アンコールワット・ハロン湾

(2006/06/12〜16)

重 遠の入り口に戻る

日付:2006/7/30



・ご一行
今回は旅行会社のパックツアーに参加しました。こんなに楽なことはありません。
名古屋からベトナムのハノイに飛ぶ便はボーイング777でした。この大きな機体にお客はバラバラ、混むのも嫌ですが、あんまり空席が多いと商売をやってゆ けるかしらなど要らない心配をしてしまうのです。
飛行時間約7時間でハノイに到着、乗り換えて今度はエアバス320という小さい飛行機で約1時間飛びカンボジアのシェム・リアップに到着しました。
一行は夫婦2組、女性の二人連れが2組、単独が男女ひとりづつの、女性7,男3の合計10名でした。そのなかで、煙草なしではすまされないのはおひとりだ け、煙草のみには肩身の狭い時代になったものです。
爺ひとりのわたしは、「いつもおひとりですか」「はい」「奥さんを亡くされたの?」と聞かれました。そのとき日本も変わったものだと思いました。
30年ほど昔にアメリカを旅していると、夫婦連れでないと、そういうふうにいわれたものでした。当時は日本人が仕事以外で外国旅行をするなんて稀なこと で、そして仕事の場合は当然のように男だけで行ったものでした。あの頃は外人たちは仕事上の出張でも、原則として夫婦連れで日本にきていたものでした。
今回ご一緒した旦那様は、お二人ともとても優しい方でした。お買い物タイムには、このお二人の同性がいて下さったお陰で、どんなに助かったかしれません。
中華料理のターンテーブルでは、料理が自分の前にきたときに取るものだとばかり思っていた私には、二組のご夫婦とも奥様が旦那様の分も取って差し上げ、つ いでに離れた私の分まで取って下さるのにはびっくりしました。
よそのご夫婦を観察するって新鮮なものです。

・飛び立つや天地分かたぬ梅雨の空

・タ・プロム遺跡
ハノイからジェット機でシェム・リアップ空港に着きました。想像どおり市内は建設中を含め、ホテルまたホテルでした。ガイドさんが「アネハさんの設計、こ こなら大丈夫。地震ない」と冗談を飛ばしました。ここは平均的なカンボジアとはまったく別な活気ある都市なのです。
アンコールワットがあるシェムリアップ市は、カンボジアの東北部、タイとの国境まで100kmほどの場所にあります。アップという英語の単語を覚えている ばっかりに、ついシェムリ・アップと思っていました。実はシェム・リアップで、シェムはシャムつまり今のタイのこと、リアップは追っ払う、タイの侵略軍を 追っ払ったという意味だそうです。

このあたりに9世紀から14世紀にかけてアンコール王朝の都があったのでした。
町の名が示すように、ある時は西からタイ国に、またある時は東からベトナムに侵攻されていたのでした。もちろん、こちらから攻め込んだことだってあったの です。お互いにゾウを戦車にした血湧き肉躍る戦闘だったのでしょう。
現在のカンボジアの人口は1300万人です。両隣にあたる、タイが6200万人、ベトナムが8200万人ですから、挟まれた小国として苦労が多かったこと でしょう。
両国に攻められ、1835年(天保6年)ついに行政権を奪われてしまいました。その後、シャムとベトナムが頭越しに協議した結果、両国に両属する形で国の 存続を認められました。
明治になる直前の1863年、ノロドム王が、形としては自ら求める格好でフランスの支配下に入ったのでした。
世界の強大国と結び、有利な条件を獲得しようという路線からだったのでしょう。その後、中共に近づいたこともありました。ポルポトが支配した暗黒時代は、 毛沢東が演出した文化大革命運動と酷似しています。

ポルポト時代にカンボジアでは、非エスタブリッシュメント国民が、エスタブリッシュメント国民を殺す異常事態になり、700万あった人口が半減したと聞か されたことがありました。この被害者の数字は四分の一とも3分の一ともいわれ、あの頃のことは正確な数字などないのでしょう。
ともかくも、その人口が1979年から今までの30年ほどのあいだに、約3倍に増えているようです。人類にとって、人口あるいは人口増加率を決めるもの は、一体、なになのかという大変な実験をしたといえるのではないでしょうか。
アフリカ諸国の人口爆発について、人類がどう考えるかの参考になるかもしれません。

・熱帯の長旅の夜やシャツ濯ぐ

旅の二日目、市内のホテルを8時30分に出発し北上、アンコールワット遺跡に突き当たってから東進し、約20分ほどでタ・プロム(カンボジア語で慈母寺 院)遺跡に到着しました。
ここは、例の石で造られた宮殿に、ガジュマルの巨木の根っこが絡まっているところです。(本によっては木の名前がスポアン、榕樹とも書かれています。ガ ジュマルの一種で現地語でスポアンと呼ばれているのでしょう)
木の根が絡まっている場所は、観光ルートで見ただけでも30本ほどありましたから、決して特別な現象ではないのです。見学の最後ごろ「なによ、木の根っ子 ばかりじゃないの!」という声が聞こえたぐらいです。


