題 名:巡り巡って

五 郎の 入り口に戻る

日付:2007/7/2


八 甲田山雪中行軍遭難資料館: 青森県(2007/8/11)

学 生の頃「八甲田山」という映画を観た。それは確か夏だったと思うのだが、あたりが冷気に包まれているような錯覚を起こすほどその内容に引き込 まれた。

それからしばらくたった ある日父に聞いた。

「八甲田山とは どんなところか?」

父は言った。

「夏に車で行くとなんでもないところだ」

そ れから二十余年。私は夏の八甲田山に車で向かっている。そのうち目的とする場所が見えてきた。駐車場に車をとめ中にはいる。すると係というかその場所にい る人達か らとても 真面目な応対をうけ少しびっくりする。とは言ってもこの時点では入場料を払って中に入っただけなのだが、こうした施設にありがちな

「い や、まさか客が来るとは思ってませんでした」

的 な応対とは全然違う。その理由を知るのは少したってのこと。入り口のところに「立ったまま仮死状態で発見された」後藤伍長の像(レプリカ) がある。そこから展示室に入っていく。男性が声をかけて「展示の写真は。。」と言うからあら撮影禁止か、と思えば「ご自由に撮影してください」とのこと。 やれうれしや。


映画も小説もそうだが、売ろうと思うとどうしても話を単純にしたり劇的に着色したりする。三国志 と三国志演義を比べてもそ うなのだが、いくら脚色バージョンが面白いといっても、本物の記録にあたってみなければ真実に近づくことはできない。そしてこれは私の意見だが、脚色され た物語より、事実に基づいたドキュメンタリーのほうがはるかに複雑で興味深いと思う。そしてそこから考えさせられることも多いのだ。
と いうわけで私は真面目に展示を読み始める。すると女性が来て、
「ここ初めてですか。ではこちらのビデオを最初に観て貰ったほうがいい と思います」
と いってビデオのスイッチを押してくれる。私は座ってそれを眺める。随所に「八甲田山」の映像が使われているが、内容はドキュメンタリーだ。同じ時期に八甲 田にはいった青森第五連隊はほぼ全滅し、弘前第31連隊は全員生還した。そこに何の違いがあったのか。現実の理由はは映画のようにわかりやすくはない。青 森第五連隊がろ くな食料も持たず、眠ることもできないまま露営を繰り返していく様を観ていると、こちらも胸がふさがるようである。
それが終わり私は 展 示をまた眺め る。当時の冬用の装備と今の自衛隊の装備が並んでいる展示がある。
装備比較
これを観ると誰 しも「ああ、文明の進歩って素 敵」と思うことであろう。その先には青森第 五連隊全員の写真がならんでいる。こうして観ると生還した人間の少ないことが実感できる。
写真
中には写真ではなく絵で 顔が描かれている人。あるいは写真がない人もいる。
写真02
そ の先には資料集のようなものがある。当時のマスメディアの扱いがあれこれ書かれているのだが、とにもかくにもこの事件が報道された、ということに驚く。昭 和の軍であれば間違いなく事故自体秘匿されたことだろうに。ページをめくると、生還した倉石大尉のエピソードが紹介されている。なんでも肝臓が悪いので参 加しないことになっ ていたが、壮行会の席で上官から「おまえも行け」とか言われて参加させられたとか。ああ、サラリーマンはつらいねえ。
で もって連隊が 遭難し始めると早々に谷に降りてあまり何もせずじっとしていたとのこと。それがよかったのか五体満足で生還。おまけに数日間絶食状態だったため肝臓が治っ たというおまけ付きである。このことを考えると、冬山で遭難したときは基礎体力がどうのこうのより、風雪をしのぎやすい場所で、おとなしくじっとしている のが一番、ということなのだ ろうか。
出口近くには大隊長、山口少佐の運命について書いてある。この人は生還したのだが、翌日病院で死亡している。その原因につ き、映画では拳 銃自殺したことになっている。しかし今のところ一番有力な説は濃度の高いクロロホルムで殺されたのではないか、ということらしい。部下を死なせたら上官も 腹をきれ、というかつての陸軍の考えだろうか。しかし明治時代からこうした強制が行われていたというのは少し驚いた。
そこをでると先 ほどビデオを つけてくれた女性が「外も見ますか?」と聞く。はい、と答えると別の男性に声をかけてれくた。聞けば彼と彼女たちはここで説明をかってでているボランティアの人 達のこと。道理で説明とか応対に熱意が感じられるわけだ。あまり人のこない展示館によくいる「ここじゃこれしか仕事がないのよ」と顔に書いてある女の子と は雲泥の差である。
その男性と外にでる。まず「どちらから来られましたか」と聞かれる。横浜、神奈川県ですと答え る。すると 「犠牲者の中に神奈川県出身の人もいますよ」と言われる。展示にもあったが青森第5連隊は青森出身者が少なく、宮城、岩手が主体。弘前第31連隊は青森出 身の兵が多かったとか。私のような人間からすると宮城も岩手も青森もみんな東北ではないかと思うのだが、それこそ過度の一般化というものなのだろう。兵は 東 北出身だが、将校は日本全国から来ていたとのこと。それゆえ神奈川出身の人もいたわけだ。
墓 地というか埋葬場所では、正面に将校の墓が並び左右に各兵隊の墓が並んでいる。大きさに差があるのは階級によったためだとか。この後別に予定がないことを 告げると相手はでは30分で説明しましょう、と言う。

