーバー・アルレス(世界に冠たる)の立場からドイツが協調することもあり得ましょう。
また、世界で一番使う国が多いことを理由に、スペインがメキシコやアルゼンチンなどと語らってスペイン語を押すケースも出てくるでしょう。そうなれば、15世紀末、地球の領有をスペインと折半するお墨付きをローマ法王から貰ったポルトガルだって黙っていられないでしょう。
このほか、人類が作った中でもっとも合理的な文字であることを誇りとするハングルの人たちもハッスルするかもしれません。
ロシアだって、地球儀の一番上にあるから一番であるべきだと主張するのではないかと取り越し苦労するのです。
でも結論的には、ホモサピエンス発祥の地であるアフリカが、現に国籍を越えた共通語として使っているスワヒリ語を元祖世界共通語として推奨してくれば、拒否するのは難しいのではないでしょうか。
 
日本は敗戦国であることを自覚していますから、柔道の「イッポン」や夜のお楽しみの「カラオケ」、ショッピングおばさんたちの「タカイ、タカイ」「ゼンブデ、センエン」などを、個々の分野で登録してもらうよう、ボソボソと口にするぐらいで満足すればよいのではないでしょうか。

さて、紀行文?にこんな脱線が許されるものでしょうか。
またもや、深く反省です。
でも、よろしければ、もう5〜6行読んでみて下さいませんか。


◆花の楽園
山へ登る楽しみのひとつは、お花畑に出会うことです。
下界で日頃目に触れている雑草たちとの生存競争に敗れ、高い山の厳しい環境の中でかろうじて生き延びている高山植物たちが、比較的傾斜の緩い水分の多い場所でお花畑を作っているのです。 
高山植物は図鑑によれば、チングルマやシナノキンバイ、ハクサンコザクラなど大変沢山の種類があります。彼らは高山の短い夏の間に、開花、結実をすませようと、いっせいに咲き乱れるのです。

こんど訪ねたチベット高原の東の端、大姑娘山(タークーニャンシャン)山麓は、じつに花の豊富な地域でした。7月下旬という時期もよかったのですが、なんといってもこの地域は降水量と湿度が花の生育に大変適しているのだと思います。
北半球、しかも距離的にも近いので、日本のものとかなり近縁の植物があります。
森林限界は約3800mで、北アルプスの2500mより1300mほど高いのです。今回歩いた3000m〜5000mの地域の温度は、長野県あたりの1700m〜3700mに相当すると考えてよいでしょう。もちろん気圧は低いのですが、植物に気圧は影響するものでしょうか。高所に住む牛に似た動物であるヤクは、空気が濃い都会の動物園では低山病になってしまい飼育できないと聞きますが。

ツアーリーダーは、世界を股にかけた人です。いきおい植物の名を解説するにも、サクラソウの類です、リンドウの類です、という言い方になります。
そういえば、今回のメンバーたちは、もう世界中あちこちを訪ねた経験豊富なかたたちがほとんどだったのです。そのために、リーダーの「ナニナニの類」という解説が、スッと受け入れられていました。
わたしも昔は、ハルノタムラソウ、ナツノタムラソウ、アキノタムラソウなどと、雄しべや花弁の長さの細かい違いを一生懸命覚えていた時期がありました。でも、外国旅行が増えてからは、その植物が暮らしている場所の、温度、水分、日照、地質などの環境との関連で、「ナニナニの類」という捉え方の方が気に入っているのです。
世界を相手にしたとき、小さな違いに着目して種類を数え上げてみても、あまりに専門的に過ぎ、わたしの粗末な脳味噌に入り切れるとは思えないからです。
今回訪ねた大姑娘山には、赤、青、黄などいろいろの色と大きさの、シオガマの類、サクラソウの類、そして稀少品種のポピーの類などが多く見られました。
その反面、北半球のあちこちで一般的に見られる、ヤナギラン、マツムシソウ、オオバコは目につきませんでした。世界中、ここだけにパンダが棲息していることなど、環境条件になにか特殊なところがあるのかもしれません。

そしてなによりも、それらの花の咲いている広がりが、今までに世界のほかの場所で見たお花畑と比べて桁違いに大規模だったのです。感覚的には、お花畑と書くよりも、俳句の季語にある花野を使い、「豪華な花野」と呼ぶのが一番しっくりくるように思われました。
こんなところへ連れてきたら、どんな人でもきっと喜ぶに違いない、何度そう思ったことだったでしょう。

