題名:俺達に友情はない

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日付:1998/12/15

俺達に友情はない

説明


俺達に友情はない(ウソです。S君愛してます)

先日私、友人のS君に「ダンパ行かない?」といわれて不覚考えることもなしに同意してしまいました。それで早稲田の何とかいうスキーサークル主催のDance Partyに行ってまいりました。一時に待ち合わせて奴が来たのが一時半、奴は「カゼひーてナンパする気なんかおこんないよー。」とゆっていました。ちなみに奴(S君)は慎重174cm、体重○○kgのスリムな湘南boyであります。私はどーってことない名古屋boyであったのです。

ダンパは2時からで、こんなに早くからやんのかーと感心していたらSにこんなもんだよ、と教えてもらいました。場所は六本木の某DISCO,とゆーわけで中にはいったんです。

中はわりと暗くて、近視のSは、「へんな女をつまかえるとヤバい。女の顔がわからん」とぶつぶついっていました。奥の方でボケッとしてても女の子見つかんないから入り口の辺でつっ立ってたら(もちろんボケっとつっ立っていたのは私の方で、Sは鋭い視線を光らせていたのですが)しばらくして女の子の二人づれがはいってきました。Sはつかつかと歩みよると「君たち女の子2人?××××××××××××××××」とゆいました。私が(へーなれたもんじゃ)と感心しているうちに4人でtableにつき酒なんぞのみはじめたわけです。

女の子は清泉女子大の2年生。一人はわりと大柄で(という印象をうけましたが)あーゆーのをサーファーGALとゆーんじゃないかなとゆー子。もう一人は目のパッチリしたそそとした感じの子。話しているうちに私をのぞく3人が湘南方面の土着民であることが判明し、一人名古屋出身であった私は話が地方のマイナーな方におよぶとなかなか苦しかったのです。

せっかくダンパにきたんだから少し踊ろうとSがいったのが少したってから。少し彼女達と離れた時に私と奴がかわした会話。

私:いったいあれはなんなんだ?

S:割と感じのいい子達じゃない?

私:ふーん(さふいふものかと思う)

S:オレあっちのそそとした女の子(以下「甲」と称する)がいい。

私:えっ、おまえあーゆーのが趣味なの?

S:おまえはオレの内面のナイーブさを知らないんだ。

私:.......(ふーんと感心する)

Floorがせまくて、人がいっぱいいて、10秒間Floorにでたらひじうち3発に足ゲリ2発をくらったくらいなもんで。結局中ではおどりませんでした。

会話をリードしていたのはおもにS、私はあまりしゃべりませんでした。Sの話し方をふむふむ、こーゆー風に話をはこぶのかと感心して見ていたのです。

5時ごろダンパは終わり外へでました。日が長い折、曇りだったけど外はとっても明るかった。そん中を一人赤い顔して歩くのは少し恥ずかしかったのです。(4人のなかで一番酒に弱かったのは私でした。)しばらくサ店はいったりしてブラブラした後、Sが、「ダンパに来ながら全く踊っていないのは非常に心苦しい。私は断固DISCOへ行くことを主張するものである。」とかなんとかいーだして、女の子二人は多少おつかれ気味であんまり気のりしそうでなかったのだけれども、サーファーの子(以下「乙」と称す)が積極的な子で、結局またもやDISCOに行くことになったのです。

DISCOに行く前ふらふらと歩いていた時、乙が(サーファーの方)Sとしゃべっていたので必然的に私は甲(おとなしく見えた方)としゃべることになりました。駒トラの話なんかしたら多少笑ってくれたけどほんとに笑ってくれてたのかな、あやしいもんだぜ。

DISCOに入る直前Sは小声で私に「これまでの状況から推察するに私は乙(サーファー)の相手をすることになりそうである。私はそれを不服としないのであるが私個人の願望としては乙よりはむしろ甲(おとなしそうな方)を相手としたい。かかる状況は私の意志に完全に即しているとは言い難い。」といーました。とはいっても私が別にどうこうできる訳がなく、乙が積極的にSの相手をしている為にかかる状況が生じたのだと私は思っていました。

