題名:韓国・智異山縦走
(2006/6/24〜28)

重遠の 入り口に戻る

日付:2006/7/9


・智異山
ゆくまえには会う人ごとに「わざわざ登りにゆくような山が、韓国にあるのかい?」と、いわれていました。
それでわたしも「日本山岳会の行事で行くんです。歩行時間が、一日目が9時間、二日目が4時間の山なんです」と、もったいをつけて答えていました。

今回訪ねた智異山(チリサン)は、金剛山(クムガンサン)、漢拏山(ハンラサン)とともに、韓国の三神山のひとつとして知られ、「愚かな者がここにとどま れば、智慧のあるものに変わるから智異山」と呼ばれてきたのだそうです。喜寿を迎え「認知っぽく」なってきたわたしの胸を妙にくすぐる、見逃せない山だと 思いませんか。
智異山の主峰である天王峰(チョナンボン)の標高は1915m、韓国本土の最高峰なのです。
ちなみに韓国としての最高峰は、済州島にある漢拏山1950mであります。
智異山国立公園は、昔から景色がよいことで知られ、1967年、韓国初の国立公園として指定されました。
韓国でも日本と同様、登山ブームで年間10万人の人が訪れるそうです。
ソウルの南約200km、釜山の西約100km、対馬海峡から北へ50kmほど内陸に入った場所です。
緯度は北緯35度20分、名古屋の35度10分とほぼ同じです。
ちなみに、ソウルは随分北にある感じですが、37度29分、新潟の37度55分よりはちょっと南なんですね。
韓国は九州の北に位置するので、ついつい北の国だと思っていましたが、今回こうして調べてみて、西日本が南に傾いていることを改めて思い知らされました。
主峰の天王峰だけに登るのでしたら、道路終点から日帰りで往復できます。
でも、われわれは遠征隊らしく、山塊の中央部へ北から入り、稜線を縦走、山小屋で一泊し東へ抜けたのです。

初日、中部国際空港で福井からのお二人と合流し、10時前の便で仁川空港へ飛びました。福井を朝4時に出る中部国際空港行きバスがあるのだそうです。飛行時間は、わずか1時間40分でした。
仁川空港で福岡からのお二人と合流しました。福岡からなら釜山まで高速船で3時間です。お二人は500kmも北へ飛び、そのあと200km南を向けてバスで戻られたことになります。団体行動というものはこういうものです。
さて、以上の5人はバスで金浦(キムポ)空港へ。待つことしばし、羽田から飛んできた東京組の本隊と合流しました。
総勢21名、女性11名、男10名、ここでも女性の優位は崩れません。
喫煙者は3名、年齢構成は不詳ですが、50〜70台のようでした。
韓国のガイド、男性1名、女性3名がやってきました。
われわれ一行の仲間たちは、そのガイドさんと旧知の仲らしく、ワーワー言い合ってっています。
あとでわかったことですが、みなさん先年韓国の雪岳山(ソラクサン)へほぼ同じメンバーでゆかれ、今回はいわば韓国登山レピーターなのでした。

大韓民国の人口は約4700万人、大変おおざっぱにいえば、人口も国土面積も日本とくらべて半分弱なのです。その人口のほぼ4分の1が首都ソウルに集中し て住んでいます。そして、2番目の都市釜山とくらべると、いろいろの点で15年の差があるといわれているそうです。それだけ集中度が高く、国内での格差が 大きいようです。

わたしは1993年、韓国の大田で開催されたエキスポを見学したとき以来、2度目の訪韓です。
ソウルから南へ向かう高速道路は5本あります。
前回きたときは、まだ高速道路を走っている車は少なく、高速道路はいざというときには軍用機の滑走路として使えるようにつくられていると囁かれていました。あの頃は冷戦終結がまだメンタル的に定着していなかったように思うのです。
人間はとかく「昔は良かった」と過去を美化する生物ですが、この地域の情勢としては朝鮮戦争の日もすでに遠くなり「今は良き平和の時代になった」というべきでありましょう。

