題名:バリ島アグンに我が身知る

重遠の入り口に戻る

日付:1999/11/14


 ♡半外国・バリ

 

成田を11時30分に離陸したジャンボ機は、6時間30分でインドネシアの首都ジャカルタの空港に着きました。飛行機は、この先のバリ・デンパサール行きですから、荷物はそのまま機内に置いておき、客室清掃のため乗客だけがいったん機外へ出されるのです。

次の出発まで約1時間ありました。

ほとんどの客は日本人で、しかも引き続きバリまで行く人ばかりなのです。

もともとインドネシアは政情不安のため、バリ島とビンタン島以外は、日本の外務省から観光旅行延期勧告が出されているのです。

常識から言えば、日本から、より近いバリ島までジャンボ機で直接飛び、そこから小さい飛行機で、ジャカルタまで運行するのが素直なのでしょう。

それなのに、一旦、わざわざジャカルタで降りるのは、首都に敬意を表するとか、ジャカルタ空港で買い物させるとかの、理由があるのでしょう。

 

バリ・デンパサールのグラ・ライ空港に到着し、外へ出るやいなや、猛烈な煙草の煙に辟易させられました。

帰國時には手続きが意外に早く終わったので、時間つぶしのため、空港内をぶらぶら見物しましたが、禁煙のシートは見当たりませんでした。

アメリカや日本のように、喫煙場所を限定している國や、中国のように急速に禁煙を進めている國に較べて、やはり後進的なのでしょう。

もっとも、税関の申告書に、中国で発行された図書を持っていないかどうか記入させるなど、意外と感ずるほど中国に対して警戒心を抱いているように見受けられました。

だからといって、まさか、中国が禁煙なら、インドネシアは勤煙だというわけではないのでしょうが。

 

空港に着いたとき、同行の1人が、ここにいるのは日本人ばかりで、まるでハワイへ行ったようだと評しました。

私は、まだハワイへは行ったことがないのですが、でも、噂に聞くハワイのような気はしたのでした。

つまり、日本からきた若い女性があふれていて、どこへ行っても日本語だけで用が足せるといった感じと言ったら良いでしょうか。

 

私たちのグループの主目的が登山であったことと、ガイドに恵まれなかったことから、折角外国を旅してきたのに、帰ってみれば、半外国に行って来たような、いつもの海外旅行と較べて物足りなさを感じているのです。

 

・五百人息呑む機内野分かな

 

♡バリ・そしてインドネシア

ともかくも、行ったのですから、データだけは一応並べてみましょう。

バリ島の面積は5634平方キロメートルで、愛知県の1割り増しほどの大きさです。

人口は 約260万人ですから、人口密度は静岡県に似ています。

南緯8度といいますから、台風が発生する海域よりも赤道に近い位置になります。だから台風はありません。

4月から11月までが乾季で東南貿易風、12月から3月は雨期で北西の季節風が吹くのだそうです。風が安定しているのでしょう。私たちが滞在していた時期には、いつ見ても空に沢山の凧が揚がっていました。蝶をかたどったのや、鳥,帆船をかたどったのや、かずかずの楽しいデザインの凧が見られました。

わりと近いスラバヤ市のデータを見ますと、年間の平均気温が27,8度,1番暑い10月と1番寒い?、7月との差は2,2度しかないのです。

文字どおり常夏の國であります。

前の月に訪ねたカムチャッカと較べると、まさに楽園で、住んでいる人は、どんなことをしても、生きてだけはゆかれる土地と言えるようでした。

 

インドネシアの國全体では、面積は日本の約5倍です。人口約2億人、これはロシヤより多く、中国、インド、アメリカ合衆国についで世界第四位の大国なのです。

古来の土着の宗教があったところに、5世紀頃、世界宗教として、最初に仏教が伝えられました。

この仏教は現代日本の仏教とは違い、個人の修行によって自分自身の救いを得ようとする、いわゆる南方仏教です。8〜9世紀には、この仏教が最盛期を迎えました。

その後、ヒンドゥー教が栄え、さらには14世紀にはイスラム教が伝えられ、それが大勢を占めるに至ったのです。

現在では、國全体の人口の約90パーセントがイスラム教徒ということです。

 