そ れぞれの墓石の正面には名前が、向かって左側には死亡の日付が彫ってある。もっとも遭難した人達はいつ死んだかわからぬから遺体が発見された日付になって いるとのこと。大隊長は発見されたのは1月31日。入院が2月1日でたしかに死亡が2月2日になっている。この男性の説明だと銃で自殺はあり得ない。館内 の説明ではそもそも凍傷で引き金が引けたはずがなく、かつ病院内で銃声を聞いた人がいない、となっていたが、この男性曰く、所持品の中に拳銃がない。 であれば自殺はあり得ない、という説だった。しかし昭和の陸軍に関して書かれたものを読むと、面会に来た将校が拳銃を置いていったこともあったとか。所持 品になかっただけでは拳銃自殺で無かった理由にならぬのでは、と思ったが黙っている。いずれにせよ殺されたことには変わりがないからだ。
な おも説明は続く。弘前第31連隊の福島大尉、それに肝臓がなおった倉石大尉は二人ともその後勃発した日露戦争で戦死した。その日付が1月27日(後藤伍長 が見 つかった日)とその数日後だとか。偶然の一致とすべきだろうが因縁というのはこうしたものかもしれぬ。
そ のあたりで約束した時間となる。館内に戻りながら「ここから13km上ったところに後藤伍長の銅像がありますよ」と教えてくれる。今日は天候も悪くない し、そうそうくる機会も無いでしょうから、と勧められる。ひねくれものの私はそうした「まともな」場所に行くことはあまりないのだが、行ってみようかとい う気になる。礼を言ってその場所を去る。ハンドルを握ると山の方に進む。最初は単なるなだらなか登り道。そのうち多少道が曲がりくねる。上の方から車が 降ってくるのだが、あちらもスピードがでているようで多少車線をはみ出されたりするとぎょっとする。
しかし文明の利器は偉大 だ。快適な気温の中あっというまに目的地についてしまった。駐車場に車を止めると像まで250m歩くとのこと。階段を上り始めるとそれまで数kmを何の苦 労もなく進んできたのと違い、
「ううむ。これは確かに遭難するかもしれん」
と思い始める。我々はかくも虚弱なの だ。ひーひーいいながら登り切るとそこには後藤伍長の像が建っている。
伍長の像
先ほど聞いた話によれ ば、彼がまだ生きている間にこの除幕式があったとのこと。除幕式に参加した伍長は「感想は」と問われ、大変恥ずかしいと答えたとのこと。そりゃそうだわね え。
そもそもなぜこの伍長の像がある、と考えたが彼が立ったまま仮死状態になっていたがため、遭難の状況がわかり、数名であっても助 かったということなのだろう。これも先ほど聞いた話だが、すぐ近くに第五連隊の隊長が遺体で発見されたとのこと。
こ こには像だけがあり、他には何もない。ぐるっとあたりを見回した後、階段を下りる。駐車場の前には土産物屋があり、210円で資料館を 観ることが出来る。普段はこういうところにはいらない私だが興味がでてきたので入ってみる。中にはあれこれ資料があるのだが、原本のままのものが多く、あ まり読む気にならない。TVでは映画「八甲田山」のビデオが流されている。連隊長が頼んでいた地元の案内人を大隊長が拒絶する場面だ。こうやってあらため て観るとやっぱり演出過多かなあ。帰った後調べてみれば弘前第31連隊を案内した人達の物語はこの映画に描かれているような美談ではないことが分かる。し かし世の中はそうしたものだ。成功は美談に支えられているわけでもない。いやな奴が成功を収めるなんてことはあたりまえだ。
話を資料 館に戻そう。出口近くにはこのような像がある。
観音像
観音像の前には例によってお供え物のお菓子やら飲み物やらたくさん置いてあ る。外に でるとハンドルを握り、先ほどの場所に戻る。説明を真面目に聞いていたのであまり写真を撮れなかったのだ。墓石の列が少し暗くなりかけた中に並んでいる。
墓石
ちなみに先ほど聞いた話に よれば、ここに墓石はあるものの、みんなちゃんと自分の故郷にお墓があるのだそうな。というわけで軍隊の中では大きさやら配列に差がついていてもみんな自 分の故郷では個人として葬られているのだろう。
ここには他にもいくつかお堂のようなものがある。あるお堂の入り口には狛犬がいる。な んでも捜索で活躍したアイヌ犬の子供なのだそうだが。
狛犬
その先には「諸兵木像 210体」を納めた「英霊堂」がある。中にはいると木像がずらっとならんでいる。
木像
そ れぞれの像は姓名、階級が書かれた青い台の上に乗っている。一見同じ人形のようだがよく見ると髭があったりなかったりと多少のバリエーションがある。しか し皆うつむき加減なのはどうしてだろう。それ故どことなく寂しい感じを受ける。きっとこうして下を向きながら行軍していったのだろうが、死んだ後も下を向 かずともよいのに。
といったところで八甲田山を後にする。なんとか無事にレンタカーを返しホテルに戻る。