・緑の大地
沿線の森の緑も、この20年で見違えるように濃くなったといわれます。以前は木は伐られ、むき出しの山肌が雨に浸食され、禿げ山ばかりだったそうです。
13年前でさえ「韓国には木が少ないので、家屋の壁は石で造り、屋根にだけ木を使うのです」と説明された記憶があります。
韓国もかっての日本と同様、貧しかったのですね。
1963年から1979年に暗殺されるまで大統領を勤めたパク・チョンヒさんが、一人10本をスローガンにして、強引に植林を奨めた成果がいまの緑の国土 になっているのです。経済力が向上し、化石エネルギーの利用が可能になったことが、森林の育成、温存をもたらしたのです。
パク大統領の強権的な政治態度に対しては反感も強かったのですが、今となっては韓国経済を確固たるものにしたことなど、国民にもっとも好かれる大統領だともいわれているそうです。
緑化の手法そのものは、生育環境に適した樹種を選ぶなど考慮することなく闇雲に木を植えたので、数十年後には自然環境にマッチした樹相に変わってゆくだろ うとのことです。現在は、松やニセアカシヤが不自然に多いように感ぜられました。この壮大な実験で、樹相がどんなに変わってゆくのか大変興味深いのです が、わたしはこの世では見られないのです。

・たび幾日ここ韓国も竹の秋

バスで約5時間南へ走り、南原市の月輪熊ペンションに泊まりました。
日本同様のツキノワグマの写真が飾ってありました。
翌日は朝7時、歩き始めました。数分の車道歩きから、すぐ左の白武洞渓谷にとりつきました。河東巖という岩場、水場などを経て登って行きます。
つい先日登った琵琶湖北岸の若狭の山と同様、カエデ、ナラなどの早緑がまぶしく、まったく日本と変わりません。「わぁ、きれい」「なんて素敵!」と声が上がります。薄いピンクや濃い赤のツツジ、ユキザサ、そしてカタクリの花が出迎えてくれました。


ここにもカタクリが


・引退のこと

登り始めて4時間ほど経過し、もう主稜線に出て、ゆるい登りを繰り返していました。
メンバーのひとりが「休みたいので、ほかの人は先に行くように」と申し出られました。
そのかたは、みんながチャントモク山荘横の広場で昼食をしている間に追いついてこられました。聞けば、脚の後ろ側が「つった」とのことでした。
そういえば、先日若狭の山に登ったときも、両脚同時につったのは初めてだといわれたかたがありました。
わたしの最近の山行やゴルフで、同行者が脚がつったと訴えられることがめっきり多くなったように感じられます。やはり加齢が原因なのでしょう。

今回、休憩時間、ご本人がおられぬところで、脚がつる原因についてちょっとした論争が交わされました。
おひとりは、汗が出て「体の中の塩分が不足」するのが原因だとおっしゃるのです。もうおひとりは「筋肉がつる」のが原因だと言い張られるのです。
お二人とも、なんとかして楽にして上げたいと思って主張されているのです。前者によるならば、塩気のあるものを口に入れればよいのですし、後者ならば荒療治で筋肉を伸ばしてやれということになります。

わたしは帰ってから例のようにインターネットで調べてみました。どこの筋肉にでも起こり得る障害なのですが、脚におこることが多いので「こむら返り」といわれるとあります。
また、「つる」に対して、インターネット時代らしく「吊る」「釣る」などいう字が横行していました。強いて漢字を使うならば「攣る」でしょうね。
ナトリウム塩、カリウム塩などの不足により、・神経系の障害、・筋肉の過敏化、が原因であるというのが見つかりました。
ともかくわたしの経験では、足の親指を強く手前に引くとか、アラーの神にお祈りするように跪くなど、皆さんそれぞれ対処方法をお持ちで、どの方法も、結構、効果的なことを見てきました。
この日、そのかたは、障害が出たあと、小屋まで6時間も歩かれたのですから、そのすごい精神力には感心してしまいました。