・常夏の夏も季題の中なるや

 

♡観光地バリ

今まで海外旅行記を書くときに、どの土地についても、その土地のデータを拾うのには主に「地球の歩き方」という本を参考にして書いていたのです。

ところが今回は、ここまでに挙げたデータを探すのに、国立天文台編の理科年表の力を大部借りました。

 

バリというと何か雰囲気が、世界のほかの場所とは違うようなのです。

 

この感じは、どうもうまく纏めて表現できないのですが、とりあえず、旅行中に受けた印象を幾つか羅列してみることにしましょう。

われわれのグループに付いてくれたガイドさんは、途中で交代したので、二人の人に接触したことになります。

たった二人のことから、全体を判断するのはおかしいことを承知で言うのですが、はっきり言って気に入りませんでした。

バリの道をマイクロバスで走っていると、次々と小さな祠が目に付きました。50センチから1メートル弱角ぐらいのものが、10個ほどグループになって固まっているのです。

ちょっとオーバーに言えば、祠ばかりが場所を占めてしまって、人が住むところがないのではないかというほど、沢山、連続してあるのです。

ある土産屋さんに連れ込まれたとき、運良くその祠が横にありました。

これは何なのですかとガイドに聞きました。すると、個人の家のお寺です、日本の仏壇が戸外にあると思って下さいと教えてくれました。

このような個人のお寺の祠には、ご先祖様のものとヒンドゥー教の神様のものとがあるとのことでしたが、その見分け方とか配置のルールなどは、彼らは説明出来ませんでした。

この時に、バリには4種類のお寺がある、つまり個人用、村用、商売用、ナショナルだということも教えてくれました。でも、その後、道を走っているときは、どれがそれに相当するかを説明してくれる気はないようでした。

基本的に、外国から訪ねてきた観光客へ、バリ島を説明しようという気持ちがないのです。

ガイドは、もっぱら、客を土産店に連れ込むこと、そして、そこの店のものの品質と値段がバリ島の店の中でどのポジションにあるのか、つまりちょっと高いが品質は間違いないだとか、ここの店では30パーセントまで値切れるとかそういうことを説明するのが仕事だと思っているかのようでした。

 

ここを訪れた日本人たちが、彼らをそんな風にしてしまったとのだと思いました。

そういえば先にあげた「地球の歩き方」という本も、ここ「バリ島」に関しては、そんなような編集方針になっているらしいことに思い当たったのです。交通手段、スポーツ・レジャー、ホテル、レストラン、土産物、両替、犯罪の手口などで、紙面は埋め尽くされています。

本の中にはバリ島の面積も、人口も多分書かれてないと思います。まさか、私が見落としたのではないと思います。

いわば、新宿、歌舞伎町あたりを紹介しているような編集と言ったらよいかも知れません。

いろいろ珍しい国土、歴史、文化がある異国であるという視点が希薄なのであります。

 

もっとも、ガイドさんが、折角、バリの歴史や民情についてインテリジェントな説明をしたとしても、ちゃんと聞いてくれる日本人がどれだけあるだろうかという気はするのです。

日本国内の旅行でも、ちょっと列車の窓から日が射すと、自分の体がまるでバターで出来ていて、溶けてしまうのを心配するかのように、さっとカーテンを引き、何も見ないで目的地まで行く人がほとんどだと言ってよいでしょう。

それもこれも人の生き方ですから、善し悪しとは別ではありますが、食べることと、買い物をすること、観光用の見せ物を見ること以外に興味を抱かない人は多いように見受けられます。

ずっと昔、海外旅行が貴重な機会であった頃は、海外を旅する人には、もうちょっと好奇心とか、学びごころがあったと思うのですが。

 

往路の飛行機の中では、前の席の若い男女が,今までに見たことがないほどいちゃついていました。

また、帰りの空港では、若い女性に「これ見てて」と、カートの荷物を押しつけられました。済みませんでもなければ、理由も時間も言わないで勝手に置いていってしまったのです。

いまバリ島へは、何がなくても、ちょっとしたお金さえあれば、面白く遊びにゆける世の中になってきているのです。

 