遺跡に絡まるガジュマルの木の根


ここもそうですが、あとで訪ねた遺跡でも、特別に管理されている場所には30mを越えると思われる巨木があります。しかしそれ以外の場所では巨木が生い茂 るジャングルは目にしませんでした。日照、気温、降水量に恵まれた土地なのですが、住民が生活に使うため伐採するので、樹高数メートルの密生した自然林が 広がっています。
このあたりの田舎では、いまでも炊事には薪を使っています。
自転車の荷台に薪を積んで、いかにも重そうによろよろ走っているのをよく見かけました。
ついでながら、夜の照明には自動車のバッテリーで豆電球を点灯するところまで近代化されているようです。

このタ・プロム遺跡は、ジャヤーヴァルマン7世(1181年 - 1220年?)が母の菩提を弔うために建てた寺院なのです。
彼はアンコール王朝の最盛期の王で、インドシナ半島ほぼ全域を版図に収めていたのです。粘り強く国づくりを進め、アンコール・トムを都として造成しまし た。熱心な大乗仏教の信者であった王は、都の中心にバイヨン寺院を建設したほか、バンテアイ・クデイ、タ・プロム、プリヤ・カンなどの仏教寺院を建設した のでした。

現在、カンボジアの宗教は、ひと言で仏教だといわれるほどの仏教国です。
ただ、現地ガイドさんは、ヒンドゥー教と仏教だと説明しました。
彼はここが今のように大観光地になる前から、遺跡の門前に住んでいたといいます。自分はヒンドゥーだといわんばかりでありました。
このあたりは802年から1431年までクメール王朝の都でした。そしてクメール王朝では、そのほとんどの時期がヒンドゥー教で、わずかにジャヤーヴァル マン7世とその次の代だけが仏教だったのです。

わたしは宗教の専門家ではありませんし、よく調べたわけでもありません。
でも、あちこちの情報を、わたしなりに整理すると、カンボジアの宗教事情は下記のようだと思われるのです。

当然、太古はほかの人類と同様、木や石に霊が宿るとする、その土地土地のアミニズムでありました。
1世紀頃、西方、インドから海路を経て、仏教とヒンドゥー教とがもたらされました。ただ、それは伝わってくる途中に、経過地でいろいろなアミニズムで修飾 されていたようです。そして、最後はアンコールの人たちに受け入れられるように、従来から地元にあったアミニズムに、すり寄ったのだと思われます。
その過程は、メキシコではマリア様の肌が褐色だったり、日本でも神仏混淆の時期には天照大神は大日如来の化身であるとされたり、別に珍しいことではありま せん。
明治に入ってからのキリスト教伝道が意外に硬直的なのは、そのころにはすでに交通手段が発達し、時間距離が短くなり、修飾することが不自然になっていたの でしょう。
さて、カンボジアの政権交代が、ときの宗教集団の勢力争いと絡むことも人類の歴史が教えるとおりで、他の国の事情と異なるものではありませんでした。
王の地位に登りつめるのには、沢山の人を引きづり下ろしたり踏みつけたりしなくてはなりません。そのため王は良心に責められ、心の安らぎを得ようとして厚 い信仰心を持つことになります。他方、宗教集団の側では、安心を得させ寄進の多い信者を獲得しようとして、信仰心はともかく、きらびやかなファッション・ アップに精力を傾けるものです。
こうして1431年、最終的にシャムの侵攻により首都をはるか南のプノンペンに移すまで、アンコール王朝のもとに多くの壮大な寺院が建立されたのでした。
時が移り、仏教国といわれている現在でも、ヒンドゥー教のシバ、ビシュヌ、ブラフマーの三神がことごとに登場するのです。また、土地固有のアミニズムの信 仰も、まだ根強く強く残っているそうです。
日本だって結婚式は神主様、葬式は坊様、クリスマスはキャロルです。
それはそれで、結構、よいものじゃないでしょうか。

このあたりの遺跡築造に使われた材料は、煉瓦、砂岩、ラテライトの3種類であります。                            
このタ・プロム遺跡では、基礎部分にラテライトが、上部の建造物には灰色がかった砂岩が使われています。
ラテライトというと、いままでアフリカ、インド、オーストラリアで見てきた、酸化鉄の含有量が多くて赤い色をした岩石だと認識していましたが、ここのラテ ライトは白に近い明るい灰色でした。多孔質であるため彫刻には向いていないので、基礎に使われているとのことでした。穴といっても、直径数ミリメートルの もので、ミミズが沢山住んでいた土が石になったとでもいったらよいようなものでした。ともかく、わたしが今まで見たことのない岩石で、相当多量に存在する のですから、どんな成因なのか気になっています。


ラテライト


・バンテアイ・スレイ遺跡

次ぎに訪れた遺跡はバンテアイ・スレイでした。

道端に高床式の粗末な家や蟻塚が散見される道を、一時間半ほど東北へ走ってゆきます。



・炎昼の赤土の道辿る旅


バンテアイが砦、スレイが女性、つまり「女の砦」というわけです。
967年に造られた比較的古い建造物で、シバ神とビシュヌ神に捧げられたヒンドゥー教の寺院です。
規模こそあまり大きくありませんが、今回見たうちで一番良質の材料を使い、細かい彫刻がはっきり残っています。使われているのは赤い色の砂岩です。インド でさんざんに見た、あの木曽の檜の彫り物のような、粘っこく風化に強い砂岩なのです。
アンコールトムのバイヨン宮は、ここバンテアイ・スレイよりも200年も後に造られましたが、材料の砂岩が悪く、ひどい状態になっているのと対照的です。

