題名:巡り巡って

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日付:2019/6/20


関ヶ原-大谷吉継コース(小西行長-石田三成):岐阜県(2019/05/03)

しばらく歩いて到着したのが小西行長の陣である。

小西行長


あるのはこれだけ。地味である。小西行長はそもそも武士ではなかったと初めて知った。まあ親分の秀吉ですから似たようなものだから気にしなくていいのだろう。同じく九州の大名であった加藤清正とは仲が悪かったとのこと。今でもそうだが、隣人同士はなにかと仲が悪い。

その少し先に「関ヶ原開戦の地」という石碑がある。しかし説明によれば、この開戦の地の碑文がここにあるのは、土地の所有者が

「うちの敷地におくな」

と言ったからであり、本来は200m離れたところとのこと。関ヶ原の史跡は多くが私有地にあり、土地所有者の協力が得られないとなんともならないんだそうな。そろそろ足がよれよれしてきたが、最終目的地はまだ遠い。さっさとあそこにたどり着いておしまいにしたい気持ちになるが、もう1箇所止まることになる。島津の陣である。

島津の陣

とても立派な石碑である。今までのものとはものが違うし、字を書いたのは島津家の公爵。島津自体は関ヶ原の戦い自体にはあまり影響を与えていない。そもそも1000人程度しか兵がいなかったし(本国に出兵を断られたらしい)戦いには参加しなかったが敗走に見事成功したことで名を残している。私が感動したのは過去の島津ではなく、こちらのほうだ。

小早川

この石碑が何か。説明によれば

「関ヶ原戦跡踏破隊の名碑:鹿児島県日置市の青少年で組織する関ヶ原戦跡踏破隊は、昭和三十五年から毎年夏休みを 関ヶ原から大阪までの島津勢退路を踏破しています(途中電車等も利用)」

とのこと。二日間で約70kmを踏破するのだそうな。驚くのはそれに参加する人達。小学校5年生から参加できるのだが、碑文に刻まれている年齢を見ると小学生がほとんどである。しかもつきそいと思しき大人の年齢も刻まれているのだが、70という人もいる(その人は翌年も71で参加している)先ほども書いたが、やはり薩摩隼人の伝統というのは現代に生き残っているとしか思えない。時代が変わっても残るものは残るのだ。

などと関心しながら歩くことしばらく。ようやく本日の最終目的地が見えてきた。

三成の陣


近寄って見るとこんな若者たちがいる。

武将たち


最初はうかつに撮影すると、肖像権がどうのと怒られるかと思ったがどうやらそうではなさそうで、かえって「一緒に写真を撮りませんか」と呼びかけている。私は若者は元気でいいなあと思いながらその様子を見ている。こういう偉そうな人ばかりではなく、もっと雑兵っぽい人たちも近くにうろうろしている。

そこから展望台に登り最後の説明を聞く。


全景

ここからは関ヶ原の全容を見渡すことができる。今日通ってきた道を振り返りながら、各武将の配置を聞く。明治陸軍の指導に来ていたメッケルは関ヶ原での両軍の配置を見て

「これは西軍の圧勝だ」

と断言したという。実際やる気がないとかそういうことを除けば東軍は西軍が包囲しなおかつ高地を占めている中にのこのこ入り込んだ形である。裏切ったり動かなかったりした武将が多かったからいいようなものの、そうでなければただの自殺行為に思える。ということは、家康は事前にそうはならないという確証があったのだろうか。

このあと展望台から降り、廃校を利用した交流館で解散になる。そこではみやげものが売られていたり、鎧の試着ができるらしい。他の人はあれこれ見ているようだが、私はかなりへばっていた。いちもくさんに駅と思しき方向に向かって歩き続ける。あとで見返してもここらへんろくな写真を撮っていない。関ヶ原駅付近のスーパーマーケットであれこれ買い込んで昼食にする。駅のベンチに座ると一息つく。今日は予想外に面白かった。ひねくれた考えばかり持たずに、こうやって素直にツアーに参加するのもいいなあ。今度機会があれば松尾山に登って小早川くんの気持ちになってみるか、とかあれこれ考える。

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注釈