先方にも多分問題はあるのだろうと思われます。

私が過去に訪ねたいろいろの國、とくに辺境に位置し、就職の難しい國では、男も女も、ともかくも人間としてちゃんとした人が、通訳、案内人を勤めてくれた思います。

ところが、ジャンボ機で日本人がジャンジャン押し掛けるバリ島では、相当能力的に劣る人までが案内人の地位を得ているように思えたのです。

 

国と國との間で、ある層のグループだけではなく、いろいろな階層の国民が接するということは望ましいことではありましよう。

ただ、両方の力のあいだに差があるときには、一方は奢り、他方は卑屈になる危険性があります。奢ったほうにとっては、そのとき気分が良いだけの一過性のものですが、屈辱を味わったほうには屈折した思いがいつまでも沈潜する可能性があります。

私は40年前、第二次世界大戦で降伏したばかりの日本人として、富に格段の差があった戦勝国アメリカで1年間生活しました。

この場合、私が接したアメリカ人たちは、その意味で大変に素晴らしい人たちばかりでした。

ところで今のバリ島で、日本人たちとインドネシア人とを見ていると、多少、心配なところがないではありません。

どうしようもない財布の重さの差から生ずる差別感を乗り越えて、心の通う友人になることのできる何ものか、たとえば教養とか人格とか、そのような共通するものが求められるように思うのです。

 

かく、非難がましいことを述べている私にも、もちろん問題はあります。

われわれの登山を見て、ガイドさんは心からびっくりしていました。

登山道はしっかりしていましたから、バリ島でも登山者の存在が、超・稀なものではなかろうとは思います。

しかし、普通の日本人が登山家について抱いているイメージは、インドネシアには全くないようでした。それは、ガイドたちの社会で登山が話題にならないだけではなく、初登頂だとか遭難だとかの報道も多分ないからなのでしょう。

「いつの日か平和になったら、ボロブドール遺跡に来てみたい」と私が言いましたら、ガイドさんは、ボロブドールは周りを歩くと2時間ぐらいだから、是非訪ねて来て歩くようにと勧めてくれました。

彼の様子は、私が仏教遺跡として関心を持っているのではなく、トレッキング・コースとして歩きたがっていると思って勧めているようでした。なんだか、歩くことに異常な興味を抱く、得体の知れない人種だとでも思っていたのかも知れません。

日頃、日本国内でも、頼まれたわけでもないのに何であんな苦労をして山へ登るのかという疑問は、いつも投げかけられているところです。

当方にも、こんなような異常な点があることは認めておきます。

 

・海浜の貿易風に凧揚がる

 

♡深田クラブ

そもそも、今回参加した旅行は「深田クラブ創立25周年・バリ島バトゥール山ハイキング」なのです。

深田クラブというのは、「深田久弥の日本百名山を目指すこと。登山家であり、文筆家である深田久弥を研究すること」を掲げた、登山クラブです。そして、山登りだけではなく、ペンクラブ、カルチャークラブをもって自任しているのです。

現在、会員は約130名、首都圏を中心に北海道から九州まで、全国に分布しています。

私は深田さんをよく知っていたから、この会に入会したわけではありません。信州百名山の著者、清水栄一さんに勧められて,何となく入ったのでした。

その後、深田文学に造詣の深い諸先輩の研究結果を読ませていただいて、今では深田さんに、尊敬と同時に非常な親近感を抱いているのです。

こんな話があります。深田少尉が中国の戦線で「君、僕にお茶をくれないか」など言っていると、中隊長から言葉が優しくていかんと注意を受け「当番,茶!」と怒鳴るまで、若干の修練時間を要したり、部下に調査を依頼(威張って言えば命令)したりしたそうです。私は、そんなところに、たまらなく共感を感ずるのです。

今の日本の職場でも、全く同じ仕事の成果を「課長にやらせました」と報告する部長と「○○君がやってくれました」と言う部長とがあります。

そして、分かっている中隊長も、分かってない中隊長もいるのでしょう。

深田さんも、東洋流の儒教的なものが、人格形成の根っこにあったのでしょうか。

 