まったくの私見ですが、わたしは近代ヨーロッパ人の遺跡発見物語を疑っているのです。よく、「隣国との戦いに疲れ、時の流れがその 繁栄を密林の中に追い やったのです。アンコールは次第に密林の中に埋もれ、永い眠りについてしまったのです」というように書かれています。


1100年前の砂岩の彫刻


ここアンコール遺跡群は、メキシコのマヤ文明、チチェン・イツァー遺跡が密林に埋もれていたのと比べても状況がかなり違います。
アンコール地域は沖積平野で、人が生活するのに適した土地です。そして、諸王の年代や事跡が細かく判明しているのです。
説明されるカンボジア諸王の業績が、自国で記録されたものなのか、それとも周辺国、たとえばシャムとか中国の記録に拠っているのか聞きたくなってきまし た。でも、現地ガイドにそれを尋ねて困らせるのも本意ではないと思い、聞くのを控えていました。
でも、ここ10世紀に造られたバンテアイ・スレイの門に、はっきり文字が刻まれているのを見てしまいました。現在のシャムとかベトナムで使われている文字 とよく似た横書きの文字でした。記録された媒体が石碑なのか、木簡、竹簡あるいは紙なのかはわかりませんが、日本と同じレベルで、自国の歴史が自国の文字 で伝えられたにちがいありません。

人類の歴史を振り返るとき、15世紀から20世紀にかけては植民地の時代だったという見方もできましょう。
いろいろ異論もありましょうが、新興国であるアメリカ合衆国が、過去の列強諸国が行ってきた植民地経営に批判的であり、その U.S.A が地球唯一の強大国になり、民主主義、民族自決を煽ったことが、植民地時代の終焉を決定づけたといえます。アメリカだって人間社会の常として自己の利益を 最優先させるのは自然ですが、旧世界諸国に比べれば理想主義的な気質は強いのです。


BC967年のカンボジア文字

植民地時代の宗主国はヨーロッパ諸国でした。その時代は、被征服国の事情が本国に伝えられるルートは限られていましたから、白人以 外の 有色人種は知能が劣る野蛮人であると広く深く認識されていたのが現実です。
明治以後の日本は、アジアで唯一、ヨーロッパ列強のシッポにしがみついたような国でした。そのため、ろくな情報も知識もないままに、南洋の〈野蛮国〉を見 下し、自己満足していました。
わたしが子供のころには、南洋の土人は怠け者で、ちっとも働かず、一日中ごろごろ寝てばかりいると聞かされたものです。
また、「わたしのラバーさん、酋長の娘、色は黒いが、南洋じゃ美人」というような歌がうたわれていたことを、いま、恥ずかしいような気持ちで思い出すので す。
アンコールの地に住んでいた人たちにとって、遺跡は生まれたときからあるもので、とくに珍しくはなかったことでしょう。
でも、新しく入ってきた西欧人たちが「今まで聞いたこともない巨大な石の寺院がある。土人たちは、ここに住む虎や猿どもと変わることなく、遺跡について研 究もしなければ、ヨーロッパ社会に報道もしない。文明社会に発信するのは自分が最初なのだ」と考えても不思議ではないでしょう。
この印象に、一枚、フィルターをかければ「密林の中に埋もれ、永い眠りについてしまっていた」になったと思われるのです。

ここバンテアイ・スレイ寺院の赤色砂岩に精巧に彫られた女神の像は「東洋のモナリザ」の名を与えられています。
1923年、フランス人作家で、のちに文化相をつとめたアンドレ・マルローが、この寺の浮き彫りを盗み出そうとして逮捕され、裁判にかけられたのでした。
もっと昔ならば、未開国の珍品を持ち帰ることなどは、文明国の知識人として誰もがしたことでしょう。そしてまた現代ならば、文化財の略奪とされるのは明白 です。マルローの事件は歴史の一齣でありましょう。


東洋のモナリザ

・アンコール・ワット遺跡
訪ねたのは6月中旬なので、雨期の始まりでした。猛烈な暑さで日中は35度を超え、とくに風がないのがこたえました。
午前中にタ・プロム、バンテアイ・スレイとふたつの遺跡を見て回り、昼食後ホテルに帰りお昼寝タイム、そして午後3時からアンコールワット寺院の見学とい う、いままでの旅行で経験したことがないスケジュールでした。
セコイわたしは、お昼寝時間なんて、もったいないという気持ちを抑えられませんでした。

アンコールワットの見学を、午後のこの時間にするのにはもうひとつ理由があります。
正門が西を向いているので、午後遅い時間だと逆光にならないからです。
アンコール王朝最盛期に建造された寺院だけあって、東西1500m、南北1300mと、ともかく巨大です。五つの塔がそそり立ち、中央祠堂の高さは65m もあります。
修復が進んでいて、石がゴロゴロ転がっているという感じはありませんでした。
徳川幕府初期の1632年、日本人森本右近太夫が、お釈迦様が教えを説いた祇園精舎を求めてきて、ここアンコールワット寺院を、それだと思いこんだという 話もあります。彼が感激し讃えた墨書が柱に残っています。
中央祠堂に通ずる、たいへん急な石段が4カ所あります。一カ所、東側の石段だけに手摺りがついていますが、それでさえ、下りの一歩を踏み出すのを躊躇する 長い列ができていました。


アッ コロブ ワット !!


