題名:巡り巡って

五郎の入り口に戻る

日付:2005/9/16


松戸市博物館:千葉県(2005/9/24)

お家からバスに乗り電車を3回乗りついで千葉の八柱駅というところに来た。来たのは良いのだが、この駅はなんと読むのだろう。

などと疑問を抱いている暇はない。まだ時間があるようなのでパンを買ってぼりぼり食べる。間もなく来たバスに乗りぼんやりとしていたらそれらしき建物が見えた。バス停の名前を聞き逃したのだが勘に従いボタンを押す。幸いな事に正解であった。

と いうわけで松戸市立博物館に来たわけだ。雨の土曜日ということもあってあまり人気がない。300円払ってチケットを買う。チケット売り場から観ると柱の影 になる場所にチケットを切るお姉さんが座っている、というのは斬新な配置かもしれん。最初は格調高く石器時代から始まる。もう少し進むと戦国時代の千葉県 とかの展示がある。ビデオと地図を連動させて各大名の動きを示すのはいいアイディアだ、などと感心しつつ辺りを見回せば、私の貸し切り状態。

数 mごとに係員の女性が座っているのだが、こうやって人がいない部屋にただ座っているというのもつらかろう。彼女たちの事を考えると少しは展示を丁寧に観よ うかとも思うが私が今日ここに来たのは松戸市にある古墳や江戸時代の暮らしについて学ぶためではないのだ。目的とするものは、と見回せば広い展示室の出口 近くにあった。

これが今日の目的、松戸に初めて作られた団地の再現展示である。下から見上げるとどこか懐かしい趣だ。ここが作られたのは1960年とのこと。私が生まれたのはその三年後。そして小学校2年生まで住んでいた社宅は確かにこんな雰囲気であった。

階段を上るとベランダに入ることができる。残念なことに一部改修中とのことで部屋の中にはいることができない。窓の外からじろじろ覗く。いわゆる2DKなのだが、そのDKの狭さには驚く。

考 えてみれば最初に働いた会社の社宅もこんな感じだった。奥さんがキッチンに立つとそれだけでキッチンに空きスペースが無くなっていた。手前の部屋にはステ レオやらソファーが置かれ、一家団らんの場所となっている。その奥には4畳半の部屋があり、寝室となっているようだ。もちろん個人の部屋などはない。説明 を読めば「食事をする場所と寝る場所を分ける、という習慣はそれまでの日本にはありませんでした」とのこと。団地ができる前は、戸建てでなければどのよう な家に住んでいたのだろう。

今から観れば狭い、と感じるところだが、ここは当時あこがれの場所だったのだ。説明の文書から以下引用する。

「こ の2DKの住人を紹介します。昭和35年4月に結婚し、そのまま常磐平団地に入居した兼二郎(夫、29才・昭和37年)、洋子(妻,27才)の二人には、 翌年4月に万里子(長女、1才)が誕生しました。 兼二郎は地方都市の商家の次男として生まれ、地元の高校から東京にある大学へ進学、現在は品川にある家電メーカーに勤務しています。趣味は映画と音楽鑑 賞、特にフランス映画とモダンジャズを好んでいます。

(中略)

社内のサークル活動で知り合った二人は、 昭和34年の秋に婚約し、翌年の春に予定した結婚後の新居を探し始めていました。当時話題となっていた公団住宅の入居募集を新聞で知り、陽子の母の実家が 松戸だったこともあって、池袋の丸物デパートに設けられた公団住宅の入居受付で、常磐平団地の2DKを申し込み、幸運にも入居の資格を得ました。 」

「「昭和35年版「生活白書」でも団地族は「世帯主の年齢が若く、小家族で共稼の世帯もかなりあり、年齢の割には所得水準が高く、一流の大企業や公官庁に勤めるインテリ、サラリーマン」とされています。

このように注目されるにつれ、応募倍率も10倍から20倍ほどの高倍率になり、団地族になるにはくじ運も必要となりました。

実際に常磐平団地のの応募者も、この団地の当初の家賃(2DK)5500円の5.5倍以上の収入という応募申し込みの資格を得ている比較的高収入の人に限られていました。」

家 賃の5.5倍収入がないとダメ、ということは29才当時の五郎ちゃんだったら応募できなかったのではなかろうか。しかし狭い。広さはどれくらいなのだろ う、と近くにいた係の人に聞いてみる。するとまず手許にあった本を調べ、書いてなかったので学芸員の人に聞いてみると言ってくれた。その間再びベランダな ど眺める。洗濯機が置いてある。

今 の「放り込んでボタンを押せばおしまい」とは違い、全手動。おまけに脱水槽も存在していない。これで洗濯は大変だったと思うが手洗いに比べれば遙かに楽 だったのだろう。これは三種の神器の一つ。後の二つ、TVはやたら奥行きが長く見えるし、冷蔵庫にはドアが一つしかない。ベランダに目を移すと洗濯物の向 こうに物置がある。

そういえば社宅にも外にこんな物置エリアがあったなあ。収納が外に存在しているようなものだから今から考えるととっても不便そうだ。

と感慨にふけっていると先ほどの人が「学芸員と連絡がとれないので、下の資料閲覧場所で聞いてみてください」とのこと。礼を言って今度は裏を見てみる。

そ ういえばそうだった。昔はエレベータなんかなかったから、二つの部屋の間に階段があったんだった。この脇にはダストシュートがある。説明には「清潔に保つ のが難しくすぐ使われなくなった」と書いてあるが、小学校では使っていた気がするぞ。今から考えればいろんなものを放り込む奴がいたんだろうなあ。その脇 には三輪車の写真が貼ってある。私の記憶の中では三輪車とはこれのことなのだが、最近子供用に買おうとして驚いた。40年の間に三輪車も進化していたの だ。

左:当時の三輪車 右:今の三輪車

そこを出るとまだいくつか展示室がある。一つの部屋には虚無僧がおり、そもそも虚無僧とはなんだ、という説明がある。江戸時代には偽虚無僧が横行したとのこと。いつの時代もそういうのはあるんだなあ。

一通り見終わると一階に下りる。資料を閲覧する場所で「上の団地の広さは。。」と聞くと棚にある本を引っ張り出して調べてくれる。なかなか見つかりませんねえとか言っていると、先ほど質問した係の女性が降りてきて「33.11m2です」と教えてくれた。有り難いことである。しかし憧れの住宅が33m2か。。日本は豊かになったことであるなあ。

それから資料をぱらぱらめくる。団地建設にあたっては用地使用に関して農民達との争いがあったこと。団地の中ではサークル活動が花開いたこと。そりゃ、憧れの団地に住んだのだから奥様同士も楽しくやろうとしたことだろう。

などと読み始めるときにカメラを落としてしまった。ふと観るとメモリーカードが消えている。あれ?今日メモリーカード入れないで来たっけ。まあ帰ればあるだろう、と思って読み続けていたのだが、後ろで

「これ何でしょう?」

と いう声がする。振り返れば紛う方無きメモリーカードだ。それ私のです、と言い礼を言って受け取る。ああよかった。誰かが拾ってくれたとのこと。ここの係員 さん達にはお世話になりっぱなしである。というわけで穏やかなご機嫌気分につつまれて松戸市博物館を後にする。お家まではまた東京を横断しての長い道のり だ。

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注釈