今回の参加者は13名、女性がお二人参加されているので、年齢は推定になりますが、平均68才近辺でした。

ともあれ、会が発足した25年前には、仕事にも山にも、強力なメンバーだった訳です。

 

・常夏の島に句論を捏ね廻す

 

♡バリ島の山登り

バリ島に登る山なんてあるのかとは、誰にも言われます。

まあ、読んでみて下さい。

ともかく、二つの山に登りました。

 

バリ島北部の有名な観光地キンタマーニ高原の中央にあって、30分に一回ぐらいドーンという音と共に、側火山から噴煙を吹き上げているバトゥール山に登りました。

標高1717m、登山口からの標高差は約750mですが、午前10時から登り始め、大きな火口壁の最高点とおぼしいところに13時に到着しました。

生憎、天気が良くて、灼熱の太陽が容赦もなく照りつけ、飛び切り暑いのには往生しました。

ガイドさんが卵を担ぎ上げていて、火口壁の地熱で半熟にしてくれそうでしたが、みんな、水気に乏しいそのアイデアにはノー・サンキューを言いました。

バトゥール山には、ここの高原に遊びにきた普通の観光客が、その美しい姿に魅せられて、出来心で登るケースも結構多いようなのです。

多分そのせいなのでしょう。登り始めると、われわれ隊員と同じぐらいの人数の現地人が一緒に歩き始めました。彼らは、いわば全員、ガイド立候補者なのです。

彼らはコカコーラのビンを開けようかと、仕草で問いかけます。こちらの頭が前後に動いたら、たちまちジュースが差し出されることでしょう。

また、ちょっと急なところへ差し掛かると、何本もの手が差し出されます。掴まったら、ガイド料金を要求されるのでしょう。もっとも、大した額ではないに決まってはいるのですが。

だれかが、彼らのことを胡麻の蠅と言いました。ともかく、ここの連中は、今までの海外経験の中で、一番長く纏わりついてきた胡麻の蠅でした。

でも、われわれは日本から、この山に登ることを目的にして来ているのですから、装備は万全です。彼らから買ってやるものは、何もありませんでした。可哀想なことをしました。

その現地の人たちの集団の中には、よく見分けがつきませんでしたが、正式に雇ったガイドも3人ほどいたはずなのです。ところが火口壁の内側の平らなところに分岐が幾つもあ?て、どれを採るか迷ったことがありました。この実際に必要な時には、正式に雇ったガイドは、1人も見当たりませんでした。要するに変なガイドたちでした。

 

バトゥール山には、全員で登りましたが、そのほか有志7名で、観光組と別行動をとり、もう一つアグンという名の山に登ったのです。

16世紀初頭、それまでジャワ本島で文化の花を開かせていたヒンドゥー教は、イスラム勢力に押され、王子が僧侶や文化人たちを連れてバリ島に逃れてきたのでした。

その王子の名前がアグンだったのです。

そして、インドネシア全國ではイスラム教徒が人口の約90パーセントなのに、ここバリ島では逆に、今でも住民の約90パーセントがヒンドゥー教徒なのです。

もともとヒンドゥー教は寛容な多神教です。仏教の仏様まで自分の宗教の神様の1人として取り込んでいることを、最初、知ったときびっくりしました。

バリ島のヒンドゥー教も、その寛容さのゆえでしょう、この地にあった昔からの宗教と融合して、バリ・ヒンドゥーと呼ばれるものになっています。それは、発祥地インドでのヒンドゥーとは、かなり異なったものなのです。

まず、ブラフマ・ヴィシュヌ・シバというインド・ヒンドゥーの3最高神の上に、さらにサンヒャンウィディというスーパー最高神を設けています。また、インドでは牛を神聖なものとして食べませんが、ここでは神に捧げたり食べたりします。

そしてバリ・ヒンドゥー教では、アグン山は世界の中心であり、神が宿る最高の聖地とされているのです。

バリには東西南北のほかにカジャ(善)、クロッド(悪)という方向があります。善はアグン山の方角、悪はその反対の海の方向なのです。

どの個人の家のお寺も、個人の敷地の中のアグン山に近い場所に置かれているのです。

日本にたとえれば、どの家でも富士山の方向に仏間を設けているということになるのでしょうか。

私たちが登ったときも、登り始めに麓のお寺で花を供え,線香を焚いて登山のお許しと安全とをお願いしました。

また、トップで登頂した隊員の1人が、頂上で、とある岩に腰掛けようとしたところ、それは聖なる岩だから避けるようにと、ガイドから注意を受けたとのことです。

山頂に全員揃ってから、その岩に線香を焚いてお祈りしました。

 