アンコールワット遺跡は昔から知られているのですが、ポルポト内戦の終結、地球人の総リッチ化、空の旅の普遍化を受けて、1995年には年間約5500人 に過ぎなかった観光客が、2004年には地元観光客を含めて約60万人に急増、今年は100万人を突破する見込だとのことであります。
まさに爆発的な増加であります。

アンコールは都市を、そしてワットは寺を意味します。アンコールワットの中には池があって、その水面に映る「逆さアンコールワット」は、観光の目玉でもあ ります。


・アンコール石塔映す夏の沼


わたしはその池のほとりで、持参したGPSに標高画面を表示させてみました。GPSとは人工衛星からの電波を捉え、緯度、経度、標高など示してくれる計器 なのです。なんと、27.5mという数字が出ました。予想外に低いようなので、そのときは何となく腑に落ちませんでした。
この日の夕方、日没を見るためにプレ・ループ遺跡を訪ねたとき、また測ってみました。ここはちょっと高いテラスの上でしたが44mと出ました。後日、グー グルアースでも確かめましたから、大きな間違いはありません。
海から直線距離で約450km内陸に入ったこの土地が、そんなに低いということはショックでした。川は直線ではありませんから、すくなくても600kmは 流れなければ海に到着しないでしょう。ちなみにガイドのお兄さんはまだ海というものを見たことがないといっていました。河の傾斜を計算すると100m流れ て5mmしか低くならないのです。ほとんど平らですから、テーブルに水をこぼしたような感じです。
日本でも大きな川の河口付近は傾斜が緩く水の流れは緩やかです。しかし直線距離450kmといえば、ほぼ名古屋から仙台ぐらいですから、この長い距離を水 が流れてゆくのは容易なことではないはずです。
カンボジアの中央を流れるメコン川は、ラオス、タイ、カンボジアと流れる全長4000kmを越す大河です。木曽川の227kmとは比べになりません。雨期 には、海に吐けきれない水は途中で溜まらざるを得ません。
アンコールワットのすぐ南に、アジア最大の淡水湖といわれるトンレサップ湖という湖があって、その洪水を溜め込む役をはたしています。
乾期には水深約1mで面積が琵琶湖の3倍ぐらいなのですが、雨期にはメコン川から逆流して水深9m、面積は乾期の3倍にも拡大するといわれました。
メコン川本流の水は、この湖まで、なんと120kmも支流のトンレサップ河を逆流して流れ込んでくるのです。ともかく、なにもかにもスケールが大きいので す。

こんな状態ですから、川に清らかな水など流れているわけはありません。
現地ガイドさんは「貧乏な家は浅い井戸の水を使う。鶏のウンコなど流れ込むから、子供はすぐ病気になる。お金持ちはパイプを打ち込んで深いところの水を使 う。金持ちがふえて、水のくみ上げで地盤沈下が起こっている」と説明しました。
わたしが「シェム・リアップの街の水はどうしてるの?」と聞きましたら、日本の援助で地盤沈下と関係ない遠い場所に井戸を掘って汲み上げ、そこから送水し ているとの返事でした。
でも、いつかは地下水に頼っていられない日がくるのでしょう。しかし汚くても水そのものは河にあるのですから、人口さえやたら増えなければ、中国やインド のような深刻な水問題にはならないと思います。

・プレ・ループ遺跡
プレは「変わる」、ループは「体」、つまり王様の火葬場だったのです。
961年に建造されたものですから、今回訪れた遺跡では一番古いものです。このころは、建材に煉瓦がかなり使われています。
タイのアユタヤ遺跡の建造物は煉瓦で作られているので、それとよく似た雰囲気を感じさせられました。アユタヤは14世紀から18世紀までですから、ここよ りもずっと遅い年代です。アンコールでは煉瓦の使用はこのプレ・ループを最後にして、あとはより大きく立派な石材を使うように変わっています。砂岩の産地 は約50km離れています。アンコール王朝の繁栄に従って、労働力が豊富になり、運搬手段にも進歩があったのでしょうか。

ここプレ・ループのテラスで日没を見物しました。
先程のアンコールワットでは、いろんな国の人を見かけましたが、ここはもうほとんど日本人ばかりでした。
翌日の早朝、アンコールワットの日の出を見物しにいったときは、ガイドさんのほうから「日の出を見に来るのは日本人だけ」といわれました。
日本人だけが、そんなに日の出や日の入りを見るのが好きだとも思わないのです。むしろ、せっかく外国へ来たのだから見られるものは見ておきたい、スケ ジュールに入っていれば異を唱えない、という、勤勉、和の精神からだと思います。


黎明アンコール・ワット

日没を待っているうちに、だれかがハーモニカを吹き始めました。「故郷の空」でした。前の日にセントレア空港を飛び立ったばかりな ので すが、異国の地で大海原のように広がるジャングルを眺めながら聞く日本の歌に、しんみりさせられました。