さて、このわたしは、いつ、どのようにして登山から引退するのかと、もう20年も前から考え続けているのです。
世間を見渡すと、膝が痛くなって引退される人が多いと思います。
また、医師に警告され家族に引き留められて、というのは決定的要素になります。
わたしといえば、まわりはそろそろ引退して欲しいと思っているようですが、なにせ医者にゆかないので警告を理由にあげることができないでいます。
膝も、おかしいといえば少々おかしくはあるのですが、歩けないわけでもないのです。
ということで、目下のところ外的条件が決定的ではないので、あとは本人がどう思うかにかかっています。
昨年11月、台湾の雪山にいったとき、一日の行動時間が14時間でした。自信があったわけではありませんが、ともかく結果的には登ってきたということです。「ひと月後だったら、行けたかどうかわからない」と公言しているのは掛け値なしの本心であります。

わたしの今までの引退路線でゆくならば、もう一歩も歩けなくなるとか、同行の皆様に重大なご迷惑をかけるか、そんな事態が起こるまで、優柔不断にグダグダと山行にトライすることになるわけです。
深田久弥さんのように、たまたま登山中病魔に襲われたら、それもしかたないことではないかと、かなり明確に割り切ってきたのです。

ところが、今回ことさらこの引退問題に触れたのは、心の中で、まわりの人たちから「あのとき醜態をさらさなかったら」といわれやしないか、晩節を汚したといわれるまえに引退する選択肢もあるなと、今回の山行で改めて思い始めたからなのです。
やはり、年をとり、心も弱り始めたのでしょうか。

・ユズリハの萌えて色づき夏来たる


智異山頂上

11時45分、チャントモク山荘に着きました。立派な建物です。
みなさん建物に入らず、外のベンチで、日本から個人個人で持ってきたパンなどで昼食が始まりました。
標高は約1700m、南東の風が強く、若い人たちは吹きっさらしのベンチで頑張っていましたが、わたしには寒さがこたえました。こんな状態のときは、稜線の風が吹き上げているすぐ後ろに、風の弱いところができているので、わたしはそこを探して腰を下ろしていました。
14時15分、最高点の天主峰に着きました。頂上周辺には、男女数十人がひしめいていて、石の標識を囲んでの記念撮影は大変でした。

頂上滞留はたったの20分、リーダーは慌ただしく出発を告げました。この先の難路を計算に入れていたのです。
15時10分、中峰に登り着きました。このピークからリーダーが指さす先に、今夜泊まるチバッモク山荘の屋根が見えました。ここから急降下し、コブをひと つ越えれば着くように見えました。それで、あと1時間半と聞かされたときには、ずいぶん余裕をみたなと思ったことでした。
ところが急降下したあとの山道は、細かい上り下りの連続でした。
名古屋の栄町の交差点から矢場町まで行くのに、まず三越を上下し、次いでラシック、ガスビル、松坂屋北、本、南館、パルコ・・・というような調子といったらよいでしょうか。もちろん自分の足で上り下りするのです。
思わず「上から見ていたときは、こんな根性ワルの道には見えなかったが」とボヤキが出てしまいました。
鉄製の階段が30箇所はあったでしょう。でも、もしもあの階段がなかったらどんなに時間がかかったか想像もつきません。
16時25分には、チバッモク山荘に到着しました。

・一瞬に水筒満たす噴井かな

・ここは山ですから

こうして長い長いアップダウンの果てに、ヘロヘロ状態でチバッモク山荘に入りました。
智異山国立公園内で唯一のプライベート経営の山小屋だそうです。
ガイドの李さんの教え子たちが小屋のお守りをしているので、大変な歓待を受けました。基本的には寝袋持参ですが、料金を払って毛布を借りることもできます。わたしたちは毛布を2枚づつ貸してもらいました。それで板の上に寝るのです。
さすが日本山岳会です。リーダーの「床が固い、寒い、食べ物が口に合わない、そんなことは全部、文句言ったらいかん。ここは山なんだから」という言葉にひたすら従順でありました。
さて「人の世の中というものは」だいたい自分の望んだとおりにはゆかないものなのです。
大臣になりたい、横綱になりたい、社長になりたい、金持ちになりたい、売れっ子俳優になりたい、いい人と結婚したい、勉強なんかせず遊んでいたい、いい成績を取りたい、有名校に入りたい、これらはどれも殆どの人にとって叶えられない望みなのです。
それなのに自分の望が実現しないのはおかしい、と言い立てている今の世相は、少し甘やかされ過ぎではないでしょうか。