又々DISCOにはいってまあ適当にしゃべってみたりおどってみたり。乙さんのおどりは上手だったなあ。日曜だから割とすいてて、すいてる所で踊るのはどきょうのいるもんです。しばらくおどったのでつかれてすわってしゃべっているうちにCheek Timeになったんです。ここでSは又実にタイミングよくさりげなく、「一曲踊らない?」とゆいました。

結局ここでもSの真意は反映されませんでした。彼が甲と(すなわち割とおとなしそーな子)とおどりたかったのは明白だったのですが席を立った順番は、(1)もちろんS (2)間髪をいれず乙(サーファーの子) (3)私 (4)少し遅れて甲 とゆう順番だったわけで、必然的にSと乙、私と甲という組み合わせでおどったのです。

私も甲もチークやったことなくて、回りをみてみようみまねでやってみました。(後で判明した事であるがこの時点でSは私の名を呼び、あんまりピッタリくっつかないチークのやり方を教えるという名目のもとに私と乙を踊らせ自分は甲と踊らんとしたのであるが、私がSの声を聞き取り得なかったがために彼の意図は実現する所とはならなかった。)チラチラとSと乙を見ればあっちは文字通りベッタリ。よくやるもんだと感心しておりました。こっちはお互い気兼ねして(とゆーより彼女の方がいやがっていたという気もする)あんまりくっつかなかった。けど私はなんせ初めてなものだからそれなりに感動していたわけです。

チークが終わって出るときに再びSが私に小声で(彼女たちは家にTELしていた)「自分の甲とチークを踊らんとする意図は実現しなかった。よって自分は乙と体の接触を持つことをもって満足したのである。」とゆいました。そこで私は「貴方の甲とチークを踊らんとするところはもちろん自分の知るところであったが、自分としてはあの場合他にどうしようもなかった。自分の裁量不足は貴方にわびるが、自分が何ら悪意を持っていなかったということは承知しておいてもらいたい。」といいSも解ったような顔をしました。

その後Sは「こんどさー、ドライブでも行かない?」といって甲と乙のTelephone Numberを聞きました。それでその日は帰りました。

で結局後で考えてみると私って何もしていなんですよね。事を運んだのは全部Sで(S君ごめんなさい)私みたいのが二人いてもあんな風にはいかなかっただろうと。もっと経験つまなくちゃと思った次第でありました。でもうちの大学って私みたいの割と多いんじゃないかと思う。世間一般で言われているほど女に疎い連中ばかりじゃないと思うけど、だからって別にどうだと言う訳じゃないんだけどね。

(余談になるがSは甲が忘れ難いらしくDance Party以降ことある事に私に不満をもらした。彼は今どのような形態でドライブにさそうことが最も有効であるかを考察中である。彼の提案した一次案、すなわち私が乙にTELするという案は私の反対で没になり、私の提案すなわちSが甲にTELするという案は甲が単独では承諾しないであろうとゆうSの意見で没になった。Sは今2次案を考えている。)

 

by 良い子のふっちゃん


説明

私は大学2年のころ「バーバリアン」というミニコミ誌のサークルに所属していた。この文章は1982年6月25日発行の第9号にのったものである。ちなみに題材となっているDance Partyは6月13日に行われた。余談だが実質的に産まれて初めての合コンはこの3日前の6月10日に行われた。この合コンはとても快調であり、当日私は結構ご機嫌であったことを覚えている。

この第9号は、「硬軟両面特集で行こう」という構想のもと、「硬」の「自治会倦怠期」と「軟」の「軟派特集」の二つの特集が組まれていた。「軟派特集」にはこの文章の他、他の人間が書いたダンパ体験記、それにHot Dog Pressという若者向けの雑誌に載っていた「パーティー必勝講座」なる合コンマニュアルの内容をそのままやってみよう、という合コン体験記が載っている。