・夏夕凪ここはお国の何百里

GPSをいじっていると、ほかのグループについている現地の女性ガイドが、ケータイですか?と聞いてきました。緯度、経度、標高、アンコールワットからの 距離などわかるんだよと教えました。彼女は標高がわかると聞いて目を輝かせました。たまには、標高を聞くお客さんもいるのに、答えられなくて困っていたそ うです。
そのときはテラスの上でしたが、44mを示していました。アンコールワットの池のところでは27.5mだったから、海抜約30mといえばいいのじゃないか といっておきました。ついでにカーナビの話など、ついつい話し込んでしまいました。
ツアーによっては、知識のないエンタテイナー型のガイドに当たるときもあります。それも、お客さんの好きずきですが、わたしは真面目な勉強家で、よく説明 してくれるガイドが好きなのです。
データといえば、もうひとつ、このあたりの降水量はどれほどかと聞いてみました。ガイドさんは知りませんでした。そんなことを質問する観光客なんていない のだろうと思います。帰ってから調べましたら、1300〜2000mm程度、日本とあまり変わりません。

この日の見学を終わった後のディナーショウ付きのレストランは、バイキングスタイルでした。串焼きを待つ列に並んで待っているあいだの暑さといったらあり ませんでした。
客席の柱には首振り扇風機があり、それには水のスプレーがついていました。席では水の飛沫は気になりませんでしたから、途中で蒸発しその分温度が下がって いるのでしょう。湿度の高いときには霧吹きを止めるのかどうか、確かめたい気がします。
日本でも貴船の河床料理とか料亭の作り雨などありますね。

・作り雨添えてハノイのディナーショー

・アンコール・トム遺跡

アンコールは「都市」、トムは「大きい」だそうです。
3km四方の城壁がこの都市を取り囲み、その中にはいろいろの施設があります。南大門から始まって中央のバイヨン寺院をはじめ、いろいろの王朝時代の遺跡 を見て回りました。

アンコール・トムの中心にあるバイヨン寺院は、バは美しい、ヨンは塔だそうで、50近い塔に117の人面がついているといわれま す。人面はどれも、わたし には仏様のお顔に見えました。


一番奥はウタ子さん?

ここバイヨンでは、壁の彫り物が面白いのです。群衆の中で、おばさんが持っているスッポンが前の男の人のおしりに噛みついていて、 その 男の人が振り向いて怒っているのなんて、なんとも着想が面白いではありませんか。

一日見ていても、飽きることはなさそうです。でも、暑いこと暑いこと。


なんでスッポン イタイッたら!

ここの遺跡でも、茶店街には物売りが一杯いました。
ついでながら、警察の取り締まりが厳しいとかで、遺跡の中に限れば、どこも物売りに嫌な思いをさせられたことはありませんでした。
ともかく、海外旅行と物売りは切り離せません。とくに人件費が安い国では、猛烈なアタックに悩まされます。
カンボジアの年間ひとりあたりのGDPは300ドル程度、日本の100分の1にも足りません。
小さな子供に、たどたどしい日本語で買ってくれとせがまれ、商品の扇子であおがれたりすると可哀想でしかたなくなります。

わたしたち一行はあまり若くもないので、つい、自分の孫のことなど思い浮かべて買ってやりたくなってしまいます。どうせ安い物なのですけれども、要らない 物を際限なく買うわけにはいけません。なにせ相手は雲霞のごとく群れていますし、不公平な好意はかえって平安を損なうといわれていますから。
われわれ仲間はみんな心を動かされながら「ごめんなさい。もう買ってしまったの」というような言い訳をしては、通り抜けていました。


現地ガイドさんは、小学校は午前と午後の二部授業だから、どの子も公平に物売りに参加できるのだといっていました。
ご自身の心に言い聞かせるように「同情を引こうとして子供を売り子に仕立てて、親はハンモックで昼寝していることもあるんだって」などおっしゃっておられ た年配の女性が、誰にも分からないように、フッと子供に1ドル紙幣を握らせたのをわたしは見てしまいました。
もしもわたしに子供がいなかったら,孫がいなかったら、物売りの子供にこんなにも心を動かされることはないのでしょう。我慢できなくなってお金を渡した女 性は、可愛いお孫さんを、さぞかし愛しておられるに違いありません。
日本では、少子化問題のアンケートに「育てるのに金がかかるから」という回答がかなりあったりします。少しでも多く補助を引き出したいという戦略はわかり ますが、家族愛のない人生なんて、むなしくはないでしょうか。
大きなバナナの房を差し出して「1ドル」といったおばさんにも「ごめんなさい、買えないの」と心から謝りました。
顔が見えない援助とはいわれますが、配分段階はユニセフなどにお願いすることにし、些少な募金などして心を休めることにしましょう。

・小さき子が大き扇を売りてあり


・スイスの援助、日本の援助
シェム・リアップの街の大通りに面して、小児科の病院がありました。
スイスが寄付してくれたとのことでした。
町の中にあるものですから、何度もここの前は通ったのです。

最初に通ったのは午前9時頃でした。大変な人だかりでした。「今までは子供が病気になっても診てくれる医者はありませんでした。診てもらうお金だってない んです。だからここができてからは大助かり、遠くからも泊まりがけでくるようになったんです」との説明でした。
日の出のアンコールワットを見ようと、まだ薄暗い時間に通ったこともありました。「いま、順番の札を配ってる」。なるほど長い列を作って並んでいました。
ディナーを食べてからホテルに帰るときにも通りかかりました。
「この病院、食堂がない。みんな屋台にきて食べる。病人のもここで買って持ち込んだりもするよ」。なるほど、道の両側300mほどに、食べ物やオモチャな ど売る小さな屋台がひしめいていました。
この小児科病院が、どのように建設され、どのように運営されているのか存じません。
でも、どんなにカンボジアの人々から感謝されているかは、はっきりわかりました。

