題名:2000年秋 東北の山

(2000/11/2〜5 釈迦、荒海、七つ岳)

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日付:2000/12/10


・陸奥の紅葉に酔って迷俳句

私はたった一枚の紅葉を見ても、また、それが少々虫に食われていても、単純に感激するたちであります。

しかし、今年秋、福島の旅で出会った紅葉には、心底、嬉しくなってしまったのでした。

土地、植生、夏の日照、降雨の状態、台風が来なかったこと、そして訪れた時期など、総てがベストだったのです。

 

その結果、やたら、紅葉を詠んだ駄句を吐き出すことになりました。

こんなにペロペロ出てくるなら、オレにでもできる、いと易しいものだと、ご自身の励みにしていただくのも結構です。

こんな俳句モドキなんど、オレの作品とは格が違うと、お笑いぐさにして頂くのもまた結構であります。

 

塩原に紅葉も澄めり水も澄む

 

湯の街の紅葉の紅や一入に

 

紅葉を映す小沼の朝かな

 

錦秋の壁にこの道突き当たる

 

紅葉山トンネルを抜けまた紅葉

 

紅葉撮る素人写真家カーブごと

 

この秋も熟女ばかりが紅葉狩る

 

車にか風にか紅葉戦きぬ

 

譬うれば木々赤と黄に終焉す

 

黄葉照るはや吾が生に悔いはなく

 

暮れきりて紅葉は尚も紅葉たり

 

目裏にまだ紅葉して夢路かな

 

生ありて唐松落葉踏み得たり

 

稜線の径フカフカと落葉敷く

 

登山路は踝までも落葉敷く

 

茸狩り父の追憶近く遠く

 

・鶏頂山

JRで関東平野を北上すると、宇都宮を過ぎて、最初に左手車窓に現れる山塊が高原山であります。長く裾野を引き、幾つかの山頂を持つ秀麗な火山であります。

広い,大らかな斜面には、数多くのスキーのゲレンデがあります。それらのゲレンデはリフト、ゴンドラなどで結ばれ、一大リゾート地域になっています。

 

高原山の最高峰は釈迦岳(1795m)です。われわれはまずこれに登りました。

最初はスキー場のゲレンデの横を登って行きます。

そのうちに枯木池という尾瀬ヶ原を小さくしたような湿原の木道を通過します。

さらに緩い裾野を登り、弁天池という小さな池に着くと、にわかに宗教色が現れてきます。石造りの祠、鐘があり、縁起の書かれた石の板がありました。

釈迦岳の頂上には、等身大よりも二周りほど大きい、お釈迦様の石像が鎮座しておられました。

 

ここから稜線づたいに1時間ほどで着く鶏頂山の頂上には、ちょっとしたお社までありました。

どちらも、頂上からの展望は素晴らしいと書かれていますが、我々が登った時は、ただ霧の中でした。

鶏頂山は1700年ほど前に、霊山として開山されたと縁起書に書かれてあります。

この話がまともなら、開山は弥生時代のことで、仏教渡来より相当前のことになります。そのころ、日本にどんな原始宗教があったのか、大いに興味のあるところであります。

もっとも、現在の社殿が紀元2657年に建立されたとありましたから、時間のスケールが特殊なのかもしれません。

鶏頂山信仰は、木曽の御嶽山に登る御嶽教とも、関係があると書かれていました。

また縁起には猿田彦とか、平家の落人なども登場して来ます。

 

これらのことから、小うるさい文人たちが、こと細かく書き留めることのなかった関東は、上方と違ってやっぱり大らかで、夢のある話が結構幅をきかせていたような雰囲気が見受けられます。

昔、京の公家たちは、板東武者と無骨、軽蔑の意味を込めて呼んだのですが、この山に登って看板を読んでいると、実は骨太というべきもののような気がしてきたのでした。

 