先日「五郎に関するFAQ 」で「いつから文章を書き始めたのですか」という質問に対する答えを書いていて、ふとこの文書のことが頭に浮かんだ。読み返してみて載せることに躊躇するほど恥ずかしいものでもなかったので、載せてしまおう、とひたすらキーボードに向かうことになった。これは最近脳の疲労とストレスが増大するに従い、新しい文章が書けなくなっている事へのいいわけもあるかもしれない。

ちなみにこの文章の題名だけは、私がつけたものではない。原稿を渡して適当にふらふらしていたら、いつのまにかこの題名になってしまった。かといって自分でなんとつけようと思っていたか覚えてもいないので、そのままにしてある。

ミニコミ誌に載った原稿は、手書きのものである。当時はワープロなどというものはとても学生がミニコミ誌発行に使えるようなしろものではなかったのだ。それに万が一この文章に登場する女性達の目に触れては(これがとんでもない杞憂であることは明白なのだが)と思い、いくつかの部分を故意に変えてあった。(たとえば「サーファー」となっているところは原文では「ニュートラ」となっている)あれから16年が過ぎ、今更どうなっても問題なかろう、ということで、故意に変えた部分だけは本来の言葉に戻してある。その他は19歳の時の私が書いた文章そのままだ。

この文章は合コンの類に関して私が書いた最初のドキュメンタリーだと思う。今読み返してみると若気のいたりとしかいいようのない恥ずかしい言葉遣い(「言う」を「ゆう」と書くなど)も多々目につくが、本質的な文体、記述のスタイルは変わっていないのではないかと思ったりもする。外来のカタカナ日本語がなんとなく嫌いで、やたらと横文字を使ったりするのもこのころからやっていたらしい。(「ディスコ」と書かずに「DISCO」と書くなど)この16年間に私の文章が向上したか、変わっていないかは私の判断するところではない。

この文章に登場する「S」なる男は卒業後某中央省庁に勤めた。そのあと1992年にニューヨークの国連ビルの前でばったり合った。国連に出向になっていたのだそうだ。その後は全く音信不通である。今はどこかで幸せな家庭でも築いているのだろうか。そしてこの二人の女性は何をしているのだろうか。


注釈

DISCO:ここ数年の間に、何故かDISCOというものは死滅し、その代わりにClubなるものが出現したそうだ。もっとも何が違うのかは今ひとつわからない。本文に戻る

 

駒トラ:私が行っていた大学の教養学部は駒場にあった。そしてそこでは浮き世離れしたファッションスタイル(そう呼んでいいかどうかわからないが)が幅を利かせていた。7:3分けにして、黒縁眼鏡。オープンシャツに汚いスラックスかジーンズに幅広ベルト。いわゆるファッションに興味のないガリ勉の格好である。当時は「○○トラ」という言葉が正当なファッションの方では幅を利かせていた。ハマトラとかニュートラである。そこから、駒場に万円していたガリ勉ファッションを「駒トラ」と称するようになったのである。

もっともこうした類のファッションは全国どこにでも存在するようだ。名古屋大学にもほぼ等価のファッションがあり、大学に近い「本山」という地名を取って「本山原人」と呼んでいたようである。本文に戻る

 

Sは今2次案を考えている:なんだかんだの交渉の末、私が乙(サーファー)に電話をし、ドライブの話を持ち出した。この際なんと相手は「こういう人から電話がかかってくるかもしれないから、かかってきたら私に回してね、ってなもんで家族に周知徹底をはかっていたのだそうである。如何に乙がSに入れ込んでいたかこれでも知れるというものだ。

しかし結局その後の詳細な交渉は乙とSの間にゆだねられた。をだすのはSだからあたりまえだ。そしてドライブの日時の設定まで行われたが、当日台風接近のため天候不良により没となった。結局この話はここでとぎれたのではないか。本文に戻る