でも、ここは世の中なんだからという真理は、だれも口にできないのです。
大衆から票を集めるためには「あなたの望みは叶えられるべきだ、わたしがそれをしてあげよう」と口にせざるを得ません。民主主義とは、そうして成り立って いるのです。そういう体制の下では、望みが叶わず挫折したり、その果てにキレたりすることも、やむを得ないのではないでしょうか。

夜中、トイレに立つと、もう雨が降り始めていました。
翌朝、7時出発と告げられていましたが、みんなの用意がととのい、25分前にはもう歩き始めました。

・短夜の夢に異国の鳥の声

山道のことですから、たまには小さい登りもありますが、全体的には下りです。歩くに従って汗ばんできました。
まず、ゴアテックス雨具の上着を腕を通さずにリュックもろともにかぶり、胸のボタンでとめるという、お得意の涼しいスタイルで歩いていました。
段々標高が下がり、トラバースが終わり谷沿いの道に入りました。
ちょうど雨も小降りになりましたので、雨具のズボンもリュックに仕舞い込みました。トレパンだけのほうがゴワゴワせず、脚を軽く運べるのです。もっとも、こんなお粗末なスタイルになったのは、わたし一人だけでした。
思えば、わたしはどの雨の山行のときでも、下山路で安全圏に入ると、このスタイルをとっていたものです。
だれでも雨に濡れるのはいやなものです。でも、その嫌な程度が、わたしの場合、ふつうの人よりも軽度なのだろうと思います。
「あいつはドブ鼠と一緒だ、濡れたまま寝てしまう」と、仲間たちからいわれていたことを、後日知りました。
下半身雨に濡れ、大股に山道を下りながら、わたしはなにか若い日に戻ったような高揚した気分になってきていたのでした。

・梅雨に濡れ青年のごと大股に

・韓国語とハングル
13年前に韓国を訪ねたとき、わたしはまだ会社勤めをしていましたから、事前に韓国語を勉強することなど思いつきませんでした。
それで、旅行中にガイドブックを見ながら、行く先々でハングル文字を眺めては、これはaのようだ、これはsのようだなど類推していました。つまり、まったく系統的でなしにハングルにとりついたのです。
旅の最後にソウルの高速道路料金所で、ハングルの看板をソウルと読めたことを大変誇らしく感じたことを覚えています。

さて、韓国語とは、韓国の人たちが話している言葉のことで、ハングルは韓国の人たちが音を表すのに使う記号です。
日本語という言葉を、漢字、カタカナ、ひらがなという文字で書き表している関係ともいえるでしょう。
英語とアルファベットというのも、同じ関係です。
(韓国語というべきか、朝鮮語というべきか、問題はありますが、今回は韓国を旅したので、韓国語を使いました)

今回のグループの中には、韓国語の堪能なかたが何人かいらっしゃいました。そのなかでももっともお上手な方が「韓国語は、基本的には漢字を音読みしている んですよ。続けるために、たとえば「ハ」というような音を入れることはありますが、コツを呑み込めば割に簡単です」と教えてくださいました。

バスガイドさんは「お別れのときにバイバイなんて言わないでください。せっかく韓国にいらしたんですから、・・・・と言ってください」と韓国語を教えてくれました。
ガイドさんの発音を耳の遠いわたしが聞き取ったのと、わたしの自己流の解釈ですから、多いに間違っている可能性は高いのですが、以下のような理屈はいかがでしょうか。

よその家から自分が出て行くときの「さよなら」
安寧居施よ  アンニョンケセヨ annyonkeseyo

自分の家から相手が出て行くときの「さよなら」
安寧行施よ  アンニョンガセヨ annyongaseyo

いかがでしょうか。ハングルになると途端に結びつかなくなります。

663年、白村江で、新羅と唐の連合軍が百済と日本の連合軍と戦ったとき、まだハングルはありませんでしたから、双方の連合軍の内部では、上述の漢字と朝鮮語でかなり意思の疎通ができたのではないでしょうか。