臨死体験を読んだことがあります。いったん死んだ人が生き返って、死んでいたあいだ、どんな様子だったかと体験を語るのです。
何とも言えない明るい光に満たされた花園にいたら、突然自分の名を呼ばれた。そして、はっと気づいたら自分はベッドに横たわり、家族が覗き込んでいた、そんな臨死体験が、いくつか述べられていたような記憶があります。
そんなことが、もしもわたしに起ったとしたら、今回の旅行を経験する前なら「いままで見たこともないような花園に・・・」と説明したでしょうが、いまとなっては「大姑娘山の麓のような花野に・・・」と報告するだろうと思ったことでした。そんな素晴らしい花また花の世界でした。

・眼裏にお花畑が面影が

◆旅の概要
そんなに大姑娘山の花野にのぼせ上がっているお前は、いったいどんな旅行をしてきたのかと思われるでしょう。

順次、ご説明します。
10日間でした。男女各1名のツア・リーダーを含め、男7人、女13人、北海道旭川市から福岡県福岡市まで、日本各地から集まったメンバーでした。

名古屋空港からは豊橋からの女性3名とわたしの4名が、西へ向かって飛び立ちました。約2時間で上海です。ここで福岡、広島勢3名と合流しました。
さらに西へ2時間半飛び、成都につきます。あと西北の山地へ、バスで丸1日入ります。ここが日隆(リーロン)、登山基地になります。
そこからは人間の足で歩くのですから、距離は知れたものです。
名古屋から直線距離で約3000km、九州の南端を真西へ、ベトナムの北あたりまで行ったところです。

約2億年前から始まった大陸移動で、ユーラシア大陸にインド亜大陸がぶつかってきたとき、前面で押し上げられたのが東西に伸びているヒマラヤ、カラコルムそしてチベット高原なのです。その衝突のとき右側にできたシワが横断山脈で、これのシワは南北方向に並んでいます。私たちが登った大姑娘山(5025m)はこの横断山脈の東の端に位置しています。大姑娘とは長女のこと、奥に向かって二姑娘山、三姑娘山と高度を上げ、最後に雪をいただき鋭く尖った末娘にあたる四姑娘山(スークーニャンシャン6250m)へと連なっています。

東シナ海のブルーが揚子江の水で黄色く染まったと見てから約20分、暑い名古屋から、暑い上海へ着陸しました。気温は37℃とのことでした。
上海から成都までは始めての飛行経験なので、窓際の席に座らせてもらいました。
どんよりと濁った空気を通して、真下だけがぼんやり見えていました。
緑の平原に大きな河が蛇行し、ときどき大きな湖が見えました。河の合流点にちょっとした都会が見えました。子供の頃耳にした武漢三鎮でもあろうかと想像しました。やがて山地に差しかかりました。ずっと緑の濃い山が見えていて、再び平地が現われました。九州と似た広さの四川盆地に入ったのです。こんなに長い時間、緑の大地の上を飛んだのは、チューリッヒからの帰路ヨーロッパの上を飛んで以来、久しぶりのことでした。こんな緑いっぱいの豊かな土地に住んでいる人にならば、九州長崎に入港したとき「耕して山頂に至る。もってその貧を知るべし」と憐れまれても仕方ないと納得しました。
この頃から下界はすっかり雲に覆われ、ところどころに雲の峰がニョキニョキと立ち上がり、搭乗機はそれを避けながら飛び、しかもときどき乱気流で揺れて、まるで自分が操縦しているような気分になるひとときでした。

・雲の峰汝はエベレストモンブラン

着陸した成都は小雨でした。
東南アジアで北へ吹き上がった湿った空気が、ここで偏西風に乗り、日本に流れてきては梅雨の季節をつくる、いわば梅雨の製造元のような地域なのです。
東京から来るメンバーたちは、朝9時30分に発ち、15時過ぎに着く予定でした。ところが前夜成都からの便が悪天候のために飛び立てず大いに遅れ、深夜にやっと着いたのでした。私たちは成都の街を細切れの時間で通過しただけなのですが、4日のうち雨粒が落ちなかったのは1日だけでした。
海から遠い内陸なのですから、いわゆる大陸性気候で寒暖の差が大きかろうと思うと、さにあらず、月別平年気温が1月5.5度、7月25.2度で、名古屋の1月3.7度、8月27.1度とくらべ、冬温かく夏涼しいのです。
「蜀犬、日に吠ゆ」という諺があるそうです。ここ蜀の國の犬は、太陽が出ると珍しがって吠えるほど天気が悪いところとされています。でも、理科年表で見ると年降水量が929ミリとありますから、名古屋より40パーセントも少ないのです。どんよりした日が多いのかもしれません。
西にチベットやヒマラヤの高山を屏風のように巡らしている条件は、日本の静岡の気候と、どこか似ているのかもしれません。
いずれにせよ、世界にはまだまだわたしの知らない土地がいっぱいあるものだと、あらためて胸を膨らませたのです。