 

さて、アグン山はバリ島のほぼ中央にあり、標高3142mの活火山、もちろん島での最高峰です。

1963年大噴火を起こし、今世紀最悪といわれる2000人以上の犠牲者を出したとのことです。

アグン山の登り口は標高約950mですから、標高差は約2200mになります。

比較のため富士山と較べて見ると、富士山では頂上の標高が3776m、スバルラインの終点の登山口は2304mです。標高差は1400mほどしかありません。

日本では,甲斐駒ヶ岳に韮崎側から登る場合が、アグン山に匹敵する唯一の標高差になります。

熱帯にあるアグン山の登山では、昼は暑くて耐えられないので、夜中に歩きます。そして途中に小屋などありません。

 

具体的なスケジュールを見ていただきましょう。

9月19日

  6:00 起床

       終日観光

 18:00 夕食

 20:00 ホテル出発

 22:00 登山口から登高開始、夜通し登り

9月20日

  8:20 最終隊員頂上到着

  8:30 下山開始

 14:00 登山口帰着

 16:40 ホテル帰着

 

帰りのバスでは、さすがに全員眠りこけていました。

 

ホテルから登山口に向かう途中で約10分間、マイクロバスのワイパーが窓ガラスを撫でました。これが、今回の旅を通して出会った唯一の雨でした。バリ島の9月は乾季なのです。

登山口はベサキ寺院の横で、右側の夜空に、大きな塔が幾つか黒々と見えていました。

歩き始めてから小一時間、緩い村道を登り、ヒンドゥー教のお寺へ入り、お祈りを捧げました。

一人一人、折った色紙にお花を乗せたチャナンというものを捧げ、線香を両手に挟んで頭の前にさしだして、ガイドさんがもぞもぞお経を唱えるのを聞き、その線香を地面に突き立てました。

始めは、日本の線香のように香料の粉を固めた、折れやすいものかと思っていたので、恐る恐る土に刺しましたが、ここの線香は細い竹串に香料の粉を塗りつけたものなので問題ありませんでした。

あとは真っ暗な夜道を、ヘッド・ランプの光を頼りに登って行くのです。

最初は竹藪のような感じでしたが、登るにつれて大きな木の聳えた森に変わってゆきます。

月のある夜なので、木の間から前方にずっしりと大きな黒い山体が見えます。最初から、登りの所要時間は10時間と覚悟していますから、その山影がアグン山の本体なのか、それとも前山なのかは一向に気にはなりませんでしたが。

隊列があまり広がらないように,ときどき先頭が止まって待ってくれます。そんなとき腰を下ろそうと杖で探ると、草の底に応えがなく、崖っぷちだったりします。見えないということは不便なものです。

2時頃、月が沈んで行きました。今更のように、沈んだ方角が西なのだなと位置を再確認しました。これも森の中の夜の旅ならではのことであります。

4時頃、標高も高くなり、さらに冷え込んできます。ゴアテックスを着込みました。

あちらこちらに盛んに流れ星が飛ぶ夜でした。

オリオン座の3つ星も上がってきました。日本では南の空を通って行くこの星座も、ここではほぼ真東から上がり、頭の真上を通ってゆくのです。高山の澄んだ空気の中なので、プレアデス星団の星の数が、12個どころでなく沢山に見えました。

北の空にはカシオペア座のWが下向きに見えます。いつものようにWの真ん中の延長線を追って目線を流すと、地平線にぶつかってしまいました。

そうです、ここは南緯8度、北極星は地平線の下にあるのです。

つい一月前、北緯53度カムチャッカのアバチャ山では、このカシオペアと北斗七星に挟まれて、高く輝く北極星を眺めたことでした。

6時近く、薄明るくなった頃、岩壁に差し掛かりました。トップのガイドは難しいルートのほうに入ってしまったようです。

行き詰まり、幽かなステップを右にトラバースし、小さなゴルジュを抜けてここを突破しました。この岩壁は、帰りには、やさしいルートを採ったので、まったく拍子抜けしてしました。