1446年、李朝の世宗が「愚かな民たちは言いたいことがあっても書き表せずに終わることが多いことを哀れに思われ」、新たにハングル28文字を制定されたのでした。
ハングルはその作成当初から、事大主義的な保守派から猛烈な反発を受けました。これは「独自の文字を持つことは野蛮人(日本、モンゴル、チベットなどは独 自の文字を使用していた)のすることであり、(中華圏に属する)文明人の行うことではない」というエリートたちからの反対が主でした。
その後、燕山君(在位1494〜1506)によって徹底的なハングルの使用禁止、ハングルによって書かれた書物の焚書、使用者の処刑といった弾圧が行われました。これは暴君であった燕山君の誹謗文章が庶民の手によってハングルで書かれていたためであったといわれます。
1894年に勃発した日清戦争の結果、朝鮮が清王朝の勢力圏から離脱すると、独立近代化の機運が高まり、漢文に変わって、漢字とハングルの混交文(国漢文)による朝鮮語が初めて公用語として採用されたのでした。
そういえば現在でも、氏名、地名には漢字が使われています。


・ハングルは四角青田も真四角


世界には、いろいろな国があります。
民族、言語の異なる13億人の人がひとつの国家を形成している中国のような巨大国家もあります。その一方、つい最近、62万人が福島県ぐらいの土地に住むモンテネグロが、セルビア人と一緒はいやだといって独立国になるとのニュースがマスコミを賑わせました。

人間は多面的な存在です。グループ固有の伝統文化をこよなく貴重なものであると、もてはやしもしますが、その一方、便利さも追求したがります。
長たらしく「大字」や「字」のついた歴史的由緒の深い住所が消えて行くことを嘆く声が高い反面、10数桁の数字で世界中の特定の情報端末に辿り着くことも求めるのです。

いっとき、ハングルこそ世界で一番理論的に作られた文字であるという声高な主張を聞かされたことがありました。
大英博物館に、ハングルと漢字を対比した堂々たる古典文書が飾られていたことも思い出されます。
独自性、自主独立もそれなりに勇ましくて結構ですが、それを突き詰めていって、これこそ古今東西一番優れた言葉だと主張し、地球上で自分一人しか通じない 言葉に執着する個人があるとすれば、「病院にいったほうがいいんじゃないか」とまわりの人たちに思われるに違いありません。

誤解のないように申し上げますが、わたしはどちらが良いとか悪いとか言っているわけではありません。ただ何時の日か「20万年前に発生したホモサピエンスは、そんなことを繰り返し繰り返し、ついには絶滅していった動物だった」と記述されるだろうと信じているだけなのです。

10時、舗装道路に出ました。このころ雨は相当な大降りになっていました。
立派な道ですが、国立公園なのでバスは入ってこられません。
久し振りに小型トラックの荷台に、すし詰めになり、公園の入り口まで連れていってもらいました。

・大楓若葉の森に君臨す

ここからキョンジュ(慶州)までバスで約4時間です。濡れたトレパンもほぼ乾いてしまいました。
道路脇に現れる街々では、尖塔の上に十字架をのせたキリスト教の教会が目立ちます。ガイドさんの説明では、韓国で宗教を持っていると答えた人は55%、そ のうち仏教信者のほうがキリスト教信者よりも少し多いということでした。ただ、李王朝は儒教を国教とし仏教を抑圧したので、お寺は町なかでなくて山の中に あり、目立たないとのことでした。

慶州のコロンホテルには温泉があります。ホテルのなかにある大浴場へ行くと、一般の入浴客の半額といいながら600円とられるのは不思議でした。
ここで山の汗と泥のムードをすっかり流し、さっぱりと生まれ変わりました。
バスで10分ほど走って、ホテル、レストラン団地にゆき、石焼きビビンバを食べました。古都慶州はそっと保存し、おとずれる観光客たちの泊まりや食事の施設は離れた場所に分離しているのです。
時代背景、強い政治、遺跡の規模や周辺の風土などに恵まれ、このように世界遺産らしくかなり理想的な施策がとられています。
かといって日本の京都などをこのようにしろといわれても、現実的には途方に暮れるばかりですが。

翌日午前中、かなりの雨風のなか、石窟庵、仏国寺、古墳公園を見学しました。
石窟庵の花崗岩の仏像は、仏教美術史上最高の傑作といわれるものだそうです。日本人ならだれでも好ましく思うにちがいない、クセのない優しい釈迦如来像でありました。
ここで、信者が五体投地して祈っていました。五体投地といえば、チベットとかカイラスという言葉が頭に浮かんできます。