ここ成都市は、かっては三国志に魏の國、呉の國などとともに登場した蜀の國の都でした。劉備玄徳や諸葛孔明などが活躍したのです。いまでも、四川省の省都で、北京大学、上海大学に次ぐ四川大学があり、小平はここの卒業生だそうです。人口約300万人、中心街、団地、工場などは、自転車の多さを除けば日本とほぼ同様のただずまいでした。
「いま通っているのは人民西路です。毛沢東時代に何もかにも人民という名がつけられました。あの頃はあれもこれも不足ばかり、ひどい時代でした」と、ガイドさんにボロクソにいわれていました。ここ成都の都心を流れている川の両岸も普段はライトアップされているのだそうですが、私たちが着いた夜は、電力不足で消されていました。

◆パンダ
まだ、旅の行程の説明のつづきです。
バスで成都から西に向かいます。1時間ちょっとで都江堰(トコウエン)市という街に着きます。前3世紀、秦の始皇帝よりもっと古い時代に建設された堰が現存・機能しており、世界遺産に指定されています。
水を治める、つまり洪水を防ぎ灌漑を行うことが政治の要諦であったことを痛感させられます。いまの日本のようにダム建設に楯突くことが褒めそやされる風潮は、経済が停滞しているから水が要らないのか、水の不足が経済回復の足かせになるのか、ともかく社会の衰退と表裏をなすといえましょう。
ここからいよいよ谷間に入ってゆきます。ここを流れる岷河(ミンコウ)には、重慶近くで建設中の三峡ダムに次ぐ、中国第2の大きさのダムが着工待ちで、付け替え道路の工事が山の中腹でもう始まっていました。
昔は山で切り出した材木を筏に組んで流し、このあたりで陸揚げしたとのことで、河の中に筏を拾い上げるためのピアーが残っています。道路ができてからはトラック輸送に代わり、現在では自然保護のために樹木の伐採そのものが禁止されているとのことでした。
また、やや急になった流れの横に遊水池状の池をいくつか設け、川砂を沈殿させて採収しているのも珍しいと思いました。
このあたりはキャベツの特産地だそうで、荷台の上にキャベツを高々と芸術的とも見えるほど積み上げたトラックとすれ違うようになりました。「キャベツ、買うことありません。待ってれば、ひとつやふたつ落ちてる」そうです。
畑にササが植えてあると見るうちに、大熊猫苑につきました。標高1800mでした。
大熊猫というのは、ジャイアント・パンダのことです。現在、28頭がここに入所しているとのことでした。
ここ、パンダの生息地は、砂岩、泥岩が深く削られた急峻な地形です。わたしは長年、電気事業に従事していましたので、ここが天気が悪い地域で河の水量が物凄いことに気がつきました。大昔、大陸の衝突で盛り上がった地面を、この急流が削り込んだ地形なのでしょう。沢山の水力発電所が連続して造られていました。
なんでも中国にいるパンダ8000頭のうち80パーセントがこの付近に棲息しているとか書かれた資料もありました。しかし、ほかの情報では1000頭以下、1100頭、1600頭などいろいろの数字があるようです。
パンダは犬とは仲が悪いが、豚とはウマが合うとか、ササを1日に20kg食うとか、耳学問をを仕入れましたが、どれもこれも真偽のほどには自信がありません。
ともかく、わたし自身が見た、パンダの赤ちゃんたちがじゃれ合っている様子はとても可愛くて、みんなの人気の的でした。お互いにふざけているうちに、抱き合ったまま横木から落っこちたり、柱に登る途中でズルッと滑ったり、ともかく可愛いのです。大勢の中国と日本のお客さんたちがそれぞれ母国語で声援を送り、時が過ぎるのをすっかり忘れさせられました。
パンダがバリバリとササを齧っている檻の壁に、そのパンダに研究資金を提供しサポートしているスポンサーの名前を書いたプレートが貼付けてありました。中国、アメリカ、日本からのものがほとんどでした。
ここではまた、パンダの赤ちゃんを30秒ほど抱かせてくれます。料金は1回3000円。過去のレポートによっては1500円だったというのもありましたから、すごい売手市場なのでしょう。

