私とバナナ

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小学校5・6年の頃のことです。
何かの加減で河合塾の河合さんの息子さんのご学友になったことがありました。
河合さんのお宅に参上し、一緒に家庭教師から教えられるのでした。
そんなある日、おやつにバナナを頂いたことがありました。
「世の中にはこんな美味しいものがあるのかしら」と感激しました。
私の家は長男を疫痢で亡くしました。食べ物には狂信的に警戒心が強かったのです。
風土病の島とされていた台湾から輸入されるバナナを、子供に与えるなんてありえないことだったのです。

中学2年の頃です。
高射砲陣地を造る、土運びに狩り出されていました。
台湾から帰ってきたという兵隊さんが自慢していました。
「みんなバナナ、バナナと目の色を変えるが、バナナも三日も食べればいやになる」。
4日も5日も食べてたいと思いました。

昭和26年、アメリカ、ニューヨーク州スケネクタディのGEの工場にゆきました。
最初の宿はYMCAでした。
小さなドラッグストアに入ると若い工員さんがバナナの大きな房を事もなげに買ってゆくではありませんか。お店の人も、粗末な紙袋にこともなく放り込んだのでした。
当時の日本は戦争でスッカラカン、外国から物を買うお金などまるでありませんでした。
輸入品のバナナなどあろうわけはありません。
なけなしのお小遣いを握りしめ「ギブミーバナナ」と言ってみました。驚くほど一杯くれました。
それをYMCAの窓、例の上げ下げするやつです、紙袋のままバナナを外に、窓で挟んで冷蔵庫代わりにしました。時は12月、冷えたバナナを頬張るおいしさ、その便りを2週間かかるエアメールで読んだ在日の家族は舌なめずりをしていたそうです。

私は皮が茶色になるほどよく熟れたバナナの香りを楽しむのが好きです。
アメリカで議論になりました。
"Green Banana is tolerable , but Brown Banana No !  "と、叫ぶのがいました。
若くて実に清楚な女子高校生でした。

台湾の玉山に登りに行ったときのことです。車を駐車場に入れました。片側一車線の道路の向こう側に屋台が並びバナナも売っていました。
台湾人のガイドさんは横断するとき、もう必死で車とぶつからないようにと叫んでいました。私たちにはそんな危険とは思えなかったのですが。
不思議ですねぇ。バナナとそう関係はないのですが、バナナに向かうとあのときの光景が必ず頭に浮かんでくるのです。

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