アンコールワットへゆく立派な道にさしかかると「この道路、日本がくれた」といわれました。
このあたりの遺跡群の調査、復元についても「日本がやってくれている」と言及されました。
上智大学・石澤良昭教授が団長になられ、内戦が続いていた1980年からすでに遺跡群の調査・修復に取り組んでおられることは、以前から承知していまし た。
とくにユニークなのは、この事業をカンボジアの人々自身で継続できるようにと、人材養成に力点を置いておられることです。地元の石工を育てるのはもちろん のこと、考古学者、環境保護行政官の育成にも注力され、すでに4人の博士が誕生し、政府機関で活躍しているなどの成果をあげておられます。

1995年、わたしはカンボジアの首都プノンペンにきたことがありました。そのときメコン川を渡る長い橋を「日本の援助で造ってもらったのだ」と感謝され たことを思い出します。
あのときの出張は、日本が供与した発電所の完工式への出席が目的でした。5000キロワットと、そんなに大きなものではなかったのです。でも、過去に旧ソ 連やフランスが供与した大きな発電所は、補修が行われないために、廃品同様になっていました。それで日本のものは、実際に電気の出てくる発電所として大歓 迎されたのでした。
完工式にはシアヌーク国王夫妻も出席されました。当時、わたしは下請けのまた下請けの立場でしたが、前列の端っこにいたため、国王がいきなり握手をして下 さったのでびっくりしました。

国際援助が援助される側から感謝されていることは当たり前のことです。
ところがマスメディアをとおると、必ずしもそう素直には報じられないことは興味ある現象です。
かって日本のマスメディアが、反体制の人たちが主張する「日本政府が援助、援助と宣伝しても、設備は日本製、工事も日本のジェネコン、地元が望みもしない ものをつくり、あとは放りっぱなし、金は日本に戻り、国内の資本家を肥らせる官民癒着だ」というようなことを好んで報道した時代もありました。
最近でも、自衛隊によるイラクからの撤収に際して、地元住民が「自衛隊がきて2年たったのに暮らしがよくならない」「最も必要なのは電力。自衛隊は街に来 て、地元の要求をもっと聞いて欲しい」と不満を口にしたなど、賢しらげに報道しているのを見かけます。
2年前に派兵が論議された際には、人道復興支援のために派遣するのだと説明している政府を、まるでイラクの民間人を撃ち殺しにでもゆくように難じていたマ スコミがです。
つくづく、報道の目的は何なのかと、考えさせられます。
たしかにどんな社会にでも100人に2人ぐらいは、不満分子がいるものであります。
一部の記者にとっては、社会の公器として、事態を公平・正確に伝えることが目的ではないのでしょう。「犬が人を噛んだ」ではなくて、「人が犬を噛んだ」と 言ってくれる人を嗅ぎ廻り探し回っている光景が目に浮かんできます。

・見るべきほどのことは見つ
アンコールの遺跡群は、今回訪ねたオフシーズンでも観光客で溢れかえっていました。
遺跡の庭には馬や牛がいて、のんびり草など食んでいます。仲間のひとりが「逃げてゆかないんですか」とガイドさんに聞いていました。そのときわたしは、日 本の日常生活では、家畜が人間の生活に融け込んでいた時代は遠くなったものだと感じました。家畜にとっては、たとえ最後が人間に食べられる運命だとして も、仲買人に売られるまでは、人間とは食と住を提供してくれる慕うべき存在なのです。

・夏草や昔は馬も出征す

牛や馬が草を食んでいるといっても、遺跡のまわりは草ぼうぼうではなくて気持ちよく整えられていました。
誰かが「庭の手入れに機械は使わないの?」と訊ねました。ガイドさんは「機械だったら2,3人でできちゃう。人手でやれば10人も雇える」と答えました。
アンコール遺跡群に入る手前に、高速道路の料金所のようなバスの検問所があります。乗客は3日間40米ドルで買った顔写真の入ったパスを掲げるのです。 「アリガトウゴザイマス」そう言って通してくれました。「かわいいね、日本語かわいいね。でも、あの男の人は可愛くないね」そういってガイドさんは笑わせ ました。
ガイドさんは「今日の人、明日はいない、別の人。仕事が少ないからみんなで分けてる」。このせりふは日本人に毎回説明しているようでした。
小学校は午前と午後、分けて授業があるといいました。校舎を二つのグループが分けて使っているのはわかりましたが、先生は午前、午後で仕事を分け合ってい るのかどうかは聞き漏らしてしまいました。