◆チベット
旅の3日目、最初の高度順化のため標高3800mまでのハイキングがありました。その途中、チベット人の家を訪問しました。石を積んで作った部屋の真ん中で、ストーブが結構くすぶっていて、壁の上部に吊るされた家畜の脚などが、自然に燻製になっていました。
その部屋で、ヤクの乳を飲んだり、焼きたてのパンを頂戴したりしました。

この日案内してくれたローカルガイドさんは、中国人のメジャーである漢民族ではなくて、回族だといっていました。
山道の何もないところで、急にバスが止まりました。ガイドさんが下りていって、両掌に小鳥を包んで帰ってきました。その事情についてツアーリーダーから解説がありました。「チベット仏教では輪廻転生が説かれています。それで、道路に落ちていた小鳥を、ひょっとしたら亡くなったお爺さんの生まれ替わりかもしれないと考えた」のだそうです。
中国に住んでいる少数民族のことは、話だけは聞いていました。でも、文字どおり少数民族、日本でいえばアイヌの人たちのことのように受け取っていました。
その人たちが成都のような大都市から2時間ほどの場所から、沢山住んでいるのを見て奇妙な気がしました。名古屋を出て、中津川へ入るともう少数民族たちの土地だという感じだったのです。

チベットについて、わたしは今までほとんど無関心でした。そしてチベットと聞けば、首都ラサ、ポカラ宮殿、ダライラマのことなどをぼんやりと思い浮かべるだけだったのです。
そのほかには、岩手県北部を日本のチベット、津具村を愛知県のチベットと呼ぶように、標高4000mのチベット高原が、寒くて不毛の土地の代表みたいに扱われていることは承知していました。
成都からの距離が、上海まで1600km、ラサまで1200kmですから、ここは、かなりラサ寄りです。地形的にもチベット高原と中国の大盆地が接する場所であります。

1949年、わたしが19歳になるまでチベットという國がありました。面積は250万平方キロ、日本の6倍もあります。
いわゆる世界列強による陣取り合戦の時代には、周辺のイギリス、ロシア、中国などの勢力がチベットを狙っていました。結局、手を出したのは中国でした。それによって、あの広い中国でさえ、國の面積が30パーセントも増加したのです。
当時のチベット人口600万人のうち、250万人が虐殺されたともいわれていますが、それぞれの関係者からいろいろな情報が出されています。事実は霧の中と考えたほうが無難でしょう。
千数百年前にはチベットが中国に攻め入り、長安を陥れたこともあったと聞きますから、歴史の一齣としてとらえることも可能でしょう。
基本的に、豊かな平原の民が生活の厳しい谷へ分け入る圧力よりも、山の民が平原に出てこようとする圧力のほうが、より高いはずです。
今度訪れた地域は、人為的に決める国境線はともかくとして、住民が住み難い高地から自然に滲みだしてくる、そんな場所だったに違いありません。
何回も地球を襲った寒冷期には、平原に出たいという圧力は余計に高まったと思われます。国家という立場なればこそ、ときとして横車を押すことにもなるのでしょう。

人道問題を持ち出すのが任務である国連やアムネスティ、また、とかく人道問題を持ち出したがる国々も、この問題にはダンマリを決め込んでいます。
正常な社会活動を妨げようとするテロ行為、それを鎮圧しようとするアクション、それらの中で巻き添えになる女性や子供たちをあんなにエモーショナルに報道するマスコミも貝のように固く口を閉ざしています。
弱い者の味方を自認するわたしでも、チベットのことになると、はるかに遠い國のこととして傍観者になれるのです。傍観者としては、誰が主権者になろうがどんな政治が行われようが、関係ありません。だからチベット問題については、だれもが正義だとか宗教だとか独立だとか荒立てずに、ひたすらに沈黙を守り、一人でも犠牲者が少なくてすむように、また寺院などの文化財が破壊を免れるように、ただ祈るのが賢明だと考えます。

・外人の声を隣にテントの夜

◆体調と高山病
ここまでこんな調子で書いてきながら、わたしとしては旅行の行程を説明しているつもりなのです。でも、こんなにも脱線しながら説明していたのでは冗長に過ぎ、どんな旅程だかわからなくなりそうですね。
ここでひとまず行程をソッケなく書いてしまい、あとは脱線本位でいくことにさせてください。