と いったところで明日の 計画を考え出す。「青春18切符」を使って秋田からちょっと行ったところの駅まで行く。明日の目的地は概ね2カ所。赤田大仏というところはこの駅から (地図の上では)2kmくらいのところ。もう一つの目的地はこの大仏の近くらしいから歩いて行けばよかろう、と思っていた。しかし私にしては珍しく「本当 にもう一つの目的地は大仏の近くなのか」確認しようとサイトにアクセスする。
すると例によって例のごとく私は勘違いをしていたこと を知る。もう 一つの目的地は大仏の近くではなく、駅の反対側にある別の珍スポットの近くにあるのだ。ここで問題 が。この スポットと大仏は駅の北と南に分かれて存在しているのだ。距離は両方ともおよそ2km。ということはこれら両方に行こうと思えばこの灼 熱の中 8km歩かねばならぬ。いや、これはどう考えても無理だ。
と いうわけで急遽予定を変更。明日は秋田でレンタカーを借りることにする。検索してみるといくつかレンタカー屋がひっかかるが、どの程度直前に予約が可能か は結構差があるようだ。72時間前に予約などと書いているところはすっとばし、いくつかのサイトで車があるかどうかチェックする。すると幸いな事に某レン タカー会社で予約が出来た。正直レンタカーに乗るたび事故を起こすのではないか。傷をつけるのではないか、と不安になるのだが、この際そんなことは言って いられない。とにかく明日は早起きだ、と寝てしまう。

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注釈