五体投地


モンゴル・ウランバートルのガンダン寺にも五体投地に使う板が置いてありました。ビルマでも行われているようです。
日本でも真言宗では五体投地をするとも聞きますけれども、一応、日本までは普及していないとはいえましょう。朝鮮半島と日本をへだてる対馬海峡に、偶然とはいいながら、こんな文化面での断絶があるのは新発見でした。

仏国寺は雨の平日にもかかわらず、13年前より沢山の観光客がおとずれ大繁盛の様子でした。
16世紀末、秀吉の朝鮮侵略の戦いでこの寺の木造部分は消失し、石の部分だけが残っているのです。
奈良の東大寺の大仏殿は8世紀の創建ですが、12世紀、やはり平重衡の兵火にかかって消失し、江戸時代に間口を2/3に縮小し再建されたものです。
どちらも、文化財を焼くことが目的ではなくて、敵が立てこもっている要塞を破壊するのが目的ではあったのですが。
われわれ一行のおひとりが「40年前には、今は柵をめぐらされ、見るだけになっているあの国宝の石の橋を、この足で渡って入ったものです」とおっしゃいました。


国宝仏国寺石段


わたしはといえば、最晩年の秀吉の病的な威張り癖に対する嫌悪感が、13年前に訪れたときよりも、一層強まっているのを感じていました。
対象物が変わらなくても、人間の側が変わってゆくものなのです。


前回、天馬塚古墳を訪ねたのは、美濃加茂で古墳の発掘を見学した直後でした。それは日本で は珍しい積石塚でしたが、ここの天馬塚がまったく同様の構造であることをみて、大変なショックを受けました。真似して造ったどころではなくて、朝鮮半島か ら日本へ帰化した人が造ったのだろうと想像しました。
今回は、ここへ来る少し前「日本の奇山珍山」というテーマで、奈良の御破裂山の取材をしに多武峰、飛鳥にいってきました。
周囲を優しい山々に囲まれている点で、キョンジュ(慶州)と飛鳥とは、つくずく似た環境にあるように思えます。6〜7世紀の日本朝廷においては、帰化人の 影響力には大きなものがありました。飛鳥、藤原京、平城京、平安京を想うとき、随、唐、三韓などとの関係が、どうしても頭から離れないのです。

昼食をすませ、13時半頃出発し、高速1号線でソウルに向かいます。途中激しい雷雨に襲われました。登山中、こんな荒天に会わなくて幸いでした。
暮れかかるソウル市内の広い道路の反対側を、ビニールのカッパなど着たデモ隊が歩いていました。列は300mほど続き、子供たちが目につきました。ガイド さんが「あのノーベル賞候補と持ち上げられた黄先生の名前が書いてありました。推測ですが、わたしたちは先生を支持します、頑張って下さい、そんなデモで はないかと思います」と教えてくれました。

ホテルに着いたのはもう19時近くでした。
部屋に荷物を放り込んですぐに出発、大きなビル街を抜けた小路の焼き肉屋で、山屋グループらしい打ち上げパーティがありました。
このあたりの雰囲気は、新橋あたりの横町のお店とちっとも変わりませんでした。

・ゆったりと歩調の揃ふ薄暑かな

翌朝5時40分、ホテル前からリムジンで空港へ、そして正午には名古屋の自宅に帰り着いていました。

・思い違い
今回は、韓国を一生懸命見てきました。
行く先として韓国の山を選んだ理由のひとつは、昨年台湾の山に行ったとき、いろんな面で台湾は日本に似ているなと感じたためなのです。
もっと近い韓国はどうなのかしら、自分の目で見ておきたいと思ったのです。だから旅行中ずっと、日本との比較のことが頭の中にありました。
とはいっても、ほんの数日間いってきただけなのですから、ずいぶんと間違ったことも書いてしまいそうです。
わたしの感じたことをならべさせていただき、問題提起にでもなればさいわいだと思っているのです。どうぞ、あれこれ申すことをご憫笑下さい。