その後は、大きな石のごろごろした斜面を登って行きます。すでに3000mに近く、空気の薄さが気になってきています。

我々を途中で追い抜いて行ったドイツの若い人は、ここから引き返したようです。疲れ、寒く、息苦しかったのでしょう。それは私たちにとっても同じことなのです。私たちは、ただ、そんな状態に馴れているというだけのことなのです。

下からは頂上のように見えたところまで登ってみると、緩い傾斜の道がまだ先に続いています。明るい色の,肌理の細かい流紋岩が、まるでコンクリートで固めたように細い道になっていました。

この辺りから、風の強い地帯に入りました。気温そのものは10度ぐらいなのですが、風が強いので、ついつい気弱になってしまいます。

ここを登り切ると、いよいよ火口壁に出ます。そして途中にピークを挟んで、はるか遠くに最高点が見えてきます。

私はここでエネルギー切れを意識し、強い風の中、どっかりと座ってサンドイッチを飲み込みました。

先行者の足跡を辿って行くのですが、一カ所、細かい火山礫の斜面で、なぜ稜線を通らずに不安定なトラバースをしているのかなと思ったところがありました。通り過ぎてから、そこを振り返ると、稜線の裏は、雪庇の裏のように奈落の底まで落ち込んで

いるのでした。季節風が強い新しい火山では、こんなところもあるのです。

火口壁を回り込んでゆくと、地形上風が弱くなり、良い気分で頂上を踏むことができました。

遠く薄霞に覆われたジャングルに、影富士ならぬ、影アグンが映っていました。

そして足下には、恐ろしくて覗き込めないほど深く、焼け爛れた凄絶な火口が口を開けていました。函館の東にある恵山を何十倍も大きくした感じと言えばよいでしょうか。

 

・北極星見えぬここの地南緯九度

 

♡山は物差し

下山を始めて、また、なにか足下がはっきり見えないのに気が付きました。

もちろん良いことではありませんが、と言って慌てふためくほどのことでもないのです。

4年前、モンブランに登ったとき、始めてこの体調の異常に気が付いたのでした。

去年のオリサバでは、これのせいでリタイアしたのでした。

過去の何時か、こんな体調になったときに、いったん遠くに目を移したあと、足下に目を戻すとよく見えたことがあったことを思い出しました。

今回もやってみましたが、今回は一向に効果がありませんでした。

足を止め休息すると、確実にこの現象は消えてゆきます。しかし、歩き始めると、また直ぐにおかしくなってしまいます。

今度の山は長丁場ですから、いろいろやってみました。

 

利き目(ききめ)という言葉をお聞きになったことがおありでしょうか。利き腕と同じ意味で、よく使われるほうの目のことをいいます。

あなたの利き目がどちらなのか調べて見ましょう。

まず、普通に両方の目を開いたまま、時計でも花瓶でもよいのですが、なにかを指さしてみて下さい。つぎに、そのままで左の目を閉じてみて下さい。いったん両目を開いて、今度は右の目を閉じてみて下さい。

どちらか片目で見ている時に、指が横にずれているはずです。

私の場合は、右目を閉じ、左目で見ているときに指先が右にずれています。

つまり、指を差す位置が、右の目からの情報の指示で行われているのです。このとき、私の利き目は右だということになります。

いろんな人に伺ってみると、利き目が右の人のほうが、左目の人よりも多いようです。

 

アグン山の頂上直下に腰を下ろし、遠くの山を指さし、利き目の検査をしてみました。

どうでしょう。いつもは指が水平に右にずれる左目で見る場合に、なんと45度右下にずれ、それだけでなく山の大きさも心持ち小さく見えているではありませんか。

もともと動物が二つの目で見て、物の大きさとか距離だとかを判断するには、左右の目から入ってくる情報を、頭の中に蓄積されたデータベースと照合し答えを出しているはずです。実際、カメラの焦点はこうして合わせているのです。