・荒海山

この山は日光の山群と那須の山群との間、栃木県と福島県の県境に位置しています。

福島県側からは荒海山(アラカイサン)、栃木県側からは太郎山と呼ばれています。

あちらこちらには、荒海太郎山とも書いてあります。

私たちは、わりに快調なペースで稜線まで出ました。

そこからはもう、山頂とおぼしきピークが近くに黒々と見えました。

しかし山頂までは、ガイドブックにはまだ2時間もかかると書いてあるのです。

「あれが頂上だとすると、途中は相当の道らしいですね」、同行の丸山さんにそう話しかけたのでした。

尾根の取り付き点から200mほどは、すっかり葉を落として明るくなった雑木林の中の、気持ちの良い道でした。

厚く降り積もった枯れ葉を、ガサガサと踏む贅沢を味わいながら進んで行きました。

 

ところがこの後は、難儀な道がえんえんと続いていました。

幸いなことに、滑落するような危険な場所こそありませんでしたが、なにせ五月蠅い上り下りの連続なのです。

結構急な崖を折角登ると、またドカドカと降ったりするのです。

極端な場合,尾根の横に突き出た大木1本を越えるために、よいしょ、よいしょと上下しなくてはならないこともありました。

 

全く山登りの経験のない人から「私にでも2000mの山に登れるでしょうか」など質問されることがあります。

実は、山登りの難易さは標高以外にいろいろの条件があるのです。

 

高さだけなら、南米ボリビアの首都ラパス市では、標高4000mの街中を沢山の市民が、どうということもなく歩き廻っています。

日本でも乗鞍岳では標高約2700mの畳平まで、歩かなくてもバスが運んでくれます。

登山の難しさとして、アイゼン、ピッケルが必要だとか、ロープを使いこなさなくては駄目だとかの表現は、まだ理解しやすいといえます。

でも、荒海山の登山道は、それともまた違った、難路だと言えます。

ともかく荒海山は、登山の難易が標高だけではないことを知りたい人には、是非とも一度はトライすることを、お薦めしたいような悪路でありました。

 

この山へ登るのに、かなり林道の奧まで車を乗り入れ、ちょっと道が広くなったところに駐車しました。

そこは、昔、八総鉱山とその選鉱場のあった所だったのです。

看板に八総鉱山についての説明が書いてありました。

この鉱山は昭和44年まで操業していたのでした。

鉛、亜鉛、硫化鉄の鉱石を産出し、その一部は四日市まで送られ、精錬されていたことを知りました。

採掘の最盛期には、家族も含め2000人を越える人がここで生活し、小学校まであったのでした。

 

日本には、石炭、金、銀、銅、鉄、石油などいろいろの鉱物資源があり、過去、それなりに採掘、精錬が行われていました。

しかし生産規模の拡大と交通手段の発達により、すべてがグローバルなスケールで評価されるようになると、「小男は総身が知恵でもしれたもの」でしかない国内鉱山は、次々に閉山に追い込まれました。

今から考えると、こんな山奥で、小さな鉱脈をよくもまあ探し当てたものだと、改めて感心させられます。

 

山師(やまし)と呼ばれる人たちがいました。

広辞林で引いてみましたら、・鉱物を掘り出すことを業とする人、・山木の売買を業とする人、・万一の幸運を頼みにして仕事をする人、投機師、・詐欺師とあります。

つまり山師というのは、直ぐにでも儲かる当てがあるような話をしては、他人から際限なく金を引き出す、身内に持ちたくない人種というニュアンスが強いのです。

しかし、國レベルで考えれば、放っておけば価値のない資源を、役立つようにしてくれるのですから、有益な仕事であります。

してみれば、組織を作り、鉱物発見にあたる人を養成し、生活を保障して探鉱にあたらせ、発見したときには組織の財産にする、つまりプール運用をすれば良いではないかということになります。

 

しかし、一攫千金という餌がないと、人跡稀な険しい山に立ち入り、想像もできない苦労をしながら、少ないチャンスを追い求める熱意が起こるとも思えないのです。

 