朝4時に起きて、薪でご飯を炊き、長い道のりを自転車で町の学校まで通ってくる生徒もあるそうです。これでもシェム・リアップは、カンボジアでは特別に近 代的な町なのです。
世界の人類にはいろんな生き方があります。日本とカンボジアでは、その両極のような生き方をしている気がします。
そのどちらの生き方も、自分の信念から選んでいるわけではないのです。カンボジアの人々も収入が増えることを望んでいますし、増えれば自家用車を持ち環境 破壊の度を強め、自身は運動不足で肥満になりお金をかけてダイエットに心がけるようになるに決まっています。
どちらの社会で暮らす人々にとっても、楽しい日々があり、また悲しみの時間があるのです。そして結局は、小さなネズミよりは長く、大きなゾウよりは短い、 人類の限られた寿命のうちに命が尽き果て、死んでゆくのです。

若いころは、個人としてどんな生き方がよいのかとか、どんな社会が望ましいのかなどと考えたものでした。
でも今は、人間というものは「そういうものだ」ということ以外に、特別の感慨など湧いてこないのです。
寿永の秋、平知盛もこんな心境で「見るべきほどのことは見つ」と口にしたのでしょうか。

・市場
3日目、シェム・リアップ市での最後の見学は市場でした。
ふつうの人もゆく市場なので、野菜があったり、魚の干物が強烈な匂いを漂わせたりしていました。それでも結構、菓子、袋物、アクセサリーなどの、お土産屋 も多いように感じました。
われわれ男3人は、女性たちにくっついて動いていました。
面白い発見をしました。
男性だったら、一番目の路地に入り突き当たりまで見て、二番目の路地を戻ってきて今度は3番目の路地、と動くと思うのです。
でも、女性は2番目の路地を戻ってくるやいなや、一番目の路地にまた入っていったのです。旦那様が「そっち、違うんじゃないか」と言っても耳に入らない様 子なのです。
考えてみると男の思考体系は、まず見る、そしてどれを買うかを決めようというスタイルなのです。それならば、まずは万遍なく見て歩くという行動になるわけ です。わたしの場合など、買う気を起こさせるものなど、まずあるまいと決めたうえで歩いているのですから、余計、見物専門になるのです。
他方、女性の場合は、気に入ったものを安く買ったと感じさえすれば良いのですから、せいぜい3軒ぐらい見て、値段の安いのを買えば、それで心の満足が得ら れるのでしょう。どうせバッグやスカーフなどの品物自体は、どの店でも大同小異なのですから。
ふたりの旦那様たちは、店員たちからどんなに買えとすすめられても、「わたしは荷物の持ち役だから」とニコニコ笑っておられました。

ちょうどにわか雨が激しく降ってきました。市場の真ん中あたりの通路の柱に、ビニールシートをまるめて太い管が作ってあり、母親が流れ落ちる雨水で裸の子 供を洗ってやっていました。文字通りシャワーだと思いました。

・スコールや手を引かれゆく裸の子

なんといっても市場のまわりは生活の場なのでしょう、子守をしている子供たちを幾組も見ました。
日本でも昔は、小さな兄や姉が、もっと小さな弟や妹をオンブさせられたものです。それが今の日本では、雲を突くような両親がベビーカーなどに大事に子供を 乗せているのです。
人口爆発の国、少子化不安の国、旅は楽しいですねぇ。


・海の桂林、ハロン湾

今回のツアーに参加したひとつの理由として、アンコールワットのほかに「世界遺産ハロン湾観光」が入っていたことがあります。
ハロン湾の景色は海の桂林といわれ、石灰岩でできた尖った島々が海に林立しているのです。

先年、地質学会の見学会でアメリカ西部を旅行したとき、ハロン湾が話題になりました。そのとき耳にした「石灰岩は生物の骨格が起源といわれるが、ハロン湾 を見ていて、骨格だけでなくてマトリックスとして石灰分の多く析出するような水環境も考えなくちゃいけないと感じた」という大先生のお言葉が頭に残ってい ました。


海の桂林


旅の4日目、朝、7時30分ハノイ市のホテルを出発しました。
ホン河(紅河)にかかる橋は、市内へ通勤する車で大混雑でした。まだ、バイクが乗り物の主力です。
30年前、アメリカ空軍の北爆に晒され、レーザー誘導の爆弾で破壊される様子がテレビで報道されていた橋なのです。
ベトナム戦争も遠くなったものです。

堤防の上のガタガタ道を1時間近く走り、陶器の町バッチャンで製陶工場を見学しました。

古陶磁の世界には、立派な権威者が沢山おられます。わたくしごとき美的感覚の無い男がものを申すのは、間違いなく馬鹿丸出しの標本のようなものでありま す。それを承知で申せば、古陶磁界に占めるウェートを、中国産が50%、朝鮮産が20%、日本産が20%、その他少々といたしましょうか。その少々のなか に宋湖録(スンコロク)というジャンルが存在し、それはベトナム(安南物)、タイ、フィリピンなどから渡ってきた品物だとされています。
御老体が眼鏡を鼻までずり落とし、ためつすがめつ眺めながら、両手で茶碗をなで回しているような古陶磁の世界ばかりを思い続けてたどりついた私にとって、 バッチャン村の陶器工場で若い娘さんたちが絵付けをしている光景が、なにかしらアナクロのようにに映じました。
帰国してから、ネットでバッチャン焼きと検索してみると、いや、出てくるわ出てくるわ、ファッションとして大人気なんですね。驚きました。
現在はロクロではなくて、石膏の型にドロドロの粘土の液体を注いで作っています。この方法は、日本でも小型の送電用碍子やコーヒーカップなど作るのに採用 されていて、正確に大量生産するのに優れた方法であります。
バッチャン焼きの場合、上絵付けを100パーセント手書きでおこなっているため、同じものがふたつとない点がウリになっているのでしょう。
現在では、世間の好みに合わせるため、よそから持ってきた土を使い、1225度と高温で焼成しています。わたしも参考のため小品を買い求めました。
バッチャン村では、古くは13世紀の頃から焼きものの生産を始めたとあります。そして、それは煉瓦を焼いていた技術の発展・延長だったと説明されていま す。