この時の私の状況は、ちょっとマシなパソコンなら「左目からの情報が間違ってます」と画面で警告してくる状況なのであります。

これでは私の頭の中の情報処理は、錯乱状態に陥っていたことでしょう。

 

後日、小学校の同級生で、脳神経に詳しいお医者さんにそのことを話しました。

彼が言うには、脳の運動野の脳幹に近い部分で、血液中の酸素の供給が不足すると、そういうことはあることなのだそうです。たいして珍しくもないという口振りでした。

私は、高度を下げれば直るのだから、短い時間、たとえば狭心症の発作をニトログリセリンで凌ぐように、錠剤でも飲んで押さえられないかと企んだのです。でも、それは注射じゃなくちゃ無理だね、と言われてしまいました。

システムの計測・制御を商売にしてきた私には、彼からの話を聞けば聞くほど、人間の体も金物でできた機械とおんなじで、高山で起こる視力障害も、機械にゴミが挟まったり、潤滑油が粘っこくなった時に起こる故障と似ているなあと、大変、良く理解してしまったのです。

 

百聞は一見にしかずと言われるように、目は人間にとって大層性能の良い、しかも大事な感覚器官であります。ところが人間は、他人の目と取り替えて使ってみるということはなくて、みんな長年自分の目に馴れて、こんなものだと思って使っているのです。

生まれつき、人によって、随分良い目と、悪い目があるに違いありません。

極端なケースとして、生まれつき片目しか見えないのに、それに馴れて、なに不自由なく暮らしている人だって何人も知っています。

そんなことを考えて、私も左目をつぶって歩いてみました。でも、おかしな像を見ている左目でも、開いている方が歩きやすいことが直ぐに分かりました。

 

私は危険な山を避けていますから問題はないのですが、もしもずっと標高の高い、氷と岩の山で重い視力障害を起こしたら、それだけでも致命傷になることもありえましょう。

ひとことで高度障害と片づけられる原因にも、脳の中の高度な情報処理の障害や、末端に近いセンサーの障害などいろいろ種類があるのだろうと思います。

 

今まで私に起こっている程度の障害ならば、やたら急ぎさえしなければ、危険はないと思います。周りの人たちには気取られないはずです。なにせ山の下り道なら、もう何百万歩も歩いていることでしょう。体も足もすっかり覚えているのです。

ところが麓に近くなって、道の底が固く、その上に小さな火山礫が薄く乗っているところへ来ると、やたら滑って尻餅をついてしまいました。

そこで、これはおかしいぞと、ひと思案しました。

こういう場所では、爪先に重心を掛けていないと滑るのです。今回は、やはりよく見えないことが原因になって、自衛本能から腰が引け、体重が後ろに掛かってしまっていたのでした。以後、本能を思考力で押さえ込み、肩を前に出しながら下りました。

 

今までこの症状が出たときには、ちょっと高度を下げると直ぐ収まったのですが、今回はわりにしつこく続きました。

標高#1400メートル辺りで腰を下ろして休んだとき、目をつぶると大層気持ちが良くなりました。

そのあと「そろそろ行こうか」という声で目が覚めたのですから、1〜2分うとうとしていたのでしょうか。それですっかり症状は消えていました。これから見れば、今回の視力障害は過労も原因のひとつだったのでしょう。

でも、最年長の I さんは、なんと77才で、ご一緒して下さっているのです。私ごときには、とても I さんの真似はできません。

 

以上、本人のことですから、ごたごた述べましたが、客観的に見たとき、若くてぴんぴんしたガイドと、年を取って血の巡りが悪く、目がおかしくなることのあるガイドと、お客さんはどちらに着いて行きたいと思うでしょうか。

言うまでもありませんね。

加齢による衰弱や異常の発生は、目だけのことではない筈です。

ある年齢になったら、誰しも、常に自分でそのことを考えているべきなのでしょう。

他人は、それを口にすることが不利になるとか、気まずくなるとか思って、決して教えてはくれないものなのです。

そんな浮き世の中で、山だけは決してお世辞を言いません。

山こそ「自分を測る最も正確な物差し」なのです。

 

・バリ島にあっけらかんと駄句を積む

 

                       

 

重遠の入り口に戻る