仁川空港に到着、すぐ両替しました。5000円札を出すと「計算書は中に入っています」といって、5000円分のウォンが入った封筒を渡されました。実に 効率的です。いまでも、世界の多くの国では汚いお札をちゃんと数え、その場で訂正を要求しないわけにはいけないのです。誤魔化しのない、信用のおける社会 が効率的であることをここで改めて感じました。わたしは韓国の仁川でならば、内容を確かめなくても間違いないと感じておりました。それがわたしの韓国観な のです。
帰国してからこの話をしていましたら「それで、ほんとに正確な額が入ってましたか?」と尋ねられ、数えもしないで使ってしまったことに気がつきました。
それにしても、5000円はちょっとみみっちかったかもしれません。
日本の銀行でも米ドルで1000ドル下さいと頼むとこうして渡されます。この点では日本と韓国は同じといってよろしいでしょう。

高速道路の整備状況は日本よりも上ではないでしょうか。仁川空港からソウルに向かう高速道路の右側遠くに、高効率のコンバインドサイクルらしき巨大な発電基地が望見されました。インフラ整備は、国の基本です。よくやったものです。

平地では水田の区画整理がしっかりできていて、日本と変わりません。
山あいにはいると、段々になった畑、水田、これも日本と変わらない情景です。秀吉軍の兵士たちも、違和感がなかっただろうと思われます。
ところどころ、2基3基と固まって土饅頭の家族墓が見えました。日本の出雲地方の家族墓とおなじ雰囲気が感ぜられました。

地質は、智異山にいたる経路では砂岩が主体、智異山は全体的に花崗岩、一部が片麻岩、硬砂岩といった感じでした。
山の斜面の傾き、険しさは穏やかで、日本の中国山地、阿武隈山地に似ていると感じました。

植生は、人里については、前述のように天然のものはなく、雑多な人工林であります。
智異山国立公園内の自然林では、当然といえば当然ですが日本とほとんど変わりません。モミ、ナラ、カエデ、ツツジ、ユズリハ、オオヤマレンゲ、ユキザサ、チゴユリ、カタクリ、イワカガミイなどが見られました。
ちょうどツツジは満開の時期でした。ツツジには色が濃いのと薄いのと2種類あり、薄いほうはいかにも韓国らしく清楚でした。

バスのガイドさんから聞いた話です。
韓国でも少子化が問題になっています。特殊出生率が日本で1.3台だった頃、韓国では1.2台だったそうであります。
子供にたいする教育熱も、学校以外に塾だプールだと大変なようでした。
そうそうもうひとつ、少子化への懸念から「できちゃった婚」が、昔は恥ずかしいとされたのに、今では「でかした」とばかり、大歓迎だと言われておりました。
このあたりは、日本の先を行っているように聞こえました。

ソウルのホテルでは、久し振りに電動の回転ドアに出会いました。
日本では人身事故が起き、製造・設置者は罪人にされ、使用は禁止されました。
この点では日本は世界でもっとも進んだ国でしょう。
もっと進むと、沢山の交通事故死の原因になる自動車が禁止になっても驚かない日がくることでしょう。

ご飯やスープを、ステンレスの茶碗、ステンレス製のスプーンと四角い箸で食べるのは、異文化そのものの感じでした。


カネの茶碗にカネの箸

出される料理も、どこの店もほとんど同じ、唐辛子の辛い味付けはともかく、全体に、いわゆる洋食や中華料理より馴染みが薄いものでした。
わたし個人の特殊性かもしれませんが、食事が、韓国と日本とで一番異なっている点なのではないかと思ったぐらいです。