7/21 名古屋ー上海ー成都
7/22 成都ーパンダ苑ー巴郎山峠ー日隆(標高3150m)
7/23 標高3800m付近で高所順応ハイキング
7/24 標高3600mのベースキャンプ入り
7/25 標高3800mまで高所順応ハイキング
7/26 標高4300mのC1キャンプ入り
7/27 大姑娘山登頂後ベースキャンプへ
7/28 日隆へ戻る
7/29 日隆ー成都(観劇)
7/30 成都ー上海ー名古屋

こんどお世話願ったアルパインツアー社は、最高宿泊高度が3800mを越える場合、事前に健康診断を求めています。
それで、近所のクリニックにゆきチェックしてもらいました。

わたしはもともと鈍足なうえ、年をとるにしたがい歩行速度、とくに上りのスピードが落ちてきているのです。
また加齢とともに、人の名前など固有名詞が出難くなっています。そのことからマイクロかミニか知りませんが脳に劣化が起っていることは見え見えでした。
そのほか、お定まりの眼も耳もロレツも相当性能が落ちています。
からだのほかの部分でも、あっちこっちくたびれているずだと思っています。

登山から引退するXデーが、そんなに遠い先とは思えません。
そして引退を決める要因が、精神的なストレスに耐えられなくなることなのか、それとも肉体的に痛い、曲がらないという類なのか、はたまた医者からの禁止のご託宣なのかなと思っているのです。
今回の健康診断がその引導を渡すきっかけになるのならば、それはそれで良かろうという気分で検査を受けたのでした。
結局のところ「高所では気をつけて下さい」というコメントがついて、参加することになりました。

旅の2日目、いよいよ山へ入りました。
朝、標高508mの成都をスタートしたバスは、パンダ苑を経由し、午後巴郎山(パーロウシャン)峠に差しかかり急に高度を上げます。14時30分、標高3200mでトイレ休憩に停車しました。道のところどころに有料トイレがあります。そしてトイレの前では、たいてい串焼き屋が営業しています。
トイレの使用料は5角、一元の半分、7円ほどですが、流通しているお金で最小のものは1元紙幣(日本円で15円ほど)です。2人で1元札を払ってすませました。ついでながら、旅行中、硬貨はいちども手にしませんでした。紙幣だけだと、案外、財布が軽くて老人には助かるものです。
さて、トイレでシャーッと出していると、体がフラフラ揺れて、立っていられないのです。空気の中の酸素の量が平地の70パーセントほどに下がっているので、体の平衡感覚のシステムに高度障害が出ているのです。とりあえず壁に手を副えて、用を足し終わりました。
この直後、リーダーは心得たもので、全員、花を見に少し歩かせました。ゆっくり歩くのに問題はありません。これでみんなの不安感をクリアーしてしまったのでした。
その後、4320mの峠ををバスで越え、3155mにある日隆のホテルに泊まったのでした。
夕食時に、全員、血液の中のヘモグロビンに含まれている酸素量を計りました。わたしは平地の場合の数値の87パーセント、数回深呼吸をすると95まで上がり、まったく問題ありませんでした。

旅の7日目、大姑娘山登頂の帰路、じぐざぐの登山道を下っていて、曲がり角で何となく視力障害を感じました。表現しにくいのですが、新しい対象物がはっきり見えてくるのに、いつもよりちょっと時間がかかるとでも表現したらよいのでしょうか。始めての人だったら、気にもしなかっただろうと思います。でも、わたしは、障害が出たのかなと思ったのでした。
さっそく、片目ずつ手のひらで隠したりして、自己診断してみましたが、過去にモンブランやアグンの山で経験したような明白な障害ではありませんでした。

高度障害は上述の2件だけでした。
障害というものは、ふだんの生活でも、急ぐと息が切れる、暑いと汗が出るとでもいったようなもので、体が新しい事態に対応しようとしている状態なので、別に異常ではないのです。

今回の行程では、3155mの日隆で1日と、3600mのベースキャンプで1日と、高所の薄い空気に体を慣らすため、ちょっと登ってまた戻ってくるハイキングの日が入っていました。そのおかげで最初から最後まで、隊員に1人の高山病も発生しませんでした。

もっとも、モーニングコールの時間を間違えたり、要らないものを間違ってリュックに詰めたりするたびに「アー、もう高山病になっちゃった!」と言い合っていました。そして、この手の高山病ならば大流行でした。
なにせ74才が1名、72才2名と中高年の「中」の字が霞んでいるパーティだったのですから無理もないことです。