この何年か、ベンチャー企業がアメリカの繁栄をもたらした原動力として囃されています。

現実に、たまたま当てたコンピューターソフト企業があります。市場を制し、短いインターバルで新しいソフトを出し続けています。そして、それほど古くもないソフトをもう使用できないようにして、ユーザーにそのつど、高価な新ソフトを買わざるを得ないようにし向け、膨大な利益を懐にしています。

ベンチャー企業こそは、現代の山師といえるのではないでしょうか。

万一の幸運を頼みにして、たまたま当てた人の成功報酬が、社会的にどこまで許容されるのかは、人類永遠の課題、乃至は関心事であり続けるのでしょう。

 

・滑滝

七つ岳の登山口から20分ほど登ったあたりに、なんとも不思議な登山道がありました。

谷の幅は6メートルほどあるのですが、底には岩盤が露出していて、その断面は平らと言ってもよいほど緩いカーブになっていました。その上、まるでセメントで固めたように凸凹がないのです。そして、その低いところを靴底ぐらいの深さでサラサラと水が流れているのでした。

いうなれば滑滝(ナメタキ)なのですが、なにせその状態が凄く長距離にわたって続いているのです。

岩の質は、昔、海中火山の噴出物が海底に積もって、長い年月のうちに固化してできた凝灰岩だと思われましたが、ここの場合、非常に均質な砂が積もったようであります。

普通ならば岩床は、いったん水で抉られると、そこに水が集中して流れ、段々浸食が深くなるのですが、ここでは、なぜか全体がとても平らなままなのです。

どうしてこんなになるのか、考えてみました。

水量があまり多くないこと、岩がわりに硬いこと、その固い面が山の傾斜と一致していること、春先に深く固い積雪で平らに削られることなどのうちのどれかが原因になっているのでしょう。

 

・ふたつの民宿

最初の夜泊まった民宿には、部屋が20ほどもありました。

風呂には、露天風呂さえ付いていました。

大広間で、豪華な夕食を頂くと、カラオケが始まりました。とても上手なお客さんたちが、次々と喉を披露していました。

お勘定も、1万円近くでした。

 

次ぎの日に泊まった民宿は、車を止めて外へ出ると、退屈していた犬が飛びついてきました。

客室は3部屋でした。

階段をヨチヨチと登って部屋に案内してくれたおばあさんが「私は腰が痛いので、女のお客さんには自分たちで床をとってもらってるの。でも、旦那さんたちには頼めないから」なんて言うのです。

自分が旦那さんだと思ってない丸山さんと私は、もちろん自分で敷いたのでした。

食事は、一組は宿の老夫婦と炬燵で、あとは隣の部屋で小さなテーブルを囲んで食べたのでした。

部屋の床の間には、印刷した七福神の掛け軸が垂れていました。

その下に、恵比寿様、大黒様の置物があり、100円入れて見るテレビ、そして週刊誌、漫画本の類が積み上げてありました。

これこそ、ほんとの民宿だねと、2人でうなずき合ったのでした。

お勘定は約6000円でした。

 

おばあさんは足は不自由でしたが、口はとても達者でした。

あるとき荒海山に登りに来たという、兄妹を自称する70才を越えたカップルの話は、彼女の十八番のようでした。

その兄妹は登った日の中に帰ることが出来ないで、下山路、山中で夜を過ごしたのだそうです。

ところが、その夜にどこかで写真機をなくしてしまい、写真機は諦めるが写したフィルムはどうしても欲しいので探して欲しい、もし、見付けてくれたら3万円出すと提案があったとのことです。

探しに探して遂におじいさんが見付け送ったところ、約束のとおり3万円送ってくれたのだそうです。

そして礼状に、なんと「家内に知られるとまずいから、電話しないでくれ」と書いてあったのだそうです。

なんとなく不倫の匂いのする、うまく出来た話ではありませんか。

ところが、折角のこの面白く発展しそうな話も、この夜の客は無粋な者ばかりで「ああ、そうですか」と聞き流すだけ、あえなく立ち消えになってしまったのでした。

 

              

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