煉瓦工場は、ハノイ市を出たときから目につきました。たしかにバッチャン村にもありました。でも、ハノイからハロン湾に向けて行程の四分の三ほど走った右 側遠くに沢山の煉瓦工場が固まって見えました。ひとつひとつは同じような大きさで、真ん中に煙突の立った炉があり、左右に建物が付いた構造です。この日 走った道から受けた印象は、北部ベトナムの主工業は、煉瓦製造業であると言いたくなるほどでした。
この煉瓦工場団地のある地域には、大きな火力発電所もありました。
たしか、世界で最高の品質を誇るホンゲイの無煙炭もこのあたりで産出するはずです。

バスは何度も大きな河を渡りました。なにせ地図のない旅行なので、河がどう流れているのか、道がどう走っているのか、さっぱりわかりませんでした。
日本に帰ってから地図を見たり、グーグル・アースの衛星写真を見たりしているのです。そのかぎりでは、ハノイ市は海から約100km内陸に入っているので すが、市は海抜4〜5m、ホン河の氾濫原扇状地になっていて、一本の河がドーンと流れているというより、過去の流路が複雑に入り組んでいるようなのです。
堤防の上を走っていると、河の水面の方が周りの水田より高く見えました。
グーグルの写真からは、一応、3mほど河の方が高い数字が出ています。そこまでグーグルから読み取れるものかどうかは知りませんが。
日本だってそういう、いわゆる天井川のところはあり、大雨のときはポンプで汲み上げて排水するのです。
でも、ハノイ平野はとんでもなく広く、わたしには排水する手段は考えつきません。多分、年中、水浸しだろうと思うのです。その意味では、土地が平らなこと と考え合わせると、水は厄介者にされているのだろうと想像します。日本のように適当な傾斜があり、水が要る時期には取り込み、要らないときには流し出せる ことは幸せです。
米作は基本的に三毛作だそうです。稲刈りをしているところも見ましたし、青田も見ました。
稲を刈っている水田でも、腿のあたりまで水浸しです。稲を水面から出たあたりで刈り取り、あぜ道まで運んでいました。
石油エネルギーを使う農機具は、ただ一度だけ見ただけです。牛を使っているのは見ましたが、ほとんどは人力です。
もう日本では久しく見ない天秤棒で担いで運んでいる人も見ました。
なにせ、濡れて重くなった稲を、腿までの水の中を運ぶのですから、大変なことです。水田も広いのですが、働いている人も多いのです。家族総出で働いている のでしょう。
あれやこれや、むかしの日本の農村を思い出す風景ばかりでした。
そして、ベトナムの水田地帯での労働に耐えられる日本人は、今日、ただの一人もあるまいと確信した次第です。

・牛悠々草喰むにひと田草取る

ハノイからハロン湾まで、ほぼ真東に100km、約3時間、到着したハロン港には似たような観光船が100隻以上もひしめいていました。
早速、観光船に乗り、シーフードの昼飯、水上住宅訪問、鍾乳洞見学で観光を終わりました。


住めば都


海上にも押し売りが


日本では元寇のとき神風が吹いたと伝えられます。ここハロン湾でも、元の軍隊が攻めてきたときに、湾に住んでいた竜の親子が火を降らせ、打ち破ったと伝え られています。
3000もの奇岩・島々があり、漢字では下龍湾と書きます。多分、カロンと読むのでしょう。長年フランス領だったので、フランス読みしてアロン湾と書いた のも見かけます。
なんといっても、ここが世界遺産とされた理由は奇怪に尖った石灰岩の島々が海面から突き出ている風景です。それを観光船のデッキから、望見することはでき ました。


ハロン湾


しかし現時点の観光では、ハロン湾の持てる魅力の10パーセントも見せていないのではないかと、わたしは思うのです。
中国の桂林から繋がる膨大な石灰岩の固まりが、いったいどれほどの規模なのか、またどうしてここにあるのか、水の浸食と無関係に見える鍾乳洞は、何時ご ろ、どんなにしてできたのか、そんなことを展示する博物館もいずれは作られることでしょう。
また、観光ルートも3000もの島を、うまく見てもらえるように開発されてゆくことでしょう。
この世界遺産としてふさわしい天からの贈り物を、この社会主義国がどんなスピードで人類の宝にすることができるでしょうか。いつまでも鍾乳洞をカラー電球 で照らして「ワー・キレイ」だけですませていてよいものではないでしょう。

・黒南風や水上住居犬も飼ふ

ハロン湾からバスでハノイに帰り、ホーチミン空港までの飛行機内の機内食を夕食とし、真夜中発の便で朝7時半には中部国際空港に帰り着きました。
その日の午後には知人の祝賀パーティに出席したのですから、丸4+α日の旅だったと申してもよろしいでしょう。

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