・十張りほど瀬音に沈むテントの夜

◆歩きながら
わたしの山歩きもずいぶん長くなりました。
振り返ってみると、自分が山に強かったと思ったことは一度もありません。
若いころから、みんなと歩いていて、苦しい、つらいと思った記憶ばかりです。そんなときには、弱音を吐いても誰も助けてくれない、頼れるのは自分だけだ、自分がつらいときは他人もつらいいのだ、そんなことを自分に言い聞かせながら歩いていたのです。
今度も、誰か、わたしよりも弱い人がいれば、それだけ楽ができるがと、良くないことを期待していたのです。
でも、残念ながら、わたしが一番弱かったのです。
それが分かったのは、最初の高度馴化ハイキングでした。標高3400mほどの湿原で木道を歩きました。一見、平らな湿原ですが、水は流れていましたから微かに登りではあったのです。みなさんと歩いていて、わたしだけがハーハーと息を弾ませていました。
参加者は必ずしもお若い方ばかりではなかったのですが、男性も女性も、皆さんの強いことには、心から脱帽させられてしまいました。

・木道の右も左も花の夏

今回の全行程、わたしは最後尾、義務として最後尾を勤めてくれたサブリーダーの前をトボトボと歩いていたのです。

わたしには、息も弾ませずに山へ登るなんて想像もできません。
だから、目の悪い人が眼鏡をかけるのと同じことだと割り切って、体に負荷がかかる時は、もう最初から荒い息をして最大限酸素を取り込むことにしています。そして、その量に引き合うように負荷量、つまり登る速度をコントロールしているのです。
1.2.3.4と唱えながら、1.2.3は足を動かし、4では踏み出さない方法は有効です。負荷を25パーセント落とせます。さらに3.4でじっとしていれば50パーセントまで落とせるのです。
今回は、空気が平地の54パーセントしかない5025mの頂上まで、25パーセント負荷ダウンのペースで登ることができました。
当然、グループよりは遅れますが、足場の悪いところや、落石警戒のため間隔を空けるときなどに追いつけるので、総体的にはそうひどい遅れにならずにすんだと思っています。とくに頂上近くは、そんなにスピードを出すような道ではありませんでしたから、あまり遅れずに到着できました。

・3000キロ来て山頂に霧を見し

下りは酸素量の問題はまずありませんから、歩行のバランスが悪くなった今でも、ほぼ人並みの速さで歩けると思っています。

・倒れ込む山小屋西瓜馳走かな

旅行社のツアーへ参加したのは久しぶりでした。リーダーもサブリーダーも信頼のおける人でした。
わたしはそれに甘えて、何時もはリュックから離したことがないヘッドランプまでテントに残して荷を軽くしたのでした。
個人山行では日程の計画、交通手段と宿の選択、支払い、現地でのルートファインディング、臨機応変の処置などいろいろの仕事があります。
今度は、ツアーという大船に乗っているのですから、皆さんと一緒に、谷とか尾根などの地形はおろか東西南北もあまり気にしないで、ただリーダーについて歩いていました。でも心のどこかで、苦労が少ないということは、楽しみも少ないものかもしれないと感じもしていたのです。

・白々とヤクの骨散る日の盛り

リーダーのお話では、ここ3年ほど、ここにも急に観光客が押し掛けるようになったとのことでした。
中国の観光客は馬に乗り馬方に曵かせて山へ入ります。
日本でも、富士山では、馬が乗せてくれるのを見たことがあります。
もっとも観光客たちの大姑娘山遊覧は登山とは違って、日本でいえば涸沢のテント場まで馬で入って、あたりを見回し帰ってゆく旅とでもいったらよいでしょうか。

あるところで、リーダーが「中国にもわれわれのようなトレッカーが誕生したようですね」といいました。見ると、大きなリュックを背負い、マットの巻いたのをぶら下げた若い中国人が2人、高級カメラで花の写真を撮っていました。
「中国じゃ登山道具を揃えるのは大変な物いりだから、金持ちじゃなきゃできないですよ」とのことでした。
ヨーロッパでは登山電車とロープウエイが発達し、いかにも山好きの人たちの登山という感じがしました。
日本は山岳道路とロープウエイによる大量観光、大量登山という感じです。
中国はこれからどんなになってゆくのか、わたしは興味をかきたてられているのです。