約70年前。わたしが通った小学校は名古屋市のなかでも新開地にありました。そのためでしょうか、日本性ではありましたが朝鮮の人も何人かいました。
敗戦後、キリスト教の団体の主催で、夏休みに一ヶ月世界各国の男女青年たちが集まるキャンプが開かれ、そこには韓国の青年がひとり参加していました。
上記2例以外、韓国の人との直接の接触は、海外旅行中に飛行機や観光バスで乗り合わせたぐらいしか記憶にありません。
あとは、多少韓国に関する本を読んだこと、そして大量のマスメディアを通じた情報によって、わたしの韓国人観は作られていたといえます。
こうして形成されていたわたしの韓国人観は、体が大きく力が強くて頑健、ハングリー精神に横溢し、観念的、自己中心的で強烈に自己主張するという印象でありました。
わたしの数多い紀行文をお読み下されば分かっていただけると思いますが、わたしは、世界どこの国でも悪い人もいるけれども殆どの人は良い人で、普通にお付き合いできると確信して旅を続けているのです。
その中で、韓国の人に対しては、運悪く隣人にさせられたとでもいうような、平均よりマイナスのイメージを抱いていたのが正直なところです。
考えてみると、日本人にとって外国についての情報量が、世界平均よりも、隣国である韓国については格段に多いのです。
北海道や長崎県の住人についてならば、平均的な目で見られるけれども、向こう3軒両隣についてだと、平均ではなくて好き嫌いが出てくるのと同じことだと思います。
今度の旅では5日間、韓国人の山岳ガイドさんたちとご一緒しました。
同じ釜の飯を食うというよりも、それ以上に、ともに難行苦行を分かち合ったのでした。
そしてまた、そんな韓国の友人を通じて、普通の街の韓国人とも接触したのでした。
わたしの心の中の韓国人評価が、地球人の平均まで上がったことはいうまでもありません。それ以上に、韓国の人って優しい人たちだなという好感まで抱いているのです。個々の事例はあげませんが、全体にそう思われるのです。
あの智異山のツツジの淡いピンクのように、淡い優しさがあるように感じられるのです。
稜線のチバッモク山荘では、わたしたちのほかに一組だけ韓国人のパーティが泊まりました。クタクタに疲れたわたしたちが着いたとき、彼らはもう夕食に入っていました。
わたしたちを迎えてくれた彼らの笑顔は、まことに心温まるものでした。
海外を旅行していると、最近では初老の日本人のパーティによく会います。
第一線からは引退したが、まだ健康に恵まれている人たちのグループです。
この山小屋で一緒になった韓国の人たちも、そんな様子のグループでした。

・住む人もツツジの色も優しかり

マスメディアにできることには限界があります。
60年前には、敗戦に次ぐ敗戦のなかでも、必勝の信念を報道し続けるよりしかたなかったのです。当時のサポーターたちは、顔に絵の具を塗るのではなく、軍服に似せた国民服を着て、正論を耳にすると「非国民!」などと叫んでいたものでした。
現在だって、オリンピックやサッカーワールドカップで勝ち戦を期待するのが難しくても、日本の勝利に期待がかかっていると、サポーターたちの熱気を報道するよりしかたないのです。
韓流ブーム、大歓迎です。マスメディアを通すのではなしに、韓国の人々と面と向き合い、直接知りあうことはたいへんに貴重なことです。

過去、朝鮮半島に住む人たちは国内で分裂し、その双方に外国サポーターがつき、国民が苦労させられた歴史があります。あんな優しい韓国の人たちを不幸にさせてはお気の毒というものです。
国内分裂の緊張感を緩和するためには、隣国との外交問題、ことに領土問題を取り上げることは特効薬的な効果があります。しかし、領土問題は関係国間の対立と憎悪を逃げ場のないまでに高める危険な劇薬でもあります。
暴論を承知で言うのですが、韓国の政情を安定させるためならば、韓国の政府首脳が日本にたいして強面の態度をとることを理解してやってもよいかもしれません。日本も断固、正論をもって反論し続ければよいのです。

それにしてもマスメディアとは怖いものです。
日本国民だって、かっては消費税反対という餌につられて、「やるっきゃない」と絶叫するおばさんの党を政権党に選んだことがありました。
あのとき、マスメディアを通して海外の人たちに、日本人はみんなあのおばさんみたいな北朝鮮のお友達ばかりだ、と受け取られていたとしたら、とんでもないことだと思うのです。

ともかく、今回の旅の収穫は、わたしが韓国の人について思い違いをしていたことに、いたく気がついたことです。そのお陰で、わたくし自身も、かなり幸せになれました。

そうです。わたしは韓国を日本と比較しながら一生懸命見てきたつもりです。
そして、山も川も空気も、人の外見も考え方も営みも、やはり世界のうちで一番日本と近い国であることがよくわかったのです。

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