タフな皆さんのお尻にくっついて、こんなことをとりとめもなく考えながらノソノソと歩いていたのです。
ロクな俳句も作れないくせに、季語だとか、無季俳句だとか理屈をこねている因業な性格丸出しです。
われながら、いやになります。

◆横入り
順番を待って一列に並んでいるときに、中国の人に「横入り」されたことが、4回ほどありました。
悪口をいう気持ちはまったくありません。しかし、いまの中国では決して特別な例ではないように思います。

こんにち、日本では「横入り」という言葉は、死語に近くなっているといえましょう。
実は、いまパソコンで「よこはいり」と打ち変換したとき、「横入り」が出るかどうか半信半疑だったぐらいです。
でも半世紀前、戦争末期や戦後の混乱期には横入り防止には命がかかっていて、横入りは「重大な悪徳」でありました。
だって食堂の列で横入りされ、自分の前で雑炊が売り切れてしまえば、飢えるしかありません。また、列車を待っている行列で横入りされ、乗車口にしがみつき損なえば、その日は家へ帰れないのです。
横入りされないように、必死になって前の人にくっつき、列を作って並んでいたものです。

豊かな社会では、横入りされても、別にどうということはありません。また横入りするメリットもないのですから、横入りする人もありません。
ですから、いまの若い人たちは、並ぶにしてもシャカリキに前の人にくっつくようなハシタナイことはせず、1mも間を開けて立ちます。その結果、列が長くなり通行の邪魔になっても気にしないように見受けられます。

ことのついでに、日本での特殊な経験も書き留めておきましょう。
あるJRの駅でのことです。近くに沢山の受験予備校がある駅でした。
わたしは切符売り場の窓口に立っていたお客さんの後に、すっと並びました。そのとき周りから鋭い視線を浴びせられるのを感じたのです。
情勢から判断すると、定期券を買おうと、その部屋の壁にもたれかかってウンコ座りをしている若者たちは、相互に順番を認知しあっていて、自分の番がくると窓口に立つシステムのようでした。
つまり、さっと客のうしろに並んだ私は「横入り」してしまったようなのでした。

男性のトイレで、昔は各便器の後に便器の数だけの列を作って順番を待ったものでした。
運悪く自分が並んだ列の人の中に、パンツのボタンをやっと外してみると、トランクスの前後が間違っていたためにモタモタしたり、前立腺肥大でチョロチョロしか出なかったりして、遅い人が何人か続くことがあります。そうなるとグループに置いてゆかれ、まったく災難でした。
いまでは、たいていのところでトイレの入り口に一列に並び、空いた便器から順番に使うようになりました。
人類は最初は力ずくで欲しいものを獲得していたのでしょう。それが先着順に辿り着くのに、どんなに長い時間を要したことでしょうか。

成都から西に向かって立派な高速道路を走りました。両側には緑の芝生に囲まれた近代的な会社や工場が並んでいます。アメリカのシリコンバレーと変わるところはありません。でも、「通行料を払うのが嫌で、使う人、少ないです」と解説されました。
この有料高速道を走った私たちのバスには、シートベルトがついていませんでした。

山の中で休憩したあと、ゴミを持ち帰る習慣は、まだ、できていないようでした。

数年前中国を訪ねたとき、旅客機のスチュワーデスさんたちは、やる気一杯の張り切った子たちでした。それにくらべて、こんどは「お客様よりも、自分のお化粧の方に気を使う」、つまり世界共通のキャビン・アテンダントさんになっていると感じました。かってのスチュワーデスさんたちは中国のエリートたちだったのでしょう。

高速道路の料金所では若い女性がテキパキ仕事を捌いていました。そのいっぽう、車で20分ほど離れた村では、一日にいくらも商いがないような小さな店が肩を並べ、若い女性はもちろん、屈強な若者たちまですることもなしに、時間をつぶしていました。
日本だって、かっては同じことでした。でもいまや日本では落ち着くところへ落ち着いた感があります。
中国は比較にならない大国です。あらゆる面の地域格差は、簡単には片づかないのではないでしょうか。

4年後にオリンピックが中国で開催されます。オリンピックを成功させようという看板が目立ちました。街は好況に沸き立っています。きっと、見事に成功させるでしょう。
オリンピックでは、さぞや外人客も大勢来ることでしょうが、素晴らしい建物の空港では、まだ客扱いに不慣れな点が気になりました。
出発便を3回経験したうちの2回、出発直前にゲートが変更されました。中国語のアナウンスが分からないのはこちらが悪いのですが。
虹橋空港では時間がなくて、チェックインしてゲートに直行したのですが、もう変更になっていました。たった20分ぐらいのことですから、なんのためのゲート指定なのかと思ってしまいました。「もう間に合わないじゃないか」と日本語で怒鳴っていた若いサラリーマンと一緒に200mも離れたゲートへ小走りで急ぎました。ここの出発ゲートでは、動く歩道が「往きは良いよい、帰りはつらい」の片方向なので、戻るのは大変で大汗かかされました。
駐機場からのバスも、時間、人数は分かっているはずなのに手配が悪く、乗せてもらえるだけ有り難く思えという流儀では、訪問客の評判がどうなることかと気になりました。

以上、ついつい、こんどの中国訪問中に気がついたことを、ゴタゴタとならべてしまいました。
老齢のわたしにとっては、これらのことは全部、かって日本でも経験したことのように思われます。中国ではこれからどんなようになってゆくのでしょう。
若い人たちなら見届けられますね。

◆素敵なお土産

日隆のホテルを出て10分弱で大姑娘山登山口に着きました。すると国際会議の出席者よろしく格好よく首から身分証明所をかけた数人の若者が、私たちを押しとどめました。入山料として一人当たり30ドルよこせというのです。われわれが入る2〜3日前から、この手で金をゆすり始めたようでした。わたしたちに同行していた通訳、四川大学2年生のY君は「ならずものです。しかたない」と逃げ腰なのです。
こういう地元の手続きは地元の世話人にまかせてあるので、ケータイで連絡し下の村からその責任者にきてもらいました。一応は、まあまあということで通過しました。聞いた話では、取りあえず要求どおり金をやるからということで話をつけたらしいのです。
後刻、マスコミに訴え、黒白をつける動きがあるようでした。

だいぶ前、アンデスの麓でも私設ゲートで同じような目に合ったことがありました。
インドでは、普通の田舎道で何回かやられました。

また、ある國で、工事をしている人が車が通れないように石を道に置いていて、「國に雇われて工事をしているが役所が給料を払ってくれない。この道を通るのはアンタだ。いくらか金をくれないか」と強請られたという話を聞いたことがあります。

もう、50年ちかく昔のことですが、アメリカの小都市で消防訓練のようなのに止められたことがありました。「訓練のあと、みんなで一杯やりたいのだが」と、紳士的に寄付を頼まれたことがありました。まあ、賛同しておきましたが。

日本でも、尾張から伊勢に行くのに何十もの関所があって、通行料は地元の収入になっていたのです。織田信長が高い視点から、関所を廃止し流通を自由活発にしたのでした。

ローカルな観点から、相手の弱点につけこんで自らの利益に結びつけようとする行為は、人類共通であります。その行為を全体の利益の視点からどこまでコントロールするか、それは國の問題、法律の問題でありましょう。
いろいろの公共的事業に対するローカルな反対運動において、政治的解決が求められる所以であります。

中国では、出された食事を全部は食べないでちょっと残しておくものだ、と書いた旅行案内書がありました。すっかり丁重にもてなされたので、もう満腹し、これ以上食べられないと振る舞うのが客としての礼儀だというのです。
日本でも、お茶、お酒の最後の一杯は残しておいて捨てさせるのが礼儀だと聞かされた土地柄があります。また「どうぞ、ごゆっくり」と言われたら、その本心は、いい加減に帰ってほしいという意味だと聞かされた街もあります。
わたしは、そういうカルチャーを、暗い、心に満たされないものを持った人たちの所産だと感じているのです。
ともかく、馬鹿正直のわたしは現地の通訳さんに聞いてみました。「わたしは戦争中、食料不足でとても苦労しました。だから食べ物を残して無駄にすることには抵抗感が強いのです。中国の人たちは食料不足の経験がないのですか?」と。
女性の通訳Kさんは断固としてこう宣言しました。
「とんでもない。毛沢東のころは沢山の人が飢え死にしたんです。世界中、中国だってアメリカだって日本だって人の気持ちはみんな同じです。おいしい、おいしいと言って、きれいに食べてくれたら嬉しいですよ」。

・蝉時雨ここ中国の野外劇

世界中どこを訪ねても、大多数は善良な人で、悪い人はほんの少ししかいません。それなのに、ことさらに特定の外国を特別視して憎むように仕向ける人がいることを、わたしは常々苦々しく思っているのです。
ですから今度の旅では、バッグの中のお土産のほかに、このガイドさんの言葉を聞いて、素敵なお土産をもらったような気分になっているのです。

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